「憂鬱のための甘い鎮静剤」をあなたに。

この度、当ブログをリニューアルしました。

気分的には新設なのですがアドレスも同じままですし今まで掲載してきた文章を消すわけでもないので実質はリニューアルと言ったところです。しかしここは自分の気分を優先して、新設と宣言します。本当は消したい文章もあるのですが、まあ自分への戒めというか、料理人のように創作物が次から次へ胃やゴミ箱に消えていくわけではないですし(このことについて和食料理人の道場六三郎さんは自分が料理人で良かったと仰りました。例えば映画ならば自分が作ったものがずっと残ってしまうわけだからとても恥ずかしい思いをするだろうと)アマチュアとはいえ物書きの宿命だと思いそれを受け入れることにします。なにを宿命とするのかは各個人の意識が決めるものですが、宿命は受け入れるものですし、それを拒否したら悲惨でしょう、たとえば出版した本を自らの意志で次から次へと絶版にするような作家もいますし、私のようにWEB上で文章を発表している人の中にも書いたものを次から次へと消す方もいます。それらに対してあまり辛辣なことは言えませんが(気持は分かるので・笑)格好が良いとはいえません。


以下の文章はブログを新設した動機の告白ですが、新しいコンテンツなどの説明はそれの下部に書きましたので、気が短い方はそこまで文章を飛ばしてください。


今回でブログを新設するのは4回目です。始めてブログを開設したのは10年ほど前のことで、当時師事していたジャズギターの先生から勧められて始めたものでした。ブログへのアクセス数は1日3あれば良いというほうでしたが(もちろん自分がアクセスしたものは除いてです・笑)、Webの世界へ招待して下さった師匠には感謝しております。


2代目のブログはその題名を「インヴィジブル・ポエム・クラブ」として数年前に現在のアドレスを使用して始めたものです(正確には1代目のブログを音楽作品掲載用にして、インヴィジブル・ポエム・クラブの方を詩や小説や批評の掲載用に分けて使用していました。ですが1代目の方は(サーバー自体が)クローズされてしまったので、途中からは2代目のみの運営となりました)。ネットの片隅で開いたブログとはいえ1代目のころと比べると観て下さる方は数十倍から百倍に増えました、観て下さる方は間違いなく好事家中の好事家です、ありがとうございます。そういった好事家/マニアークな方に私は支えられています。


「インヴィジブル・ポエム・クラブ」という題名は私が敬愛する米国人の作家チャック・パラニュークの複数の作品名から取りました。パラニュークはデヴィット・フィンチャーが監督した「ファイトクラブ」の原作小説を書いた人物として知られています。私が言うまでもないことですがこの映画は真の名作です(この題名は日本ではテレビ番組で行われた企画の1つ、チンピラをプロボクサーとしてデビューさせるというものに取られてしまったので勘違いされて居る方も多いのですが、映画で描かれる地下ボクシングに参加して闘うのは一般的な社会人ですし、そこでは勝ち負けは価値がないものとして描かれますし(自分自身を痛み付けるのが目的なのです)ラストシーンでは人生がぼろぼろになってしまった男とぼろぼろの人生を生きて来た女が手を繋ぎます。固くしっかりと。そして映画は終わるのです。ですからこの映画はチンピラとかボクシングとかそういったものが主題ではないわけです)。パラニュークは日本では著作物の1/3も翻訳されていない作家ですが、私は彼の作品がとても好きです。自分の小説創作の下地になるほどに。


「インヴィジブル・ポエム・クラブ」のクラブという単語はそんな「ファイトクラブ」から借用しました。文頭のインヴィジブルという単語は同じくパラニュークの著作である「インヴィジブル・モンスターズ」からの引用です。残されたポエムという言葉はこのブログは詩を掲載するために作りましたから、直接過ぎますがまぁそういうわけですね。そして今回新たなブログを開設することにしました。理由は数年前と比べて私の趣味も作風も変化したからです、端的に言えば今でもパラニュークのことを愛しているとはいえ彼1人の作品から引用したブログ名が窮屈になったのです。人間の体/体型は成長や老いにより止めどなく変っていきますし、その身体を包み込む服装も人や社会からの影響や自発的な美意識の変更などにより変っていきます。精神も同じものだと思います。気持的にはブログを新設することにより私という作家は、やっとパラニュークという(作家の)父の許から離れました。


