短編小説「森の散歩道を歩く」

まえがき

短編小説「森の散歩道を歩く」はつまらない小説です。
物語的な動きや動機やオチといったものは登場しませんし、
社会的なメッセージや批評や寓意も込められてはいません。
森にある散歩道を歩くだけのつまらない小説です。
ですのでお暇つぶしや気分の紛らわしに読んでいただければ幸いです。



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【森の散歩道を歩く】


ひさしぶりに日記を書く。
特別なことや凄く素敵なことがおこったわけではないのだけれど、
ただ森を歩いただけだから。
だけれど緑の中を歩くということは自分にしては珍しいことなので
文章に残すことにした。


森の中を歩いている。
昨日はいつものように色々あってから眠りについたから
ぐっすりと眠れると思ったのだけれど途中で目が覚めてしまった。
夜中の起床には戸惑ったけれどその後になんとかして目をつぶった。
そうしたら朝が来ていた。
だけれど時計を見たら
自分にしては珍しい時間に起床をしていたことに気が付いたのだった。
そういう日って1年のあいだに何日かあるものだ。


物事にはタイミングがあるのは周知の事実で
それがずれてしまうと少し座りが良くないものだ。
この日の朝もまさにそれでいつもの予定まで時間を持て余してしまった。
2度眠も考えたのだけれど
妙に目が覚めてしまったから
どうにかしてこの時間をやり過ごさなくてはならない。
だけれどテレビやインターネットを見るのも
なにか煩わしさ感じだろうから違うと感じた。
それにこんな時間だから誰かと話をするのも
迷惑なんじゃないかと思ってしまっている。


とはいえ寝床で1人ぼうっとしているのも間が持たないから
ふらっと外にでも歩きにいこうかなと思い立った。
遠出をするわけでもないし
どこかの店に入るわけでもないから着の身着のままで外に。


そこで立ち尽くしてしまった。何処にいこうかと迷ってしまったのだ。
そうやってあれこれと思案しているうちにふと思いついた。
歩いていけるところに森がある。
普段はいこうとも思わない場所なのだけれど
以前なにかのついでに少しだけ立ち寄ったことがある。
あの森には緑の樹々や花々が端正に立ち並んでいて
そのあいだには穏やかな散歩道が敷かれていることを知っているのだ。
この時間にそういった気持ちの良さそうな道を歩くことを想像する。
それだけで気分が安らぐ感じがした。


起き抜けだからなのか気怠さを表明してしゃっきりとしない手足を
えいさっと振って歩き出す。
自宅を背にしてしばらく歩くと森の入り口が見える。
そこで立ち止まって周囲をみる。以前立ち寄ったときと同じく
穏やかでもの静かで柔らかな雰囲気のある場所が広がっていた。
想像通りだ。
入り口のそばには木製の案内図が設置されていて
そこには散歩道のコースが描いてある。
いくつかあるコースのうち持て余した時間を適度に過せそうな道があったから
そこを歩くことにした。


端整に並ぶ樹々のまにまに走る土で出来た散歩道。
気怠い脚を動かしてその一歩を道に踏み出す。樹々が端整に並ぶ穏やかな散歩道。
足の裏に柔らかくて心地の良い土の感触が伝わって来る。なんだか気持がよい。
これってなんでだろう、もともとそういう柔らかな土なのだろうか。
あたりの樹々から舞った木の葉が
クッションのような層になって柔らかくなったのだろうか。
そんなことを思っていると以前聞いたことのある話を思い出した。
ワインの栓のコルクを細かくしたものを土に混ぜるものがあるのだそうだ。
そういうリサイクルの方法があるという。
コルクはもともとは樹なのだからそれを混ぜた土は自然に優しいし、
その土の上を歩く人の膝などの負担も減らすのだという。
この道もそういうものかもしれない。
ということは鼻を近づけて匂いを嗅げばブドウの匂いとかがするのだろうか。
元"ワイン瓶の栓"なわけだから。
そう思って腰を下げて地面に鼻を近づけようとした寸前で
自分が面白い格好になっていることに気が付いて少し照れた。
だけれど少し面白い気分にもなった。


そんな気分で歩き出す。手足を振る。端整に並んだ樹々と土の道。森の散歩道。
さすがに土と混ざったコルクからは匂いはしないだろうと考えた。
土と合わさったブドウの良い匂い。
イタリアの葡萄園にでもいけばそういう匂いも感じられるのだろうかと想像した。
ついでにイタリアの空とか食べ物も想像する。イタリアの青空と食べ物。
けっこう美味しいだろう。
いつか行ってみたい、
直ぐにはできないだろうけれどいつかそういう機会もやってくるだろう。確実に。
そんな予感はしている。


歩く。
端整に並んだ樹々のなかに続く道をゆっくりと歩いていく。
一歩、二歩、三歩と歩いていくうちに
少しだけだけれど調子が出てきた気がする。
土の感触が脚から膝に伝わって来る、
そしてその感触は膝から腰へと伝わって来るのだ。
そこで空気の感触のようなものが変化していることに気がついた。
空気の透明感が増しているように感じる。
自宅の周囲も自然の少ない場所ではなかったけれど、
森の中と外ではこんなにも違うんだ。
てのひらを広げて空気を扇ぐように動かした。
透明なつゆを含んだ清い風が頬を優しく撫でた。


