ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 6ページ目(不定期更新の短編小説)

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さて、自分の作品を解説する際にそのものを語るのでなくて、
影響を受けた作品の解説だけをするという
少しばかりアクロバティックな方法を選択したわけだけれど、
このやり方は些か前衛的すぎるところもある。
前衛は物事が持っている本質を露にするが、
前衛によって露に出来るものは
本質しかないのだとも言い替えることが出来る。
故に先祖への言及ではなく、
ここからは先祖との繋がりを示すことで
前衛を少し牧歌的な方向に振り戻し、
肉感的な土着性をこのIntermissionに与え
前衛にはないある種の泥臭さを伴った豊かさを得るために
もう少しだけ踏み込んだ解説をしたい。
前衛的な解説をすることで本作品の骨格についての解説は
出来たのだから次は肉体の解説というわけだ。
この解説の中でゴダールとプイグの引用趣味について触れた。
彼らの解説をすることをもってして
本小説の解説としているのだから、
「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」にも
沢山の引用が登場する。
作中登場する引用の出典を明かし僅かな説明を加えることで
この解説が持つ前衛と牧歌のバランスを保ち、
それと共に引用元への敬意を捧げる儀式の一端としたい。
この儀式は先祖への捧げものであるので、
物語中の僕の実体験をもとにした出来事の解説はここでは省く。


本小説はBarを舞台にしたシークエンスから始まる。
そこにはまず始めにゴダールがいる。
物語の冒頭に登場するフランス語のダブルミーニングと謎掛け。
フランス語の《masculine》は男を指し示す言葉である。
男の中には顔とケツがある。
フランス語で顔を意味する言葉は《mascu》であり
ケツを示す言葉は《cul》だからだ。
このシークエンスの最後には同じような謎掛けが登場する。
ただし男性が女性に交換されている。
フランス語で女性を意味する言葉は
《feminine》であり女性の中には終わりがある。
フランス映画を終わりまで観れば分かる通り、
フランス語で終わりを表す言葉は《fin》であり
feminineの中には当然の様にfinが、終わりが含まれている。
このフランス語の男女に関する謎掛けは
ゴダールが1966年に制作した映画「男性・女性」に登場する。
「男性・女性」という映画は
60年代のパリの空気を真空パックして現代に伝える映画だ。
つまりそこで描かれるパリは
お洒落で可愛くてとても埃っぽくて少し汚い、政治的なパリだった。
シャルル・ド・ゴールという軍人にして
後に政治家になったフランスの男がいた。
第二次大戦中、パリがナチスドイツによって占拠されていた時代。
彼は亡命フランス人により英国で結成された亡命政府を率いていた。
そんな彼は当時の米国合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトから
保守派の象徴と見なされていた。
保守派。
フランスには服飾からワインまで数多くの名門メゾンがあり、
食品品質保証機関である
アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレがある。
それらに代表される哲学は血筋と正統性であり、
そしてそれらに相応な品質を維持する義務であり、
口悪く言えば権威主義である。
この権威主義は貴族と職人の折衷の末に産まれたものでもある。
貴族のなすことは豪華で規模の大きなものであったが
ムラが多いものであった。
戦争からワイン生産までそうだった。
戦争で大きく勝ったと思えば惨敗し、
歴史に残る名ワインが作られたかと思えば翌年には大不作であった。
ギャンブルそのものだが、
貴族は博打で負けても平気なだけの資産を持っていた。
それは土地である。
一方、土地を持たない平民はギャンブルができない。
仕事は堅実なものが求められた、
それは儲けは出ないが食べていけるだけの糧を得るためである。
常に一定の品質の保つこと、
これを出来る者が職人と呼ばれ、腕の良い者は重宝された。
しかし歴史的な名ワインが産まれることはない。
市民革命であるフランス革命がこの2つを結びつけた。
この革命の結果として土地を所有する市民つまり資産家が生まれた、
それに続き一般的な市民までもが資産を持ち権力を持つに至る。
そして服飾しかり食品しかり高品質なものを
常に供給し続けるという商売の需要が産まれた。
人々には金の使い道が必要だった。
需要に応えうる能力を持つ企業は長い間存続し
企業史を作りやがては名門と呼ばれるようになった。
そして人々はそれをありがたがった。
これを近代的な権威主義の始まりとしている、
なんせ名門という言葉は本来は家柄に使う言葉である。
商売人に対して使う言葉ではないのだ。
フランスはそんな近代的権威主義を生んだ国だった。
そしてド・ゴールはそんなフランスを象徴する男だった。
彼はアメリカやロシアなどの大国におもねらなかった。
自国を大国として復活せんとした。
あるいは権威を呼び戻そうとした。
それは権威というものへの欲動だった。
彼の政治的振る舞いは独自路線と呼ばれ、
ド・ゴール主義、ゴーリスムという言葉まで生み出した。
ゴーリスムを実践する人をゴーリストと呼んだ。
もちろん一番のゴーリストはシャルル・ド・ゴール自身であった。
そのド・ゴールがフランスの政治のトップ、
フランス語でプレジダン・ド・ラ・レピュブリックと言うが
これを引退したのが69年の春であった。
前年の68年には保守的で権威的な彼の政治体制に反対する
学生や労働者による大規模なストライキ運動、五月革命が勃発した。
この革命の種火は3年前の66年に
ストラスブール大学の学生が起した、
フランス学生連合への解散要求運動だった。
端的に言えば彼らは当時の学生連合が
ゴーリスムに傾いていたことを批判したのだ。
学生たちが起した政治的な運動は政府からはもちろん
最終的にはド・ゴールが起した解散総選挙により
国民からも非難されることとなるが、
学生による大学の自治は認められた。
つまり高等教育に政治家が介入することが禁止されたのだ。
この革命は日本を始め世界各国に飛び火し
当地の学生運動を加速させたが、
それらの国では運動が成功したとは言い難い。
そして後には若き日の想い出や
若者の怒りという言葉で語られる青春の想い出となっていった。
想い出になるのは悪いことではない、
若者の主義主張の転向を認めない国はどん詰まりだ。
キリスト教では放蕩息子の帰還は喜ぶべきものなのだ。
しかしコピーした革命は成功しない。
革命にはオリジナリティがなくてはならなかった。
フランス、66年当時は老哲学者であり
左翼の守護者たるエスプリの権化サルトルが健在で、
精神分析医にして哲学者であるジャック・ラカン
64年パリフロイト派を立ち上げ
66年に代表作である論集「エクリ」を刊行、
哲学者のドゥルーズとデリタは66年に「ベルクソンの哲学」
68年には「差異と反復」
デリダは67年に「エクリチュールと差異」を書いた。
つまり60年代後半のパリはアンテリジャンスと
政治の時代だったのである。
パリが政治的でなかった時代などは存在しないのだが。
対してインテリジェンスが喪失した時代は多く存在する。
そんな60年代の一時代を切り取ったのが
ゴダールの作品「男性・女性」なのだ。
「男性・女性」は男と女の間に存在する
政治と知性を取り扱った映画だった。
繰り返すがそのイマージュは
お洒落で可愛くてとても埃っぽくて少し汚い。
本小説はそんな映画から引用した台詞が
冒頭に書かれることで物語が始まる。


ジントニックのくだりで登場するラスベガスを、
僕は映画の「ハングオーバー!」で描かれた
ラスベガスの青空を想像しながら書いている。
砂漠と歓楽街を覆う青空だ。
トッド・フィリップスという
コメディー映画ばかりを撮っている監督が作った
ハングオーバー!」も
もちろんコメディーでそれも気の利いた状況設定と
ぬるくはないがエグ過ぎることのないジョーク、
いわゆるキャラ立ちした登場人物と
現代的なスピード感がある編集リズム、
そして壮大な自然風景と都市の景観を撮影した
モダンな映画作品になっている。
「男だけで観ると最高だ」という説明をされがちな作品だが、
スパイス程度の下ネタに眉をひそめない人ならば
女性でも笑える作品になっているこの作品は、
日本では「消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」という
副題がつけられた。
そのとおりアメリカの映画でよく描かれる結婚前夜パーティーをラスベガスで行った男たちが翌朝シーザーパレルホテルのスウィートルームで目を覚ますと昨晩のバカ騒ぎの跡を残す部屋には脱いだばかりの大量のランジェリーが散乱しており、室内に本物の虎が居て、おまけに人間の赤ん坊も居て、主人公の1人の前歯が抜けていて、もう1人の髪の毛がつるっぱげに剃られていて、最後の1人には病院に入院した形跡があり、ホテルまで乗り付けた車はパトカーになっており、最悪なことに、何故こうなったのかを覚えている人間が1人も居ないという混乱に混乱が継ぐ設定が物語の冒頭に設置される。
そしてもっとも重要なことは花婿が行方不目になっており、
その居場所を彼らの中の誰もが知らないということだ。
花婿と昨晩の記憶を探すことを物語の推進力としながら
主人公3人はラスベガス中を走り回る。
ホラー/サスペンス映画である「CUBE」や
「SAW」が生み出したソリッドシチュエーションの要素を
コメディー映画に転用したのはちょっとした発明だった。
この映画は低予算映画で
だからスターは出演していないけれど、大ヒットを記録した。
そして主役を演じた3人の俳優、
ブラッドレイ・クーパー、
エド・ヘルムズ、
ザック・ガリフィアナキス
そして強烈な脇役を演じたケン・チョンをスターダムに押し上げた。
ハングオーバー!」シリーズは
現在3作目まで制作公開されている。