実は作家の父というものを越えて、単語で「父」と思っている人々も居ます。もちろんそれは創作という営みの上での父です。なので父親の代理として精神的に依存し〜とかいうわけではありません(苦笑)。父という言葉が不適切ならば神と呼ぶのもやぶさかではない人々なのですが、私は何でもすぐに神神と言う少し前のネット市民ではありませんし、そういうのはあまり好きではありません。そもそもこの人たちはそれを嫌うでしょうし、存命していますので(笑) 神とは呼びません。しかしそう言った意味において既に亡くなっていて、私が本当に神のようだと思っているようなアーティストにはジャズトランペッカーのマイルス・デイヴィスやサックスのチャーリー・パーカーそしてビッグバンドを率いたエリントン侯爵が居ます。さて私が(創作という営みの上での)父と思っている人々を臆面も無く書いてしまいましょう、それは芝村裕吏さん、菊地成孔さん、前田ただしさんの御三方です。繰り返しますが私が勝手に創作という営みにおける父と思っているだけです(なんせ芝村さんとはお酒の席で年に数回お会いする程度、菊地さんとはファンとアーティストという関係で、前田さんとはWEB上でお話をさせていただいたりその音楽を拝聴する程度の関係ですから)。


芝村さんはゲームクリエイター、菊地さんと前田さんは音楽家ですが、彼らのゲームや音楽作品には大いに影響を受けて生きてきましたし、その言葉にも影響を受けています。彼らの言葉は強く美しく私の心を打つものばかりです。現に芝村さんと菊地さんは多くの著作物を出版しており、前田さんの言葉で私が確認出来るのはWEB上のものだけですが(現在ご活躍されているのがエクアドルなので。だからエクアドルに行けば日本に居るよりも多くの文章が読めるのかも知れません。それにはエクアドル公用語であるスペイン語を私が読めるようにならなくてはなりませんが)その多くが私の心を打ちます。この文章を読んでいる方が芝村さん、菊地さん、前田さんのことをご存知でしたら、私がこの御三方に強く影響されていることを簡単に暴くことが出来るでしょう。まあしかし創作という営み上のことで私が独りよがりに勝手に父と思っているとはいえ、それでも随分と駄目な息子です。


話は変り、実際の私の父は既に天に召されています。国民公園の中に新宿御苑というものがありますが、その外縁、門の外のアドレスは新宿区1丁目です。いわゆる1丁目と呼ばれる場所(その裏がゲイタウンとして有名な2丁目です)ですが、古くはオフィスビルが立ち並び、現在では古いオフィスビルと近年進出し始めたお洒落で落ち着いた雰囲気の飲食店が並ぶ場所になっています。父はそのオフィスビルの1階で不動産屋を営んでいました(正確には父の父(私の祖父)が新宿で印刷屋を経営しており、故に父は新宿界隈で育ち、新宿の不動産屋に就職し後に屋号を譲られたのです)。現在もそのビルは存在していますが(昨年、母と共に現地に行き、現存を確認しました)私が小学生4年生のころには父はもうそちらは辞めて、他の県で不動産業をしながら精一杯働き家族を愛し、その一方で酒を飲んで暴れ新興宗教にはまり家庭を壊したりして、最後は広島市内で土地屋業に関わりながら(この辺はあまりにもヤバいので詳しくは書けません)死にました。その際広島の方々には1から10までお世話になりました。


こうして父親たちのことを語ってきましたが、正直に言ってもっとも私に影響を与えてきたのは(肉体の種類と形を問わず)女性たちです。幼少のころから父が不在がちだった家で育った私は、祖母と母と姉から始まり、友人たち、そして(こんな私とも)お付き合いをして下さった女性たちに支えられて生きてきました。そんな私の人生は情けないものですが、せめて創作物だけは恥ずかしものになら無いように、彼女たちに捧げ、少しでも楽しんで貰えるようにと作ってきました。と思っていたら小説を面白いと言って下さる男性もおられて、人間のなかの男性性/女性性の豊かさ(ユングが提示したアニマ/アニムスやジェンダー/セクシャルの話をしたいわけではありません、人間が持つ豊かな感受性への賛辞を示したいのです)に心から嬉しくなることもあります。ともかく女性たちには感謝をして生きているわけです。


さてこれで好事家の皆さんへの感謝を捧げ、三種類の父親(作家の父、創作上の父、実際の父)のことを告白し、女性たち/男性たちのことを話し終えました、私は彼ら彼女らに感謝を捧げながら、これから少し冒険をしてみようと思います。ブログを新設するのはそのための第一歩です。前置きが長くなりましたが、以下から新しいブログの紹介に入ります。


