梅原大吾著「勝ち続ける意志力」批評その2。この本を読んだ事がない人へ、そして読んでも今イチ内容が判らなかった全ての人へ。小説と専門書と自伝と新書の違い。伝達の抽象と具象。物事の3つのレベル、戦術、戦略、政治。長期的に負けない事とは。に関する螺旋する批評



その1はこちら

http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20120708/1341765525



梅原大吾:著
【勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」】
ためし読み:http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784098251322






【勝ち続ける意志力】は長期的な視野の〈政治〉を書いた本だ。

だが、〈政治〉では〈抽象〉化が高すぎて、

それを読者に伝えるのが難しいか、伝わっても各人の応用が難しくなる。

しかし【勝ち続ける意志力】はその溝を埋める事に成功している。

なぜか?




伝説的な軍師である太公望が書き

仙人である黄石公が編纂したと言われる〈戦術/戦略書〉に

(この由来は後の創作だと言われている)

六韜】と【三略】と呼ばれる書物がある。

この二つの書物は"六韜三略"と繋げて称され併用されてきた

三省堂「新明解四字熟語辞典」より)



それはなぜか?

太公望と黄石公の著作という共通点があるが、それは事実ではない。

というか後者の人物に関しては存在していたのかどうかも怪しい。

それなのになぜこれらが六韜三略と称されるかと言えば、

この二つの書がお互いの長所により、お互いの欠点を補っているからだ。


また出自が同じ2冊故に、存在が疑われる仙人である黄石公ではなく、

別の同一の戦略家が『勝負』に関する事を別々の視点で描き、

それを【六韜】と【三略】という別々の書物に託したと捉える事もできる。


六韜】と【三略】が別々に託された視点とは、

『勝負』に関する〈戦術/戦略〉と〈政治〉という物だ。

そしてそれはまた〈具象〉と〈抽象〉という事でもある。



六韜】と【三略】の文章を見ていこう。

六韜】が書くのは〈戦術/戦略〉であり〈具象〉だ。


    「故將有股肱羽翼七十二人、以應天道」

     (故に総大将には手足となる72人の部下が必要だ、

     さすれば天の道に適う)


この文章では総大将には直属の部下が必要であると説くだけではなく

その数は72人だと〈具体〉的に決めている。

この文章は、


    「腹心一人(中略)、謀士五人(中略)、天文三人(中略)〜」


と72人の〈具体〉的な内訳へと続き、

さらにその後、彼らをどの様に使うのかと言う内容の文章に続く。

また以下の様な文章が在る。


    「伐木天斧、重八斤、柄長三尺以上、三百枚。

     〓钁刃廣六寸、柄長五尺以上、三百枚」

    (伐採に使用する斧は、重さ八斤、柄の長さは三尺以上の物を三百枚。

     のこぎりは刃は六寸、柄の長さは五尺以上の物を三百枚)


この文章では鎌や杭や槌の大きさや長さや必要な個数の〈具体〉的な

数字が並ぶ。これは


    「凡用兵之大數、將甲士萬人、法用武衞大扶胥三十六乗〜」

     (一万人の完全武装した兵士を上げるには。大型戦車36台〜)


と兵士を上げる際に必要な武装を〈具体〉的に語る文章の最後に出て来る物だ。

ここで指されるのこぎりや杭は、装備品を作る際の工具の事だ。

装備品を作ると言うと一見

〈戦争の準備〉としての〈政治〉の事である様に見えるが、

ここで語られるのは一万の兵士を使用する際の規格や編成や運用に

関する事であり、装備の〈具体〉的な仕様の事だ。


仕様という点では〈戦術〉であり、

一万の兵士の運用の仕方や装備品の編成と云う点では〈戦略〉的な物だ。

他にも【六韜】では、

対当した敵に対する3つの陣営の敷き方、

攻撃するタイミングを知る敵の14の変化など、

〈具体〉的な数字や記述が並ぶ文章が多く収められている。


      

この様に【六韜】が書くのは〈戦術/戦略〉であり〈具象〉だ。

勿論【孫子】が〈抽象〉的なものだけではなく〈具体〉的な事も書いて、

呉子】が〈具体〉的な物だけではなく〈抽象〉的な物を書いている様に、

六韜】も


     「無取國者、國利之。無取天下者、天下利之。

      故道在不可見、事在不可聞、勝在不可知。微哉微哉」

     (国を取ろうとしない物が国を得る事が出来る、

      天下を取ろうとしない物が天下を取る事が出来る。

      この様に道とは簡単に見える所や聞く所にあるのではない。

      勝利も同じ物であり、とても繊細で微妙な物なのだ)


この様に〈抽象〉的な文章も書かれている。

だがそれが極端に少ない。

六韜】が書くのは〈戦術/戦略〉であり〈具象〉だ。



一方【三略】は〈政治〉とそれ故への〈抽象〉を書いている。


     「柔能制剛、弱能制強」

     (柔よく剛を制し、剛よく柔を制す)


これは【三略】の冒頭に出て来る、

非常に優れた〈抽象〉をもつ『勝負』に関する言葉だ。

この言葉は、


     「能柔能剛、其國彌光、能弱能強、其國彌彰。純柔純弱、

      其國必削。純剛純強、其國必亡」

     (柔剛使いこなせばその国は光る。

      弱経使いこなせばなその国は彰る(はっきりと目立つ

      柔らかくもあり弱くもあればその国は削られ、

      でも強でもあればその国は必ず滅びる)

      

と柔や剛、そして弱と強の違いが語られる文章に続くが、

ここでも柔剛弱経とは何かハッキリと語られていない。

この本を読む者各自が自分の現在の状況と比較して応用しなくてはならない。

こういった優れた〈抽象〉的な文章を【六韜】は持っていない。

また、


     「降體以禮、降心以樂。所謂樂者、非金石絲竹也。

      謂人樂其家、謂人樂其族、謂人樂其業、謂人樂其都邑、

      謂人樂其政令、謂人樂其道徳」

     (臣下を従わせるには礼を持つ。臣下の心を従わせるには楽を持つ。

      楽とは金銭を与える事や音楽で楽しませる事ではない。

      その人が、自らの家や家族や仕事、故郷や国、

      そして政令と道徳を楽しめる状態に在る事を言う)

