クラウドヘッド+2

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俺の部屋のカーテンは彼女のワンピースにある刺繍のブラウンだ。
俺の部屋のレースは彼女のワンピースの藍色だ。
俺の部屋のカーペットは彼女の靴のベージュだ。
俺の部屋のソファーは彼女の下着の薄い緑色だ。



学校。食堂。三時。遅めの昼ご飯。
「私達の生活は全て物質で覆われているでしょ。
 だからそれは新しい物質が発見されると、
 私達の生活が大きく変る事を意味しているの」
彼女がその細い首にしているブレスレットの石を、
彼女の右手にある親指と人差し指と薬指が触る。
石は青い。きっとベラスケスが書いたフェリペ4世と
マルゲリータ王女が存在した時代の、
スペインの北側、カンタブリア海の青さだ。


「もちろん、物質といってもそれだけでは使えないから
 人々が使い易い様にするの。
 はるか昔から人類に親しまれていた鉄だって、そのままだったら、
 酸素と鉄の固まりでしょ。
 その酸化鉄も、陶器や、それこそ人類最初期の名画と言われている、
 フランスのラスコー壁画に顔料として使われているけれど」
彼女はブレスレットの石を同じ指で触り続けている。
石がかけられた、プラチナの鎖の白さは、スーラが点画で描いた、
カフェコンソールを舞台にフレンチカンカンを踊る、
踊り子のスカートの白さだ。


「酸素と鉄自体を引き離して製鉄していくわけだけど、
 それには大量の木炭が必要だったの。高温が必要だから。
 だからヨーロッパや中国では、
 大量の鉄を必要とする戦争が起こると1つ1つ山や森が消えて行ったの」
彼女の指が石から離れる。
彼女の指先に載る小さな爪は、俺が見た事も無い真珠の桃色だ。


「酸化鉄は、人類最初期の名画であるラスコー壁画群……そうフランスの。
 赤土や、動物の死骸からとった油、血液を混ぜて描かれたあの絵は、
 自分達では分からぬ物を描く事で把握しようと、
 自分達で利用出来る様にしようとした、昔の人達の結果なのよ。
 あの絵の主成分は酸化鉄なの。
 鉄は人類が最も親しんだ材質の1つなのよ」
彼女の肩に乗っていた、彼女の髪の毛が背中に落ちる。
彼女の髪の毛は、ドガが書いたバレエダンサーの髪のブラウンだ。


「それがマテリアル工学ってこと?」
「うん」
彼女の横顔を照らす陽の色は、太陽のオレンジだ。


「もちろん合金だけじゃないのよ?
 ポリカルボナート樹脂の、あなたのそのバッグもその成果。
 今さらジュラルミンで出来たケースなんて重くて持てないでしょ?」
ゼロハリバートンは、アメリカ各地を飛び回るビジネスマンが、
自分の大切な書類を守る為に鞄を作った所からはじまる。


おれの横顔を照らす陽の色は、無意味な白さだ。


「他にも生体材料、歯、インプラントに使う材料や、人工骨。
 すでにある材質を原子レベルで解析して、
 メゾスコピック領域の制御からあたらしい材料を開発したり、
 イオンビームを使って半導体内部を分析して、
 材質の腐食や劣化の改善を目指して……」





食道の先に繋がるのは倉庫番にして我らの料理人、胃だ。
口で噛み砕かれた食物は、約30秒程で食道から胃に送られる。


胃は腹式呼吸の際に大きく動く横隔膜の下に位置する。
後ろに脾臓、少し後ろの下部には、
十二指腸を補佐する膵臓とそれを繋ぐ膵管が存在する。
アルコールの分解を司り、十二指腸に胆汁を送る肝臓は右にある。


胃は左から右に大きく曲がりアルファベットのCを描いている。
内側の小文字のcが小彎(しょうわん)で、外側の大文字のCが大彎だ。


食道と胃の結合部、食道に対する門番が噴門で、
胃の十二指腸に対する肛門が幽門だ。
幽門は胃と繋がる幽門洞と、十二指腸に繋がる幽門管に分けられる。
幽門洞は名の通り消化された食物に対する待機場所を持ち、
幽門管は名の通り消化された食物に対する順路を持っている。
待て、通れ、落ちろ。動かされている。


