芝村裕吏著「マージナル・オペレーション 01」批評。作品の現在性と具体と抽象の話し。


芝村裕吏
マージナル・オペレーション 01」
ためし読み:http://sai-zen-sen.jp/fictions/marginaloperation/
アマゾン:http://p.tl/hzQm


この小説の批評を【ネタバレを避けながら】して行きたい。
以下の「」内は、
なぜ、批評を書いた事の無い、このブログで、
書評なんて物をしようかと思ったかを書いている。
なので飛ばしてくれて構わない。


 「まず、俺が作者である芝村さんの高校生の頃からのファンであるからだ。
  有名なゲーム、『ガンパレードマーチ』からのよくいるファンだね(笑)
  そして、久しぶりに新品を買った小説(日常用んでいるのは、古い小説
  や、値段が高い物が多いので、古本屋や図書館を利用している)であり、
  面白かったのが、第2の理由だ。
  最近読んだなかでも面白い話しはいくらでもある。
  ガルシア・マルケス 『悪い時』やモンテーニュ『エセー』等だ。
  が、そう言った本の批評はこの世に溢れている。
  発売したばかりの『マージナル・オペレーション 01』は
  そこまで多くは……
  エセーと比べて多い批評が書かれていると言う事は、
  これが名著であってもさすがにないだろう(笑)
  ならば俺が書いてみようか、というのが第3の理由だ」




【批評ここから】

マージナル・オペレーション 01」を以下「マジオペ」と呼ぶ。
まず、言ってしまえば面白い(笑)
それで終わるのはただの感想になってしまう。


批評とは、批して評する、という2文字で出来ている。
批とは、付き合わせる事(比べる事)、評とは論じ定める事だ。
ということで、
色々な他作品を(自分の覚束ない知識の中で)例に出しながら、
このマジオペがどうであったか書いて行こう。
一応断っておくが、例に出した作品を貶めたりする気持ちは一切無い。
書評はランク付けではない。


ネタバレは避ける。
理由はこの本が発売して間もないからだ。


因に、この批評を書く以前に、
twitterにて、この作品はハードボイルドだと、
ロバート・B・パーカーや藤田宣永、原りょう
が書いた探偵小説を引き合いに出して語っている。
以下はその一部。
http://favstar.fm/users/torasang001/status/175200484112601089
http://favstar.fm/users/torasang001/status/175227986390417408
http://favstar.fm/users/torasang001/status/175478535312510976




この作品は現在に即して書かれた物語だ。
マジオペが即している現在とは2012年現在の事だ。
2011年に起きた東北地方太平洋沖地震の事が作中に出てくるので、
それ以降、と云う事になる。
(個人的感想だと、2012年よりは数年先に思える。
理由は主人公であるアラタの大地震に対する物言いだ)


様々な物語は、
現在に即する物語と、現在に即さない物語に分けられる。


現在に即す物語とは、このマジオペや、
柴門ふみの同名マンガを原作とした、
フジテレビで1991年に放映された「東京ラブストーリー」等の、
トレンディードラマがそれだ。
なんせトレンドとは潮流や流行を刺す言葉なのだから。
また、当時(江戸時代)の人々の美意識、愛情的な意識に即した、
近松門左衛門作の、浄瑠璃や歌舞伎で有名な「曽根崎心中」や、
幕末時の江戸っ子気質に即した三遊亭圓朝作の落語「文七元結」も、
現在(当時)に即した物語だ。


一方の現在に即さない物語とは、
池波正太郎著の「鬼平犯科帳」や司馬遼太郎著の「幕末」等等の
歴史小説や、時代劇、と云う物がそれだ。
これらや、「曽根崎心中」「文七元結」との違いは、
歴史小説が現代から過去を振り返った作品であるのに対して、
曽根崎心中」「文七元結」は当時の江戸に生きた人々が、
その当時を描いていると云う点だ。


単純に現在を書いていないのだから現在に即していない、と言えるし、
過去の出来事や感情に即した作品なのだから現在に即していない、と言える。
池波正太郎司馬遼太郎が如何に題材とする事件や、
当時の(一般的な人々の日常生活を含めた)様子に関する資料を集めていたか、
と云う事は、ここで語るまでもない。