     「佚而有終。佚政多忠臣、勞政多怨民。

      故曰、務廣地者荒、務廣徳者強、

      能有其有者安、貪人之有者殘。殘滅之政、

      累世受患、造作過制、雖成必敗」

     (楽を持つ国には忠臣が多く、苦を持つ国は民から恨まれる。

      故に、領土拡張に勤める国は荒れ、徳を持つ国は強くなる。

      自国を守る国は安定し、他の国を貪ろうとする国は滅びる。

      国が滅ぶ政治を行えばそれは子孫の代にまで及ぶ。

      行き過ぎた政治をすれば、始めは成功するもやがて滅びる)


この様に政治(主に内政)や超長期的視点である〈政治〉の事が、

〈抽象〉的な言葉で書かれている。

      


六韜】と【三略】は、

著作した人物と登場する人物は共通しているが、

書かれている内容が、

六韜】の〈戦術/戦略〉そして〈具象〉、

三略】の〈政治〉そして〈抽象〉なのだという違いがある。


中国の同時代の書物に司馬穰苴が書いた〈戦術/戦略書〉である

司馬法(紀元前386年〜紀元前221)】があるが、この書物でも、


    「以禮爲固、以仁爲勝。既勝之後、其教可復。是以君子貴之也」

    (礼をもって自軍を固くし、仁において勝利した。

     勝利した後も礼と仁で教化する。

     君子はこの様に教化を重要視している)


と〈政治〉或は政治、そして〈抽象〉が書かれ、

〈戦術/戦略〉の〈具象〉を書いていない。

(しかし【司馬法】は本来155編あると言われているが、

 現在では5編しか残っていない。そこは考慮しなくてはならない。

 時代が立つ中で消失してしまったのか、

 時代の中で不要と判断されて消えたのかはわからないが、

 残った5編は〈政治〉或は政治、そして〈抽象〉を書いている)


つまり、

『勝負』に関する事柄である〈戦術/戦略〉を書くと〈政治〉を

(〈政治〉が〈抽象〉を持つ故に)語る事は難しくなる。


逆に、

『勝負』に関する事柄である〈政治〉を書くと〈戦術/戦略〉を

(〈戦術/戦略〉が〈具象〉的故に)語る事が難しいという事だ。


呉子】や【六韜】や【戦争論】では

〈具体〉や〈戦術/戦略〉を書き、

孫子】や【三略】や【司馬法】や【尉繚子】では

〈抽象〉や〈政治〉を書いている。



前者の特徴を持つ【六韜】と後者の特徴を持つ【三略】だが、

六韜三略と合わせて読まれる事で、〈戦術/戦略〉と〈政治〉という、

『勝負』事に関する広大な範囲を手中に収める事に成功している訳だ。



梅原大吾著の【勝ち続ける意志力】では

〈戦術/戦略〉+〈政治〉という内容で理論を構成するという

六韜三略の形式を1冊で行っている。


またそれだけでは合体という形式を取り
『勝負』に関する広大な範囲を扱っている故に
乱雑になりがちな内容を

『勝負』に関する〈勝ち続ける〉事のみに集点を当てて書く事により、

それを回避し、乱雑になりすぎない為に〈新書〉という形式を保っている。

或は逆に〈新書〉という形式故に

乱雑にならない様に〈勝ち続ける〉事のみに
集点を当てているのだとも言える。



では【勝ち続ける意志力】が書く〈勝ち続ける〉とはどういう事だろうか?

以下、【勝ち続ける意志力】作中の文章を出しながら解き明かしていきたい。






まず注目するのは、この文章だ。


    「とりわけ重要なのは、本書に書かれていることは、

     ただ勝つのではなく、

    『勝ち続ける』ことに主眼を置いているという点である。

     なぜ、『勝つ方法』ではなく『勝ち続ける方法』なのか?

     両者は似て非なる物で、

     時としては相反する程に大きな隔たりを見せる。

     (プロローグ)」


    「僕は決して無敗ではないし、無謬のチャンピオンでもない。

     負けるときは完膚なきまで負けるし、

     連敗で結果が出ない時期が続くときだってある(中略)

     ぞれでも、僕は『勝ち続けられるか?』という先の問いに、

     迷うことなく『YES』と答えることができる(中略)

     実践してきたことで築き上げてきた僕の自信は、

     それこそ100や200の敗北で揺らぐことなど決してない。

     (プロローグ)」


この様に〈勝ち続ける〉事は決して一試合一試合一勝一勝の〈勝つ〉事でも、

連勝記録を伸ばす事でも

戦えば必ず勝つと言う不敗神話を築く事でもないと言っている。

だが【勝ち続ける意志力】では〈勝ち続ける〉事とはどういった事かを

明確にイコールで表していない。

それは繰り返すが【勝ち続ける意志力】が

『勝負』に関する超長期的な視野である

〈政治〉を扱っているからであり〈政治〉は〈抽象〉的だからだ。

だから〈具体〉的に書く事は難しい。



ここでまた新たに問う。

【勝ち続ける意志力】が書く

〈政治〉的な意味での〈勝ち続ける〉とはどういう事だろうか?




     「勝ち続けるためには、勝って天狗にならず、

      負けてもなお卑屈にならないという

      絶妙な絶妙な精神状態を保つことで、

      バランスを崩さず真髄にゲームに

      向き合い続ける必要がある。

     (第二章 99.9%の人は勝ち続けられない/勝ち続けるには)」


     「『梅原大吾の最大の武器は何か?』そう聞かれたら、

      『どれだけ殴られても。諦めずに起き上がって戦うところ』

      自信をもってそう答える。(同上/王道も必勝法もない)」


     「どれだけ頑張っても勝てない相手がいたら、

      本当に楽しいだろうと思う。

      (同上/失敗していることこそが指標になる)」


本書で『勝負』に関する事でまず語られるのは、

この様に1つの敗戦、数度の敗戦でも折れることなく、

何度も何度も立ち上がり挑戦していく心だ。

   

では失敗を繰り返し、それでも立ち上がり挑戦し続けた先に在るのは何か?