ブログの新しい題名は「calmant doux pour la dépression.」です。


これはフランス語です。私はフランス語ネイティブでも無く、それどころかレストランで注文をするような簡単な日常会話さえできないのでカタカナでの表記になりますが、読みは「カルマン・ドゥ・プール・ラ・デプレシオン」です。それぞれの単語の意味は「calmant 」は鎮静剤、「doux」は甘口、「pour」の〜ため、〜用、「dépression」は憂鬱です。(la はフランス語の冠詞の女性名詞。フランス語では言葉が男性と女性に分けられていることは有名ですが、フランスでは憂鬱は女性名詞なのだということに納得したり、しなかったりです・笑)。


「calmant doux pour la dépression.」の全文を日本語に訳すと「憂鬱のための甘い鎮静剤」となります。


これを「憂鬱に対する鎮静剤」と読む方も居られれば「憂鬱になるための鎮静剤」と読み方も居られると思いますが、それはどちらも私の意図と一致しています。どちらと受け取っていただいても、あるいは両方の意味を同時に受け取っていただいてもかまいません。フランス人やフランスに住んでいて(住んだことがあって)フランス語を日常生活に支障がない程度に話せる日本人がこの題名をどう捉えるのかは分かりませんけれど(笑)。


calmant(カルマン)は鎮静剤ですが、Crémant(クレマン)と響きと綴りが似ておりこれを連想させる意図があります。クレマンはシャンパーニュ地方以外の場所で作られた発泡ワインのことです。ご存知の通りフランスは言葉の使い方が厳格なことと同等/同質に食品の規格にも厳格です。アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ(AOC)により指定された原材料を使い、製造場所や製造期間も指定通りのものをクリアしなければ名乗れない食品名が沢山あります(例:青カビチーズの一種であるロックフォールロックフォール=シュル=スールゾン村の貯蔵庫(洞窟)で3ヶ月は熟成しなければ名乗れない。このへんは何処で作っても讃岐うどんを名乗ることができる日本の食品規格とは大違いです。どちらにも一得一失があり、食への考え方が違うということなのでしょう。日本人は旨い物はどこで作ってどこで食べても良いし、ばんばん広がっていけば良いと思っているのかもしれません)。シャンパン(正確にはシャンパーニュですが)にもAOCが定められおり、シャンパンと同じブドウを使い同じ製法で作ってもシャンパーニュ地方で作らなければシャンパンと名乗ることが出来ません。とても誤弊があることをあえて言いますが、クレマンとは別の地域で生まれ育ったシャンパンのことなのです。そもそも発泡性のワインを産んだのはシャパーニュ地方ではなくて同じくフランスのリムー村でした。


calmant(カルマン)とCrémant(クレマン)という似通った響きを持つ言葉を読み/聞くと脳裏には発泡ワインが注がれたグラスに鎮静剤を投入するイメージが浮かびます。私はワインには詳しくはありませんが、このイメージが大好きなのです。ワインで薬を飲むこと、グラスから泡が立つこと。前者からは退廃的な匂いがしますし、後者には壮快感があります、特に想像するのは映画「オール・ザット・ジャズ」で主人公の毎朝の目覚めの儀式として行われるあの場面です。彼の場合はヴィヴァルディのレコードをかけながら飲む頭痛薬と覚せい剤ですが、白い錠剤がグラスのなかで溶けていく、泡を吐き出しながら。「タクシードライバー」やマイケル・ジャクソンの「Beat it」のミュージックビデオなどアメリカ産の映像では度々描かれる場面ですが(あれはアメリカの日常であると共に、各々の監督が撮影するにあたいすると判断した美しい瞬間なのでしょう。アメリカ映画史のなかで主人公がハンバーガーを齧っている場面と同等の数、あるいはそれ以上に撮影されてきた場面かもしれません)私はあの映像が大好きです。彼らが飲んでいるのはアメリカでは市販されているアルカセルツァー/頭痛薬ですが、これを映画で観るだけで実際には飲んだことのない私の中では、バスタブに投入された入浴剤や子供の頃に駄菓子屋で買って楽しんだ錠剤型のジュース(ラムネのようなものを水に溶かすと水が炭酸の抜けたコーラやメロンソーダの味になる。仕掛けはアルカセルツァーと同じ)の記憶/映像と結合しているのかもしれません。それらが私に発泡ワインと鎮痛剤という組み合わせを想像させました。グラスの中で泡立つワインに鎮静剤を入れるとそれが更に泡立つ。そしてブログのタイトルにcalmantという言葉を使わせたのです。


