クラウドヘッド+5

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まだ天と地も無く、神と天使が住む楽園と混沌とする地獄しかなかった頃、
ルシファーは無数の墮天使を従えて主に対して反逆を開始した。
紀元前1200年、オデュッセウスアキレウス率いる古代ギリシャ人は、
トロイアに対して闘争を仕掛けた。
紀元前211年、父と伯父を殺された大スキピオ率いるローマ軍は、
ハンニバル率いるカルタゴ軍に反撃を開始した。
西暦28年、大工として暮らしていたイエス・キリストは、
既存の宗教に対して革命を仕掛けた。


戦いは何処までも続く。
1900年代に入っても続く。
1914年6月28日、皇帝を殺されたオーストリー
セルビアに宣戦布告を行った。
1939年9月1日、先の戦争の賠償金に圧制させられていたドイツ軍は
ポーランドに進行した。
1965年3月26日、将校を数多く殺されたアメリカは、
中国が支援する北ベトナムに対し空爆を開始した。
1994年4月6日、ルワンダツチ族フツ族
前日までは隣人として暮らしていた彼らは、
アメリカとフランスの思惑と政局の混乱により殺し合いを始めた。
2003年3月20日、アメリカは彼の国の自由の名の下に
サダム・フセインとアルカーイダに対して戦争を開始した。


戦いは何処までも続く。
それは国であっても民族であっても宗教であっても変らずに続く。
個人であっても戦いは続く。
あの時、俺の母は一人目の酒飲みの父との対決を開始した。


血の匂いがする。
それが俺が外に流れこぼした血と胆汁酸が混ざった臭いなのか、
俺の血が俺の体内に溢れ出て胆汁色素と混ざった臭いなのか判断がつかない。
上手く首を動かせない、キッチンの先の光だけが見える。
上手く目が見えない、きっと、体の外に胃と腸が溢れ出ているのだろう。


体内に入った食物の消化は胃から始まる。
胃が消化するのは主にタンパク質だ。
噛み砕き噛み砕き、飲込み飲込まれた食物は胃に入ると、
胃液に含まれる胃酸により殺菌処理をさせられる。
体に取り入れる前に有害な物を取り除かなくてならない。
殺菌だ。純化だ。



戦いは何処までも続く。
それは他人でも自分自身でも、
自分自身の外でも中でも変らずに続く。
あの時、彼女は俺に対して不服を言い渡した。



俺と彼女の初めてのケンカだ。



「私、怒ってる」
そう言って彼女が顔を横に向ける。
髪の毛が揺れる。
彼女の髪の毛は、モネが自身の妻をモデルとして描いた「日傘の女」内で輝く、
青空と風にそよぐ草原の光り輝く髪のブラウンだ。
出会った当初より、明るい色に染められている。



彼女の目は二重の辺りに力が込められている。
けれど眉間に皺は寄っていない。
目はいつもより少しつり上がっている。
何かを我慢する様に口角に力が入っている。
目には潤みが見える。彼女は怒っている。
顔を少し下に向ける。彼女の髪の毛が彼女の頬に掛かる。
目元に少しの影が出来る。彼女の睫毛の長さが際立った。
マスカラに頼らずとも長い睫毛に目の潤みが付きそうだった。
瞬きをする、1回、2回、3回……。


急に彼女が何時にもまして美し見える、愛おしくなる。
でも今直ぐ抱きしめる訳にはいかないと思う。
彼女は怒っている。



血の匂いがする。


胃に入った食物は胃酸により殺菌される。
そして我らの肉体の真の料理人、
我らの三ツ星の料理人して、
フランソワ・ヴァテールでもポール・ボキューズでもジョエル・ロブションでも、
アントナン・カレームでも松嶋啓介でも永遠に適わない我らのシェフ、分解酵素の登場だ。