それは、


    「後で振り返ったとき、

     自分が驚くほど進化していることに気づくはずだ。

     自分より強い相手をいかに倒すか。

     そのための技術を磨き、工夫を凝らし、

     ようやく相手を倒した瞬間こそ喜びがあり、

     変化が報われる瞬間と成り得る。

     (同上/失敗していることこそが指標になる)」


    「安易な近道を選んだ人は、どれだけ頑張っても

     最大で10の強さかしか手に入れることができない。

     しかし、自分だけの道を切り開いて進んでいった者は、

     11、12、13の強さを手にできるはずだ。

    (同上/未踏の地を目指す)」


    「10の強さを手にできる、明るくて平坦な道か。

     11、12、13の強さを的できるかも知れない、

     暗くて険しい道か。

     人によって考えは違うと思うが、僕は迷わず後者を選択する。

     (同上/未踏の地を目指す)」


    「10を越えた強さは、

     もはや教えることもできなければ真似することもできない。

     (同上/真似できない強さ)」


〈誰も到達した事のない強さの境地〉へ行く事だ。

それは失敗を繰り返し、それでも立ち上がり挑戦し続けた先に在る物だ。

だが【勝ち続ける意志力】が書く〈勝ち続ける〉事は

〈誰も到達した事のない強さの境地〉へ行けた段階では終わらない。



    「ゲームの世界はある程度の周期で新しいタイトル、

     つまり新作が出る。(同上/王道も必勝法もない)」  

    「苦労して全員を圧倒できる強さを手に入れても、

     ゲームは新しくなる。

     もう一度最初から、暗い道を歩き始めなないといけない。

    (同上/幸せを感じられる瞬間)」 


手に入れた〈誰も到達した事のない強さの境地〉は

手放さなくてはならない。だが


    「僕は、挑戦する事が好きだ。

     新しいゲームが発売されて、

     どうやら流行りそうだと感じると嬉しくなる。

     (同上/もっとも競争が熾烈なゲームを選ぶ)」


    「血のにじむ様ような努力をして無敵の強さを手に入れても、

     すぐにそれを手放さなければいけない。

     その事が分っているのに頑張れる。

    (同上/幸せを感じられる瞬間)」


と新しいゲームの上でも

〈誰も到達した事のない強さの境地〉へ行く事を目指す。

そして新しく得た〈誰も到達した事のない強さの境地〉もまた手放し、

それを繰り返す。

ではその繰り返しの先に在るのは何か?

     


    「やはり、ゲームはあくまでもゲームで、

     本当の目的は自分自身の成長にある。

     だからあえて暗く険しい道を行く(中略)

     そのことが分っているのに頑張れる。

     快感を味わうのはほんの一瞬だが、

     それでも暗闇が晴れたときの自分の姿を想像するだけ前途洋々だ。

    (同上/真似できない強さ)」


それは〈自分自身の成長〉だ。

失敗を繰り返し、それでも立ち上がり挑戦し続けた先に在る

〈誰も到達した事のない強さの境地〉の獲得。

そしてそれを手放し再び新しいゲームへ挑戦し、

その場までもまた〈誰も到達した事のない強さの境地〉を手に入れる。

そしてまた〈誰も到達した事のない境地の強さ〉を手放し

新たなゲームへと挑戦していく。

この繰り返しの先にあるのが〈自分自身の成長〉だ。



【勝ち続ける意志力】が書く〈勝ち続ける〉事とは〈自分自身の成長〉の事だ。

しかしそこで終わらない。

〈勝ち続ける〉という事が〈自分自身の成長〉だけであったのならば、

〈政治〉という事も書いておらず〈抽象〉性も低かっただろう。

〈自分自身の成長〉の先が書かれているのだ。




    「一瞬の快感を味わうため、

     どんな苦労にも前のめりで立ち向かうことができる。

    (同上/真似できない強さ)」


自分の人生を懸けて真剣に取り組んだ格闘ゲーム


    「世界一になって、その後、

     日本で開かれた大会で何度もチャンピオンになった。

    (第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護/ゲームから身を引く)」


世界一のプレイヤーになりその後も多くの大会で結果を出してきた。

だがウメハラ


     「ゲームといえども、自分を高める努力を続けてれば、

      いつかゲームへの、

      そして自分自身への周囲の見方を変えることができる。

      評価される日が来る--と、信じていたからだった。

     (同上/ゲームから身を引く)」


     「ところが、状況は一向に変らなかった。

      そして僕は、年齢を重ねるにつれて、

      以前のようにはゲームに向き合えなくなった。

      (同上/ゲームから身を引く)」


     「しかし、

      成長していない自分を誰かに見せるのは恥ずかしかったし、

      なによりもそんな自分を許せなかった(中略)

      だから、ゲームの世界を離れることに決めた。

      僕にとってゲームは気軽に楽しめるものではなかった。

      負けた、言い換えると、

      ゲームの世界でこれ以上頑張れないと感じたら、

      生きる気力を失うくらい大事なものだった。

      だから、ゲームを諦めるしかなかった。

     (同上/ゲームから身を引く)」


自分の人生を懸けて真剣にゲームに向き合っても
まだ努力が足りないと感じた。

真剣に向き合っていけば社会や周囲の者の

ゲームへの視線が変るかと思ったが結局は変らなかった。

そしてウメハラはゲームの世界を離れる事となる。


     「これから何をしようか悩んだ。

      食っていくにはどうしたらいいかではなく、

      ゲームの代わりになる何かを見つけないといけないと、考えた。

      (同上/麻雀の道を選ぶ)」


そうしてウメハラは麻雀の世界へ足を踏み入れる。

ウメハラは一日の半分以上を麻雀に費やし、

ゲームの時と同じ様に真剣に麻雀と向き合う。

三年間麻雀と向き合い


     「雀荘のオーナーには『私は何十年も麻雀打ちを見てきたけど、

      あんたは確実に5本の指に入る』と評された。

     (同上/麻雀を極める)」


実力を付け、プロとも対等に渡り合える様になる。

しかし


     「私生活を削ることすら厭わなかった。

      夢も希望も、時間も、僕の人生のすべて、

      一切合切を麻雀に投入して向き合ってきた。

      (同上/人生初の後悔」


     「そんな麻雀も結局は3年でやめてしまった。

      (同上/人生初の後悔)」


ウメハラは麻雀の世界も去る事となる。


そこにあったのは


     「それは、このままやり続けても結局、

      ゲームをやめざるを得なかった状況と同じく、

      長くやればやるだけ、絶望的な状況で

      やめざるを得なくなる日が来るのではないかという

      疑念だった。(同上/人生初の後悔)」


     「僕は絶望していた(中略)

