梅原大吾著「勝ち続ける意志力」批評その1。この本を読んだ事がない人へ、そして読んでも今イチ内容が判らなかった全ての人へ。小説と専門書と自伝と新書の違い。伝達の抽象と具象。物事の3つのレベル、戦術、戦略、政治。長期的に負けない事とは。に関する螺旋する批評


梅原大吾:著
【勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」】
ためし読み:http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784098251322



主にゲームセンターや家庭用ゲーム機で稼働している
ストリートファイターシリーズ。
そのプレイで活躍されているプロ格闘ゲーマー梅原大吾さんが著作した、
【勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」】。
この本の批評を「過去に出版された『勝つ事』や『勝負』を主題にした本」と
比べて評して行きたい。
以下の「」内は、なぜ、批評を1つしか書いた事の無いこのブログで、
書評なんて物をしようかと思ったかを書いている。
なので飛ばしてくれて構わない。



 「まず俺が著者である梅原さんのファンであるからだ。
  梅原さんの活躍は彼が子供であり、また俺も子供であるころから
  ゲーム雑誌やテレビ番組等で知っていた。
  本格的に彼のファンになったのは、
  この本でも冒頭にて取り上げられている、
  通称『背水の大逆転』http://www.youtube.com/watch?v=pS5peqApgUA
  視てからという良く居るファンだね(笑)
  そして、久しぶりに新品を買った新書
 (日常用んでいるのは、古い小説や、値段が高い物が多いので、
  古本屋や図書館を利用している)であり、面白かったのが第2の理由だ。
  最近読んだなかでも面白い本はいくらでもある。
  ジェイムズ・ジョイス 『フィネガンズ・スネイク』や
  フェデリコ・フェリーニ『 私は映画だ—夢と回想』等だ。
  が、そう言った本の批評はこの世に溢れている。
  発売したばかりの
  『勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」』は
  そこまで多くは……
  ジョイスフェリーニの本と比べて多く批評が書かれている
  と言う事はこれが名著であってもさすがにないだろう(笑)
  ならば俺が書いてみようか、というのが第3の理由だ」






【批評ここから】




【勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」】
(以下、【勝ち続ける意志力】と呼ぶ)は
とても良い本だと思う。
が、それだけではただの感想になってしまう。


批評とは、批して評する、という2文字で出来ている。
批とは付き合わせる事(比べる事)、評とは論じ定める事だ。
ということで、色々な他作品を
(自分の覚束ない知識の中で)例に出しながら、
この【勝ち続ける意志力と呼ぶ】がどうであったか書いて行こう。
一応断っておくが、例に出した作品を貶めたりする気持ちは一切無い。
書評はランク付けではない。


まず批評を始めるにあたって、
この本がどういった人々に向けて書かれているかを考えなくてはならない。
所謂〈推定主要読者層〉という奴だ。
それを判断してこそ批評と言う事が可能になる。


例えば、
自転車ロードレース、ツール・ド・フランスで7年連続総合優勝を果たした
ランス・アームストロング著作の
【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】を指して、
彼の自伝でもあり闘病記であり、精神的強さの秘密の暴露であり、
彼とロードレースのファンの為に書かれたこの本を、
「ロードレースに勝つ為の技術的な面がまったく書かれていない」と
評するのはお門違いと言う奴だ。
(そういった本を書いて欲しいと期待するのはともかく
(そしてそれは批評ではなく感想だ))。


この【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】を評するのならば、
専門的な技術書ではなく、メンタル面の話しと自伝、
そしてファンに向けて書かれた本として評する目線を持たなくてはならない。


この本と、ポーカーの世界大会である
ワールドポーカーツアーの優勝者であるフィル・ゴードン著作の
ポーカーに関する勝つ為の〈戦術書〉、
確率論から経験則、心理学までに及び書かれている、
【ポーカー攻略法 入門編】(通称グリーンブック)を
比べるのは間違っている。
それよりも、Jazzの帝王と呼ばれたマイルス・デイビス著の、
彼の生い立ちと音楽に対する思いを書いた自伝である
【自叙伝】と比べる方が適している
(この本もまた闘病記の一面を持っている)。


前者の様な〈戦術書〉ではなく、
後者の様な〈自伝〉と比べて【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】を、
自伝として或は闘病記としてどうなのか?
ファンの為に書かれた物としてはどうか?
という視点で比べてこそ、
本の目的やその目的を達成する事ができているのかどうか、
と言う事を語る事が可能になる。


逆を返せば、
フィル・ゴードン著作の【ポーカー攻略法 入門編】の様な、
技術の伝授を目的とした本を評する際に、
【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】や
マイルス・デイビス自叙伝】の様な、
自伝を持ち出すのは間違っており、
比べるのならば同じく技術の伝授を目的とした本、
チェスの世界チャンピオンである
ボビー・フィッシャー著の棋譜解説書である、
【 魂の60局 】や【チェス入門】と比べて評するのが
理にかなっているという事だ。


【ポーカー攻略法 入門編】を批評するのに
ランス・アームストロング著作の
【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】を引き合いに出して、
「【ポーカー攻略法 入門編】では
【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】でのアームストロングの様に、
 フィル・ゴードンの半生が描かれてない。
 だからだめだ(或は、だから良い)」とするのも間違っている。


もしも、【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】や
マイルス・デイビス自叙伝】と
【 魂の60局 】や【ポーカー攻略法 入門編】を比べるのならば、
それぞれの本の目的の違い、
前者がメンタル面の話しと自伝、
そしてファンに向けて書かれた物であるいう事と、
後者が〈戦術書〉や技術の伝授を
目的とした本であると言うことを十分理解し、
それを批評を読む読者に提示してから評さねばならない。




本を批評する際にはまずその本自体の目的、
それはずばり〈読者層〉という事であり、それを考えねばならない。
特にこれは小説以外の本、技術書などにおいて顕著になる。
同じ分野の技術書であっても、
入門書なのか専門的な上級者向けの内容を持つ本なのかを
判断しなければ評する事が出来ないという事だ。


例えばフランス料理のレシピ本である、
世界的に有名なフランス料理のシュフである
ジョエル・ロブション著の三冊の本、
ジョエル・ロブションのお家で作るフランス料理】と
【ロビュションの食材事典】と【ジョエル・ロブションのすべて】を
同じ著作者で同じフランス料理のレシピ/解説本だからと、
単純に一緒くたにして比較してはならない。


する場合には
それぞれの本が持つ目的=それぞれの読者層などを考え理解し、
その上で比べて評さなくてはならない。
上記のジョエル・ロブション著の3つの本は、
その専門性も推定される読者も異なる。


では、梅原大吾著の【勝ち続ける意志力】はどうなのか?
(以下、梅原大吾ウメハラと呼ぶ。
 これは彼のリングネームでもあり、
 彼がするサインもカタカナで「ウメハラ」と書かれている)


そもそも、【勝ち続ける意志力】は自伝なのか技術書なのか?
それを知る事はこの批評冒頭にある、
〈推定主要読者層〉を特定でする事でもある。
【勝ち続ける意志力】は一見その判断がつき難い。


それを解きほぐして行こう。



【勝ち続ける意志力】の〈推定主要読者層〉を特定するのには
まず、この本が発行されたレーベルについて考えなくてはならない。


そのレーベルとは小学館の〈小学館101新書〉だ。
〈新書〉とは共通の「本の決まった形状」と
「ある特定の内容」を持つ書物を示す言葉だ。
イギリスのペンギンブックス、
そしてペンギンブックスから発生したペリカンブックスを参考に
日本で最初の新書レーベルである岩波新書が発売された。
「本の決まった形状」とはこの岩波新書の縦長のサイズの事だ。


通常は18CM×11.1CMとなっていてこれはペンギンブックスに先立ち、
同じくイギリスで発売された
アルバトロス・モダン・コンティネンタル・ライブラリーという
レーベルの本が最初に取り入れたサイズだ。
イギリスは1932年の出来事だ。
普通の単行本やハードカバーと比べて細長いこの形状は
上着等のポケットに入り持ち運び易いと言う事でヒットし、
それ以降のレーベルもこれに習った。
海外ではポケットサイズと呼ばれている。
これらを参考に発売された岩波新書と言う〈新書〉レーベルの本も、
そして岩波新書を参考にそれ以降発売された
別の出版社の〈新書〉本もこのサイズになっている訳だ。
因に日本の〈新書〉本はこれらより若干小さいサイズになっている。
兎も角、実際の本屋の〈新書〉本コーナーに行けば、
様々な出版社が独自の〈新書〉本レーベルを
持っているのにも関わらず、
出版社の枠を越えてそのサイズが統一されている事を実感出来るだろう。


小学館101新書〉から発売されたウメハラ著の
【勝ち続ける意志力】も勿論ポケットサイズになっている。
これが〈新書〉が持つ「本の決まった形状」という物だ。

では新書が持つ「ある特定の内容」とは何か?




