ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 2ページ目(不定期更新の短編小説)

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※2014/12/29にタイトルを変更しました。
「ずっと後ろで暮らしている」

「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」




//※//



僕は彼女の言葉に頷いた。
彼女は自分の言葉にこそばゆさを感じた様な表情をする。
あるいは苦い顔。
僕はもう一度彼女の顔を見て、苦みではなく渋みだろうかと思い直す。
苦味も渋味も、料理ならば旨さを際立たせるのに必要な物だ。
適度な量ならばね。
彼女と僕は2、3の言葉を交わす。
プレイ終了の挨拶だ。今回に限っては会話終了の挨拶。
だって彼女と僕が触れたのは舌と歯だけだ。
ペニスも衣服の上からは握られたけれども。
ともかく僕が払った料金分の仕事を彼女は成し遂げたという事。
僕と彼女の話は、これでおしまい。


彼女が青や紫のレースの先に消えていく。
次に暗闇に消えた。
ソファーで待たされる。
僕には彼女の名刺と彼女が書いた手紙を受け取る義務が生じている。
上手く行けば「レッカー車」と絡んでいた
女性従業員の名刺も手に入れる事が出来るはずだ。
「レッカー車」は少し前にプレイルームから退出している。
きっともう店を出ている頃だろう。
僕は既に「観葉植物」に彼の動向を連絡してある。
僕のメッセージを見た「観葉植物」は
今頃「レッカー車」の後ろを歩いているはずだ。


女性従業員が戻って来る。
2枚の名刺と1枚の手紙をもらった。
僕は笑顔だ。
彼女が僕の手を握る。
彼女は自分の指と僕の指とを1本1本絡ませる。
手を繋いだまま出口まで案内される。
移動中それとなく周囲を観察した。
「レッカー車」はどこにも顔を向けずに部屋を出ていった事を思い出す。
彼の振る舞いこそが大多数の男の振る舞いだろう。
金を払って射精をした彼らの心の中には照れや罪悪感や後悔が渦巻いる。
快楽と壮快感と混ざっている。だから周りを見る事は出来ない。
余裕はない。恥もある。
僕は自分の振る舞いに苦笑いを浮かべる。
風俗嬢に体を愛撫させず彼女に話をさせるだけさせる。
そして席を立って周りをそれとなく観察する行為の事だね。
僕と同じ様な行動をするのは、彼女が言った説教おじさんか
ネタを探している小説家、漫画家、構成作家くらいのものだ。
暇で心理的に卑猥な連中だ。僕も含めてね。


手を繋いで店を出るのは風俗嬢と客による恋人的な恋愛の演出。
でも僕は思ってしまう。
むしろ母親と手を繋いで歩く小さな子供の様じゃないかと。
射精していたら増して感じていた事だろうね。
なぜだろう?
きっと男が女性に手を引かれて歩いているからだ。
女に手を引かれて歩く男を見ても、
周囲の人間が男から男児性を感じ取らなくなる時こそが
ジェンダー、性差という奴がもっとも低くなる時代だろうね。


出口で彼女とキスをする。
僕が申告した嘘、歯が痛いと言う嘘を信じて、
彼女はゆっくりと僕の口内に舌をいれる。
歯科医が行う難しい治療もかくやという慎重さ。大変な仕事だなと思う。
別れの挨拶。また来てという言葉にまた来ると返す。
彼女の仕事が終わった後で僕は階段を上る。
地上について振り返る。
彼女が笑顔で僕に手を振る。
反対の手で自分のタンクトップの胸元をつまんで素肌の胸を見せる。
大変な人生だ。大変じゃない人生なんてそうそうないとも思うけれど。
どの女性にだって、男性にだって、僕にだってね。


