ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 7ページ目(不定期更新の短編小説)

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※更新マーカーを設置しました。
 これは本小説は随時不定期に物語の続きを更新する小説なので、
 その更新した場所を明確にするための栞のようなものです。
 ↓ここから更新↓、このように作中に挿入しています。


※2月8日に更新しました。



//※//


↓ここから更新↓



僕も彼女と似たような精神的構造を持っている。
それこそが僕が
フェラチオという行為に固執している理由というわけ。
正確に書くならば僕はそれが要因だと思っている。
こんな回りくどい書き方になるのは —— 自分自身のものでさえ ——
人生には解釈しかなくてそのあとには
解釈への各々の好みだけが残されているからなのだけれど 。


僕はフェラチオという性行為が好きなんだ、
まあもっとも嫌いな男なんてそうそう居ないとは思うけれど、
もちろんして貰うほうだけれど、
あるいは"させる"ほうと言うべきか、
この辺は趣味の違いだろうね、
させるのが好きなのかされるのか好きなのかどうか、
心の話だよ、
心理的にさせるのが好きなのか、されるのが好きなのか、
させるとされる、一文字違いだけれどその実際は大違いだ、
僕は両方好きだけれど、気分によるね、
気分だよ、SとかMの話じゃない、
だいたい日本ではSやMという言葉、
つまりサディズムマゾヒズムのことだけれど、
それを簡単に扱い過ぎるんだ、
語源となった作品を読めば
簡単に扱えるものじゃないことくらいわかるじゃないか、
マゾヒズムのほうはまだ良いよ、
でもサディズムをカジュアルに扱うことについては反対だ、
サディズムマゾヒズム
この言葉の源が片方はサドというフランス人の作家の、
もう片方をマゾッホという
オーストリアハンガリー二重帝国の
作家の作品であることは、
今の日本だったら知っている小学生だっていることだろう、
でもその作品を読んでいる人はあまりいないようだけれど、
読めば分かる、マゾヒズムは文学になるけれど、
サディズムは文学にはならない、
あるいはこう言うべきか、
マゾヒズムはジョークになるけれど、
サディズムは冗談にもならない、
フランスの哲学者ドゥルーズの著書を取り上げるという
回りくどいことをしなくても、
2人の本を実際に読めば分かる、
サディズムは文学にはならない、
文学にならないということは
その後の研鑽と軟化を受けた結果である、
ポップカルチャーになりえないし、
気軽な話題にもなりえない、
サディズムマゾヒズムは昼と夜のように
互いを支え合う対極の関係にあるわけじゃないんだ、
マゾヒズムとは人間同士の精神的な関係性、
依存的な関係のことだけれど、
サディズムは依存する相手を必要としない、道具があれば良い、
もちろんこの道具というのは
痛めつける人間の肉体と精神と表情のことだけれど、
つまり性の道具としての人間だ、
マゾヒズムは相手個人に依存するものだから、
相手の選択が非常に重要なものだけれど
サディズムは攻撃可能でその結果として破壊出来る相手ならば、
相手がどんな人間でも構わない、
個人性ともいうべきものを必要とはしてない、
その証拠に彼らの作品を改めて読み返してみればいい、
マゾッホが自分の主と定めたのは1人の女だが、
サドは300人の老若男女を誘拐し拷問し殺している、
マゾッホは女と契約をしたが、サドは契約などはしない、
サディズムの本質は質ではなく量なのだ、
量とは相手の個性も相手との関係も必要としないものだ、
それに対して質は相手の個性や関係性が重要になる、
当り前だ、質は1つ1つを丹念に楽しむものであり、
量は数を楽しむものだから、
質を繰り返した結果が量になることはあっても
それは始めからの目的ではない、
僕は経験的に知っているけれど、
酒にしても食べ物にしても大量に摂取するものと
少量を味わうものとでは、味から舌触り、喉越し、
そして胃に納まった際の心地さえもが違っている、
例えば和洋食のフルコースは
2時間3時間4時間という時間をかけて料理を胃に収めるもので、
この時点で大食いは不可能なんだ、
食事時間と満腹の度合は比例している、
ゆっくり食べるば食べるほど、
少量の料理で腹はふくれるからね、
例えば小説などで料理の質を描写する際に語られることは
皿一品一品のことだが、
量、つまり大食いの描写で語られるのは
食事をする人そのもののことだろう、
本質が違うんだ、
サディズムマゾヒズムもそうだ、
マゾヒズムには支配者と被支配者の2人が必要なわけだけれど、
マゾヒズムにおける支配者とサディズムはまた違った存在なんだ、
わかるよね?、
マゾヒズムにおける支配者は
被支配者が喜ぶような支配の仕方をしなくてはならない、
そうしないとご主人様失格だからね、
この時点で、支配する方もまた
被支配者から支配されるような存在になっている、
つまりマゾヒズムというものは両者が依存的で、
相手を支配する者であると同時に
相手に支配される者でもあるんだ、
あるいはこうも言える、
もっとも我がままなのはマゾヒズムの奴隷である、と、
それに対してサディズムは相手の要望なんて一切聞かない、
自分の満足だけがあればいい、
相手が苦しめば良い、相手を痛めつけられれば良い、
繰り返しなるけれど、だからサディズムマゾヒズムが、
対極の関係にあるわけじゃないんだ、
正反対のものですらない、まったく違うものというわけ、
だから人間同士の関係に欲情するマゾヒズム
文学やポップカルチャーやジョークになりえても、
サディズムはいつまでたっても変態趣味でしかない、
ムチに打たれて喜ぶ人間の有様は簡単に喜劇に出来るけれど、
人にムチ打って喜ぶ者の笑顔を喜劇にするのは難しい、
少なくてもお茶の間、
という日本の文化の中では後者はとても難しい、
特に難しいのがサディズムの牙にかかった人間の手記だ、
マゾヒズムの被支配者や支配者の言葉は文学的で
読んでいると目眩がする、耽美と言うやつだ、
サディストの文章もなんとか物語の形を取ることはできる、
しかしサディストの牙に噛み付かれた人間の言葉は
いわば犯罪被害者の独白であり、
陵辱の記録であり破壊の再描写であり、
強引に剃られた体毛の惨めな跡であり剥がされた皮膚であり、
そこには現実しかなくて性欲にはなんとかなりえても、
文学にもポップにもなりえない、
文をこより文章を作り出すという工夫も喜びも無い、
暗く重く苦しい告白だ、
その上で僕は
サディズムに狂ってしまった女の話をこれからするよ、
そして僕の話だ。