だが、過去を描いている作品が全て、現在に即さないとは言えない。
物事は実は単純ではなかった。


例えば、西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は昭和と云う過去の事を書きながらも、
現代から見た昭和っぽさ、現代から見た古き良さ昭和と云うのも描いている。
これはとても今の気分に即した、今の時代に即した作品と云える。


レイ・ブラッドベリ著であり、
フランソワ・トリュフォー監督で映画にもなった、
本の所持や読書が禁じられた架空の社会を描いた
華氏451」は、
SFという未来を描いた作品だが、
55年当時の文化の破壊や情報規制
(つまり当時の情報と云う物の行方への不安)を
描いた点、SFでありながらも、時代に即した作品だとも言える。
映画だから、全て現在に即している、という訳ではない。
当たり前だが。


映画でいうと、スタンリー・キューブリック監督の
バリー・リンドン」等は、
その当時の人々の食事風景から、風呂の入り方、
当時の人々の思想まで、徹底して時代考察をしている点、
現在に即さない作品だと言える。


結局の所、作品の良し悪しは、時代に即しているか即していないか、
と云う事とは一切関係しない。
(もっと言ってしまえば、ゴッホの絵を例に出す事も無く
 作品の良し悪しなんて物は、時代時代によって変ってしまうのだが)



マジオペがどう時代に即しているかを書いて行こう。
まず、話しの掴みであり本の帯にも書かれている、
【30歳ニート】というのが、それだろう(笑)
ニートと云う言葉は1999年のイギリスで生まれた。


日本語の辞書(大辞林広辞苑)に載っている言葉の中でも
比較的新しい言葉だ。
【30歳ニート】という言葉、
30歳とニートという二つの言葉が繋がる事で生まれる意味、
という物も、現在でしか正確に分からないだろう。


例えばそれは、平安時代歌人清少納言著の「枕草子」に代表される、
【いとをかし】や、
江戸時代に国学者本居宣長が「源氏物語」に対して唱えた
もののあはれ】という当時(平安時代)の概念を、
今に生きる我々は、如何に研究し勉強しなくては分からなかったか、
という事だ。
研究した所でその言葉から当時の人々受けた気持ちを
真に理解したと云えるかは分からない。
何を持って真の理解とするかも問題だ。
理解度と言い換えると良いかも知れない。


理解度と云えば、マジオペは6ページに書かれた、
(時系列的には物語の終盤と成る)プロローグが終わり、
本編が始まる8ページ、そして続く9ページで描かれる、
彼がニートになって行く様子に対する理解度という物は、
過去の人が、或は未来の人がこのページを読むより、
現在に生きている我々の方があるだろう。


これを言い換えると【リアル】感という事だ。
携帯電話で書かれ、主に携帯電話で観覧出来るウェブ上の領域で鑑賞された、
ケータイ小説が流行った2000年代後半、
(美嘉著の「恋空」メイ著の「赤い糸」共に2006年に書かれている)
10代の妊娠や、レイプ、病気、ドラッグ、
壮絶ないじめが描かれる、これらの小説を、
主な読者層である10代の少女が【リアル】だと感じると言う事は、
どれだけ今の10代は荒れているのだ!と言った声が上がった事が在る。
(こう云った声が載った、本や新聞を具体的に示せなくて申し訳ない。
 ウェブ上になら、そういった声を乗せたブログや掲示版があるのだが、
 それを批評の場で乗せるのはどうかと思う)


作品における【リアル】感とは、
鑑賞者やその回りで実際に起こったから感じるのではなく、
【ありそう】だから【リアル】だと感じる。
ケータイ小説で言うのならば、そう言った事が読者自身に起こったのではない。
まるで都市伝説の如く友達の友達に起こった、
起こりそうだ、と云う事で良いのだ。


1980年前後の子供達が如何に「口避け女」を恐れたのか、
と云う事を考えてみると良い。
俺(の世代)にとっては、「口避け女」より、
1993年に週刊少年ジャンプで連載が開始された
地獄先生ぬ〜べ〜」や、
1994年、子供番組「ポンキッキーズ」内で放送された、
「学校のコワイうわさ 花子さんがきた!!」等の
学校の怪談ブームに関する作品で刷り込まれた、
トイレの花子さん」や「テケテケ」に、
もしかしたら……と云う恐怖(=【リアル】感)を感じる。