歩く。店から離れる。
彼女が見えなくなった所で手紙を見る。
甘く丸い文字で甘い愛の言葉が書いてある。
これだから性風俗は嫌いなんだ。
男共は金で愛を買う事が出来ると完璧に思っている。
だから金を払った風俗嬢にも愛情を演じる事を求める。
男の悪口はあまり言いたくはないけれど男共の欲望め。
男の悪口をあまり言いたくないのは僕も男だからだ。
だから自分で自分を貶している事になる。
自分の事を鑑みるのは賢人かもしれないけれど、
自分を貶すのはあまり賢い行いとは言えないはずだ。
そして男共に比べたらある種の女性の清い事よ。
たとえばホストクラブに通って金を使うだけ使って
最終的にビルの上から身を投げる女性。
彼女の方がまだ幾分は潔い。
金で愛を買えると当り前に思っている男は最終的に女性を殺すだろうが、
金と愛の関係を根本的には疑っている女性は自分を殺す方を選ぶと言う訳。
自分の行動の結果と責任を自分で取る分は女性の方が男より潔い。
僕は少しばかりの怒りを胸に抱えながら
出口の斜向いに建つコンビニに向かう。
清潔な白い光を放っている窓、向こうに見える雑誌棚。
僕は彼女が愛情を演じた手紙をくしゃくしゃに丸めた。
ゴミ箱に投げ入れる。



僕はコンビニから風俗店を眺めている。
コンビニに入って店内を一回り。
雑誌、ジュース、アルコール、お弁当、レジ、コーヒー。
僕は栄養ドリンクを買う。ストローを貰って直ぐに外に出る。
小さなベンチと灰皿。喫煙所に座ってドリンクを飲む。
携帯端末を弄りながら風俗店の入り口を見張る。
機嫌が良い様に装う。本当は仕事中だから機嫌の良いも悪いもないのだけれど。
仕事には必要だから装う。


今の仕事を始めてからそれなりに時が経つけれど、
今だって仕事に慣れた訳ではないんだ。
慣れてない事を実感するのは緊張を感じた時だ。
緊張と言うより危険と言った方が正しいかも。
仕事柄、夜に行動する事も多い。
普通の人が行かない場所に、1人で行く事もある。
例えば、いま僕がいる場所の事。
夜の繁華街。
人通りが多くて賑やか。一見楽しげで平穏にも見える。
けれど夜には独特の雰囲気がある。
昼間の同じ場所では漂っていない空気がある。
空中にはアドレナリンや性欲が漂っている。
原因はきっと街を行く人々の視線だとは思う。
街を歩く女性を見てみれば良い。
見るのは夜の街を1人で歩く女性の歩行速度だ。
昼間と比べると速度が上がっている。
彼女達は夜の街の危なさを意識的に、あるいは無意識に感じている。
だから危険を回避する為に昼間よりも早歩きになると言う訳。
少なくとも僕がそうだ。


だけれど、夜の街中でもコンビニは落ち着ける場所の1つだとは思うよ。
もちろん夜のコンビニが苦手な人もいるだろうけれどね。
昼と夜とではコンビニの客層が変わり過ぎる。
繁華街ならば尚更だ。
昼間の客はサラリーマン、OLや学生に主婦。
夜をなればキャバクラ嬢やホスト、風俗で働く女性や、
仕事を終えたサラリーマンと酔ったOLつまり遊び人達。
僕がコンビニに安心感を見いだすのには理由がある。
棚に置かれた、化粧品、生理用品、ストッキング等の商品が理由。
女性客が存在している証拠。
つまり女性の居場所があるという訳。
だから僕は安心できる。
想像をした事がある、例え話だね。
知らない街に行く、知らない繁華街がある。
知らないコンビニがある、
コンビニには化粧品も生理用品もストッキングも売っていない。
駅の小さな売店にだってストッキングは売っているのにだ。
しかも1種類じゃない、デニールと色に別れて数種類を取り扱っている。
これからストッキングを破くプレイを楽しもうとする、
カップルの好みにさえ対応している種類の豊富さだ。
もしストッキングも何も売っていない店があると想像する。
するとどうなる。
女性客がいないという事になる。そして街全体にも女性が少ない。
あるいは居場所がない事にもなる。
恐ろしい事だ、知らない街、僕が想像した街は男どもの街であり、
空中には常にアドレナリンや性欲が漂っている場所だ。
だから化粧品も生理用品もストッキングを売っているコンビニは
夜の繁華街でも安心を実感できる場所だと思っているという訳。
夜でさえ女性が多く存在する証明だね。
別に男性が悪人だと思っている訳ではないのだけれど。
バランスが著しく崩れているのは良くない事だと思う。


