ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 4ページ目(不定期更新の短編小説)

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パットンはビリャの副官と取引をしたというんだ、
互いの取引材料は命と情報だ、
つまりパットンは副官の命の保証する代わりに、
ビリャの居場所を吐く事を求めたんだ、
取引に応じた副官はパットンと共にビリャの隠れている場所へと向かった、
ところがそこにビリャは居ない、副官は隙を見て逃走を図る、
逃走の途中で結局はアメリカ軍に射殺された、
副官がパットン達を連れて行ったのはチワワ州にある洞窟なんだ、
パットンの自伝によるとビリャの副官は、
ここがビリャの隠し砦だと言ったと書いてある、
シカゴの主要新聞シカゴトリビューンは1922年、
数週間に渡る特集を組んだ、
内容は現代から戦前を振り返る特集だ、
この時代は第1次大戦後であり、まだアル・カポネが頭角を現す以前、
1920年から執行された禁酒法が一時的な社会平和を実現した時代、
戦場から帰って来た男たちが再び社会の中で働き始めた時代、
作家のスコット・フィッツジェラルドが、
グレートギャツビーを発表する3年前、
人々が内証的になっていた僅かな時代、
静寂の時代には戦前特集はおあつらえむきだった、
特集にはシカゴ出身の軍人のインタビューが数回にわたり掲載された、
そのうちの1人はパットンに付いてビリャ捜索に向かった人物だった、
彼はメキシコへ出陣した際の事も語っている、
その中で洞窟の事を語っていたんだ、彼の証言以降、
パットンはその洞窟こそがビリャの隠れ砦だったと証言する様になる、
それ以前はビリャの副官を戦闘の末に殺害したとしか言っていなかったのにだ、
パットン曰くビリャの副官との取引は、
軍事的な機密だったので嘘を言っていたという事らしい、
だがパットンが副官に求めたのは本当にビリャの隠れ家の情報だったのか?、
米軍から逃げ仰せたビリャ、彼の副官との取引、
パットンの武功、ビリャの死後の目撃証言、
全てはチワワ州で行われている、
パットンはウェストポイント陸軍士官学校在学中に、
メキシコに関する地理的戦術概要論文を数回書き上げている、
彼はメキシコに関する軍事的研究者だったんだ、
だからこそパットンはビリャ捕獲作戦のアメリカ側の副官に選ばれた、
彼はメキシコに詳しかったんだ、メキシコの地理は勿論、
メキシコ軍の状態、装備、練度、メキシコの気候そして文化に精通していた、
骨についても噂くらいは知っていただろう、
パットンの話には続きがある、
彼は世界大戦中もっとも勇敢だった将軍として知られている、
彼の持論によれば、将校は前線で指揮をすべし、
パットンは戦闘中前線で指揮を執っていた、
前線に向かわない将校を命令違反、臆病者として罰してもいる、
そのせいでパットンは幾重も怪我をした、
かすり傷から始めて、敵の弾丸が身体を貫通した事まである、
ところが怪我を負った後で、
軽傷は勿論、重傷を含めて、彼は驚異的な回復力をみせて戦場に戻っている、
撃たれた、だが直ぐに全快した、そして再び最前線へ、
彼が死んだのは第二次世界大戦終戦した45年の年末だ、
彼が乗る車が交通事故を起こした、
パットンは後部座席に座っていた、部下が運転していたんだ、
運転手も同乗者も無事だった、軽症だった、
だが彼だけが死んだ、
頭蓋骨が割られ脳を損傷して死んだんだ、
事故の結果が結果なので、
暗殺説も根強い、
頭が割れて死ぬ、
リンカーンやビリャの死因を思い出す、
話はここで終わりだ、全て終わりだ、
アステカの生け贄、オメルカの石像と神話、死者の日、
チワワ州の宇宙人伝説、宇宙人と現地人の交配、子供、
コロンブスコンキスタドール、病気、
全員生存した村、テキサスの独立とアメリカへの併合、米墨戦争
グアダルーペ・イダルゴ条約、条約でメキシコに渡された1500万ドル、
アメリカに渡された献上品、行方不明になった骨、
メキシコ革命、パットンの取引、
パットンから逃げ切ったビリャ、
メキシコの神話からハスターを創造したビアス、彼の行方不明、
彼はラブクラフトと住人の夢の中に何度も登場した、
1度の暗殺を回避したリンカーン、無敵のパットン、死後目撃されたビリャ、
彼らは共通して頭を割られて死んでいる、
俺が話した全ての出来事、全ての人物はチワワ州に関わっている、
全ての出来事を繋ぐ隠された線として、
スターチャイルドの骨が関わっているかも知れない、
スターチャイルドの頭蓋骨以外の骨はどこに消えた、
一部はあの村人達が食い、
一部はリンカーンとパットンとビリャとビアスが食ったのかもしれない、
彼らは重傷を負っても奇跡的な回復力を見せている、
或は死んだとされた後にも目撃されている、
特にビアスは現在でも遺体すら見つかっていない、
今でもビアスは生きているのかもな、
そして今でもスターチャイルドの頭蓋骨以外の骨は、
誰かが持っているのかもしれない、
持っているのかもしれない、その手にな、
5歳児の骨をな、その手に、
さて、あんたは今、俺から手渡された奇妙な得体の知れない石を手にしている、
白いが、黄色く濁っっている石だ、
側面を触るとギザギザしているのが分かるだろう、
だがその大きさの石にしては軽い、
実はその石こそスターチャイルドの骨なんだ、
奴の踵の骨でね、踵の骨ってやつは石ころの様に小さいんだ、
その骨はパリのモンマルトルの古美術商から手に入れたんだ、
メキシコ革命の切っ掛けとなったディアスが、
逃亡の末に死んだパリにあるモンマルトルだよ、
その骨を手に入れるまでには時間が掛かった、
始めは古美術商も手放そうとしなかったんだからな、
だが交渉を重ねて俺に売る事を認めさせた、
90万ドルで買い取る事が出来た、
というのは作り話さ、
全ては作り話なんだ、
俺が話して来た事は全て作り話なんだ、
俺の創造した架空の話だ、
歴史、幻想、神話、作り話、
俺が聞きたいのはね、
今の話を整理してきちんと作り直す、
そして小説の原案や映画の脚本にしたら売れると思うかい?って事だよ、
俺が考えた物語は人の心を打つかな?、
不老不死とか驚異的な治癒力を得るのも良いが、
何よりが俺が知りたいのはそこなのさ、
俺の話は人の心を動かす価値があると思うか?


彼の長話。長話。長話。
僕は彼に、良く分からないと答えた。
だって僕の人生とも興味ともあまりにもかけ離れた物語だったからね。
オカルト話なのか、オカルトじゃないのかも良く分からないよ。
彼が語ったメキシコの歴史は本当の事なのだろうけど、
歴史の裏に隠されていると彼が言う
陰謀論の楽しみ方が僕には良く分からないんだ。
僕が知っている物事、僕が知る常識の範囲外の物語。
だから感想を聞かれても困るという訳。
僕が困った顔をしていると彼は苦笑いをした。
そして本当の依頼を話し始めた。僕はからかわれていただけなのかも知れない。
或はあの長話を話す事、それ事体が彼の暇つぶしになっていたのかも知れない。
またはストレス解消とかね。
彼の依頼は彼が語った物語ほどは複雑ではなかった。
依頼は日本の神社や寺に関する調査だった。
東京近郊で、
星や隕石に関連する言い伝えや神話を持つ寺社を調べて欲しいとの事。
寺社をリストアップして言い伝えの詳細と共に彼に伝える。
それから目的地に向かう手はずを整えてあげるのが仕事という訳
僕は彼に質問をする。珍しいものにご興味をお持ちですね。
彼は笑った。生きるのに必要なものは人によって違うからなとの事。
彼は言う。
別の男の場合は女や金かもしれない、車かもしれない、
仕事かもしれない、眺めの良い風景かもしれない。
でも俺の場合はちょっとしたヨタ話なのさ。
僕が就いている職業にとって、
資料と情報の収集、調査とまとめはもっとも基本的な仕事なんだ。
基本だから楽な仕事だという訳ではないけれど、
基本ならば必要以上に苦労せずに終える事が出来る。
寺社巡りの本、神社庁の資料の収集、当てはまる寺社に向かう、現地での調査。
いつくかの寺社をリストアップ。
久しぶりに読んだオカルト系の情報雑誌。
以前読んだ時も仕事絡みだったよ。
彼に渡す資料に平将門首塚と北斗七星にまつわる噂を書き添える。
目的地への行き方を分かり易くまとめる。
そして一風変わったガイドブックが完成した。
仕事を終えた僕は依頼者の目的が何であるかを感じ取った。
彼の話す作り話、彼が語る物語。
彼は自分が作り出した話に、新たな要素を加えようとしているのかもしれない。
彼はきっとその為に日本にやって来た。
そうやって生きているんだ。




