【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】獣共こうしてまだ見ぬちに吼えるのだろう?/後編


【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】
獣共こうしてまだ見ぬちに
吼えるのだろう?/後編
前編はこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140403/1396476779



仕事をこなす為に事務所を横目に歩き出す。
目的地に向かわなくては。
キャバクラとアダルトDVD販売店が同居するビルを通り過ぎる。
ライブハウス、外で屯する若者達の前を通り過ぎる。
潰れた古い居酒屋と取り壊し中のゲームセンターを通り過ぎる。
八王子も少し前までは郊外の古い街と言った感じだったのだけれど
駅ビルの再開発、新しいショッピングビルや複合施設の誘致の成功、
住宅街だった南口の繁華街化により一気に新しさが増した。
駅周辺で遊ぶ若年層の数が大幅に増した。
新しくなる事が良い事なのかは分らないけれど
街に活気があるのは悪い事ではないはずだ。
とは言っても駅ビルや周辺のデパートにやってくる若者は
この辺りにはやってこない。
駅の改札口から徒歩3分程度の距離だと言うのに。


車の通る十字路を通り過ぎる。
脇にあるタバコ屋の店前にある喫煙所に
居酒屋や風俗店の呼び込みが集まって煙草を吸っている。
仕事前なのだろう。
ホストとその客が通り過ぎる。同伴出勤だ。
風俗紹介所とキャバクラを通り過ぎる。
熟女パブと書かれた旗が風になびく。
ピンサロを通り過ぎる。ベトナム料理屋を通り過ぎる。
高級クラブ、鉄板焼き屋、懐石料理屋を通り過ぎる。
ガールズバー、フィリピンパブを通り過ぎる。
若い男がティッシュを配っている。
ティッシュの裏にはピンサロの割引券が付いている。
もう少し時間が経てば、店の黒服が客の呼び込みを始める。
彼らはある通りから外には決して出ない。
呼び込みをする曜日は決まっている。時間帯も決まっている。
あの事務所がそれらの細かいルールを取り仕切っているのだろう。
歩く。十字路に出る。ここまでが彼らの領域だ。
その先は表通り。駅前の商店街だ。
商店街に出ると辺りを歩く人の雰囲気が一気に変る。
賑やかで楽しげな声が広がる。
マクドナルド、喫茶店焼肉屋を通り過ぎる。
ダーツバー、ラーメン屋、マツモトキヨシ
八百屋、魚屋、お茶屋を通り過ぎる。
カラオケ屋、ドンキホーテを通り過ぎる。
そして目的の場所に着いた。
店には大勢の客が並んでいる。


ボスから指示されてやってきたのは
八王子名物、絹まんじゅうを販売する和菓子屋だ。
店頭で饅頭を売っている。
絹まんじゅうはここでしか買う事が出来ない。
その名前は八王子が昔シルクの名産地だった事に由来している。
なんでも徳川家康の時代から将軍に絹の織物を献上していたと言う。
絹まんじゅうは絹の様な艶やかな光沢のある白地の皮に
白あんをつつんだ一口サイズの平たい丸形をした饅頭だ。
和菓子を好まない俺でもそれなりに旨くは感じる。
だから一般的には美味しい菓子として理解されているはずだ。


列の最後尾に並ぶ。
ボスから言付けられた緊急の案件は絹まんじゅうを購入して、
現在ボスが出向いている取引先の社長宅に持って行く事だ。ひどい雑用だ。
いくら人手が足りなく今動ける人間が俺しかいないとはいえ
こちらも通常の職務に精一杯の力を出して
取り組んでいたのだから酷い話しだ。
それが普段任されている遺体の解体という
専門的な仕事とはまったく関係の無いのが余計に腹が立つ。
客の列を眺める。長い。とはいえ休日程の数ではない。
土日はこの倍の人数が店先に並んでいる。
これくらいならばあまり時間もかかりそうに無いかな。
この雑用を終えて急いで職場に戻る。
頑張れば夕食前には仕事が終わるはずだ。


しかしいくら急いでいるとはいえ列に割り込む訳には行かない。
だから今は慌てても仕方がないと周囲を見回す。
街の様子を見る。
時間帯的に帰宅途中の社会人はあまりいないけれど
下校途中の高校生や大学生の楽しそうな声が辺りを満たしている。
場所柄これから出勤と思われる人達も見る事ができる。
八百屋や魚屋の掛け声。今日はキャベツと鯖が安いらしい。
賑やかなのは結構好きだ。
だから職場が山間にあって
人と顔を合わせる事が極端に少ないのは寂しいと思う。
けれどそれは仕事なのだから仕方のない事なのだろうと考える様にしている。
自宅は職場へも駅前にも15分程度で行ける場所にある。
なのでその気になれば就業後や休日に
人で賑わう所に出掛ける事が出来るのが救いだ。


端末を取り出して彼女からメッセージが届いていないか確認する。
残念。無い。
饅頭屋の向かいにある洋服屋を見る。
女性服の専門店だ。
ちょっとしたデパートのワンフロア位の大きさがある。
建物は新しいけれど店自体は昔からここにあったのだろうなと思う。
客層は大学生くらいの子から主婦まで幅広い。
店頭には春用のコートが並んでいる。
生地が薄く軽やかな印象だ。色も様々。
ベージュや白と黒、ピンクに花を思わせる柔らかい薄い黄色。
その隣に赤色のコートがある。
派手な赤さと言うより落ち着いた深い赤色だ。
彼女にはこういう色が良く似合う。
その隣の深い青色のコートにも目に行く。
ここ数年流行っている、青に黒や紫が入った様な紺を明るくした様な色だ。
こちらも彼女には良く似合うだろうな。
想像して嬉しくなったので
彼女にこのコートをプレゼントしようかと思う。
喜んでくれるかな?喜んでくれるだろうな。
そう結論を出した所で、プレゼントしようという気持ちがなくなった。
彼女は服装にこだわりを持っているタイプだ。
俺が良いと思った服を、彼女が良いと思うとは限らない。
そして、彼女はそれとはまた別の所でとても優しい。慈愛さえ感じる程だ。
だから彼女の好みではない服をプレゼントしても
彼女は喜んでくれるだろう。無理をして着てもくれるだろう。
そんな風にして気を使わせてしまっては忍びない。
彼女はどんな物でも喜んではくれるだろうから、余計に辛い。


そんな事を考えているうちに列が進む。
自分が購入する番になる。
絹まんじゅうを310個注文する。
大抵の人はこんなに多く購入しない。
おやつとして10個や20個、
お土産として50個買うくらいだろう。
それに比べれば310という数は多いのだけれど、
そこまで珍しい注文という訳ではない。
今の俺と同じ様にある種の土産や来客用の茶請けとして
大量に購入する八王子の企業は多い。
だから電話で予約などせずとも購入する事ができる。
代金を払い領収書を発行してもらう。
近くに車を止めてある事を告げると、
店員が車まで饅頭を運んでくれた。礼を言う。
コインパーキングの料金を支払い、車を出す。
目指すはボスがいる、取引先の社長宅だ。





アクセルを踏み込み繁華街から離れる。
多摩川の支流である浅川に掛かる橋を渡る。
住宅街の小道に入る。
しばらく進むと更に道幅が狭くなる。
坂道になる。
傾斜がかなりキツい。車に乗っていても後ろに身体が引っ張れる様だ。
この急な坂道はここがかつて山であった事の名残だ。
その先は山の上にある閑静な住宅街になっている。
見晴らしも素晴らしい。
最も良い景色が見られるであろう場所に建っている邸宅は
誰もが知っている演歌歌手の自宅だ。
年末のNHK紅白歌合戦の最後の方に彼が出て来るとこの家の事を思いだす。
天気がよければ駅前からでも、
山頂の前面にそびえる彼の邸宅を見る事が出来る。
その数軒先に目的地の社長の家が構えている。
景色が良いとはいえ、周囲に店も無く、交通の弁も悪い不便な場所だ。
実質このキツい坂道しか住宅街への入り口が無い。
だけれど、不便さこそがここを静かにしている。
入り口が1つしか無いのも防犯の面から見れば悪く無い事なのだろう。
芸能人や業界の社長に取って防犯は重要な物のはずだ。
自宅にいるのに気が休まらないのはどんな人であっても苦しい事だろうと思う。


演歌歌手の邸宅を通り過ぎ社長宅の前に車を止める。
見晴らしでは負けるとはいえこちらも立派な住宅だ。
ボスに電話をするとすぐに玄関が開く。
取引先側の若い者が2人出て来た。
彼らに丁重に礼を言われる。
饅頭が詰まっているトランクを開けると、彼はそれを素早く運び出した。
少し遅れてうちのボスが玄関から出て来る。
ボスは俺の顔を確認して、社長の絹まんじゅう好きには困った物だと笑った。
俺もまったくですと笑う。
ボスが頷く。これでまた取引が上手く行くだろう。
助かった。ありがとうと俺を労う。
俺は苛つきを隠して、仕事ですからねと微笑んだ。
領収書をボスに渡す。
ボスは金額を一瞬確認しただけで、
領収書を自分の財布にしまい紙幣を取り出す。
領収書に書かれている額より大分多い。
ありがとうございますと言って素直に金を受け取る。
そして本業に戻る事が許された。
仕事は順調ですよ。
そう言った後、車に乗り込んでアクセルを踏み込み急いで職場に戻る。
バックミラーを見る。
ボスはゆっくりとした足取りで社長宅の中へと戻って行った。


途中で長い信号に掴まる。
助手席に放っておいた絹まんじゅうの包みを破り中身を取り出す。
1つ口に投げ入れた。
店で購入した310個のうち10個は自分用に購入した物だ。
旨い。
バックミラーで見たボスの背中を思い出す。
小間使いを任せられる舎弟でも雇えばいいのになと思う。
それすらも厳しい程、組織には予算がないのだろうか?
無いのかも知れない。
まあ俺が考えても仕方の無い事なのかもしれない。
俺が考えるべき事は自分に任されれた仕事の事で、
予算や人事を考える事はボスの仕事だ。
苛つく心を落ち着かせようとする。早く彼女に会いたい。
ボスにはもっとしっかりと自分の仕事をこなしてもらいたい。


山を上って行く。陽が傾き始める。
職場に戻って来た。
駐車場に車を止めて降りて鍵を掛ける。
早足でエントランスに向かい鍵を開けて入室する。
振り返って鍵のツマミを回して施錠する。
休憩室のソファーに上着を投げる。
流しの蛇口を捻る。水で顔を洗う。タオルで拭う。
コップを取って水を入れる。一杯を一気に飲み干す。
蛇口を閉めて早足で地下に向かった。
仕事の再開だ。