      思えば、初めての挫折だったかも知れない。

     (同上/人生初の後悔)」  


〈誰も到達した事のない強さの境地〉の獲得を繰り返し、

そして得た〈自分自身の成長〉、

だが、その先に在ったのは〈絶望と挫折〉だった。



ウメハラはその後、介護施設で職員として働く事となる。

初めての〈絶望と挫折〉を感じたウメハラは、

介護という競争や『勝負』とは離れた世界の中で癒される事となる。

そしてウメハラが『勝負』とは離れた世界で癒される中、

人気格闘ゲームのシリーズ〈ストリートファイターシリーズ〉の

新作〈STREET FIGHTER IV〉がゲームセンターで稼働する。


ウメハラは始めゲームの世界に、

たとえそれが趣味として遊ぶ物であっても戻るつもりはなかった。

しかし友達に半ば強引に誘われて行ったゲームセンターで

STREET FIGHTER IV〉をプレイ、ウメハラはそこで連勝を続ける事となる。

こうしてウメハラはゲームの、つまり『勝負』の世界へと戻る。

ここまでが【勝ち続ける意志力】の

第一章から第三章までに書かれている内容だ。



実は【勝ち続ける意志力】はここで一旦区切られている。
その様に明確に書かれている訳ではない。

しかし一見分り難いがそれはある。

それは〈第三章までと第四章以降〉と言う区切りだ。





ここで【勝ち続ける意志力】の構成を見て行こう。

本書はまずプロローグから始まる。

プロローグではウメハラアメリカのチャンピオン[ジャスティン]と

繰り広げた名勝負『背水の大逆転』を短いページ数に纏め振り返っている。

これはウメハラをよく知らない読者や、

本書を書店でなんとなく手に取り立ち読みをしている人への

簡単な自己紹介だ。

『背水の大逆転』を振り返った後は、

本書が何を書いた物なのかのというのを短く纏めて紹介している。




書物を書いた著者やその背景(時代など)等への理解は重要だ。

孫子】や【呉子】や【司馬法】等は、作者紹介のページはない。

それはこれらの本の読者が関係者のみであったため、

著者の事を良く理解していたからだ。


一方クラウゼヴィッツの【戦争論】には作者紹介のページがある。

クラウゼヴィッツ亡き後、彼の妻マリーと著者の友人達により編集され

出版されたこの本は未亡人マリーの序文から始まる。


そこで語られるのは夫である著者がどの様な人物でどの様な経歴を持ち、

戦争論】がどの様な中(背景)で書かれたかだ。

序文の後、著者自らが書いた二つの覚書が続く。

覚書では本書の補助的な説明が書かれている。

覚書の後、さらに著者自身が書いた序文が続く。

ここでは、短い言葉でこの本が何を書いているか、

そしてどの様に読まれ役立てて欲しいかが書かれている。

この様に【戦争論】は本章が始める前に何重にも、

本書と著書に対する説明が続けて書かれている。
その理由は【戦争論】が


     「軍事学に関心がある人ならばすべての人が一度ならず手にしようと

      するような本を書く事が私の願望だったからである。

      (序文内、夫の書類の中にあった小文より)」


という、著者を良く知らない読者、

そして出版後、時代が経過しても読まれる様に書かれており、

その様な読者の為にも著者への理解が必要となるから

作者紹介のページが作られているのだ。



もちろん、【孫子】と言えども時代が経つにつれ、

そして〈戦術/戦略〉に関係しない読者が現れるにつれて、

著者である孫武や当時の状況への理解度が低くなって行く。

その為、中国の後漢時代に

曹操が【孫子】を編纂した【魏武註孫子(155年〜211年)】などの

孫子】の再編集版やリメイクともいえる書物がある。


孫子】の時代よりかなり後に書かれた本に、

孫子】や【呉子】【司馬法】【韓非子】等の、

著明な〈戦術/戦略書〉〈政治書〉を纏め、

当時の将軍等に向けて分り易く編集した

李衛公問対(618年〜907年)】という書物もある。


批評その1にある様に現代では

ビジネス雑誌を主に刊行するプレジデント社から

【今こそ、孫子】などの解説本が発行されている


また、学者の家であった大江氏の者が書いた、

孫子】の復読本であり、

中国の春愁時代に書かれた【孫子】を

日本の平安時代の実情に合う様に編集した、

日本最古の〈戦術/戦略書〉である、【闘戦経(平安時代後期)】がある。


これは【孫子】と合わせて読む様にと言われており、

この【闘戦経】と【孫子】は六韜三略の様な関係だと看做す事もできる。

この様に書物の内容への理解は勿論、

その本を書いた著者と書かれた背景への読者の理解と言う物は

とても大切だ。


【勝ち続ける意志力】のプロローグはその為にある。





では次は本章を見て行こう。


【勝ち続ける意志力】の構成は

1、プロローグ

2、第一章 そして、世界一になった

3、第二章 99.9%の人は勝ち続けられない

4、第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護

5、第四章 目的と目標は違う

6、第五章 ゲームに感謝

7、エピローグ

となっている。

これらの本章は二通りの分け方ができる。



1つは各章で語る内容からの分類だ。


主にウメハラの軌跡が語られる、

第一章 そして、世界一になった、

第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護、

第五章 ゲームに感謝。


そして主にウメハラが『勝負』に関する事で心に据える物が語られる、

第二章 99.9%の人は勝ち続けられない、

第四章 目的と目標は違う、

そして本章ではないがエピローグ。



この様に分ける事ができる。




もう1つは時間の流れでの区分け方だ。

本章で書かれる時間は以下の様になる。


第一章 そして、世界一になった

(幼少から世界一になった17歳まで)