以下、内容が重複している文章を2つ、文体を変えて掲載した。
1つはいままでの僕の —— そんな立派なものはないけれど—— 文体で書いた文章であり、
もう1つはこのインターミッションのなかで語った
ジェームス・エルロイ風の文体でお送りする。
片方のみをお読みいただくのも良いけれど、
可能ならば両方に目を通して欲しい。
なぜならばこれから描くのは僕の過去を襲った悪夢の根源であり、悪夢とは日常の中のフラッシュバックや深夜の睡眠の中で夢という形をとり、繰り返し繰り返し何度も現れ反復して押しては引き再び押し寄せる、真夜中の海の冷たい波のように心を痛めつけていく存在で、だから複数の文章が必要になるからなのだけれど。
それを文字にしてみようというわけ。
それでは早速はじめよう。


それは僕がまだ幼稚園児のときで、
仲の良い男の子の家にあそびに行ったときだった、
友人は痩せて身体の小さな色白の男の子だったけれど、
いじめやからかいの対象にはならないタイプの子だった、
それもそのはずで彼は頭が良くて、
新しい遊びを発明しては大勢の友人たちを喜ばせていた、
ごっこやかくれんぼに飽きてきた僕たちに、
宝探しゲームや一風変わった障害物競走を教え、
どこで覚えてきたのかちょいとばかし難しいなぞなぞ問題を、
僕たちに出題したのだった、
どこの地域にも、誰の幼児時代にもこういう友人はいるもので、
僕の場合は彼だった、僕は彼と気があった、
言葉にできぬ親密さ、
というか互いを繋ぐ何かが2人のあいだにはあったのだ、
僕たちには友達が沢山居たけれど、
一番楽しかったのは2人きりで遊んでいたときだった、
彼は新しいなぞなぞ問題を誰よりもはやく僕に教え、
僕はその最適な回答者だった、
ともかく僕と彼は仲良しだったんだ、
彼の家には何度もあそびに行っていたし、
彼の家族にも何度も会っている、
両親と祖父と祖母、
友人は一人っ子だから、
5人家族で1軒の家に住んで居たというわけ、
お爺さんとお婆さんはとても優しくて、
彼の父は愉快な人で僕たちが家の前でボール遊びをしている時に、
混ざって一緒に遊んでくれたし、
彼の母は綺麗な人で遊びに行く度に、
手作りのクッキーなんかを振舞ってくれた、
当時の僕から見たら2人はオジサンとオバサンだったけれど、
いまの僕よりは歳がいくつも下だろう、
あるとき、僕たちは2人きりで彼の部屋で遊んでいた、
家には僕たち以外誰も居なかった、
祖母と祖父はどこかにいき、父親は仕事へ、
母親は買い物へ行ったのだろう、
僕たちはいつものように、
ファミリーコンピューターやロボットの玩具で遊んでいた、
僕たちは攫われたお姫様を救い出すためにゲームで戦い、
玩具のロボットを使って悪の総大将と英雄の戦いを演じた、
その最中で彼が立ち上がり腰に手をあててズボンを脱いだ、
下着も一緒にだ、
動作に躊躇いはなく一瞬で、
あまりにも突然のことなので、
僕は驚きの声も出せずに固まってしまった、
僕の目の前にある彼の下半身、露になった小さなペニス、
そのころの僕のペニスも彼と同じように小さかったわけだけれど、
そのときの僕はきっと、
自分の父親と一緒に風呂に入った時に目撃した、
大人のペニスと彼のものを比較をしたのだろう、
友人は小さなペニスを露にしたままで僕にも同じことを求めた、
僕はなにがなにやら分らなかったけれど、
これもなにかの遊びだと思ってそれに応じた、
疑問は多くあったけれど、彼の言う通りにした、
なにせ彼は新しい遊びを発明する名人だったから、
だから2人して下半身を露出した、
幼児期の言葉でいえばスッポンポンだ、
だけれどこの先の展開は、
そんな牧歌的な響きのある言葉の方には向かわなかった、
友人が近づいてきて僕の足下に跪いたかと思うと、
