【短編小説】底が抜けちまった(中編)


前編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130405/1365173628
中編;本文
後編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130417/1366177435





      物語は肉体を纏う
      頑強を求めるならば5つの柱が必要になる
      構造 主題 筋書き 細部 暗喩


     (フランスやイタリア半島に伝わる民間伝承を元にした
      叙事詩「モルガンテ」の作者であるプルチの言葉)
      ルイジ・プルチ フィレンツェの人文学者、詩人
     (1432〜1484)






《ブルチと同じ考えに行き着いたな》


サライにはもう1つの意味がある。
意味というよりも物語と言った方が正しい。


ダ・ヴィンチがジャン・ジャコモ・カプロッティに
サライと言う新名を付けるより以前に、
サライという言葉を使った男がいる、
それがルイジ・プルチだ。


フィレンツェでのダ・ヴィンチを支えるパトロン
メディチ家の家長であるロレンツォ・メディチ
プルチは庶民派作家でありながらも、
ロレンツォの父ピエロ・デ・メディチの代からメディチ家
外交官として起用され、知恵者として内政にも力を貸していた人間だ。
ロレンツォがローマ教皇を2人も輩出している名家オルシーニ家の
子女クラリーチェ結婚する時には、催し物として、
ジョストラ・デッラ・クインターナ、馬上槍突き祭りを企画している。
優勝者はロレンツォだった。


ダ・ヴィンチと同世代の画家、
ドメニコ・ギルダンダイオは宗教画を描く際に、
登場人物を身近な人物から取って来ている。
身近な人物とはメディチ家とその周辺の人々だ。
フィレンツェはサンタ・トリニタ教会の礼拝堂、
その壁画や祭壇画として
【聖フランチェスコ伝】を描いたのがギルダンダイオだ。
絵画の中の登場人物としてメディチ家の人々と並ぶプルチも登場している。
ルイジ・プルチは当時その程度までにメディチ家の中核に食い込んでいた。


ダ・ヴィンチはその絵画【聖フランチェスコ伝】をみた事がある。
パトロンであるメディチ家の人物を登場させる手法は
ギルダンダイオの他にも工房の先輩であるボッテッチェッリや
その他の色々な画家が取り入れている。
彼は自分の作品にそういったやり方を取り入れようと思った事はないが、
絵画自体が美しい物ならばそれも良いものだと感じている。
宗教画であるのにも関わらず、現代の人物を入れる事で
神聖の中に世俗性や親しみやすさ楽しみが加わるからだ。
そういった絵画をみる度にダ・ヴィンチ
それにまぁパトロンへのおべっかは必要だよなと
優しく苦笑する事にしている。


そんなプルチは1481年に、
中世の宗教的物語と民間伝承が合わさった言い伝え、
ある巨人伝説から1冊の物語を作り上げ出版した。
それが全28章に及ぶ叙事詩【モルガンテ】だ。


モルガンテの主人公はオルランドとモルガンテの2人だ
オルランドは聖剣デュランダーナを操る。
デュランダーナはその柄に聖ペトロスの歯、
聖バシリウスの血液、聖ドニの髪の毛、
聖母マリーアの衣服の切れ端を収めた伝説的な聖剣だ。
一方のモルガンテは巨人だ。
モルガンテは物語の初めは敵対者だが、キリスト教に改宗して仲間になる。
そんな2人を中心に据えた物語がプルチのモルガンテだ。
2人の活躍と心の動きが物語られている。


モルガンテの中にはサライと言う単語が一回だけ出現している。
そこで使われたサライの持つ意味は、女の悪魔だ。




《やっぱり名前に意味を託す意味はあるよな》


ダ・ヴィンチがプルチのモルガンテを
初めて読んだのは1940年に入ってからで、
サライ・カプロッティと出会う前だった。


モルガンテには悪魔を表す言葉として
サライの他にもディアボロやデーモンが使われている。
すべて同じ章の中で使われている。
それは全28章中の第21章だ。


叙事詩モルガンテは28章立てで
それぞれの章が8行詩の節で物語られている。


第21章、第44節にはディアボロが第7行目に
 Ella aveva Aldinghier ghermito in modo,
 Che sare me abbracciare un orsacchino,
 E portando a forza, e tiello sodo,
 Orlando gli ponea le mani al crino,
 Ma non poteva ignun disfar tal nodo,
 E Aldinghier gridava pur meschino.
 Io credo che'1 【diavol】 m'abbi preso,
 E ne lo inferno mi porti di peso.


第46節ではディアボロとデーモンが4行目と6行目に登場している。
 Orlando tutto allor si raccapriccia,
 E vede che costei gli dice il vero,
 A tutti in capo ogni capel s arriccia
 Veggendo quel 【demon】 cotanto fiero,
 La faccia brutta affumicata arsiccia:
 Non si dipigne tanto il 【diavol】 nero,
 Quanto ha Creonta la lana e la pelle;
 j E piti terribil voce che Smaelle.


一方でサライが登場するのは、第47節の7行目だ。
 Ella vedeva innanzi i figliuol morti:
 Pensa quanto dolor la misera abbia,
 E come questo in pace mai comporti,
 Massime avendo i suoi nimici in gabbia:
 Poi si ricorda di mille altri torti
 Pur de'suoi figli e per grand'ira arrabbia,
 Come fa 【Salai】 del cadimento,
 Ch' udendol ricordar par s〓 contento.



主人公オルランド
仲間であり魔法の剣フスベルタを操る騎士リナルドはある城に幽閉される。
それはモルガンテの中で語られるオルランドの様々な活躍劇の中の1つだ。




《意味には大抵物語が付いてくるものだよな。
 面倒だが、面倒なのにも意味がある》


城は呪われている。
城は心優しい主と美しい妻のものだった。
主はある王を城に招いた。
王は主の美しい妻に恋をした。
王は主の妻を我がものにしたいと言う欲望を抑えらなかった。
王は兵を動員して奇襲を仕掛け、無防備な主を殺した。
妻は捕われの身になった、美しい妻は嘆き悲しむ。
夫を手に掛けた男に所有される事が妻には我慢ならなかった。


妻は復讐を誓い、生きる気力を得る。
王には自らの領地に残す本妻がいた、間には子も居た。
夫を殺された美しい妻は王の本妻と連絡を取り王の蛮行を知らせた。
王の本妻は恐怖と混乱と嫉妬から心を狂わせ復讐の獣になった。
獣は狂い我が子を殺し調理する、王を騙し、王に子の肉体を食べさせた。
王が自分の子供を自らが食べたと知った時、獣はすでに城にはいなかった。
王はこの状況を導いた主の美しい妻を、怒りと色欲の間で悩んだ挙句に殺した。
妻は殺される瞬間、美しく頬笑んだ。


獣の復讐は終わらない。
獣はかつて自分に求婚を申し込んだ事のある地方の王を味方に付けた。
彼は王の非道な行いを許してはおけなかった。
彼は軍勢を操り、獣の夫である王の城を攻め立てた。
彼は戦争に勝った、王を捉えて拷問に掛けて殺した。
彼は3人の巨人を守護として残し城を去る。
城は獣のものとなり、城と獣の心に平穏が訪れた。
獣は城の本来の主とその美しい妻を同じ墓に丁重に埋葬した。


墓から毎晩毎晩、獣の様な泣き声が響いた。
墓の蓋を泣き声に耐えかねた勇敢な若者が開けた。
鬼が墓から表れ出た、鬼は勇敢な若者を食らった。
鬼は巨体を持ち、巨大な爪を持つ。
鬼は王に身体を犯された美しい妻が死に墓の中、
妻が腐って行く中で生まれ育った魔物だった。
鬼が逃げぬ様、獣は墓の周りを壁で覆った。
鬼が暴れぬ様、獣と城の人々は人をさらい定期的に鬼に差し出す。


オルランドリナルド、2人の騎士が捕われたのはそんな城だった。
だが2人は王の妻と3人の守護巨人、
そして鬼に戦いを挑み敵を窮地へと追いこむ。
だが王の妻は諦めない。


 Ella vedeva innanzi i figliuol morti:
 Pensa quanto dolor la misera abbia,
 E come questo in pace mai comporti,
 Massime avendo i suoi nimici in gabbia:
 Poi si ricorda di mille altri torti
 Pur de'suoi figli e per grand'ira arrabbia,
 Come fa 【Salai】 del cadimento,
 Ch' udendol ricordar par s〓 contento.