それぞれの〈新書〉本レーベルに得意の傾向はある。
それは人文学だったり科学だったり宗教だったり歴史であったりする。
岩波新書がモデルにした上記のペリカンブックスは
ペンギンブックスから
科学や一般教養を取り扱う専門レーベルとして枝分かれして誕生した。
だから〈新書〉に共通する
「ある特定の内容」とは決して書かれている内容のジャンルの事ではない。


〈新書〉に共通する「ある特定の内容」とは
専門的になりすぎる事がなく、
〈広く一般大衆に知識を与え、啓蒙出来る内容〉を指している。


啓蒙とは人々に正しい知識や技術を与え未来を明るく指し示す事を言う。
一般大衆に開かれている故に、
〈新書〉1冊のページ数は他の本
(文庫等やハードカバーと比較して)多くなく、
扱う内容のジャンルは多様にある。
(だからこそウメハラというプロゲーマーの本が、
 どこの書店にも置かれる
 〈新書〉と言う内容の本を扱うレーベルから発売出来たと言う事だ。
 【勝ち続ける意志力】がサブカルチャー
 扱う出版社やそのレーベルから発売されていたら、
 売れ行きも扱われ方も随分と変っていた事だろう)


と言う事で、新書である【勝ち続ける意志力】は、
広く一般大衆に知識を与え、
啓蒙出来る内容を指している故に専門書ではない。


だが、どんな本にも専門性と云う物がある。
上記に出た本を例にすれば、
【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】は自転車ロードレース。
マイルス・デイビス自叙伝】はジャズ。
【 魂の60局 】はチェス。
【ポーカー攻略法 入門編】は
(テキサスホールデムスタイルでの)ポーカー。
ジョエル・ロブションのお家で作るフランス料理】等は
フランス料理という専門性を持っていると言う事だ。


そして【勝ち続ける意志力】は
プロ格闘ゲーマーのウメハラが書いている以上、
その専門性は格闘ゲームと言う事になる。



専門性を持つ事と本の良し悪しは関係がない。
だが専門性は本の内容と緻密な繋がりを持つ。
つまり専門性が高いのか低いのか、専門のどの面を語るのかが本の内容、
そしてその本の読者を設定するという事だ。



【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】や
マイルス・デイビス自叙伝】は〈自伝〉と言う内容の形態を
取っているため専門性は低く、
しかし個人(アームストロングとマイルス)が思う、
各専門分野(自転車レースと音楽)への
個人的精神的な考えという面が強調されている。
(専門的な技術の中にも精神的な技術という物があるが、
 それと各個人が抱く"思い"というのは別に考えるべきだろう)


〈戦術書〉や技術の伝授を目的とした本である
【 魂の60局 】と【ポーカー攻略法 入門編】は
実戦の為の或は実戦を解析した内容であるため専門性が高く、
個人の思いという面は(自伝程は)強調されていない。


【ロビュションの食材事典】等のロブション著の3冊のレシピ本は、
レシピと言う形態を取っているが故に専門性が高いと言えるが、
各本によりその専門性の高低が違い、また語られる面も異なる。


この様にどんな本も専門性を持つがその高低は違い、
語られる面も異なる。
では【勝ち続ける意志力】はどうなのか?




【勝ち続ける意志力】は〈新書〉と言う、
〈広く一般大衆に知識を与え、
啓蒙出来る内容〉の形態を取っている故に、
専門性は高くはない。


だから、【勝ち続ける意志力】と、
ウメハラが活躍している
格闘ゲーム「SUPER STREET FIGHTER Ⅳ (通称スパ4)」の
技術及び理論的な専門書であるエンターブレインから出版されている、
【SUPER STREET FIGHTER Ⅳ ARCADE EDITION Ver.2012 極の書】を
同じ目線で比べる事は出来ない。


前者は〈新書〉であり
後者は専門性が高い〈戦術書〉や技術の伝授を目的とした本だ。
だから
ウメハラが書いているのにスパ4の具体的な勝ち方が書いていない。
 なのでこの本は駄目だ(または、良い)」と評するのは間違っている。


2012年の4月2日に発売された【勝ち続ける意志力】は
4月5日の時点でAmazonベストセラー商品ランキング:本の部門で
7位に入っているが、
ビジネス・経済 > ビジネス実用 > 仕事術・整理法
ゲーム攻略・ゲームブック > ゲーム攻略本
本 > 投資・金融・会社経営
という細分化されたジャンルの3部門で1位になっている。


ゲーム攻略・ゲームブック > ゲーム攻略本というものは、
プロゲーマーであるウメハラの著作と言う事で入ったのだろうが、
仕事術・整理法と投資・金融・会社経営
というゲーム以外の部門でも一位にも入っているのが、
【勝ち続ける意志力】が〈新書〉が目的とする
〈広く一般大衆に知識を与え、啓蒙出来る内容〉を持っていて、
それを書くことに成功していると言う証左だろう。


繰り返す事になってしまうが、
【勝ち続ける意志力】は
格闘ゲームプレイヤー向けに書かれた専門書ではなく、
広く一般に対して書かれた本である。


つまり【勝ち続ける意志力】の〈読者層〉とは
広い一般大衆と言う事だ、


【勝ち続ける意志力】が専門書ではない事が判った。
では何なのか?
本の内容の括りには〈自伝〉や専門書の他に、
〈小説〉という物がある。




【勝ち続ける意志力】は〈小説〉だろうか?


現在では〈小説〉は作者の構想を元に書かれた虚構の
(または事実を元にした)物語と
捉えられていると考えて概ね間違いはないと思う。
この様な歯切れの悪い言い方になるのは、
小説の定義が人により曖昧で、
有名な辞書であってもそれぞれの〈小説〉という
言葉の定義が異なるからだ。


日本で小説という言葉が誕生したのは明治だ。
坪内逍遥が英語の〈Novel〉という言葉の訳に〈小説〉という言葉を
当てた事から始まる。しかしただ英語を訳しただけではない。
〈小説〉という言葉をそれまでの江戸時代などに書かれていた
勧善懲悪等の特徴があるお話である〈戯作〉に対する、
新しい話しの書き方を指し示す言葉として
〈小説〉という言葉は使用された。


〈小説〉という言葉が指し示す新しい話しの書き方とは、
人間の深い内面や複雑な人間性をお話により描く事を云う。
坪内逍遥はその著書【小説神髄】の中で、
曲亭馬琴著の戯作【里見八犬伝】を勧善懲悪の代表的な作品として、
これからの新しい小説と対比させて批評している。


日本語の〈小説〉という言葉の元になった
英語の〈Novel〉はイタリア語の〈novella〉に由来している。
〈novella〉は新しい話しという意味を持つ言葉だ。


〈novella〉は14世紀に書かれたジョバンニ・ボッカッチョ著の
デカメロン】等の事を指していた。
デカメロン】はこの本が書かれた時代(ルネッサンス期)に生きる
10人の登場人物がそれぞれ短い物語を話すという内容のお話だ。
ダンテ・アリギエーリ著の【神曲】が叙情詩になのに対して、
デカメロン】は韻踏や行に文字数の制限がない散文形式で書かれている。


英語の〈Novel〉は【ハムレット】に代表されるシェイクスピア作の戯曲や、
ジョン・ミルトン著の【失楽園】に代表される叙情詩に対する、
散文形式で書かれた"新しい"フィクションの事を示す。
18世紀前半に書かれた、
ダニエル・デフォー著の【ロビンソン・クルーソー】、
ジョナサン・スウィフト著の【ガリバー旅行記】、
サミュエル・リチャードソン著の【パミラ】に等に対して
使われ始めたのが英語の〈Novel〉だ。


英語の〈Novel〉の元となるイタリア語の〈novella〉の語源は、
〈新しい〉という意味を持つラテン語〈novus〉から来ている。
またラテン語でも〈小説〉を指す言葉として〈Novellus〉という物がある。


〈Novel〉も〈novella〉も〈小説〉という意味だけではなく、
〈新しい〉という意味を持つ言葉だ。
革新を意味する英語の〈innovation〉もこれに由来する。
フランス語の〈新しい〉を表す、
ワインのボジョレー・ヌーボーで同じみの〈Nouveau〉や
映画のヌーベル・バーグの〈Nouvelle〉もこのラテン語に由来している。
だがしかし、フランス語では
〈Nouveau〉に〈新しい〉という意味はあっても、
〈小説〉と云う意味はない。


ラテン語で〈小説〉を指し示す言葉は〈Novellus〉以外にもう1つある。
それは〈romanice(ロマンス)〉だ。


  (ラテン語にも日本語の方言の如く分派がある。
   というかイタリア語にしてもフランス語にしても英語にしても
   ヨーロッパの言葉はラテン語の訛の様な物だ。
  (言語学/記号学者である
   フェルディナン・ド・ソシュールもそう言ってる)
   そういったラテン語の分派の話しを書くと、
   この批評が目指すべく方向から大きくそれるので、
   ラテン語の分派の細かい記述はを省く)



ラテン語は従来、書き言葉と話言葉にあまり違いがなかったが、
時代が経つにつれ両方に違いが生じる様なる。
ついには書き言葉は話し言葉の様に一般市民には理解できなくなり、
書き言葉のラテン語の専門知識がなければ
読む事が出来ない程に分化されてしまった。


この時代のラテン語から分化した話し言葉ロマンス語と言う。
ロマンス語はその後さらに分派し訛となり、ヨーロッパ諸国の言葉……、
イタリア語やフランス語やポルトガル語になる。
或はロマンス語アラビア語が合わさったスペイン語
そしてゲルマン語から分派した言語に
ロマンス語が合わさり英語やドイツ語が生まれた。

当時の人々は、ロマンス語という話し言葉を使用して書かれたお話を、
ラテン語で書かれた古典、あるいは専門的知識に対する
現在の、或は一般民衆の書物と言う意味で
〈romanice(ロマンス)〉と呼んだ。


〈Nouveau〉が〈小説〉という意味を持たないフランス語では、
〈romanice(ロマンス)〉から発生した〈Roman(ロマン)〉が
〈小説〉という意味を持つ。



ヨーロッパ諸国の言葉で〈小説〉を示す場合、
ラテン語の〈novus〉から来ている物と、
ロマンス語の〈romanice〉から来ている物に分ける事ができる。


例を一部出すと、
イタリア語は〈novella〉、英語やインドネシア語〈Novel〉は
スペイン語ポルトガル語では〈novela〉である。


一方、フランス語やドイツ語やスウェーデン語では〈Roman〉
ロシア語では роман (rom〓n) だ。


また、ラテン語で小説を著す言葉を表す言葉が
〈Novellus〉〈romanice 〉の二つある様に、
両方使用している国もある。


ラテン語の直接的な子孫とも云えるイタリア語では、
小説は〈novella〉であり、小説化は
〈novelization(ノヴェッリッザッツィオーネ)
(英語ならばnovelize(ノベライズだ)〉なのだが、
小説家は〈romanziere(ロマンズィエーレ)〉であり、
映画に関連した小説を〈cineromanzo(チネロマンゾ)〉と云う。