立ち止まる。周囲を見る。静かな森の散歩道。空を見上げる。
それから腕を広げて鼻から森の空気を吸い込む。深呼吸だ。
鼻から樹々の匂いをすぅーと吸い込んで口から空気をはぁーと出す。
深呼吸。深呼吸。
森の樹々の匂いだ。端正で清くて柔らかい空気。深呼吸。
端正で清くて柔らかい空気が身体のなかを満たしていく。
良い匂い。心地の良い匂い。
もう一度、鼻から空気をすぅーと吸い込んで口からはぁーと出す。
なんか少しだけだけれど得をした気分。


そして再び森の散歩道を歩き出す。土の感触。
美しい樹々たち。
樹と言っても色々な種類があるもので、
空に向かって背筋を伸ばしているものや横にうんにょりと伸びているもの、
一本芯が通っているものからなにやら枝を沢山生やしているものまである。
葉っぱもいろいろあってぎざぎざしているものや丸いもの、
彩りも緑色のものから少し黄色いものまである。
そんな観察をしていると
目の前を一つの葉っぱが舞って横切ったので思わず手を伸ばした。
葉っぱをつかんだ。


その葉はつゆに濡れていたから触れた指の先をつゆが覆った。
葉っぱの表面の柔らかくてすべすべした感触と
つゆの穏やかな感触が指先に伝わって来る。
葉の大部分は柔らかいのだけれど、先の方は肉厚でぶよぶよとしている。
指に感じるその感触が少し面白くて、
一度二度と場所を変えて指先でいじってみる。
その葉はとても良い色をしていてたから、持つ手を空に挙げて光に透かしてみた。
すると色を透かして明かりが差し込んで、葉っぱの彩りがわずかに変化した。
こういうのって少し面白い気がする。


そしてまた歩く。樹々、木の葉、露、感触、光を透かした彩り。
散歩道は少し開けた場所に着いた。
ここがこのコースの折り返し地点らしい。


円形状に開けた場所。周りを樹々が覆っている。
そのかたわらには見たことはあるけれど
名前の知らない花々がたくさん植わっている。
花の形も様々で色もとりどりで目に賑やかだ。
綺麗に整列した花々の印象から
これらは人の手によってつくられた花壇だということがわかる。
花壇も何カ所かあって、
それぞれにちがったテーマで作られているであろうことが一目でわかった。
可愛い花があつまった花壇、凛とした花があつまった花壇、
鮮やかな花があつまった花壇。他にもいろいろ。
きっとそれぞれ別の人がデザインしたものなのだろう、
個性みたいなものがみえる気がする。
木製のベンチとテーブルも置いてある。そこで座って周りを見渡した。
少しの休憩。森の中。散歩道。
樹々、花々、土、空気、匂い。深呼吸をもう一度。


深呼吸をもう一度。


入り口に折り返す道が見えた。
来た時とはまた別の道で、そこを歩いていけば入り口に戻れるらしい。
腰をベンチからゆっくり上げて
少しだけ軽くなったような気がする手足を振るって歩き出す。
帰り道。様々な樹々たち。少し気分が良い。空気、新鮮な匂い。


途中で小さな小さな川に出会す。
一歩でまたげるほど小さい小川だ。
透明な水が土の上をたおやかに伸びている。
完璧に清らかなものが
この世界には存在しているのだという証左が目の前にあるのだ。
思わず腕を伸ばして小川の中に手のひらを入れた。
清流が指と指のあいだの皮膚をくすぐるようにゆっくりと泳いでいく。
水はさらさらとしていて質感は軽い。
小川から出した手のひらはほんのりと冷えていて少しだけさわやかな気分になる。
さわやかついでに手のひらでお椀をつくって中に水を入れてそれで顔をすすいだ。
水はさらさらとしていて質感は軽い。
一回、二回、三回と冷水で顔をそそぐ。
清潔な冷たさが頬や瞼をなでる。おでこが水でひんやりとする
おでこを洗ったその水が頬を撫でてうなじへと伸びていく。
少しだけ爽やかな気分。


そのまましばらく目をつぶっていたんだ。
すると空気の暖かさで手とおでこがじんわりとぬるくなってくる。
ゆっくりとゆっくりと大気の温度で手とおでこが温かくなってくる。
そこで深呼吸をした。清流、清らかさ、たおやかな小川、冷たさ、温かさ、大気。
少し落ち着いた気分。少しだけゆっくりとしてから再び帰り道を歩き出した。


端整に並ぶ樹々のまにまに走る土で出来た散歩道。
手足を振って歩く、森の散歩道をあるく。
しばらくすると森の入り口に戻ってきた。
その場でゆっくりと振り返って森の樹々を眺めた、
穏やかで静かでなんてことのない散歩道。
もういちど深呼吸をした。
樹々、花々、土、空気、優しい匂い、清流、柔らかい感触、
指の間を泳ぐ水、爽やかな大気、つゆ、深呼吸、深呼吸、良い予感。
それから家に戻ったんだ。


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