第二章 99.9%の人は勝ち続けられない

(『勝負』に関する事が語られる)

第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護

(23歳からプロになる直前まで)

第四章 目的と目標は違う

(『勝負』に関する事が語られる)

第五章 ゲームに感謝

(プロになって以降から現在まで)



『勝負』に関する事が語られる章が

第二章と第四章の二回挿入されているが、

これにも書かれている主な時間がある。

第二章はプロになる以前で、

第四章はプロになって以降だ。


この区分けで本書を見た際気を付けなければならないのは、

プロになって以降ウメハラが『勝負』に関する事で

心に据えている事が語られている章が第四章で、

プロになって以降のウメハラの行動や
軌跡が語られるのが第五章と、
順番的には逆になっている所だ。


    「なぜプロ格闘ゲーマーになる話しが舞い込んできたのか?

     その経緯は改めて第五章でお話しするとして、

     ここからは、プロになって以降、

     精神的にもっとも落ち着いた状態で

     ゲームに向き合う事が出来たいままでの期間に、

     改めて感じたことをお話ししていきたい。

    (第四章 目的と目標は違う/夢と希望が見つからない)」

    


なぜその様な事が起こるのか?


それは【勝ち続ける意志力】が、

主にウメハラの軌跡が語られる章と

主にウメハラが『勝負』に関する事で心に据える物が語られる章が

交互になる様な構成になっているからだ。


では、なぜ交互になっているのか?


それはウメハラの軌跡で語られる事が、

ウメハラが『勝負』に関する事で心に据える物の
〈証拠〉として機能しているからだ。
本批評その1ではこれは結果としての"薄い"〈自伝〉なのだと書いた。




第二章 99.9%の人は勝ち続けられないで語られる『勝負』に関する事は

第一章 そして、世界一になったで語られるウメハラの軌跡を

〈証拠〉として存在している。



第四章 目的と目標は違うでは上の言葉、


    「ここからは、プロになって以降、

     精神的にもっとも落ち着いた状態で

     ゲームに向き合う事が出来たいままでの期間に、

     改めて感じたことをお話ししていきたい。

    (第四章 目的と目標は違う/夢と希望が見つからない)」


とある様に、

第五章 ゲームに感謝で語られるプロになって以降から現在までの

ウメハラの軌跡のさらに後の事が語られているが、

実は第四章は、第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護で語られる

23歳からプロになる直前までにウメハラの身に起こった、

初めての〈絶望と挫折〉そして癒しを何よりも〈証拠〉としているのだ。



〈証拠〉という言葉を別の言い方にするのならば、
ウメハラの軌跡は親で
ウメハラが書く『勝負』に関する事はその親から生まれた子という事だ。


世界一になった経験を親として生まれた子が第二章であり、

初めての〈絶望と挫折〉そして癒しを親として生まれたのが第四章だ。




〈証拠〉を提示する事で
その後に書かれる『勝負』に関する事に説得力を持たせている。


何かを語る際〈証拠〉を見せると言うのはとても大切だ。

それは広義の『勝負』に関する事でも数字に関する事でも変らない。

?+?=5より、2+3=5の方が

答えまでの経緯や答えの成り立ち方が分り易い。


そして〈証拠〉と云う物も〈具象〉と〈抽象〉を持っている。

〈戦術〉は〈戦略〉よりも〈具体〉的な〈証拠〉を見せ易く、

その〈戦略〉は〈政治〉よりも〈具体〉的な〈証拠〉を見せ易い。

そしてそれが〈政治〉の段階になると〈証拠〉は〈抽象〉的な物となる。


【勝ち続ける意志力】では

その〈抽象〉的な〈証拠〉をそのままに書くのではなく、

実際にウメハラが取ってきた軌跡を示す事により

〈抽象〉的な〈証拠〉に説得力を持たせている。




孫子】や【呉子】そして六韜三略では偉大な人物が書いた事を

そこで書かれている内容の〈証拠〉としている。

李衛公問対】は過去の〈戦術/戦略書〉〈政治〉書のまとめと言う形式故に、

そこで扱う本の歴史と時代の中での評価を〈証拠〉としている。

本批評その1で出てきた【韓非子】は

この書物が書かれた時代以前に起こった出来事や故事を
例えとして掲載する事により〈証拠〉として示している。


クラウゼヴィッツの【戦争論】は

作中の1つ1つと積み上げる様に書かれる理論的な文章と思考、

そしてフリードリヒ2世やナポレオン1世などが執った軍事行動を分析し

それを〈証拠〉として提示している。


この様に何かを書く際に〈証拠〉は大切だ。

その〈証拠〉にも上記の様に色々な物が存在している。




【勝ち続ける意志力】では軌跡を〈証拠〉とし、

その効果を最大限引き出すために

主にウメハラの軌跡が語られる章と

主にウメハラが『勝負』に関する事で心に据える物が語られる章が

交互になる様な形式となっているのだ。


故に【勝ち続ける意志力】の

プロになる以前とプロになって以降という区切りは

〈第三章以前と第四章以降〉の間に存在している。

それが二通りの分け方の後者の方、

時間の流れでの分け方だ。


では〈第三章以前と第四章以降〉の

プロになる以前とプロになって以降という区切りで、

一体何が変っているのか?



