【バレンタインデーの短編】きみは笑えるバレンタイン(My Funny Valentine)

【まえがき】
遅ればせながらバレンタインデーの短編をドロップします。
このディレイは意図的な物です。
この小説はバレンタインデーの為の物ですが、
バレンタインデー当日にドロップすべき物ではないと判断したからです。
バレンタインデーらしくチョコレートに例えるのが許されるのならば、
このお話はミルクでもナッツ入りでもなくてビターな味です。


それではどうぞ、よろしければ
「きみは笑えるバレンタイン」をお楽しみ下さい。






【きみは笑えるバレンタイン】
(My Funny Valentine)



きみの心は嫉妬と怒り、
それに対する優越感と愛情の狭間で浮遊していた。


一人の部屋。
一人の部屋でだ。
その部屋はきみの心を浮遊させている人間の持ち物だ。


部屋の片隅。
冷蔵庫に入り切らなかったチョコレートや酒。
様々なドルチェや縫いぐるみの山をきみは凝視した。
色とりどりのプレゼント。の包装紙とリボン。
色とりどりの受取人に対する温かい思い。
きみはその結晶の様な物体たちを眺めていた。


バレンタイン。
今日はバレンタインだった。


それを凝視したところで変らずに
きみの心は浮遊していた。
でも少しだけきみの心は優越感に傾く。
彼に触れる事も出来ない、
化粧の仕方も分らない、
そしてファッションも知らない女たちが
必死な思いで彼にプレゼントした物が
きみの居る部屋に置かれている事に。
きみはそれが少しいい気味だと思ったし、
彼女たちに対しての優越感も感じた。


それから
彼女たちからのバレンタインプレゼントを
大切に扱うきみの彼を思い出してきみは嫉妬に駆られた。
だけど、きみは思う。
彼女たちからの色とりどりのプレゼントと
思いをぞんざいに扱う男なら、愛していなかっただろうと。


きみは思う。
愛。愛。愛。愛だ。
愛って本当に重い言葉と思うと。
だからきみは、
今まできみが付き合ったり
セックスをしてきた男たちが
女はこれを言っておけば
安心するんだろう良いんだろう
喜ぶんだろうという心で言った
「愛している」という言葉を聴く度に
「愛しているってイマイチ分らないから好きって言って」と
訂正させて来た。
そんなきみは彼に出会って思った。
これって愛なのだと。
彼と一緒に過ごして思った。
愛だ。と。
それは理由が無い物だった。
少なくともきみはそう思う様にした。
きみにはそれが考えても仕方の無い話題に思えたからだ。
きみは彼と居るとき。心に愛を感じた。
理由などはどうでもいい程度に。


きみは彼の言葉を思い出す。
「これはすごい大切。すごい。
 彼女たちに申し訳ないからきみは触ってはだめだよ。
 ああ、きみは勿論そんな事はしないと知っているけれど。
 ああ、でも、うん、ああ、一番大切に思っているのはきみだよ」
そういう彼の言葉だ。
きみは彼に「人気が大切な仕事だから仕方が無いよ。理解しているよ」と
言って笑った。心を押し殺して。


それからきみは彼女たちのプレゼントの山の中から
小さい小さい1つを手に取る。
そして回したりひっくり返したりして弄ぶ。
不意に殺意が涌いて、
プレゼントを壁に叩き付けたくなった。
一瞬思いとどまったきみは
全てが馬鹿らしくなって、
プレゼントを壁に叩き付けるのをやめた。
それから小さな小さな彼女たちの思いを、
プレゼントの山に戻してやった。


きみは思う。彼の優しさを。
特にバレンタインに彼が
化粧の仕方も分らない、
そしてファッションも知らない女たちに発揮する優しさを。
そんな優しさにきみは殺気を感じる程だけれど、
そんな彼じゃなかったら、きみは彼を愛してはいないと。
優しさ。愛。殺気。きみの心は浮遊している。


殺気。殺気だ。
きみは殺気って本当に一瞬で涌き上がる物なんだと思い出す。


きみは彼と彼の仕事仲間との飲み会に参加した。
彼の上司や部下や取引先の相手が居た。
だけれどみんながみんなお互いを
それなりには知っている物同士で、だから
場は健やかに賑やかに楽しく進んだ。