依頼主はロシア人。
夏。繁華街。場所は依頼主から指定された喫茶店
男性。彼の服装は着古した黒いシャツ。
彼はコーヒーカップを持ち上げてゆっくりと口に運ぶ。
落ち着いている。熟れた旅行者か日本在住の外国人にしか見えない。
年齢は60歳を少し越えている位だろうか、
周りの人は彼の事を何をしている人と考えているだろう?
何をしているのだろうとは、何の仕事をしているのだろうかという事だけれど。
この言葉が職業に関する質問をしているものである事を多くの人が知っている。
現代では仕事とはその人の所属、
人となりを表す物であると理解されているらしい。
人間性と人生と仕事に関連する話は難しい、
だって誰もが好きな事を職業にしている訳ではないから。
いつか仕事と人間性の関連が切り離されて考えられる時代が来るだろうけれど、今はまだ来ていない。
現に僕も僕が勤める職業に、僕の人間性を縛られているからね。
僕たちは未だ未熟なんだ。
さて、実は依頼主は僕たちの同業者なんだ。
彼の服装は人ごみで浮かない雰囲気、何処に居ても目立たない服装だ。
彼は目立たない事の大切さを理解している。
彼は現在、眉間に皺を寄せている。困り顔。額に指を乗せる。
自然とうつむいてしまう頭を指で支えている様だ。
僕と彼との間にはテーブルがある。
テーブルの上にはコーヒーカップと封筒がある。
それとタバコの吸い殻が1つだけ入った灰皿。本。
きっと僕が席に着くまで依頼主はこの本を読んでいたんだ。
表紙にあるのは日本語だ。ゴーゴリ作、外套と書いてある。
彼は日本語を読む事が出来るんだ。
ゴーゴリはロシアの作家。
自国の作家の本を外国語で読む気分はどんなものだろう?
僕はこの本を読んだ事がある。日本語でだけれどね。
貧乏な役人が主人公だ。19世紀の雪の降るペテルブルグが舞台だったと思う。
ボロ切れになるまで使っていたコートがダメになってしまったので、
主人公は新しいコートを仕立屋に作らせる。
新しいコートは高かったけれど、
新品の美しく清潔なコートは彼の生活を変えた。
彼の退屈で単調な暮らしが変った訳ではない。
仕立屋が無事に仕事を終えるまでの2週間、
コートの事を夢に見るまでになったんだよ。
新しく、清潔で、美しいコートを主人公は想像し続ける。
想像が日々の生活に彩りを与えたんだ。
新しいコートを着て過す日々はどんなに素敵だろうか?
実質的には生活の何もかもが変化していないのだけれどね。
完成したコートは予想通りに美しくて、
同僚が新調祝いの酒盛りをしてくれた程だった。
だけれど主人公は祝いの席の帰り道で、強盗にコートを奪われてしまう。
絶望した主人公は熱を出してそのまま死んでしまうんだ。
後日彼の幽霊がペテルブルグの街に出る様になる。
幽霊は夜の街を歩く酔っぱらいや仕事帰りの人間のコートを奪うらしい。
幽霊の話を聞いた高慢な勅任官はある時、彼の幽霊と遭遇する。
彼の無念を感じ取った勅任官は、分け与える気持ちでコートを差し出した。
以降、幽霊は出なくなったし、勅任官は部下を思いやる様な人になった。
コートは多くの事の暗喩なんだ。
僕が外套を読んだ時には、
冬のペテルブルグの街並を歩いた様な感触を得た事を憶えているよ。
僕は会ったばかりの依頼主との話の話題に
本の事を出そうかとも思ったのだけれど、止めた。
世間話は後で良い。
だから僕は封筒を視線で指し示しながら言ったんだ。
—これが仰っていた手紙ですね?
彼は苦笑いを浮かべる。
ロシア人がなかなかしない表情の1つ。
これは差別的な表現ではないと思うけれど、
ロシア人はなかなか笑わないんだ、特に親しく無い人間の前ではね。
彼はコーヒーカっプをゆっくりと持ち上げて、
真っ黒なコーヒーを胃の中に飲込んだ。