手袋。ゴーグル。
鉈を握って腋から肩甲骨を斬り砕く。
人間の腋には上腕骨と肩甲骨と鎖骨、合計3本の骨が通っている。
なのだけれど、脇の下から刃を入れる事で、
それらの骨の細い部分の纏まりを砕く事が出来る
つまり関節だ。関節は骨の細い部分同士が組み合わさる事で出来ている。
だから簡単に腕を胴体から切り離す事が出来る。
腕を切断している途中、
俺の顔に観音扉の様に切り開いていた遺体の腹部が鈍い音を立てて当る。
ゴーグルはやはり必要だ。


そして片腕が胴体から離れた。
腕の切断面に肩甲骨と鎖骨の一部が付いているので
まずそれを抜き取る。膜を削いで骨用のポリ袋に入れる。


新しいポリ袋を用意する。小さな物だ。
メスを持って指の先端、爪の裏側に刃を当てる。
一気に押し込む。爪が肉と共に指から剥がれる。
刃を上に向けて爪と肉を指から切り離す。
爪の裏側、指の肉には毛細血管や神経が無数に伸びている。
切り離した爪の裏側に肉と共にそれらがこびり付いる。
刃物で削る様に切り離す。ポリ袋に入れる。
爪を傷つけない様に肉だけを取り除く細かい作業だ。
爪と肉が混ざっては解体の意味が無い。
それに自分の指を傷つけてはいけない。
綺麗に肉と神経を切除出来たら、爪は専用のポリ袋に入れる。
この作業を残り4回繰り返す。
こうして片腕に生える爪の処理が終わる。ポリ袋に入れる
爪は反対側の腕にも両足の指にもあるので、
後15回同じ作業を行わなくてはならない。
だけれど細かい作業は得意なので苦にはならない。
問題は時間だ。急いでしかし確実な作業を行えば、
今日の夜は彼女と一緒に美味しいご飯を食べる事が出来るはずだ。
急ごう。


この様に腕はその先端である指から処理をして行く。
爪を剥がしたら次は手を腕から切り離す。
切り離すため手首と呼ばれる部分を切断する。
鉈を振り落とす。だが中々手首が切れない。
肉を鈍く切り、骨に当って歯が跳ね返る。
切れ味が明らかに悪くなっている。おかしい。
刃はこの間研いだばかりだと言うのに。
なぜ急激に切れ味が悪くなったのか。
この女の肉が堅いのが原因だろうか。
いらつく。トラブルはもう勘弁してくれよ。
まあ鉈は予備を用意してある。
刃を研いでから一回も使っていない物だ。
それを予備にしている理由は、
そもそもの切れ味が今使っている鉈と比べるとあまり良く無いからだ。
だがいくら良く無いと言っても、
切れ味が落ちてしまった刃とは比ぶべくもない。
道具棚から予備を取り出す。
性能が劣るとはいえ、予備がある事は良い物だな。
無いとあるとでは仕事の進み方が大違いだ。


手は27個の骨で構成されている。
そのうち19個は指を形作っている。
20ではないのは、他の指と違って親指の骨が1つ少ないからだ。
残りの8個の骨は手首の関節、手関節を作っている。
手関節はアーモンドの様な形をしている。
そのお陰で手を前後に倒す動作をする事が出来る。
夏に団扇を扇げるのは手関節のお陰だ。
因にくるくると手を回す動作が出来るのは前腕の骨のお陰だ。
幼稚園のお遊戯の時間、きらきら星の振り付けが出来たのはこっちのお陰だ。
前腕の骨は2本ある。
その内の1本が関節の8個の骨を受け皿の様にして受け止めている。
前腕骨の上に手関節が、手関節の上に指があるという訳。
2本の前腕、8個の関節、19の指。手の周辺を構成する骨の数だ。
前腕と手、骨と骨の間、関節の間を狙って鉈を振り落とす。
これが一番手首を切断し易い方法だ。
この仕事を始めた当初は
手足を切断するのに苦労したが今ではお手の物だ。
関節の間にある筋肉を狙って切り裂いて行く。
そして腕から手が外れる。
予備の鉈は十分に使えそうだ。


鉈をメスに持ち替える。
指と指の間、手股(たなまた)にメスを入れる。
手関節の骨に当るまで刃を進めて指と手の平を切り裂いていく。
親指の内側を沿う様にメスを入れると
手関節を作る8個の骨の1つ大菱形骨に当る。
名前の通り菱に近い形をしている。
親指を形作る3つの骨の中で1番長く1番下に有るのが中手骨だ。
中手骨と大菱形骨の間にメスを入れ力を込める。
親指が手の関節から外れる。
同じ手順で他の指も切り離す。
人差し指と小菱形骨との間にメスを入れて関節から切り落とす。
中指は有頭骨との間にメスを入れて関節から切り落とす。
薬指と小指は有鈎骨との間にメスを入れて関節から切り落とす。
有鈎骨は手首を作る8個の骨の中では大きい方で、
薬指と小指の中手骨が付いている。
切り落とす。


こうして腕から切り離した手を5つの指と手首に分解した。
休憩を入れずに仕事を急ぐ。彼女に会いたい。
切り離した指を処理する。
鉛筆の先をカッターで削る様に、
爪の無い指先の肉をメスを使って削り取って行く。
指は4つの骨で作られている。親指だけ3つだ。
爪の付いている先端の方から
末節骨、中節骨、基節骨、中手骨と呼ばれている。
そのうちの上3つの骨が手の平から飛び出ている指を形作り、
残りの中手骨が手の平を形作っている。
中手骨を握りメスで末節骨に付いた骨や膜を削り続ける。
肉をポリ袋に入れる。
中節骨、基節骨、中手骨も同じ処理を施す。
短くなる程に削るのが難しくなるのは鉛筆も指も同じだ。
焦っているが丁重な仕事をしなくてはならない。いらつく。
肉をポリ袋に入れる。
5つの指全てを処理する。
骨に付いた膜も削る。綺麗にしたら骨用のポリ袋に入れる。


指の処理が終わったら次は手関節の8個の骨と肉を解体する。
8個の骨はそれぞれに形が違い、角張っている。
それらをメスで1つ1つ切り離して周囲の肉や膜を削いで行く。
処理に時間が掛かる部位の1つだ。
時計を見る。苛つき焦るが、丁重な仕事をしなくてはならない。
まったくボスからの急な仕事がなければ、
それでも余裕を持って作業を出来たはずなのに。
焦りながらメスを握る。
そこで何かが心に引っかかった。
なんだろう?上手く言葉にできない。
3秒間だけ作業の手を止める。考える。
わかった。心に引っかかった作業手順の新しいアイデアだ。


仕事のアイデアと言うのは面白い。
真剣に悩んで答えに辿り着く事もあれば、
一心に作業をしている時に不意に新たな方法が思い浮かぶ時がある。
メスを置く。
抜歯の時に壊れた鉗子の代用品として使ったペンチを手に持つ。
左手に手関節を持つ。
右手で持ったペンチで8個の骨の1つ、舟状骨を挟む。
舟状骨は前腕の骨と繋がっている。
腕と繋がっている手関節の骨は2つある。
大きい方が舟状骨だ。
力を籠めて手関節とペンチを引き離す。骨が抜けた。
成功だ。皮膚や肉が付着したままの舟状骨がペンチに挟まっていた。
メスでいちいち切り離すより、こちらの方が遥かに作業時間が短い。
なんで今までこの方法を思いつかなかったのだろうか?
それも抜歯鉗子が壊れなくては閃かなかっただろう。
自分の頭の固さに呆れる。
同時に作業の時間が短縮する事を喜んだ。
残りの骨も切り離す。


舟状骨の隣の月状骨をペンチで挟む。
骨と肉と皮膚を纏めて関節から切り離す。
もしかして同業者ならば誰もがやっているテクニックなのかもしれないと思う。
業界にマニュアルの様な物が無いのが残念だ。
あるいは業界誌の様な物があれば作業方法やアイデアの伝播、
その学習と検討により各人の技術は大幅に上がっただろうと思う。
月状骨の隣の三角骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
マニュアルは便利だなと思う。
有効な作業方法を明文化し伝える事が出来る。
マニュアルは行動の単純化
規定外の事体への対応の硬化などデメリットがあると言われている。
でも、あれはきっとそのマニュアルの質が低いからだろう。
三角骨の隣の豆状骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
手関節の8個の骨は2段になっている。
下段上段4つずつの2段だ。
豆状骨を切り離した事で1段目の骨と肉と皮膚、
腕と繋がっていた部分の全て切り離した事になる。
以前、知人とマニュアルに付いて話した事がある。
彼女は保険のコールセンターに勤めている。
仕事の中でもっとも重要なのはマニュアルを覚える事だと言っていた。
それは彼女の職場がマニュアルの改訂を頻繁に重ねるからだ。
良いマニュアルと悪いマニュアルはここで分けられる。
改訂をするかしないかだ。
手関節の2段目、指と繋がっている骨の抜き取りにかかる。
親指と繋がっていた大菱形骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
マニュアルの改訂をすると言う事は対処する物事の範囲を広げ
既存のマニュアルにあった不備を補うという事だ。
マニュアル想定外の事が起こったら
正しい対処をマニュアルに載せれば良い。
マニュアルを使う事で対応が硬化するのは改訂をしないからだ。
融通が利かないのはマニュアルが古いままだからだ。
大菱形骨の隣の小菱形骨をペンチで挟む。
骨と皮と肉を関節からもぎ取る。
改訂をすればするほどマニュアルの強度は上がり正しく役立つ物になる。
マニュアルが商売に関する事ならば利益が増え、
人を救う事がならば生存率が上がるだろう。
例えば、人工呼吸の方法を学ぶ事はそれについてのマニュアルを覚える事だ。
人工呼吸の方法は10年前と今とでは変わっている。
小菱形骨の隣の有頭骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
これで8つの骨全てがばらばらになった。
昔、キリスト教の教役者と話しをした事がある。
ある質問をした。
宗教の教えを広めるのには聖典だけで事足りるんじゃないか?
人を救うのには神の言葉である聖典だけがあれば十分なんじゃないか?
あなたの存在は不必要なんじゃないか?
教役者はこう答えたんだ。
聖典の言葉を今に適した物に、
現代の状況に適した物に置き換える必要があるのです。
怒られそうだったから言葉にはしないけれど、
宗教の聖典という物は
質の良い生活をする為のマニュアルなんじゃないかと思った事がある。
それなら教役者の言葉ってのはマニュアルの改訂って事になるんじゃないか?
坊さんにも同じ様な事を訊いた事がある。
返って来た言葉は
あんたが経を読めても意味まではわからんじゃろ?だった。
確かにそうだ。
マニュアルという物は読む者に理解出来る様に書かれていないと意味が無い。
ペンチを刃物やヘラに持ち替えて、
解体した手関節の骨に付いた皮を剥がして肉を削いで骨膜を削って行く。
ポリ袋に入れる。
まあこの仕事に就く人間は守秘義務が課せられている様な物なので
マニュアルなんて物は作れないけど。
綺麗になった指の骨は骨用のポリ袋に入れる。
これで片方の手を完璧に解体した事になる。
やっと終わった。小さく溜め息を吐く。
時間は過ぎて行く。
だけれど、新しい方法を試した事で大幅に時間を短縮出来た。
このままの勢いで行こう。次は腕、前腕だ。