しかし僕はたった今、道を行く男が唾を吐き出すのを目撃してしまった。
彼の行いをありのままに言うと品のない行動だ。
良い行いではない。
彼はスーツを着た一般的なサラリーマンに見えるというのに。
それともサラリーマンは地面に唾を吐き出すのが一般的なのだろうか。
下品であるという事以外にも嫌になる部分がある。
彼自身の脇の甘さが露呈しているから嫌なんだ。
スーツを着て一端の社会人を演じている。だけれど道に唾を吐き出す。
ヨダレを垂らすのは本来は赤ちゃんだけの特権だ。
唾を吐き出す男を一端の社会人と認めたくない。
彼の様な人を見ると学生の頃を思い出す時がある。
同じ教室で学んだ男の子達の事だ。
女の子の前で格好をつけ様とするクセに、すぐに子供っぽさが滲み出る彼ら。
彼らの話題はロボットとたたかいと小声で話すポルノの事。
それからどこかの大人のマネをして床につばを吐きかける。
脇の甘さだ。
格好をつけるならば最後まで上手く演じて欲しい。
単調な子供っぽさを見ると僕はゲンナリとしてしまう。
そして大人と呼ぶべき年齢の男性が、
単調な子供っぽさをみせると僕は絶望しかける。
男は年をとっても子供のままなのかという疑問が沸き上がってしまうのだ。


僕はタバコが吸いたくなる。嫌な思いをしたからだ。
シガレットケースから取り出したバージニアロングスリム。
メンソールの匂いで口の中を洗い流したい。
ところがライターの火がつかない。オイルが切れているみたい。
ここはコンビニ。だけれど風俗店の出口からは目を離したくない。
だから買い物はできない。


よかったら、どうぞ


タバコをくわえて間抜けな顔になっている僕の前にライターが差し出された。
声の主。ライターを持つ指。腕を辿ると居るのは、誰が見ても僕と同じ判断をするだろう。
ホストだ。


ああ、ありがとう


僕はお礼を言ってライターを受け取ろうとする。
すると彼は自然な動作でライターに火を灯して、
僕のタバコに火を着ける。一瞬で点火した。
自然と言うより優雅な動作。


あはは、私、プロに仕事をさせちゃった


僕が彼の事をホストと判断したのは彼の外見と雰囲が理由だよ。
まずスーツを着ているけれど、ビジネスマンが着る様なブランドの物ではない。
ビジネスマンが着るには高級すぎる。
イタリアのスーツの様にデザインに遊びがない。
そしてイギリスのスーツの様に新たまっていない、どこかリラックスしている。
ジャケットは派手さはないけれどエレガントな曲線を描いている。
フランスのブランドのスーツだろう。
フランスの高級スーツを身につける仕事は中々無い。
着こなしている男性は更に少ない。
彼は店での成績も良いのだろう。
最近の僕は男性の服装にも詳しくなってしまった。
仕事柄必要だったのだけれどね。
スモールノットで結んだナロータイの上には顔がある。
眉毛の上まで伸ばした前髪。耳周りも清潔に纏められている。
最近のスタイルだ。少し前は長髪のホストばかりだったのに。
彼、ホスト君の口は微笑んでいる。目も微笑んでいるのだから流石だ。
綺麗な眉毛に、長い睫毛。
笑う演技を口でするのは簡単だけれど、目まで演技をするのは難しい。
それでいて彼からは若干の緊張を感じる。
緊張の理由は彼が周囲の観察を怠っていないからだろう。
接客業という物は周囲の観察無しには成り立たない。
そして彼のわずかな緊張が、彼の表情に真剣さを与えて、
色っぽくも見せている。
目でも笑いながらホスト君が言う。


