クラウドヘッド+4


何かが刺さった背中が痛む。
ヌメリと不快感。血が流れている。
手を回そうにも、腕を動かせば肩に連動し、
肩が動けば背の肉が動く。そして激痛。激痛。諦め。
大きく息を吸い込む。内蔵が痛む。
息を吸い込む途中で大きく咳き込む。
あの時と同じ臭いの胃液と血を吐き出す。
その二つが混ざり、嗅いだ事の無い臭いを発する。


エマニュエル・レヴィナスにおける他者性、
このホロコーストで多くの同胞を失い、
戦前の自己と他者の存在に疑問を投げかけた、
リトアニア生まれのユダヤ人哲学者の語る他者とは、
捉える事が不可能な他者だ。


彼は愛撫についても語っている。
愛撫とは"自ら"が親しいと"思っている"ものをより
親密にする行為だ。
それと共に愛撫はそれを行う者に、
期待していた物とは違う触覚を抱かせ驚きを与える。
求めた感触とが違う愛撫された体の体温が、
無数に生える産毛の流れが、愛撫された者の反応が、
自分自身の反応が、求められ期待している物を拒否する。
未知の物として現れたそれらは愛撫する者に驚きを与える。
だが、愛撫は本質的に何を求めているのか分からない。
温もりなのか?温もりとはなにか、体か?心か?
愛撫は本質的に求めている物が分からないからこそ、
意識を越えた上での対象との親密さが浮き出て来る事になる。
他者に対して、何かを、求めているのだ。何かを。


夜。ベッドの上。俺。彼女。
俺は彼女の寝顔を見ている。
彼女は体を仰向けに、枕の上で顔をこちらに傾けている。
その彼女の顔を見る。
二人が出会った時より暗い色に染められた彼女の髪の毛が、
彼女の顔に掛かっている。
俺は、それを俺の人指し指で彼女の耳に流す。
毛布から彼女の裸になった肩が出ている。
俺は、それを俺の指先で撫でる。
眠っている彼女の吐息が少し大きくなる。
俺は俺の指先で彼女の肩の先をゆっくりと摘もうとする。
彼女の柔らかな皮膚の上を滑る俺の指先。
そして彼女から滑り落ちる、俺の手。
瞬間、俺の指先と俺の指先が接触する。
彼女の皮膚が持つ柔らかさと、
自分の皮膚が持つ固さの違いを感じる。
彼女の顔を見る。瞼で閉じられた彼女の目を見る。
彼女の鼻、彼女の口。
彼女の吐息。吐息。彼女。


レヴィナスの語る愛撫は、
しかし驚きの先に絶対的に逃れて行く他者を表す。
愛撫は期待した物を掴めない。
相手を組み伏せる事も心に触れる事も出来ない。
捉える事の出来ない手は欲望を持て余し、
さらに"何か"を求めて行く。
愛撫は結局、本質的に、
何物かも所有する事ができない。



愛撫やそれに伴うエロスの本質は非所有であり、
二人であることだ。一人では関係から生じるエロスはない。
もし他者を所有出来るのならば、
それは二人ではなくなってしまう。
求めた物が得られず、
また何を求めているか分からないからこそ、
相手を求める。しかし他者を所有する事は出来ない。


鼻で息を吸う。血の臭い。
目頭も血が溜まるのを感じる。
背中が痛む。
倒れている先にキッチンが見える。
その窓から昼の光が差し込む。
背中が痛む。
内臓が痛む。

胃の本体は、
胃底部と胃体部と前庭部の3つに分けられる。


前庭部は前という名前に違い幽門、
そして十二指腸につながる、胃で消化された物の出口だ。
(どうぞお進み下さい)
小彎にある胃の外側に見られる小さな切れ込み、
胃角から大彎に線を引く。
その下側が前庭部だ。上側が胃体部だ。


食道から胃への入り口、噴門から水平に線を引く。
上の部分が胃底部だ。下側が胃体部だ。
胃にガスが発生した場合、それが溜まるのがここだ。
人間が直立した場合、胃の中で一番上に来るのがここだ。
だが、底だと云う。
これは外科手術をする為に腹部を切り裂いた際、
一番奥に見えるのがここだからだ。
つまり、人間が仰向けに寝ると、
体の一番底に来るのが胃底部だと言う訳だ。


そして、前庭部と胃底部に挟まれた、
胃のもっと多くを占める中心部を胃体と言う訳だ。


胃体部は食道から入って来た食材を主に調理する、シェフだ。
受け持つ数は多い。彼の仕事場を胃壁と云う。
ピンク色のヒダと胃液に覆われた壁に囲まれている。


胃壁は大きく分けて四層に分けられる。
丈夫でいて繊細な自然の壁達だ。
内側から、粘膜層、粘膜下層、筋層、漿膜である腹膜に分けられる。
それぞれに役割も違う。
壁で、スーシェフで、キュイジニエ・ド・パルティで、
防壁で、城壁で、門番で、土台で、枠組みだ。


人の恋愛を対外から眺めた場合、
ひとつ気になるのは、
彼や彼女とその恋と愛の対象とする人物にとの間に、
何らかの共通点があるかどうかだ。


肝臓こと俺の一人目の父親は肩幅が在りながらも
体全体はやせ形の男だった。
俺はこの男に威圧感を感じていた。
膵臓こと俺の二人目の父親も肩幅が在りながら
体全体はやせ形の男だった。
俺はこの男に違和感を感じていた。
これを母の男に対する好みだと捉えるべきか?
偶然と捉えるべきか?