勿論、世界の言葉はラテン語から
分派した言葉だけで出来ているのではない、
ギリシア語では〈小説〉を〈μυθιστ〓ρημα (mythistorima)〉
という言葉で示す。
mythistorimaの"myt〈historima〉"という部分に
ギリシア語で〈歴史〉を表す〈ἱστορ〓α (historia)
英語ならば〈history〉との関連性、
あるいは古代ギリシア人であるヘロドトスが書いた歴史書
〈歴史(ἱστορ〓αι(historiai))〉との
関連性も疑う事が出来るのだが調べる事は出来なかった。


因にイタリア語では歴史を小説化したり伝記を書く事を
〈romanzare(ロマンザーレ)〉
歴史小説家を〈romanzatore(ロマンザトーレ)〉という。
イタリア語の〈storia〉は歴史と物語と言う二つの意味を持ち、
英語でお話(物語)を表す〈story〉が
歴史を表す言葉〈history〉から生まれた様に、
歴史と云う言葉と物語と言う言葉の関連性は疑うまでもない。
(〈Novel〉が文字で書かれた
 (古典に対する新しい)物語(小説)に限定され、
 〈story〉が小説含む言葉での
 語りや映画や劇にまで及ぶ意味を持っている事を
 考慮するのを忘れてはならないのだが)


アラビア語では〈小説〉を
〈 رواية (riw〓ya)〉と言い、
アラビア語が流用されアフリカ東海岸部で使われているスワヒリ語でも
〈小説〉を〈 riwaya 〉という言葉で表現している。
しかし面白い事に、アラビア語の(riw〓ya)が伝(言い伝え等)を表す
言葉でもあるのに対して、
スワヒリ語の〈 riwaya 〉には斬新や全く新しいという意味を持つ
言葉としても使用されている。
 


さて、日本の〈小説〉に話を戻そう。
日本の〈小説〉の始まりは、
坪内逍遥が英語の〈Novel〉という言葉の訳に
〈小説〉という言葉を当てた事から始まると前述した。
だが〈小説〉という言葉はそれ以前から使われている。
しかしその場所は日本ではなく中国だ。


〈小説〉と言う言葉が使われた最古の記述は、
紀元前4世紀から紀元前3世紀に荘周により書かれた【荘子】だ。
(といってもそれが書かれた雑篇は
 荘周自身が書いた物ではなく後世に書かれた物であると
 現在では看做されている。
 ……それでも紀元前の話だが。
 因に荘周自身に付いても後世に作られた架空の存在だという説がある)


荘周著の【荘子】で〈小説〉という言葉が使われるのは


   「飾小說以干縣令,其於大達亦遠矣」


書き下し文にすると、


   「小説を飾り以て辞令を幹とし、其れ大達すること亦た遠し」


という部分だ。
これは中国の春秋戦国時代(紀元前8世紀〜紀元前5世紀)の
ある君子の話を
例えとしてだしている文書の中の一行だ。


春秋戦国時代において王を名乗れるのは周国の王だけであり、
周国に従う列国の君主は王ではなく公と呼ばれた。
故に公の息子達は王子ではなく公子と呼ばれた。


公子が大きな釣り竿と大きな餌でとても大きな魚を釣った。
人々はこの話に下らない装飾を付けてうわさ話をして後世に伝えた。
大きな魚を釣るのには大きな釣り竿と大きな餌がいる、
反対に小さな餌では小さな魚しかつれない。
これと同様、下らない装飾を付けた様なつまらない説を幾ら話しても
それは自信の高名を得る事や立身出世には繋がらない、
という例え話の内の一行が上記の物だ。


荘子】の数十年後に書かれた、
太公望と周王の会話により作られる〈戦略/戦術書〉、
政治指南書である【六韜】でも
太公望と周王の出会いの話として同じ様な話しが出て来る。


「飾小說以干縣令,其於大達亦遠矣」は
人々はこの話に下らない装飾を付けてうわさ話をし後世に伝えた、
という事であり、
これはつまらない説を幾ら話しても
それは自信の高名を得る事や立身出世には繋がらない、
という部分によって批判されている。

つまり〈小説〉と言う言葉が使われた最古の記述での〈小説〉とは、
つまらない下らない取るに足らない話しを指す物として使用されたのだ。



君主が政治や国家に付いて書いた説や、
儒教の始祖である孔子の弟子達が書いた【論語】や
曾子の著作と言われる【大学】、子思が書いた【中庸】を〈大説〉と言う。


また中国の官僚や士に置いては〈詩〉の理解や制作が重要とされていた。
中国おける最古の詩篇である【詩経】が学問的に重要視されていること、
中国戦国時代(紀元前5世紀から紀元前3世紀)に
編まれた詩篇【楚辞】に如何に多くの詩が納めらて居るか、
そしてその作者の名前が今でも残っているかという所でも
それは良く分かる。


〈大説〉でもなく〈詩〉でもない、
それらに比べれば取るに足らない散文形式で書かれた話し、
或は話された論説や物語がこの時代の中国の〈小説〉だ。


それから少し時代が進み、
春愁から戦国時代に活躍した様々な思想家や学者の総称を指す言葉に、
諸子百家という物が在る。


班彪、班固親子によって書かれた【漢書】においては、
それまでは6家に分類されていた
学問の分類にさらに4家が加えられ10家としている。
その4家のうち最後に〈小説〉家という物が登場する。


ここでの〜家とは〜学派という意味だ。
しかし孔子による儒教儒家や、
墨子】の墨家老子荘子による道家などの他の9家に比べれると、
小説家は劣るものとして書かれている。


〈小説〉家という学派は、
市井の出来事や説話などを書き残した人々だ。
世の出来事を収集し記録していた役人達から誕生した。
ここでの〈小説〉も荘子の場合と同じく、
〈大説〉ではなくそれに比べると
取るに足らない事という意味で使用されている。


中国戦国時代から400〜500年立った、
六朝時代になると伝承や怪異の記録性を重点とした、
志怪〈小説〉家や伝奇〈小説〉家と呼ばれる〈小説〉家が生まれる。
これは後に六朝時代から800〜1000年後の
明の時代に書かれた
封神演義】【西遊記】や【三国志演義】【水滸伝】などの
伝奇、歴史〈小説〉家へとつながる事になる。


つまり中国に置ける〈小説〉は、
〈詩〉や〈大説〉と対比される庶民の事が書かれたお話、
或は庶民自身が話す物語の事であった。


この中国の〈小説〉と言う言葉を
坪内逍遥が英語の〈Novel〉という言葉の訳として、
またそれまでの江戸時代などに書かれていた
勧善懲悪等の特徴があるお話である〈戯作〉に対する、
人間の深い内面や複雑な人間性を描く
新しい話しの書き方を指し示す言葉として使用したのだ。


その新しい話しの書き方が初めて成功したと言われているのは、
坪内逍遥の弟子である二葉亭四迷が著作した【浮雲】だ。
この〈小説〉は戯曲を脱して、
人間の深い内面や複雑な人間性を描く事に成功した。


さらに【浮雲】はそれまでの書かれた物語とは違う
〈言文一致〉で書かれている。


〈言文一致〉とは書き言葉ではなく、
現在(当時)の話し言葉で書かれている文章と言う意味を指す言葉だ。
これをもって〈小説〉と呼ばれる
新しい話しの書き方と〈言文一致〉で書かれた物語が完成した。


これで〈小説〉或はその英語である〈Novel〉が使われた始めた
当初の意味とその背景が判った。




【勝ち続ける意志力】は〈小説〉だろうか?という問いの冒頭で、
現在では小説は作者の構想のもとに書かれた虚構の
(または事実を元にした)物語と
捉えられていると考えて概ね間違いはないと思う、
と歯切れの悪い言い方で書いた。


〈小説〉〈Novel〉という言葉の成り立ちやその違いが判り、
〈小説〉という言葉の定義の難しさも判明した。


一般的に〈小説〉と見なされている書物のジャンル、
私小説や純文学、ライトノベルなどの定義が曖昧なのも、
大本となる〈小説〉という物の定義がこの様に曖昧だからだ。


例えばある家電の取扱説明書の作者が
「私が書いた取扱説明書は1つの製品の使い方を巡る推理小説
 あるいは或る物に対するフェティシズムと愛情を表した
 明確に話の筋(物語)が存在する小説である」と言った場合
完全にそれを否定出来るのか?
またはあるライトノベルの作者が
「この著作は自己体験を元にした
 芸術に重きを置いた私小説にして純文学である」と言った場合に、
それを否定出来るのかどうか?
という想像的な思考実験的な遊びをしてみれば、
そのジャンルの不安定さと曖昧さが良く分かる。



日本の〈小説〉は〈戯作〉に対する新しい内容と
話し言葉で書かれたお話であり、
中国の〈小説〉は〈大説〉や〈詩〉に対する市井の者、
民衆が言う取るに足らないた論説やお話であり、
英語の〈Novel〉はイタリア語の〈novella〉に由来する
叙情詩や戯曲に対する散文形式で描かれたフィクションであり、
イタリア語の〈novella〉は
新しい話しという意味がある散文形式で描かれた短い話であり、
その元となったラテン語の〈Novellus〉は同じくのラテン語〈novus〉、
新しいという意味の言葉をを元にした物であり、
ラテン語でもう1つの〈小説〉を表す〈romanice 〉、
そしてそれを元にしたフランス語などの
〈Roman〉は当時の話し言葉で描かれた、
また古典に対する民衆の側に立ち描かれた話であり、
アラビア語の رواية (riw〓ya)〉は
伝(言い伝え等)という意味も持つ言葉であり、
スワヒリ語〈 riwaya 〉は斬新と言う意味も持つ言葉であり、
ギリシア語のμυθιστ〓ρημα (mythistorima)〉は
歴史と言う言葉との関連性も
疑う事の出来る事であった。


この様に並べると全ての国の〈小説〉を
表す言葉や定義に共通する定義と言うものはないが、
いくつか反復して繰り返されるキーワードの様なものを
見つける事が出来るのが判るだろう。


古典と詩に対する〈新しい書き物〉、
現在(当時)の〈話し言葉で描かれたもの〉、
〈民衆の側〉に立ち描かれた話、
これらが反復して繰り返されるキーワードだ。



もしこれら3つを〈小説〉の定義だとした場合、
今現在発刊されている小説のどれほどが〈小説〉と
認める事ができるだろうか?