きみの殺気はその途中で涌き上がった。
彼の取引先に勤める女が彼の事を好きなのだと言い出した。
彼には付き合っている相手が居る事を知っているのにだ。
酔って彼に愛の告白をして、そして惨めに泣く女を
きみはなんて無様なのだろうと思った。
彼はそんな女に優しくした。
殺気。殺気だ。
彼は自分には付き合っている人がいるから
あなたと交際する事は無理だと言いながらも
優しくしている。
でも、でも、と泣く女をきみは叩き殺してやりたくなる。
惨めな女は彼と付き合っている相手がきみなのだという事を知らない。
きみは全てを白日の下に晒けだしたい気持ちになる。
惨めな女はどんな理由であっても
彼に優しくされている事で嬉しそうにしていた。
惨めな女は、この場に居る他の女に対して
優越感を感じているのだろうと言う事は間違いなかった。
きみに対してもだ。
きみはそう思った。


惨めな女の女友たちが
だめだよ迷惑だよと言って彼から女を引き離した。
きみはそんな彼女たちを見て笑いたくなった。
2人とも酷いブサイクだったからだ。
ブサイクって笑えるし可哀想だときみは思う。
でもきみはそんな事をおくびにも出さない。
美貌を持つ者に対する同性の当たりが厳しい事を
きみはきみの人生の経験で知っていたからだ。
そしてきみは
きみが愛する彼がきみの美貌が好きな事も知っていた。


きみはだから常により激しく、
自分の美貌に対する自分の増悪と愛情の間で
心を浮遊させていた。
美貌をもっともっと磨き、
迫りくる老いを追い払い時と、
顔面を塩酸で溶かしたくなる時が
同時に訪れる事も在った。
きみは自分の美貌を武器にする事に慣れていたし、
武器を上手く使える自分を好きでもあった。
でも慣れていたから飽きても居た。
だからきみの美貌を好きで居てくれる
彼の事が好きだったし、
ムカついてもいた。
他の男だったら何時もの事だと思う事が、
彼だとムカついたり、ムカツキで収まっている事が
愛の成せる技なのだろうかときみは思っている。
自分の心が自分でも判断出来ないとも。


一方、彼は引き離された惨めな女に優しくしている。
きみは彼のその優しさが優しさだけで無い事を
彼と付き合って来た期間と経験で知っている。
彼は優しいが、その優しさの半分は
格好付けなのと、寂しがり屋な性格から来る事を知っていた。
八方美人ともいう奴だ。
きみはそんな彼の性格を少し侮蔑しながらも
とても愛していた。愛だ。そして殺気だ。


彼。の優しさと格好付けと寂しがり。
惨めな女。のブサイクさと同情。
自分の美貌。に対する愛と憎しみ。
彼ときみの関係。から生じる優越感と怒り。
その間できみの心は浮遊していた。


結局きみは、
自分の心が問題なのだろうかと思案する事になる。
それはきみにとって何時もの事だった。
きみはきみの心が大きければ、
彼の優しさと、どんな人にも良い顔をする彼を
嫉妬も殺気も無く受け入れられるのだろうかと思う。
でも愛しているから嫉妬も起きるのだろうかときみは考える。
そしてきみの思考は堂々巡りをする。
きみの心は浮遊している。何時もの事だ。




きみはなんとなくスマートフォンでネットを見る。
あまりアクティブな趣味を持っていないきみにとって、
インターネットは良い暇つぶしだった。
何分かしてきみは
きみの手が持つスマートフォンを壁に叩き付けたくなった。
SNSできみと彼の共通の知人が複数人、
きみの彼が今日いかにモテているからを
言葉少なくからかって表現していたからだ。
太とるぞ。女に刺されるぞ。女を泣かすなよ。
そういった良く在る男から男への
子供じみた冗談と嫉妬と羨望が交じった称賛だ。


コンマ何秒か躊躇して、
自分が苦労して働いて稼いだお金で買ったスマートフォン
彼への怒りで壊す事は馬鹿らしいと感じたきみは
怒りを収める事にした。
それもこれも彼の仕事の1つなのだから
仕方の無い事のだと思う事にした。
直後、きみはスマートフォンを、
彼の部屋にある、柔らかソファに投げつけた。
怒りを完璧に収める事は難しい。
跳ね返ったスマートフォンが緩やかに床に落ちた。