僕のペニスを口に含んだんだ、
その口でぱっくりと丸ごとね、
そしてそのまま僕のものを舌で舐め回し始めた、
僕は混乱と怯えと、
沸き起こった快感と、
それからくる凄まじい罪の意識の中で身動きがとれなくなった、
なにがなんだかわからない、その感情の混乱は凄まじく、
これこそが彼の考えた新しい遊びなのだと、
思ってしまったほどだった、
1番やっかいなのは、
彼の行為に気持良さを感じてしまったことだった、
そしてそれがいけないことだとも思っていたことだった、
この点で、
ジークムント・フロイトが考えだした精神分析の理論は正しい、
しかし幼少の僕の性器は射精という機能を、
いまだに持っていなかった、
射精をしないペニスは延々に勃起し続けた、
だからその混乱と恐怖と快感と罪の意識が延々に続いた、
しばらくしてから友人は僕のペニスを口から吐きだした、
僕は放心していた、
そして次に彼は僕に同じことを求めた、
彼のペニスをほうばり舐め回すことを僕に求めんたんだ、
友人は僕の顔をみつめて無邪気に笑っている、
そしてその顔はこう言っている、
僕がしたのだから君も同じことをしなければならない、
それから僕にペニスを舐めさせた、
なにかの力が働いて僕はそうするしかなかった、
このそうするしかなかったという状態や感情は、
こういった酷い事体に巻き込まれた人間でないと、
わからないものだろうね、
そうするしかなかった、
人生の中にはそうとしか表現出来ない一瞬がやってくることを、
その状態と感情を、君は理解出来るかね、
それに大人になっても悩ませ続けられることに、
あの時の僕が口に含んだ幼児のペニスの味とにおいを、
僕はいまだに覚えているしいまでも再現出来る、
それを僕は恐怖と呼んでいる、
そうとしか僕には表現が出来ない、
フランスの小説家ジョリ・カルル・ユイスマンス
「さかしま」という小説で退廃と美の極致を書いた小説家、
退廃の極地はこの小説の主人公にとっては、
自分の信心を見つめ直すための内なる教会でもあるのだけれど、
ともかくこの作家は女性器が放つ芳香を23種類の花の香り、
それは蘭やジキタリスなどのことなのだけれどそれに足して、
肉料理にかける4種類のソースの香り、
赤ワインやオレンジのソースを調合した匂いに例えた、
だけれど僕には個人としても作家としても、
性器のにおいを花々に例える趣味はない、
それに端的に言えば少年のペニスのにおいは豚の皮のにおいだ、
焼いた皮じゃないよ、
生の豚肉の皮のにおいだ、
ヌルっとした白い塊になった脂肪と、
凝固した血液がこびり付いた皮と、
滲み出る油と骨のにおいだ、
僕はそれを口に含んでいる、
唾液が彼のペニスのにおいと混ざって口内をかき回る、
唾液だけじゃないな、
僕はきっと眼から涙を鼻からは鼻水を垂れ流していただろうから、
唾液と涙と鼻水と彼のペニスのにおいが混ざったにおいだ、
今でも僕は覚えている、
幼い友人の性器は射精という機能を持っていない、
僕が舐めても舐めても彼は射精をしない、
しばらくすると再び彼が僕のペニスを舐めはじめた、
射精しない僕、
そしてその次は僕が彼のものを、
僕たちはそれを繰り返した、
射精をしないと言ってきたけれど、
射精出来ないと言った方が正しいと思う、
終わらないんだ、快楽が、
ただの快楽だったいいよ、
でも男性器の快楽というのは、
射精によって終わるように設計されているんだ、
つまり射精をしない性器は機能に不全を起しているわけだ、
役目を全う出来ない、だから苦しい、でも気持良い、
快楽と苦しみに疲れて無射精の果てに僕たちは放心した、
下半身を丸出しのまま壁に寄りかかった友人に、
僕は質問を投げかける、
なんでこんなことをするの?ってね、
すると彼はこう答えたんだ、ママが僕にこうするから、って、