 彼女は目の前で自分の息子達が殺されるのを見た。
 あなたは彼女の激しい痛みと苦悶を想像する事が出来るだろうか。
 惨めな女性がどのようにして全ての事に耐えれようか。
 その殺人が彼女の手が自ら行ったものならばどうだろう?
 彼女の息子に対する過ち。
 彼女は【サライ】の様に変貌していた。彼は聴いた。
 新しい言葉によって、彼女の怒りがぶり返すのを。


王の妻は魔法の本と呪文により、
地獄から湧き出るサタンの力をその身に宿す。
オルランドとリナウドはそんな彼女に、
トビト記の悪魔に取り憑かれたサラの姿を見いだすのだ。






      構造と力


     (批評家、思想家である浅田彰の著書名)
      浅田 彰 批評家、京都造形芸術大学大学院院長
     (1957〜 )






《何から何を抽出して、
 何に加えるのかってのが違うがな》


ダ・ヴィンチはトビト記のサラから、
美しい悪魔という部分を抽出して美しい愛人の名前にした。
プルチはトビト記のサラが
自らの手で家族を殺してしまったという部分を抽出して
物語に登場する悲劇の妻に例えた。


同じ物を根源としながらも、
ダ・ヴィンチとプルチ、それぞれ利用する場所は違った。
さらにダ・ヴィンチはモルガンテ以前に
プルチがサライという言葉を使っているのを知っている。



《結局、宗教ってやつはその時々を生きる奴らの考えで色々と変っちまう》


キリスト教の在り方は
ダ・ヴィンチの修業時代である1460年までと、
ダ・ヴィンチが工房を構え独り立ちをした1470年以降では違う。
キリスト教以外の諸宗教、特に魔術と言われる物の捉え方が違ったのだ。


1460年までは民間信仰にと通ずるある種の魔術は
市民や日常生活、民衆文学には受け入れられていた。
生活のすぐ隣りにあったと言っても良い。
すぐ隣りという言葉には魔術実験や神に対する不敬も含まれる。
1470年以降のキリスト教は、
それらを否定せずにある形にしてから受け入れた。


メディチ家現当主のロレンツォ・メデェチの父は
ピエロ・ディ・メディチだがその父はコジモ・メディチだ。
勿論。コジモはロレンツォの祖父にあたる。
コジモはフィレンツェ共和国建国の父としても名高い。


1439年にフィレンツェで第17回目の公会議が開かれた。
公会議キリスト教の教役者が集まり、
教義、教会法、典礼キリスト教に関わる諸処の事を
審議決定する最高会議の事だ。
第17回と言う数字は
フィレンツェ公会議が行われた回数を示す数字ではない。
キリスト教の歴史の中で開かれた公会議の回数を示す数だ。
第1回は325年に現在のオスマン帝国はニカイアで開かれた。


コジモは第17回目の公会議
東ローマ帝国の哲学者プレトンが行ったプラトン講義を聴いた。
以降、コジモは古代ギリシャの哲学者プラトンに関心を示す事になる。
だがプラトンの著作は1つを除いて原文で書かれたギリシア語のまま
トスカーナ語は疎かラテン語にも翻訳されていなかった。
例外の1冊とは4世紀のギリシャ天文学者カルキディウスが
ラテン語に訳したティマイオスだ。だがそのティマイオス
前半の初めしかラテン語に翻訳されていない。


コジモがプラトンの思考に接近する機会を得たのは
1439年のフィレンツェ公会議より20数年後の事だった。
コジモは1964年に死ぬ。機会が訪れたのは死の数年前だ。
メディチ家の待医には息子が居た。
やがて哲学者、教役者、キリスト教神学者となるマルシリオ・フィチーノだ。
フィチーノに語学の才能を見いだしたコジモは
プラトンの著作をラテン語に翻訳する仕事を依頼した。


まず初めにフィチーノに与えられた任務は
ある人物が残した文章をラテン語に翻訳する事だ。
ある人物とは古代神学者、思想家にして魔術師、
プラトンの思想やキリスト教成立以前の神学に影響を与えた
伝説的人物ヘルメス・トリスメギストスの事だ。
ヘルメスが書いた文章をラテン語へ翻訳し終えたのは1963年の事だった。
次にフィチーノプラトン著作集の翻訳に取りかかる。
翌年、コジモは没した。75歳だった。
死後、メディチ家の銀行事業と政治、
文学と芸術と教育の守り手の役割は
息子ピエロ・ディ・メディチに受け継がれた。


フィチーノプラトンの著作を訳して行く中で
周りにキリスト教神学者や人文学者、芸術家が集まり勉強会や会合が開かれていく。その中には亡きコジモの孫、ピエロの息子ロレンツォも居た。


キリスト教の教役者と学者はヘルメスから始まる古代の神学と思考や、
プラトンなどの思想と、自分たちの宗教を折衷させる事に昔から挑戦している。
始まったのは387年だ。


折衷の前史は205年、既に始まっている。
エジプト生まれでローマで活躍した哲学者プロティノスがその年に生まれる。
プロティノスプラトンの思想を再構築する。
著作は残っているがギリシア語で書かれている。
そしてキリスト教神学の中で
もっと偉大な学者アウグスティヌスが354年に生まれる。
アウグスティヌスはプロティウスが作り上げた
新しいプラトンの思考、主義にキリスト教神学者の立ち場から接近した。
そんなアウグスティヌスが放蕩な生活を止めキリスト教に改宗して
洗練を受けたのが、387年だ。


以降約1100年、フィチーノメディチ家に翻訳者として採用されるまで、
キリスト教プラトンの思考、
双方を否定しない形での結合、折衷の試みは続いていた。
しかしフィチーノプラトンの著書をラテン語に翻訳し研究するまで
キリスト教神学者の中で優勢を締めてたのはスコラ学だった。
スコラ学は初めこそプロティヌスが再構築した
新しいプラトンの思想を学問の源流の1つにしている。
しかし1214年生まれのキリスト教神学者、司祭であるロジャー・ベーコン
1225年生まれのキリスト教神学者、修道士のトマス・アクィナス
ある哲学者を再発見してその思想を自らの学問に取り入れた。


プラトンの弟子であり同じく古代ギリシャの哲学者アリストテレス事だ。
結果スコラ学はアリストテレスの思考が中心となった。
つまり、今のプラトンの思考と同じ様な立ち場だ。
アリストテレスの著作もその時までは殆ど翻訳されてはいなかった。


アリストテレス中心のスコラ学は
プロティヌスが再構成した新しいプラトンの主義思考から曖昧な部分を削った。
語られるべき神学的な問題も論理的で厳格な秩序により解明、
決定される事が重要であるとした。プラトンの思考をキリスト教
初めて取り入れた偉大な神学者アウグスティヌスでさえ
新しいプラトンの主義が持つ、曖昧な所を批判していた。


だからこそ、現代においても市井の人々の間では、
厳格な物とは離れた曖昧な物が受け入れられていた。
キリスト教とそれ以外の宗教や民間信仰との境が不明瞭な魔術、呪い的な物の事だ。結局、厳格な秩序では対応出来ない事が多かった。
日常の生活。仕事、恋、金銭、世俗的な悩みの全て。
それらを支えたのは厳格で秩序立ったスコラ学中心のキリスト教には無い、
諸処の願いと祈り、厳格な秩序と言葉だけでは解決出来ない悩みへの祈り、
つまり魔術だった。


スコラ学は時が経つにつれて学問的な側面が重視され、
形式と物事の証明こそが思考の中心となった。
コジモとピエロ、2人のメディチ家の親子と
翻訳者、学者のフィチーノと周辺の神学者文学者芸術家により
取り入れられたプラトンの思想はスコラ学には無い、
魔術的で曖昧で言葉だけでは決して解決出来ない物事の思考も取り入れた。
フィチーノはやがてプロティヌスの著書もラテン語にお翻訳して、
新しいプラトン主義を現代に取り入れた。
ロゴス、一者、愛、プラトニック。そう言った概念だ。
プラトンプラトンに関連する著書が翻訳された事で
その思考は半島全体の諸処の国家に急速に広がった。


結果として起こった事は厳格な秩序から解き放たれた人間の可能性と、
言葉にはできない神秘の体験と感情の肯定だった。
故に、翻訳者フィチーノ以降、
言葉を持たない音楽や絵画、
人間個人の感情を描く人文学は隆盛を極める事となった。