映画で言うなら、当時の子供達を恐怖に陥れたという、
1980年の野村芳太郎監督の「震える舌」に出て来る破傷風より。
1998年の中田秀夫監督の「リング」に出て来る貞子や、
清水崇監督の「呪怨」に出て来る佐伯伽椰子の方が怖い。
破傷風は実際に有る病気であるにもかかわらず、だ。


余談だが、貞子も伽椰子もすっかり怖くなくなってしまった。
それはこの両者がキャラクター化=個性が定められたからで、
つまり幽霊や怪異は、結局、意味が分からないから怖いのだ、
と云う事が分かる。


そしてそれはある種のボカシ、
つまり作品に対する、想像の余地が
【リアル】感を思い起こさせる効果がある、と云う事だ。
想像出来る余白、と云う物があると、それを見た鑑賞者が、
各自のリアルから余白を埋める行為を行う。
ホラー映画にとってそれは恐怖として表れる。


さて、マジオペに話しを戻そう。
【30歳ニート】という言葉の繋がり、
そして彼がそう言った状態に成る描写と云う物に、
【リアル】さを感じる現在に生きる我々こそが、
他の時代に生きるどんな人よりも、この作品に理解度があると言える。


著者である芝村さんは以前《世界を作るのはお話だ》と仰っている。
この発言を鑑みると、マジオペは、
これから30歳の(現実の)物語を作る、
20代後半から30歳前後の男性を読者層とした小説だと言える。
そもそも戦争描写を主題にした映画、と云う物は遥か昔から今まで、
男の物だ。


それは
紀元前58年から同51年に起きた戦争を記した、
ガイウス・ユリウス・カエサル著の「ガリア戦記」、
2001年のリドリー・スコット監督の「ブラックホークダウン」
2008年のキャスリン・ビグロー監督の「ハートロッカー」など、
枚挙に暇が無い。


だが、戦争描写を描いた作品の全て
(或は、ある1つの作品の全てが)男性向けだ、と云う事ではない。
例えば、1960年のスタンリー・キューブリック監督の
スパルタカス」は
古代ローマ奴隷解放戦争を主題とした映画だが、
そこでは、自由への意志や、運命的な愛も重要な物として描かれている。
そこには男性以外も入り込む余地が大きく残されている。


恋愛映画は基本的に女性を視聴層としているが、
男性も十分楽しめる恋愛映画が在る事も思い起こしてみると良い。
代表なのは、1997年のジェームズ・キャメロン監督の
タイタニック」だろう。


作者が想定した鑑賞者層以外は、作品を楽しめないのだろうか?
それは勿論、違う。
例えばイギリスの数学者である、ルイス・キャロルが、
アリス・リデルという少女の為だけに書いた、
不思議の国のアリス」(1865年出版)というお話が、
如何に世代や性別や人種を越えて、
愛されているかを考えれば、一目瞭然だ。


他にもマジオペが現在(の我々)に即している、
と感じさせる部分はある。
それは作中に登場する、具体的な名称だ。
それはtwitterAmazonという単語だ。
現実の世界において、
これらを知らない人間等ごまんといるだろう。
これが、文通や手紙、宅配便や通販という言葉だったらどうだろうか。
作中の場面を借りるならば、
売春婦シャウィーは肌荒れという言葉を知らない。


或は、俺達の(世代が生んだ)子供が20代後半に成ったとき、
彼らはこの二つの単語にどういった印象を抱くだろうか?
主人公であるアラタがtwitterやフィギュアを
大切に思っている気持ちが理解出来るだろうか?
まったくこのお話は現在に即している。


現在に即した作品として、上記に、
東京ラブストーリー」等のトレンディードラマを上げた。
例えば、ここに出て来る女優や男優の、
当時のトレンド(流行)な服装が、
現在でもお洒落と見えるか?という話しでもある。
作中でお洒落な人物、として登場する人物を、
今の我々がその姿だけを見て、
ああ、これはおしゃれな人なんだな、と分かるだろうか。