肘から手首の間を前腕と呼ぶ。
前腕は橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)という2本の縦に長い骨、
そして周りに付く筋肉で出来ている。
2本の骨は合わさってアラビア数字の【0】の様な形をしている。
あるいは鍵括弧か。
親指の方にを通るのが橈骨で小指の方にあるのが尺骨だ。
気を付けをした時に前に来るのが橈骨で後ろに来るのが尺骨だ。


橈骨は手関節の8個の骨を受け皿的に支えている。
尺骨は手関節と繋がっていないが、
反対側では上腕骨と連結している。
上腕とは腕の肩から肘までの部分の事だ。
上腕骨は上腕を形作る1本の長い骨の事だ。
上腕骨の先端は丸い。
尺骨は上腕骨先端の丸みをひらがなの【し】の様な形で支えている。
この構造があるから人は肘を回す事ができる。前腕を内側に曲げる事が出来る。
反対にこの構造だからこそ前腕を外側に倒す事が一切出来ない。
【し】の長い方の縁が前腕が外に行く事を止めている訳だ。
手関節の受け皿が橈骨で上腕の受け皿が尺骨だ。


腕を伸ばしている時、
尺骨と上腕骨は1本の骨の様に密接し肘は平らになっている。
このままでは肘に刃を通す事は難しい。
前腕を90度に曲げると肘が出っ張る。
繋がっていた尺骨と上腕骨が僅かに離れる。
女の腕を曲げようとする。
硬直が残っているので簡単には曲がらない。
力を籠めえてゆっくり曲げて行く。
勢い良くすると肉の中で骨が砕けて処理が面倒くさくなる。
少しずつ力を加えて折らずに肘を曲げる事ができた。
肉の離れが悪いとはいえ、硬直その物は溶けかけている様だ。


出来た肘の隙間に刃物を入れる。
入れるのは肘の内側からだ。
肘の内側には腱や血管が通っている。
触って確認しても、見ても目で確認しても分かる。
まず肌を裂いて、その下の管を切断して行く。
筋肉や血管の名称や構造に付いてはあまり詳しく無い。
担当している仕事が骨の処理に重点を置いている事が多いため、
骨の各部位の名称や構造は覚えた。
たまに筋肉の事についても勉強した方が仕事が捗るだろうか?
と考える時もある。
だが日々の忙しさにかまけてつい勉強を後回しにしてしまう。
日々の忙しさとは、例えば今現在の事だ。
そして今日の就業後の時間を勉強より彼女の為に使う事を言う。


皮膚は裂き管を切り、
関節の肉を削いで行く。
こうして上腕から前腕が外れた。
前腕事体の処理はとても簡単だ。
薪を斧で割る様な物だ。


鉈を前腕の橈骨と尺骨の間にめり込ませる。
鉈を入れるのは上腕との関節側の方が良い
手首との関節ではないのには理由がある。
手首側の関節は橈骨の先端が平らで地面に立て易い。
上腕側は尺骨が尖っているので地面に立てる事が出来ない。
だから前腕に鉈をめり込ませるなら上腕側の関節が良い。


あとは薪割と同じだ。
鉈を握り、刃がめり込んだ前腕を持ち上げて床に叩き付ける。
前腕が2本の骨と肉に別れる。
後はそれぞれを処理すれば良い。
皮膚と肉と骨膜を削いで行く。
切り落とした肉は肉用のポリ袋に。
骨は骨用のポリ袋に入れる。
大きい骨だけに時間は掛かる。


残るは上腕だ。
上腕には1本の骨しか通っていない。
それが上腕骨だ。
作業は単純だ。骨に付いた肉と膜を切り落とす。
それだけだ。
前腕との関節から筋肉をめくる様にして切り落として行く、
上腕骨も前腕骨と同じ様に大きいので時間が掛かる。
肉と膜を削ぎ落とす
切り落とした肉は肉用のポリ袋に。
骨は骨用のポリ袋に入れる。


片腕の処理が終わった。
この作業自体には予定より時間が掛かっていない。
良い事だ。これなら彼女との夕食に間に合う。


2つのポリ袋に肉と骨が入っている。
中身がポリ袋の外に溢れ出さない様に、
袋の入り口を持ち上げてコンテナの底に軽く叩き付ける。
中身を均して行く。
肉は音を立てずに、骨は硬い音を立てて袋の隅々に落ちて行った。


手袋をゴミ箱に捨てて、新しい手袋付ける。
コーヒーカップに湯を入れた。
手袋を交換すれば水分をとるのに一々手を消毒する必要が無い。
便利だ。湯を飲む。喉が潤う。




直ぐに次の作業に移れば良いのは分かっているのだが、
彼女から新しいメッセージが着ていないか確認してしまう。
清潔な手袋をつけた手で情報端末を握る。
着ていた。




  「お仕事頑張ってる?頑張らなきゃだめだよー。
   今日は互いを愛する恋人達にとって大切な日なんだからね。
   私達もそうなのだから、一緒においしいご飯を食べようね。


   でも分かってるよ。あなたは仕事には熱心だって。
   でもだからこそ心配になる事もあるよ。
   お仕事も大切だけれど、のめり込み過ぎは良く無いよ。
   それで身体を壊して得る物なんて何もないよ。
   もちろん、さぼって遊んでいるのもダメだけれど。
   その真ん中くらいが一番良いじゃない?
   それが一番健康な生活で、色々な発見や幸せを見つけられると思う。
   私は最近そう思うの」




彼女の考えの深さにはいつも感心させられる。
あなたの言う通りだと思うよと返事を書く。
仕事のトラブルはあったけれど、
なんとか夕食には間に合いそうだと続ける。返信する。
間に合わせてやる。
自分の心に言い聞かせて、仕事に集中しようとする。
その時、着信音が鳴る。
彼女からだろうか?
一瞬期待するがこの時間それはあまりにも珍しい。
だったら。画面を見る。やはりボスからだ。
用件は何だ?
悪い予感しかしない。今度はなんだってんだよ。
通話音がなり続ける。
このまま無視してやればいんじゃねえかという考えも浮かぶ。
まあ、そんな事をする訳には行かない。仕事だ。
通話開始のボタンを押す。すいません、丁度手を離せない所でした。
ええ、もう大丈夫です。何かありましたか?


予感は当った。泣きっ面に蜂ってのは正しいな。
仕事が変った。今日はトラブルが多すぎる。
端末をこのまま床に叩き付けたくなる。
まあ、そんな事しても自分が損するだけだからやらねえけど。


顧客からの依頼内容が突然変更になった様だ。
依頼は最初、遺体を解体する事だった。
遺体を解体して完璧に消す事だった。
変更された仕事内容は片脚を出来る限り完全な状態で保存する事。
片脚とは歯車が埋まっている方の脚の事だ。
歯車も脚に埋め込んだままでとの指示がでた。


まったく、完璧な状態って言われたって
脚にフックを掛ける為の穴を開けちまってんだけどなー。
依頼主も馬鹿じゃねえの。
脚が欲しいなら最初からそれくらい決めておけよ。
溜め息。まあ片足を解体せずに済む分、
作業時間は減ったって事だけどさ。
これで仕事が増えていたら流石に冷静ではいられなかっただろうな。
まったく。


内臓と頭と片腕が無い逆さ吊りの遺体を眺める。
これ、片足をフックから外して大丈夫かな?
だめだ。片足で身体を支えるには無理がありそうだ。
フックを1つにした瞬間、
脚が胴体の重みで千切れてしまうんじゃねえかな。

鉈を握って残る片腕を遺体から切り離す。
これで少しは遺体が軽くなる。
でもやはり1つのフックで身体を支えるのは不安だ。
作業の途中でフックから遺体が外れて
その下敷になるのは気持ちいい物ではない。
その時遺体の何処かが折れでもしたら後の作業が複雑になる。
1本では遺体の揺れ大きくて作業がし難くなる。
やはり脚に刺さるフックは2本なきゃだめだって事だ。
困ったもんだ。
困ったのだが困っていても仕方が無いし、
解決策は1つしか無い。
道具棚から電動ドリルを取り出す。繋がっていたコンセントを外す。
朝、遺体を吊るす為に使ってその後バッテリーの充電をしていたんだ。
充電していなきゃバッテリーが切れて、
今こうして使う事はできなかったかもしれない。
丁重な片付けと準備は大事だなと実感する。
残す方の脚のかかとに電動ドリルを使う。
フックを通す為の穴をあける。
かかとに刃を当ててドリルのスイッチを押す。
ゆっくりと押し込んで行く。
皮膚や肉が飛ぶので顔を背ける。


歯車が刺さっている方の脚をフックから外す。
フックはかかとに刺さっている。
普通はフックをふくらはぎに刺すのだが
そこには歯車が埋まっている。だからかかとに穴を開けた。
ゆっくりと脚を移動させる。フックから脚を抜く。
手に重みが伸しかかる。歯車は重い。
脚と歯車を身体の前側。本来頭があるべき場所に置いた。
とても重い。
まったく君は生前になんでこんな物を身体に埋め込まれてしまったのだろう。
宙に浮かぶフックをもう1つの脚、開けたばかりの穴に掛けた。
上手くいった。問題は起こっていない。


しかし安心している暇はない。
保存するべき脚を切断しなくちゃならない。
脚は太ももの大腿骨が骨盤に繋がる事で胴体に繋がっている。
具体的には大腿骨と繋がるのは
骨盤を形成する骨の1つである寛骨(かんこつ)だ。
そこが股関節と呼ばれている部分だ。
日常的に体重が掛かる部分なので丈夫に出来ている。
丈夫と言う事は関節を外すのにも苦労すると言う事だ。
まったく苛つくな。
ここを解体するのには太ももの内側、内股の方から刃を入れる。
その方が切断し易い。


刃を股に入れて行き骨盤に当てる。
そこから刃を骨盤に沿う様に進めて行く。
こうするのは大腿骨の先端が丸く
寛骨の一部がその受け皿になっているからだ。
その皿が底が深いからだ。
刃を内股から一直線に外側に入れても、
脚は腰から切り離せない。
大腿骨の丸い関節に沿う様に刃を通さなくては行けない。
股関節の周りの肉に切れ目を入れる。
大腿骨と寛骨の間に刃を入れる。
肉を削ぎと取る。ポリ袋に入れる。
刃物を置く。
両手で太ももを持つ。力一杯引き抜く。
脚が胴体から離れる。