この他にもこのシークエンスに出て来る国々には
映画のイメージが投影されている。
実在の場所を想定して書いているものもある。
"フランスはパリで開かれる上流階級の晩餐会"は
フランス映画の「アントニー・ジマー」の晩餐会、
"イングランドのロンドンで行われる株式公開記念の祝賀会"は
詐欺行為で逮捕された実在する株式ブローカーの
ジョーダン・ベルフォートをモデルにした映画
ウルフ・オブ・ウォールストリート」で描かれた祝賀会。
"ドイツのベルリンで模様される楽団への寄付金パーティー"
この楽団のイメージは
アメリカのTVドラマ「ザ・メンタリスト」の68話に登場する楽団。
"スペインはカタルーニャのレストラン"は
実在したレストランの「エルブジ」、
"ベトナムにあるパタヤビーチのダンスホール"は
ニコラス・ウェンディング・レフン監督の「オンリーゴッド」で
描かれたダンスホール、ただしこの映画の舞台はタイだが。
"アラブ首長国連邦アブダビ
設置された外国人観光客向け高級クラブ"は
ホテル「ロイヤルメリディアン」の地下にあるBarのこと、
"東京の場末のバー"は読者である貴方が知っているBar
あるいは想像するBarのことだ。


"歩道に出る"
冒頭のBarのシークエンスが終わり
本小説の主人公の"暖房器具"氏は尾行対象の"レッカー車"を追う。
ここからが繁華街の路上を舞台とする第2のシークエンス。
彼が通行人の女性と目が合い彼女のことを観察して
評価を下しその後に妄想の世界に持ち込むシーンは
チャンドラーに倣っている。
彼が描いたマーロウも
女性のことを良く観察して評価を下していたから。


レッカー車はソドムとゴモラの街に並ぶ悪徳の都でもある
風俗店のピンクサロンに入店して
暖房器具も彼を追って店に入る。
この3番目のシークエンスで初めて本小説に会話文が登場する。
ただし通常の小説で使われる会話文を囲むカギ括弧はついていなし
句読点もほとんど使用していない。
会話文にカギ括弧と句読点を使わないスタイルは
アメリカの作家コーマック・マッカーシーに倣っている。
マッカーシーは小説における暴力の詩聖であり、
日本ではコーエン兄弟が監督した映画「ノーカントリー」の
原作小説を書いた人として知られている。
80回目のアカデミー賞で作品賞に輝いて
日本でも興行収入を稼いだからだ。
ノーカントリー」の原作は
彼の書いた小説「血と暴力の国」で、
これの他にもマッカーシーの小説では
会話文でカギ括弧が使われないのである。
それが小説に独特の雰囲気を与える、
例えば読者に乾いた印象を与える文体を構成することに
それは寄与している。
小説というものは通常は2つの文章により作られている、
地の文は登場人物の心中の描写や行動描写
そしてナレーションの役割を果たす、もう1つは会話文。
地の文と会話文の2種類で小説は構成される。
通常の判断ではカギ括弧が使用されていない文章を地の文と呼び
カギ括弧で覆われている文章のことを
会話文と呼ぶ慣わしになっている。
つまりカギ括弧こそが地の分と会話文の区切りである。
ところがマッカーシーの小説にはそれがない、
地の文と会話文の区切りが不明瞭なのだ。
ある文章が主人公の心中の描写なのか会話なのかが
一見すると見分けられないことがある。
端的に言うとそのことで説明文と会話文の違いが明確に分からない。
このことを理由に読者は彼の小説に淡々としたドライさを受ける。
彼の小説にはおびただしい量の暴力が登場し
それに付随して被害者の叫び声もおびただしい。
ところがカギ括弧で囲われてない叫び声や
死の間際の言葉や恐怖の呪詛は
地の文と見分けがつかずナレーションのようにも思える。
これが文章に乾きを与える、徹底的にドライなのだ。
想像して欲しい、君はある映像を見ている。
とある部屋に1人の男が立っていて、
突如として彼の腹部に刃物が突き刺さる。
彼は「うぎゃああ」とか「がっぎゃあああ」とか
壮絶な叫び声をあげて地面に倒れこむ。
それからしばらくのたうち回ってやがては動くのをやめる、
彼は死んだのだ。地面には赤い血が流れている。
これが普通の小説である。
ところがマッカーシーの小説では
映像についていた音声があらかじめカットされている。
そのかわりナレーションが入る。
その映像を観ても刺された男の叫び声は君の耳には入らない。
ただナレーションが言うのである、
男はうぎゃああと叫んでから倒れて死んだと。
これがマッカッシーの小説だ。ドライなのだ。
フルカラーの生々しい映像ではなく、白黒の乾いた映像だ。
そしてカギ括弧の不使用はもう1つの効果を発揮する。
物理的な、文章の見た目としての区切りがないのだ。
文章を追う眼に区切りが無いのだから
読者は文章を淡々と読み進めることになる。
つまり会話文を読む直前に読者の心に生まれる
身構えるような気持が発生しないのである。
読者に会話文を特別視させないという言い方もできる。
すると全てが均一化して来る、そこでは心中の描写も行動の描写も
説明も会話もすべてが同価値である。
それは物語を現実を越えた超現実なものにし、
物語ではなく詩を読んでいるかのような印象を読者に与える。
どんなに現実的な物語であろうと地の文と会話文の違いが
不明瞭になることで作中の現実と非現実も不明瞭になっていくのだ。


この後。
レッカー車と暖房器具はプレイルームに通される。
性的サービスを受ける場所だ。
彼はそのために設置されている椅子に座る。
暖房器具は女性従業員がやって来るのを待っている。
周りは絡み合う男女、嬌声、精液の臭い、
ピンク色のライトで満ちている。
暖房器具は観察する。周りを。
女とからみあっている尾行対象の男を。
このシークエンス。ここではエルロイの文体を倣っている。
エルロイ。ジェームズ・エルロイ。アメリカ人。大男。
そして現代に生きる希代のノワール小説家だ。
彼の小説はアメリカの戦後を舞台にしている。
主人公は刑事。女が男に犯される、殺される。刑事は犯人を捜す。
捜査が進む。そして主人公は闇に飲込まれて行く。
戦後のアメリカ社会が抱えていた闇に飲込まれて行く。
犯罪はその暗闇の一端。
地底から噴出する暗黒のマグマ。
歪な表現方法だ。
それに触れることは歪んだ戦後アメリカに触れること。
彼の小説の大半はこの要素で出来ている。
その理由はエルロイ本人の母親が殺されているからだ。
その犯人は捕まっていない。
彼は小説を書くという行為によって
母親の死と向き合っているのである。
女が殺され、主人公は犯人を追い、
そのことでノーワルに、闇に飲込まれていく。
簡単に答えは出ないし、答えを見つけてもろくなものではない。
彼の小説の文体は異様だ。
もちろん全てがではない。
特に初期の作品では何の変哲も無い普通の文体を使っている。
しかし文体の変容は「L.A.コンフィデンシャル」から始まる。
L.A.コンフィデンシャル」はエルロイ9作目の小説であり
後に映画化もされた。
そしてアカデミー賞の数部門にノミネートされた。
ところが同年の話題をさらったのは
あの「タイタニック」だったのである。
だが「L.A.コンフィデンシャル」は
90年代のノワール映画の名作として
名を残すことには成功している。
しかし映画は原作の魅力を完全には引き出せていない。
原作の文体が異様なのだから仕方が無い。
あるとき。この小説は途切れるのだ。
文章が。短く。細かく。切断されたように。
そして説明は極力省く。必要以上の装飾もない。
文章が短いことで、リズムと、緊迫感が物語に加わる。
そして次作の「ホワイトジャズ」でその文体が完成する。
「ホワイトジャズ」では文章に記号が挿入される。
単語を——の様な記号で繋いだり、
あるいは文章を/この記号で区切る。
——そして時には 文字が大きくなるのである。読者はまるで電報に書かれた文章/コンピューターの言語を読んでいるような感覚に陥る。生じるのは——緊迫感を遥かに越えた 切迫である——あるいは 狂気偏執この文体は物語に何らかの 異様が起っていることを読者に——伝える。異様なことなど沢山ある/そこで起きた事件/主人公の心理状態/犯された/殺されたあるいは戦後のアメリ。しかし本小説が倣ったのは「ホワイトジャズ」ではない。「L.A.コンフィデンシャル」のエルロイの文体なのである。「ホワイトジャズ」の文体は僕には手に余る 狂気であり作品の性質を—— 内側から作り替えて——しまうのだ。



そして主人公の暖房器具氏とピンクサロンの女性従業員という
繁華街の夜に生業をこなす人間2人の会話劇が始まる。
ここで彼女が話す身の上話は
ポール・シュレイダー監督のアメリカ映画「ハードコアの夜」の
又聞きのようなものだ。
「ハードコアの夜」は失踪と捜索の話であり
類例として神話ならばヒンドゥー教に伝わる叙事詩ラーマーヤナ
日本文学ならば10世紀の「落窪物語」、
アメリカ映画ならばジョン・フォード監督の「捜索者」を
挙げることが出来る古今東西にある典型的なものだ。
主人公の中年男は敬虔なキリスト教徒であり
善人でありそんな彼の娘が失踪する。
父は探偵を雇い娘を捜索させるが
しばらくのあとに探偵が持ち帰ったのはポルノフィルムであり
スクリーンには娘の裸体が映されていた、
娘は画面のなかで2人の男と性行為をはじめた。
娘は誘拐されポルノに強引に出演させられていたのである。
僕が観た「アラビアのロレンス」のintermissionが
映画観賞という文化のなかでもっとも幸福な瞬間だとしたら、
彼が観たのはスクリーンに出現した地獄そのものだろう。
娘を救出するために善人なキリスト教徒は
70年代後半のアメリカ西海岸のセックスゾーンを
地獄巡りめいて渡り歩くことになる。
それはダンデの「神曲」で描写される地獄が比ではないほどの
苦悩に溢るる汚物と欲望に塗れたものであった。
しかし物語の真相はそれまで描かれてきた
誘拐と捜索の物語とは違うものだったのである。
娘は善人たる父親の
正しさと正さし故の規律の押しつけに辟易しており
彼の元に居ては自身の将来さえ自分で選択出来なくなるという恐怖と
父親への愛情の間で葛藤していた。
その二律背反たる拮抗が崩れたときに彼女は
自ら性風俗の世界に飛び込んだのであった、自由を得るために。
本小説は同じ物語の視点を父親から娘に移し替えて
マッカーシー風の会話劇を使用して
娘自らにそのことを語らせている。
それは「ハードコアの夜」という素材の周りを
マッカーシー風味のゼラチンで固めたジュレのような食べ物だ。
しかしこの料理の上には
おびただしい量の精液が振りかけられている。大量の男女の精液が。
だが食べることはできる。