あとこれは間違いなく余談ですが、カルマン(calmant)という単語は映画監督のルネ・クレマン(Clément)を想像させるのも良いです。


「doux」読みは「ドゥ」はワインのエチケットに書かれる言葉でその意味は甘口です。日本酒のラベルにも辛口とか淡麗とか書いてありますがあれと同じです。これはもちろん鎮静剤のcalmant(カルマン)が発泡ワインのCrémant(クレマン)という言葉を連想させるということからの更なる連想ですが、発泡ワインは大抵の場合で(好まれるのは)辛口ですので、連想ゲームとしては「burt」と続けるのが適切です。ワインに関連する限りではbrut=Dry=辛口という意味ですから。しかしそれに続く言葉が pour la dépression(憂鬱のための〜)ならば甘口の方が適切でしょう。私は憂鬱のための鎮静剤として切れ味の鋭い言葉を使ったり表現をしたいわけではありません。そもそも憂鬱というのは甘いものです。甘美という言葉がありますが、この言葉と憂鬱という言葉の組み合わせがどれだけマッチするのかということは私が説明するまでもないことです。


「pour」の読みは「プール」でこれは「〜のための」という意味ですが、日本に暮らしていてこの言葉をもっとも目にするのは「エゴイストプールオム」や「ブルガリ プールオム」など香水ひいてはファッション全般に関わる言葉の中ではないでしょうか。プールオムはフォーメン、男性用という意味です。pourという言葉がフランスではどの程度の頻度、場面で使われるのかは一切分かりませんが、やはり私は日本に暮らし少しはファッションに興味がある者として、この言葉からは香水や服飾のことを強く連想します。calmant doux pour la dépressionという題名の裏にはワインのイメージがあり、それに香水や服飾に関連する言葉が連なる。なんとも素敵ではないか。という程度の考えでpourという言葉を使用しました。


最後の「dépression」の読みは「デプレシオン」で意味は憂鬱です。これに関しては気分の話ですから、気分を表す単語を言葉によって説明/表現することに意味などあるのでしょうか(笑)?などと書いてはその言葉を題名に使用して小説を書く者としては矛盾しているというか最早無能です。しかし気分を言葉によって表現することに意味はあるのかということに関しては多いに考えていかなくてはなりません。私は憂鬱を悪いものであるとか良いものであるとかといった捉えることすることをしません。厳しい人生を生きていく中で憂鬱が必要なものなのか、本当は必要の無いものなのかどうかもわかりません(これが「涙」だったのならば、必要だし良いものだと断言出来るのですが)しかし憂鬱は我々の人生の中に必ず現れるものです。ならば私はそれを抱える人に私が出来る仕方で奉仕をしたいのです。そんな思いから題名に憂鬱を意味するフランス語のdépressioを使いました。


さてここまでお読みの皆さんのなかにはある疑問を持っている方も多いのではないかと、私はこの文章を書きながら推測しています。それはそもそもなぜ題名がフランス語なのか、なぜ英語や日本語ではないのかというものです。


この疑問に対する私の回答はハッキリとしています。それは少々の気取りです。フランス語って素敵よねみたいなものです(笑)。私はフランス語を話すことが出来ませんし、例えばメモを差し出されそこに書いてある簡単な文字(例えばそれがSteak au roquefortやSteak haché程度のフランス語でも)を読めといわれても正確に読むことが出来ないでしょう。フランス文学を少々嗜み、フローベールの「ボヴァリー夫人」の一節、「手紙を書くあてもないのに彼女は吸取紙や書簡箋やペン軸や封筒を買いこんだ。棚のほこりを払い鏡に姿を写し、本を一冊手に取りそれを読みながら空想を追い、本を膝の上に落とした。旅行がしたくなったり、昔の修道院に帰りたくなったりした。死にたくもあり、パリへ行って住みたくもあった」を人間の心の機微を表す理想的な文章と捉えていますがフランス語の原文を読んだわけではありませんし、このブログに書く小説の内容がフランスと関係しているわけでもありません(これは英語の題名を持つブログや本の内容がほとんどの場合でイギリスやアメリカと直接的に関係ないことと同じですが)。また私はフランスへ行ったこともありません。なので題名にフランス語を使用することは少々の気取りを表現するためであるということが純然と言ってよいほどの動機です。