溜め息。
仕事の急な変更は進捗に対する影響の大小関係無しに
精神的に良く無い物だ。
だが、それも終わりそうだ。
あとは保存用のクーラーボックスに脚を入れて、
中に保冷剤を放り込めばいい。
備え付けの収納からクーラーボックスを取り出す。
折りたたみ式コンテナの脇に常備してある。
硬直が溶け始めている脚の膝を曲げて中に入れる。
冷凍庫を開けて保冷剤を取り出す。
そこで背中に冷や汗が流れた。終わっている。
すっかり保冷剤を切らしていた事を忘れていた。
俺はどれだけマヌケだというんだ。
内臓を入れたコンテナに使用した物で最後だった。
保冷剤を注文した業者の配達はまで来ていない。終わっている。
あの業者は2度と使わない。
なにが冷静だと自分の馬鹿さ加減をあざ笑う。終わっている
あせる。どうしよう。
肉体は一度胴体から切り離すと切断面から急速に痛んで行く。
どうしようもこうしようもない。迷っている暇はない。
手袋を脱ぎ捨てる。
30kgはあるだろう歯車を埋め込まれた脚を両肩に担ぐ。
階段を上がり地上に出る。休憩室に入って脚を一旦ソファに置く。
冷蔵庫の一番下の棚、冷凍庫をあけて中身を取り出す。
冷凍された魚、冷凍された肉、コーヒー豆が入ったパック。
全てを取り出す。冷凍庫の中を空にする。
膝を折り畳んで冷凍庫に入れた。閉じる。
こうするしか選択肢は無かった。
冷凍された食品は全て冷蔵庫へと移した。
地下に戻る。ゴーグルを外す。
クーラーボックスを持つ。
1階に戻り車の鍵を持って外に出る。
クーラーボックスを車のトランクに突っ込む。
車に乗り込んでアクセルを踏み込む。
氷を手に入れなければならない。
俺の仕事は遺体を解体する事じゃない。
解体して回収出来る状態にしておく事だ。
仕事は言われた通りにこなさなければならない。
氷を手に入れなければならない。
山々は夕暮れに包まれている。
彼女の事を思う。これは時間に……。


周辺の民家を尋ねて氷を分けて貰おうか。
そんな怪しい行動をする訳にはいかねーんだけど。
坂道を下り切る。赤信号で止まる。
交差点にある弁当屋を横目で睨む。
今程ここのコンビニが潰れた事を残念に思った事は無い。
コンビニならば大量の氷が売っていたというのに。
夕日の赤さと赤信号の光が車内に入る。
ハンドルを握る俺の手を赤く染めている。
なかなか青にならない。手は赤いままだ。
信号が切り替わったのを見て車を発進させる。
秋川街道に行けば、大きなスーパーがある。
車を飛ばす。スーパーに辿り着く。
買い物かごを持って急いで冷凍食品売り場に行く。
アイスクリームが並べられたケースの中に袋に入った氷を見つける。
10袋を買い物かごに入れる。金を支払い急ぎ足で店を出る。
車のトランクを開けてクーラーボックスに氷を投げ入れた。


会社に帰る。
いまから仕事を終わらして彼女との待ち合わせ時間に間に合うだろうか?
間に合うかも知れないし間に合わないかもしれない。
間に合うと思いたい。希望はまだ残されていると思いたい。
アクセルを踏み込んで前方を走る車を追い越す。
だが信号に1つ捕まるごとに陽が沈んで行く。
山道を上る。陽が沈んで行く。
途中で坂道を下りて来る競技用の自転車とすれ違った。
バックミラーは観ない。陽が沈んで行く。
職場に戻った。駐車場に車を止める。
エンジンを切る、今にも森の向こう側に陽が落ちそうだった。
急いでいるのにその景色にうっかりと眼を奪われた。
樹の先に突き刺さる夕陽に眼を奪われた。
深緑とオレンジ色のコントラストに眼を奪われた。
1秒、2秒、3秒。
草を踏みしめる音がして視線を森の奧に向ける。
一瞬恐怖を感じる。4秒、5秒。
生い茂る雑草と樹々の隙間から鹿が姿を現した。6秒、7秒。
鹿が俺の目を見る。角がない。だからメスだろう。8秒。
見つめる。9秒、10秒、11秒、12秒、13秒。
鹿が背を向ける。14秒、15秒。
ゆっくりと森の中に戻って行く。16秒。17秒。18秒。
姿が消える。
暗い森だけが残る。19秒、20秒、21秒、22秒、23秒。
4つの足で走る音が聞こえる。やがて音も消えた。24秒。25秒。35秒。
ここは山奥なんだ。


休憩室の冷凍庫を開ける。
クーラーボックスに入れた氷の半分を取り出す。
歯車が付いた脚を中に入れる。フタを閉じる。
クーラーボックスと残りの氷を持って地下に戻る。
保冷剤が届くまでの予備として買って来た氷の半分を冷凍庫の中に入れた。
クーラーボックスを内臓用のコンテナの隣に置いた。
変更された仕事を終えた。
歯車付きの片脚は今朝と比べて特別痛んでいると言う事は無いはずだ。


頭部と片腕、片足が無い女の遺体を見つめる。
倉庫の四隅が妙に暗く見えた。
空気が淀んでいる様な感じを覚えた。
気を取り直す。
新しい手袋を取り出してゴーグルを付ける。
鉈を持って振りかざす。
遺体の手首を切り裂いた。


残った腕の処理を終えたとき。
俺の心に残っていたのは失望だった。
時計はいつでも時間が進んでいる事を告げる。
吊るされた遺体は胴体と片足だけになっている。
間に合わない。
これから胴体と片足を解剖して後始末をしなくてはいけない。
仕事が終わった時、彼女との待ち合わせ時間は疾うに過ぎている頃だろう。
悲しくなる。泣きたい。今日も彼女に会えないのか。
だが仕事を投げ出す訳には行かない。


手袋を新しい物に付け替えて
彼女にメッセージを送る。
端末を持って文字を入力する。
内容は仕事が予定の時間に終わりそうに無い事。
だから一緒に夕食を食べる事が出来ない事。
それについての謝罪。
できれば後日、予定をやり直したい事。
祈る様な気持ちで、懺悔する様な気持ちで
メッセージの送信ボタンを押した。
彼女を怒らせてしまっただろうな。
彼女は怒らせるととても怖くなる。
メッセージの返事さえも無いかも知れない。


現在の状況に失望感を感じる。
失望したのは関係の無い仕事を途中で指示したボスに対してなのか、
急に仕事を変更した依頼主に対してなのか、
マヌケな自分に対してなのかは良く分からない。
苛つきながら考えて答えが出そうになる。
出そうになった所で考えるのを止めた。
もうどうでも良い事だ。


続けて同僚に電話をする。
解体した遺体を倉庫から回収する担当者だ。
作業が大幅に遅れているので通常の労働時間を越える事を告げる。
電話の相手はこちらの仕事も遅れているのでちょうど良かったと言った。
回収する時刻に検討が立ち次第、再び連絡する事を取り決めた。
通話を終了する。


胴体を片付けよう。
今までの部位の様にウィンチから切り離す様な事はしない。
胴体に限っては吊るしたままの方が作業がし易いからだ。
観音扉の様に開いている腹部を鉈で切り落とす。
腹筋と呼ばれる部位だ。ポリ袋に入れる。


邪魔な肉を切り落としたら
胴体の先端、首から解体を始める。
首からは5番目の頸椎が飛び出している。
首にある脊椎を頸椎と呼ぶ。
1つの1つの頸椎の形はケルト十字、
あるいは性別記号の♀の様な形をしている。
尖っている方を首の後ろに向けている。
1番目から4番目までの頸椎は頭部を解体する際に処理しているので
既にポリ袋の中に入っている。
5番目、6番目、7番目の頸椎の周りに付いた肉を削いで行く。
ポリ袋に入れる。


頸椎周りの肉を削ぐと言う事は
首の肉を一切無くすと言う事だ。
こうすると鎖骨の処理が簡単になる。
鎖骨は身体の中心で胸骨に繋がり、
外側では肩甲骨に繋がっている。
胸骨とは胸の谷間にある骨の事で、
肩甲骨とは肩と背に張り付く骨の事だ。
鎖骨と肩甲骨の関節は既に解体してる。
腕は鉈を使って胴体から切り離している。
その際に3つの骨を切断した。
肩甲骨、上腕骨、鎖骨だ。
だからすでに胴体に鎖骨と肩甲骨の関節は存在していない。
胴体と腕の切断面。その内側。
溝になっている部分にメスを当てる。
切断面から胸骨の方へと刃を滑らして行く。
喉と鎖骨の間にあった肉が落ちる。ポリ袋に入れる。
反対側の鎖骨にも同じ処理をする。ポリ袋に入れる。
鎖骨には多くの筋肉が付着している。
鎖骨が無いと人は肘を外側に向けて、
前腕を身体の内側に曲げて押し進める動作ができなくなる。
簡単に言うとそれは人が人を抱き締める時の動作だ。
指を組んで拳を天に掲げる祈りのポーズも
手の平と平を合わせる祈願のポーズも同じ様な物だ。
野生の生物ならばそれは木登りをする際の動作だ。
コアラにもナマケモノにも鎖骨はある。


鎖骨内側の肉を削ぎ落としたら、
鎖骨と胸骨の関節にメスを入れる。
鎖骨を胸骨から切り離す。
鎖骨を手で握り持ち上げる。
胸の皮と肉が同時に持ち上がる。 
メスを使って皮膚を切る。胸から鎖骨を切り外す。
反対の鎖骨にも同じ処理を施す。
あとは他の骨と同じ様にこびり付いた肉や
骨表面の骨膜を削ればこの作業は終わる。
膜と肉と皮膚はポリ袋に入れる。
綺麗になった骨は骨様のポリ袋に入れる。
これで鎖骨の処理は終わりだ。


次は肩甲骨だ。
腕と胴体の切断面には上腕骨の一部が
めり込む様にして残っている。
ペンチを使って取り出して行く。ポリ袋に入れる。
先程覚えた技はここでも大活躍だ。


肩甲骨は背骨、胸椎の横にある。
肋骨を覆う様にして張り付いている。
一部は上へと飛び出し鎖骨と連結している。
また横では上腕骨と連結して腕の関節を作っている。
肩甲骨と鎖骨と上腕骨、この3つが肩を作っている。
すでにこの身体には鎖骨も上腕骨も無い。
肩甲骨は肋骨と繋がっている訳ではないので、
周囲の肉を落とすだけで身体から外れる。