これは引用元への感謝ではなく純粋な作品解説なのだが、
本小説は次のシークエンスのとある1シーンで
主人公の変更を行っている。
"僕は彼女が愛情を演じた手紙をくしゃくしゃに丸めた。
ゴミ箱に投げ入れる。"までが暖房器具の視点であり、
"僕はコンビニから風俗店を眺めている。"からは
もう1人の主人公である"観葉植物"の視点で物語が続く。
2人共に探偵であり同じ会社に勤める同僚であり
暖房器具は男性で観葉植物は女性だ。
2人とも心中の一人称は僕だが人前での一人称はそれぞれに違う、
心の中では2人とも僕だが、
人前では暖房器具は俺に観葉植物は私になる。
故に内心の描写……モノローグが半分を占める本小説では
主人公の見分けがつき難い。
いま現在物語を紡いでいる主人公の性別が
男性なのか女性なのか一見すると判らないのである。
これは意図してやっている。
本小説はそういう設計のもとに書かれた小説なので
それを読者がどう受け取るかは自由だ。
ある人はこの主人公変更のことを
「男性の主人公が女装をした」と捉えたしそれでも間違いではない。
この2人は"少なくとも現在のところ"は
他人とコミュニケーションが発生する場面は別として、
内面的には非常に判断がつきにくく
同一人物が男性と女性を演じ分けているようにさえ
あるいは1人の人間の精神の女性的な部分と男性的な部分が
ジキル博士とハイド氏のように
シーン毎に別れて登場しているようにも読める。
2人の主人公は人と対面する場面では
男と女それぞれの性別を演じているが
実は内面的にはその部分は混合しているようにも
捉えることができるのだ。


観葉植物氏がホストクラブに勤める男性従業員と話すシークエンス、
街中で見かけた中年男性に自分の父親を重ねるシークエンスのあとに
本小説は趣向を変える。
ここで現れるシークエンスは枠物語である。
観葉植物は過去に受けた依頼を思い出していく、
回想では異なる人種国籍を持つ依頼主たちが
それぞれの人生を物語として語っていく。
それは本小説の本筋の物語の中で語られるまた別の物語であり
つまり物語の中の物語なのだ。
この枠物語はヒンドゥー教聖典であり「ラーマーヤナ」と並ぶ
マハーバーラタ」に起原をみることができる。
有名なものではアラジンやシンドバッド
そしてアリババが登場する「千夜一夜物語」や
ボッカッチョの筆による「デカメロン」がある、
この2つの物語も枠物語の構成をとっている。
デカメロン」を書いたボッカッチョは
ダンテやペトラルカに並ぶ歴史的な快挙を遂げたトスカーナ人で
彼の本では10人の男女が10日間かけて100の話をする。
実は彼らは流行の疫病から逃れる為に室内にこもっているのだ。
故にその話は、物語を語り聴かせるという行為は、
それを聴くという行為は暇つぶしのためなのであった。
千夜一夜物語」は横暴な王を物語によって沈静化する話である。
アラジンやアリババが登場する物語の語り手は2人の姉妹であり、
朗読の場所は王の寝室だ。
横暴な王は若い女を宮殿に呼び
夜な夜な処女を奪っては次の朝に殺すということを繰り返している。
なぜならば王は妃に性的に裏切られており、
そのことが原因で妃を殺しているのだ。
そして女に復讐するように
妃とは無関係の女たちを殺し続けることになる。
王の魂は混乱し、女性への復讐心に捕らわれてしまっているのだ。
そんなことを繰り返すうちに、とある姉妹が宮殿に呼ばれる。
美しい姉妹であったが
彼女たちはそれまでの女たちと違っているところがあった。
彼女たちは物語のすぐれた語り手だったのだ。
王の寝室で姉妹が話すシンドバットやアラジンの物語は
一日では終わらない、
物語の面白さと展開の仕方、
語り方の巧みさによって王は話に魅せられ続きを求める、
故に姉妹は1日を生き残る。
これを繰り返すことで王は物語が持つ
鎮静作用の力によって精神の混乱と怒りを沈めていく。
物語には人の精神を沈静させる効果がある。
物語はそれが語られることで人々に別の世界を想像させる。
だから我々は実際には行ったことのない
小人の国の法律や未来の火星の経済、
古代ギリシャの怪物が巣くう島の植物学や
天国の空と地獄の大地を知っている。
ゾラやモーパッサンフロベールのような
リアルに徹した物語もあるが、
それが書かれたものである時点で現実ではない別世界である。
物語とは異世界そのものであり
我々読者は1度でも異世界を知ってしまうと、
リアル、我々の現実を相対化してしまう。異世界と現実は向き合う。
異世界を感じることで、初めて現実の世界を感じるのだ。
現実は誰もが知っているが、物語によって現実の世界を知るのだ。
現実だけでは現実を相対することが出来ない、
あたりまえだ、比べるものがないのだから。
読者は物語により想像の翼を羽ばたかせ、
一方で異世界を知ることで現実の世界にも気がつく。
たとえば、魔法がある世界を想像することで、
現実には魔法がないことを改めて知るのだ。
あるいは暗澹悲惨で残酷な物語を読むことで、
現実の平穏を改めて知ることもあるだろう。
または人類未踏の大地での冒険譚を知り、
現実でも勇気を奮い立たせる。
そのことで読者は実生活の幸せを再認識し、
時には惨めな気持になり、励まされることもある。
これは現実を異なる場所からの目線で
見ることができたからである。
物語に共感して自分の人生と同一視することもあるだろうけれど、
その話を自分の物語だと思えている時点で、
読者は人生を俯瞰して眺めることが出来ている。
残酷なことにそれは否が応にでもなのだが。
ともかく、そうやって物語は読者に異世界というもの、
現実を眺める足場を提供するのだ。
これが沈静である。
夢に浮かれていた時間を懐かしく思うことがあるのが
人の人生だから、必ずしも鎮静が幸せなこととは限らないが。
しかし王の混乱は納まり、
女への怒りは消えた、殺される処女はいなくなった。
物語が持つ鎮静の力とは物語自体を受け取ることと
その物語が自分に対して語られているのだという確信をえることで
発動するものなのだ。
王は精神に混乱をもつ1人の人間であり
その治癒を巡る攻防こそが「千夜一夜物語」の本筋なのだ。
物語を語ることで王の魂と国を救った姉妹は英雄であり、
古今東西ありとあらゆる物語に登場する人物の中でも
屈指の物語の語り手なのである。
これらを原型にして多くの枠物語が作られた。
本小説の枠物語はそのなかでも
スタッズ・ターケルの「よい戦争」そして
それをアイデア源とするマックス・ブルックス
「ワールドウォーZ」に近い形になっている。
「よい戦争」は戦争回想記にしてインタビュー集であり
第二次大戦に関わった様々な職業や
人種の人々の証言が収められたノンフィクションである。
「ワールドウォーZ」はそのゾンビ戦争版で、
世界を襲った生きる屍、ゾンビ渦を生き延びた人々への
インタビュー集という形式をとった小説である。
この2つの作品の共通点は中心となる主人公が居ないこと
あるいは全員が主人公ということである。
つまりこれは世界のどこかに生きる個人個人の話なのだ。
そして特に「ワールドウォーZ」において顕著なのは多国籍感である。
この小説では数十のエピソードが
それとほぼ同じ数の人間によって語られる。
それは10カ国を越える人々の証言である。



次は本小説の枠物語のなかで語られる物語の引用元を明かす。
この枠物語のシークエンスには9人の依頼主が登場する。
ベトナム人コートジボワール人、アメリカ人、トルコ人、中国人、
メキシコ人、ロシア人、インド人、アルゼンチン人の9カ国である。
彼らの話す物語は既存の物語に強く寄りかかることで成りたっていて
それはつまり本小説の中でも
引用元の影響が際立って強いということだ。
際立っている必要があったしこのシークエンスの最後で
その理由を観葉植物が話している。
彼らの話しの中で各々の物語の引用元を
それとなく登場させている。本や映画の題名のことだ。
それは読者への投げかけと共にこの物語が
ただの剽窃ではないのだということへの言い訳の陳列であり、
感謝をこめたクレジットタイトルであり、
それらの作品名を自らの物語に出すという
マニアックな喜びの羅列である。
アナタ自身がそうである場合もあるし、
あるいはアナタの配偶者や恋人のなかには
アナタが特に集めることに価値を認めることができないものを
集める収集癖を持つ人がいると思う。
僕は本小説のなかで引用というものを沢山行うことで
それと似たようなことをしているのかもしれない。
次からはその引用元の簡単な解説をしていきたい。
つまらない答え合わせにはならないように心がける。