2009年のクリント・イーストウッド監督の
インビクタス/負けざる者たち」に、
黒人である南アフリカマンデラ大統領が、
ラグビーの自国代表チームの主将を励ます為に
官邸でお茶に入れるシーンがある。
ラグビーナショナルチームの主将は
イギリス系の白人南アフリカ人だ。
彼にお茶を出すシーンでは大統領はジャケットにネクタイ姿だ。
これだけではただの正装だが、
ジャケットの柄がウィンドウ・ペンという
イギリスの伝統的な柄であり、
この場面でその柄の服を着る意味が分かる人が、
どれだけいるだろうか。
イギリス系の人に、黒人大統領自ら紅茶を振る舞うと云うのは、
我々でも意味的に分かり易い所では在るが。


アラタが見ていた、動画サイトという言葉も出て来る。
ここが具体的な名称ではないのが面白い所だ。
彼はオタクなので読者の大半は
ニコニコ動画を思い起こす事だろう。
たまにYoutubeも見るかもしれない。
男の読者だったらそこには、
無料でAV(これも作中に出て来る名称だ)を見る事が出来る
アダルト動画サイトも含まれていると考えるかも知れない。
20年後の20代が動画サイトと聴いたら、
また別のサイトを思い起こす所だろう。


具体的な名称は現在(または当時)に即している事と繋がる、
それは現在に生きる我々の作品に対する理解度に繋がる。
そしてその現在から時代が離れる程、
読者の作品に対する理解力は落ちて行く事に成る。


余談だが、
リメイク、という行為は、作品を新しく作り替える事で、
鑑賞者の理解力を取り戻させる手段だ。
作品は時代劇の様に時代に即さない作品に変えられるか、
作中の舞台がリメイクする現在に置き換えられ、
再び現在に即する物に成る。


では、「マージナル・オペレーション 01」は、
そういった現在に即しているだけの作品なのか?
これがこの作品の面白い所だ。
マジオペは話しが進んで行くごとに、
現在に即した物を捨てて行く。
これは主人公アラタの成り行きそのものだ。
これは芝村さんが狙った所だろう。


それは【抽象】と云う物だ。
具体的、の反対語である、【抽象】(的)だ。
赤くておいしい林檎、青くて酸っぱい林檎、小さくて甘い林檎。
これは具体的と云う物で、
これらを纏めて、林檎、といったり、
丸いもの、食べ物、目に見えるもの、
と呼ぶのが【抽象】という事だ。


具体的、は分かり易いが範囲が狭い。
またどこにでも在る物ではない。
【抽象】的、は分かり難いが範囲が広い。
どこにでもある。


この批評の始めの方で書いた、
作品の3つの在り方がある。
1、現在(作品成立当時)を描いた現在に即した作品。
2、過去を描いた現在に即していない作品。
3、過去を描いた現在に即した作品。

だが、もう1つ作品の在り方がある、
4、現在を描いた現在に即していない作品だ。


これは【抽象】と云う物と関連してくる。
現在を舞台にしながらも、現在特有の流行言葉を排し
扱う主題を抽象的な物にすれば現在を描いた現在に即さない作品に成る。
キリスト教の聖書や、ある種の神話がそれだ。
抽象化された作品は理解し難いが、鑑賞者の時代を問わない。


作品の在り方1、は現在を書かねばならず、
3、は現在の思いを過去に込めなくてはならない。
2、の一部と、4だけが徹底的な抽象化を行う事が出来る。
4、のみ抽象化しなくては作る事が出来ない。


マジオペ作中の舞台を見てみよう。
はじまりは日本の東京だ。
国も、地名も決まっている。
次は訓練キャンプへと舞台が移る。
ここはウズベキスタンだ。細かい地名は分からない。
次の舞台はなんとかスタンである。
訓練キャンプはウズベキスタンとちゃんと指定されているのに、
次は中央アジアのなんとかスタンという何処かに成ってしまった。
舞台がなんだか砂っぽくて、山がある、中央アジアの何処かへと、
【抽象】化されてしまったのだ。


前述に書いた通りアラタが向き合う問題もそれだ。
twitterやフィギュアと言った事から、
戦争や戦闘、食べ物や尿意、女や、男(作中ではマチズモと言う)
という非常に何処にでも有る【抽象】的な問題、
作品の言葉を引用するなら【万国共通】な問題に向き合う事になるのだ。