情けなく床に落ちている四角い通信機器を見たきみは、
彼ときみとの全てを実社会ネット社会問わず
盛大にばらしてやりたくなった。
きみはそれを想像した。
殆どの男たちは彼を笑い褒め、
殆どの女たちはきっときみを応援するだろう。
それ以外の者はきみか彼を攻撃するだろう。
きみは少し考えて、
その全ては表面上の事だろうと理解して
軽く絶望して、暴露をやめた。
人には表面と内面が在る事をきみは経験から知っていた。
それはきみの様な年の重ね方をした人間の悲劇の一つだった。


だからきみは少し泣く事にした
泣く事をいっぱいと少しと一滴だけにコントロール出来るきみを
きみは少し嫌いになった。
正確には、"また"ひとつきみはきみを嫌いになった。
涙の量をコントロール出来る様になったのは
いつからだろうかときみは思い出す。
お気に入りの映画や音楽があれば、
いつでもいっぱい泣ける様になったのはいつだろうかときみは思い出す。
想い出が思い当たってきみは悲しくなる。
今は少しだけ泣くつもりなのに、
思い当たった想い出を思い出してもっと泣きそうになったので、
いまは思い出すのをやめにした。


きみが今を少しだけ泣く事にしたのは、
この後この部屋に彼が帰って来るからで、
その時に赤い目を見せて彼に心配されるのが嫌だったからだ。
嫌だったからだ。
帰って来た彼は絶対に、
その荷物で色とりどりの思いが詰まった、
色とりどりのプレゼント。の包装とリボンの
山の標高をさらに高くするだろう。
そんな彼に心配されるのがきみは嫌だった。
嫌だったし、いま優しくされたら、
彼の全てを受け入れてしまいそうで嫌だった。
そんな自分が嫌だった。
だからきみはいっぱいでも一滴でもなくて、
ちょうど良い少しだけの涙を流す事にした。


それから何十分か経った。
きみはきみが望む分だけ泣いてから、
今着ている洋服の皺や、顔のメイクを直した。
床に転がるスマートフォンをテーブルの上に置いて、
テレビを付けた。
テレビでは映画が流れていた。
きみの頭に映画のストーリーは入って来なかったけれど、
きみは主演女優のメイクの似合わなさが気になった。


きみは洗面所で鏡を見る。
見ていると玄関の鍵が空く音がした。
音はシリンダー錠の「ガチャ」という音ではない。
「スッ」とえも言われぬ音が鳴った後に、
「ピロロロ」という如何にもな電子音がする解錠音だ。
それは玄関のキーがタッチキーだからだった。
きみはこの音がかわいらしくて好きだった。
きみは同年代の女の子だったら
タッチキーを使う部屋に住む男と
付き合っている子は少ないだろうと思って
すこしだけ優越感に浸る。
その後きみは、
きみと彼と別れる事があるとして、
その時に惨めになるのが嫌だから、
今もそしてこれからも働くつもりが在るのだから
別にその優越感も変に悪い物ではないはずだと思った。
これもきみの心が行う、いつもの動きだ。


きみは部屋で彼を出迎えた。
結果はきみの予想通りだ。
色とりどりの思いは山の標高を増やした。
きみは、あの飲み会の時の惨めな女から
彼がチョコレートを貰ったのかが気になる。
標高高らかな山をきみは再び凝視する。
きみの心が折れた音がした。
彼にはその音が聴こえてはいない様だった。
きみは少し、彼に分らない様に深呼吸をして、
こころが折れたのは今だけなのだときみに言い聞かせた。
だから惨めな女の事を彼に尋ねるのはやめにした。


彼はここ最近何時も行う様にして、
色々な女たちからもらったプレゼントを丁寧に山に置いた。
そしてきみに何時もの台詞を言った。
きみもいつもの台詞を言い返した。


それらきみは彼に手料理を食べさせてあげた。
彼は美味しく食べた。
きみは彼に手作りのチョコレートケーキをプレゼントした。
彼が喜んだのできみも喜んだ。


きみは思い出す。
きみと彼が付き合う前の時間を。
きみが飲み会の帰りに体調を崩してしまい、
その時に彼がきみを丁重に介抱してくれた事を。
彼は優しかった。
きみは優しい彼が好きだった。
今でも優しい彼が好きだし、
今ではそんな彼のせいで泣いていた。
介抱してくれた恩と好意を感じていたきみは
一人暮らしの彼が体調を崩した時に
彼の部屋まで行っておかゆを作ってあげた事も思い出した。
きみの手作りのおかゆを彼が喜んで、だからきみが喜んだ事も。
それが切っ掛けで交際が始まった事も、
彼の部屋に行った時点できみは彼と
付き合うつもりだったことも思い出した。
彼と付き合ってから
きみに言い寄っていたその他の男たちが
大人しくなった事も思い出す。
何人か良い男は居たけれど、
きみの中できみの彼に敵う男は一人も居なかった事も思い出す。
きみがこれらを思い出すのは
きみの心が行う、いつもの動きだ。