そうなんですよ、
貴女が勤める会社の社長とは知り合いでしてね、
仕事を依頼したら、貴女を紹介された訳です、
依頼内容は大まかに伝えられていると思いますが、
改めて私の口から説明しますよ、
質問や疑問があったら仰って下さい、
あなたにはこの手紙をある人物に渡して欲しい、
つまり配達の仕事です、
相手は私と同じロシア人です、
性別は男、年齢は私の少し上です、
彼の事をイワンとでも呼びましょうか、
本名ではありません、
アメリカ人だったらジョンとか、
イタリア人だったらジョヴァンニとか、
ロシア人だからイワン、分かり易いでしょ?、
イワンはあなたと私と同じ職業に就いていました、
1991年の年末に崩壊したソビエト連邦は、
国内外への諜報組織を有していました、
国家保安委員会、カーゲーベーとして知られる組織ですね、
崩壊の直前、同年、91年の8月にはソ連では革命が起こりました、
ヤナーエフ副大統領がゴルバチョフ大統領に対して叛乱を起こしたのです、
ヤナーエフは保守派と言うやつで、
ゴルバチョフが行っていた改革に反対したのです、
保守派の行動自体は革命と言うよりも、
改革への対抗戦争と言った方が良いかもしれません、
では何が革命だったのか?、
保守派が対抗戦争を開始した8月19日、
首都モスクワを彼らが指揮する戦車が走り回りました、
ゴルバチョフは保守派により監禁され、
ヤナーエフへの全権の譲渡を求められた、
放送通信の分野は保守派によってほぼ掌握されました、
この時点では保守派の勝利です、
ですが改革急進派の大物政治家、
エリツィンの身柄を確保出来なかった事が痛手でした、
ゴルバチョフの次にソ連……ロシアの代表となった彼は、
一時期は保守派に接近しつつある改革派から離れましたが、
革命の直前には和睦していました、
エリツィンは保守派から逃れる為に最高会議ビルに籠城し反保守運動を指揮、
彼に賛同する大勢の市民がビルを囲みバリケードを築いたのです、
そして保守派の戦車が市民を囲んだ、一触即発の事体です、
アメリカやイギリスを始めとする西側各国は保守派を非難し、
エリツィンを支持しました、
当時保守派の指揮下にあった軍の精鋭特殊部隊は、
ビルへの突入を命じられました、
ですが彼らは市民に銃を向ける事を拒否した、
地方を含む各地で労働ストライキが起きました、
保守派による改革への対抗戦争の最終日、
ルビャンカ広場には多くの市民が集まりました、
広場の先にはカーゲーベーの本部ビルが重々しく構えていたのです、
本部の玄関にはカーゲーベーの創設者である、
フェリックス・ジェルジンスキー銅像が立っていた、
市民がその銅像を倒し始めたんです、
保守派が起した戦争の計画者は、
当時のカーゲーベー長官ウラジーミル・クリュチコフでしたからね、
その象徴を倒してしまおうという行為です、
広場に集う無数の市民、市民が操るシャベルカー、クレーン車、
ソ連時代には国民からも恐れられたカーゲーベー、
国家の中の国家とまで言われ、
恐怖の代名詞になっていた組織の下にまで市民の抵抗が及んだのです、
銅像は彼らによって倒されました、
実質的にカーゲーベーが崩壊した瞬間です、
保守派が起した対抗戦争は国民の抵抗と、
戦争に賛同しなかった政治家や軍人の働き、
西側諸国の圧力や政治的軍事的な工作により失敗に終わりました、
以降、ソ連の改革を急速します、
年末にはソ連は崩壊してロシア連邦が誕生した、
エリツィンロシア連邦の初代大統領に就任しました、
保守派が起した戦争の結果、保守派こそが国民によって追い出され、
ソ連が崩壊しロシアが生まれたのです、
いわばこの戦いの革命とは、国民が起した脱ソ連の革命だったのです、
敗戦した保守派の一部は国外逃亡し、一部は逮捕され、一部は自殺しました、
さて、1つ疑問がお有りだと思います、
戦争当時、保守派が放送通信を掌握していたのに、
エリツィンはどうやって国内外に指揮や声明を送っていたのか?、
それはEメールを利用したのです、
当時はインターネット夜明け前夜でEメールは専門的な物でした、
モスクワ近郊にあるクルチャトフ原子力研究所には、
Eメールを送る事が可能なコンピューターが設置されていました、
そして研究所に勤める研究員の多くが反保守派であった為に、
Eメールによって戦争当時のソ連の状況や、
エリツィンの声明が世界各国に送られました、
もちろんカーゲーベーもこの事を把握していました、
戦争の前、そして最中にもカーゲーベー上層部は職員を研究所に送りました、
ですがEメールとそれに関連する問題を解決するのには、
高度に専門的な知識が必要であると判断して、
職員は対処を行わなかったのです、
貴女だったら、この話を間抜けな事だとは思わないでしょう、
カーゲーベーも1枚岩ではなかったという事です、
ソ連崩壊後、そんなカーゲーベーの職員達は再就職先を探します、
そのままロシア連邦諜報機関に勤める者もいれば、
海外に渡った者や犯罪に走った者も居ます、政治家になった人間もね、
一部の者は自身の能力を活かして商売を始めました、
民間人や民間の施設、高価な商品や美術品の警護と警備、
身辺調査や信用調査に関連する仕事です、
ええ、私もイワンも所謂、カーゲーベー崩れでね、
ソビエト連邦時代、
冷戦時代には国内外の諜報を担当する第1総局に所属しており、
私たちは国外で情報活動を行っていました、
専門は東南アジアと日本に対する諜報活動です、
任務の中で私たちはカーゲーベーの現地駐在員や、
在日ソ連大使館の関係者を通して、
日本のビジネスマンや極道の人間、為政者との繋がりを得ていました、
諜報活動と言ってもご存知の通り大げさなものではありません、
日本人との会話から収集した情報や新聞や雑誌で読んだ事を、
纏めるのが基本的な活動です、
これだけでも対象の国の現状を理解するのには大いに役立ちます、
国内に居ながら他国の情報だけを集めて、
その国の事を知った気になるのはあまりにも危険な事です、
一番危ないのは知らない事を想像で補ってしまう事です、
想像とは現実の空白部分を補う行為ですからね、
つまり想像はまったく現実的じゃない、
情報戦というのは徹底的に現実的なものです、
だから想像は危険過ぎるのです、
とても一般的な事でもありますがね、
恋愛とか友情とか、映画や小説の作製だって同じ事ですよ、
映画人や小説家だって現地取材をします、
いや、
恋愛では想像でこそ生まれる愛もあるでしょうし、
小説だって想像が面白い作品を作る事だってあるでしょう、
でも想像だけでは酷く空虚な話が出来上がるのが概ねではないでしょうか、
確かにシェイクスピアは、
デンマークを訪れる事無くハムレットを書き上げました、
ですがクリスマスキャロル、
オリバーツイストや大いなる遺産を書いたディケンズは、
ロンドンに在住していましたし、
ダブリンを舞台にしたユリシーズの作者ジョイスはダブリンに住んでいました、
白鯨のメルヴィンは船乗りでしたし、
闇の奧を書いたコンラッドは作品の登場人物と同様に、
貿易船に乗り欧州と第3世界を行き来していました、
ガリバー旅行記のスウィフトは政治家の秘書や、
辺境の街で司祭を勤めていました、
刑務所に入ったドストエフスキーは後に死の家の記録を書き上げましたし、
川端の雪国や伊豆の踊子は彼の半自伝的作品と聞いています、
これらの素晴らしい小説は、
作品の舞台となる場所に作者が馴染んでいる事が、
如何に大切かという事の証拠です、
理解では無いですよ、
馴染む事です、
理解は言葉や理論的な考えを組み立てて言葉で物事を捉える事、
一方で馴染む事は言葉や理論を使用しなくとも、
物事を皮膚感覚として知っている事です、
諜報活動も同じ事です、
ソ連に居ながらにして世界各国の事を理解する事は可能です、
でもね、馴染む事は不可能だった、
馴染んだ事で得られる情報を取得する事も不可能ですし、
その国の現状を知る事も不可能です、
想像は多いに間違いを犯します、
小説だったらその間違いが作品に面白みを与える事もあったでしょう、
一方で諜報戦は現実です、現実には面白みといった物は無いんですよ、
現実に色は無く、透明で、冷たさも温かさも無く、ただ存在しているだけです、
恋愛の様に愛も、小説の様なロマンも無い、
当時の我々は、
その無色透明な現実を正確に把握しなければならなかったのです、
私もイワンもソビエト連邦が現実を知る事に人生を費やし、
多くの事を見て、その一方では様々な事を見て見ぬ振りをしてきました、
私と妻の間には2人の子供がいました、
兄と妹の兄妹です、
兄のアカーキーが10歳の頃です、
モスクワに始めてマクドナルドが出来た年で、
息子とは一緒にマクドナルドに行く約束をした事を良く憶えています、
その年の冬、アカーキーは複数の友人達と遊んでいる途中に行方を消しました、
妻はその日のうちに警察に捜索依頼を出しました、
1週間後、街の片隅にある古井戸からアカーキーの遺体が発見されました、
彼が最後に目撃された場所から大分離れた場所にある井戸の底からです、
警察は事故だと判断しました、
アーカキーは少年の気まぐれ1人ででふらりとそこまで行って、
不慮の事故で井戸に落ちて脚の骨を折った、
雪の降る寒さの中で数日生きた後、怪我と飢餓が原因で亡くなったと、
彼の遺体が見つかってから半年後、
アンドレイ・チカチーロという男がカーゲーベーに逮捕されました、
容疑は殺人です、
チカチーロは50人以上の少年少女を殺した事を自白しました、
10年の間に50人です、
その中には私の息子、アカーキーも含まれていたんです、
チカチーロが息子を井戸に突き落としたのです、
息子が死んでからチカチーロが逮捕されるまでの半年間、
私は1度も母国に帰る事が出来ませんでした、
帰国して息子の墓に行けたのはチカチーロが逮捕された半年後でした、
この年の8月にはイラククウェートに侵攻し湾岸戦争が始まり、
10月には東西ドイツが統一されました、
日本のバブルが崩壊した年ですが、
一方で未だにジャパンマネーは強かった、
日本人の実業家がゴッホルノワールの絵画を1つずつ、
合計2枚を約244億円で購入しました、
イラクに対抗する多国籍軍の為に、
日本政府は10億ドルを支出する事を決定しました、
一方のソビエトは改革の行き詰まりにより国力が一時的に衰退していたのです、
連邦の国際的な影響力は弱まり、
進退を慎重に選択しなければならない状況です、
激動の年であり、ソビエトは世界情勢を正確に見抜く必要に迫られたのです、
ソビエトにとって日本は隣国であり、関係はとても重要でした、
9月には後のグルジア大統領、当時のソビエト連邦外相シェワルナゼが訪日し、
年末には両国の外務省による協議が開催されました、
日本に派遣された職員は帰国の暇などなかったのです、
諜報活動を仕事にするとはそういう事です、
私とイワンはカーゲーベー崩壊後、
民間の調査会社に就職しました、2人とも同じ会社にです、
私たちの人生を費やした諜報活動は自分の職場すら守れなかった、
政府の為に働く事に我々は落胆していたのですよ、
だから野に下りました、
民間の調査会社の調査員として20年弱働きました、
得意分野はアジア諸国に関連する事です、
下野してから私が活動したのはロシア国内が主でしたが、
共産主義経済の崩壊後にロシア国内で台頭した新興財閥、企業から依頼されて、
日本の会社員の身辺を国内外で調査した事も何度もあります、
そんな私はもう引退です、
仕事も大切ですが孫とゆっくり過ごす生活の方を取りました、
娘が産んだ男の子です、
たまには仕事に戻る事もあります、
とはいえ簡単な仕事ばかりですけれどね、今みたいにね、
今では若い頃の様には身体は動きませんが、
経験を買ってくれる同僚がいるのです、
だから普段は孫達と過して、時たま仕事に戻る、
気楽な身分ですよ、
ところがイワンは違った、
私が引退を視野に入れ始めた時期です、
日本に駐在していた我が社の調査員が殺害されたのです、
ロシアに民間の調査会社が出来た後も、
我々はカーゲーベーの頃と同じ方法で情報を得ていたんです、
その為の調査員でした、
調査員は表向きは貿易関係のビジネスマンとして日本に滞在していました、
在日ロシア人の殺害は日本でもニュースにはなったでしょうが、
話題は長続きしなかったと記憶しています、
何せ殺害された男はただのビジネスマンなのですから、
犯人は捕まっていません、
イワンは日本に行く事を申し出ました、
調査員が殺害された理由の解明と彼の代わりに日本で活動を行う為にです、
イワンは優秀です、彼が日本に行く事に私も賛成しました、
彼が担当になってから日本に関する情報を得易くなりましたよ、
こちらが求める情報の大枠を彼に送れば、
必ず彼から情報の詳細が送られて来る、
イワンが日本に駐在してからは、
ロシア日本間の情報交換は、
安泰という言葉を絵に書いた様な状況になりました、
問題が起ったのはイワンの渡日から数年後、
私が引退した後です、
当時の事は良く憶えていますよ、
我が家で孫たちと、
ヒョードルおじさんとシャーリックの双六を楽しんでいた時でした、
調査員を引退した後の楽しい、心安らぐ一時です
ああ、
ヒョードルおじさんとシャーリックというのはロシアの有名な絵本の事です、
私を尋ねに社の重役の1人がやって来たのです、
彼もイワンや私と同じ境遇の持ち主です、
ただ彼はイワンの様に海外に行く事や、
私の様に孫と過ごす生活を選択しなかっただけです、年を取ってもね、
彼とは娘がいれてくれた紅茶を飲みながら話をしました、
重役が話したのはイワンの事についてです、
私はこのとき始めてイワンからの連絡が、
2ヶ月も途絶えている事を知りました、
それだけではありません、
連絡が途絶えた理由を調べる為に我が社の調査員が日本へと派遣されました、
ですが20日後、
その調査員が死亡した事がロシア外務省経由で我が社に伝わったのです、
千葉県は銚子の海岸で、水死体となって発見されたのです、
しかし彼は情報と手紙を残していました、
イワンに関する情報と、イワンの筆による手紙です、
日本政府や警察やロシア政府機関に押収される前に、
我が社はそれを押さえる事が出来ました、
死んだ調査員の残した資料によればイワンは日本の駐在員になってからも、
カーゲーベー時代に培った人脈と影響力を利用して、
日本での情報収集を行っていました、
それだけではなく、
イワンはそこで得た情報を利用して、
日本国内での影響力を更に高めていったのです、
まずイワンは日本に進出しているロシア系企業や、
日系企業との貿易を行っている会社に接触し、
情報をやり取りする仲になりました、
カーゲーベー時代に築いた人脈を利用して得た日系企業の情報を、
彼らに提供したわけです、
代わりに企業側はイワンに別の情報を返す、あるいは謝礼を送る、
彼が取引を行った企業には、
街中でロシア料理を提供するレストランも含まれます、
ニューヨークで商売を営むイタリアンレストランのオーナーが、
どの様な人物であり、
そして六本木や銀座のロシアアンレストランを持つ人物も、
それらと変らない種類の人間である事は貴女もご存知だと思います、
この様にイワンはまず、
日本に展開する企業で働くロシア人ビジネスマン、
そしてマフィアと友好を結んだのです、
ここで得た情報と資金、人脈を元にイワンはロシア人政治家を通じて、
親ロシア派の日本人政治家、
外務省や経済産業省に所属する官僚とも関わりを持つ様になった様です、
一方で彼は日本の極道の世界に食い込んでいきます、
日露双方の世界に顔が利く彼は、
我国のマフィアと日本のヤクザの仲介を行い始めたのです、
とはいえ小説に登場する様な違法薬物や武器の売買に関する物ではありません、
そういった取引の主戦場となるのは日本では北海道ですからね、
イワンが関わったのは土地や絵画の売買、人材の派遣に関する事です、
人材というのはホステスの事です、
フィリピンパブで働く女性を日本へと送るブローカーが、
女性を送る側のフィリピンと受け取る側の日本にも居る様に、
ロシアにも同じ商売をしている人間がいます、人を輸出する商売です、
絵画の売買の実体は資金の流入、流出に関わる事です、
なにせ絵画の価格は安くする事も高くする事も自由ですから、
絵画を通す事で国内外で現金を動かし易くなるのです、
誰かに現金をプレゼントしたくなったら、
相手がたまたま持っている、
実質的には芸術的にも投資的にも価値の無い絵画を、
高価格で購入すれば良いのですから、
イワンはそれらの仲介者となる事で、
裏の世界の土地と資金の流れ、そしてロシアと日本、
2カ国間の人の動きに関わる様になったのです、
彼の武器は情報と現金を動かす事で、
それらの流れを知っていて、流れを止める事も氾濫させる事もできた、
だから彼の影響力は日に日に増していき、人脈も深くなっていく、
そして数年後には財政界と裏の世界、
複数の業界を跨がる自らの組織を形成していったのです、
イワンの力は強大です、
我が社の調査員の死が、
わざわざ、
外務省経由で私たちに伝えられたのもその証拠の1つです、
死んだ調査員がイワンと接触した事は確かです、
残されたイワン直筆の手紙がその証拠です、
この手紙は調査員に宛てた物なのか、
或は我々へのメッセージなのかは分かりません、
イワンの直筆だと判断したのは重役で、
私も手紙を読んで同じ判断を下しました、
間違いなくイワンが書いた文字でした、
手紙にこう書かれていました、
私たちは虚ろな人間、
私たちは剥製、
わらの詰まった頭をもたれあっている、
風に吹かれる干し草の様に、
地下室の床に割れたガラス、その上を走る鼠の足音の様に、
私たちが交わす乾いた言葉に意味は無い、
純粋な目をして、彼岸の死の王国に逝った人々が、
もし私たちの事を覚えていても、
それは猛烈な精神としてではなく、
ただの剥製としてだろう、
知らぬ人が見たらこれは自作の詩だと知れましょうな、
確かにイワンは昔から文学的な男でありましたが、
ですが、これは正に詩なのです、詩そのものです、
T・S・エリオットというイギリスの詩人がいました、
彼の作品です、虚ろな人々という題名の詩なのですよ、
人の詩を使い返事をするとは、
まったくイワンはどうしたと言うのだ、
この手紙を我が社が回収してから数日後、
とある依頼が持ち込まれました、
依頼主はロシア対外情報庁で、
依頼内容はイワンがロシアに帰国する様に説得する事、
不可能な場合はイワンの意志や政治的指向の確認する事です、
依頼は正式には、
イワンに関する諸問題に対応する為に結成されたチームへの参加要請です、
チームはロシア対外情報庁内に作られました、
そこに相談役としての出向するのです、
指名されたのは例の重役と私でした、
私たちがカーゲーベー時代からのイワンの同僚である事を、
知って判断をしたのでしょうね、
この要請を受けて、私が対外情報庁に出向く事になったのです、
対外情報庁はカーゲーベー亡き後、
ロシア国外の情報を収集する為に作られた政府機関です、
その前身は私たちが所属していたカーゲーベー第1総局、
国外の諜報活動を行っていた部署です、
なので対外情報庁は私の古巣の様なものですね、
そこに戻るのは何とも言えない気持ちになりましたよ、
何せ対外情報庁は、
第1総局が使っていたビルをそのまま使用しているのですから、
私は民間の会社を退職した身であったのに、
再び政府の機関の為に働いている、
大昔に戻ってしまった、
職業というものには宿命という物があるのかもしれません、
この仕事を終えたら、今度こそ余生を過すつもりです、
娘と孫と過す穏やかな余生をね、
その前に今回の仕事に蹴りをつけなくてはなりません、
私はその為に来日しました、
麻布台にロシア大使館がある事はご存知かと思います、
あそこに対外情報庁の支局があるのですよ、
日本ではそこを拠点にしてイワンの行方を調査しています、
さて、調査を始めて暫くしてから進展がありました、
イワンからの連絡があったのです、
ですが直接の連絡ではありませんでした、
彼は外務省経由で我々に伝言を残したのです、
イワンはロシア外務省との強い繋がりがある様です、
我々はもちろん外務省に尋ねましたよ、
オタクらはイワンの居場所を知っているのではないかと、
返って来た答えは役に立つものではありませんでした、
我々外務省はイワンからのメッセージを受け取り、
彼の希望通りに対外情報庁に伝えただけだという一点張りです、
イワンからのメッセージには複数の要望が含まれていました、
まず我々に対するいくつかの希望、
我々が希望に答える意志があるのかどうかの確認、
そして我々からのメッセージをイワンの元へと伝達する方法です、
もうお判りだとは思いますが、
この薄い封筒の中には我々が書いた、
イワンへの返事が記してある便箋が入っています、
この封書をイワンの許へと運んで頂きたい、
これが貴女に依頼する仕事でもあり、
これこそがイワンが指定したメッセージの伝達方法なのです、
貴女が勤める調査会社の調査員を配達人に使う事がイワンの希望なのです、
実は私たちカーゲーベー時代に日本に在住していた人間、
つまり私とイワンの事ですが、
私たちは貴女の会社の社長と知り合いなんですよ、
同業者仲間ですね、社長に相談をして、
そしてあなたに話が通された訳です、
仕事内容はこの封書をイワンに渡すだけです、
配達する場所も既に指定されています、
危険はありませんよ、我が社と対外情報庁が貴女の身を守ります、
実は我々は既に貴女の事を守っています、
右側を向いて下さい、ええ店の外です、そこに見えるビルです、
ビルの12階、テラスを見て下さい、
いま小さな光が光りましたね?、
我々の仲間が小さな鏡を太陽に照らして光を反射させたのです、
そして私の後ろにある車、
道を挟んで灰色の車が止まっているのが見えますね?、
ハザードが2度点滅したと思います、
次は私たちのいる店の中、左隅の席に着いているアジア人を見て下さい、
彼はああ見ても国籍をロシアに置いています、
いまナイフを地面に落としますよ、ほら落とした、拾う、
そしてこちらを見ている、
この様に我々は既に貴女の事を警護しています、
どうでしょう?、
配達の仕事を請け負って頂けませんか、
依頼を受けて下さるのでしたら、
直ぐさま仕事を始めましょう、
いますぐに、
封書をイワンの許に運んで下さい
すぐにね、