古典と対比する〈新しい書き物〉という所では、
古典という言葉の意味を定義する所から始めなくてはならない、


そこでは古典を表す英語である〈classic(クラシック)〉は
ラテン語で階級を表す〈CLASS(クラス)〉を
元にしており古い物や伝統という意味ではなく、
最上級の物という意味の方が大きい。
では今現在の書物は古典に〈新しい書き物〉なのか、
〈CLASS(最上級の物)〉に対してはどうなのか?
というこれもまた不安定さと曖昧さに塗れる
批評と言うより上手く言っても推論と思われる話をしなくてはならない。


現在(当時)の話し言葉で描かれたものという点で見た際には、
当時のある層
(この場合は女子中高生の一部の層、ギャル等と言われた女性)の
言葉で書かれたkiki著の【あたし彼女】の様なケータイ小説等の、
限定した物以外〈小説〉と呼べなくなる。


民衆の側に立ち描かれた話とした場合、
民衆の側とはなにか?
例えば現在の経済的政治的立ち位置に限定に話を進めても、
不景気な(株式及び会社組織的にではなく、
一市民一労働力として不景気を感じる)現在では
小林多喜二著のプロレタリア小説〈蟹工船〉等の
貧困を感じる、貧困を経験する民衆の側に立った物のみが
〈小説〉であるのか?
(この小説が近年リバイバルヒットしたのも記憶に新しい)
という是非から始めなくてはならない。


と、この様に各国の〈小説〉という言葉の中から反復されるキーワードを
抜き出してもその定義を特定するの難しい。
〈小説〉という言葉、そして〈小説〉自体を定義しようとすると、
この様に曖昧で不安定故に極論的に上記した
「家電の取扱説明書を小説と言い張る男」の様な存在とも
議論を重ねなくてはならない。


だからこそ、この評論では〈小説〉を、
各国の原義的な〈小説〉という意味をわきにおいて、
今一般で〈小説〉と捉えられていると(考えられる)、
作者の構想を元に書かれた虚構の(または事実を元にした)物語として
限定せねばならない。




この批評に置ける〈小説〉の定義を解明するのに、
随分と時間が掛かってしまった。
しかし批評は推論や感想になってはならない。
(念のために書くがそれらと比べて批評が上と言う事ではない。
ただの形式の問題だ)
だからこそこの様な批評する者が出来る限りの厳密な手段によって
対象(ここでは【勝ち続ける意志力】)を論じなければならない。
批評と云う物は、対象をある別の物と比べて評する物と、
この批評の一番初めの方に書いた。
それは批評とは対象の様々な面
(それは批評が対象のどの様な面に視線を向けるかで異なる)を
解き明かす推理、
あるいは推理〈(定義が難しい段階での)小説〉という事である。
だからこの批評をある1つの推理小説の推理部分だとでも
思って読んでくれれば幸いだ。




では、この「作者の構想を元に書かれた虚構の
(または事実を元にした)物語」という視点からみて
【勝ち続ける意志力】は〈小説〉だろうか?
【勝ち続ける意志力】は虚構ではなない。
また事実を元にした脚色した所謂セミフィクションでもない。
つまり【勝ち続ける意志力】は〈小説〉ではないと、
この限定された〈小説〉の定義の中では云う事が出来る。





では、【勝ち続ける意志力】は〈自伝〉か?
〈自伝〉とは作者自身が自らの人生を振り返り書いた伝記の事だ。
伝記とはある個人の行いや記憶と記録、
それらを踏まえた生涯を記録し書く事だ。


【勝ち続ける意志力】は作者であるウメハラが、
自分のこれまでの出来事を振り返り書いている段落や章が数多くある。
実際この著書に書かれてい部分を例に出すと、
本書の始まりである「プロローグ」では、
アメリカのチャンピオン[ジャスティン]と繰り広げた
名勝負『背水の大逆転』を
振り返り書いている部分が在る。
その他にも『第一章 そして世界一になった』
『第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護』『第五章 ゲームに感謝』では、
ウメハラがこれまで人生の一部を振り返り書いている。
この視点からみると【勝ち続ける意志力】は〈自伝〉だと言える。


だが〈自伝〉として【勝ち続ける意志力】を見ると不十分さを感じる。


例えば、ランス・アームストロング著作の
【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】は
生まれた時から現在に至る彼の行動や思考や情動が
赤裸裸と言って良い程に書かれている。
それは恋の事や病気の事、結婚や子供作りに関する事にも及ぶ。
またスポーツ選手としてみても、
彼のキャリアにとって重要なレースの事が書かれている。


現代タンゴの第一人者でありバンドネオン演奏者の
アストル・ピアソラの自伝【ピアソラ自身を語る】では
(といってもこれは彼にしたインタビューを構成したものだが)
彼の生涯と音楽や恋にまつわる話しが実に濃厚に詳細に書かれている。



【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】【ピアソラ自身を語る】の様に
【勝ち続ける意志力】では恋の事は書かれていない、
しかし〈自伝〉に必ず恋の要素が必要だと言う訳ではない。


〈自伝〉とは作者自身が
自らの人生を振り返り書いた伝記の事だと書いた。
だからそもそも一個人の人生において恋が必要なのか?
という所まで言及しなくてはならない。
その結論はここでは省くとしても、
そんなものは各個人次第だとしか良い様がない。
それが恋ではなくても金でも友でも夢でも良い。


ここでいう恋の事が書かれていないとは
【勝ち続ける意志力】に置いて
ウメハラのプライベートが書かれていない、
書かれていたとしてもとても薄いという事だ。


また【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく】を
スポーツマンとしてのルイス・アームストロングの
自伝として見る様に格闘ゲーマーのウメハラの自伝として
【勝ち続ける意志力】を見ても、その面は薄いと言える。


彼がプレイした印象的な試合である『背水の大逆転』や、
彼が10代の頃行われた、
アメリカのアレックス・ヴァイエイとの世界一を掛けた戦い。
格闘ゲームの世界大会とも言える
「Evolution2009」などの事は書かれているが、
格闘ゲームのプレイヤーとしてそしてファンとして知りたい試合が
多く語られていない。


具体的に例を出すと、「Evolution2010」や「Evolution2011」
日本で行われる大規模な大会で「闘劇
ロサンゼルスで行われた大会ながら日本人同士の決勝になった「ReveLAtions2011」
ウメハラがルールを提唱した「Godsgarden」などがそれであり、
まだまだ他にもある。


この様に〈自伝〉としては"薄い"【勝ち続ける意志力】であるが、
内容の完成度が低い著書であるのか?といえばそうではない。
【勝ち続ける意志力】は〈自伝〉として見る事が出来るが、
〈自伝〉としては書かれてない。
結果として"薄い"〈自伝〉として見る事が出来るというだけだ。


では、なぜ〈自伝〉としては薄くても
内容や完成度が低い著書ではないのか?
またなぜ〈自伝〉として見る事が出来る様な内容が
書かれているのか?といえば、
それはこの〈自伝〉と看做せる部分が〈証拠〉として
機能する為に存在しているからだ。


何の為の〈証拠〉なのか?
それは【勝ち続ける意志力】内で書かれる
〈勝ち続ける為の意志力〉の〈証拠〉という事だ。
そして〈勝ち続ける〉為の戦術や〈戦略〉の〈証拠〉という事でもある。




【勝ち続ける意志力】は〈新書〉が目的とする
〈広く一般大衆に知識を与え、啓蒙出来る内容〉を持つ書物であり、
格闘ゲームプレイヤー向けに書かれた専門書ではなく、
〈小説〉でもなく、〈自伝〉としても薄い。


では一体何を一般大衆に知識として伝えるのか。
それは〈勝ち続ける為の意志力〉である。


〈勝ち続ける為の意志力〉を伝える書物。
勝利に関する事を伝える書物。
それは〈戦術/戦略書〉といって良い。
もちろん、専門的になりすぎる事がなく一般大衆に伝わる様になのだが。


以下、各種の戦闘や戦争や戦略に関する各書物、
古くは孫武が著作した【孫子】や、
近代ではクラアウゼヴィッツ著の【戦争論】などを引き合いに出しながら、
戦略や戦術、つまり勝つ事=目的を果たす為の手段、
それを伝える際のやり方、抽象と具体に付いて書いて行こうと思う。







戦略や戦術を伝える著作にも色々ある。
前出のボビー・フィッシャー著の【 魂の60局 】や【チェス入門】
フィル・ゴードン著作の【ポーカー攻略法 入門編】もその一部だ。
しかしウメハラ著の【勝ち続ける意志力】は
〈新書〉故にそういった1つのジャンルの専門書ではない。
では、どうやって戦略や戦術、
勝つ事=目的を果たす為の手段を伝えているのだろうか?