それは〈勝ち続ける〉事の意味だ。






〈第三章以前と第四章以降〉では〈勝ち続ける〉事の意味が変化している。

第三章以前で書かれる〈勝ち続ける〉事は

〈誰も到達した事のない強さの境地〉の獲得を繰り返し

そして得る〈自分自身の成長〉の事だった。

だが、その先に在ったのは〈絶望と挫折〉だ。


第四章以降で語れる〈勝ち続ける〉事は

この〈絶望と挫折〉を回避する事に成功している。

それは決して第三章以前で書かれる〈勝ち続ける〉事が
第四章以降で破棄させる訳でも一新されている分けでもない。

言うならば〈付け加え〉られてるのだ。


第三章以前と第四章以降で勝たれる〈勝ち続ける〉事、

これはお互い補完し合っている。

或はこの二つを合わせて真の意味で【勝ち続ける意志力】で

語れる〈勝ち続ける〉事となる。

ではいったい何が第四章以降で〈付け加え〉られたのか?





それは〈政治〉という視点だ。

第三章以前で書れる〈勝ち続ける〉事は実は〈戦術/戦略〉の段階の事で、

第四章以降で書かれる〈勝ち続ける事〉こそが

〈政治〉での〈勝ち続ける事〉だ。

これらはお互いを補完し、

〈戦術/戦略〉の〈勝ち続ける〉事では

やがて落ちてしまう〈絶望と挫折〉を回避している。



では、

〈政治〉での〈勝ち続ける〉事とはいったいどういう事だろうか?






第四章に入りウメハラ

    
    「ゲームに感謝する気持ちは忘れていない(中略)

     しかしその一方で、

     そこまでゲームに固執する必要はないのだろうとも感じている。

     チャレンジできなくなったり、

     そこに自分の成長を見いだせなくなったりしたときには、

     少しの未練もなくゲームを捨てることができるだろう。

    (第四章 目的と目標は違う/夢がなくても)」


こう書いている、


第三章では


    「負けた、言い換えると、

     ゲームの世界でこれ以上頑張れないと感じたら、

     生きる気力を失うくらい大事なものだった。

    (第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護/ゲームから身を引く)」


と書き、
第四章でも


    「4連覇が懸かった大会(中略)大会が近づくにつれて重圧が高まり、

     胃の調子がおかしくなった。

     食事がのどを通らなくなり、体重が激減した。

     いまよりも10キログラム以上痩せていたと思う(中略)

     何日かは食べることも放棄した。

    (第四章 目的と目標は違う/4連覇を懸けた大会で)」


この様に書かれる程、
真剣に向き合った格闘ゲーム

少しの未練もなく捨てる事が出来るといっている。


そして第四章以降は幸福感と安定感に溢れている。

それは決してプロになったからというだけではない。

その〈証拠〉にプロになったゲームの世界まで
捨てることが出来ると書いている。


なぜなのか?





〈政治〉の段階での〈勝ち続ける〉事とはまず


    「『その努力は10年続けられるものなのか?』

     自問自答してみるのがいい。

    (同上/その努力を10年続けられるか?)」

    「それならば『メジャーデビューは頭の片隅に置いといて、

     これからも自分たちの音楽を追究していけばいいんじゃない?』

    (中略)

    『もし本当に音楽が好きなら音楽そのものと向き合って、

     素晴らしい音楽を続けていけばいい。そうすれば、

     きっと悪いことにはならないと思う』

    (同上/バンドマンの未来)」


〈戦術/戦略〉の短期的そして長期的な視野を越えた超長期的な視野の事だ。

これは〈戦術〉の一試合一試合一勝一勝より大きい〈戦略〉、

さらに〈戦略〉の1つのゲームで

〈誰も到達した事のない強さの境地〉を獲得する事、

そして得る〈自分自身の成長〉そしてまた新たなゲームへと挑戦するという

長期的な視野よりももっと大きな視野だ。

それが〈政治〉の持つ超長期的な視野だ。



その大きさは、一個人の人生全体にも及ぶ物だ。

ここでクラウゼヴィッツのこの言葉を再び出す。


    「戦争全体の最後の決戦ですら常に絶対とはみなされず

     むしろ敗戦国は不離な結果を一時的な禍い過ぎないと見なし、

     戦後の政治的関係に置いてこの禍いを回復することが出来る。

    (第一編 戦争とは何か?/第一章 戦争とは何か?)」


この言葉で語られている〈政治〉の視野とは、

一国が国が滅びるまでの期間を指している。


クラウゼヴィッツの【戦争論】は、

彼の祖国がフランスのナポレオンにボロ負けした事を

理由に書かれている、言うならば復讐の書物だ。

だからこそクラウゼヴィッツは国が滅亡していなければ

何度でも立ち上がれるのだと書いている。

それを個人に置き換えたら一個人の人生が終わるまでの間だ。

〈政治〉の持つ超長期的な視野とはそういった物なのだ。




そして、


    「そして目的と目標を明確に分けて、

     日々の生活・成長に少しずつの幸せを見つけること。

     そのようにいられる今日の生活を、

     僕は1日1日噛み締めるように生きている。

    (第四章 目的と目標は違う/機が熟すの待つ)」


    「だから1日1日、少しの変化で満足できる自分でありたい。

     継続することが大切だと感じる自分でありたい。

    (同上/団子屋のおばあちゃんから学ぶこと)」


政治の〈勝ち続ける〉事が持つ超長期的な視野とは、

こういった超長期的な意味での〈自分自身の成長〉だ。

その〈自分自身の成長〉は


     「いま、大会に出場するときに僕が抱いているのは、

      自分のプレイを見て欲しいという思いだけだ。

     『俺のプレイはどうだ?勝負内容をしっかり見てくれよ』と

      思っている。

     (同上/目的は成長し続けること)」


この様に、〈自分自身の表現〉という物にまで繋がる。



超長期的な意味での〈自分自身の成長〉

それと共にある〈自分自身の表現〉

だからこそ、


     「しかしその一方で、

      そこまでゲームに固執する必要はないのだろうとも感じている。

      チャレンジできなくなったり、

      そこに自分の成長を見いだせなくなったりしたときには、

      少しの未練もなくゲームを捨てることができるだろう。

     (第四章 目的と目標は違う/夢がなくても)」


とまで言うことが出来るのだ。



〈政治〉の〈勝ち続ける〉事が超長期的な視野を持つ

〈自分自身の成長〉と〈自分自身の表現〉であるが故に

最終的には在る物へ繋がる。


    「勝っても喜ばず、負けても落ち込まない。

     結果はあくまでも結果で、

     自分にとってはもっと大事なことがあるから、

     どちらにせよすぐ忘れる。

     だから、僕のことを精神的に負かすのは不可能かもしれない(中略)