あの時の彼の母親は一体何歳だったのだろう?、
幼稚園児からすれば大人の女性なんて皆等しくオバサンだけれど、
そのときの彼の母親の年齢は20代中後半から30代だろう、
つまりいまの僕よりも若かった可能性が高い、
あの優しくてクッキーを作るのがうまい彼の綺麗な母親が、
そんな女が実子のペニスをほうばって舐め回していたわけだ、
男児に欲情する妙齢の女性が、
ポルノやアダルトコミックなどを含む、
空想の世界にしか居ないと思っていて、
老若男女関係なく、
女性に感情移入して、
まあ男児に感情移入する方でも同じだけれど、
それらをマスターベーションの道具としか思っていない人々は、
優しくて平和で牧歌的だ、
なにせそこには現実世界で、
性的虐待をされた男児はいないのだから、
だが空想の世界でしか起っていないと思っているのならば、
随分とのんきなものだ、
友人が質問の答えを僕に告げてから少したったあと、
僕たちのもとに、
僕が大人のいまになっても見たことがない、
異常な笑顔を浮かべた女性がやってきたのだった、
そして友人は何も言わずに、
パンツとズボンをはき直してどこかへといってしまった、
僕に一瞥すらせずにね、
やってきたのはもちろん彼の母親で、
その最中、
彼女が僕になにかを言ったのか、
無言のままだったのかを僕は記憶していない、
僕の頭の中からすべてが抜け落ちている、
そして彼女は笑顔を向けて僕の前でうずくまると、
自分の息子の唾液がついて、
テラテラしている僕のペニスをほうばって、
舐め回し始めた、
それは僕にとって友人にされるよりもショックな出来事だった、
幼児期の僕にとっての同性の友人とは、
ヒーローゴッゴやプロレスごっこで肉体的に、
肌触合いもつれあう仲だけれど、
年上の女性は自分の母親の類型であり優しくて、
しかしおっかなくてだけれど保護してくれる存在だったから、
決して肌触合う存在ではないし、
ましてやペニスに快楽を与える存在でもない、
僕はこの時のショックで思春期が始まるよりも早く、
精通が始まるよりも遥かに早く前もって、
女性への価値観の転換を迫られることになったんだ、
彼女は鼻息を荒く涎を垂らしながら僕のペニスをほうばっている、
彼女の興奮した姿はいまでも、
こうやって語れるほどによく覚えているよ、
それにそれだけじゃなかった、
彼女は優しい手つきで僕を仰向けに寝かせた、
それから彼女はスカートと下着を脱いで、
僕のペニスの上に跨がった、
そして女性器のなかに僕の小さな小さなペニスを入れたんだ、
僕のペニスはこのとき勃起してない、ショックで縮こまっている、
それでも彼女は自らの膣に僕のペニスを差し込んだ、
入れるのには苦労したと思うけどね、
ともかくそれから彼女は僕の上で激しく腰を振った、
もはや僕は快楽を感じていなくて、
そのときの僕は彼女のグラインドの激しい動きで、
ペニスが千切れてしまうんじゃないかと恐怖していた、
実際に彼女は、
ペニスを自分の性器で千切りとろうとしていたんじゃないか、
彼女は口から涎を垂らして狂乱している、僕にはそう見えた、
僕の顔には恐怖の表情が張り付いていたことだろう、
彼女の瞳は僕の眼の奧を覗き込んでいる、
開いた瞳孔、輝く瞳、火照った頬、笑う口元、
僕はこのとき、女性が性欲というものを持っていることを知った、
彼女の陰毛がまだ毛も生えてない僕の陰部に突き刺さる、
唇を彼女の唇で塞がれた、
実子の唾液塗れの僕のペニスを頬張った口が、
その舌が僕の口内を舐め回した、
2人の口のあいだを、
どちらのものとも判断がつかない唾液が掛かる、
彼女に犯されていた時間が実際のところ、
どれだけの長さだったのかは知らないけれど、
僕の記憶では一瞬だ、