チェスやポーカー、

または格闘ゲームでの戦術や戦略は他のジャンルには使えないのか?
それは違う、或るジャンルの戦術や戦略は他のジャンルにも応用が利く、
その戦術が全体的に専門的であり応用が不可能であっても、
『勝負』に対する心構えや冷静になる方法等の精神的な技法は応用が利く。
【勝ち続ける意志力】の中でも


   「ゲーム業界に一切関係ないジャンルに生きる人々から
    学べる事は多く(中略)
    ゲームの知識が全くない人かでも、
    精神面のアドバイスならいくらでも傾聴に値する。
    先生はどこにでもいる」


と書かれている。
諺にも「一芸は道に通ずる」と云う物がある。
意味は1つの事(ジャンル)を極めた者は他の事(他ジャンル)の
道理も知っているという事だ。


野球の名バッターが話すバットの振り方の話が恋の叶え方に
(応用出来る様に)聞こえたり、
株や為替の有名トレーダーが話す売買の仕方が
将棋やサッカーの必勝法に聞こえる事はある。


【勝ち続ける意志力】においては
麻雀という物と格闘ゲームという物に共通する
勝ち続ける為の方法が書かれている。



ファッションブランドである、
イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オムや、
クリスチャン・ディオールの男性向けブランドである
ディオール・オムのデザイナーであった
エディ・スリマンはデザイナーを引退後写真家として活躍した
(後にイブサンローランのデザイナーへとカムバックする)。
全米No.1のヒップホップアーティストであるカニエ・ウェストは、
衣服デザインの分野でも活躍し2012年、
パリ(プレタポルテ)コレクションでデビューした。
オルガニストでありバッハ研究家として有名であった
アルベルト・シュバツァーは40歳間近にして医学博士を取り、
その後アフリカでの医療活動に専念した。


今現在、将棋が世界で一番強いと言われている羽生善治
チェスの世界でも強豪であり……と語るのは
比べるジャンルが近いと言われてしまうかも知れないが(笑)
この様に、1つの道を究めた人物が別の道で大活躍する事がある。


映画を例に出して見てみよう、
ジョン・G・アヴィルドセン監督のいじめられっ子の高校生と
空手の老師との交流を描いた
【ベストキッド(1984年)】がその例の代表だろう。


空手の修業と称し主人公は繰り返し
ペンキ塗りやワックス掛けをさせられる、
この空手に一見関係ない行動に意味を見いだせない主人公であるが、
後々この動作が空手の基礎的な動作や型と通じると知る。


これは単純な行動もきちんと極めれば他の事にも通ずるという事を、
極めて判り易くコミカルに描いた良い例だろう。
(因にジャッキー・チュン主演でカンフーを
 主題にしたリメイク板【ベストキッド】(2010年)では
 ワックス掛けはジャケットの脱ぎ着に変更されている。
 ジャッキー演じるカンフーの達人ハン曰く
 「どんな所にもカンフーはある。
 ジャケットを脱ぐのも着るのも、
 人と接するのも全てがカンフーだ」である)


勿論、一芸は道に通ずるというのは1つの技術に関する話ではなく、
もっと大局的な物事に対する取り組み方や姿勢や真髄に対する話であるが。


この様に、「一芸は道に通ずる」という事は多々ある。
【 魂の60局 】や【ポーカー攻略法 入門編】を読んで、
他の『勝負』事や恋や仕事に生かすのもいいだろう、
だがそれなら最初から自分が欲すジャンルの本を読んだ方が、
戦術や戦略の理解と体得が数倍速いだろう。
或るジャンルから別ジャンルへと通じる戦術や戦略を得る際には、
自分が関わるジャンルヘのある種の変換作業が求められてしまう。
それは専門的になるほど時間がかかるか、不可能になる。


ボクシングのボクサーがある特殊のネジの締め方の説明書
「○○社からでている特殊工具の3ミリ幅の物を使用し、
 5秒で90度回す。これを5度繰り返し〜」と云う物を読んでも
自身のボクシングにそれを活かすのは変換作業が難しいか不可能だが、
ネジを締める際の心構え
「たとえどんな小さなネジであっても丁寧に扱わねばらなず〜」と
言った物を読むならば、
ボクシングに置ける基礎的な動作の重要性等を改めて考える事も
可能だと言う事だ。

まったく


    「先生はどこにでもいる」


ウメハラ著の【勝ち続ける意志力】は〈専門書〉でも〈小説〉でも
厚い〈自伝〉でもないのでそういった変換作業を必要としない。
【勝ち続ける意志力】では変換作業を極力少なくした状態で
〈戦術/戦略〉、勝ち続ける事=目的を果たす為の手段を伝えている。
【勝ち続ける意志力】はそういった本である。




変換作業を極力少なくした状態とは〈戦術/戦略〉の〈抽象〉化という物だ。


〈抽象〉とは林檎を、丸い物や赤い物、
食べられるものや柑橘類と言う事だ。
逆に林檎を赤くて形の良いおいしい林檎といったり、
酸っぱくて青くて美味しくない小さい林檎と言うのが
〈具象〉や〈具体〉的という物だ。
朧げてある種はっきりしないのが〈抽象〉。
正確である種融通が利かないのが〈具象〉という事でもある。


この批評の始めの方に書いた
「専門性を持つ事と本の良し悪しは関係がない。
 だが専門性は本の内容と緻密な繋がりを持つ。
 つまり専門性が高いのか低いのか、
 そして専門のどの面を語るのかが本の内容を設定するという事だ」
とは〈戦術/戦略書〉に置いては伝える内容を何処まで
〈抽象〉化または〈具象〉化するかという問題にも関わる事だ。


〈戦術/戦略書〉に置いて〈抽象〉的に伝える事は
上記の変換作業をあまり必要としないが、
専門的な事は語る事が出来ない。
〈具象〉は専門的な事が語れるので
そのジャンルの答えを求める者に取ってはそれだけで有益だが、
それ以外の者にとっては自身に役立てる為には
多くの変換作業を必要とするか、
あるいは変換自体が出来ない。


多くの変換作業という言葉を、
変換のセンスが必要だと言う言葉に言い換えても良い。


剣豪の宮本武蔵水墨画家としても優れ、
そういった水墨画を描いていたのは
剣術指南というよりも〈戦術/戦略書〉である【五輪書】を
描いていた時期と重なる。
この剣と書と言う二つの事柄の間に
彼が何を感じたのかを考えてみれば良い。
変換のセンスとはそう云う事だ。


ウメハラ著の【勝ち続ける意志力】は〈新書〉で在るが故、
〈専門書〉でも〈小説〉でも厚い〈自伝〉でもないので
極力変換を必要としない〈抽象〉を求められ、
〈抽象〉だから〈専門書〉でも厚い〈自伝〉でもないと言える。


この様に、何かを伝える際、
それが特に(その専門性の高低はあれど)技術的な物の場合、
書かれる事の〈抽象〉と〈具象〉はとても大切だ。


他の〈戦術/戦略書〉と【勝ち続ける意志力】の
〈抽象〉〈具象〉を比べて行きたい。




孫武が著作した【孫子】(紀元前5世紀から紀元前4世紀頃)は
世界で最も読まれた〈戦術/戦略書〉であるが、
それは【孫子】の内容が優れた〈戦術/戦略書〉で
あるからなのは勿論、
戦争以外の『勝負』事に応用出来るからだ。



もし戦争だけに限定して話を進めても、
戦争と言う時代時代に使われる
兵器の性能により戦術が大きく異なる物なのに
紀元前の戦争の勝ち方に付いて書いた本が紀元前から現代までの将兵達に
幾度となく読まれている点でいかに【孫子】が
〈戦術/戦略書〉として優れているかが分かる。
アメリカの米陸軍士官学校(通称:ウエストポイント)では
今でも【孫子】が教えられている。


それは【孫子】が優れた〈抽象〉性を持っていると言う事だ。
〈抽象〉的に伝える事は変換作業をあまり必要としないが、
専門的な事は語る事が出来ない。
〈具象〉的に伝える事は専門的な事が語れるので
そのジャンルの答えを求める者に取ってはそれだけで有益だが、
他ジャンルの者にとっては自身の役に立てる為には
多くの変換作業を必要とすると書いた。


孫子は〈抽象〉化されただけの〈戦術/戦略書〉ではない。
作中には


  「孫子曰、凡用兵之法、馳車千駟、革車千乘、
   帶甲十萬、千里饋糧、則内外之費、
   賓客之用、膠漆之材、車甲之奉、日費千金、然後十萬之師舉矣」
  (孫子が言うには、軍隊の運用の原則とは、
   軽戦(軽戦車)車千台、革車(重戦車)千台、
   鎧を装備した兵十万人の編成分の兵糧を
   千里先に輸送するという規模の場合には
   国と民衆の出費や外交費、出兵に関する装備の費用、
   それら合わせて日ごとに千金の大金を投じ続け、
   やっと十万の軍が出動できるようになる)


 「則輜重捐、是故卷甲而趨、日夜不處、倍道兼行、
  百里而爭利、則擒三將軍、勁者先、疲者後、
  其法十一而至、五十里而爭利、
  則蹷上將軍、其法半至、三十里而爭利、則三分之二至」
 (重装備を捨て強行軍をし千里先の戦場へ敵より早く付こうとすれば
  兵士を指揮する副将軍が3人捕虜にされ、
  全軍の1/10の強い兵士だけが先に到着し、
  後の兵士は遅れて到着する。
  50里先の場合は中級の副将が死に、
  戦場へは1/2の強い兵のみが先に到着する。
  30里先の場合にはそれが2/3になる)


この様に〈具体〉的な数字を出して戦術/戦略論を語っている箇所もあるが、
これらは指で数える程しか登場しない。
他は〈抽象〉化された戦術/戦略論が並ぶ。


今や名言や諺レベルの物になっている、
 

  「故曰、知彼知己者、百戰不殆、不知彼而知己、
   一勝一負、不知彼不知己、毎戰必殆」
  (つまり、敵を知り己を知れば百戦危うからず。
   敵を知らず己のみを知れば一勝一負する。
   敵も知らず己も知らなくては必ず負ける)

  「是故百戰百勝、非善之善者也、不戰而屈人之」
  (これ故に、百戦百勝するのは最善ではない。
   闘わずして敵を屈するのが最善である)


等がそれである。
諺や世間一般に名言と知られて居る言葉はすでに〈抽象〉化されている。
世間一般なのだから専門的であったり、
状況が限定される〈具体〉的では意味が通じないとも言える。


その為、諺はその〈抽象〉化故に真逆の事を言っていると捉える事ができる、
「三度目の正直」と「二度ある事は三度或る」
「善は急げ」と「急いでは事を仕損じる」や
「カエルの子はカエル」「鳶が鷹を生む」の様な物が存在する。
これは〈抽象〉故に語るべき物事の範囲が大きく、
その為、(語るべき物事の範囲の)答えや
真実が1つではないと思われるから起こる事だ。


また〈抽象〉化故に同じ意味を持つと捉える事ができる、
「豚に真珠」「猫に小判」や「馬の耳に念仏」「犬に論語」や
「河童の河流れ」「猿も木から落ちる」等がある。
そして、諺の持つ意味のバリエーション、
完璧に同じ意味ではないがそれと近い意味を持つ様な、
「果報は寝て待て」と「待てば海路の日和あり」や
「雀百まで踊り忘れず」と「三つ子の魂百まで」なども存在する。