外すには背中から引き剥がす様にして肩甲骨内側の肉を削って行く。
上部から作業を始める。
鎖骨と上腕骨が無くなると、
肩甲骨と肋骨の間の肉が良く見える。
そこに尖った刃を刺し込んで行く。
肉を削る。ポリ袋に入れる。
隙間が開いたら
肩甲骨を指でつまんで剥がす様に引っ張る。
さらに隙間が開いて作業がし易くなる。
刃を奧に差し込んで行く。削いだ肉をポリ袋に捨てる。
繰り返す。すると肩甲骨が背中から外れる。
骨を綺麗にする為に肉を処理して行く。
終わったら骨をポリ袋に入れる。
もう片方の肩甲骨も同じく処理する。
ポリ袋に入れる。
これで肩と呼ばれる部分を全て解体した事になる。


次は肋骨だ。
肋骨は胸の背骨、つまり胸椎から生えている骨だ。
背中から心臓や肺を覆う様に伸びている。
側面を囲って前面で胸骨と繋がる。
心臓を守る骨の後ろが胸椎、横が肋骨、前が胸骨だ。
胸椎は12個ある。
だから胸椎から生える肋骨も第1肋骨から第12肋骨まである。
左右にあるので合計すると24本だ。
だがその全てが胸骨と繋がっている訳ではない。
胸の谷間にある胸骨と繋がっている肋骨は第1肋骨から第7肋骨までだ。
第8から第10までの肋骨は第7肋骨と繋がっている。
トナカイの角みたいな物だ。それが肋骨弓だ。
第11、第12肋骨はどの骨とも繋がっていない。
まあ胸椎とは繋がっている訳だが。


肋骨と胸骨の間にある骨を肋軟骨と言う。
名前の通り軟らかい骨だ。軟骨だ。
年を取る程固くなるが、
若いうちは丈夫なゴムな様な弾力をもっている。
肋軟骨と胸骨の継ぎ目は関節になっている。
つまり胸骨は切り取れると言う事だ。


遺体の胸部には鎖骨も肩甲骨も内臓も無い。
頭部や喉や鎖骨があった部分には穴が空き、
穴からは倉庫の無機質な床が見えている。
胸骨を切断する為には周囲の肉を遺体から切り離さなくてはならない。
その為にまず乳房を切除する。
乳房は大胸筋の上にある。
乳房の内側には乳腺や脂肪や筋膜がある。
筋肉も骨も無い。
だから簡単にメスで切り取る事が出来る。


この仕事に就いていると、
遺体に疾患を見つける事がある。
医者の様に患者の外見の変化や
症状から病気を特定する事は出来ないが、
身体の中の様子から病名を推測する事は出来る。
切り裂かれた血管や筋肉や臓器ならば並の医者以上に目にしている自信がある。
解体の途中に患部を直接目にする事も多い。
女の遺体で疾患を発見する事が多いのが、乳房だ。
病名は乳がんだろう。
乳がんに罹ると乳腺に腫瘍ができる。
特に腫瘍を見つける事が多いのが乳管と小葉だ。
乳腺は母乳を分泌する器官だ。
乳管は母乳の出口で乳首の裏側にある。
小葉は逆に乳腺の根っ子の事をいう、乳房の付けに多くある。
腫瘍が大きいと乳房を触るだけ乳がんを見つける事が出来る。
それなりの数の仕事をこなして来たが、
女の遺体を解体すると乳房に大なり小なりの腫瘍を見つける事がとても多くある。
まあ女が10人いたらその内の1人は一生に1回
乳がんになると言われているのだからそうなんだろうな。
苦い気持ちになるのは
殆どの遺体に生前乳がんに対処した後が見られない事だ。
まったく検診にくらい行ってりゃ良いのにと思うのだが、
遺体にそんな事を思っても仕方がない事だとも思う。
この女は幸運な事に乳がんには罹っていなかった様だ。
切除の途中で腫瘍は発見されなかった。
乳房を全て切り取ってポリ袋に入れる。
もう1つの乳房も切り取る。ポリ袋に入れる。
こうすると胸骨周辺の肉が削ぎ易くなる。


胸骨表面には肉が殆どついていない。
皮膚と僅かな肉をメスで同時に剥いで行く。ポリ袋に入れる。
すると肋軟骨と胸骨を繋げる靭帯が見えてくるのでこれを切除する。
胸骨につながる肋骨は7つ。左右で合計14本だ。
第1肋骨から始め関節の肉を削ぎポリ袋に入れ第2肋骨に取り掛かる。
繰り返して第7関節まで続ける。
最後の肋軟骨と胸骨の関節に付いた筋肉を切り落とすと胸骨が外れた。
骨を綺麗にしてポリ袋に入れる。


鎖骨と肩甲骨と胸骨を取り除いたら
後は肋骨と胸椎周りの肉を削ぐだけだ。
大小の刃物とヘラを使って肉と膜を削ぎ落として行く。
肋骨や胸椎は繋げたままで1本に連なる骨のままにしておく。
脊椎と脊椎とを繋げる椎間板や、
脊椎の中を通る大きな神経、つまり脊髄を切除すれば、
背骨も1個1個の骨に解体する事が出来るのだが
それはしなくていいと指示されている。
歯がゆい所だ。
脊椎までも1つ1つに解体出来たら完璧だと思う。
だが仕事としてそれを指示されていないのだから
そこまでやっても無駄手間という事になってしまう。
もし俺が趣味で遺体の解体をやっていたら完璧を求めていただろう。
脊椎も1つ1つ解体していたはずだ。
だがこれは仕事だ。仕事と趣味の違いがそこだ。
趣味の方が完璧を追求出来る。
まあ遺体の解体を趣味にする人間なんていないと思うが。
とにかく仕事は完璧でなくても良い、間違いがなければ良いんだ。
以前、プロの仕事は堅牢で
マチュアの作品は偉大だという言葉を聞いた事がある。
まさにその通りだ。


丁寧に胸椎や肋骨に付いた筋肉や膜を剥いで行く。
削いではポリ袋に入れる。
この作業をしていると不思議な気分になる。
岩の中から恐竜の化石を取り出す考古学者にでもなった気分になる。
そして子供のころ祭りに行って、
親から貰った小遣いを使ってやった型抜きの事を思いだす。
夢中になってしまう。色々な事を忘れる。
ただ骨と肉と膜を切り離す事に没頭する。
他の事は何もかも忘れる。
暫くして、肋骨と胸椎の肉を全てポリ袋に入れる事が出来た。
単純な作業だが、部位がとても大きいので時間がかかった。
肉用のポリ袋が大きな膨らみを作っている。
口を持ち上げて2回3回とコンテナの底に打ち付ける。
中身を均す。


逆さに吊るされた女の遺体は今や
片足と裂かれた腹、そして腹から飛び出す背骨と肋骨だけになっている。
胸椎と肋骨が揺れている。時計を見る。
当り前だが時間は進んでいる。進み続けている。
どうしようかと考えて手袋をゴミ箱に捨てる。
新しい物に付け替える。
恐る恐る革のケースに収められた情報端末を手に取る。
確認する。彼女から新しいメッセージが着ていた。




  「そうなんだ……。残念だね。
   じゃあさ、外での夕食は諦めて、
   私あなたの家で待ってるよ。
   あなたの仕事が終わるまで結構時間がかかりそうだから、
   私はその間にご飯、食べちゃうね。
   あなたも余裕があったら食べてしまって良いよ。
   というか、あなたの身体が心配だから途中で休憩して食べてね。
   すこしくらい家に帰るのが遅れても気にしないから。
   それで、夜はあなたの家でなかよししようね。


   あ。私怒っていないよ。
   だって、あなたが私にしてくれた事を全部覚えているから。
   だからこれくらいじゃ怒らないよ。
   今だって、私に会う為に早くお仕事を終わらそうと
   頑張ってくれているのだものね。
   私の事を大切に思ってくれているあなたの事を大切に思うよ。
   あなたは私の事を信じてくれている。だから私もあなたを信じている。
   そこが一番好きな所なの」




彼女の機嫌が悪くなっていない事に安心すると共に
彼女の優しい心遣いに涙が出そうな気分になる。
彼女の事を愛する事をこれだからやめられない。
彼女を愛した分、愛が返ってくる事は嬉しい事だ。
彼女に返事を書く。
彼女の優しさがどれだけ嬉しい事なのか、
彼女と会う事がそれだけで幸せな事なのだという事を文章にして行く。
彼女が出した計画を了承する。メッセージを送り返した。
彼女の事を考えるだけで生活に希望が持てる。
彼女の事を考えているとそれだけで時間が過ぎてしまう。それではダメだ。
彼女の事を考える為に時間を使うのではない、
彼女に会う為に時間を使おう。仕事を頑張ろう。





苛つきや悲しみが納まって行く。
心が澄んだ水の様で冷静な気分だ。


その時着信音が鳴る。
電話に出る。声は遺体回収の担当者だ。
こちらの仕事の進捗を訊いて来た。
順調に進んでいると話す。
それから残りの作業時間を計算する。
1時間半もあればこちらの作業は終わっているだろうと告げた。
相手は納得する。通話を終了する。


さて、さっさと仕事を終わらせよう。
仕事は終盤に入っている。
胸の次は腹だ。
この部分の作業はとても簡単だ。
内臓を取り除いた腹部には腰椎と肉しかない。
腰椎とは名前そのまま腰の脊椎、腹と腰を通っている背骨の事だ。
腹回りの肉をメスで切り落としてポリ袋に入れる。
腰椎の数は全部で5つだ。
剥き出しの第12胸椎と繋がっている第1腰椎から処理をしていく。
彫刻作品を制作する様な気分で肉を削ぎ落とし腰椎を形にして行く。
第1腰椎の処理が終わったら
第2、第3、第4と進めて第5腰椎を処理する。
肉をポリ袋に入れる。
骨にこびり付く筋肉と膜を処理する。ポリ袋に入れる。
短時間で腰椎の処理を終えた。
腰椎周辺の肉の解体という作業は単純な物だ。
それ踏まえてもここに来て作業の速度が上がって来ている。
肉を骨から削ぎ落とす事が上手くなって来ている。
仕事の勢いというのは大事な事だと思う。
技術力が高まっているのか、
それとも集中力が増しているのかは判らないけれど。
この勢いに乗って作業を終わらせてしまおうと思う。