酷い話だ。依頼の引き受け拒否も放棄もあったものじゃない。
脅しの様なものじゃないか。
だいたい彼の話がどこまで本当なのかもわからない。
依頼者は亡くした息子の名前をアカーキーだと話していたけれど、
アカーキーは彼が読んでいた本の主人公の名前じゃないか。
偽りの話をする為に本から名前を取ったのかもしれないし偶然かもしれない。
このわざとらしさは何か目論みがあっての事かもしれない。
そもそも彼が本当にロシア諜報機関の人間だとしても、
KGB云々の彼の様な人間が全てを正直に話す訳がないんだ。
ともかく僕はしぶしぶ依頼を受けた。
正確には受けざるを得なかった。
そして僕は仕事を成し遂げた。
依頼者の言う通り簡単で安全な仕事だったよ。
封書を運ぶ途中で、
イワンの部下を名乗る人間に服を一式、
新しい物へと着替えさせられたけれどね。
下着と靴、おりもの用のライナーまで新しい物に着替えさせられたんだよ。
盗聴器や小型の位置発信器への対策としてね。
情報収集に使用する機械は現代では小型化されていて、
ネイルアートの先にだってカメラを仕込める程だから。
だから服にも簡単に縫い付ける事も出来るという訳。
思い出す。
あの頃の僕はおりものが多くて、専用のシートを着けていたんだ。
当時付き合っていた彼にシートを見られるのが恥ずかしくて、
セックスの時、下着を脱ぐ度に目を瞑ってもらっていた事も思い出す。
彼が興奮と苛立ちの間で目を閉じている間に
僕はシートをゴミ箱に棄てていたんだ。
そして彼が見るのは綺麗な下着だけという訳。
彼が僕の脱いだ、
或は脱ぎかけの振りをして脚にひっかけた下着を見て興奮しても、
僕は安心する事ができた。
彼は女性は必ず
綺麗な下着を身に着けていると当たり前の様に思っていた人だったから。
単純で無思慮な男に思えるかもしれないけれど、
当時の僕は、
女の身体は綺麗な物だと当たり前の様に思っている男が好きだったんだよ。
綺麗な人間に見られたかったから、都合が良かったんだ。
だから彼がコンドームを包んだティッシュや、
御互いの精液を拭いたティッシュをゴミ箱に棄てる度に、
僕は冷や冷やしたものだった。
イワンに封書を届けるこの仕事が良い記憶か悪い記憶かと問われれば、
微笑ましくはない記憶だけれど大した事じゃなかった。
嫌な経験だけれど今では気にもしていない事なんだ。
僕だってタフなんだ。過去を振り払う事は出来る。
悪い記憶でも大して気に留めない事もあるし、
良い記憶でも心の傷になる事は沢山あるからね。
目的地も何度か変更させられた。
そして僕が最後に辿り伝いたのは病院の一室だった。
ベッドに寝ている老ロシア人、衰弱した肉体。
イワンの身体には数本の線が繋がれていた。
点滴、尿道カテーテル、呼吸器、バイタルサインモニター。
このお話はイワンの病死で終わる。
大げさな話ほど案外つまらないオチが付いてくるという訳。
依頼人が語る話し、物語、ドラマ。
物語を聞かされる僕たち。
彼らは彼らの物語を持っている。
語るべき事、
困っている事があるから僕たちの所へとやってくるという訳。
僕たちは彼らの物語に関わり合う事で仕事をして、お金を得ている。
だから僕たちはいつまでたっても物語の主役になる事は無い。
問題を訴えるのは彼らで、自らが訴える問題の中では彼らこそ主役だからね。
一方の僕たちは観光案内、人探し、資料作成、配達人。
誰かが主役の物語に出て来る脇役だね。
この仕事をしている限り僕は永遠に脇役だ。
でも良いんだ、僕には脇役の方が似合っている。
僕はそういう人間だから。そうやって生きて来たんだから。