これらは〈抽象〉故に起こった事だ。
〈抽象〉は言葉と意味に変えが効き易くバリエーションも生む。
専門的な〈具象〉は変えが効き難い。


極論すればこの世にある全ての物が「あれ」「それ」「これ」という
非常に〈抽象〉的な言葉で指し示す事ができる。


一方専門的な言葉、例えば、
「1966年型 フォード・シェルビー・コブラ427」という言葉は
AC自動車が66年に販売した
フォード社製のエンジンを積んだコブラ427という自動車を指し、
クリニーク ラッシュパワー マスカラ
 ロングウェアリング フォーミュラ 01ブラックオニキス」は
化粧品ブランドであるクリニークが発売した塗る事で
睫毛を強調したり長く見せるマスカラの中で
通常のマスカラよりも皮脂や汗や涙などへの耐性が強く、
強く睫毛の太さを強調するよりも睫毛を長く見せる事に
重点を置いた化粧のブラックオニキス色のみを指し示していると言う事だ。


何らかの意図、暗号や隠語で使用するでもない限り
この専門的な言葉は変えが効かない。
「1966年型 フォード・シェルビー・コブラ427」を
「あれ」と言う事はできるが、
「あれ」を「「1966年型 フォード・シェルビー・コブラ427」と
言う事は出来ない。
この具体的な物事を(〈抽象〉に比べて)
分かり易く表す事が出来るのが専門的な言葉が持つ機能だ。
繰り返す事になるが専門的とは〈具象〉と言う事だ。



孫子】で書かれている内容は〈具象〉ではなく
〈抽象〉の機能を持っている。
孫子】成立当時の背景はここでは置いといて、
その内容の〈抽象〉性が優れており現代の様々な出来事に応用が効くと
現在でも評価されているからこそ、
ビジネス雑誌を主に刊行するプレジデント社から
【今こそ、孫子】などの解説本が発行されているのだ。
そして原文やその日本語訳が今でも読まれている事は言うまでもない。


  (この批評の1つ前に俺が書いた批評
  【芝村裕吏著「マージナル・オペレーション 01」
   批評。作品の現在性と具体と抽象の話し】
   http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20120309/1331257061では
   小説の分野では特に〈抽象〉は残り易く〈具象〉は残り難いと
    作品の時代性と共に論じた)


また上記に書いた「軍隊を運用の原則と(以下省略)」や
「重装備を捨て強行軍をし(以下省略)」などの、
具体的な数字が出ている作中の文章も、その専門性が時代等含め遠く離れ、
明確な結論、「軍隊を運用の原則と〜」の場合は
「やっと十万の軍が出動できるようになる」=
「大規模な出兵計画はそれだけで多くの資金と手間がかかり大変なのだ」
が出ているため例えそれが短絡的な変換であっても
「それだけで多くの資金と手間がかかり大変なのだ」=
「何事も大事は手間がかかる」と
変換し易いという面もあるだろう。
だがそれは副次的な物で全ての文章が専門的だったら今の様に
孫子】は評価されていなかっただろう。


また〈抽象〉とはただぼやかして物事を言う事ではない。
複数の物の中から共通する物を抽出する事だ。
 

 「知彼知己者、百戰不殆」(敵を知り己を知れば百戦危うからず)


という有名なフレーズの前には、


 「故知勝有五、知可以戰、與不可以戰者勝、
  識衆寡之用者勝、上下同欲者勝
  以虞待不虞者勝、將能而君不御者勝」
 (故に勝利を得るのには5つの要点がある。
  戦う時と戦わない時を知る、
  戦力の大小それぞれの有効な使い方を知る、
  上官と兵卒の意志と目的を同じにする事を知る、
  計略を仕込んで油断している者を討つ事を知る、
  そして将軍が有能で君主が必要以上の干渉をしない事を知る)


と(敵を知り己を知れば百戦危うからず)の何を知ればいいのか?
という具体例も上げている。
だがこの具体例も他の様々な事に簡単に応用可能な〈抽象〉を
持っているのが判るだろう。



諺は〈抽象〉化されていると上記したが、
(戦う時と戦わない時を知る)という【孫子】の言葉には、
「善は急げ」と「急いでは事を仕損じる」や
「果報は寝て待て」と「待てば海路の日和あり」等の
〈抽象〉化されたそういった諺さえも内に含んでいる。


   (上記の、複数の物の中から共通する物を抽出する事だ、
    という事は〈本質〉と言う言葉で言い替える事も出来る。
    だがそういった〈本質〉や普遍と言う言葉を出すと、
    物事の〈本質〉や普遍は本当に存在するのか?という
    普遍論争やサルトル実存主義に話が行ってしまう。
    それはこの批評の意ではないのでここでは触れない。


    少し触れるのならばサルトル
   「実存は〈本質〉に先立つ」と言っている。
    〈本質〉が物事に無いのならば、
    ないからこそより広範囲の〈抽象〉化が
    可能だとも言える。
    物事の〈本質〉が決まっていないとは
    後にどの様に変化する事もできる事であり、
    それは応用と言う言葉にも繋がる。
    そして〈本質〉が決まっていないのならば、
    ならばこそありとあらゆる者同士に
    (たとえ強引であっても)共通点を見いだす事も出来る)



孫武の【呉子】と並ぶ〈戦術/戦略書〉に呉起が著作した
呉子】(紀元前4世紀頃)がある。
だが、現代は【呉子】は【孫子】程には重宝されていない。
それは【孫子】は戦略を書いているのに、
呉子】は戦術を書いているからだと言われている。





戦略と戦術の違いは何か?


孫子】と対して評されるカール・フォン・クラウゼヴィッツ著の【戦争論】(1832年)ではこう書かれている。


   「戦術は、戦闘において戦闘力を使用する仕方を指定し、
    また戦略は、戦闘目的を達成するために
    戦闘を使用する仕方を指定する
   (第二編 戦争の理論について 第一章 戦争術の区分)」


   「戦略とは戦争の目的を達成する為に戦闘を使用する事である
   (第三編 戦略一般 第一章 戦略)」



ここから戦略は戦争の目的を達成する為に
何時何処でどのように戦闘をするかということであり、戦術を内に含む事、
戦術とは1つ1つ一回一回の戦闘の目的(敵を倒す事や土地を占拠する事、
被害を出さずに退却する事や決まった期間ある地点を守る事)を
達成する為の仕方(術)だと分かる。


クラウゼヴィッツは戦術を包括する戦略そして戦争の上に、


   「戦争は常に政治的事情から発生し
    政治的動機によってのみ引き起こされる。
    したがって戦争は1つの政治的行為である
   (第一編 戦争の本質について 第一章 戦争とは何か)」


   「戦争は政治と言う指導的な知恵の配下に置かれている(同上)」


と政治を置いている
因に、戦争は


   「相手に我が意志を強要する為に行われる力の行使(同上)」


と言っている。



ここで判明するのは、
戦争や或は広義の闘争に付いての〈勝つ為〉に
語るべきごとは3つに分けられるという事だ。


1つ1つの戦闘(戦い方)についての、戦術。
戦術を含む戦闘を何時何処でどのようにするか、戦略。
戦略に目的を与え最終的に目的を達成する、政治。


   (最終的な目的を達成するのが政治とは、
      

     「上記の二つ(軍事力の壊滅と国土の占拠)が共になされても、
      敵の意志を屈服させない限り、すなわり敵対国とその同盟国を
      講和条約に署名させるか、
      敵の意志を屈服させない限り戦争を終結したとはいえない
     (第一編 戦争の本質について 第二章 戦争の目的と手段)」


    だからであり、
    講和を結ぶのは、ナポレオン戦争ウィーン会議(1814)や
    第一次世界大戦パリ講和会議(1919)を
    例に出すまでもなく政治家の仕事だからである)


これら〈戦術/戦略〉政治に関する事は勿論戦争だけの物ではない。
だからこそ戦争について書かれた
孫子】【呉子】【戦争論】などが訳に立つ、
つまり応用が利く訳だ。



例を出そう。
プロスポーツ、例えば野球チームの一年間の場合は、
政治はその年の優勝チームになる事や上位になる事、
或はチームの存続であったり集客数を上げるという、
現在の球団状況からその時々の長期的な目的を設定する事等だ。
戦略は政治で設定した長期的な目的を達成するために、
ある選手をどの試合に登板させるかだったり、
一年を通じてどの様にチームのファンを盛り上げるかという等だ。
戦術は戦略を可能にするための行動術、
代打の使用時期や代走の判断などから、
守備のフォーメーションやバッドの振り方や
カーブの投げ方など技術的な面、
さらに売店の売り上げを伸ばす商品配置や接客方法などにまで及ぶ。



また【戦争論】では、
これらの他にもう1つ戦争に関するもう1つの分け方をしている。
それは戦争の準備だ。


   「戦争に関する活動は大きく二つに区分される。
    すなわちもっぱら、戦争の準備をする物と戦争自体である
    (第二編 戦争の理論に付いて 第一章 戦争術の区分」


   「準備に必要な技能と知識は、
    全ての戦闘力の創造、訓練及び維持に関係している(同上)」


   「戦争の理論は部隊の補給を戦争に属する活動と同様にせず、
    他の与えられた条件と同様にその結果だけを考慮に入れる(同上)」


この様に戦争の準備という区分もあるが戦術/戦略の理論からは省かれている。それは戦争の準備という物の範囲が広すぎるからだ。


国同士の戦争ならばそれは徴兵や訓練と言った直接的な事から、
税金や教育や交通事情や法や医療や経済や資源に関する事にも及び、
それらも準備という広大な範囲の僅かな一部でしかない。
野球ならば選手やチームワークの練度や
年間の活動資金、新人選手のスカウトや育成、
休場や練習設備の配置と整備等という物だろう。
(もちろんこれらも広大な範囲の僅かな一部でしかない)


戦術や戦略を考えなければならないといった時点で、
既に今現在与えられた物でそれらを考え実行して行かなければならない。
そして扱う範囲が広すぎる故に、
戦術や戦略からこれら戦争の準備は省かれているという事でもある。