神学者古代ギリシャの哲学者プラトンの思考をキリスト教に取り入れた様に
画家はギリシア神話の神々をキリスト教の天使や聖人と折衷させて描いた。
或は精神や思考、哲学は双方同じ物であるとして描いた。
ここに古代から続くキリスト教以前の哲学と、
現代のキリスト教の折衷が完成した。


しかし、そんな折衷に入らない物もある。
それは悪魔的存在を呼び出す様な儀式や呪いだった。
ギリシャ神話的な神々や祈りはキリスト教に取り入れられたが、
悪魔は違った。悪魔とは現代のキリスト教においては決して祈りを捧げたり
力を借りるべき相手ではなかったのだ。


キリスト教が呪い的なある種の神々や魔術や神秘を受け入れたからこそ、
受け入れなかった存在への締め付けは厳しくなった。
フィチーノ以前は曖昧だった、受け入れて良いものと悪いもの境が
市井においても明確になったと言える。
市井には音楽や絵画や詩、文学も含まれた。



そんな時代の境に生きていた
モルガンテの作者である詩人プルチは窮地に陥っていた。
プルチはある種の悪魔の力を信じていたのだ。
だが、プルチは決して異端な人物だと言う訳ではない。
それまでの一般的な民間人の代表者、
一般的な思考を持つ人間の代表でもあるのだ。
スコラ学中心の厳格なキリスト教を補助する様に
神々と悪魔に対して曖昧な境目を持つ民間信仰
それまでの一般的な人々は信じていた。
そこには新しいと、古いの境目があった。
アリストテレスプラトン。スコラ学と新しいプラトンの思想。
厳格と曖昧。蓄積と解放。
古い秩序と新しい秩序がギリギリで両立し、
今まさに古き秩序が新しい秩序に葬られんとした時だった。


ロレンツォ・メディチとプルチは17も年が離れていた。
プルチにとってロレンツォはパトロンの子息であり、
勉学や美学を教え指導する相手でもあった。
プルチはロレンツォを可愛がり、ロレンツォもプルチに懐いた。
だが、時代の境目に時が突入すると、2人の関係が変化した。
奇しくもピエロ・ディ・メディチが1469年死去する。
息子のロレンツォは20歳にしてフィレンツェを支配する立ち場に立つ。
フィチーノが翻訳した新しいプラトン主義の会合に参加していたロレンツォは
それを政治や市民の生活と芸術、キリスト教に取り入れる事に反対しなかった。



1474年。
2人の仲を徹底的に分つ事件が起きる。
70年代入った段階でプルチは中央であるフィレンツェから外され
フォリーニョ、ローマ、ボローニャへと出向させられていた。
プルチはロレンツォから古い秩序側に立つ人間の代表と捉えられていた。
だがプルチは中央、フィレンツェへの復帰を諦めていなかった。
この時代、メディチ家に起用、重用されていた詩人にマッテオ・フランコが居た。フランコは言わば新しい時代の詩人であった。
対するプルチは古い時代の詩人だ。
プルチが抱く、中央へと戻るのだという希望は、
つまり古い時代の詩や物語を再び復興させるという希望でもあった。


そして2人は争いを開始する。
1974年、プルチ42歳、マッテオ25歳だった。


武器は詩だ。テンツォーネ、相手を罵る喧嘩詩を送りつける。
詩で互いの心と作風と主義思考を殴り合う。
問題はどちらがロレンツォ、メディチ家の加護を得るかであり、
それはそのまま文学、芸術、音楽、教育、宗教、政治が
古いままでいるのか新しくなるのかと言う事と同義だった。


実際は初めから勝負が決まっていた。
ロレンツォは祖父コジモ、父ピエロが作り出していた
新しい時代の眺望を幼き頃から眺めていた人物だったからだ。
言わばこの戦いはプルチ決死の、
初めから敗北が決まっていた最後の戦いだった。
争いは話題になり、2人の書簡だけでは済まなくなる。
プルチとフランコ、それぞれ周囲の者も参戦し、
街角には印刷した詩を張り、バラまき、人々が集う広場で読み上げた。
結果は勿論、フランコの勝利だ。
プルチはロレンツォ・デ・メディチの元を離れる事になる。
古い時代ははっきりと間違いなく明確に負けた。


ダ・ヴィンチは当時20歳だった
ヴェロッキの工房から離れ独り立ちしてから2年後の事だ。
まだまだ新人だったころの彼はもちろん、この争いから目を話さなかった。
ダ・ヴィンチは当時も現在もフランコ側、新しい時代に属している人間だ。
彼が描こうとしている絵画は、
ギリシャ神話の神々とキリスト教の折衷を越えて、
聖人や予言者や聖母を人間として捉えて描く物なのだから
新しい時代の極致とも言える。
だが、彼はこの事を思い出す度に、
時代の趨勢の大きさと時の絶対性を感じて胸がほろ苦くなる。
時代は敗者と勝者を必ず生む、何れはやがて勝者も敗者になる
ダ・ヴィンチがその様な気持ちを感じる数少ない出来事の1つだった。


そんなプルチとフランコ
2人の時代を代表する詩人の詩の殴り合い、
テンツォーネにはサライという単語が出て来る。
詩を書いたのはフランコだ。



 Maggior forza del ciel ebbon gli spirti
 che s'incantorno gi〓 in casa Neroni;
 venti anni stesti sanza confessioni,
 pur salay a confessar fe, irti.


 かつてネローニ家でお前達を惑わしていた悪霊共は、
 神よりも大きな魅力を持っていただろう。
 お前が20年も告解を行わなかったので、
 サライが告解を勧めたのだろう。



プルチはモルガンテを書く以前よりサライを知っていた。
プルチがある種の力を借りようとしていたのは、
トビト記にも登場したサラ、サラリー、サライだった。
ダ・ヴィンチフランコが書いたこの詩を知っていた。


ダ・ヴィンチは後年、当時の事をロレンツォから聴いた事がある。
彼がメディチ家の加護を受け、ロレンツォと知り合った間もない頃だ。
メディチ家の家長は当時の事を語ると苦々しい顔をする。
「プルチは私が10代の頃から魔術儀式にこの世の真実を見いだしていた。
 彼が私に送った手紙にも悪魔や悪霊の事、
 たしか一番多かったのはサラの事だ、そういった事を書いていた物だよ。
 10代の私はそれを純粋に楽しんだが、
 家長となると様々な事を見通さなくてはいけない。
 特に時代の先行き、未来というものをね」
ダ・ヴィンチは普段は穏やかな表情を浮かべているロレンツォの
その顔を珍しいと思ったものだ。


プルチは81年にダ・ヴィンチが所蔵している版のモルガンテを出版した。
そこ出て来るサライは敵としての悪魔だった。
主人公達に力を貸す存在ではない。
物語では主人公であるキリスト教徒の騎士がイスラムの戦士達と争い活躍する。


ダ・ヴィンチはプルチから色々な話しを聴きたいと思う事もあったが、
2人はロレンツォの加護を受けている時代が違う。
そしてこの詩人は1483年にモルガンテの完成板を出版した翌年、
死んでしまった。
新しい時代の極致に属しているダ・ヴィンチだが、
彼はルイジ・プルチを旧い時代と旧い秩序の最後の守り手、
殉教者の様だと思っていた。


こうして、
サライという名前には、また1つの物語と命名者の思いが付与された。




《名前に様々な意味を込めれば
 そこから面白いものも生まれるってものだろう》


だが、ダ・ヴィンチは結局それに意味があるのだろうかと?とも思う。
意味を考えた所でそれが表面に表れる事はあるだろうか、と。
絵画にしたって同じ様な物だ。
名称や絵画に籠めた思いと知識の集合は、
名を呼ばれるものや見る者の心や行動に作用するのだろうか?