お姉さんが困っているみたいだったから
おねえさん? 私、あなたより年上にみえる?
俺の所の社員教育方針で
そう
二十歳以上の女性に声を掛ける時はそう呼ぶ事に決められているんだ
職場以外でも守るのね
一応、今も職務中


ホスト君は腕に持っているコンビニ袋を揺らした。
仕事に必要な物の買い出し中と言う事らしい。


そう
君には営業を掛けないけど、暇だったら店に遊びに来てよ
ねぇ、それを営業って言うんじゃないの?
名刺は渡さないって事だよ、君なら店と俺の名前と顔は直ぐに覚えられるでしょ
自分が格好いいから?それは自惚れじゃない?
君も俺と同じ様な仕事に就いているでしょ?、
だから君も人の事を覚えるのは得意、はずれた?


彼から見ても僕は夜の街で働いている女に見える様だ。
女性の場合、昼間の勤め人と夜の人間を分けるのは外見より雰囲気だ。
普通の会社勤めの人だって、キャバクラ嬢よりも着飾る人間はいる。
もちろん、明らかに水商売向けのスーツやドレスもあるけれど。
衣装の様な物で、出勤着は各人の好みだ。
普通の服が好みの娘は店の外では普通の格好という訳。
僕が着ているのは普通よりも少しだけ色が目立つスーツ。
夜の繁華街で女1人で行動し易い服装。
水商売と見られた方が良いと言う訳。
ナンパもされないし、歩いていてスカウトもされない。
既に店で働いている娘を他の店に誘う事は引き抜きだ。
引き抜きはあまり良いとはされていない行為だからね。
風俗、AVのスカウトも夜にはあまりいない。
特に夜働く女性の出勤中や勤務中に誘う者は少ない。
彼女達は忙しいのだから。
更に機嫌が良い様子だとより声を掛けられない。
いま僕が機嫌が良い振りをしていたのも、
余計な声を掛けられない為だ。
ナンパやスカウトが誘惑を仕掛ける相手は決まっている。
機嫌が悪かったり、
悲しかったりして落ち込んでいたりする女達だ。
誘惑は精神が不安定な相手にする方が成功率が高いという話を聞いた事がある。
だけれど、水商売や性風俗に勤める女性に声を掛ける者もいる。
例外という奴だね。例外とはホストの事。
彼らの客の大半は水商売や性風俗に勤める女性だからだという訳。


正解だけれど、職業を当てられても嬉しくはないわ
ふふふ、だよね、ごめん、店も俺の名前も教えるのもやめるよ
そういう手?そっちの方があなたに興味が出るものね
うわ、ばれますよねー
ばれてますね
じゃあバレたついでに、店はこの先のガウェイン名前はカズヤ
私、記憶力悪いから
いじめないでよ


彼が笑うので僕も釣られて笑った。
彼の整えられた眉毛が上がる。


まあこの程度なら楽しい会話もできるから
そう
仕事のストレス発散で良かったら遊びに来てよ
そうね


ホスト君が笑顔のまま去る。
スーツの背中に皺が付いているのが見えた。
店でソファに座っている時にでも付いたのだろう。
僕は思わず彼に注意をしたくなる。
生地を手で引っ張って皺を伸ばすくらいならばしてあげても良い気分。
いけない。彼の術中に陥っている。
楽しい気分だけならば男と遊ぶのもいいのだけれどね。
ただ楽しい気分だけで終われるかが問題。
楽しい勢いで一線を越えてしまうかもしれない。
一線と言うのは自分の心の動きの事、そして体の事。
守れないならば最初からつまらないままでもいいかとも思ってしまう。
不機嫌さ、つまらなさって時には防衛機能にもなるという訳。


タバコを吸い終えた所で携帯端末に「暖房器具」から連絡が入る。
「暖房器具」も「レッカー車」もまだ風俗店からは出て来ない。
彼の報告によれば「レッカー車」がそろそろ店から出て来るみたい。
「暖房器具」の仕事は正確だ。
人間としては自信家で少し気取っている所が鼻につくけれど、
人間性と仕事の評価は別にしないとね。
そろそろ40歳に近づいているけれども、
彼は体系にも気を使っているとは思う。努力と言うのは大事だな。
ともかく彼が特別に嫌な人ではないのという事は
同僚としてはありがたいものだ。
彼はどうやら店から動けない状態にあるらしい。
だから「レッカー車」を追跡するのが今からの私の仕事になる。