この2つの中間溝は筋肉の連続した細かい動き……括約筋により、
それ以前の消化器とそれ以降の消化器を隔てている。
待て、通れ、落ちろ。動かされている。


「ね、イタリアに行って来たんでしょ?綺麗だった?どうだった?
 それとも評判通りゴミだらけだった?今度はあなたが話してよ」
「うん、一番最初に行った寺院が綺麗で……
 でも一番感動したのは、ウフィツィ美術館、フィレンチの……で見た
 ボッティチェッリが描いた東方三博士の礼拝が、
 水平に置かれた、鞘絵として書かれた奴が、とてもすごくて……」
俺の高揚した頬の赤は、彼女のパウダータイプのチークカラーの色だ。


彼女が鏡を見る、ボッティチェッリがカンバスを見る。
彼女が筆を取る、ボッティチェッリが筆を取る。
彼女が頬にチークを描く、ボッティチェッリが白紙にメディチ家の面々を描く。


メディチ家……、メディチ家……、メディチ家……、メディチ家……、
当時の権力者だ。
聖母と、キリストと一緒に描かれている、権力者だ。
ボッティチェッリは彼らに保護されている。
俺は彼女に保護されている。
ボッティチェッリが彼らに従っている、俺は彼女に従っている。


嘘だ。
彼らはボッティチェッリを愛している、
ボッティチェッリも彼らを愛している。
俺は彼女に愛されている、俺も彼女を愛している。


胃の下にある膵臓と右にある肝臓は二人の父親だ。
二人はお互いを知らない、二人は母を通してのみ互いの影響を確認する。


肝臓、彼はめったな事では悲鳴を上げない、
他の家族が異常を知った時はすでに手遅れである事が多い。
彼は500以上の役割を持つ、全ての役割が分かっている訳ではない。


「お父さんがどこにいるか分からないの」
「(酷い話しだ)」
「私達を捨てたのよ」
「(酷い話しだ)」
「家族はもうあなたと母さんだけなのよ」
「(酷い話しだ)」
「今の言葉は酷い言葉ね、ごめんなさい」


何かを祝う為に酒を呑む、
何かを誤摩化す為に酒を呑む。喜びの為に、苦しみの為に。
彼はアルコールの分解を司るが、
アルコールを摂取しすぎると、彼を殺す事になる。
容量を通り越した処理を受け持てば、壊れてしまう。
門脈を経過し肝臓に送られたアルコールは酵素により酢酸に分解され、
やがて脂肪酸が作られる。
分解が追いつかない、不安だ、
脂肪酸が溜まる、アルコール依存だ、異常が起きる、脂肪肝だ、
彼が倒れる周りは気がつかない、
動脈硬化だ、彼は死ぬ、脳梗塞だ。彼は彼は彼は。


「久しぶりだな」
「(親父)」
「倒れてしまって入院している」
「(親父)」
「体が上手く動かないんだ」


肝臓のウイルスは5種類知られている。
2つは日本人とは縁遠い。
1つは軽傷ですむ、これは食物を介して感染する。
1つは炎症を起す、体液血液……セックスでも感染する。
1つは血液で……輸血や薬害での感染が問題になった、
キャリアは日本だけで200万人いる。
これは感染すると取り除くのが難しいウイルスだ、
キャリアになる確率は70%。
保有者の多くが慢性肝炎を患い、症状が進行して行く。
やがては、肝硬変、そして肝ガンが発生する。
アルコールが肝ガンの原因になる事がある。
脂肪肝になる、肝炎になる、肝硬変になる、ガンに……。


電話。着信音。ヴァイブレーター。右手に取る。通話ボタン。
親指で押す。耳と口に当てる。
「久しぶりだな。また倒れた」
「(親父)」
「今日もしたんだが、明日は癌の検査を……」
「(親父)」
「だが、大丈夫だ」