いきなり中央アジアの紛争や食べ物、
女や男の話しをされても読者はぽかーんであり、
具体的な名称が出まくるニートの話しがずっと進んでも
ぽかーんである
ぽかーんとは言うまでもなく、理解出来ないと云う事だ。
前者は【抽象】的すぎて、後者は具体的過ぎる。


2007年にユービーアイソフトが発売したゲームソフト
アサシンクリード」は
1191年、第三回十字軍が行われた
中東を舞台に、アサシン教団の青年暗殺者が、
活躍するアクションゲームだ。
だが、始めから青年暗殺者が主役なのではない、
現在に生きる彼の子孫である青年の、
遺伝子的記憶の中のお話、
というSFチックな導入が取られている。


前述にした「タイタニック」も、
いきなり1912年、タイタニックが出航する所から始まるのではない。
タイタニックの沈没事故を生き残り1997年現在(映画の公開が1997年である)、
生きている、ある老婆の回想から始まる。


マジオペはこれらの作品と同じく、
現在から別の場所へ、という構造をしている。
マジオペの時系列的な構造自体
(これはネタバレにはならないだろうが)
未来から過去を語るという物だ(プロローグ参照)
そこに具体から【抽象】への変化という物が付いてくるのがなにより、
マジオペの面白い所だ。


すこし踏み込んでストーリーの巧みさを語ると、
アラタが只のニートではなく、
数年働いて現在は失業者である、と云う設定を作る事で、
現在に生きるより多くの読者の興味と共感を誘っている所も、
芝村さんの設定作りの上手い所だろう。


前述の「不思議の国のアリス」も
主人公が普通の少女、
というか明らかに作者が物語を聴かせていた、
アリス・リデル自身が、不思議の国に迷い込むお話だ。
少女の共感を得る手段としては、
少女自身が主人公である事で、十分だったのだろう。
マジオペは不思議の国(なんとかスタン)に迷い込む、
(読者層にとっては)普通の男と云う点、
アリスと似ているのかもしれない。


こう云った、具体から抽象への変化は読者の共感を起す事が出来る。
作中の言葉、アラタは言った、【万国共通】【ワールドワイド】と。
作中の中盤でアラタが直面する事は老若男女関係ない話題だ。
この点は前述したキューブリックの「スパルタカス」と同じだと言える。


中盤に入り、作品は具体から【抽象】の世界に入った。
では、中盤では現在に即しているのか?いないのか?
それは、現在に即している、と言える。
戦争の仕方も、少年兵の問題も、
彼を取り巻く状況も非常に現在に即している。
だが、アラタが直面する問題は抽象的だ。
舞台も抽象的だ。


【抽象】とは物語において、想像が出来る余白として機能する。
それは前述のホラー映画の所で触れている。
具体は、読者の想像を殺す事だ。


これこそが「マージナル・オペレーション 01」の面白い所だ。
【抽象】化が進みすぎると現在に即さなくなる、
或は意味が分からなくなる、と前述した。
マジオペは【抽象】的な問題と現在に即している狭間で、
絶妙なバランスをとって存在している。


これが我々、現在に生きる者達を、
【抽象】的=【万国共通】=【人類の根本的な問題】に、
近づける。だが主人公は現在の問題の中にいる人物だ。
つまり我々だ。主にこの読書層の我々だ。
これこそが、マジオペの絶妙な上手さと、面白さだ。


なんとかスタンに入国後登場する人物により、
このお話はファンタジーへと傾いた。
(個人的な感想としては、
 えー!なんだよ!もっと現実的な方が良いよ!
 と感じた)
だが、実はそれはとても現在に即した登場人物である事が判明する。
このバランスも絶妙だ。
(つまり個人の願いは叶えられたのだ・笑)


そして、終盤、
もっと言えば本編の最終ページで、
より現在に即し、
【抽象】の世界からから帰ってくる事に成る。
序盤:現在→中盤:抽象と現在のバランス→終盤:現在、
という流れが、マジオペが持つ構造であり、
それを上手く描けている、そのバランスが上手いから、
面白みを感じさせるのだ。