腹部の処理が終わったら、
次は大腸の末端や直腸や生殖器が納まっていた下腹部の解体だ。
こちらも内部の器官はすでに切り取ってある。
肉と膜を削いだ第5腰椎の後ろにはお尻の脊椎である仙椎が繋がっている。
仙椎は5個あるのだけれど、脊椎と脊椎と繋ぐ椎間板を持っていない。
つまり1個の骨として融合してしまっている訳。
仙椎の後ろには最後の脊椎である尾椎が付いている。
尾椎は人によりその数が違う。3個から6個とバラバラだ。
だけれど尾椎も仙椎と同じ様に1個の骨になっている。
どちらも子供の頃は複数の骨なのだけれど、
人体の成長過程で1個の骨へと融合して行く。
仙椎と尾椎は腰や股を形成する骨である骨盤に含まれている。
ズレるとか歪むとか美容とか痩身とか何かと話題になるあの骨盤だ。
仙椎の下には尾椎があり
仙椎の左右には寛骨(かんこつ)が1個ずつ繋がっている。
寛骨も元は3個の別々の骨なのだけれど、成長過程で1個の骨になる。
そして人体が更に成長すると仙椎と尾椎と寛骨は1個の骨として融合する。
融合した骨を骨盤と呼ぶ。
元は14個から17個の骨なのに人が成長すると1個の骨になる訳だ。
だからここを解剖すると、遺体の大まかな年齢が分かる。
若い程、骨の数が多い訳。
遺体の骨の数や形状を把握する事は仕事上とても重要な事なので、
いつしかこんな事も覚えてしまった。


そんな骨盤に付く肉を切り落としポリ袋に入れる。
骨膜を削ぎ落としてポリ袋に入れる。
骨盤周りの殆どの肉を削ぐ落とす、
唯一大腿骨と寛骨を繋ぐ関節周りの肉や腱は切除していない。
ウィンチとフックに繋がっているのは残された脚だけなので、
脚の関節を解体すると、腰より上の骨が全て地面に落下してしまうからだ。
骨盤の他の部位をメスとヘラで綺麗にする。肉と膜をポリ袋に入れる。


こうして脊椎、背骨と呼ばれている人間の骨の全てが露出した。
すでにポリ袋に入っている4個の頸椎、
遺体に付いている3個の頸椎、12個の胸椎、5個の腰椎、
元々は5個の仙椎、元々は3個から6個の尾椎。
合計で33個程だ。
脊椎は波を打つ様に湾曲している。
自分がやった仕事に対してこんな事を思うのもおこがましいのだけれど
人間の背骨は綺麗な物だなと思う。
ウィンチにぶら下がる遺体は、
肉がついた片足と骨が露出した骨盤、
骨盤から伸びる脊椎しか残されていない。
軽くなった遺体は風などなくともちょっとした振動で揺れ蠢く。


骨様のポリ袋が入ったコンテナを遺体の真下に運ぶ。
大腿骨と寛骨の関節に刃を入れる。
肉を切り離して行く。ポリ袋に入れる。
大腿骨と骨盤の関節を解体する。
それが終わると骨盤と脊椎は大きな音を立ててポリ袋の中に落下した。
とても大きな音だ。倉庫に反響し続けている。
人の骨は重くて堅い。


ポリ袋の中から寛骨を探して、
関節だった場所に付いている肉と膜を削ぎ落とした。
ポリ袋に入れる。
これで骨盤の処理は終わりだ。
最後に残された脚を解体する。


ウィンチにはもはや片脚しかぶら下がっていない。
脚は円を描く様にゆっくりと揺れている。
脚を抱きかかえて2本のフックから外していく。
かかとに開けた穴に通るフックから外す。
腕に脚の重みを感じる。
次にふくらはぎに開けた穴を通るフックを外す。
脚の重さが腰に伸しかかる。
ゆっくりと地面に置く。
粘度ある血液がフックから1滴2滴と滴り落ちる。
ウィンチには血以外の何もぶら下がっていない。


足も手と同じ様に指先から処理をする。
脚と腕は同じ様な構造をしている。
足の指を形成する19本の骨。
足とスネの関節である足首を作る7個の骨。
前腕と同じ様に2本の骨で作られるスネ。
上腕と同じく1本の骨で作られる太もも。
この様に腕と脚は似た様な構造をしている。
だだ大きく違う所が1つある。それは肘と膝だ。
肘は前腕にある2本の骨のうちの1つと上腕骨が組み合わさり作られている。
膝はスネにある2本の骨のうちの1つと大腿骨で関節を作り
更に大腿骨は上に乗ると膝蓋骨と関節を作っている。
膝とはこの2つの関節が組合わさった物の事を言う。
膝蓋骨とはいわゆる膝の皿の事だ。
肘に皿なんて物は無い。これが腕と脚の大きな違いだ。


まずは足首に刃を入れて
スネから足を切り離してしまう。
前腕と手の関節は
前腕にある2本の骨のうち1本である橈骨が手を支える事で出来ていた。
前腕にあるもう1本の骨である尺骨は橈骨を下から支えている。
まるで漢字の【人】の様な状態だ。
対して足とスネの関節は、スネを形成する2本の骨、
脛骨(けいこつ)と腓骨(ひこつ)が
足の距骨(きょこつ)と繋がる事で出来ている。
距骨の周辺には6個の骨があり、それらが足首を作っている。
腕と脚はこの様に関節の仕組みにも違いがある。
この違いが生まれる要因は関節の角度の違いだろうと思う。
腕は手と水平に繋がっているのに対して、
脚は足と垂直に繋がっている。この違いだ。
プロならばこういった細かな違いを見逃しては行けないと思う。
鮭と銀鮭を同じ魚として扱う漁師も料理人もいないだろう。
そういった事と違いが無い。
その方が良い仕事が出来るはずだ。


メスを使ってスネと足の間に切り込みを入れる。
骨にそって少しずつ肉を削ぎ神経や腱を切断して行く。
ポリ袋に入れる。
終わったら足を引く抜く。外れた。
こうして脚から足が切り離された。


足の処理は手と同じだ。
まずは爪を処理する。
刃を爪の裏側に当てて肉と一緒に指から削ぐ。
5つの指で同じ事をしたら、爪の裏に付いた肉をこそぎ落とす。
ポリ袋に入れる。爪は爪様のポリ袋へ。
クーラーボックスに入っているもう1つの足は
あのまま処理する必要はないのでこれで全ての爪の処理が終わった事になる。
爪を入れたポリ袋の入り口を縛る。それ以外用のコンテナに入れる。
これで遺体のそれ以外の部分の処理が完了した。
コンテナのフタを閉めて中身が出ない様にフタをロックする。


次に指と指の間に刃を入れて間の肉を裂いて行く。
足首の関節を作っている骨と指の間に刃を入れて指を切り離す。
親指は内側楔状骨と繋がり、
人差し指は中間楔状骨、中指は外側楔状骨と繋がっている。
3つの楔状骨はもちろんそれぞれ別個の骨だ。
薬指と小指は立法骨と言う1個の骨と繋がっている。


親指と人差し指の間にメスを入れて肉を裂く。
内側楔状骨に当ったら刃の向きを親指の外側に変える。
力を籠めて押し込む。骨と骨の間に刃を入れる。
親指が足から外れる。残りの指でも同じ事を繰り返す。
こうして足から指が外れた。
切り落とした指を処理する。
鉛筆をカッターで削る様に、
爪の無い指先の肉をメスを使って削り取って行く。
ポリ袋に入れる。
足の指も手の指と同じ様に4つの骨で作られている。
親指だけ骨が3つなのも同じで骨の名前も手と同じだ。
肉を落として膜を削る。
肉は肉用のポリ袋に、綺麗になった骨は骨用のポリ袋に入れる。
繰り替えして5つの指をそれぞれ肉と骨に解体する。


指が終わったら足首の関節を作っていた部分を解体する。
手を解体する際に覚えた新しい技術をここでも使う。
ペンチを足の付けに突っ込んで骨を挟む。
力任せに骨を引き抜いて纏めて肉と皮膚も切り離す。
いま抜いたのは足首を作る7つの骨の1つ、距骨だ。
距骨はスネの2本と繋がって関節を作っている。
距骨は大昔、身体を構成する骨としてだけではなく、
道具としても使用されていた。道具とはサイコロの事だ。
距骨は角張って四角形に近い形をしている。
だからサイコロとして使用するのにも加工が最小限で済む。
手にも入れ易い。そして丈夫だ。
つまりサイコロにするのには打ってつけだったと言う訳。
当時も今と変らず賭け事をする時にサイコロを使った。
賭け事は大昔、占いや呪いと一体化した物で、それらは神事と等しく、
神事は祭りと同じ事で、祭りは政治とも繋がっている。
サイコロはとても重要な道具だった。そこに骨を使った。
多かったのは羊や牛の距骨だ。
だけれど俺は人の距骨も使われていたと思う。
例えば生け贄になった人間の骨や、
戦争で殺した敵対する部族の骨だ。
敵の生首や頭の皮を戦利品として持ち帰ったり、
手に入れた数が名誉の証になる時代もあった。
南米には人間の大腿骨を使った笛がある。
古代のラマ教では儀式の際、人の頭蓋骨で作った杯を使用していた。
頭蓋骨を使った太鼓も存在している。インドの物だ。
だから人骨をサイコロとして利用する事は不思議な事ではない。
この仕事に就いているとそういった事を考えてしまう事が多い。
その度に嫌な気持ちに成る。
人間の骨を道具として使うという事は、
死者を冒涜している事になるのではないか?
そういった考えが頭をよぎり、悲しい気持ちに成る。
人間は残酷な生き物だなと思う。
そんな道具を賭け事や占いや祭りや政治に使用していたと考えると
嫌な気持ちに成ってしまう。


上手く距骨を引き抜けたら、
周りに付いた皮膚や肉や膜をヘラやメスで削ぎ落としてポリ袋に入れる。
骨は骨用のポリ袋に入れる。
次は踵骨だ。踵骨は名前の通り足のかかとを形作っている骨だ。
ペンチを突っ込んで引き抜き同じ様に処理をする。
ポリ袋に入れる。
次は舟状骨 。手にも同じ名称の骨が存在する。
処理をする。ポリ袋に入れる。
次に処理するのは足の指と繋がっていた4つの骨だ。
楔形骨(けつじょうこつ)と立方骨だ。
楔形骨は3つある。それぞれ外側、中間、内側という分類をされている。
立方骨は足の外側にあり、薬指と小指、
外側楔形骨と舟状骨と踵骨と繋がってる比較的大きな骨だ。
それぞれを処理して行く。
皮膚と肉と膜と削ぎ落としてポリ袋に入れる。
骨は骨用のポリ袋に入れる。
これで足の処理は完了した。