彼は一人目の父親だ。




二人目の父親が膵臓だ。
彼は小文字のCに曲がる十二指腸に左側を囲まれ、
右側は脾臓に当っている。
外分泌腺が殆どを締める中、
細胞塊が浮かぶ……グルカゴンやインスリンを分泌し、
血糖を調整する。
または炭水化物、たんぱく質
脂肪……3大栄養素を消化する事の出来る酵素
アミロプシン、マルターゼ、ステアプシン、
トリプシン、ヌクレアーゼを含む消化液を分泌する。
多くの問題を解決してくれる。多くの答えを教えてくれる。


「難しいと思う」
「(親父)」
「家族とは難しい物だ、正直」
「(親父)」
「君もあの人も」
「(親父)」
「でも、大丈夫だ」


膵液に含まれる酵素膵臓自身を溶かさぬ様に活性化されていない。
トリプシン、キモトリプシン……腸液に触れる事で活性化される。
自らの分泌物で自らを溶かさない、溶かさない。


「(なにか優しい言葉を話している)」
「(親父)」
「(なにか角が立たない体の良い言葉を話している)」
「(親父)」


ランゲルハンス島からはグルカゴンが分泌される、
インスリンが分泌される。
この2つは血糖値を管理する。
この2つに異常が起きれば……、
インスリンが分泌されなくなれば、
グルカゴンが異常分泌されれば、
或は、腎臓に接する副腎からコルチコイドが、或はアドレナリンが……、
脳下垂体前葉から分泌される成長ホルモンが、
或は肝硬変で、或は膵炎で、膵ガンで……糖尿病が発症する。


酵素達の通り道である膵管は、細かい枝の様な、根の様に膵臓に生えている。
やがてメインとサブの二本に合流し、十二指腸に繋がる。
メインは十二指腸手前のインターチェンジで胆管と繋がる。


胆管はもう一人の父親の母親のそして俺のへの影響力だ。
肝臓から排出される胆汁は消化酵素をもたない。
脂肪を乳化して酵素を助ける胆汁酸と、
赤血球の残りくずであるビリルビン……胆汁色素に分けられる。
ピリルピンは体内を下る間に吸収され還元され、あるいは結合され、
糞の茶色の由来であるステルコビリンになり輩出される。


肝臓からはレフトとライト、2つの道が伸び、
胆嚢からは彼が貯め濃縮した胆汁の排出道が飛び出る。
三本の道はやがて合流し、一本の道になる。
そして十二指腸手前のインターチェンジで、
別のもう一人の父親の母親のそして俺のへの影響力である、
膵管と繋がっている。
その出口であるファーター乳頭は腸に垂れ下がっている。


二人の父親が俺の中で役割を弁えながらも牽制し合っている。
俺は何時でも彼らに何かを感じている。
幸せだ、感謝している。不幸だ、恨んでいる。
そして甘えている、だが、甘えたりない。
糞の色だ。だが許している、恨んでいる、感謝している。不幸だ。


胆汁として排出された、
糞の色の素の素である黄色のピルピリンが十二指腸に絵を描く。
しかし、俺は絵を書かない。
白紙のカンバス、見る、理解している。
画集、見る、理解している。
美術館で名画を……、理解している、理解している。
素晴らしい物だ。


ラスコー壁画群を書いた
古代人の動物達に対する分析と契約に関する信頼を。
エジプト墳墓の壁に書かれた、描くという自由さを。
エルトリア墳墓に描かれた日常と死者に対する祈りを。
ギリシアの壷に書かれた、神話の神々から受けた霊感と深さを。
ローマ絵画の宗教儀式の沈黙と、個人の個性を。
ビアンティン美術の、キリスト教に対する安定感と神々しさを。
ロマネスク絵画の貴族趣味と大衆の感性の混合を、
理解している、素晴らしい物だ。俺は絵を描かない。