こう云った、
現在の世界から、別の世界に行って帰って来るお話を
上げていけば切りがない。
紀元前6世紀のホメーロス叙事詩オデュッセイア
日本書紀」にみられるスサノオ
1968年のスタンリー・キューブリック監督
2001年宇宙の旅」等がそれだ。
(余談だが、「2001年宇宙の旅」の原題は
 「2001: A Space Odyssey」だ)
上記の作品も現在性と抽象が大きく関わって来る作品であり、
どれもそれが巧みだ。


なんとなく面白いなーと、思っていたマジオペの面白さが、
やっと分かった。ハードボイルド+現在と抽象のバランスだ。
マジオペは2巻も予定されていると云う。
マージナル・オペレーション 01」の面白さである、
この、ハードボイルド+現在と抽象のバランスを保てるなら、
次作もとても面白い物になるだろう。


作者である芝村さんが、
あまり大々的に言う訳にもいかないと思うのだが、
現在に即して、作品に対する理解度が高い読者、と云う点、
想定した読者は20代後半から30歳前後の男性だろう。
それも数年経ったら、現在の変化と、読者の年齢の変化で、
理解度が減少する可能性が大きい。
読みたいと思った人は、今すぐに
(と言っても数ヶ月〜年単位の話しだろう。
 時代の流れを読むのは難しい)読むと良い。


作品がその後も残るかどうか、という判断は難しい。
現在に即したり、具体的な物は残り難い。
抽象的な方が残り易い。聖書等で例は前述した。
今度は絵画で例えてみよう。


時代が経過しても残るのは、抽象画だろう。
それはラスコー洞窟に見られる太古の動物達を書いた抽象画や、
真っ白なキャンパスだけ
、或はそこに直線を描いただけの様な抽象画だろう。
次に自然を描いた絵画だ。そこには人間も動物も含まれる。
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたモナリザ
一万年後も芸術として、残っているかも知れない。
自然には、どこにでも(種は違う物の)存在するという、
【抽象】性があるからだ。


ある特定の事件や時代の出来事を描いた絵画は
残り難いだろう。
それは具体性が強いからであり、
さらになんなかのイデオロギー、思想が入り込み易く、
故により具体性が増してしまうからだ。
社会主義リアリズム芸術や未来派の芸術等がそれだ。


マジオペはどうだろうか?
そも、芝村さん自身、
後世にずっと残る様に書かれてはいないだろう。
と思う。


ギャル文字やそう言った用語で書かれた、
ケータイ小説よりかは、長く残るだろう。
これらは具体性が強過ぎる。


だが、後世に残る事と、作品の良し悪しは別だ。
後世に残らずとも目的を達した作品は多く在る。
想定した読者に届けば良いと言う奴だ。
さらに作品で伝えたい事が、
そういった読者に届けばより成功だろう。
また、これらは作品の売り上げとも関係ない。


後世に残す事を狙って作品を作る事は、本当に難しい。
ゲーテの「 ファウスト」や、
ガブリエル・ガルシア=マルケス
百年の孤独」を例に出さなくてはいけなくなる。
だが、この2作も【抽象】のバランスが素晴らしい作品だ。
いつか芝村さんがそれを狙って書いた物を読みたいな、と思う。




【批評ここまで】

個人的な感想で言えば、
俺は芝村さんが書く文章のファンであるので、
そう言った物が出るだけで諸手を上げて大喜びである。


その様は、ライムスターのラッパーであり映画評論家の
宇田丸さんがクリント・イーストウット監督の作品を
べた褒めするが如く、
ジャズミュージシャンにして文芸家の菊地成孔さんが
マイルス・デイヴィスの作品をべた褒めするかの如くである。
しかしこのお二人ともまじめそういった作品に対して、
批評もしているので、それに習う事にした。
(と、いう自分自身への批評)


さて、ジブリールとソフィー、そしてシャウイー、
だれが一番可愛いか議論しようか?
とりあえず、ロリコンは身ぐるみ剥がして、
タクラマカン砂漠に捨てる事にしよう。
生きて帰って来れたら許す。
そしてカーリマンを名乗るが良い。


一応言っておくが、
この批評の最初にアマゾンへのリンクが貼ってあるが、
アフェリエイトなどではない。













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