ベトナム人の彼は映画と恋の関係を語った。”
彼が話した物語は本名アラン・スチュワート・ケーニヒスベルこと
ウディ・アレン監督の映画「アニー・ホール」と
エヴァン・グローデル監督の「ベルフラワー」から取っている。
2つともアメリカ映画で前者の舞台は
アメリカの国土の数パーセントしかない大都会のニューヨーク、
後者はカリフォルニアのベルフラワーという
アメリカの国土の大半を占める田舎町を舞台にしている。
ベルフラワーとは詩的な言葉だがそれは彼が生まれ育った
町の名前を映画のタイトルにしたものなのだ
—— だから地名とはそれだけで詩的な言葉なのである —— 。
前者は女性たちのあいだで流行となる
ファッションスタイル —— ボーイフレンドライクな —— を生み出した洒落た作品であり、後者は映画の「マッドマックス2」に登場する悪役に共感を抱く田舎に住むオタクの話しである。
2つの映画は作中の舞台を都市と田舎と大きく違えているが
その他の点では多くのことが共通している。
それは主題が輝かんばかりの愛と失恋の痛手
そして回復と許しであることと、
実体験を元にしていること、
主人公を演じているのは監督自身であること、
ヒロインが他の男のところに行ってしまうこと、
ヒロインを演じている女優が
監督の元交際相手であるというところだ。
あるところに男が居てあることを切っ掛けに
彼女と出会い付き合い始めて眩く甘い恋愛初期の時期を過ごす。
少し後に暗礁が乗り上げて口論が増えて
彼女は他の男のところに行ってしまう。
残された彼は彼女を恨むも結局は許すことした。
だってあの時の2人のあいだには愛は確かにあったのだから。
数年後に2人は町で偶然再開する、
その時には互いに別々の恋人が居て、
だから友人として話を始める。
2つの映画で書かれた物語をまとめると
おおよそこういうことになる。
愛は複雑であり単純なのであった。本小説ではベトナム人監督が
復讐の物語を描こうとしていたことを語る、
あるとき別れた交際相手と偶然再開した監督は
自分が復讐を企てていたことを恥じて
脚本の筆の進路を許しと反省の物語へと変更した。
脚本を読んだ彼女は映画製作に協力する。
これは「ベルフラワー」を撮った
エヴァン・グローデル監督の実体験に近い。
大きく違うところは「ベルフラワー」作中の"元カノ"を
実際の元彼女が演じているところである。
監督が書いた脚本を読んだ彼女が自ら志願したのである。
それは彼の失恋から5年後のことだった。
これは「アニー・ホール」も同じで
監督兼主演のウッディ・アレン
ヒロインを演じたダイアン・キートン
この映画を撮影する数年前のある一時期付き合っていたのだ。
2つの映画は制作活動を通じての許しと反省であり
故に画面には真に迫る恋愛の葛藤と痛み、
そして愛の複雑さと単純さ故の救いが描かれている。


"コートジボワール人の彼は家族と子供達
そして富についての物語を話した。"
彼が語るのは自身の傲慢と従順だと思っていた
長女と次女の裏切りと末娘の純粋さである。
それとアフリカ諸国における経済的暗黒と軍事の脆弱さ、
つまりアフリカ大陸の
国という概念そのもののもろさを語っている。
前者はシェイクスピアの「リア王」の引用だ。
この老人が語る物語に登場するセリフのいくつかは
彼の作品から取っている。
例えば中盤に登場する「舌より重い愛情」という言葉は
リオ王の末娘コーディリアの台詞
「私の愛情は私の舌よりも重いのです」からであり
一番最後に使用した
「十分な知恵が付かないうちは年を取ってはいけないのだ」も
リア王」の言葉であるがこの台詞は王の言葉ではない、
王に仕える道化師が王に対して発する言葉である。
アフリカにおける経済と軍事と
近代的な国家という概念の弱さを語っている部分は
アフリカを舞台にした映画を参考にしているが
”アフリカ映画”と一重に表すことはできない。
アフリカ映画というジャンルには
センベーヌ・ウスマンなどが撮った映画つまりアフリカ人映画監督がアフリカ人俳優を主演に据えてアフリカを舞台にした映画 —— これはつまり日本人映画監督が日本人俳優を主演に据えて日本を舞台にした映画と同じことである —— からアフリカの諸部族の風習を西側諸国からの視点で奇妙なものとして捉えて見世物小屋的に撮影し編集したモンド映画そしてアフリカ大陸にはびこる問題を他国からのシリアスな視点で描いたもの —— こちらは日本にはびこる問題を西他国からの真剣な視点で描いたものあるいは他国にはびこる問題を日本からの真剣な視点で描いたものと同義である ——まである 。
本小説は最後の映画に拠っている。
具体的にはエドワード・ズウィック監督の
ブラッド・ダイヤモンド」と
マッツ・ブリュガー監督の「アンバサダー」だ。
ブラッド・ダイヤモンド」は2006年に公開された
レオナルド・ディカプリオが主演している映画で、
彼が子役から青年期のあいだ続いてたアイドル俳優 —— アカデミー助演男優賞と主演男優賞にノミネートされたことがあるのにもかかわらずだ —— というイメージを払拭するべく汚れ役すら厭わずに演じていた時代の作品だ。
この傾向は2016年に
念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞した現在まで続いている。
6度目のノミネートだった。
念願を果たしたその後の彼がどうなるかはいまはまだわからない。
ブラッド・ダイヤモンド」の主題は紛争ダイヤモンドであり
これについては本小説で語っているので説明を省く。
この映画は国際的な社会問題にコミットしようとする米国人俳優が作った映画という点ではシェールガス採掘と環境汚染の関係を語った「プロミスランド」や中東産油国を巡る国際情勢を語った「シリアナ」などと同じである。この3つの映画は主演を演じたレオナルド・ディカプリオ、マッド・デイモン、ジョージ・クルーニーが製作総指揮に名を連ねているところも共通している。
一方の「アンバサダー」も同じ紛争ダイヤモンド問題を
主題にしているけれどこちらはドキュメンタリー映画である。
「アンバサダー」、日本語にすると外交官という題名のとおり、
本小説の中でも語られている
金で購入することの出来る外交官の地位と
それを利用したダイヤモンドの密輸入問題を扱っている。
この映画の主役はマッツ・ブリュガー。彼は監督も務めている。
ブリュガーは前作でも北朝鮮に赴き実態に迫る
ドキュメンタリー映画を作っているからつまりそういう男なのだ。
じっとしていられないし、
実物を観ないとなにも分からないと思っているし、
それが面白いと思っているのだろう。彼はコメディアンなのだ。
今回彼が向かったのはアフリカ大陸の大西洋に面した国リベリア
この国は90年代のあいだに
例の"外交官権"を2000通以上も売っている。
ブリュガーは13万ドルを支払うことで外交官権を買い
本物の「ブラッド・ダイヤモンド」である鉱山から
ダイヤモンドの購入を試みる。
そこは暴力が空気のように満ちている現場であり
命がけの映画撮影だった。
コートジボワール人の依頼主の場面は「リア王」と
ブラッド・ダイヤモンド」と「アンバサダー」を引用している。


"アメリカ人の彼は世界経済と自分の仕事の役割を聞かせた。"
アメリカ人の猫好きな経済分析家の語ることは
これまでの依頼人が語っていることのように
引用元の作品があるわけではない。
ここで語られたのはロシア経済史でしかない。
しかし歴史というものは所詮は後世の人々が物語的視点や
分析的視点あるいは思想的視点で過去を語ることであるから、
その点では歴史も物語である。
既存の作品を引用元として新たな物語を作ることと歴史を引用元として物語を作ることは —— 作品も歴史も結局は物語なのだから —— 物語を引用元として物語を作るという点では同じであり、この2つの違いを明確に指摘することにどれだけの意味が、あるいは面白さがあろうか?
その上で僕は作者として、
この段落で書いた物語はロシア経済史を引用元にしていると言う。
またこの後でロシア人の依頼主が登場するが
彼は内からみたロシア史を語っているのに対して
アメリカ人経済分析家は外から見たロシア史を語っている。
1つの国を物語として語ること、
その視点の違いを念頭に置いて2つのパートを制作した。
同じ物語を引用するにしても視点を変えれば
違うものが生まれるということを表現した。