母ではなく、彼女はどうだろう?
俺と付き合う前に付き合っていた男と俺には、
共通点があるのか?ないのか?


カフェ。ランチタイム。対面席。
ナチュラルな色の木枠の中に、
ブラウンの生地にアラベスク模様の様に
変形した水色の花柄が描かれたクッションが、
収められたソファーに座っている。
俺はその反対側、
同じ木材と同じ柄のクッションで出来た
一人掛けのイスに座っている。


一度二人で、
ソファーがハート柄で、
イスがハート形で、
壁に大きなハートが描かれた、
カフェに行ったことがある。
メニューもハート形で、
注文したランチプレートに乗った
ハンバーグもハート形だった。
添えられたニンジンもハート形だ。


こう云うのも悪くないね、と笑い合ったが、
二度とそのカフェには行くことがなかった。
そこに比べると、この店は落ちついている。
リラックスも出来る。


テーブルの上には、
普通の形のハンバーグと丸く盛られたライス
そしてサラダが乗せられたプレートとスープカップ
牛バラ肉と豆の野菜炒めと丸く盛られたライス
そしてサラダが乗せられたプレートとスープカップが乗っている。


ハンバーグとその一行は彼女の消化器官に飛び込むべく皿の上で待機している。
牛バラ肉と豆の野菜炒めは俺が食べている。


彼女はハンバーグが好きだ。
彼女の口から初めて好きな食べ物を聞いた時の、
「子供っぽいと思ったでしょ?」と
少し笑った顔の可愛さを覚えている。


彼女がハンバーグをナイフとフォークで切り分ける。
顔を少し前に傾けてフォークで刺したハンバーグを口に運ぶ。
肩に乗る髪が背中側に落ちる。
彼女の髪の毛は、ルノワールが描いた光り輝く髪のブラウンだ。
出会った当初より、明るい色に染めている。
今日着ている、肩が開いた
ベージュのコットンローゲージニットとよく似合っている。


俺は牛肉の固まりから豆を探しだしてフォークで刺す。
口に入れる、奥歯で噛み潰す。豆の中から油が出て来る。
「食べられるよね?」
彼女が上目遣いで尋ねる。
量が多いから、と切り分けたハンバーグを俺の皿に載せる。
彼女が大きく目を開いて子供っぽくはにかむ。
その表情に引き込まれる。
「食べられないの?」
彼女がワザとガッカリした様な、
子供がいたずらをしている時の様な顔を作る。
「余裕だよ」唇の端を少し上げて言い返す。


テキストに対する解釈学の始まりは
ホメロス詩編を読み取る事から始まった。
そして聖書の解釈、各宗派に置いては、
何を正典とすべきか?という所にまで及んだ。
解釈とはそのままでは理解出来ない物を、
なんとか理解出来る形にして自己や世間に取り入れるとこだ。
解釈は思想や社会や行動や疑問や政治や医療や恋愛や死に取っての消化器官だ。
解釈とは理解の話しだ、
大きく云えばコミュニケーションの話しだ。


レヴィナスの理論は、
マルティン・ハイデッガーの理論への反発から始まる。
ハイデッガーが書いた「存在と時間」において示した、
共同存在という、
何らかの道具や存在的な物において示される他者、
という概念の反発から始まる。
特に共同存在の負の面、
これは、このドイツ人哲学者も負であるといっているが、
世間一般がそうであると言うなら、
Aと云う物がAであると世間が言うなら、
事件と云う物が事件であると世間が言うなら、
慣習と云う物が慣習であると世間が言うなら、
それに従うという事が
人間の本質である、と云う事に対して反発を抱いてる。
それはそもそも、他者と云う物を感じられる、
或は捉えられると勘違いしているから始まるのだと。


そのハイデッガーは自己の理論を語る際に解釈学を利用している。
解釈学をテキストの解釈以外に取り入れるべきだと批判したのは、
神学者にして哲学者の、フリードリヒ・シュライアマハーだ。
これを哲学含む諸処の学問に取りいれたのは、
シュライアマハーの研究者でもあったディルタイだ。