人は悩みを抱えて生きている。
地球があって、人が居て、ならば悩みがあるのは当たり前じゃないか。
人の悩みが問題を引き起す事も多々あって、
問題を解決したいと人が思うのならば、
人々の人生の中に僕たちが脇役として登場する事もある。
だけれど、問題を解決したところで悩みが消える訳じゃない。
浮気癖のある夫の浮気現場を僕たちが写真に収めところで、
彼の浮気癖が治る訳じゃないんだ。
彼が浮気をしたという事実が消える訳でもない。
彼の浮気を放っていても同じ事だけれどね。
何度も何度も似た様な内容の依頼を持ち込む依頼主もいる。
旦那の浮気の証拠を掴む仕事とか、幾度となく失踪する娘の捜索とか。
僕たちは母親から依頼されて、
同じ娘を何度も何度も捜索して見つけ出した事がある。
ある時、母親からの連絡が一切来なくなった。
後日、僕たちは彼女が亡くなって居た事を知ったんだ。
悩みは死ぬまで続くと言う訳。
僕が現在の仕事をする中で得た教訓の1つだよ。
問題を解決する事と、悩みの扱い方を考える事は違うということなんだ。
きっと。
彼女が彼女として存在し続ける限り、娘は延々と失踪を繰り返していただろう。
人は悩みと共に生きているんだ。それに気が付くか気が付かないかの差だよ。
気が付けば、
悩みとだって手を取り合って生きて行く事はできるかもしれないからね。
精神科医フロイトが提唱したトラウマという概念や、
仏教の業の概念と似た様な物なのだろう。
悩みという物はきっと、自分自身や、自分の浅ましさが引き起こす物事なんだ。
自分の浅ましさに気が付けば、
浅ましいながらも少しは賢く生きて行く事ができるかもしれない。
だから僕は若い女の子達が言うあの言葉の内容には賛同出来ない。
早くおばあちゃんになりたいという彼女達の願望の事だよ。
僕が彼女達と同性だからといっても
全ての女性の意見には頷けはしないという訳。
彼女達のこの不思議な願望は、中年期も初老期も飛ばして、
若さの次には老いが待っていて欲しいという考え方から来ている。
彼女達は若い事は辛くて、
中年になる事は若さを半端に失う事で辛さに拍車をかける事だと思っている。
そして辛さを持ったまま人生を走り抜けて、
皺だらけの老婆に辿り着けたら悩みが無くなると思っている。
老婆の社会的な立ち位置や、
老婆になれば得られると思っている精神的な達観や、
老婆の肌の状態が物語るある種の美への諦観、
老婆が持つ独特の可愛さが、全ての悩みを消してくれる。
きっと若い彼女達は自分達の祖母の事を観てそう思ったのだろうけれど。
だけれど、現実ではそんな事は無いんだ。悩みは続く。
年老いた女性達は若い頃よりも
自分の悩みを人に隠すのが少しだけ上手くなっているだけだよ。
僕は自分の仕事のお陰で知っている。
老婆達にもセックスの悩みや、恋、お金、美や老いに関する問題が
常に付き纏っている事をね。
彼女達は時として僕たちの依頼人で、
僕たちは彼女達の人生の一端に脇役として登場するから。
知っているんだ。悩みは死ぬまで続くんだ。
だから僕は、どうせならば女性が老いという概念を扱う時、
男性達の様になれば良いなと思っているんだ。
老いなんて所詮概念だ。事実じゃない。
医療の飛躍的進歩で人間が1000年生きる様になったら
老いと言う言葉はまた違った意味を持つ言葉になるだろうから。
もちろん僕も1人の女性として老いは厄介な問題と実感しているけれどね。
対して男性達は老いる事に対して大らかに構えている様に思える。
彼らは貧しくなった髪の毛と対照して
豊かになり始めた腹部の事を話し微笑み、
そして老いを認める。
一方で女性達は彼らを冷めた目線で観察している。
なんで話すべきでは無い事を話しているのだろう?
なんで恐るべき事を語るのも禁忌な事柄を話して微笑んでいるのだろう?
僕たち女性はシリアスすぎるんだ。老いる事に対して真剣すぎるんだ。
あるいは茶化し過ぎる。
老いという概念を姦しく大声で笑う事で
恐怖と惨めさから逃れようとしているみたいだ。
女性達が老いる事に付いて男性の様に
もう少しだけでも大らかに話す様になればいいのに。
女性が老いに対してシリアスじゃなくて、
もう少しカームになってくれるのが僕の希望だね。
悩みは老いても死ぬまでいつまでもあって、年齢事に問題はかわるけれど、
問題があるならば僕たちが手助けをできるから。脇役として。
僕たちの会社の社長が、インド人の依頼主を連れて来た事がある。
彼は黒いシャツとジーンズを着ている。
服の上からでも、身体に多くの筋肉が着いている事が判る。
日常的に筋力トレーニングをしているのだろう。
身体の大きさが視線の鋭さと相まって、威圧感がある。
向こうの人は眼が大きい人ばかりだ。
大きな掌を握っては開いて、少し落ち着きが無い。
僕は彼に尋ねる
ー人数あわせ?警護ですか?
僕の質問に彼は頷く。
依頼主はゆっくりと話を始める。