ダ・ヴィンチは様々な事を調べ尽くさなければ筆を取る気にもならない
自分の性質を半場諦め気味に笑う時がある。
ダ・ヴィンチはもっと自由に絵を掛けたらさぞ楽しいだろうと空想するときがある。或は時代が経てば本当にそういう社会になるのかもしれない。


聖書に書かれている事、貴族や大商人の自画像と生活、ギリシア神話
それ以外の事が描けるかもしれない社会だ。
聖母マリアの象徴を借りなくても美しい女を描けるかもしれない。
ギリシャ神話に与しなくても裸婦を描けるかもしれない。
地獄の想像を根拠としなくても残酷を描けるかもしれない。
天使に真意を隠匿しなくても少年と少女を描けるかもしれない。
戦場での英雄の活躍を利用しなくとも狂乱と混乱を描けるかもしれない。
師弟の愛に暗喩しなくても同性愛を描けるかもしれない。
有りとあらゆる寓話を捨てて眼に映ったそのものを描けるかもしれない。
神秘体験を描かなくとも人間の心そのものを描けるかもしれない。


でも、どうだ、きっとそうなったら
世界にはどうでもいいどうしようもない絵画が増えて行くだろう。
ダ・ヴィンチはこの事を考える度にそうやって眉間の皺を深める。
今の時代、芸術家は大工や鍛治屋やと同じ職人という地位に並べられている。
工房と師弟制度といった共同体の存在により品質は一定以上に保たれている。
ダ・ヴィンチが思いを馳せる社会にはそれがない。
だとしたら絵画の品質は落ちるばかりではないか。
その世界では絵画の価値はあるのだろうか?
描く事に意味はあるのだろうか?


今の社会で絵画を描くのには、
画家それぞれの精度の違いはあれど
描く対象を丹念に調べ知識として織り込み意味を与えなくてはならない。
それがなく、ただ自分の欲望のままに絵画を描く社会では、
人に見せる事で見た者を神的にあるいは心的に魅了するという意味での
絵画の価値や意義はあるのだろうか?きっとない。


ダ・ヴィンチはそこまで考えた所でこの問題を棚上げする。
結局の所、俺はその社会に生きていないのだから、
そこで絵画を描く奴らの気持ちは分らない。
奴らも今の社会の中で絵画を描く俺の気持ちは分るまい。
それぞれに良し悪しがあるのだろうよ。
ダ・ヴィンチはプルチとフランコの対決を思い出し、
俺も何時かは古くなるのだろうかと言葉にできぬ寂しさを感じる。






      祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり
      沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
      驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し
      猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ


     (藤原行長著の古典文学にして歴史書平家物語」の冒頭より)
      藤原行長 日本の詩人
     (生年、没年不明)






《思考ってのは連鎖しちまうかからやっかいなんだよな》


ジャン・ジャコモ改めサライ・カプロッティに
新名の意味を教えながらも他の事を考えていた自分を
ダ・ヴィンチは嗜める。


彼は自分の思考を中断してサライに、サライと言う単語が持つ意味、
トビト記に登場する美しい女と悪魔のサラ。
アブラム、アブラハムの妻サライ、サラ。
プルチが信じたサライ
続いて更にもう1つの意味があるのだと教える。
それはペルシアの言葉で宿だ。


正確には砂漠をラクダに跨がり
長い長い列を組みながら横断する、商人達が休む宿の事だ。
隊列を休ませる砂漠の中での潤いだ。隊列を止ませる場所だ。
ダ・ヴィンチはなぜ宿という名前が
ジャン・ジャコモに相応しいか更に説く説くと話す。
サライは自分が師から与えられた新名の説明の中で、もっとも深く赤面した。
ダ・ヴィンチは大笑いした。サライはまたしても不満を表明した。




《まったく笑えたよ。おまえってやつは》


ミラノの自宅で寝ているサライの頬を撫でているダ・ヴィンチ
そんな少し前の出来事を思い出していた。
こう云った時間が続くのも悪く無いなと緩やかに欠伸をした。
俺は安心しきっているなと自分の腹を撫でた。
青年の緩やかな髪の毛を手でわさっと半握りにした。
指と指の間に柔らかい毛が入り込んだ。


だがダ・ヴィンチの思いは叶わない。
フランス王のシャルル8世がナポリ王国の継承権を主張し南下を始めた。
ダ・ヴィンチサライが出会った同年、
フランス軍の進路に位置するミラノ公国は戦場の舞台になった。


スフォルツは一旦の退却後、フランス王国の領土拡大を良しとしない
諸国と反フランス同盟を結び反撃に打って出る作戦をとる。
結果、ダ・ヴィンチはミラノでの仕事を解かれる事となる。
仕方の無い事ではあったが、彼はスフォルツォから依頼されていた
夫人専用の風呂を修繕する事が出来ずにミラノを去る事が心残りだった。
ダ・ヴィンチはスフォルツォの口利きで
ヴェネツィア共和国へと逃げる事が出来た。
その時、彼はサライに一緒にヴェネツィアに行かないかと訊いた。
サライは深く頷き彼の手を強く握りしめてその瞳を見つめた。
ダ・ヴィンチサライの汗ばんだ掌の感触を今でも覚えている。
こうしてサライ・カプロッティは正式にダ・ヴィンチの弟子となり
彼の工房へと入る事となる。
1490年、7月24日。
ダ・ヴィンチ36歳、サライ18歳の事だった。


ダ・ヴィンチ一行はヴェネツィアに半年程滞在した。
彼はスフォルツァの口利きで
ヴェネッツィア共和国の元首アゴティーノ・バルバリーゴに雇われた。
仕事は、建築的、地理的側面からヴェネッツィアの街の弱点を見抜き
フランス軍の侵攻に備えて弱点を改善改装する事だった。
ヴェネッツィアでのダ・ヴィンチは軍人だった。


ミラノ公スフォルツァヴェネツィア共和国
教皇アレクサンデル6世や神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、
そしてアラゴン王国と同盟を結託しフランス王国相手に善戦している様だった。
ダ・ヴィンチは毛嫌いしているロドリゴ・ボルジオ、
現在の教皇アレクサンデル6世もこういう時にはしっかりやる物だと
フランス王国相手に戦う教皇の評価を少しばかり回復させた


時折スフォッルツォの使者がやって来て、
彼にミラノの状況を伝えた。
伝わって来たのは、ダ・ヴィンチが作った青銅の像や置物が、
砲弾の材料として溶かされてしまったという事と、
その事を詫びるスフォルツァの言葉だった。


ダ・ヴィンチは若干がっかりしたものの
物よりまずは人命だろうとスフォルツァを責める気にはならなかった。
それにスフォルツォの義理堅い性格を好いていた。
そんな彼を慰めたのはサライだった。
半年経つとシャルル8世は半島から撤退した。
だが、主戦場となったミラノ共和国には芸術家の仕事は少なく、
ヴェネッツィア共和国にあるのは軍人として仕事だった。
彼はミラノ公とヴェネッツィア共和国元首に断りを入れて
故郷のフィレンツェ共和国に生活の場を戻す事にした。


フィレンツェでは相変わらずロレンツォの加護が続いていた。
ロレンツォはダ・ヴィンチに会うと
「大変だったな、しばらく身体を休めるといい」と頬笑んだ。
ダ・ヴィンチは今は自分だって大変な状況なのに
良く言うぜと思いながらもロレンツォの申し出を受ける事にした。


ダ・ヴィンチはそれまでフィレンツェとミラノを
行ったり来たりする生活を送っていた。
だが、サライと出会い、
ヴェネッツィアに避難している間は故郷に戻る事が出来なかった。
それでも彼のフィレンツェにある工房は
弟子達がしっかりと運営をしてくれていた。


ダ・ヴィンチはしばらくのあいだ身体と精神を休めた。
その後に仕事を再開した。
フェレンツェに腰を落ち着けたダ・ヴィンチには
ロレンツォの次男ジョヴァンニ・ディ・メディチ
教育者の役割も与えられた。ジョヴァンニは若く、この時15歳だった。
ジョヴァンニに付く者は沢山居た。
ダ・ヴィンチの仕事は主に美学、そして語学を教える事に限定された。
ジョヴァンニの上には長男ピエロがいた。
長男ピエロは20歳手前であり、
家長を継ぐ時の備え銀行業や外交の実務を積んでいた。
ピエロが10代の頃はダ・ヴィンチと顔を会わす事も多かったが、
彼がフィレンツェに戻ってからはそれが大分少なくなっていた。


サライダ・ヴィンチの工房で働いた。
まだ技術も拙い青年は、
本来は十分な給与を得る事の出来ない立ち場に居る。
だが故郷を捨てた若い愛人が1人で暮らせる様に、
ダ・ヴィンチサライに金銭や物を送ってやった。
サライは師からの贈り物を受け取る事を初めは拒んだ。
だがダ・ヴィンチが誰かから何かを言われたら
俺から盗んだとでも言えば良いだろうと無理矢理に
金銭や物を押し付けるので拒否を諦めて受け取る事にした。


実際、2人の関係に気がついた
ダ・ヴィンチの弟子には文句を言う者もいた。
だがダ・ヴィンチの心は1つ、それがどうしたんだってんだよ?だった。
ダ・ヴィンチの弟子には、
工房に住み込みで働き画家として将来の独立を目指す者も居たが、
商人の子息が教養として美学を学ぶ為に工房にやってくる場合もあった。
後者に限って2人の関係に文句を言うので彼は眉間の皺を深めた。
まったく、好きな男を側に侍らせる事の何処がいけないってんだ?