ハイデッガーレヴィナスも存在と云う物を語っている。
存在を語る理論は太古の暇人、アリストテレスから始まり、
中世のスコラ学派において発展する。
普遍性を巡る論争、唯名論
特にオッカムの理論により破れたスコラ学派だったが、
スペイン人のフランシスコ・スアレスによりその体系を纏められ、
後世に継がれて行く事に成る。
この論争で死人がでなかったのが、まったく不思議だ。


それは、我思う故に我ありのデカルトや、
コペルニクス的転回のカントに引き継がれ、
弁証法と、彼の思想を継ぐ、
右派左派中道派を生み出した事で同じみの
ヘーゲルの理論に受け継がれる。
そしてハイデッガーはその系譜と、
師であったフッサール現象学を利用する。
その後に現れたのがレヴィナスだ。
体、遺伝子以外にも、
心の面でも親や子はいるらしい。
だから、
これらの事を語るとつい長くなってしまうものだ。


ランチは続いている。
彼女の皿の上にあるハンバーグは半分以下になっている。
彼女は話す。
最近研究している事、友達の事、この間観た映画の事。


俺達の右側、数席離れた対面席に女性の二人組が座っている。
ゆったりした音楽が流れる店内だが、
彼女達の話し声は会話の詳細が耳に入るほどの大きさだ。
彼女達は話す。
仕事の事、友達の事、この間観た映画の事。
恋愛の事。最近付き合いだした彼氏の事。


彼氏。彼。恋人。
俺の目の間に座ってハンバーグを……
いや、それを噛み砕いて飲込み終わり、
白米を口に入れている彼女のそれは俺だ。


彼女は、俺と付き合う以前はどんな男と付き合っていたのか。
少なくとも、処女ではな無かったのだから相手はいただろう。
今まで何人と付き合って来たのだろう?
元カレとは未だに連絡をする様な仲なのだろうか?
縁を一切切るのか?
別れても友達としてやって行けると思うのか?


当たり前の事が、俺の目の前に現れる。
俺が知らない彼女も、俺が知らない彼女の過去もあるのだ。
それはどうしても知る事が出来ない彼女の一面、一部だ。


ヴェルヘルム・ディルタイ
このシュプランガーやマルティン・ブーバーの師である
ドイツ人哲学者は、解釈学を、
人類、社会、歴史、経済、言語、宗教、法律、などを含む
「人間に関係する諸科学」の基礎と位置づけた。
曰く、その物全体を形作る個々を理解するのには全体の理解が必要であり、
その物全体を理解するのにはそれを形作る個々への理解が必要だ、と云う物だ。
それは森と木の関係だ。人体と筋肉の関係だ。建築物と材質の関係だ。
解釈学は後にハイデガーにより哲学の領域で取り上げられ事になる。


そんな当たり前の事を今まで意識していなかった自分を、
今この瞬間に感じて、急に彼女を遠く感じる自分を、
随分なボンクラ野郎だと心でなじる。


口に入れたサラダを噛み砕いている彼女の顔を見て、
彼女は随分と大人な女性なのだと感じる。
俺は自分をあまりにも締まらない顔をした、
或は勘違いしたお洒落をした中学生かなにかの様に感じる。


ねぇ、君が今まで付き合って来た男達と俺に共通点はあるの?
どこかで、俺は彼らと比べられているの?
彼らと比べて、俺は君を満足させて上げている事は出来ている?


飲食店はどこからでも、どの席に座っている客でも、
従業員にその状況が分かる様に、壁や柱に鏡が設置されている。
店を広く明るく見せる意味も在るが……。
だが、この席から見える位置に鏡が無くて良かった。
今の俺は随分と酷い顔をしていて、
そんな自分の顔を鏡に映されたら、
彼女と普通に話す勇気すらなくなってしまうだろう。


自分の恋愛遍歴を彼氏に訊かれるとがっかりする、
と書かれていた雑誌を思い出す。
彼女の顔が見れなくなる。
おしゃべりな女客とは反対の方を向く。
この席の左側だ。


男女のカップルが俺と彼女と同じ様に、
なにかを話しながら食事をしている。
普段ならなにも思わない様な、
普通のカップルだが、
今の俺には男の方が随分と幼く見える。
自分のみをそう感じてしまう精神状態ではないらしい。


思えば、男なんて女性と比べて結構な年上であっても、
からして子供なのかもしれない。
子供っぽい、ではなく、子供その物だ。
たとえば、俺の父も。


君が付き合って来た男達の中に、
今でも心に残っている人は入るの?
今でも思い出す人はいるの?
君は……


「ねぇ、もうお腹いっぱいになったの?」
彼女の顔。打ち切られる思考。
「そんな事無いよ」言い返す。
「うん。また何か考え込んでいたんでしょ?」
彼女の笑顔。敵わない笑顔だ。


君は、君は、君は。


俺はこのとき、
彼女の過去にした恋愛の事を訊く事が出来なかった。











(つづく)




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