満足した彼女は丁重に僕にパンツとズボンを着せた、
彼女に手を引かれて2人して居間に行くと、
友人がソファーに座っていた、
彼はなにも言わなかった、
それから彼女はキッチンに行って、
冷蔵庫から取り出したケーキを僕たちに差し出した、
赤いイチゴが上に乗っているショートケーキ、
友人はいつもと同じように僕に話しかけた、
その内容はたしか彼が昨日観たアニメかなんかの話だったはずだ、
たぶん僕もそれに応じたと思う、
僕は友人のペニスを含んだ口で、
その母親に舐め回された口でショートケーキを食べた、
ケーキを食べたあとで2人でまたテレビゲームをして、
それから僕は帰宅した、
このことを僕は家族には1度も話したことがない、
幼児に通常以上の愛情や欲望を抱いてしまう人の気持も、
理解できないわけではない、
それは僕が大人になったあとの話で、
僕にはいまでも子供がいないけれど甥っ子はいる、
実兄の子供だ、
その子が赤ん坊のときは、
あまりに可愛過ぎて食べたくなってしまったほどだ、
比喩じゃない、
ハンニバルカニバルもかくや本当に口にしたくなったんだ、
僕にはそのとき付き合っていた女性がいたのだけれど、
彼女にそのことを話したことがある、
彼女には20ほど年の離れた弟が居るのだけれど、
彼が赤ん坊のとき、
彼女は弟の愛くるしさに、
その手を口に含んだことがあると言っていた、
幼児あるいは赤ん坊というのは、
過大な愛情や感情を大人に生じさせるものなのだろう、
しかし、
友人の母親が僕にした行為をいまの僕ならば、
サディズムに乗っ取った行為と判断するだろう、
男児のペニスを自分の膣で引き千切ろうとしているんだ、
僕のペニスはヴァギナによって引き千切られる、
サディズムは文学にはならない、
なぜか僕は彼女との行為を何度も繰り返したんだ、
僕はそのことを未だに解釈できていない、
恐怖により身体と思考の硬直が起り、
彼女から逃れるという意志が捨てられてしまったのか、
それとももしかして僕は彼女との行為を楽しんでいたのか、
判らないんだ、
だけれどあの時から僕の性質の大半が決定されてしまった、
運がいいのか悪いのか、
僕はそんな出来事に巻き込まれても、
大きなミソジニーを抱かずに生きている、
あくまでも大きなものはね、
他の人と同じように、
それなりのミソジニーならばもちろん僕も抱いている、
人間は母親に育てられて、あるいは捨てられて、
あるいは顔さえ知らずに成長するのだから、
男女問わず女性に嫌悪感をもっていないはずはないんだ、
だから僕も大きなものはもっていなくても、
それなりのものを持って生きてきた、
そんな僕が女性と愛し合って付き合うようになったのは、
10代後半のことなのだけれど、
その彼女は家庭を持っていた、20代の人だった、
先ほど話した弟の手を口にした女性には年上の旦那さんが居たし、
いまつきあっている、
フェラチオをする際に落涙する彼女にも夫が居る、
未婚の女性ともお付き合いをしたことがあるけれど、
あまりにも上手く行かなかった、
どの様に上手くいかなかったかを僕は言うつもりがないから、
察して欲しい、
君にならばわかるだろう、
だからこれからも僕は既婚者とのみ関係を結ぶのだろう、
そして僕はいまでもフェラチオという行為が大好きなんだ、
夫を持つ女性達が愛情をもって僕のペニスを口にふくむのも、
恋人間の義務のように男性器を舐めるのも、
鼻息荒く興奮しながらそれをしゃぶるのも、
フェラチオをして彼女が涙を流すのも大好きだ、
だけれどここでこんなことを語りたかったわけじゃないんだ、
本当はほかに語りたいことがあった、
いや本当は語りたかったのかもしれないし、
やはり語りたくなかったのかもしれない、
僕はどうやってこれからを生きていけば良いんだ。