     僕にとって最大の敵は対戦相手ではなく自分自身なのだから。

    (同上/世界大会優勝以上に嬉しいこと)」


    「誰かに批判されたからとか、世間に認めてもらえないからといって、

     そこでゲームを諦めていたら、

     この年になっても自分を好きにはなれなかっただろう。

    (第五章 ゲームに感謝/ 誰だって迷い、悩んでいる)」


    「どん底から立ち直った人間は、顔つきが違う。

     目に力が宿っていて、絶対に負けを認めない信念を感じる。

    (エピローグ/生きることは)」


それは一試合の一敗、1つのゲームでの失敗そしてその繰り返し、

それらを遥かに越えた〈本当の本当の所で絶対に負けない〉事だ。

本当の本当の所とは、超長期的な視野である人生の中で

虚無やニヒリズムに陥らない事だと言っても良い。



第三章以前で書かれる〈戦術/戦略〉での〈勝ち続ける〉事は

〈誰も到達した事のない強さの境地〉の獲得を繰り返し

そして得る〈自分自身の成長〉の事だった。


だがそれだけでは、その先に〈絶望と挫折〉がある。

それを第四章以降で書かれる〈政治〉での〈勝ち続ける〉事が補完し、

〈絶望と挫折〉を回避する。


第四章以降で書かれる〈政治〉での〈勝ち続ける〉事は

超長期的な視野を持つ〈自分自身の成長〉と〈自分自身の表現〉

そして〈本当の本当の所で絶対に負けない〉事だ。



第三章以前と第四章以降では
視野の違いはあれど〈勝ち続ける〉事を書いているが故に


     「どれだけ頑張っても勝てない相手がいたら、

      本当に楽しいだろうと思う。

      (第二章 99.9%の人は勝ち続けられない/

       失敗していることこそが指標になる)」



     「僕はどんどん失敗したいと思っている。

     (エピローグ/生きることは)」


の様に似た様な事を書いている箇所が複数ある。

上記の場合は負ける事や失敗する事などに関連する似た様な内容を持つ言葉だ。

だが前者が繋がるのが


      「後で振り返ったとき、

       自分が驚くほど進化しているということに気づくはずだ。

      (中略)ようやく相手を倒した瞬間にこそ喜びがあり、

       変化が報われる瞬間と成り得る。

      (第三章 99.9%の人は勝ち続けられない/

       失敗していることこそが指標になる)」


であるのに対し、

後者が繋がるのは

     

      「失敗癖をつけておけば、

       トライ&エラーが当たり前の習慣になる。

       失敗に強くなる(中略)

       どん底から立ち直った人間は、顔つきが違う。

       目に力が宿っていて、絶対に負けを認めない信念を感じる。

       (エピローグ/生きることは)」


という文章だ。



前者が示す〈勝ち続ける〉事は〈自分自身の成長〉、

後者が示す〈勝ち続ける〉事は

〈本当の本当の所で絶対に負けない〉事だという違いがある。

これは第三章以前と第四章以降で語られる〈勝ち続ける〉に

違いがあるから起こる事だ。

またそこにも〈戦術/戦略〉と〈政治〉という違いがある故に

〈具象〉と〈抽象〉の違いも表れる。



だが、これは決してお互いがお互いを否定している訳でも、

第四章以降で書かれる〈勝ち続ける〉事で

第三章以前に書かれた〈勝ち続ける〉事が一新される訳でもない。

〈戦術/戦略〉での〈勝ち続ける〉事は第三章以前で書かれる事が正しく、

〈政治〉での〈勝ち続ける〉事は第四章以降で書かれる事が正しいと言う事だ。


〈戦術/戦略〉での〈勝ち続ける〉事を

〈政治〉での〈勝ち続ける〉事が補完し、

〈政治〉での〈勝ち続ける〉事は

〈戦術/戦略〉での〈勝ち続ける〉事の上に建っている

どちらが優れているとかそういった事ではない。


クラウゼヴィッツの【戦争論】ではこう書かれている。


   「戦争は常に政治的事情から発生し

    政治的動機によってのみ引き起こされる。

    したがって戦争は1つの政治的行為である

   (第一編 戦争の本質について/第一章 戦争とは何か)」


   「戦争は政治と言う指導的な知恵の配下に置かれている(同上)」


〈政治〉と(〈戦術/戦略〉を内に含む)戦争は

独立した離ればなれになった行為ではない。

〈政治〉と〈戦術/戦略〉は繋がっている行為なのだ。





第四章以降で書かれる〈勝ち続ける〉事の、

〈本当の本当の所で絶対に負けない〉とはどういう事かは、

〈政治〉が抽象的である故に範囲が広く一見分かりづらい。




クリント・イーストウッド監督の映画に

インビクタス/負けざる者たち(2009年)〉がある。


この映画の南アフリカを舞台とし
同国で開かれたラグビーワールドカップ
同国代表チームの活躍を描いている。



南アフリカは1994年まで
支配者層の白人による人種隔離政策である

アパルトヘイトが敷かれていた。


アパルトヘイト組織の代表であった

黒人のネルソン・マンデラは国家反逆罪を理由に逮捕され、

1990年に解放されるまで、27年もの間牢獄に入れられた。


マンデラは1990年に解放され、

1994年南アフリカ初の全国民による選挙で大統領に就任し

アパルトヘイトを完全撤廃する。

翌年で、同国でラグビーワールドカップが開かれる事となる。


南アフリカ代表チームは白人選手で占められており
黒人選手は一人だけだった。

ラグビーは比較的金銭的に余裕のある白人のスポーツで、

 貧困層である黒人のスポーツがサッカーだった。

 2010年南アフリカで開かれたサッカーワールドカップに参戦した

 同国代表チームは黒人選手で占められており白人選手は一人だけだった)