そして「レッカー車」が地下から出て来る。
階段を振り返って手を振っている。
相手をしてもらった女の子が彼の視線の先にいるのだろう。
彼が移動を開始。少しの間を置いて僕も移動を始める。
シガレットケースの中で空になったタバコの箱をゴミ箱に投げて入れた。
僕はコンビニを立ち去る。


「レッカー車」の後ろを歩く。離れて歩く。
暫くして周囲の雰囲気が段々と変っていく。
喧しさや、騒音と言った類いの空気。
風俗街を越えて、繁華街中心の大きな通りに辿り着いた。
大通りと言っても車の通行は禁止されいる。通りは人で溢れている。
きっと遊び人ばかりだ。
そして僕たちは人々の間を縫う様に進む。
「レッカー車」、僕、
酔った人々、或はこれらか酔うつもりの人々。
居酒屋の呼び込みが声を張り上げている。
ホスト達の外見が時と共に変化した様に居酒屋の呼び込みの子達も変った
精確に言うと、不良の若い男の子達が変化した。
少し前の彼らの体格はひょろ長く、髪も長く金色茶色だった。
だけれど、いま街の居酒屋の呼び込みをしているのは
筋肉質で黒髪が短い現代の不良達だ。
僕の目の前を歩くサラリーマンの集団に声を掛けた子。
彼は気温も低くなって来たというのに半袖て丸太の様な二の腕を晒している。
寒いのに馬鹿だなと思う。
けれど少しおかしくて彼らの様な若い子にも可愛げがある事を感じる。


サラリーマンたちは呼び込みの子に案内されて人波に消えていく。
そろそろ終電もなくなる時間だ。
東京の繁華街はどこでもそうだけれど、
終電がなくなる事で街は本当の姿を現す。
僕たちがいる繁華街は、電車がなくなると極端に交通手段がなくなる。
歩いて他の街に移動するのも遠いし、酔っていては車も運転できない。
残されたのはタクシーくらいという訳。陸の孤島と言う奴だね。
街からは誰も逃げられない。
だからぼったくりの飲食店も繁盛するというものだね。
僕だったら、ぼったくりにあったら交番に行く事を進めるけれどね。
陸の孤島の中心には交番がある。
いつでも数名の警察官が待機している。
女性警官も何時でも居る。
繁華街ならではだなと思う。
女がらみの犯罪や、或は女の犯罪者も多いという事だろうね。
女性をボディチェックするにしても女性警官が行う方が問題も少ないと言う訳。
ともかくぼったくりにあったら、店の責任者と共に交番に行く事を勧める。
提供されたサービスに対して支払える妥当な料金について
警官の目の前で話し合えば良い。
警官は民事不介入。
だけれど、脅迫も暴力もない安全な話し合いの場所ならば提供してくれるから。
ぼったくり防止条例という物もあるけれど、
条例違反を理由に警察が飲食業者を取り締まるのを僕は見た事が無い。
僕が今の仕事について覚えた事の1つだ。


「レッカー車」が通りを進む。
僕は引きずられていく。「暖房器具」から連絡。
服を変えてから尾行を開始するという。
私が前線で、「暖房器具」が私の後ろにつく形になるという事だ。
「レッカー車」が懐から何かを取り出して耳に当てる。
携帯端末を使って誰かと通話をしているらしい。
対象の人数が増えると面倒だなと思う。
増えれば増えるだけ、
僕たちが後を付けている事が認識される可能性も増える。
面倒くさい。そしてこのまま歩いていては「レッカー車」を追い越してしまう。
かといって道ばたに立っているのも不自然。なので僕は道の端に寄る。
壁にもたれ掛って誰かを待っている女を演じる。
「レッカー車」を視界の端にいれる。
何時の間にか、視界の端で目標を観察する事が得意になっていた。
得意になったのは今の仕事を始めてから。
初めは随分と苦労をしたけれどね。