幼少時代 —— それは俺にもあった —— 母親への甘えも ——
父への恐れも —— 友人も —— 遊びも。
東京の郊外=静かな街並/立ち並ぶ一軒屋=家族向けの住環境
—— 昼間でも人通りが少ない —— 。
俺の記憶が確かなものならば
—— 模造した記憶の可能性 ——
幼稚園へは母親が漕ぐ自転車の後ろに乗せられて通っていた。
家への帰り道も同じだ。
帰宅して近所の友人たちと遊ぶ=同じクラスの友人。
友人/ノッポな友人/デブの友人/ガキ大将/
金持ちの友人/貧乏な家の友人。
東京の郊外=さまざまな家庭の共存。
金持ちの友人=ファミリーコンピューターのソフトをたくさん持っていた。
ガキ大将=ボクシングごっこ。俺達は色々な遊びを知っていた。
大勢でも遊ぶことも、数人で遊ぶこともあった。
俺には特別仲の良い友人が居た。
やつはあたらしいあそびを
かんがえる

俺は彼の家に遊びにいく。
友人の家=袋小路の一番奧。
袋小路の入り口には閉店したヴェデオショップ。
朽ち果てた建物/日焼けして色あせた看板/生い茂る雑草/ポイ捨てされたゴミ/錆びたシャッター/錆びた自販機。鉄と土のにおい。
自販機はまだ動いている= ポルノヴィデオ が並ぶ。
裸の女たち/セーラー服/縛られた裸体/タイトル=毒々しい色の文字列/セックス、レイプ、誘惑、暴虐、おしゃぶり=幼少の俺には解読不能な言葉たち=危険と性欲を感じ取る。
あるとき俺たちは自販機に並ぶポルノヴィデオを眺めていた。
大人が通り過ぎる、俺たちは別の遊びをしてごまかした。
それからまたヴィデオのパッケージを見つめる。
ヴィデオを見つめる友人が
突如パンツを膝まで下ろして皮の被ったペニスをとりだした。
小さなペニス/彼は言う=ここが熱くなるんだ/
俺達は彼のペニスを指差す=みんなで笑った。
友人宅=袋小路の家。
思い出したくない記憶=幼少時代。
記憶=幼少時代。
そこは白い一軒屋だ。
品の良い友人家族が住む。
母親=やさしい。父親=やさしい。
祖父母=やさしい。友人=やさしい。
みんな= やさしい
子供部屋での遊び=テレビゲーム/ロボットの玩具/ブロック遊び/
プロレス= 2人きり
おやつ=母親の手作り=ケーキ/ビスケット。
その日は赤いジャムが真ん中にのったクッキー/白い牛乳。
クッキーを口に放り込む/舌の上で転がしてから歯で噛み砕く/咀嚼する/唾液と混ざるクッキー —— 真っ赤なジャム —— /牛乳を飲込み/ジャムが牛乳の中で溶けてゆく/
喉を通り過ぎて —— 胃に落ちていく/においは —— 鼻に抜ける。
ジャム=花の香り、牛乳=生臭い。
しばらくして突然、友人がパンツからペニスを取り出した。
ポルノヴィデオ自動販売機の前のように/
俺は笑った。
だが今度は彼1人のジョークじゃなかった/
あいつは俺にもペニスを出すことを求めた。
そっちの方がおもしろい/彼の言葉だ。
俺はペニスを取り出し/やつが笑う/俺も笑う/大騒ぎ。
騒ぎ疲れて壁にもたれかかる=吐く息が熱い。
下半身裸の彼が俺の方に這い寄る=四つ足で近づいて来る。
突然、やつが俺のペニスを口にくわえた/混乱/驚き。
僕はやつの頬を引っ叩いた/やつがぶっとんだ/
歯が俺のペニスに引っかかる。
血が出る/傷が出来て=この時の傷跡はいまだに消えていない。
俺のペニスに残っている。
うずくまることもなく起き上がりやつは俺に近づく/
俺のペニスを舐める。
ごめん、ごめん、ごめんなさい=やつの言葉
やつはペニスを頬張る/