ではなぜフランス語を使うことが少々の気取りになるのか。これもハッキリしています。彼の国と我国は距離的に離れており、それでいて我々は適度にこの国のことを情報として、また想像上のものとして知っているからです。フランスへの渡航経験の有無は別としても我々は書物に書かれたフランスや映画で描かれたフランスというものを知っています。実情は別としてそこにあるのはスノッブを見事に回避してきたエスプリ、欧州哲学の中心地、「アメリ」に代表する欧州のkawaii、ファッションショーのパリ・プレタポルテ/オートクチュールコレクション、ワインとレストラン等など気取りを内包するものたちです(もちろんその裏側にあるものとして、それらとセットにして1789年革命から続くテロール/テロリズム、そしてサドやバタイユなどが行った暴力に対する試論も日本にも輸入されているわけですが)。まあ汚いないものはわざわざ輸出しませんよね(笑)。実直に言って日本に住んでいる限りでは、多くの人が(特に書かれた/描かれた)フランスに対して気取りという態度の存在をそのイメージの一端として持っているはずです。


とここまではフランス/フランス語のイメージに関する話です。なぜフランス語が"少々"の気取りなのかは話していません。気取りとはそれらしく取り繕うことですから、自分は他の人とは違うのだという姿勢を本当に気取るならば、題名には韓国語か中国語かロシア語(つまり日本の近隣諸国の言語ですが)を使えばよいのです(特に韓流ブーム過ぎさりし現在の日本では韓国語を使うことがもっとも良いでしょう)。しかし私が取入れたいのは本当の気取りではありません。少々の気取りなのです、言葉を悪くして言えば安全圏ということなりますが(苦笑)、それこそが憂鬱のための甘い鎮静剤になるのです。


その第一弾としてインヴィジブル・ポエム・クラブ期から連載している「ずっと後ろで暮らしている/どこかにわたしは落ちている」の続きを掲載します。数ヶ月間で連載が終わるはずだったこの作品も、長く続いたことで、1人の人間の文章能力の成長ドキュメンタリーという側面が出てきてしまいましたが、きちんと終わらせますのでもう少しお付き合い下さい。


またブログデザインをリニューアルするにあたり、改行や段落の区切りが不自然になり文章が読みにくくなってしまった作品があります。こちらは折りをみて修復していきますのでお待ち下さい。



(※ここからがコンテンツの説明です・笑)


今回はインヴィジブル・ポエム・クラブをcalmant doux pour la dépression.にリニューアルするのと同時に、もう1つ「gris homme」というブログを新設しました。グリソムと読む(grisのsとhommeの無音のHと続くoがリエゾンしているわけです)このブログは批評や日記を掲載するために作りました。なのでcalmant doux pour la dépression.は小説と詩のみを掲載するブログとして再スタートさせます、ですので現在お読みのこの文章以降はここに批評を載せることはありません。詳しい新設の動機はgris hommeの最初の投稿記事に書きましたので宜しければそちらをご覧下さい。そして2つのブログを新設するにあたり私の詳しい自己紹介や連絡方法を書いたホームページを作りました。またインヴィジブル・ポエム・クラブのときから掲載していた小説や詩を読みやすくするために作品一覧とそれぞれの作品に飛ぶことが出来るリンクを掲載するいわゆる目次のページを作りました(こちらは現在制作中です。なぜならばいま家にレンタルDVDが10枚以上あり、それはルイス・ブニュエルが5本/カサヴェテス/ジョン・ブアマン 、この他にはジャック・ベッケルを初めとするフレンチ・フィルムノワールの名作多数でこれを返却期限が来る前に全て観なければならないからです・うはは。)。それ伴い少々の戯れ、そして私の無意識への実験として私が撮影し加工した写真を掲載するphotoページを作りました。現在は各ブログとホームページの背景画像に使用した写真のみを掲載していますが、いずれは様々な写真を載せたいです。またそのうち自作の音楽を掲載するページも作製する予定です。


全てのページへはこのブログ左側に設置したメニュー欄から行くことができますが、下記でも紹介します。
よろしければ小説と合わせてお楽しみ下さい。


詳しい自己紹介(ホームページ)
http://torasangmotoki.jimdo.com/
批評や日記を掲載しているブログ(gris homme)
http://grishomme.hatenadiary.com/
写真を掲載しているページ(photo)
http://torasangmotoki.jimdo.com/photo/
私への連絡方法を記載したページ(contact)
http://torasangmotoki.jimdo.com/contact/


ネットの片隅に存在するページですが、それでも続けて来れたのはこの文章をお読み頂いている好事家の皆さんのおかげです。このブログでは「憂鬱のための甘い鎮静剤」をお届けいたしますので。どうかよろしければ、これからもお付き合いのほどのよろしくお願いいたします。





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