"トルコ人の彼は異国の地で体験した不思議な事件が
人生に与えた影響を告白した。"
この段落ではまず始めに依頼主の青年が
イスラム教国家である母国トルコのことを語るが
その内容はただの豆知識にすぎない。
彼が語る物語の引用元は1つだけ。
フランスの批評家、小説家であるアンリ・バルビュスが
1908年に発表した「地獄」である。
19世紀のフランス人のエミール・ゾラから始まった物語に宿るロマンスを捨てて現実に則って描く自然主義文学—— 仏語ではNaturalisme(ナチュラリスム) —— はフロベールの「ボヴァリー夫人」やモーパッサンの「女の一生」を経過して20世紀の初頭のバルビュスの作品で終わる。
ロマン主義はもちろん、
象徴主義の作家達も20世紀を前に活動を終えて、
残った自然主義文学も流れを止めた。
フランス文学は1908年に19世紀を終わらせたのだ。
その作品こそが「地獄」である。
フランスというロマンスの国 —— フランスはロマンス発祥の地であり、そもそも仏語でromanといえば小説のことを指し示す言葉である —— において自然主義文学は女性を美化することや戯画化することを止めた画期的な主義傾向だった。
そしてバルビュスの「地獄」では
人間の本性を装飾も無しに描くことに成功した。
これに続く流れとして人間個人の本当の真実、
つまり精神の深層部分である無意識などを描こうとする
シュルレアリスムや、
作家個人の実生活に基づいた真実を描こうとする私小説がある。
さてそんなバルビュスが
人間を描くために使った手法が覗き穴である。
「地獄」の主人公は人生を憂いているしがない男であり、
彼は銀行員の職を得たのを機に都会 —— パリ —— に出て来る。
彼が泊まった宿屋の壁には小さな穴が開いていて
そこから隣室を覗くことができた。
隣室には毎晩様々な宿泊客がやって来る、
主人公は隣人たちの本性を穴から覗き観る。
そして彼らのことを観察するうちに主人公はその目を自身や
社会国家宗教に向け始めるという物語が「地獄」で展開される。
"覗き"という行為は偶然や意図の有無
そして間接と直接を問わず物語に多用されるものである。
川端の小説からハリウッドのサスペンス映画や
青年漫画のサービスシーンそしてドガの絵画にまで
多岐にわたり使用されてきたものだ。
文学に覗きを取入れたのはバルビュスが初めてではない —— 覗き魔のことを英語ではピーピングトムと言うけれど由来はゴディバ夫人にまつわる伝説でそれは西暦1000年頃のことだし、聖書のダニエル書では老人がスザンナの沐浴を覗くし、日本神話ではスサノオオオゲツヒメが食物を生み出す場面を覗く —— 覗きという行為は性と人間の本性に関連することであることを人類は大昔から知っていたのだ。そんな普遍的な行為を題材にして自然主義文学 —— ナチュラリスム—— と組み合わせた「地獄」は現代にも通じる物語になっている。
日本で働くトルコ人青年の物語は
そんな「地獄」を引用しているけれど
彼の目は始めから自分自身にしか向いていない。


"中国人の彼は国家との闘争と個人の精神的闘争を述べた。"
この段落では2本の映画作品を引用している。
1つは王兵(ワン・ピン)監督の「収容病棟」であり
もう1つはフランソワ・ロラン・トリュフォー監督の
「大人は判ってくれない」だ。
製作国は前者が中国で後者はフランスである。
そして前者は中国の精神病棟を舞台にしたドキュメンタリーであり
後者はフランスの鑑別所を抜け出す少年を描いた
監督半自伝のフィクションである。
トリュフォーのことはゴダールの段で語ったので説明は省く。
王兵監督は非常にインテリジェントに優れた人だ。
彼は中国に居ながらにして中国政府を批判している、
それも中国政府の許可無くしては撮影不可能な場所を舞台にした
ドキュメンタリーを撮ることで批判しているのだ。
王兵監督は映画を芸術風味に仕上げることで巧みに政府批判を隠す。
そして作品を海外に配給して中国で実生活を送らなければ知ることも
出来ない真実を我々に伝えているのである。
忍耐強い賢人のやり方だ。
この点はこの段落の依頼主とは違うところであるけれど、
賢人ではないからといって愚か者とは限らない。
映画「収容病棟」の舞台になった病院は依頼主が話しているような
中国公安の統治下にある収容施設であり
彼の言葉はこの映画から取っている。
フランソワ・ロラン・トリュフォー監督の
「大人は判ってくれない」は監督の半自伝的な映画だ。
もう1度書くけれどゴダールが「勝手にしやがれ」で
長篇映画デビューした1959年に
トリュフォーもこの映画で長篇映画デビューした。
ゴダールは前述したとおり
彼流のフィルムノワールを作ったわけだけれど
トリュフォーが作ったのは不良少年の映画だった。
実年齢14歳の頃に12歳の少年である主役を演じた
ジャン=ピエール・レオは不良と呼ぶには可愛らしくて、
だからこの映画は不良少年の物語というよりも
社会に上手く馴染めない
孤独な少年を描いた物語と言ったほうが適切だろう。
青年の多くが外国と女性に恋をしてその結果として手痛い経験をしたことがあるから「勝手にしやがれ」がヒットしたのと同じように少年の多くが世間に馴染むことが出来ずに孤独であったから「大人は判ってくれない」はヒットした。そういった多感な少年時代を送った監督 —— それは誰もが送っている —— が半自伝として作ったこの映画は同主人公同俳優のまま続編が3本も作られた。レオが18歳の時に上映された「二十歳の恋 」と24歳の「夜霧の恋人たち」そして26歳の「家庭」だ。レオはたいへんな美青年でトリュフォーは自分の分身として美形を選んだ、美化していると言うことも出来るのだけれど監督自身は若い頃はもちろん壮年に入っても尚キュートな顔立ちをしていた人だったのでその点はレオと一致していた。レオが演じた主人公のアントワーヌ・ドワネルは作中で映画監督にはならなかったけれど彼が経験したことやその心中はトリュフォー監督自身の人生の歩みや成長していく中で感じたものと一致していた。
いわばこの映画はゲーテの「ファウスト」や
ヘッセの「車輪の下」のような読者の人生の糧になるような
青年の成長譚、教養小説であるわけだけれどそこはフランス人。
生真面目な映画ではなくて
—— パリらしい少々の野暮ったさを持った ——
お洒落と冗談に溢れた楽しいものだった。
「大人は判ってくれない」の最後で
アントワーヌ・ドワネルは鑑別所から抜け出して海に逃げる。
そして砂浜で振り返りカメラのレンズ
—— それは観客のことである —— を見つめる。
彼にはもう逃げるところが無い。なんせ背後は海なのだから。
彼が最後に放ったカメラへの —— 観客への —— 眼差しは
自分の人生と闘うことを決意したことの表明だ。
本小説では精神病院から抜け出した
政治犯密入国者とアントワーヌ・ドワネルを重ね合わせた。
依頼主の最後の台詞はイギリスの詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの「インビクタス」という詩から引用している。
この詩は南アフリカの故ネルソン・マンデラ大統領に関わりが深いことで有名で、彼は当時の南アフリカで敷かれていた人種隔離政策に反対する政治運動していたことから政府により国家反逆罪という名目で逮捕され27年ものあいだ厳しい刑務所生活を過した後に釈放され同国の大統領になった。
彼は刑務所生活のなかでこの詩を読むことによって
心を奮い立たせ生き抜いてきたという。
ネルソン・マンデラとウィリアム・アーネスト・ヘンリーの
インビクタス」との関わりを有名にしたのは
クリント・イーストウット監督の
映画「インビクタス/負けざる者たち」である。
この映画でもこの詩が登場し、主題にもなっている。
私は決して屈服しない。
私こそが私の運命を支配する者なり。
私こそが私の魂を指揮する者なり。


"メキシコ人の彼は彼自身が作ったストーリーを発表した。"
この段落では南北アメリカ大陸形成史に始まり先住民の文化と神話そして欧州文明による大陸の搾取とそれに続く国家間戦争史と国内間戦争史つまり内戦史や革命史を彩る歴史的な人物の逸話が連なるメキシコ史とラブクラフトやスターチャイルなどの怪奇的な四方山話が合わさることで依頼主が語る話しを展開している。
この段落は本小説の中でもっとも長大な段落であり、
依頼主と主人公の観葉植物が言うように複雑で混沌としている。
なのでこの段落に登場する要素を羅列することで
解説の代わりにする。
解説してしまった混沌は混沌ではないからだ。
あるいは解説出来ない諸要素の積み重ねと
その絡み合いが混沌なのかもしれない。
以下がその諸要素の羅列 —— 解説の代用 —— だ。
ハワード・フィリップス・ラヴクラフトアメリゴ・ヴェスプッチ。ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル。プリンスオブウェールズ岬。デジニョフ岬。フロワード岬。マゼラン海峡アメリカ大陸。サンブラス地峡。アメリカ大陸間大交差。スエズ地峡。運河。中央アメリカ。アメリカ合衆国アステカ文明。儀式と人身御供。クリストファー・コロンブスコンキスタドール。銃・病原菌・鉄。混血。アンブローズ・ビアス悪魔の辞典。私が愛したグリンゴチワワ州メキシコ革命。パンチョ・ビリャ。メキシコ独立戦争。ミゲル・イダルゴ。ラテンアメリカ解放戦争。シモン・ボリバル。迷宮の将軍。テキサスとテハス。1819年恐慌。米国人のテハス入植。綿花。テキサス革命。テキサス共和国。米国によるテキサス合併。米墨戦争ナポレオン戦争グアダルーペ・イダルゴ条約。メキシコ割譲。1500万ドルの戦争賠償金。南北戦争。オメルカ文明。頭像。死者の日。ウィリアム・ウォーカー。マヤ文明。カスタ戦争。フランスによるメキシコ出兵と占拠。アメリカによるメキシコ支援。メキシコ麻薬紛争。ベニート・パブロ・フアレス・ガルシア。サポテカ文明。ホセ・デ・ラ・クルス・ポルフィリオ・ディアス・モリ。自由進歩主義格差社会。米国1907年恐慌。メキシコ革命。モンパルナス墓地。アルフレド・ドレフュス。フランシスコ・イニャシオ・マデーロ・ゴンサーレス。ビクトリアーノ・ウエルタ。エミリアーノ・サパタ・サラサール。ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサ。パンチョ・ビリャ。ウッドロウ・ウィルソン。米軍ビリャ討伐隊。バナナ戦争。ジョージ・パットン。アルバロ・オブレゴン・サリード。ビリャ暗殺。アルバロ・オブレゴン。オブレゴン暗殺。プルタルコ・エリアス・カリェス。ラサロ・カルデナス。スターチャイルド。羊飼いハイタ。ハスター。ビアス失踪。アゴーリー。アイルランドジャガイモ飢饉。アイルランド人のアメリカ移住。オザーク高原。ヒルビリーカトリック弾圧。毛沢東文化大革命ヨシフ・スターリンコルホーズ。ホロドモール。ユダヤ人虐殺。ポル・ポト派クメール・ルージュインドネシア虐殺。ルワンダ虐殺。ペスト。スペイン風邪コレラロシア正教古儀式派集団自殺。ピョートル1世。ソロヴェツキー修道院。ジム・ジョーンズ。人民寺院集団自殺沖縄戦の集団自決。古代ローママサダの集団自決。 ジョン・ゲイシー。フリッツ・ハールマン。カタコンブ。卑弥呼。ファラオ。始皇帝兵馬俑。殉死。バルトロメ・デ・ラス・カサス。聖杯伝説。ニコラス・トリスト。ベルナルド・コウト。宇宙人ブーム。エリア55。ナスカの地上絵。エイブラハム・リンカーンエイブラハム・リンカーン。ジョン・ブース。シカゴトリビューン。アル・カポネスコット・フィッツジェラルド。グレートギャツビー。ウェストポイント陸軍士官学校。モンマルトル。パリ。
この段落は引用によって作られている本小説の中でも
その数がもっとも多い箇所なのである。
メキシコ人の彼が語る物語は多数の引用と
無根拠のデタラメと混乱で作られている。
引用と嘘と混乱、そして一片の真実こそが彼自身なのだ。