サライが故郷のミラノ語を自ら禁じて
トスカーナ語を話す様に勤めたのはこの頃からだった。
つたなく喋る愛人の言葉をダ・ヴィンチは愛おしく思いながらも、
無理する必要はないだろうとも思っていた。
だがサライは「せんせいのおそばに居ても、
はずかしく無いような人間になりたいのです」と言うばかりだった。



その2年後が、今、現在だった。
時代は西暦1492年だ。




《まったく、酒を静かに飲める夜が少なすぎる》


混乱する夫婦の気を鎮めた
アルドブランディー修道院長を送った後、
ダ・ヴィンチは暗い街角でサライの事を思う存分抱き締めた。
それからダヴィンチは不安な顔でなにか言いたげな顔の青年を宅へと帰した。
その宅はダ・ヴィンチが与えた物だ.


ダ・ヴィンチは一人歩き自宅へと戻る。
本来ならば、自宅でサライの寝顔を十分眺めて、
青年が眼を覚ましたらもう一度その身体を抱くつもりだったのが
そんな目論みは夫婦の悲鳴で中断されてしまった。


ダ・ヴィンチは自宅に着く。
1人椅子に座り再び白ワインを飲んだ。
1回グラスに口をつけた所で、外から再び怒声が聞こえた。
先程の夫婦とは違う声色だった。
ダ・ヴィンチは再度天井と吊るされた空飛ぶ装置を見上げた。
1夜に2度も人の家の問題事に首をつっこむ程
俺はお人好しじゃないぞと天を仰いだのだった。


結局状況は数時間前と変っていないな。
天井を見上げたままの格好でダ・ヴィンチはやり切れなさを感じる。
社会状況が悪いのだが、こうも続くと人間の性質も嫌になる。
だが弱い人間がいけないのだと言う気持ちにはならない。
ダ・ヴィンチは人間の混乱がこれだけ続くのならば
それは個々の人が持つ精神や体の強弱に原因があるのではなくて、
人間全体が持っている性質自体が原因なのだろうと考えている。


これから先も夜、静かに酒を飲める機会は訪れそうにないと感じる。
ならば自分で出来る事を全てやってしまおうかとも思う。
きっとそれでも問題は解決しない。
なんせ混乱の規模は一国を遥かに凌駕して半島全体に及んでいるのだ。
だが自分が出来る事をした後ならば、諦めもつくというものだろう。
その時は悲鳴と怒声を随伴曲にして酒を楽しく飲んでやろう。
ダ・ヴィンチはそんな事を考えて声を出さずに笑った。






      自分の持っている道具が金槌のみだと
      すべての問題が釘に見えてしまうものである


     (アメリカに置ける人間性心理学の第一人者
      マズローの言葉)
      アブラハム・マズロー アメリカの心理学者
     (1908〜1970)






《で、俺が出来る事って何だ?》


1491年の11月24日、
ナポリ王国の沿岸部と周辺海域、
地中海であるティレニア海地震が起こった。
揺れ自体の被害は少なかったが、直後に津波が起きた。
被害がもっとも甚大だったのは、
ティレニア海サレルノ湾の上部に位置し海に面する街、アマルフィだった。
地震によって起こった南南東からの波は
かつて半島で最大に栄えた街を瞬く間に飲込んだ。
波は今だに引く事が無く、アマルフィの街の大半を海の底へと引きずり込んでいた。残った陸地は全体の1割り。アマルフィは壊滅した。
多くの人々が溺れ死んだ。


だが、事体はそれだけでは終わらなかった。
人々は半島を見舞った久方ぶりの大災害を経験し
話しに聴き想像して怯えて混乱した。


ある政治家は、この天災は文化が繁栄し豊かになった反面、
人々に多々の価値観が生まれ社会規律や道徳が乱れた現代、
ルネサンスという時代へ神から下った天罰なのだと言った。
ある教役者はこの天災は世界の終わりの始まり、
ヨハネスが新約聖書の最後で予言した黙示録の始まりなのだと言った。
ある学者はポンペイや様々な街が壊滅した、
西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火との関連を取り上げた。
ヴェスヴィオ火山が噴火する17年前、
62年2月5日にポンペイと周辺の地域を大地震が襲っている。
地震と噴火の地形学的な関連は分っていないが、
アマルフィを災害が起こった現代。
その説は人々の耳を惹き付けるのには十分だった。
ヴェスヴィオ火山はアマルフィの北西にあるのだ。


アマルフィの真後ろにはラッターリ山脈が控えている。
過去、この断崖絶壁の山々は
アマルフィに暮らす人々を外敵から守って来た。
だが海から来た津波の前には逃げ場を失わせる壁となった。
アマルフィからラッターリ山脈を抜けると今は滅んだポンペイがある。
ポンペイの北がヴェスヴィオ火山であり、
ヴェスヴィオ火山の北西にはナポリ王国の首都ナポリがある。
首都ナポリからアマルフィまで
地図上の直線では40キロメートルも離れていない。
その中間にヴェスヴィオ火山は佇み、火山はいまだ生きている。


政治家の言葉と教役者の宣言。
学者の説明と過去の出来事。そして地形的な事実。
これだけ揃えば半島にすむ人々に混乱が訪れるのは当然だった。


ダ・ヴィンチはそのどれもが簡単には否定出来ない所が
大変な厄介事なのだと理解していた。
地形学者として知識も有するダ・ヴィンチ
地震と火山の噴火の関連を否定出来ない。
ダ・ヴィンチはこの時代に生きていた者の性として
あまり熱心ではないが神を信じている。
だから世界の終末の訪れや神の力を
例えその可能性が僅かであっても否定出来ない気持ちを理解している。


ダ・ヴィンチが特に神を信じる時は調和の美しさを見た時だ。
人間の身体の胸上部から頭頂部までが身長の1/6、
肩幅が身長の1/4、足の長さが身長の1/6、
そういった固定した数字を備えた時、人体はもっとも美しくなる。
人体以外では、例えば長方形がもっとも美しく見える比率は1対1.618だ。
この世界には美しさを完璧に再現する数字が溢れている。
彼が神を信じるのはそういった美しさが
自然や人間の中に見いだす事が出来るからだ。
だからダ・ヴィンチには神の力や終末を信じる人間の気持ちが理解できた。
まったくもってやっかいな事だ。


諸国に暮らす人々はそんな未来と終末に怯えて混乱した。
政治家にも教役者にも学者にも様々な説を唱える者が溢れていた。
根拠の無い話しも多かった。
事実の有無に関わらず噂は人々の声に乗り
社会の状況をより悪化させた。


まず経済が停滞した。
未来がどうなるか判らない今、人々は出資を控えた。
先の状態が判らないのに旨い物を食おうと思ったり、
新しく家を建てようという気持ちになる奴は少ない。


次に、いさかいが多くなった。
家庭や職場での争い、信頼の欠除の表明。
公共の場や酒場でのもめ事。
良い未来が見えない事で増加する犯罪率。
信じるものと愛を無くした者の自死
混乱に乗じた大陸の国々の軍事的キナ臭さ。


更に、出自不明の自称予言者や占い師や呪い師、専門家の出現。
天災が起こる前に耳に心地よい言葉を放っていた者達の沈黙。
国の繁栄や人文学的人間の可能性を公に言い放っていた者達の殆どが
この事体に及び腰になり自分が過去放った言葉には責任がない様に振る舞った。


ナポリ王国の統治者フェルディナンド1世は半島の
諸処の国民から非難された。
非難は主に、なぜアマルフィに水害の対策を十分に施してこなかったのか?
なぜ噴火するかもしれないヴェスヴィオ火山に対して
何らかの行動を起こしていなかったのか?という物だ。
ダ・ヴィンチの目から見ると、
非難している者達の殆どがついこの間まで
ナポリ王国と半島の諸国がフランス王シャルル8世の侵略戦争
対抗して居た事を忘れているようだった。