やつの口内で唾液と俺のペニスの血が混ざる/
豚のにおいだ
これは血が溜まった豚肉のにおいだ
俺はなにもできない。ごめん、ごめん、ごめんなさい。
涎と血
そんな最中に俺に変化がおこる/快楽=意味が判らない/
勃起=意味が判らない。
俺はどうしてしまったんだ。
射精はない=幼児の肉体=快楽が続く。
やつ/顔を上げる/微笑んでいる/意味がわからない/
やつの勃起したペニス。
壁際にもたれる俺+立ち上がりペニスを俺の顔に近づけるやつ。
ペニスが俺の/顔に —— やめてくれ —— 。
こんどはきみの番だよ。
—— やめてくれ —— 。
こんどはきみの番だよ。
—— やめてくれ —— 。
こんどはきみの番だよ。
—— やめてくれ —— 。
やつのこの言葉はいまでも俺にこびり付いている/こんどはきみの番だよ。
俺に/こびり付いている/俺にこびり付いている/俺にこびり/ついている/ついて/いる。
そのにおいが俺にこびり付いている。こんどは/きみの番だよ。
やつが俺の頭を両手で押さえつける。
このときのやつはどんな男よりも怪力だった。
俺の口に強引にペニスがねじ込まれる。
血が溜まった豚肉のにおいだ
息が出来ない。息が出来ない。
俺はやつのペニスをしゃぶる。
一心不乱=はやくおわらせろ/はやくするんだ=満足させろ。
やつの精液と俺の口内の痰が混ざる=溺れる/飲込め。
豚のにおいだ
やがてすべてが終わる/俺の番は終わった。
そしてあの女がやってくる=笑顔の母親
—— こんどはきみの番だよ —— =友人の言葉。
俺は女に強引に床に引き倒された/頭を強打=目眩/
足が動かない=友人が押さえつけている。
腕を押さえつけられる/動けない
—— ピンクに塗装した爪先が俺の肌に食い込む —— 。
化粧臭い顔が近づいて来る/舌が俺の口に入って来る/
はぁあああああああああああああ
=興奮した女の声 。
大丈夫/大丈夫よ/かわいいわね/女の声/
はぁあああああああああああああ
女の興奮/臭い息。
俺は涙と鼻水を垂らす/混ざって口元へとながれていく/
女が俺の舌と一緒に/それをすする。
あああはぁああああああああああ
俺=自分の人生を/恨んでいる —— やめてくれ ——。
気が付くと女の股が俺の腰の上で浮いている。
女の黒いショーツ —— ゆっくりと下ろされる=ヴァギナ/
女性器/開いた口。
びしょびしょに濡れた性器。
食いちぎられる!
ペニスがそこに吸い込まれる。
俺のペニスの/皮が引っ張られ/さけて/ただれて/とけていく/
もうおわりだ= おわり
やつの性器に俺のペニスが噛まれる。
あああああああっはああああああ
女は涎をたらし髪を振り乱す/女の爪が俺の腕に食い込む/背骨が軋む音/床と擦れて俺の背中が壊死していく。皮膚が破れて/肉があらわになり/細切れに千切れていき/血管が切れて=血を噴き出す。
背中はぬるぬるした血液の水たまりでぬるく/痛みは増していく/やがて皮も肉もすべて無くなって=骨だけが残る/俺の背骨と床がこすれる/そして骨が/女が腰を振る度にすりおろされていく/骨の中の神経が粉みじんになる/脊髄が漏れて尻とペニスを濡らしていく/痛みを耐えることが出来ない/俺は嘔吐とする/おえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
サディズムは文学にならない
だいじょうぶ/だいじょうぶよ/
かわいいいいわね/だいじょうぶよ。
マゾヒズムだけが
文学として機能する