次はスネを膝から切り離す。
膝は2つの関節で出来ている。
太ももとスネの関節、
太ももと膝の皿の関節だ。
まずは大腿骨の上に乗る膝の皿、膝蓋骨を切り離してしまう。
膝蓋骨が関節を作っているのは太ももの骨、大腿骨とだけだ。
なのだけれどスネを形成する2本の骨の1本、脛骨とも筋肉で繋がっている。
なのでまずは膝蓋骨と脛骨を繋ぐ筋肉を切断する。
切断したら次に刃をスネの方から皿の裏にめり込ませて行く。
周りの皮膚も一緒に剥いで行く。
筋肉を切り落とし刃を膝蓋骨と大腿骨の関節に食い込ませる。
力を込める。膝の皿が脚から外れる。
膝蓋骨に付いた皮膚と肉と膜を綺麗に剥がしてポリ袋に入れる。
骨も専用のポリ袋の中へ。


次は大腿骨と脛骨の関節を切断する。
膝の皿を切除するとこの部分を簡単に確認する事が出来る。
関節に刃を入れて行く。
じっくりゆっくりと力を入れて肉を切断して行く。
切断して行く。外れた。スネが地面に転がる。
スネが太ももから外れた後は簡単だ。上腕と同じだ。
脛骨ともう1つの骨、腓骨の間に鉈を入れて、
薪を割る様に地面に打ち付ける。
スネが真っすぐに裂けて、2つに別れた。
後はそれぞれに付いた肉を処理して行く。
ポリ袋に入れる。骨も骨様のポリ袋に入れる。


残された太ももを処理する。
太ももは大腿骨と言う1本の骨と周りに付く膜と肉と皮膚で出来ている。
それらを剥ぎ切り取って行く。ポリ袋に入れる。
作業は単純なのだけれど、大きいので時間が掛かる。
大腿骨は人骨の中で最も長く最も大きい。
付いている肉の量も多い。
時間をかけて処理する。ポリ袋に入れる。
綺麗になった大腿骨を眺める。
これを手にしていると子供の頃に見た原始人のアニメを思い出す。
少し面白い気分になる。
主人公の男の子が大腿骨に似た骨を武器に悪者と戦っていた。
まあ、あの骨は人骨ではなくてマンモスか恐竜の骨だと思うのだけれど。





こうして丸々1つあった女の遺体を全て解体した。
今や遺体は、
内臓や眼球や脳を含む器官と、
皮膚と筋肉と骨膜を含む肉部分、
骨、
それ以外の部分に分解された。
それ以外の部分とは体毛と歯と爪の事だ。
ポリ袋は6つ。器官、肉、骨、体毛、歯、爪に別れている。
ポリ袋を収めるコンテナは4つだ。
おまけに歯車が付いた片足を冷凍保存しているクールボックスが付いてくる。
仕事とはいえこれは少し残念だ。
増えた仕事が彼女との夕食の時間を
奪ったという事を抜きにしても残念だ。
やはり遺体の全てを完全に解体する事にやりがいを感じる。
自分の仕事が完璧で
プロフェッショナルな仕事をしていると言う自負を与えてくれる。
それが出来ないのだから、少しだけ、残念だ。


肉用と骨様のポリ袋の口を縛る。
コンテナのフタを閉めてロックする。
4つのコンテナと1つのクールボックスを倉庫の端に並べた。
これで解体作用は終了。コンテナの中身に俺はもう関わらない。
回収を担当する同僚に後を任せる。
残る作業は後片付けだけだ。


手袋を新しい物に交換する。
古い物はゴミ箱に捨てる。
一番初めにウィンチに付いた2つのフックを外す。
後片付けをしている途中にこいつに頭をぶつけたり
先端の鋭い刃が首に刺さって死んだらあまりにもマヌケすぎるからね。
ウィンチからフックを外す。重い。床に置く。
壁に設置されたウィンチのスウィッチを入れる。
鎖が音を立てて天井に上がって行く。
これで頭をぶつける心配は無い。
床に置いたフックを1つずつもって流しに場に運ぶ。
水道を捻って水を勢いよく出す。
こびり付いた血を流して行く。
洗剤と使い捨てのタワシを使って洗い流す。
使用前と変らない状態に戻す。
蛇口を閉める。
使い捨ての布でフックに付いた水滴を拭き取る。
そしてダスターに消毒用アルコールを染込ませて拭く。
終わったらフックを道具棚に置く。後は自然乾燥させるだけで良い。


同じ様にして作業に使った道具を消毒して行く。
鉈にペンチにヘラにノミに金槌に壊れた抜歯鉗子だ。洗って拭いて消毒する。
使った布やダスターやタワシはゴミ箱に捨てる。
メスは使い捨ての物を使用しているので、専用のゴミ箱に捨てる。
最後にゴーグルを洗って消毒する。全てを所定の位置に置く。
終わったら装着している手袋をゴミ箱に捨てる。
刃物用のゴミ箱と手袋やダスターが入ったゴミ箱にそれぞれフタをする。
コンテナの横に置く。2つのゴミ箱も回収の対象になっている。


これで後片付けは終わりだ。
手を上に挙げて椎骨を伸ばす。気持ちが良い。
今日は色々な事があったけれど、
それでも仕事を終えた時は気分が良い物だ。
壁の時計を見ると
思ったよりかなり早く仕事を終えていた事に気が付く。
コンテナの回収までに時間がある。
少し考えて夕食にしてしまおうと決める。
彼女にメッセージを貰った時から、
言う通りに夕食は採るつもりだったのだけど
帰宅中に運転しながらパンでも齧れば良いかと思っていた。
だけれど今は、時間がある。
だから夕食をここで作って食べてしまおうという訳。
倉庫をぐるりと見回して仕事に不備が無い事を確認する。
流し場で洗剤を使って手を洗う。
これ以降今日は遺体にも道具にも触る事が無いので
入念に手洗いをする。3分かけて腕まで綺麗にして行く。
タオルで水滴を拭き取ったら
専用のボールに消毒液を入れる。
両方の手の甲を下にして透明な液の中に沈めて行く。
指の先から腕までをきちんと浸す。
しばらくそのままで目を瞑る。
手が洗浄されて行くのを感じる。
手を持ち上げる。消毒液揉み込む。
ボールの中身を流し場に捨てる。
情報端末をズボンのポケットに入れる。
階段を上る、扉を開けて1階に出た。
休憩室に向かう途中のエントランスから外が見えた。
真っ暗だ。外は寒いだろうな。


休憩室に入る。
冷蔵には比較的保存がし易い食材を入れている。
昼から仕事が始まる事も多く、
そうすると夕食はここで食べる事になる。
台所もあるのだからと健康の為に自炊する事にしている。
その為の食材だ。
肉や魚は冷凍庫に保存してある。
そこで思いだした。
今は冷凍庫には何もない。
歯車がねじ込まれた片脚を一時的に冷蔵庫に入れていたからだ。
その際、中身を冷蔵庫に移していたのだった。
ああ、冷凍庫を消毒しなくてはならない。
想像する、今から地下に下りて手袋して消毒液を持って……。
仕事を終えた気分の心にこれは厳しい。
食材を冷凍庫に戻す事は諦めて、消毒は明日行う事に決めた。
これで気が楽になった。


どうせだし冷凍されていた材料を使ってしまおう。
冷凍庫は開けない様して冷蔵庫の中身を確認する。
冷凍されていた肉を見つけた。
これを食べてしまおう。
電子レンジで肉を解凍する。
その間に野菜室からニンニクを取り出してみじん切りにする。
フライパンを出してガスコンロの上に乗せる。
弱火にしてオリーブオイルを入れる。ニンニクを入れる。
こうする事で油にニンニクの良い匂いを移る。
その際低温で温めるのが大切だ。
強火だとニンニクが焦げて風味が悪くなる。
続いて小松菜とタマネギと赤いパプリカを取り出す。
玉ねぎは半分に切ってから薄切りにする。
フライパンに入れてオイルと和える。
肉の解凍が完了する。
肉は厚切りの豚ロースだ。脂身が程よく付いている。
肉を2cm程の大きさに切って鍋に入れる。
ニンニクと油と良く絡める。
レトルト米飯をレンジに掛ける。
小松菜とパプリカを適当な大きさにきってフライパンに入れる。
全ての食材に火が通るまで炒める。
途中でミルで擦り潰した岩塩と黒コショウを振りかける。
食欲を誘う匂いが部屋に充満する
今になってやっと自分が空腹である事に気が付いた。
完成したらフライパンの中身を皿に乗せる。
レンジから米を取り出して茶碗に盛る。


今日の夕食は
厚切り豚ロースの野菜炒めだ。
肉の褐色と小松菜の緑とパプリカの赤が目に楽しい。
料理を食べる前に情報端末に付いたデジタルカメラで写真を撮る。
写真をウェブにアップロードして公開する。
インターネットを通じてやりとりする仲間達がいる。
彼らには自分の職場の事を語る事は出来ない。
だけれど、こういった日々のちょっとした出来事ならば伝える事が出来る。
その1つが自炊した料理の写真だ。
写真を公開すると見てくれる人がいたり、
たまに美味しそうだとコメントをしてくれる人が居て、
それが良い楽しみになっている。
今日の写真には誰かコメントをくれるだろうか?


夕食に手を合わせて1人で頂きますと言った。
箸を持って食べ始める。
肉とニンニク風味のオイル、きつね色になった玉ねぎが絡む。
口に入れると玉ねぎの甘みと共にニンニクの香ばしい匂いが広がる。
急いで白米を掻き込む。美味しい。
小松菜を食べる。小松菜独特の苦みが口の中をスッキリとさせる。
パプリカは酸味を与えてくれる。白米を食べる。食べる。
あっという間に食べ切ってしまった。


使った料理器具や皿を流し台の中に置いて水を張っておく。
こうすると食器洗いがし易くなる。
レモンコーヒーを入れる。飲む。
口の中がスッキリとする。
脂っこい料理の後には最適なお茶だ。

時計を見る。もう少しで同僚がやってくる時間だ。
コーヒーをゆっくりと飲む。
お腹が落ち着いたら食器を洗う。
そろそろ回収担当の同僚がやってくる時間だ。
レモンコーヒーをもう一杯飲む。
今度は鍋で温めた牛乳と砂糖を入れる。
コーヒー、レモン、牛乳、砂糖だ。
これもこれで美味しい。
レモンクリームを使ったタルトや
柑橘系のマカロンを思いださせる甘さと酸味だ。
コーヒーの苦みがレモンの切れ味とほのかな甘みををより際立たせ、
後味をすっきりと穏やかな物にしている。
砂糖とレモンの甘さが組み合わさり甘みを深く複雑にしている。
牛乳が全てを包んで円やかな舌触りを作る。


時計を見る。同僚がやってくる時間だ。
こない。まあ、5分、10分の遅れならまあある事だ。
5分後。来ない。10分後。まだ来ない。
休憩室の窓から外を見る。真っ暗だ。
電話を掛けようかと端末を手に取る。
着信音。画面を見て相手を確認する。
向こうから電話を掛けて来た。
通話を開始する。もしもし、どうしたんだ?