実際の所、フェルディナンド1世はアマルフィを含む
ナポリ湾やサレルノ湾で海に面する街には水害や治水の対策を行っていた。
しかしそれは十分でなかったのも確かだ。
だが政治家も学者もそして国民も誰もが
平時の過去には地震津波の被害規模を想定し、
更なる対策を訴えて来なかったのだ。


ヴェスヴィオ火山に関してもフェルディナンド1世は
周囲には大きな街を建てない様はしていた。
だがナポリ王国の限られた領土ではそれも限界があった。
領土は無限ではない、人は危険な土地であっても
そこで生まれ育たなければならない。
首都ナポリをいまさら領内の別の場所、
火山から離れた所に移転する事も不可能だった。
地震が起こる以前、首都移転に掛かる費用を国民が許すはずも無い。


それに首都であるナポリは半島の北に位置するフランス王国スイス連邦から
ミラノ公国モデナ公国ルッカ共和国フィレンツェ共和国と通り、
シエナ共和国、教皇領内のローマへと
一直線に半島を南へと下る直線上に並んでいた。
ローマの次ぎがナポリだ。それは諸処の国との商業上大切な事だった。
また首都をヴェスヴィオ火山を越えた位置に移転させる事は、
中央政治からナポリ王国が遠退く事を意味している。
ナポリに生きる政治家も教役者も商人も、そして国民も、
平時の過去にあってはそれを許すはずが無い。


そんな様々の事情の中、半島に建つ諸国の外、
海外へと逃げ出す人間も居た。
場所はフランス王国神聖ローマ帝国アラゴン王国だ。
市井の人間は親戚が海外にいないと逃げる事は難しい。
半島から逃げた人々の中で目立ったのは政治家、教役者、金持ちの商人だった。
政治家はフランス王国神聖ローマ帝国へ、
教役者はキリスト教の力が強いアラゴン王国へ、
商人は貿易の相手であったオスマン帝国へと逃げたのだ。


非難と不信、そして逃亡により
国々を動かす人々を失った半島は混乱を加速させた。
政治家、教役者、学者、その他の人々。の言葉。
混乱。不安。恐怖。がもたらすいさかい。噂と風評の流布。見えない未来。
これだけ揃えば、人間達がその性質と本性を暴露させるには十分だった。



ダ・ヴィンチはこう思う。
国と共同体、社会と人間自身の底が抜けちまった。
なんせ全て水と消えちまった。
威勢のいい事ばかり言って奴に限って速攻で逃げちまった。
疑心暗鬼になる巷。誰もが内心しまった。と思っているに違いないと。
酷い事態で非常事態で非道な人間の痴態だ。


もちろん、混乱もせずに逃げだしもしない人々も居た。
そういう人々は為政者や一般市民にも居る。
メディチ家の人々は逃げださない政治家であり、
アルドブランディー修道院長は逃げださない教役者だ。
少しは見直したもののダ・ヴィンチが未だに嫌っている
アレクサンデル6世ことロドリゴ・ボルジアもローマに居る。
彼の元雇用者であるスフォルツァもミラノの平定に勤めている。


そんな状況でダ・ヴィンチ
彼らに並び自分に何が出来るだろうかと考えている。




《折衷点が大切かな》


自分に出来る事だけで考えると、
思考はどん詰まりになりいい行動はできんよなぁと
ダ・ヴィンチはご近所の何処からか聞こえて来る怒声を耳に入れる。
夜はすっかり更けている。
自分が出来る行動の範疇を越えた最大の功績を上げられる行動。
自分が出来る範疇の中で最大の功績を上げられる行動。
その折衷点は何処だろうかとダ・ヴィンチは考える。
彼は雑念を清め洗う様に、喉頭に白ワインを浴びせる。


自分に出来る事、
画家、政治家や教役者との繋がり、僅かばかりの知識と思考。
酒を静かに飲む為に必要な事。社会の混乱を収める行動。
なぜ静かに酒が飲めないのか?ご近所さん方が五月蝿いからだ。
ご近所さんとは誰だ?逃げださない、或は逃げられずに
フィレンツェにとどまる一般市民の事だ。
一般市民が五月蝿いのはなぜだ?心を襲う混乱と恐怖のせいだ。


つまり、一般市民の恐怖と混乱を治めてやれば静かに酒が飲める。
だが今日の様に一軒一軒回って説法を噛ますのは効率が悪い。
と言うか、アルドブランディー修道院長が疲労で倒れてしまうだろう。
それにそう言った方面では半島に残る教役者が行動を起こすだろう。
何より教役者の言葉には人々の耳を傾けさせる信頼がある。
今のダ・ヴィンチはそれがない。
それは宗教の歴史と言う重みが成せる技だからだ。
まだ、新たな法を敷き対抗策を打ち出し未来に供える。
そういった大々的な行動は行政に関わる為政者の役目だ。
いくらダ・ヴィンチに知識があり、
人脈があろうともその仕事は彼の物ではない、政治家の物だ。
現代で政治を行うのに必要なのは血脈と家柄だ。
家柄がないのならば、深く政治家達と付き合い
助けを乞うに足りる知恵者として認識されなければならない。


ダ・ヴィンチは芸術家として、
または地形学者や建築設計者や装置の開発者と
ある種の軍事的考案者としては認められてはいるが
内政官として政治家達に認識されている訳ではない。
勿論、ダ・ヴィンチはそう言った面でなにか良い案が頭に浮かんだのならば
繋がりが在る政治家に伝えようとは思っている。




《結局、絵画かな》


そこまで考えたダ・ヴィンチ
最大の功績を導く行動と自分が出来る行動の折衷点を見つける。
それは随分と悠長な方法だった。


どのみち、1人で出来る事なんてたががしれている。
脳に空気を送る様にダ・ヴィンチは大きく欠伸をする。
もしサライがこの場に居たのならば彼の様子を見て
先生は獅子や狼の様に雄叫びを上げていると思った事だろう。


悠長な方法とはつまり絵を書く事だ。
ご近所さんを含む市井の人々の心を落ち着かせる、
或は奮い立たせる様な絵を書く事だ。
あまりにも在り来たりな思考結果に彼は情けなさすら感じた。
結果、笑った。だが声は出さない。
声を出さなかったのは誰もいないのに声上げて笑うのがマヌケに思えたからだ。
サライがこの場に居たら
この状況において師が不敵な笑みを漏らしたと
彼に更に惚れ込んでいた事だろう。


まぁいい、出来る事をしてやろう。
巧くいかなったらそれまでだ。だが、出来れば勝ちたい。
ダ・ヴィンチはそんな思いで自分の腹を撫でた。


次に考えるのは、具体案という奴だ。
どういった絵を書くのか?その絵に何を込めるのか?



考える日数、4日。


ダ・ヴィンチはその間、工房に顔を出さない所か、
一歩も自宅からはでなかった。
考える時には他の全てが邪魔になる。所謂集中という奴だ。
集中とは言わばそれ以外の他の事が出来ない状態を指す。


ダ・ヴィンチは信頼出来る弟子に工房を委せた。
翌日、朝にダ・ヴィンチの自宅を尋ねたサライには
口づけをした後に食事の世話を頼んだ。
それ以外の時は顔を出さない様にも言った。
元からサライにはダ・ヴィンチが呼び出さない限り、
自宅には来ない様にと言ってある。
殊更それを厳重に言ったのは、必要以上に愛人の姿を見て
欲情しては集中も何もあった物ではないからだ。


ダ・ヴィンチは椅子に座り。
部屋を歩き回り。寝床の上で転がり。
紙に文字を書き。目を瞑り。天井を見上げて。考えた。
4日の間よく眠った。夢を見て起きるごとに
新しい考えが頭をもたげ、思考は纏まった。


そして何を描くのか。
描いた絵をどうするのかが決まった。






      それはつまり私の存在には常に一定以上の意味は無い
      だがしかし、嘘と創作には必ず意味が在るという事です


     (ロシアはサンクトペテルブルク美術大学映像学部の
      准教授であるルジュツの言葉)
      ルジュツ・アバーエフ ロシアの芸術批評家、哲学者
     (1985〜 )