だいじょうぶ/だいじょうぶよ/
かわいいいいわね/だいじょうぶよ。
女が腰をものすごい速さで振る=このとき俺のペニスは折れて/外れて/床に転がっていき/ 部屋の角で止まった/
そこで俺のペニスは踏み潰された/友人に。
俺の人生のすべて= このときにおわった



だいじょうぶ/だいじょうぶよ/かわいいいいわね/だいじょうぶよ。



なにもかも文学にはならない。だれか俺を助けてくれ。




人生というものには解釈しか存在しないということは
万人が知っていることだと思う。
運命という言葉も宗教も精神分析も歴史も悟りも占いも物語も
諦めも批評も解釈という言葉のヴァリエーションだ。
自分がフェラチオという行為に依存している理由は
2つの文体で語ったこの出来事が原因だと僕は思っている。
僕はそういう解釈をしているというわけ。
僕の人生に対する
そんなが解釈が本小説には大きく反映されている。
これが僕の話だ。
これで僕の話はおわり。
そして物語とその読者である君を休憩させるために設けた
このインターミッションも終わりだ。
どうだろうか。
最初に表明したように
このインターミッションで書かれた文章には
優雅と美と前衛があっただろうか?
あれば嬉しい。
だが優雅と美と前衛があったとしても
このままでは
インターミッションが幼児虐待の仄暗さに塗れたままで終わり、
その余韻を引きずったままで物語が再開してしまう。
それは撤回出来ない。幼児虐待は既に起ってしまったことだし、
ここまで文章を読み進めてしまった君も
それをなかったことにすることはできない。
1度起ってしまったことは
そこを始発点としながらあるいは中継点としながら
一本の線を描き現在まで続く。
その線の先端は未だにこない未来へと繋がっている。
小説のページや文章のセンテンスも同じことだ。
文章を、あるいは物語を読んでしまった君は
もう後戻りすることが出来ない。
だけれど心配はしなくて良い、本小説は明るくなってから終わる。


だって、この夢は短いけれど、ハッピーエンドの夢なのだから。




(Intermission/終了)








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