電話は1分ちょっとで切られてしまった。
手にした端末を見つめる。床に投げたくなる。
そんな事をしてもなんの得にもなんねーからしねーんだけど。
深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとする。
口で吸う息が震える。


同僚からの用件は予定通りの時間にこちらへは来れないと言う事。
今よりも更に遅れるという事だ。
理由を尋ねたがちょっとしたトラブルとしか答えは返って来ない。
それ以上訊く事は職務上許されていない。
それに知った所で俺が何かを出来ると言う訳でもない。
悲しくなる。どうしよう。彼女と過ごす時間が更に減る。
電話か……。電話かなにかで彼女に状況を伝えるべきだ。
伝えよう。


彼女に電話を掛ける。
呼び出し音が鳴る。繋がらない。
掛ける。彼女は出ない。
どういう事だろう。
急いでメッセージを作って彼女に送る。
同僚にトラブルがあって未だに仕事を終えていない事。
だから帰宅するのが予定より更に遅れる事。
それについての謝罪。


送った後に溜め息を吐く。返信が来た。
電話に出てくれないのに、何で直ぐに返信が来るんだ。
彼女からのメッセージを読む。
彼女なら許してくれるはずだ。彼女は何時だって慈悲深いから。




   「なんなのそれ?
    私だって仕事がいそがしいのに
    頑張って予定に間に合う様にしているんだよ?
    私は何時だってあなたに対して真剣で、
    あなたと仲良くしようとしているのに
    あなたはそれに答えてはくれないんだね?
    私の事を軽く考えているんだね。
    悲しくなったよ。
    あなたの家にいたけれど、もう帰るね。
    私の事はいいから仕事を頑張ってね。
    じゃあね、ばいばい」




背中と腋に汗が流れる。
心臓の鼓動が速くなる。
汗ばむ指で返信を書く。
そんな事無いんだ、いつも君の事を思っている。
自分の全て投げ出して君に何もかもを捧げたいと思っている。
だからバイバイとか悲しい事を言わないで欲しい。
送る。返事は返って来ない。


泣きそうになる。
仕事をほっぽりだして彼女の元に駆けつけたい。
だけれどそれは出来ない。
仕事を投げ出す事は出来ない。
仕事は日常を支えてくれる大切な物だ。
日常がなかったら彼女とさえ会えない。
真剣に思いを伝えて誤解を解けば彼女なら分かってくれるはずだ。
分かってくれるはずだ。
放り出したいが、いまは彼女に許しを乞うより
仕事を優先させなくてはならない。


遺体が入ったコンテナを同僚に引き渡さなくてはならない。
そこまでが俺が会社から任されている仕事だ。
社会との関わりあいの仕方だ。
全うに仕事をやり遂げなくてはならない。
投げ出したくなるのを堪える。
仕事は日常の為、日常があって彼女との幸せがある。
日常を彼女に捧げる。
彼女の為に仕事をしているのだと強く思う事にする。
今は怒っている彼女も、
俺が彼女の為に日常を過ごしていると理解すれば許してくれるはずだ。
思いに応えてくれるはずだ。
だから仕事を頑張ろう。仕事を頑張ろう。


といっても、俺に残された仕事は、同僚をただ待つ事だけだ。
時計を見る。時間は進み続けている。
なのに同僚はまだやってきていない。
時間を見る。時計は進み続けている。
まだやって来ない。
泣きそうだ。お腹が痛い。彼女に会いたい。
許しを得たい。


同僚の電話から1時間以上が経った。
頭を抱える。
休憩室の窓に光が当る。
見つめる。車のヘッドライトだ。
やっと来やがったのか。


もう何もかもが遅い。
ゆっくりした足取りでエントランスに向かう。
ガラスの向こう側に知っている顔がある。同僚だ。
自然と溜め息がでた。額に掻いた汗を拭う。
鍵を開ける。同僚を室内に入れる。


同僚はへらへらと笑いながらすまないと言った。
もう怒る気にもなれない。
どうしたんだ?と尋ねる。
自分で聴いても分かる位に普段よりも低い声だった。
訊いても答えは返って来ないだろうが
一応の社交辞令だ。
同僚は笑って自分の片腕を掲げた。
腕には包帯が巻かれている。
同僚はでも仕事は大丈夫ですのでと笑った。
結構な大怪我だと思う。良く笑っていられるもんだな。
原因を訊いても答えは返って来ないだろう。
同僚に呆れながら2人で地下に向かう。
同僚はコンテナを持ち上げて駐車場の車に運ぶ。
仕事を終えるを持つ。
手伝う事は許されていない。
正確に言うと回収に使う車を見る事を許されていない。
互いの顔を見る事は許可されているのにそれは不思議だなと思う。
回収した先はそれぞれのコンテナの処分所なのだろうか?
多分違うと思う。
今コンテナを運んでいる回収担当の同僚は
別の人間への橋渡しの様な役目を担っているのだと思う。
処分する場所にコンテナを運ぶのは別の人間のはずだ。
遺体を解体する場所と処分する場所を共に知っている人間がいる事の危険性。
その間に別の人間が入り遺体の情報を曖昧にして、
代わりに処分に関わる人間が増える事での危険性。
それと人件費の上昇。
どちらの方がリスクが大きいかを考えて
ボスならば前者の方が危険だと判断すると思う。


同僚の仕事が終わる。
エントラスまで送って鍵を閉める。
少しすると車のエンジン音が聞こえた
山に響く音がやがて小さく鳴っていく。


地下に戻って周囲をみる。
やり残しは一切無い。
電気を消して一階に出る。地下への扉に鍵を掛ける。
休憩室に戻って情報端末を手に取る。
彼女からの新しいメッセージは届いていない。
ジャケットを着る。
コンロのガスを消し忘れていないか確認する。
休憩室の電気を消す。
エントラスの鍵を開ける。
外に出る。寒い。暗い。心は空しい。
とても静かだ。星は空一面に広がっているが嬉しくも何ともない。
扉を施錠する。駐車場に向かって車に乗り込む。
家に帰る。


川沿いを走って秋川街道に出る。
駅の方に向かう。
バス会社の車庫を越えて道を曲り都道から住宅街に入る。
駐車場に車を止めて鍵を使ってエントランスに入る。
エレベーターを呼び出して乗り込む、11階で下りる。
玄関の鍵を開けて自宅に入った。


リビングの明かりも付けずに服を脱ぎ散らかして、シャワーを浴びる。
今日かいた汗と一緒に何もかもを洗い流したかったからだ。
彼女からは電話もなければ新しいメッセージも着ていない。
熱湯を頭から被る。
頭を顔を身体を洗った。
タオルで身体を拭って白い寝間着を着る。


冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
心にたまる何かをビールで腹の中に押し流そうした。
リビングのソファーで飲もうと電気を付ける。
テーブルの上に紙とペンが置かれている事に気が付いた。
もちろん、朝自宅を出る時には無かった物だ。
缶ビールを床に落とす。
テーブルに駆け寄る。彼女からの置き手紙だ。




   「おかえり。おつかれさま。

    
    ひどい言葉を送ってごめんね。
    なんだか悲しくなって感情的になっていたの。
    少しあなたを試したのもあるかもしれない。
    だからね、
    あなたが直ぐに送ってくれたお返事、嬉しかったよ。


    今日は一緒に食事をする事も
    会う事も出来なかったけれど、また今度にすれば良いものね。
    それこそ明日にしたって良いのだし。


    だからその日の為に乱れた生活を送ったりしないでいてね。
    私、あなたが病気になったり、
    仕事が忙しくて身体を壊したりしたら悲しくなるんだからね?
    このメッセージを受け取っても
    返事を送ったりしなくていいから、今日は大変だったのだから
    いまはゆっくりと静かに休んでね。


    おやすみなさい」




涙が出て来た。彼女の優しさはなんて深く暖かい物なのだろう。
彼女の事を愛している。この愛をどう表現すれば良いって言うんだ。
全てを彼女に捧げていいと心底思える。愛している。


心が軽くなる。明るくなる。自信が湧き出て
日々の生活に立ち向かう勇気が溢れる。
不思議だ。今日は彼女に会えなかった。昨日も一昨日もだ。
なのに、何時かは彼女に会えるのだという思いに確信を抱くと
心がこんなにも変って来る。
きっと言葉で表すならば明日への希望とかいった陳腐な物だ。
言葉では陳腐な物でも、実情が陳腐とは限らない。
俺は今、それを確信した。
酒を飲む気が消えて行く。
健康の為に身体を休めよう。



仰向けに寝て目を瞑る。
自分の心臓に両手の平を当てる。
鼓動が少しだけ速くなっている。でも暖かい。
きっと彼女の事を考え続けているからだ。
明日こそはなんとしても仕事を時間通りに終わらせよう。
作業にはもっと工夫出来る箇所があるはずだ。
今日は手足の関節を解体する際に
ペンチを使って強引に骨と肉と皮膚を切り離すと言う技術を覚えた。
一度閃けば、なんで今まで気が付かなかったのだろう?という単純な方法だ。
似た様な事は他にもあるはずなんだ。
肺をもっと簡単に取り出す方法があるかも知れない。
大腿骨の肉を削ぐ時間を縮める方法があるかもしれない。
抜歯をまとめて行える方法があるかもしれない。



仕事の為に仕事をするのではない、
彼女の為に、彼女と会う為に仕事をするのだ。
彼女を裏切りたくない。これ以上悲しませたくない。
彼女の事を信じて、彼女に信じてもらえるだけに幸せを感じる。
そう考えると毎日の仕事に工夫を凝らして
やり抜いていこうとする気力が涌いて来る。


そうこう考えているうちに眠気が心身を覆う。
まどろみの瞬間は大好きだ。
まどろみとは意識が1つ1つ自分から切り離される瞬間の事だ。
自分の身体がこの世界から消えて行く様な、
すこし怖いけれど心地の良い瞬間だ。
今この瞬間にも1つの意識が消える。更にもう1つ。
まるで意識と共に自分の身体の部位が暗闇の世界へと
切り離されて行く様な感覚を覚える。またもう1つ。1つ。
眠りは暗闇の世界だ。
1つ。1つ。
彼女の事を考える。
1つ、1つ、暗闇が身体を覆って行く。切り離される。
彼女との幸せを思う。
意識がまた1つ、眠気の闇に飲込まれる。
幸せを感じる。1つ。
1つ。1つ。
彼女の為に明日を生きよう。1つ。
1つ。1つ。1つ。
意識と身体が暗闇に覆われた。1つ。
飲込まれる。
最後の1つ。


切断された。


獣共こうしてまだ見ぬちに吼えるのだろう?
おわり


Gone With The Wind/Art TatumBen Webster
風と共に去りぬ/アート・テイタムベン・ウェブスター






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