"ロシア人の彼は仕事と一個人の人生の関わりを表現した。"
この段落で語られる話はとある物語に依存している。
イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドが書いた「闇の奧」だ。
物語の舞台は1900年前後の
まだアフリカ大陸が暗黒大陸と呼ばれていた時代のコンゴだが、
この偉大な小説の影響を受けて生まれた作品は実に多く、
それらは舞台となる時代と場所を変えて同じ内容を語っている。
「闇の奧」を追って生まれた小説は数多いが
この小説の影響は文字媒体だけに限定されていない。
映画監督のフランシス・フォード・コッポラ
ベトナム戦争に舞台を移して「地獄の黙示録」を撮影した、
これが一番有名な「闇の奧」の引用だろう。
マイナーなものではドイツ製のコンピュターヴィデオゲームの
「スペックオプス・ザ・ライン」がある。
舞台は近未来、未曾有の砂嵐によって国政が崩壊したドバイである。
舞台は違えど物語の大筋は同じだ、ある男がある異国の奥地 —— 多くの場合でその場所は自国と比較すると科学などが発達していない、あるいは崩壊している —— で現地住民を支配し王のような存在になっている。主人公は男を自国に連れ戻すためにまたは殺すために異国の奥地へと旅することになる。
—— 西洋文明からみた —— 非文明国家に
白人が降り立ち王になる物語はコンラッド以前にもあった。
ジャングル・ブック」で有名な小説家ラドヤード・キップリング
書いた「王になろうとした男」などのことだが、
そのような僻地の白人王となった人物は実際に存在していたし、
そもそも植民値というものの思想がそういったものではないか。
「闇の奧」の新しい所はそれに対する批判の意味を強くもたせ、
異なる文明の衝突を描いたことだった。
舞台となったコンゴは1885年からの13年間
ベルギー国王の私物でありその後は50年間は植民値だった。
後に独立するのだがこのベルギー国王レオポルド2世の私物時代は
搾取と暴力が吹き荒れた時代であり、
多くの人々が過酷な労働の果てに使い捨てられ殺され
あるいは不作の罰として手足を切り落とされた、
虐殺された人々は何百万人に及んだと言う
—— もちろん正確な記録などは残しているはずがない ——
現在コンゴに限らずアフリカ大陸には同国人同士の殺し合い、
過激派や支配勢力によって手足を切り落とされた人々が多く居るが
それはこの時代から始まったと言ってもよい。
ロシア人依頼主が語っているようにコンラッド
小説家になる前は船乗りだった、それも船長だった。
彼はかの時代のコンゴをその目で見ているのだ。
本小説のこの段落では元KGBの探偵を語り手にして
舞台をバブル崩壊前後の日本に移し、
そこにソ連崩壊史の実話を加えている。
ソ連に実在した連続殺人鬼アンドレイ・チカチーロが登場するのはイギリスの小説家トム・ロブ・スミスが書いた「チャイルド44」からの引用で、イタリアレストランは実在したイタリア系アメリカ人ニコラ・ザベッティが開いた日本で一番最初に本格的なピザを提供した店のことで —— もちろん彼も裏の道の人でその生涯はロバート ホワイティングが書いた「東京アンダーワールド」で語られている —— あるいはイタリア系アメリカン俳優のアル・パチーノデニーロが出演した映画からの引用だ。
T・S・エリオットの詩「虚ろな人々」が登場する。
エリオットは「闇の奧」に魅せられて「荒野」を書き上げ、
この「虚ろな人々」の冒頭には"クルツが死んだ"と書いた
—— クルツは「闇の奧」の支配者の名前である ——。
またコッポラ監督の「地獄の黙示録」では
支配者が 「虚ろな人々」を読み上げる。
「闇の奧」でも「地獄の黙示録」でも
支配者の男は"恐怖……恐怖……"とつぶやきながら死んでいく。
支配者はなにかに対して
押しつぶされそうなほどの恐れを抱いている。
この段落は一般的な冒険小説や
探偵小説に展開しそうになるように心がけた。
ロシア人依頼主の話もメキシコ人依頼主の話と同じように
すべてが嘘かも知れないけれど。


"インド人の彼は裏切りへの怒りを表明した。"
この段落が引用しているのは
デンマーク人映画監督ニコラス・ウェンディング・レフンが
撮った「プッシャー」だ。
レフン監督の経歴をとても簡単に書く。
僕はこの監督の作品が大好きなんだ。
北欧の国デンマークで生まれた彼は多感な時期をニューヨークで過して帰郷後に映画の道に入った。彼を世界的に有名にしたのは2011年に公開した「ドライヴ」でカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞したこの映画は西部劇の「シェーン」から続く正体不明の流れ者の男が荒くれ共にその身を狙われている一家や未亡人やその子供を助けるという古典的な物語の舞台を現代のロサンゼルスに移し主役を逃がし屋のドライヴァーに変更し映像は美しく艶かしくフェチィッシュでアートでありながらポップな感触を残した作品、つまり色々なものが詰まった豊かな名作だった。彼も前衛と古典を繋ぐ人だ。
世界がこの名監督を知る前からデンマークでは名を馳せていた。
24歳の時に撮った長篇映画デビュー作「プッシャー」が
デンマークの映画興行収入の歴代1位の記録を叩きだしたのだ
—— そしてこの映画はあの俳優マッツ・ミケルセンを輩出した ——
その後シリーズは続き主役となるキャラクターを変更して
「プッシャー2」「プッシャー3」を制作。どちらもヒットした
—— 2では初作の主人公の相棒役だったマッツ・ミケルセン
主役を務め、3では1作目で主人公と敵対する大ボスを演じる
ズラッコ・ブリックが主役を務めている —— 。
その内容はインド人の依頼主が語る物語と同じである。
彼が語る友人は「プッシャー」の主人公から引用している。
友人の行動は主人公の行動そのものだ。
ただしこの映画と依頼主の話は最後が違う。
主人公は進退窮まり身動きが取れなくなる、
彼は自分が敵対する人間に殺されることを確信する。
それはまさに絶望といったもので、
デンマークの夜の闇の中、
画面には彼の追いつめられた表情だけが浮かんでいる。
そしてそれも闇に飲込まれて映画は終わる。
彼はきっと敵からは逃げ切れない。
ここが本小説と映画の違うところだ。
デンマークという北欧の国に対して想像するものが自然の美しさや洒落た建築や綺麗な人々だという人が観たら驚く映画だろう、なにせそんなバイオレンス映画が大ヒットを飛ばした国がデンマークなのだという事実をこの映画が作ったのだから。もちろん「プッシャー」はただのギャング映画/バイオレンス映画ではなく人生の上手くいかなさを描いた映画であり、その悲劇を描いた映画として観ることが可能になっている。それはシェイクスピア悲劇の多くが政争を舞台にしているのにもかかわらず、王族でも兵士でもない我々の人生のことを描いているかのように思えることと同じだ。
デンマーク国内で大ヒットした本作はレフンを総指揮にすえて
スタッフとキャストを変更したリメイクが作れている、
しかも2作品も。1つは白人を主役にした英語版
もう1つのリメイクはインド移民を主役にしたヒンドゥー語版だ。
どちらもイギリスで制作されている、
ハリウッドとアメリカ人だけが
映画を作っているわけではないということだ。
当り前の話だが。
さてこの段落で重要なことは
インド人依頼主の言葉が韻を踏んでいるということだ。
押韻といってもイメージしているのは詩人が詠んだ詩ではなく、
ヒップホップ文化の中の音楽の押韻
つまりラッパーが歌うラップだ。
なかでもただライミングするだけではなく、
押韻することで物語を語る曲をイメージしている。
ラッパーのスリック・リックに代表される
ストーリーテリングものの曲や、
スリック・リックに影響を受けた
ギャングスタラップのスヌープドッグの曲のことだ、
そのなかでもやはり
スリック・リックの「チルドレンズ・ストーリー」
—— この曲の内容は悪友に誘われて路上でひったくりを繰り返している少年がおとり捜査に引っかかり警官に追われ街中を逃げ回りスラム街を走り回り車を盗み逃げるも追いつかれ妊婦を人質にとり彼女の頭に銃を突きつけるもの引き金は引かずまた逃げて逃げて逃げて最後には警官達に囲われて射殺されるまでを描いている —— を参考にしている。
本小説にはアメリカ人もアフリカ人も登場しているが
ラップ風なことをさせるならばインド人などの南アジア人
または中東地域の人間であるべきだ。
だからこうした。