マンデラ大統領はこのチームを白人と黒人の和解と融和の象徴として捉え、

チームに大きな協力をし

同チームが活躍する事の重要性をチームの主将に説く。


始めは白人で構成されたチームに反発する黒人の国民達であったが、

チームが活躍するにつれ見方を変え応援をしだす。

チームはその声に応える様に勝利を重ね、ついには優勝する。


その瞬間、黒人と白人の国民は心を1つにして喜び合う。

全編に渡りマンデラ大統領の思いと、
ラグビーチーム主将の活躍が描かれるが、

実は主題はラグビーではない、

主題は〈本当の本当の所で絶対に負けない〉事だ。



マンデラ大統領は27年間に渡る牢獄生活の中、

ある詩を心の支えてしていた。

その詩はイギリスの詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーが書いた

インビクタス】と云う物だ。

劇中繰り返し取り上げられるのはこの詩の最後の段落


      「門がいかに狭かろうと

       いかなる罰に苦しめられようと

       私が我が運命の支配者

       私が我が魂の指揮官なのだ」


という部分だ。


インビクタス】とはラテン語で〈屈服しない〉という事を表す。

マンデラはこの詩を胸に27年間の牢獄生活を過ごし、

大統領になりアパルトヘイトを廃止、そして白人を罰するのではなく、

和解と融和の考えを示し、それにラグビー代表チームを利用するのだ。


この映画で語られるのは、

本当の本当の所で虚無やニヒリズムに陥らない事で、

決して戦えば必ず勝つと言う事ではない。


それは1つの負けや長い敗北の期間を越えたより大きな所、

そして絶対的に心が折れてしまう事の無い様に

〈本当の本当の所では絶対に負けない〉事だ。

インビクタス、負けない者とはそういう事だ。勝つと言う事ではない。


もちろん、代表チームが優勝したからと言って

差別を含む国の問題が解決される訳ではない、

マンデラ大統領はこの出来事を将来への可能性と象徴として示したのだ。


現に南アフリカでは現在でも差別や経済の問題が長きに渡り続いている。

だが、この映画の最後はマンデラ大統領のこの言葉で締めくくられる。


     「急いではいない、ゆっくり行こう」




梅原大吾著の【勝ち続ける意志力】が書く、

〈政治〉での〈勝ち続ける〉事の〈本当の本当の所で絶対に負けない〉とは

規模や環境の違いはあれ、こう云った事なのだ。


    「そして目的と目標を明確に分けて、

     日々の生活・成長に少しずつの幸せを見つけること。

     そのようにいられる今日の生活を、

     僕は1日1日噛み締めるように生きている。

    (第四章 目的と目標は違う/機が熟すの待つ)」






これで梅原大吾著の【勝ち続ける意志力】が書く

〈勝ち続ける〉事が実は2種類あり、

それが〈戦術/戦略〉と〈政治〉という分け方である事、

そして〈戦術/戦略〉での〈勝ち続ける〉事とは

〈自分自身の成長〉という物であり、

〈政治〉での〈勝ち続ける〉事とは

〈本当の本当の所で絶対に負けない〉という物であるのが分った。



この著書は名著だと思う。

本書を読んだ多くの者をウメハラが感じた真実と厳しい言葉が励ますだろう。

だがそれは、

スポーツ選手や政治家や棋士や経営者や投資家や軍人や政治家が書いた

広義の『勝負』に関する事を記した書物と同様、

これからのウメハラの活躍に掛かっている。


ウメハラの活躍とは、この著書で示された〈自分自身の成長〉と

〈本当の本当の所で絶対に負けない〉、そして〈自分自身の表現〉という事だ。

それらをウメハラがこれからどう繰り出して行くのかという事を

楽しみに期待している。



      「老いに勝る努力にも限界があることを否定するつもりはない。

       それでもなお戦い続ける覚悟を決めたからこそ、

       僕はプロゲーマーの道を選んだのだ。

       ならばこそ僕は、いずれ死ぬなら戦いの荒野で死にたいと思う。

       根城に籠って静かに息を引き取る末期なんて、

       梅原大吾の性に合わない。

       (エピローグ/三国志のように)」






【批評ここまで】


梅原大吾著の【勝ち続ける意志力】の批評をこれで終える。

本批評で【勝ち続ける意志力】に

二つの〈勝ち続ける〉事がある事を明かしたが、

それがどういった物を〈証拠〉としているのか、

ウメハラは実際に何を感じたのかという事や、

どうすれば二つの〈勝ち続ける〉事をし続けられるかは極力書いていない。

それは是非【勝ち続ける意志力】を実際に手に取って確かめて欲しいからだ。

なんせ絶対発売中の本だからね(笑)


ここまで本批評を読んで下さった貴方ならば

梅原大吾著の【勝ち続ける意志力】を読めば必ず何かを得るだろう。




個人的な感想で言えば、

俺はウメハラさんのファンであるので、

ウメハラさんが書いた本が出るだけで諸手を上げて大喜びである。

その様はライムスターのラッパーであり映画評論家の宇田丸さんが

クリント・イーストウット監督の作品をべた褒めするが如く、

ジャズミュージシャンにして文芸家の菊地成孔さんが

マイルス・デイヴィスの作品をべた褒めするかの如くである。

しかしこのお二人ともまじめそういった作品に対して批評もしているので

それに習う事にした。

(という自分自身への批評)




因にタイトルの文字数制限があったので無理でしたが、
この書評に本当は付けようと思っていたタイトルは、


  【梅原大吾著「勝ち続ける意志力」批評。
   この本を読んだ事がない人へ、
   そして読んでも今イチ内容が判らなかった全ての人へ。
   小説と専門書と自伝と新書の違い。物事を伝える際の抽象と具象。
   物事の3つのレベル、戦術、戦略、政治。
   長期的に負けないことと超長期的に負けない事の違いとは。
   に関する推理小説と螺旋する批評】


でした。






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