全てを話そうと思っているけどな、
言葉はなかなか浮かばないものだな、
のろまにだらだら話したい訳じゃない、
下らない小説家のつまらない小説みたいにな、
俺がこんな浮かない顔をしているのは、俺がとんだ問題を抱えているからだ、
実際どんな問題が俺に存在するか本題に入るから聴いて欲しい、
身体が悪い、懐が寒い、心苦しいとかじゃないんだ、
悪いのはアイツだ、俺から逃げた、ボケたアイツだ、
誰が許すか?、神が裁くか?、金返すまで、地の果てまで、追っかけてやる、
アイツはニューデリーでこともなげに薬を売りさばいていた、
薬物、イリーガルで使用者には荒涼たる結末をもたらす薬物だ、
アイツは売人やプッシャーと呼ばれていた、
ヒンドゥー教徒で商売上手なアイツは手厚く金を稼いだ、
冴えた頭で数多の同業者を出し抜いた、
アイツが扱うのは錠剤のカフェイン、コカイン、
アンフェタミン、MDMA、MM、AMT、ケタミン
クスリを買う金の無いヤツには金を貸しクスリを売りつけ、
代金を取り立て、強引に回収し、財産を殖やした、
アイツが扱う客は不良、観光客、金持ち、貧乏人、
ビジネスマン、学生、娼婦、
つまり人の種類は一切合切、人類全員、全て客人、収入源、
何処の国とも何処までもかわらない、
人類はクスリの中毒の前では自制出来ない、
当然アイツの財産は殖えていく、アイツは勝ち馬に乗った、
ボサボサなひげ面で泣き面を見せるまでは、
強固で安定した人生を一旦は狡っからく行進した、
部下を引き連れ、肩で風切り、後に裏切りに合う事を知らずに、
日々の仕事を事も無げにこなし続けた、
だがアイツの人生に転落は突然登場した、
アイツが考えだした勘定高い策略が転落の確たる始まりだった、
大きな仕事に手を出したんだ、
大物の仕事を請け負ったんだ、
大物、支配者、胴元、勝者、
代表やボスと呼ばれる人間に仕事を任されたんだ、
金持ち目指すアイツは大量の薬を大量の中毒者にさばく仕事を託されたんだ、
アイツは下された失敗不許可のミッションに知恵絞る、
まず手に入れるのは大量のコカイン、
大金と交換し、コカインを入手し、販売し完売を目指す、
コカインを打ちたい馬鹿共に売り切れば、
売り上げの3割がアイツの稼ぎになるはずだった、
大金は大物のものでコカインはパキスタン人の売人のもの
向こう見ずなアイツはとびきりな取引の仲買人、
だがしかし、触らぬ神に祟りなし、
アイツの目論みは殺伐たるものになる、
夢破れる、人生は易々上手くはいかない、
金とクスリの取引当日、
取引現場に情け知らずの警察が突然突入、
サツにアイツの部下が全て1つ残さずチクっていたんだ、
大物の大金はパキスタン人の売人が手に取り、
売人は猛然と現場から脱兎の如く逃げ出した、
一方のアイツはコカインを手に取りヤク抱え蒼い顔して走り出した、
アイツは逃げる、逃げるアイツを警官は追う、そしてアイツは川に飛びこむ、
あの大河にな、あの大河にな、インドを流れるあの大河にだ、
戦くアイツは大河に大量のコカインを溶かした、
全てのクスリを川に流した、
アイツはコカインを小麦粉と言いはった、ナンを作る為のもんだと言いはった、
証拠は隠滅、アイツは釈放、しかしここから躓くアイツは転落、
アイツは金もコカインも持たない売人のドカ貧、
シャバに待っていたのは損失の保証義務、
出しゃばった事への罪と罰
ボスは金とコカイン失い怒髪天
彼がアイツに求めたのは損失分の支払い、
売人が持ち逃げしたクスリの購入資金、
そして手に入れるはずだった、クスリを売って得るはずだった売上金、
2つの金の返済、完成できなきゃアイツに命無し、
冷静に考えればせいぜい、売上金の返済でいいはず、
一体全体どういうことだ、だがボスは執ように要求した2つの金の返済を、
支配者は下っ端を支配する、アイツらの世界の絶対的権力者、
正解はボスの気分次第、決定したら従うほか無い、
従わないと命が無い、金がないと命が無い、アイツの命は金次第、
アイツは金を集める為に、
街中を駆けずり回ったが困った事にまったく上手く行かない、
手持ちのクスリは全て売った、貸していた金を回収した、
だが足りない、金が足りない、金がまったく足りな過ぎた、
アイツは家族、恋人、友人知人に頼み込んで金を借りた、
それでもまだまだ足りない、金が足りない、
アイツが足りない頭で最後に思い付いたのはあっぱれ人の金を奪う事、
当って砕けよ、金を奪取するなら、
金持ちからの方が最適だ高い成果を効果的に効率よく回収に出来るからな、
アイツにはアテがあった、金持ちの友達がすぐ側に居たんだ、
つまり、そう俺、俺の事だ、
俺はビジネスマン、IT企業の経営者、ちょっとした金持ち、
アイツと俺とは昔なじみ、大昔からの大親友、しかし年々歳々人同じからず、
アイツは俺から金を奪った、友情はこのとき全て終わった、
大変な大金だ、大切な現金だ、だがたちまちアイツの目標は達成だ、
直ぐにボスに返す金が耳揃えて用意出来た、
だけど最後、最後の最後で最高のトラブルがアイツを襲った、
ボスに金を返す直前、アイツが愛する女がアイツの金をカッ攫った、
女は娼婦であんな街を抜けどこか別の土地で暮らしたがってた、
その為に金を奪った、アイツの手からかすめ取った、
アイツに残された時間はもうない、助かる手段は残されちゃいない、
金の当てなどもう何処にもない、
そして突然アイツは消えた、大物の手からもすり抜けた、
追跡からも逃げ切った、アイツはどこかに行っちまった、
それから1年、悪事は単騎で千里を駆ける、
アイツの噂が伝わって来た、日本に居るのだと判った、
日本在住インド人、友人、知人の伝手を辿ってついた日本、
アイツは故郷を捨て気分一新、東京にステイ、
俺の目的はアイツに会う事、俺の金を取り返す事、
これが俺がアンタ達に依頼したい事の詳細、
アホなアイツの居場所は既に割れてる俺はそこに向かう、
アイツと再開、アイツは後悔して何をしでかすか判らないから、
俺の事を護衛して欲しい、無事に事を終えれば、謝礼は十分に払うから、
話の全てはこれで終わり、受けるかどうかはアンタ次第


僕たちは彼の依頼を引き受けた。似た様な仕事はよく依頼されるんだ。
借金の取り立ての様なものだね。
だけれど借金や債権の回収を債権者以外の人間が行う事は法的に難しい。
お金を貸した人間、つまり返済の催促を行う権利を持っている人物や、
権利者から回収の代理を任された弁護士以外が取り立てを行うと違法になる。
だから僕たちには債権の回収代行業は行えない。
でも僕たちは依頼を引き受けた。
だって僕たちがした事と言えば、
車を運転して依頼主を目的地まで案内したこと。
そして後は彼が目的の人物と話し合いをしている間、
彼の身に何か危険な事が起らない様に観ていただけだから。
一番近い仕事はボディーガードというやつだね。
まあ僕たちの仕事の中の法的には灰色な部分だけれど、
どの職場にだって似た様な部分はあるだろう。
僕は法律に背く可能性を恐れるより、
仕事が無くなる事を恐れるタイプの人間なんだ。
依頼は何も問題なく完了した。
依頼主の金を盗んだという男は直ぐさま彼に全額を返済したんだよ。
依頼主には日本に来て彼と再開するまでには色々なドラマがあっただろう。
お金を盗んだ彼にもドラマはあっただろう。
愛人に金を横取りされて、東京に逃げて、
再び大金を用意出来る様になるまでのドラマがあっただろうね。
だけれど、僕は2人のドラマには関われない。
自分の仕事を全うする脇役として僕が出来る事は、
車を運転する事、そして事の成り行きを観ている事だけだから。
だけれどきっと、こんな僕だって、
彼らの人生のドラマの中には少しは登場していて、
少しは役に立っていただろうとは思う。
思っているんだよ。