これで戦術と戦略の区分、その上に或る政治、
そして省かれた戦争の準備と言う概念が分かった。




では話しを【孫子】が後世にも評価され【呉子】が
そうではなかったという事に戻そう。
その原因は【孫子】は戦略を書いているのに、
呉子】は戦術を書いているからだと言われていると上に記した。
だが実際は【孫子】も戦術を書いているし、【呉子】も戦略を書いている


孫子】に書かれている
  

   「絶水必遠水、客絶水而來、勿迎之於水内、令半濟而撃之利、
    欲戰者、無附於水而迎客、視生處高、無迎水流、此處水上之軍也」
   (川を分かったらその川からは遠ざかる事。
    敵が川を渡って来たならば、
    これを川の中で迎え撃つのではなく、
    敵兵が半数渡った所で迎え撃つ事。
    戦う場合は川の側に向かい出てはならない。高い所に陣取る事。
    また敵より下流に居て上流に居る敵と戦ってもならない)
 

などは川辺と言う限定した場所での具体的な戦い方を上げている点、
正に戦術の事である。これは戦略ではない。


一方【呉子には】に書かれている


   「能備千乘萬騎、兼之徒歩、分爲五軍、各軍一衢。
    夫五軍五衢、敵人必惑、莫知所加」
   (兵車千台と騎兵一万人それに歩兵を付ける。
    これを5つの部隊に編成し、
    それぞれに交通の要を守らせる。
    さすれば敵は必ずどこを攻めれば良いか惑うだろう)


などは兵力をどのような編成でどの様な場所で使うかを上げている点、
戦略である。


この様に必ずしも【孫子】が戦略のみをあげて
呉子】が戦術のみを上げている訳ではない。
ただ書かれている事を戦術と戦略に見て分けた場合、
孫子】の方が【呉子】に比べて戦略を扱う事に紙面を割き、
呉子】は戦術を語る事に重点を置いているという事だ。


また【孫子】は戦略を記しただけでなく、
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
「闘わずして敵を屈するのが最善である」
兵は詭道なり」という名言や諺にもなっている文章や、
「疾きこと風の如く、徐なることは林の如く、
 侵掠することは火の如く、動かざることは山の如く〜」
「始めは処女のごとく、後に脱兎のごとし」という
戦争の戦術や戦略を他の物に例えた物や、
四文字熟語の「呉越同舟」の元となるたとえ話等を書いている。


これは〈戦術/戦術〉の〈抽象〉化という事だ。
呉子】にはそれがない。


また、なぜ戦術よりも戦略を書いた方が〈抽象〉化=応用が効き、
後世にも残るのか?
クラウゼヴィッツ著の〈戦争論〉にはこう書いてある。


   「理論の第一に果たすべき事は入り交じって混乱した概念や
    説明を事を整備する事である
    (第二編 第一章 戦争術の区分)」


   「戦争指導はあらゆる方面に限りなく広がっている。
    しかし理論や学説は体系化をしようとするので、
    理論と実戦の間に矛盾が生じる(同上 第二章)」


   「どんな理論もそれが精神的な領域に入ると、
    体系化の困難が生じる(同上)」


   「下級の地位になるほど個人の犠牲をいとわない勇気が求められるが、
    知性と判断に従う困難は少なくなる(中略)目的と手段も少なく、
    それらは情報は判り易く、
    大抵の場合何度も同じ様な場面を経験している。
    地位が上になるほど困難は増え、
     最高司令官にもなると困難は最高潮に達する(同上)」


   「困難さはどこでも同じ訳ではない。
    効果が物理的な世界で表れる物程少なく、
    反対に精神的な世界で表れる物程、
    特に(将軍等の)意思決定に動機の場合はとても大きくなる」


つまりこれは戦術ならば専門的に〈具体〉的に書く事が出来るが、
戦略だと考えるべき事が多すぎ、
またその時々での手中にある情報も不明瞭なので、
専門的かつ具体的に書くのは難しいという事を言っているのだ。


戦略を読者に伝え読者の役に立てようとする場合は、
その時代時代の不明瞭で様々な戦略に共通する
〈抽象〉的な事柄しか語れない。
戦術は〈具象〉的で、戦略は〈抽象〉的だとも言える。


〈戦略〉を書こうとする時点で(戦術に比べて)
〈抽象〉化は避けられないと言う事でもある。
故に戦略に重点を置く「孫子」は「抽象」的であり、
だからこそ応用が利き易く、後世にも残り評価されたと言う訳だ。


これが【孫子】と【呉子】の現在に置ける評価に違いがある原因だ。
決して【呉子】が【孫子】よりも単純に劣っていると言う訳ではない。
これらの書物が成立した時代背景等も考えなくてはならない。
だが、現在の評価、
現代の戦争やビジネスやスポーツなど様々な『勝負』事へ
応用可能な〈戦術/戦略書〉としては、
〈抽象〉化=応用が利く【孫子】の方が上であると
看做されているという訳だ。
(この批評では解説書等を上げ現代でも
 評価されている事の証明としている)


これは逆に言えば戦術を〈抽象〉的に書く事は(戦略と比べて)
難しいかとても出来ないと言う事でもある。




〈新書〉と言う形態を取っているが故に
専門書ではない【勝ち続ける意志力】は
専門書ではない故に〈抽象〉的で
〈抽象〉的である故に〈戦術書〉ではなく〈戦略書〉であり、
〈戦略書〉故に〈抽象〉的であり、
〈抽象〉故に応用が利き易く一般大衆にまで啓蒙が可能で、
〈新書〉と言う内容の形態と一致しているという事だ。


【勝ち続ける意志力】は〈新書〉という内容の形態に完璧に対応しており、
また内容から〈新書〉と言う形態を作っている。


これでウメハラ著の【勝ち続ける意志力は】は
新書であり〈戦略書〉である事が判った。





戦略に目的を与え最終的に目的を達成する、政治。
目的を決めるのが政治であると上記した。
また、クラウゼヴィッツの【戦争論】に置ける政治とは


   「したがって戦争は1つの政治的行為である」


と言う事でもあり、
孫武の【孫子】に置いては


   「凡用兵之法、全國爲上、破國次之」
   (軍事力の利用法としては、敵国を保ち勝つのが最善で、
    敵国を崩して勝つのは次善である)


   「凡用兵之法、全國爲上、破國次之」
   (戦争の上手い者は良き政治をし、軍政を保つ)としている。


尉繚が著作した〈戦術/戦略書〉である
尉繚子(紀元前5世紀〜紀元前3世紀)】では、


   「凡治人者何。曰、非五穀無以充腹。非絲麻無以蓋形。
    故充腹有粒、蓋形有縷。夫在芸耨、
    妻在機杼。民無二事、則有儲蓄」
   (政治の根本とはなにか?穀物がなくては腹が膨れず、
    生地布がなくては服を作れない。
    衣食が安定していて、安心して夫は農作業をし妻が機を織る。
    こうすれば貯蓄できる)


   「人君有必勝之道、故能并兼廣大、以一其制度」
   (君子は必ず勝てる方法を持っている、
    故に他国を自国へと編入しその法制度を1つに纏める事が出来る)


と全編に渡り〈戦術/戦略書〉であるのにも関わらず政治が語られており、
これらは同作中の、
 

   「兵之教令、分營居陳、有非令而進退者、加犯教之罪」
   (訓練では兵士を部隊の決まった場所に配置する。
    命令もないのに移動者は処罰する)


というクラウゼヴィッツが【戦争論】で
「(取り扱う範囲が広すぎる故に)
  他の与えられた条件と同様にその結果だけを考慮に入れる」として
省いた戦争準備に関する事にも繋がる。


孫子】や【尉繚子】で書かれている政治とは戦争準備の事でもある。
戦争論】では省かれたこれらが【孫子】や【尉繚子】に登場するのは、
戦争論】が戦争準備を省く事により
(【孫子】や【尉繚子】に比べて)
〈戦略〉に関する正確な理論を描こうとしたからに他ならない。


   「準備に必要な技能と知識は、全ての戦闘力の創造、
    訓練及び維持に関係している」


と上記した。


孫子】や【尉繚子】でもこの広大な範囲に及ぶ戦争の準備を
すべて書いている訳ではない、
それはつまり【孫子】や【尉繚子】は【戦争論】に比べると、
書かれている事の〈抽象〉性が高いと言う事だ。
もし大な範囲に及ぶ戦争の準備をすべて書く事が可能ならば、
すこしは〈具象〉性が上がっただろう。




【勝ち続ける意志力】では、
目的という意味での政治も、戦争の準備という意味での政治も書かれている。
タイトルである【勝ち続ける意志力】の
〈勝ち続ける〉と云う物自体こそが政治だ。


【勝ち続ける意志力】の(第四章 目的と目標は違う/目標と目的の違い)や
(同上/目的は成長し続けること)では
目的という意味での政治が描かれている事、
(第二章 99%の人は勝ち続けられない/楽な道はない)、
(第四章/量ではなく質)からは、
戦争準備としての政治と云う物を扱っていることが分かる。


戦術の上に戦略がありこれらは戦争と呼ばれる、
そして戦争の上に政治がある。
政治とは目的の設定と、戦争の準備に分けられると書いた。


さらにこれは、
超長期的な勝敗に関わることが政治で
長期的な勝敗に関わることが戦略そして戦争であり、
短期的な勝敗に関することが戦術であるとも言うことが出来るという事だ。


クラウエゼヴィッツの【戦争論】には、


  「戦争全体の最後の決戦ですら常に絶対とはみなされず
   むしろ敗戦国は不離な結果を一時的な禍い過ぎないと見なし、
   戦後の政治的関係に置いてこの禍いを回復することが出来る」


とあり、
孫武の【孫子】には、
 

  「合於利而動、不合於利而止」
  (国家の利益になるのならば軍事力を使用し
そうでないのならば戦争を起してはならない)