きみにはそれが愛の確認の様に思えた。
きみは彼に愛を囁かれるよりも、
彼と体を重ね合わせる事よりも、
きみがきみ自身の彼に対する愛を思い出す事が
何より彼に対する愛を確認出来る行為だった。


ケーキを食べる彼の顔が
きみには急に魅力的に見えた。
きみは、そうだ、彼はこういう
セクシーな顔をしていたんだったのだと思い出した。


それから2人はソファで愛を囁いた。
彼の顔がきみの耳へと近づいている。
彼の手の温もりをきみはきみの背中で感じる。
彼の手は大きくて、厚くて、温かい。


彼の髪の毛から、甘いチョコレートの臭いがした。
彼のにおいと彼の体温の温もりの間に
きみの心は再び揺れた。
きみは彼への疑問、疑惑、愛、
嫉妬と怒り、
それに対する優越感と愛情の狭間で再び心を浮遊させた。
バレンタイン。今日はバレンタインデーなのだなと
きみは彼の愛の囁きを聴きながら再び思う。


バレンタインの始まりは西暦3世紀のローマだ。
兵士と女性の結婚が政府により禁止されている最中、
キリスト教の聖ウァレンティヌス
彼らの結婚式を執り行った為に捉えられて
死刑に科せられた事である。というのは嘘で、
キリスト教の聖人が整理され掲載されている
1267年に完成した伝集「黄金伝説」には
ウァレンティヌスの名前が無い事。
キリスト教以前の民間信仰の祭りを取り入れたのが
バレンタインの始まりである事をきみに教えたのは
彼であった事を思い出した。
彼とのバレンタインデーは今年で3年目だ。
毎年きみは今日と同じ気持ちで今日を過ごしていた。
これからも、そうなのだろうか。ときみは思った。


彼がきみに口づけをした。
その仕方は彼がきみの体を求める時の物だった。
彼がきみにする口づけに種類がある事をきみは知っていた。
きみは彼に身を預けながら少し、考える。
それからきみはやはり今日は彼に抱かれる気持ちでは
無い事を理解して彼に「ごめんね、なんか」と
暗い顔をわざと見せてから言った。
そうすれば優しくて格好付けの彼が
それ以上きみを求めない事をきみは知っていたからだ。
彼はきみの予想通りの反応を見せる。
この言葉を言った後に、怒り出す男もいたのになときみは思う。
彼の落ち込んだ様な、しょぼくれたような背中を見たきみは
体の奥で何かを感じた。
これも愛なのだろうかときみは思う。
きみは彼の背中に抱きついて、後ろから彼の耳にキスをした。
しょぼくれた彼の顔が笑顔、それも少しいやらしい笑顔になった。
きみは彼のその表情が正直で好きだった。


時間が飛ぶ。
きみは今、彼と二人、裸で彼のベッドの中に居る。
二人の体温とにおいで温かい白いシーツ。
白くて柔らかくて軽い掛け布団。
暗い寝室。寝息を立てている彼。
と彼の顔。と彼の呼吸音。と彼の存在感。


きみは頭が冴えている。
きみは彼の事をきみの大きい瞳で見つめている。
きみはきみの
未来、愛、生活、理想、恐れ、
子供、不安、現実、性愛、仕事、
日常、金銭、躊躇、家族、老い、
美貌、体、健康、喜び、悲しみ、
それらの中で自分の持てる分だけを持って
先に進まなくてはと思った。


きみの心はこの中で浮遊していた。
そして
きみの心は嫉妬と怒り、
それに対する優越感と愛情の狭間で浮遊していた。




〈きみは笑えるバレンタイン(My Funny Valentine)/おわり〉




Chet Baker - My Funny Valentine








.