《まずは金だ》


経済が停滞し絵画や彫刻の作成依頼が少なくなっても、
自分の生活費を稼ぎ出すのは勿論、
工房に居る弟子にも給与は払わねばならない。
メディチ家の加護を受けているとはいえ、
ダ・ヴィンチには無料奉仕するが如く絵画を描く余裕などはなかった。
絵は、数日で完成する物では無い。



ダ・ヴィンチはここ最近、
フィレンツェはサンタ・クローチェ聖堂の依頼により、
聖ヒエロニムスの肖像画を描いていた。
その状況でもう1つの絵画を描く事は
聖ヒエロニムスの肖像画の制作を中断する事を意味している。
つまりそれは絵画の完成後に得られる成功報酬を
暫くは受け取れないという事だ。


ダ・ヴィンチはセルビ・ディ・マリア修道院の工房にある、
描きかけの聖ヒエロニムスを思った。
ヒエロニムスはアウグスティヌスに次ぐ偉大なキリスト教神学者だ。
ヒエロニムスが生まれたのは西暦340年頃で、
今ではアウグスティヌスと同じく聖人に列している。


ヒエロニムスは
旧約、新約の聖書を初めてラテン語に訳した翻訳者だ。
ダ・ヴィンチが初めて読んだ聖書もヒエロニムスが約したラテン語の物だ。
旧約聖書は原則としてヘブライ語と一部がアルム語で書かれている。
新約聖書ギリシア語で書かれている。
だがトビト記などの複数の物は
旧約聖書に納められていながらもギリシア語で書かれている。


しかしヒエロニムスは聖書をラテン語に翻訳する際、
トビト記などギリシア語で書かれているとされている
旧約聖書内の複数の書をアルム語で書かれた物を底本として
ラテン語に翻訳したと残している。
しかし現代までにヒエロニムスの時代より古い
アルム語で書かれたそれらの書は見つかっていない。


ダ・ヴィンチはいつかそれが見つかると思っている。
旧約聖書で紀元前。新約聖書でも紀元後から数年、
それからヒエロニムスが生まれる西暦340年頃までの間に書かれた
古い聖書の事だ。
ダ・ヴィンチには最古の聖書がある場所の予想がついている。
場所はやはりキリスト教ユダヤ教発祥の地、
エルサレムやヨルダン、つまり死海の周辺だろう。
争いの多かった彼の場所で今だに誰にも気づかれずに
最古の聖書が残っているならば、
それは都市に暮らしていた教徒の物でも教会で暮らす教徒の物でもなく、
自然の中にある洞窟などに隠遁していた宗派の物だろう。
紀元前ならばそれはユダヤ教ファリサイ派から発生したエッセネ派の物となる。エッセネ派は都市での生活を避けて、
荒野の洞窟で集団生活をしていた事で知られる宗派だ。
ダ・ヴィンチは何処かの教会なり何処かの国の諸公が死海周辺の洞窟を
調査する事を命じればすぐにでも最古の聖書が見つかると思っている。
だがしかし現代までに死海周辺の荒野を調査した人間はいない。


ダ・ヴィンチは新しい事実が判明する事に期待しているのだ。
聖書に書かれている事の中で、不明瞭な事は沢山在る。
もしそれが分るのならば、もっと精度の高い絵画を描ける。
それが最古の聖書に書かれているかもしれない。
聖書が伝承されていく中で、抜け落ちた部分があったとしてもおかしくは無い。
新約聖書ならばアンドレアとペトロス、
エスの12使徒である2人の兄弟の事だ。
どちらが兄なのか弟なのか分れば、
再び、最後の晩餐を題材に絵画を制作する際にはもっと良い絵が描ける。


ダ・ヴィンチにとってヒエロニムスは
そういった聖書にまつわる物語と翻訳を象徴する人物だった。
聖書、特に新約聖書は主にイエスが起こした行動を
別の人間が語る事で作られている。
それは言わば起こった出来事そのものではあらず、
事実を物語という姿に変化させる事で
エスの行動を今に残しているという事だ。
そして翻訳と言う作業は物語を底本に書かれている言語とは
別の言語で物語る事だ。
また翻訳された物を読むという事は、
読者や聴取者が各自それぞれの形で物語を受け取るという事だ


ダ・ヴィンチはそう言った事実や物語の変化を面白く思う。
絵画を描く事で、彼の絵画を見た者の心に、
良い心と物語を与えるのが今回、彼が絵画を描く目標だ。


今、ダヴィンチは聖ヒエロニムスの完成は一旦棚上げして、
その目標を果たそうとしている。
最終的な目的は夜静かに酒を飲み、愛人との一時を取り戻す事ではあるが。


彼の計画としては、
その絵画の制作に金を支払う人間が必要だった。
何より、材料費やその他の必要経費を含めた前金が欲しい。
フィレンツェに置けるダ・ヴィンチパトロンである
メディチ家の家長ロレンツォこそがその役目に相応しく、
ロレンツォならば絵画を描く意味も理解してくれる。
だがロレンツォは1492年に入ってから病床に伏して居た。
次男のジョヴァンニから話しを聴くに
持病の喘息が悪化しているという事だった。
そんな最中メディチ家に金の話しを持って行くのは気が引けた。
だから、ダ・ヴィンチにはロレンツォに代わる人間が必要だった。
彼にはそういった人間の目安が付いていた。




《ねむぃが動きだすかな》


彼が計画を練り始めて5日後。
欠伸をするダ・ヴィンチは身体を伸ばして朝陽を観た。
人間の身に何が起こっても陽の色は変らねぇなあと再び欠伸をする。


朝食を持ち彼の自宅を尋ねたサライダ・ヴィンチは1つの頼み事をした。
それはある商人への伝言だ。その後2人は朝食を採る。
それから2人は一緒に自宅を出た。
サライは伝言を実行するために商店へと向かう。
ダ・ヴィンチは1人歩く。
股間のかゆみはいつの間にか消えていた。
ちょうど良い時だと思った。男娼に病気を移された訳では無い様だ。


彼は眩しい朝の光の中、
フィレンツェを横切る巨大なアルノ川の橋を渡る。
中央市場を通り過ぎてストゥファ通りに辿り着く。
目的地はこの通りに立ち並ぶ私邸の中の一軒だ。


道中、ダ・ヴィンチはある集団に出会った。
外見を見るに彼らはフィレンツェの一般市民で構成されている様だ。
集団は街角の巨木の下に集い手を合わせて何かを祈り呟いていた。
ダ・ヴィンチはこれは何なんだ?祈るなら教会にでもいけよと思い、
僅かな狼狽を持ってその光景を眺めていた。
すると集団の中の1人が彼に話しかけた。
「あなたも祈りませんか?」とその市民はダ・ヴィンチに言った。
ダ・ヴィンチはそれも良いけどなんで外で祈っているんだ?と聴いた。
「私達は今まで教会の中で神に祈ってきました、
 ですが今、世界は破滅しようとしています。
 だから私達は教会とは別の場所、空の下で神に祈りを捧げるのです」と
一般市民は天を仰ぎながらつぶやいた。
「それでだめだったら、私は明日にでも首を括るつもりです。
 私は悔い改める事にしたのです産まれた事を。
 私が夜寝台で寝ていると私の身体を叩く者が居ます」
一般市民はダ・ヴィンチに生気のない顔を向けた。


ダ・ヴィンチは心の中で苦笑した。
それから、そうかまぁしっかりな、
俺はいかなきゃならない所があるんでなと市民の肩を叩いた。


ダ・ヴィンチは市民に背を向けて数歩歩く。
それから険しい顔になった。
後ろを振り返ると市民は再び巨木と空に祈りを捧げている。
彼はまったくろくな事が起こっていない、
これも環境と状況がわるいのだろうか?と今の出来事を判断する事を倦ねていた。


苦みばしった味が口の中にじわじわと広がって行く様な気分で
ダ・ヴィンチは再び目的地へと歩き出した。
俺には俺の目的があって
あんな風にいつまでも祈ってばかりはいられない。




《リザちゃん相変わらず美しい》


目的地に到着したダ・ヴィンチは椅子に座り
卓を挟んで彼の目の前に居る女の顔を眺めている。
邸の扉を叩いて自分の名前を名乗ってから、
居るはず手伝いが一切顔を見せないのは
居住者が俺の姿を誰丹生も見せたく無いからだろうと心の中で邪見に笑う。