ジオットの平面を葬り、立体を召喚した快挙を。
シモーネの中世絵画のリズムを。
ロレンツェッティの風景を主題にした偉大な試みを。
ボッティチェリの神々と人間の融合を。
シニョレッリのフレスコ画の完成形を。
ダ・ヴィンチの改革と巨人性を。
ジョルジョーネの幾何学と光彩の両立を。
ジャン・フーケの調和を。
ボッシュの魅惑的な地獄と聖人の超越を。
グリューネヴァルトの暴力と澄んだ空を。
アルトドルファーの風景に対する想像力を。
ラファエロ人文主義と宗教テーマの完璧な統合を。
ミケランジェロの完全性と次世代への橋渡しを。
ブロンズィーノの官能を。
ブリューゲルの現実的生活への賛美を。
エル・グレコの構図と色彩に関する孤高を。
カラヴァッジオ写実主義と深い闇と侵入する光を。
ルーベンスの肉体の滴りと黒を。
プッサンの時代への反逆、古典への立ち返りを。
理解している、素晴らしい物だ。俺は絵を描かない。
俺は絵を描かない……。




帰り道、夕日、軽いケース、重い荷物。
俺より背の高い短髪頭が、
チノパンを地面に少し引きづりながら隣を歩いている。
「良い子だろ?なぁ?いい子なんだよ」
俺がイタリアに飛び立った時、
空港までの車中で着ていたのと同じ、黒色に白いロゴ……、
外国の洗剤メーカーのロゴが描かれたTシャツを着ている。
こいつの服装のローテンションは1週間プラスα単位だ。
9日前、そして今日、送り迎えをしてくれた分、お土産を弾んだ。
「ああ、素敵な人だね、でも頭が良過ぎるよ」
「ああ?んなことねーって、お前とならさ、つーか可愛いだろ」
夕日が駐車場までの道に赤と黒の絵を描く。
だが、俺は絵を描かない。


白紙に最初の筆を付ける喜びを。
線の躍動を。
色彩のいじらしい悩みを。
歓声と満足感を。
孤独と研究を。
他人に見せる緊張を。
評価への落胆と高揚を。


……たとえば、それが絵画ならば作品展に応募するだろう。
入選の是非は彼岸の采配だ。緊張は俺の物だ。
悩みが胸を打つ夜。解放と静寂。
結果はどうあれ、俺はその時々、
自らで満足したり不満を持ったりするだろう。
それは俺の物だ。そして次に進む。
そしてそれなりの結果を出したり、出さなかったりしただろう。
それが俺の物になってしまう。


「だったらお前がいけばいいじゃないか」
「やぁー、つーか、お前俺の彼女知ってるでしょ」
「そういえば居たな」
「おーい」


「(くそだ)」
鉄臭い酸っぱい何かが詰まった喉でそう言おうとする。
だが発話出来ない。
違う、俺の物になって欲しかった。そこには喜びが……。
上手く開かない目で泣こうとする。
泣いているのか、いないのか、以前から泣いていたのか判断出来ない。
違う、くそだ、それが俺の物になってしまう。それは嫌だ。
違う、俺の物に……俺の俺の俺の。


……たとえば、それがアニメや漫画のマナーに則った絵であったなら、
インターネット上のストレージ領域に確保された、
どこかの企業が運営する投稿サイトに作品を載せるだろう。
コメントやブックマーク数の上下は彼岸の采配だ。
喜びと憂いは俺の物だ。
そこから展開されるコミュニケーション。期待と不安。
結果はどうあれ、俺のその時々、
自らを評価したり不評を与えたりするだろう。
それは俺の物だ。そして次に進む。
そしてそれなりの結果を出したり、出さなかったりしただろう。
それが俺の物になってしまう。


理解している、素晴らしい物だ。俺は絵を描かない。


「まぁー、でもお前に紹介した甲斐があったね、
 前からあの子にお前の事、話していた甲斐があったな」
「そうだな、たしかに、可愛い……可愛い」
「2回言って行くぅ!」
「(くそだ)」
鉄臭い酸っぱい何かが詰まった喉でそう言おうとする。
だが発話出来ない。
違う、俺の物になって欲しかった。
そこには……夕日が道路に絵を……俺は絵を描かない。







(つづく)




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