とある。
これは政治と云う物が戦争と戦略よりも
超長期的な目的の為の行動であるという事を表している文章だ。


【勝ち続ける意志力】の〈勝ち続ける〉とは正にこの政治の事であり、
一戦一戦の短期的目標=戦術でも、
闘争の使用の仕方に関する長期的な目標=戦略/戦争でもない。


同著作内の


     「大会への出場が1つの目標になるだろうが、
      大会で勝つこと自体を目的とするとろくなことが無い」

     
     「その努力を10年続けられるか?」
     

     「目標はあくまでも目標で、目的と混同してはいけない」


等その他沢山の部分から、
【勝ち続ける意志力】が超長期的な目標に対する政治を書いた
本であることが分かる。


もちろん、注意しなくてはいけないのが、
ここで言う政治とは実際の国家の内政や外交を含む
経済やバランスのやり取りのことではなく、
今まで記して来た様に
「勝負事に関する戦略の上に位置する超長期目標に関する事柄」、
そして「勝負事で勝つ為の鍛錬や準備」の事である。



この意味での政治を以下〈〉を付け〈政治〉と記す




そもそも今一般に使用される政治と言う言葉も
「国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動(大辞林)」の事であり、
(戦争を含む)人間の日常生活や経済活動の上に置かれた言葉であること、
つまり様々な事柄を含み超長期的な視野を持った
言葉であることを忘れてはなら無い。


【勝ち続ける意志力】は『勝負』事に関する事を書いた〈新書〉であり、
その内容は超長期的や視野に立った〈政治〉書であり、
そのため副次的に長期的な〈戦略〉書でもある。



中国戦国時代には韓非が著作した
韓非子(紀元前三世紀から紀元前二世紀)】がある。
これは〈戦術/戦略書〉ではなく〈政治〉書だ。


戦略は戦術よりも上にあり、また〈抽象〉性も高くなると上記した。
では、戦略の上にある〈政治〉はどうか?
もちろん、〈抽象〉性もさらに高くなる。


そして全ての物事は〈あれ〉や〈それ〉で表すことが出来、
それが〈抽象〉だとも書いた。
この全てが〈あれ〉や〈それ〉で表すことが出来るとは、
〈抽象〉性が高くなりすぎると
それが何を指しているのか特定出来ないという事でもある。




〈具体〉的な物が専門過ぎる故に他ジャンルへの応用が難しくなるのに対し、
〈抽象〉が進みすぎると指し示している物が広すぎる故に
いったい何を指しているのか、自分の事柄の何処と共通点をあるのかを
探すのが難しい為に応用が難しくなる。


書物ではなく絵画に話しを映すならば、
同じ抽象芸術でも、
オランダ出身の画家ウィレム・デ・クーニングが描いた
【女シリーズ】は何を描いているか判るが、
ロシアの画家カジミール・マレーヴィチ
シュプレマティスム】になると、
この抽象絵画の到達点と言われる作品が
何を描いた物なのか判断出来ないと言う事だ。


【女シリーズ】http://p.tl/TWyA



【シュプレマティズム】 http://p.tl/KvE1



(両URLともにグーグルの画像検索結果表示)



〈抽象〉が進みすぎると、〈抽象〉が進み過ぎていると言う
〈具体〉的な事のみを表現するようになる。
究極の抽象絵画ともいえる白地のキャンパスに黒い正方形が描かれた、
マレーヴィチの【黒の正方形】がそれだ。




この絵画は絵画と言う物を徹底的に〈抽象〉し、
最後に残った色彩と見る者に"なんらか"をギリギリで訴える感覚のみが残る。
この絵画は〈具体〉的な何物も表現していない。
だが〈抽象〉化された〈抽象〉のみを、
つまり〈抽象〉のみだという〈具体〉的な事柄のみを表現している。




言葉でこれを表すならば、
〈あれ〉は〈あれ〉であるや、〈それ〉は〈それ〉であるという文章だ。


〈あれ〉や〈それ〉や〈これ〉で全ての物事
(現在名称が決まっていない事物から
 存在する認めてられていない物まで)を表現する事ができるが、
〈あれ〉は〈あれ〉であるや、
〈それ〉は〈それ〉であるという文章では、
対象が広すぎて(不明瞭とも言える)何事も表す文章ではなくなっている。


言ってしまえば何を言っているのか全く判らない。
何を言っているのか判らないと言う事のみが分る。


〈あれ〉は〈あれ〉を〈彼〉は〈人間〉であるとも、
〈教会〉は〈綿菓子〉であるとも〈にんじん〉は
〈国境を抜けると雪景色だった〉であるとも
言い変える事が出来る。


〈あれ〉という言葉はありとあらゆる置き換えが可能なので、
数学の公式の様にA(あれ)=Aですらなく、
A=BでもA=CでもA=xxxyyzzzでもA=zabacという適当な文字列でも良い訳だ。


だが〈あれ〉は〈あれ〉という文章は〈あれ〉は〈あれ〉
という事を表しているとはハッキリと言える。
つまりそれは〈具体〉性が一切無い〈抽象〉のみを、
〈抽象〉のみだという〈具体〉的な事柄を表現しているという訳だ。




この様に、〈抽象〉化が進みすぎると〈抽象〉という、
〈具体〉的な事柄自体のみを表現する事になる。


もちろんこれは上の絵画で表した様に段階的だ。
〈あれ〉は〈あれ〉であるよりも、
〈彼〉は〈あれ〉であるの方が幾分(本来の意味での)
〈具体〉的で判り易い。
だが〈彼〉は〈生き物〉であるよりかは判りづらい。
この様に、〈抽象〉には段階がある。




『勝つ事』や『勝負』に関する事でもそうだ。
戦術の上に戦略があり、戦略の上に〈政治〉がある。
『勝負』事に関する事が〈政治〉にまで上がると、
それは〈抽象〉性が上がり過ぎてしまい、
自分に関する事柄の(勝利の方法と)
何処と共通点をあるのかを探すのが難しくなる。


『勝負』に関する事柄で〈政治〉の上に何かあるだろうか?
これは『戦争論』も『孫子』も描いていない。
『勝負』に関する事柄では〈政治〉が最も上に位置する物だと捉えられている。


独自にそれを考えてみてもその上にあるのは
〈(国という区分を越えた)人類の諸活動〉等となる。
それは世界平和などの話しに繋がり最早『勝負』
、闘争に関する事から〈政治〉以上に遠くなる。
『勝負』に関する事柄を書く際には〈政治〉が限界で、
応用できる〈抽象〉のぎりぎりの限界であると言う事だ。


韓非が著作した【韓非子】は政治(そして〈政治〉)が書かれた書物だが、
その政治は君主の在り方という事に付いてが殆どだ。
また人民を戦わせる状態に導く方法等も書かれているが、
そこで語られるているのは法の厳守である。


この様に〈政治〉や政治が『勝負』に関する事柄を語るのは難しい、
或は戦略等に比べると極端に少なくなる。


クラウゼヴィッツが【戦争論】で、


   「最高司令官にもなると困難は最高潮に達する」


と語る様に、戦略の段階で既にその場その場での情報の不確定や、
(過去の戦争と今現在の戦争の)状況の違いがありすぎて、
〈具体〉的に語るのが難しくなる。
その最高司令官よりも大局的な判断が求められる政治では、
扱う範囲が大きく、
その広大な扱う範囲の不確定性や過去との違いがさらに大きくなり、
〈具体〉的に語るのがより難しくなる。


政治が〈〉付きの〈政治〉であっても
『勝負』に関する事柄を語るのはとても難しいと言う事だ。
また〈政治〉とも成ると著者と読者個人個人の状態が違いすぎるので、
応用が難しくなる。



戦争論】では〈政治〉に関する事まで記す事になると、
その捉えるべく範囲が広すぎる故に明確な理論が作れなくなってしまう、
故に【戦争論】では〈政治〉に関する事柄が省かれていると上記した。
これは何かを伝える(ここでは『勝つ事』や『勝負』に関する事柄)際の、
〈抽象〉と〈具象〉の線引きの話しだ。
どこまで〈具体的〉に書くか、どこから〈抽象〉化するのか。
何を省き、何を重要視するのか。



クラウゼヴィッツの【戦争論】では、理論とはこうであると書いている。


   「理論は必ずしも積極的な説、
    つまり行動の為の指令である必要は無い(中略)
    ある活動が変化や多様な組み合わせがあっても、
    大部分が共通する事柄、
    同じ目的と手段に関わり合っている場合には理論的考察の対象になる。
    このような考え方こそ全ての理論の本質的な部分であり、
    理論と呼ぶに値する
    (同上、第二編 第二章)」これは正に〈抽象〉の話しだ。


   「理論は戦争を学ぼうとする人々の為に至る所で道に光を照らし
    彼らの歩を容易にし判断力を養い迷路に陥る事を防止する(同上)」


   「理論は戦争に置ける将来の指揮官の精神を養成したり
    指揮官の自学研鑽を援助するべき物であり
    戦場において彼を導く物ではない。
    この事は賢明な教育者が少年の知恵の発達を導き容易にするが、
    だからといって一生涯手を取って
    この少年を教えるのとしないのと同じである(同上)」


これらは理論がどう言った物であり、
理論がどの様に人の役に立つかという話しだ。


これらの文章は『勝つ事』や『勝負』に関する、
〈戦術/戦略〉と戦争の準備と政治という区分と関わり、
如何に『勝負』に関する理論を人に伝えるか、
役立たせるかという考えに関する言葉でもある。
理論を人に伝える時に行われる〈抽象〉と〈具象〉の線引き、
そしてそれがどの様に読者の役に立つ様にするのかと言う事は、
理論を人に伝える際に大いなる問題になる。


この批評の始めの方で、
どの本も専門性を持ちその高低とどの面を語るかで、
本の内容が決定すると書いた、
これはそういう事でもある。



【勝ち続ける意志力】は超長期的な視野の〈政治〉を書いた本だ。
だが、〈政治〉では〈抽象〉化が高すぎて、
それを読者に伝えるのが難しいか、伝わっても各人の応用が難しくなる。


しかし【勝ち続ける意志力】はその溝を埋める事に成功している。
なぜか?




批評、その2へ続く


その2
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20120714/1342258742












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