↓ここから更新↓




僕が脇役としてすらも登場しなかった仕事もあるんだ。
物語の中に僕は登場すらしていなかっただろう。
依頼主は黒のシャツを着ている。南米人で年齢は60歳前後。
口と顎に豊かな髭を貯えている。
彼はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに産まれて育ったという。
職業はワイン生産者。親から受け継いだ仕事だ。
彼の自己紹介を信じればだけれどね。
彼は笑顔で言う。メンドーサで作られるワインは最高だよ。
彼が所有する葡萄園とワイナリーがアルゼンチンのメンドーサにあるらしい。
アルゼンチンにあるメンドーサ州の州都であるメンドーサは、
同国におけるワインの名産地だ。
僕はワインについての知識はあまり持っていないけれど、
それくらいの事は知っているよ。
メンドーサは人の名前なんだ。スペイン人の軍人の名前だ。
スペインが南米大陸を支配した後でメンドーサは同地の総督になった。
だからメンドーサという地名になった。分かり易い由来だね。
僕がアルゼンチンワインとメンドーサの関係を知っているのは、
男に教えられたからだ。何回かセックスをした男だ。
彼とは何回か一緒に出掛けたし、食事をしたし、お酒を飲んでセックスもした。
だけれど付き合っているという感じではなかった。
全てが悪い感じではなかったし、御互いに順調だったし、
2人とも良い年齢だったから、
付き合い続けていけば結婚もしたかもしれないし、
その後で愛情も生まれたかもしれない。
全ては現在の僕がした想像だけれど。
そして想像だから、生まれかもしれないと想像する愛も、
本当のところでは僕には想像が出来ていない。
当時から想像出来なかったからこそ、彼とは長く続かなかったのだろう。
想像の愛情、あるいは想像出来ない愛情しか抱けない男と暮らして行くのは
僕には無理だ。
いまの僕はそうやって、自分の人生を解釈しているんだよ。
解釈なんて所詮は真実ではないから、
人生の再解釈をする可能性は幾らだってあるのだけれど。
でも僕の解釈は一生変らない様な気もする。
彼にメンドーサの事を教わったのは
レストランでの何回目かの食事の時だったと思う。
僕には名前も発音出来ない様なワインを、
彼は発音も完璧にギャルソンに注文をした。
テーブルに運ばれて来たのがアルゼンチンのワインだった。
ソムリエール女史がワインのコルクを抜いてデキャンタージュする。
ボトルを高く掲げて上下逆さまにする、中身を専用の容器に流し入れる。
彼女の動作は美しい。
赤い液体が容器へと落ちて行く。滝に差し掛かり落下する流水の様だよ。
デキャンタージュをし終えたソムリエール女史は優雅な会釈をして
僕たちのテーブルから立ち去る。
彼は言う。
このワインは固いからこうして空気に触れさせて本当の味を開花させるんだ。
彼が言った台詞を僕は他の男との食事でも何度か聞いた事がある。
場所をレストランから他に移せば男たちはまた別の台詞を言うのだろう。
スポーツ観戦に行けば野球やサッカー選手に関する台詞になるのだろうし、
家具屋に行けば家具の事、住宅展示場に行けば彼らは建築の事を語るのだ。
男性というのは台詞を言いたがるものなのだろう。
台詞を言い終えた彼は今度は頼んだワインについての解説を始める。
僕は彼の言葉を聴いていた。
別段興味のある話でもなかった。でもそんな話を聴くのは僕も嫌いじゃない。
だって男がする話の内容のほぼ全てがどうでもいい事だし。
話している時の相手の声と表情と雰囲気は
僕にとっても重要なものなのだけれどね。
彼とはその後で一緒にベッドに入った。
その時にしたセックスの事は憶えていない。
延いては彼とした全てのセックスの事を憶えていない。
きっと彼との交わりは良くもなければ悪くもないものだったのだろう。
だって僕の人生に登場した男たちと行ったセックスの中には
今でも憶えている物もあるし、
たまには思い出すものだってあるから。
だけれど僕は彼に教えられたメンドーサの事を今でも憶えている。
川端康成は別れる男には花の名前を1つ教えなさいと言った。
花は毎年咲くのだからと。
この言葉は良い警句だと思う。
だって僕は彼としたセックスの事も忘れてしまったし、
想像した彼への愛情も忘れてしまったけれど、
彼に教えられた知識だけはこうして憶えているのだから。
そして当時の事を思い出す。ほんの少しだけ不思議な気持ちだ。
昔の事を思い出すのは、運命の中では必然的な事なのだろうけれどね。
アルゼンチンワインの美味しさの秘密はマルベックというブドウの品種でね。
マルベックは黒くて、その雫はスミレの匂いがする。
僕がいつか聴いた言葉と同じ言葉を、目の前に座るアルゼンチン人の依頼主が言った。
人生の中で、言葉というのは周りめぐり何度も同じ物が現れるものなのだろうか?
思いに捕らわれるよりも、仕事をしなくては。僕は彼に尋ねる。
—依頼の事を、ご家族の事と聞いておりますが。
僕の言葉に彼は笑顔のままで頷いた。