「急にいらっしゃって、どうしたのですか?」
ダ・ヴィンチの目の前に座る女は
清楚な雰囲気を放ちながら彼を見つめている。
その瞳は黒く大きい。ダ・ヴィンチの心を射抜く様に彼らから視線を外さない。
長い黒髪も美しく、明るく柔らかい顔を収まりよくしている。
その口角は僅かにあがり穏やかに頬笑んでいる風だ。美しい笑みだった。
どうやら自分の企みはバレている様だとダ・ヴィンチ
自分より年下の女に目を瞑ってから笑いかけた。


彼女は以前の客だ。
ダ・ヴィンチは彼女の夫から妻の自画像を依頼されて描いた事がある。
1年程前の話しで、ダ・ヴィンチの父親が、
久方ぶりに故郷に腰を落ち着かせた息子に持って来た仕事だ。
ダ・ヴィンチの父親、公証人セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
依頼主である織物の商人にして
フィレンツェの行政官フランチェスコ・デル・ジョコンドと
古くからの知り合いだった。
ダ・ヴィンチの目の前に居る彼女はフランチェスコの3人目の妻で、
名前をリザ・デル・ジョコンドという。
フランチェスは当時50を過ぎていたが、リザは24歳だった。
リザはダ・ヴィンチが知る限りでもっとも美しい顔を持つ女性だ。


見透かされている、
うん、そういった表現が適切だとダ・ヴィンチは口を開く。
絵を描こうと思っている、彼は自分が望む行動を彼女に言う。
「それはいいですね、何の絵でしょうか?」
最近世間が五月蝿いだろう?それを鎮める様な絵さ、彼は描く絵の内容を言う。
「ご立派、ですね。それをして貴方は何を得るんでしょうか?」
静かに、酒を、飲みたいだけでね、
彼は目をリザから反らした衝動にかられる。
それを抑えて頬笑んで目的を告白する。
「貴方らしいですね。ですが絵でそれができるのですか?
 そして、つまり私達に関係ない絵画の制作資金を私達に出せというのですか?
 工房を構える芸術家がまるで商人のようですね?
 急に尋ねて来て。そんな話しをするという事は、
 つまりそういう事でしょう?」
ダ・ヴィンチの目論みは完璧に彼女に看破されていた。
できるさ、ダ・ヴィンチはリザちゃん口がキツいなぁと思いながらも、
不敵な笑みを洩らす。自分でもそんな表情に成っていると理解している。
絵画でそれが出来るのか?と尋ねれてて挑発的な笑顔になってしまったのは
彼の画家としての自尊心が起した業だった。


出来るさ、俺の力が何処まで届くかは分らないが。
でも、それなりには役に立つ物を描くよ。
俺が描いた君の肖像画はこの家にあるよな?ダ・ヴィンチはリザに質問を返す。
「ええ」リザは質問の意図を考えながら相づちを打つ。
彼は頷いて話しを続ける。例えば、例えばだ。


ダ・ヴィンチはそこまで言って椅子から立ち上がる。
歩いてリザに近づく。彼女の手が乗る卓に彼も手を置く。
ダ・ヴィンチはリザの顔を覗き込む。2人の手の距離は数センチ。


俺が描いた君の肖像画は美しい。
多分、といってダ・ヴィンチはリザの頬を優しく触る。
リザの肖像画は俺が描いて来た絵画の中でもっとも美しい。
受胎告知よりも岩窟の聖母よりも
スフォルツォの愛人を描いた絵画よりも美しい。
君の肖像画は確実に後世に残るだろう。
何れは俺も死に残念だけど君も死ぬ。
そして今はこの宅にあるあの絵画も他人の手に渡る。
でもそれは商人の手ではない。美しさを知る貴族や王侯の手に渡るはずだ。
王侯貴族、或は国という存在の栄華が続く限り何百年でも
君の事を描いたあの肖像画は美しさを知る者達の手から手に渡り
君の美しさを後世に残し続ける。
例え西暦が2000年を越えて人間が生き続けていたとしてもね。
俺はそれを確信している。その程度には俺の絵には力があるよ。


1、2、3秒、4秒。
ダ・ヴィンチが一気に自分の主張を言い終えた後、2人の間に沈黙が流れる。
5秒、6秒経ってリザは口を隠して明るく声を出して笑った。
ダ・ヴィンチも大きく笑った。
「馬鹿な人ね」彼女は笑ったまま言った。


それからダ・ヴィンチは計画の全てを彼女に話した。
出来るかい?どうだい?と彼はリザに訊く。
尋ねたのはつまり絵画の制作資金の問題だ。
有り体に言うと旦那から金を引き出せるかどうかと言う事だ。
リザは口元を掌で隠したまま
「あの人は私の言う事なら何でも聞いてくれるもの」と言った。
ダ・ヴィンチはその言葉を聴いて、
確かに若くてこれだけ美しいかみさんの願いなら聴くだろうなぁと、
その事を自分でも理解しているリザと、
彼女の夫であるジョコンドの事を思って少しだけ背に冷や汗をかいた。


そんな事を思っていたダ・ヴィンチが気がつくと
リザは彼の瞳の奧を見つめていた。彼女は口を開く
「それで?
 私、この後、日課のお昼寝をするのだけれど。
 レオナルドは来るの?来ないの?」






      ゴドーを待ちながら


     (劇作家ベケット作による
      不条理劇の至高作として演劇史に名を刻む戯曲に付いてる題名の
      日本名を9文字で表した表記の全部)
      サミュエル・ベケット アイルランド、フランスの劇作家
     (1906〜1989)






《笑えるし笑えるし面白いしすげえ笑えるし笑える》


ダ・ヴィンチは自分とリザが居る場所を思って笑いそうになる。
2人の男女は寝台の上に居た。
女は縁に腰掛けて乱れた髪に櫛を掛けて美しく整えている
男は仰向けに寝て眠い目を天井に向けている。


笑えるし笑えるし面白いしすげえ笑えるよ。
ダ・ヴィンチは手の甲を額に当てて笑いを堪える。
リザの夫を思い浮かべて笑いそうになる。
2人が寝ていたのは夫婦の寝台だった
夫婦の寝台で人の妻を抱いている事も笑えるし、
そんな俺に金を出す夫が居る事も笑えた。
ダ・ヴィンチはまた笑いを堪えた。


ダ・ヴィンチとリザはたまにこうして逢瀬を繰り返していた。
彼が彼女の家をこうして尋ねる事もあれば、
リザが陽が暮れてから周囲の住民にその身分が判らぬ様に
頬っ被りが付いた外套を身に纏ってダ・ヴィンチの自宅へ訪れる事もあった。
リザは美しい。どちらかというと男が好きなダ・ヴィンチだが
彼女を抱いている時は相手が女なのにも関わらず心から興奮出来る。
それが何よりも彼女が持つ美しさを表現しているだろうと
ダ・ヴィンチは思っている。


ダ・ヴィンチが若い愛人、
サライに宅へ自由に尋ねるのを禁止していたのはリザが居たからだった。
ダ・ヴィンチはリザと自分の関係がサライに発覚するのを恐れていた訳ではなく
発覚する事でサライが傷つく事を懸念していた。
そんなサライの事を思ってダ・ヴィンチはまた面白くなった
それから結局の所、夫ジョコンドは自分たちの関係を知っているのかと思う。
知っているだろう。それは間違いないとダ・ヴィンチは考えている。
それも笑える。
きっとサライも気がついている、それにもまた笑える。
最後に全てまとめてそんな事で面白くなっている自分の性格の悪さに笑えた。
38歳でこれは酷いと笑ったが、そんな俺で何が悪いのか、
俺を俺の自由にして何が悪いのかとまた笑った。
全て心の中で。


「何を面白そうにしているの?」
リザはダ・ヴィンチの顔を覗き込んで訊く。
いや、何でも無いよとダ・ヴィンチは表情を直ぐさま整えて頬笑んだ。
彼が気がついた時にはリザは既に服を着ていた。
「そろそろ、帰った方がいいかもしれません」
リザが窓から見える夕焼け間近の陽に照らせれながら言った。
ダ・ヴィンチは着衣姿の彼女の事も美しく思う。
橙色の陽に照らされた横顔の柔和な眼差しに神聖さすら感じる。
彼はリザの片腕を取って寝台に押し倒す。
彼女が拒まなかったので、ダ・ヴィンチはもう一度リザを抱いた。







(後編に続く)


前編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130405/1365173628
中編;本文
後編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130417/1366177435



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