胃に鎮座ます最高級最上級最前衛の分解酵素シェフはペプシンとリパーゼだ。
彼らは胃液と言う名の兄弟のシェフだ。故に胃にはシェフが2人いる。


ペプシンの担当はタンパク質だ。
彼は俺達が食べた牛肉やマグロの赤身をペプトンへと変化させる。
ペプトンは地に落ちた泥水の様にドロドロだ。


俺も彼女もコーラを飲む。


コカ・コーラが元々コカインを使用していたからそう名前が付いた様に、
ペプシコーラペプシンを内包していたからその名前が付いた。



彼女が冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出す。
右手で持ち左手でキャップを開ける。力を込める。だが開かない。
1回捻る、開かない。2回捻る、開かない。
彼女の顔がこちらを向く、無言で俺にボトルを差し出す。
なぜか少し怒った顔。目は真剣。眉間に力が入っている。
こちらを見る、瞬き、瞬き、長い睫毛、白く長い指先。ボトルを握った手。
俺は微笑む。ボトルを受け取る。キャップを捻る。1回で開く。
ボトルを彼女へ返す。微笑む彼女。「ありがとう」。微笑む彼女。
ボトル口部が彼女の口に近づく。ボトルを傾ける。
ボトル口と彼女の唇が付く。唇が押しつぶされる。
口は小さく開いている。黒い液体が彼女の口内に入る。
彼女の喉が波打つ。
1回、耳に掛かっていた毛が肩に落ちる。
2回、彼女の白い指がボトルを少し強く握る。
3回、コーラを飲む音が喉から鳴る。
ボトルと彼女の唇が離れる。
空気の音が鳴った。微笑む。
「あなたも飲む?」ボトルをこちらに差し出す。
俺はそれを受け取る。彼女は上目遣いでこちらを見ている。微笑んでいる。
俺は自分の唇にボトルを……。




リパーゼの担当は脂肪だ。
彼は俺達が食べた牛肉やマグロの脂身をグリセリン脂肪酸に変化させる。
グリセリンとはあのグリセリンだ。
石鹸を作る際に原料油脂を高温加水分解して出来た脂肪酸を蒸留して、
脂肪酸グリセリンに分けられ捨てられる、あのグリセリンだ。
グリセリンに含まれる分子を硝酸と反応させれば出来る
ニトログリセリンのあの火薬のグリセンリンだ。
狭心症の緩和薬にもなっているあのグリセリンだ。


彼女の父親は狭心症だ。
「あまり重い物ではないけれど、
 体に無理をさせすぎると良くないみたい」
彼女が俯いて語る。長い睫毛が目の下に影を作る。



この二つの分解酵素が胃に溜まり殺菌された食物のタンパク質と脂肪を消化する。
だがその消化は胃だけでは終わらない、胃は第一段階だ。
調理された料理は客が食べることで初めて価値が出る。
それと同じ事だ、消化は内蔵全てで行われる。
料理人は胃だ、胃に続く腸が客だ。



「私、怒ってる」
この時のケンカは一体何が原因だったのか?
食事の選択の不一致?なにかの嫉妬?
彼女の髪型が少し変化した事に気がつかなかった?
何が、何だ、何。


彼女と付き合ってから浮気等した事がない。
それは俺にはあまりにも意味のない行為だからだ。
彼女の変化には気を付ける事までなく気がついていた。
それが俺の喜びだったからだ。
大切な日の記念を忘れた事もない。
それは俺にとっても大切な物だからだ。


きっとこの時は何か小さな事が原因でいざこざが訪れたんだ。
奥歯に血の味を感じる。
口の中でも切ったのかもしれない、どこが痛いのか理解できない。


「私、怒ってる」
そう言って彼女が顔を横に向ける。
髪の毛が揺れる。
彼女の髪の毛は、ジョシュア・レノルズが「マスターヘアー」で描いた、
女の子の甘く輝く髪のブラウンだ。
「うん」俺はそう言って曖昧な返事をする。
「ごめん」曖昧な謝罪をする。
彼女が無言のまま、少し息を飲む、顔を少し上げる。
眉間に少しだけ皺がよる。眼の潤みが下睫毛に溜まる。
目の上の隆起した部分に乗った美しく細い眉の端が下がる。