"アルゼンチン人の彼は愛と金と人間の関わりを嘆いた。."
この段落はある曲を引用している。
フランク・オーシャンの「スーパーリッチキッズ」だ。
彼はR&B界に生まれたスーパールーキーで
現在のところ1枚だけだしているフルアルバムは売れに売れた。
それ以外にもクオリティーがとても高い楽曲ばかりを発表している。
彼はR&Bの領域に属しながらそれを破壊、
あるいはそこから逸脱しようとしているアーティストの1人だ。
なにせフランク・オーシャンは自分がバイセクシャルであることをカミングアウトしているのだから —— R&Bそしてこの領域に重なり合うように隣接するヒップホップ業界というのは男女の役割とその型が決まっているのだ、他の音楽においても多くの場合でこの役割と型の固定は適用される —— 。「スーパーリッチキッズ」はそんなフランク・オーシャンが発表したアルバム「チャンネルオレンジ」 —— オレンジという色は赤でも青でもない。これはミュージシャンのプリンスが自らのイメージカラーを紫にしていたことと同じことだ。つまり固定された男女のイメージやその役割を自分は演じないという意志の表明なのだ —— に収録されている。
「スーパーリッチキッズ」ではオーシャンが
フックアップしたラッパーのアール・スウェットシャートが
ゲストとして参加している、
彼もオーシャンと同じく年齢が若いミュージシャンだ。
そもそも「スーパーリッチキッズ」は90年代から活躍を続ける
R&Bシンガーの —— セクシーでとても凛としている、
男前でキュートな —— メアリー・J.ブライジが歌った
「リアルラブ」を引用している、サビをそのまま利用しているのだ。
つまりベテラン女性R&Bシンガーの曲をバイセクシャルであることを
公表したスーパールーキーが引用して歌唱し、
その間に彼と同じくルーキーのラッパーがラップを挿入するという
構図を持っているのが「スーパーリッチキッズ」なのである。
本小説のこの段落ではオーシャンに倣って
ブライジの「リアルラブ」のサビを和訳したものを使用している。


以上が本小説のなかの枠物語の引用元の解説。
そして物語は一度中断して
このインターミッションに入るというわけである。
ここからはこのインターミッションの解説をしようかとも思ったのだけれど —— 冒頭にあるのはインターミッションそのもの説明であってこの休憩時間(インターミッション)そのものに対する解説ではないのだから —— それではあまりにも複雑というか多重構造的になりすぎるのでやめることにした。


そのかわりに
本小説の作者である僕のことについて少し解説をしたい。
とはいってもこんな無名の男の経歴なんて聞いても
退屈になるだけだだろうし
僕はそんな自己顕示欲は持ち合わせてはいないんだ。
だから僕の経歴ではなくて、
この小説を制作している環境や背景のようなものを語ろうと思う。
少し風変わりなインターミッションの一環として
読んでもらえれば幸いだ。


最初はすぐに完結するはずだった小説も
僕の元来の性質ともいうべき
手を広げ過ぎてしまうという行為を理由に
1年以上も続いてしまった。
この小説はご覧のとおり"はてなブログ”に
投稿する形で掲載している。
その文章はマッキントッシュのノートパソコンを使って
シンプルなテキストソフトを使い横書きで書いている。
マッキントッシュ、英国の老舗のトレントコートメイカーと
同じ名前を持つこのパソコンは偉大だ。
とても丈夫だから。
僕が使用しているラップトップは相当古いものだ。
当時使用していたウィンドウズが搭載された
パソコンが壊れてしまい嘆いていた僕に
当時の恋人がプレゼントしてくれたものだ。
マックの丈夫さを僕はこの数年間で使用者の実感として知っている。
このパソコンには意図的でないとはいえ酷いことを沢山して来た。
大きな辞書を1メートルの高さから
キーボードに向かって落としてしまったことがある。
あるはコーヒーの雫や炭酸飲料やカヴァやスプマンテ
炭酸水の泡を掛けてしまったこともある。
正直に告白すると体液—— うっかりと飛んでしまったクシャミの唾液や、つい飛ばしてしまった射精の精液とか、セックスをしたあとで洗わない手でマックを弄ったことでついた他人の愛液とかのことだけれど —— をこびりつけたこともある。
そのせいでいまでは
DVDの読み込み機能が物理的に失われてしまったけれど、
それ以外の部分は正常に機能している。


小説を書くときのこだわりについて、
僕はそういったことをあまりもっていない。
ここでいうこだわりとは作品制作に対する信条や
作風の同一性ということではなくで、
作品外のこと、文章を書くときの環境のことだ。
有名な小説家のなかには
ペンを握る時はかならずスーツを着るという人や
和服を着るという方も居るけれど、
僕にはそういったこだわりがない。
だけれど出来る限り清潔で
自分なりの感覚に合った服を着るようにはしている。
1度も外出しないときだってそうしている、
正直に言うと夏の風呂上がりかなんかに
真っ裸で書いている時もあるけれど
—— 汚れた服を着ているより、裸の方が清潔だろう。
僕はそういう感覚を持っている —— 。
そうしないと野暮ったい
気の利かない文章しか書けないのではないかという
強迫観念みたいなものがあるからだ。
だけれど小説を書いている期間が
春夏秋冬をそれぞれ1度は経過しているから
必ず身に付ける決まった服装というものはない。
僕は暑がりで寒がりだから冬に半袖を着ることはできないし、
夏に長袖を着ることは耐えられない。


しかし"のようなもの"ならばある。
それはジミーチュウのオードパルファム、香水だ。
ジミーチュウはルブタンに並ぶ高級な婦人靴のメイカーだ。
ディオールとかグッチみたいにこのブランド名も人名だ。
東南アジアのマレーシアで生まれたジミー・チュウは
後にイギリスに渡る。
マレーシアは慢性的な貧困のなかにあるけれど
イギリス連邦の一部を成す国でもあり
エリザベス2世を長にすえているのだから
彼が出国した先が英国なのは不思議なことではない。
靴職人の彼が作った靴は
ダイアナ妃が愛用したことで一躍有名になった。
チャールズ皇太子の元配偶者であり
ウィリアムとヘンリー両王子の母でもある故人は
ファッショナブルな女性であり諸外国の貧困にも
精通していた人だったから
彼女が彼の靴を選んだのも不思議なことではない。
なによりも彼が作る靴は女性の目に美しく映った、
そして高いヒールなのにも関わらず穿き心地は天国だった。
ダイアナ妃が王宮に静かに納まって満足するような
女性でなかったことはいうまでもなく、
そんな彼女には必要な靴だったというわけだ。
1914年にココ・シャネルがジャージー素材の婦人用スーツを作り
女性をコルセットから解放して女性の社会進出を後押ししたように、
その一方で1947年クリスチャン・ディーオールが
華々しいドレスを作り上げ
女性とそれを眺める気分を明るくしたように
時代は新しい服装を要請し召喚する。
言うまでもないことだけど1914年は
第一次世界大戦が起った年で
1947年は第二次世界大戦が集結した直後の年だ。
プラダを着た悪魔」という主演のアン・ハサウェイの魅力を
最大限発揮して映像に残したこの大ヒット映画の舞台となったことで
ファッションに興味のない人々のあいだにも名が知れ渡った
イギリスのファッション雑誌ヴォーグ。
その英国版の編集者タマラ・イヤーダイ・メロンも
彼の靴に魅了された女性の1人だった。
彼女の父親はあのヴィダルサスーンを作ったビジネスマンだった、
そしてジミーの靴と出会った時に彼女の身体にかよっていた
父から受け継いだ血が目覚めた。
この父娘とジミーが会社を設立する。
ビジネスマンと元来の職人気質のジミーとのあいだに
確執が現れた時期もあったが、
困難を乗り越えた会社は現在でも
美しい靴を求める女性達に満足を供給し続けている。
同社が販売している香水がこのパルファムというわけ。
もちろんレディースだよ。
同名のオーデコロンもあるのだけれど、
パルファムとコロンは濃度と値段が違うだけではなく
その匂いの方向性も違うんだ。
このパルファムの匂いはすばらしい、
節操というものを知っている澄んだ匂いがする。
甘いが甘過ぎず華やかだが華やかすぎない、
そして婦人向けパルファムにありがちなパウダリー
—— つまり化粧品の匂い —— な
においは隠し味のようにわずかだけ入っているだけ。
端的に言うと大人のための香水で、
しかしフランスのマダム向けのパルファムのように
濃厚さやむせ返るような甘さはない。
僕はひょんなことからこの香水のことを知ったのだけれど濃い匂いのする香水 —— 例えばサンローランとかシャネルとかゲランとかジバンシィーとかヴェルサーチのことだけれど —— が苦手な僕にとってはおあつらえ向きのパルファムだったわけだ。
それ以来、気が向いた時にこの香水を身に付けているのだけれど
まさか使用する機会が一番多いシチュエーションが
小説を書くときになるということは想像したことがなかった。
小説を書いていく途中で筆が進まなくなることはよくあることで、
そのときに気分転換のつもりで香水を着けたのがきっかけだった。
香水をプッシュした境にそれまでの文章と比較して
とても優雅な文章を書くことが出来たのだ。
それ以来の習慣 —— 縁担ぎ —— の
ようなものになっているというわけ。
以降、小説を書く時の服装はスーツのときも
Tシャツのときも全裸のときもあるけれど、
僕がこのパルファムを付けることを忘れたことはない。