ああ、そうだね、
ぼくの弟に関する話なんだよ、
ぼくには年の離れた弟が居てね、
あの時、彼は20歳になったばかりだったと思う、
ぼく達兄弟は30歳以上も年が離れていると言うわけ、
あなたの考えているとおりに母親はそれぞれ違う、
異母兄弟というわけさ、
父が今のぼくと同じ年くらいの時に作った子供だ、
若い愛人に産ませたんだ、
父は年を食った時分に子供を欲しがっていた訳じゃない、
ただ女が好きだったんだ、色々な女がね、
そんな事をしていれば妊娠する女も出て来る、
だから弟は必要とされて誕生した子供ではなかった、
でも父は産まれた子供をとても可愛がった、
僕は父にとても厳しく育てられたけのだけれどね、
弟は可愛がられた、
まあ、男が年を取るという事はそういうものなのだろうね、
その頃にはぼくが家督を継いでいたから、
ぼくは経営者として生きていて、
弟は溺愛される御曹司として人生を始める事が決まったんだ、
銀のスプーンをくわえて産まれたってやつ、
いわゆるスーパーリッチキッズってやつだね、
フランク・オーシャンだ、
え?フランク・オーシャンを知らない?、
歌手なのだけれど、
そうか、彼の知名度もまだまだだね、
まあ、知らないのだったらちょうど良いね、
話を戻すよ、
ああ、いやね、
別に歌手の1人や2人を知らないからといって恥でもなんでもないよ、
なんせ僕も今日の朝食に貴女が何を食べたのかは知らないもの、
それと同じことだよ、
さて、ぼくと弟の間にも物語はあったよ、
正直に言うと、
父に可愛がられる年の離れた弟の事を見るのは良い気分じゃなかった、
彼としても30歳も年の離れた兄とどう接すればいいのか分らなかっただろう、
でも弟は成長して、ぼくも年を取った、
結局は和解したのさ、
ぼく達兄弟の和解の経緯は端折るよ、
長くなりすぎてしまうからね、
話しを今から1年ほど前に飛ばすよ、
弟が20歳の頃の話だ、
ぼくも弟も産まれたのはブエノスアイレスでそこで育った、
葡萄園があるのはメンドーサだ、
ブエノスアイレスとメンドーサは1000kmも離れているんだ、
僕たちの職業的な肩書きはワイン生産者だけれど、
長靴を履いて葡萄畑に出るタイプじゃないということさ、
フランスのシャンパーニュ地方に葡萄畑を持つ一介の生産者が、
メゾン・モエを設立して家族経営の努力の結果として会社を拡張し、
モエ・エ・シャンドンという社名に変更して、
研究の結果としてドン・ピエール・ペリニヨンというシャンパンを生み出し、
世界中にシャンパンを供給し、
やがてはルイ・ヴィトンと合併してLVMHという大企業になったように、
ぼく達はビジネスとしてアルゼンチンワインを生産して、
世界中のレストランやデパートに供給している、
だからブエノスアイレスで暮らして居るというわけ、
良い都市だよ、
パリがブレスノアイレスに良く似ている、
それに東京のこの街も雰囲気が似ているね、
そんなブエノスアイレスで暮らしていた弟の生活を説明するよ、
彼は父と母と一緒に暮らしてた、もちろん彼を産んだ若い母親の事だよ、
都市の真ん中に建つ高級マンション暮らし、
最上階の部屋が彼に割り当てられた、
ペントハウスという奴だね、
傍らには大きな屋外プールが設置されている、
気が向いたら何時でもプールに飛び込める、
前日、散々遊んだ彼は、
朝、部屋に差し込む燦々とした日光に強引に起される、
太陽の力強い光で辺り一面は真っ白だ、
目が慣れるまでベッドの中でまどろむ、
やがて目覚めた彼は足を床に下ろす、
よろけた足取りで大きなガラス窓の前まで向かう、
目ヤニの付いた目の前に広がるのは絶景、
青空と近代的なビル群、ガラス張りとコンクリート
旧来の伝統的な建物、白い石材、そそり立つ大小の波の様に見える、
街並という大海を眺めている気分、街行く人々の影を彼は見る事が出来ない、
とても高い場所に住んでいるからだ、
部屋の隅にあるミニバーに手を伸ばす、
スペイン杉で作れたケース、大理石のデスク、
常に新しいアルコールとグラスとアイスが補給されている、
もちろんドラッグなんかもね、
カクテルを作って喉に流し込む、
壁掛けされている巨大なテレビジョンにリモコンを向ける、スウィッチオン、
ニュースが放送中、
画面上に現れて消えていくのは金が絡んだ事件、
金が絡んだ暴力、金が絡んだ愛憎、
経済評論家、株価、原油価格、GDP
彼はそれらを笑う、彼には金の事などは一切の問題にならないからね、
1億でも、2億でも、10億でも20億でも小銭と変らないと思っている、
気分が乗っていれば、朝からプールに飛び込んだって良い、
自分が裸である事に気が付いた彼は新しい下着を着る、
新しいシャツ、新しいスーツ、新しい靴、新しい時計を身に着ける、
全てが一流品、そして買ったばかりの車、
新鮮な物ばかりを身に着けて新しい1日を始める
執事やメイドを雇っているから何も問題はない、
1日を始める準備を自分でする必要は無いというわけ、
友達を自宅に大勢招く、パーティーの始まり、
フランスワインと新鮮なマリファナを振舞う、それにコカインも、
みんなこれが大好きさ、
ワインのラベルにロートシルトやピュリニー=モンラッシェ、
ブルイィ、エシェゾー、ラ・ターシュと書かれている、
高品質の高級ワイン、
だけれど、彼ら、麻薬で酩酊した頭では読めなかっただろうね、
まあ冷静な頭であっても、
彼らがフランス語を読めたかどうかは疑わしいけれどね、
ワイン生産者の息子とその仲間達だというのに、
家には、父も彼の母親も滅多に居なかった、
その頃の父は新たに手に入れた、
肌も髪も新鮮で胸の張った若い玩具に夢中だったというわけさ、
そして継母は父親の金で高級品を買い漁る事と若い男に夢中になった、
継母には同情するよ、
ぼくと継母は仲は良くなかったけれど、
彼女に対して、さぞ大変だっただろうなと、
想像力を働かせる事はできるんだ、
ともかく弟の住む家に両親はない、
ぼくは父にも彼の母にも何も言わなかった、
弟と向き合えと言わなかった、
それがぼくの罪と言うやつさ、
メイドも執事も見て見ぬ振りで、
だから彼らはやりたい放題、
父のジャグワァーを乗り回しては、
場末の売人から麻薬を手に入れる、
売人に騙されて粗悪な薬を掴まされても問題はない、
金は使い放題、別の売人からまた買えば良いだけ、
そうやってちょっとしたスリルを手に入れていた、
仕舞いには父のカーコレクションを、
バットやゴルフパッドでぼこぼこにして遊ぶ、
弟が何を訴えようとしているかは誰もが分かっていたのに、
彼と真剣に向き合う人間はいなかった、
当時のぼくはこう言うだけだった、いそがしく弟と話す時間がない、
そんな弟のもとには、
偽りの友達と偽りの恋愛しかやってこない、
金と麻薬とワイン目当ての友情と愛情、
弟は以前、1人でつぶやく様にしてぼくにこう言った事がある、
おれは本当の愛を探しているだけなんだ、本当の愛を、
本当の愛を探しているだけなんだ、
そんなの簡単な事なのに、
なんでこんなに難しいんだ?、
そんな日々が続く、
そして弟は別の言葉をつぶやくようになった、
死にたい、というよくある言葉だね、
きっと貴女だってこの言葉を人生の中で何度か呟いた事があるはず、
正直に言うとぼくだってこの言葉を1週間に8回はつぶやいているよ、
弟はそんな言葉をつぶやく様になったけれど、
それでも彼にはお気に入りの女の子が居た、
友人達がマリファナとコカインとワインに夢中になっているあいだに、
2人はこっそりとプール付きの屋上に出る、
まだ昼間だから太陽は高い位置に留まっている、
その光が彼らの顔を照らす、温く穏やかな風が2人の頬を撫でる、
眩しくて何も見えない、2人は手を繋いで目を細める、
目が慣れて来ると、
眼下にそびえるビル群と穏やかに波立つプールの水面が見える、
そして弟はふざけて屋上の淵に上がった、
足を踏み外したら地面に真っ逆さまだ、
弟は女の子の顔を観る、笑いながら冗談を言う、
このまま地面に飛び込んでしまおうか?、
すると心配した女の子が彼の腕を取る、
彼女は言う、それよりこっちの方が楽しいよ、
2人はプールに落ちる、2人分の水しぶきが空に上がって太陽にきらめく、
水の中で2人は笑い合って戯れ合って、キスをしてセックスをする、
その日を楽しく過ごす、
だけれど誰だって知っている、明日はやってくる、
前日には散々遊んだ彼は、朝になった部屋に差し込む日光に強引に起される、
辺り一面は真っ白で目が慣れるまでベッドの中でまどろむ、
目覚めた彼はガラス窓の先に広がる絶景を見る、
青空、ビル、ガラス張り、コンクリート
古い建物、石材、大小の波、グレイとホワイトの大海、
最高の景色、もう見飽きている、
街行く人々、彼には関係がない、
ミニバーには新しい酒とドラッグが用意されている、
外にはプール、飛び込んでしまおうか?、
カクテルを飲みながらニュースを見る、
世の中の事でさえ彼には関係がない、10億も20億も同じだから、
裸の彼は新しい服を着て新鮮な一日を始める、
執事やメイドを雇っているから何も問題はない、
誰も彼とは向き合わない、
おれは本当の愛を探しているだけなんだ、本当の愛を、
本当の愛を探しているだけなんだ、
そんなの簡単な事なのに、
なんでこんなに難しいんだ?、
彼は今日も大勢の友人を自宅に招く、パーティーの始まり、
そして弟はつぶやく、死にたい、
ひっそりとつぶやくんだ、
空中に向けて、自分に向けて、他人に向けて、神に向けて、死にたいと、
そして決定的な日がやって来る、
その日も弟は遊び疲れて寝ていたペントハウスのベッドの上で太陽に起されて、
眠気覚ましの酒とドラッグを味わって、
窓の外の見飽きた景色と金が飛び交うニュースを見る、
裸、プールに飛び込んでしまおうか、
新しい下着とスーツを身に纏って、
死にたいとつぶやいてから部屋を出る、
名前の読めないワインとマリファナでパーティー、コカインも沢山ある、
偽りの友達、偽りの恋愛、
家には両親は居ない、新しい玩具、買い物中毒、若い男、
売人、粗悪なドラッグ、ゴルフクラブ、潰れたジャグワァー、
それでも彼にはお気に入りの女の子が居て、友人達が朦朧としているあいだに、
2人きりで屋上に上がる、
まだ昼間だから太陽は輝いている、
光が彼らの顔を照らす、風が2人の頬を撫でる、
ビル群と波立つプールの水面、
弟は何時もの様にふざけて屋上の淵に上がる、
落ちてしまおうかなんて冗談を言う、
彼女が心配して彼の腕を引く、
ところが今日に限っては何時もと違う事が起きた、
弟が着ていた高級スーツの袖が破れたんだ、
驚いた弟は淵から足を踏み外した、
内側じゃなくて外側にね、
プールがある側ではなく、ビルが並ぶ外側に足を踏み外した、
高級スーツは見た目も美しい、着心地も良い、だけれど翼は付いていない、
どんなに高いスーツを身に纏っていても空を羽ばたく事は出来ないんだ、
60階下のショピンセンターに向かって彼は真っ逆さまというわけ、
落ちながら弟はつぶやいただろう、
おれは本当の愛を探しているだけなんだ、本当の愛を、
本当の愛を探しているだけなんだ、
そんなの簡単な事なのに、
なんでこんなに難しいんだ?、
こんなはずじゃなかったのにと思いながら死んでいく奴が山ほどいる、
金が余るほどあってもそれは変らない、
そして弟の頭が地面にぶつかり、潰れる、
彼は目を閉じて自分が死ぬ瞬間を感じた、
こんなはずじゃなかった、愛を探していただけなんだ、
これが僕の弟が産まれてから死ぬまでの話だよ、
そして依頼というのは、
おっと、
失礼、
電話だ


彼はポケットから携帯電話を取り出す、通話ボタンを押す。
彼の口から出て行くのは日本語でも無く今まで話していた英語でも無い言葉だ。
電話の向こう側にいる相手との十数秒間の会話のあと、
依頼主はにっこりと笑った。
そして僕に対して言ったんだよ。全て解決したので依頼はキャンセルします。
依頼主は標準よりも多い相談料を置いて去ってしまった。
だから依頼内容は結局分からずじまいというわけ。
僕が脇役としてですら登場しなかった仕事だよ。


依頼主は解決して欲しい問題を僕達に語る。
僕達は彼らが抱える問題を毎日の様に聞かされる。
まあそれが仕事なのだけれど、僕は思ってしまう事がある。
問題とはいえ彼らは人に語るべき物語を持っている。
物語の中では彼らこそが主役で僕は脇役だ。
では僕はどうなんだ?
自分を主人公にして他人を脇役として語る物語を持っているのだろうか?
僕自身が経験した恋や愛の話でさえ、僕には自分の物語とは思えない。
主役という立ち位置からは遥か遠く、
僕は僕自身から剥離した場所にぽつねんと立っている。
実感が無い。過去の事だから実感が無いのか、
始めから実感がなかったのかも分らない。
今している恋でさえ、僕のものなのかどうなのか。


ベトナム人の彼は映画と恋の関係を語った。
コートジボワール人の彼は家族と子供達そして富についての物語を話した。
アメリカ人の彼は世界経済と自分の仕事の役割を聞かせた。
トルコ人の彼は異国の地で体験した不思議な事件が人生に与えた影響を告白した。
中国人の彼は国家との闘争と個人の精神的闘争を述べた。
メキシコ人の彼は彼自身が作ったストーリーを発表した。
ロシア人の彼は仕事と一個人の人生の関わりを表現した。
インド人の彼は裏切りへの怒りを表明した。
アルゼンチン人の彼は愛と金と人間の関わりを嘆いた。


彼らの様に語るものもなく、話す事も無い僕は、
誰かの物語に登場する脇役。
物語の中にひっそりと現れる微かな物音。
誰かの耳を引っ掻き回す騒音ではないだけ、少しはマシだと思っているけれど。
僕はどこかに落ちている落ち葉、枯葉、
部屋の角にひっそりと置かれた観葉植物。
ともかくそれで僕自身の物語は、
終わり。




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