「なんで怒っているか分ってる……?」
彼女がそう問う。目を下に向ける。
長い睫毛が少しだけしおれる。細い眉毛が目尻に近づく。
「ごめん、よくわからない、心当たりはあるけれど、外れているかもしれない。
 だから何で怒っているか教えて欲しい」
そう言ってから、俺は彼女の美しさに息を飲んだ。
床に座り曲げられた彼女の両膝が少し揺れる。膝上丈のスカートが擦れる。
体が倒れない様に床に突っ伏していた指が、体の重みに負けそうになる様にしなる。
上半身を少し捻る。身じろぎする。その振動が上に伝わり、髪の毛が胸元に落ちる。
彼女の美しさに息を飲む。
彼女が来ている胸元が少し開いたチュニックは、
ハンマースホイが描いた静謐(せいひつ)な美しい室内の灰色だ。


この時、ケンカをしている様な状況にも関わらず、
それでも美しく可愛く見える異性が居る事を初めて知った。
これを知っている俺は幸運なのだと思った。
彼女の肩を抱きしめたい衝動にかられた。
抱きしめたい、抱きしめたい、だが彼女は怒っている。


「嫌だ、なんで私が怒っているか考えて欲しい。
 好きならちゃんと考えて」
反論を許さない様にそう言い切る。だが声は大きくはなく震えている。
彼女は口を固く閉じた。眉間に大きな皺がよる。美しい眉毛の形が崩れた。
そして頬を涙が伝う。
1滴、彼女の頬に濡れた道が作られた。
2滴、顎にぶら下がっていた1滴目と融合した涙がカーペットの上に落ちる。
3滴、彼女が手の甲で涙を拭う。


「うん」俺は曖昧な返事をする。


謝る。考える。回答する。違うと言われる。
謝る、また考える。これを数回繰り返した。



「ごめんね」確信を得た謝罪を言う。ついに正解を得たのだ。
「分ってくれたならいい」彼女は何粒目かの涙を甲で拭う。
「もう怒ってないよ」そう言う彼女の目はまだ興奮していた。
彼女は怒っている。


「ごめん。これからは悲しい気持ちにさせない様にするから。
 ごめんね。悲しくさせないよ」確信を得た謝罪を繰り返す。
「本当に……?」下を向いていた彼女の顔がこちらを向く。
「うん、本当に。ごめんね」確信を得た謝罪を繰り返す。
「うん、もういいよ、本当に怒ってないから。
 そう言ってくれて嬉しいから」
「ごめんね」繰り返す「うん、もう大丈夫」彼女は泣いた顔で笑っていた。


彼女の瞳孔が僅かに開いている。眼が先程までの涙とは違う潤みを帯びている。
世界に在るありとあらゆる物質の中で俺の事だけを強く見つめている。
目を逸らさないし、逸らす事も許してくれない。
眼が潤んでいる、彼女の吐く息は熱い。


女性の表情は一瞬で変化する。
晴天から大雨、天から地、光から暗闇。
ああ、この表情は危険だと思う。逃れられない。


「ごめんね」そういって彼女の髪の毛を優しく掴んだ。
「うん」微笑む彼女。


目を逸らせない、彼女は目を逸らさない。
自らの体重を支えていた彼女の手は今、俺の片手に重ねられている。
その分、彼女の体重を俺のもう1つの手が支える。


瞳孔が開き強くこちらを見つめる目、口角は上がっている。
彼女の長い睫毛、細い眉。白く長い指。
重ねられた両手から彼女の体の熱が伝わる。
彼女の上半身が動く。こちらに近づく。
胸が俺の体に密着する。柔らかさを感じる。
潤み輝いた目が俺を見つめる。
唇を彼女の唇に近づける。彼女は目を閉じる、俺は目を開けたままだ。
そしてお互いの唇を重ね合わせる。
「んぅ」彼女が小さな声を出した。吐く息は熱い。
身じろぎ。スカートの生地が擦れる音がした。
彼女が俺の手を強く強く握る。汗ばんでいる。
手と胸を通して彼女の体中の熱が伝わる。
俺は彼女の唇と重ねていた唇を首筋に持って行き、そこにキスをする。
彼女の手を強く握り返し、片手で鎖骨と胸の間を優しく柔らかく触る。


俺はそのまま彼女を床にゆっくりと押し倒す。







(つづく)


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