これでパソコンと筆を持つときの
僕の格好のことは書いたから次は環境のことだ。
黒い合板の机が僕が小説を書く際の定位置で中途半端に高いスツール —— 馴染みのBraが店じまいした際に貰った —— に
座って文章を打ち込んでいる。
パソコンの他に机の上にあるのは1冊の本と葉巻で、
本は表紙が良く見えるように立てて置いて
ありその前に葉巻きが転がっている。
それはコロンビアの作家ガブリエル・ガルシア・マルケス
予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語」という題名の本で、
この本は「予告された殺人の記録」という中編小説と
「十二の遍歴の物語」という
12本の短編小説をまとめたハードカバーで
つまり13本の話が収録されているものなんだ。
葉巻はニカラグアのブリックハウスという銘柄だ。
僕にとってそこは祭壇のようなもので、
創作に対する祈りのようなもの象徴で、
中南米の小説に中南米産の葉巻が線香や
蝋燭のように供えられている光景
—— 火はついていないけれど —— を
みると心が憧れの異世界と繋がっている気分になって
文章に対する勘のようのものをより強く意識するようになる。
ブリックハウスはお供え物だから仏壇のおはぎや果物のように
ときが来たら使うことにしている。
たとえば小説創作上の難所を越えたときなどだ。
だからこのインターミッションを書き終えたら
僕は目の前に転がっている葉巻を吸うことだろう。
近所に叔父が住んでいて彼の持ち家には立派な庭がある。
そこにはシュロの樹が植えれていて、
僕はそのかたわらに置かれた
木製のイスに座って喫煙をすることが多い。
当然そこには叔父が居て彼と一緒にモカ
エスプレッソを飲みながらのひとときだ 。
葉巻の趣味を教わったのはこの叔父からだ、
多趣味の彼から影響を受けたものは他にもあり、
叔父が人当たりのよい柔和な人柄であることも手伝って
彼とは沢山の話をしてきたから、
音楽や映画に関連することの多くを彼から教わってきた。
彼は周囲に穏やかな雰囲気を作り出す天才で、
故に彼と一緒に居る僕は自然に色々な話をすることになる。
彼の存在がこの小説の根源のようなものの1つだ。


環境の話はここまで。
次は僕の悪癖の話だ。
いままで小説を何本か書いてきたけれど、
それを読み直してそして本小説を書いていくなかで
気が付いたことがある
—— 本当は一番初めの小説を書いていたときから
気が付いていたけれど ——
それをこの場で告白する 。
僕はフェラチオという行為に執着している。
本小説にはピンクサロンが出て来るし、
以前の小説ではセックスシーンがないのにも関わらず
フェラチオの話が出て来る —— まあこれだって性行為(セックスシーン)の1つなわけだけれど —— 。
執着している理由は思い当たるし、
そのせいで小説に結構な頻度でフェラチオという行為が登場するし、
実生活のなかでも結構な頻度で行っている、
僕がペニスをしゃぶるわけではないけれど。


たとえば、本小説のピンクサロンの場面は
彼女にフェラチオをされながら書いた。
いうまでもないことだけれどこの彼女とは
現在交際 —— もう少し曖昧なものだけれど —— している
女性のことだ。彼女は僕が小説を書いていることを知っているけれど
それを読まないことが2人のあいだの約束だから
こうして彼女をインターミッションに登場させることができる、
もちろん個人が特定されないように
情報をぼかしながら書くことになるけれど。
そのときの僕はいつもの様にスツールに座り
デスクに向かって小説を書いていたのだけれど
彼女が悪戯な顔をして僕の股のあいだに潜り込んできて
股間のジッパーを下げて —— それも器用に口だけで ——
取り出したペニスをしゃぶり出したんだ。
正直にいうと彼女とこういったことをするのは初めてじゃない。
頻繁にしていることなんだ。
きっと、化粧を顔に施している最中の彼女や
本を読んでいる最中の彼女に
おもわずちょっかいをかけたくなってしまうように、
僕がパソコンに向かっているときに
彼女も同じようなことを思っているのだと思う。
それに彼女は僕の顔を評して
「あなたは怒っているときと小説を書いているときが
 一番セクシーな顔をしている」と言ったことがある。
それ以来、僕は彼女に対して怒ることを
躊躇するようになったのだけれど、
小説を書くことをやめるわけにはいかない。
だからだろう、結果としてこんなことになっている。
作業を邪魔するかのように彼女が僕の耳や股間
舐め始めることもあれば、
抱き合う形で彼女が僕の上に座り彼女と僕の喘ぎ声と
イスの軋む音が合わさって
それぞれの音の聴き分けができなくなったことも何度もある。
一度そのまま後ろに倒れて後頭部を床に強打しそうになり
ラップトップをデスクから落としそうになり彼女の中に入っていた
僕のペニスがまっ二つにボキッと折れそうになったことがある。
全て回避することができたけれど、
あのときは嫌な汗をかいたものだ。
ピンクサロンのシークエンスを書いているときは
彼女にペニスを吸われたままでディスプレイに浮かぶ
テキストソフトに文章を打ち込んでいた。
小説を書くことをやめると彼女が怒るのだから仕方ないことなんだ。
しかしあのときは彼女が途中で泣き出してしまった、
これも良くあることなのだけれど。
僕の股のあいだに涙で頬を濡らす彼女の顔が浮かんでいる。
彼女は「怖い怖い」と泣いている。
彼女は僕がフェラチオをお願いすると応じてくれる。
ときにはこのように僕が求めていなくてもそれをするときがある。
どちらの場合も途中で彼女が涙を流すことがある。
大抵の場合はなにもなく僕が射精するわけだけれど。
しかしそのときの彼女は涙を流しながら「これ、怖い」と言う。
「これ」だ。
これとはペニスに出来るフォアダイスのことだ。
汗腺に脂肪がたまると皮膚上にできる小さな粒
—— 形状としては鳥肌を想像するのが一番近い —— を
フォアダイスという名称で呼ぶ。
ニキビのようなものだけれど膿みも血もださない無害なものだ。
身体の様々なところにできるものだけれど、
皮膚が薄いペニスでは目立ちやすく
これが1つ2つある人もいれば亀頭の先端に出来る人もいる、
同じく皮膚が薄い女性の性器にもこれができる、
大抵の人間がこれをもっている。
だから男女の多くがこれを見たことがあるはずだけれど、
今イチ分からなければ男性は自分のペニスを見れば良い、
女性はこれを機会に彼や夫のペニスを観察してみると良い。
僕はペニスの付根に小さなものが少々あり
彼女が怖いというのはそのことなのだけれど、
不思議なのは明るい場所でフェラチオをしても
彼女がまったく平気な顔をして
僕のペニスを弄んでいることがある一方で、
目の前すら見えない真っ暗闇のベッドのなかでのフェラチオ
彼女が「怖い」と泣き出す場合もあることだ。
ともかく泣き出した彼女を僕は落ち着かせる。
ニキビやホクロを整形手術で消せるように
フォアダイスも消去することができる。
以前そのことを話したら彼女は「そうじゃないの」と
言うばかりで僕は困ってしまった。
だから落ち着かせるのに精一杯で
彼女は僕の胸の中で散々泣くのだけれど、
泣いた後で彼女は再びいたずらな顔をして
僕の股のあいだに顔を沈める。
彼女がペニスを口に含む音や吐き出す音や口内の唾液の量は
泣き出す前より遥かに大きくそれが睾丸まで伝う、
僕のふとももに置かれた彼女の手のひらはとても汗ばんでいて、
机の下に見える彼女の下半身は震えている。
彼女はあきらかに泣き出す前よりも性欲をたぎらせている。
だからセックスを最後まですることになる。
コンドームのなかで射精をし終えた僕のペニスを
彼女はティッシュを使って —— 半笑いで ——
綺麗にしてくれる。
そして最後に彼女と僕はキスをする。
そこで僕は思うのだ、
彼女が僕のペニスを口に含んでそれを「怖い」と言って泣いて、
僕になだめれて泣き止んで再びフェラチオを始めるという
一連の行為こそが彼女にとっての欲望で、
それはなんならかの形で解消されないといけないのだろうと。
そしてその欲望は彼女のこれまでの人生 —— 過去 —— から来るものなのだろうと。僕は彼女の過去の男の話を聞いたことがないし、彼女が父親の話をしたことは1度たりともない、その代わり母親の話はよく聞かされる —— その内容は娘から母への不平と不満の嘆きだ —— その話はあまりにも明け透けに彼女がずっと抱いている父親への不満を母親に肩代わりさせているようなものなので僕は少し辟易してしまうのだけれど、そもそも娘と母親というのはそういうものなのかも知れないから僕は黙って彼女の話を聴くことにしている。
そして彼女と日々を凄し沢山の話を聴いていく中で、
僕はさきほどの考えを確信に変えていくようになった。
それは父親だ。
彼女と父親のあいだにはなにか —— それは性的虐待という言葉が意味するものに及ぶものなのかもしれないし、よくある父と娘のすれ違いかもしれない、まあどっちにしても(好きと嫌いが両立しているが故に心が引き裂かれる)ファザーコンプレックスだ —— があったのだ。
僕の知らない人生が、彼女の過去にあるのだと感じている。




(Intermissionはまだ続きます)


そして、つづきはこちらです
 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 7ページ目」
 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20170208/1486554803



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