視界の中央には見た事のある影が映っている。
道の向こう端。
優雅なスーツ。スーツの背に皺。
僕にライターを貸してくれたホスト君だ。
彼の目の前には若い女が居る。私よりはきっと若いはず。
女の子は泣いている。彼女のポーズはなんと言うのだろう。
片方の掌を口元に当てる。もう1つの手で手首を押さえる。
テレビでアイドルの娘が泣く時のポーズだ。
アイドルはマイクを持っているから分かる。
けれど、僕の眼に映る彼女はマイクは握っていない。
どちらにせよ、ポーズだ。ポーズとは演技の事を言う。
女の子の手を涙が伝う。涙が腕に流れる。涙が彼女の赤い上着に染みていく。
彼女が泣いて声を出す。しかも結構大きい声なんだ。目立つ事はやめて欲しい。
視界の端の「レッカー車」は電話に夢中らしい。彼女の事には気が付いてない。
よかった。僕は少しだけ安心する。
「レッカー車」の方までは女の子の声が届いていないのかもしれないけれど。
彼女は声を絞り出す。上手く聴き取れないけれど彼女は言っている。


やめてお店でもやさしいけど他の娘に優しくしているのを見るのは、
いやだし、だけど、あいたいし、
もうわかんないわかんない自分の事ととかわっかんない、
もう私に話かけないでいいから、なんで話しかけるの


ホスト君は地面に顔を向ける。何かをつぶやく。
反省か後悔の演技。あるいは懺悔。
女の子の頭を掌で撫でる。
それからコンビニの袋に手を入れる。
僕と話していた時に持っていた物だ。
彼が袋から何かを取り出す。良く見えない。
彼は彼女の額にキスをする。
女の子は口元の手を解いて彼に抱きつく。
彼の胸元に顔を沈める。涙が彼のシャツに染込む。
背に腕を回す。スーツの皺が増えていく。
ホスト君は彼女を抱き締め返す。
彼は微笑んでいる。なんだろうこの場面は。
僕は彼の事を見る。
ホストの仕事は店の外でも続いているのだなと思う。
仕事をすると言う事は、職務に対する義務と演技が生ずるものなのだろう。
当り前の事なのだけれど。
それにしても見事な立ち振る舞いだった。
ホスト君が僕の視線に気が付いた。
僕は皮肉な顔をすれば良いのか。
それとも拍手をすれば良いのか。
両方をしたい心境。
僕の複雑な顔を見ても彼は微笑みを崩さない。
彼女を抱き締めていた手を片方だけ離す。
僕に向けて親指を上げる。
サムズアップ。グッド。
ホスト君は再び女の子を抱き締める。
僕の心はゲンナリした気持ちと彼を褒めたい気持ちに二分する。
視界の端の「レッカー車」が移動した。
ちょうど良かった僕は仕事中なんだ。
僕は彼になおざりに手を振った。
壁から離れて歩き出す。仕事に集中しないといけない。


「レッカー車」は大通りからホストクラブが乱立する通りに進んでいく。
建ち並ぶ店や看板のネオンが目に眩しい。
キャラバクラよりもホストクラブの方がきらびやかで明るい。
男と女の分かり易い差だ。
ホスト達が道に立っている。
色々な種類の男たちだ。
優男、強面、アイドル風、アスリート風、
ハーフ、黒人、アジア人、短髪、長髪、眼鏡。
僕が彼らに声を掛けられても
「レッカー車」には気が付かれない様にしなくては。
だから彼からの距離を更に空ける。


「レッカー車」はホスト街を進む。僕は後を付ける。
彼の横を男性が通り過ぎる。更に男性は僕が居る方に向かって来る。
中年を少し通り過ぎた年齢のサラリーマンだ。
よれたスーツを着てよれた足取りで道を進んでいる。
酔っぱらって街を歩いて、ホスト達の中に迷い込んだみたい。
街並に驚いた様な自分を卑下した様な半端な笑みを口元に浮かべている。
彼は一瞬、不機嫌そうな顔にもなる。あるいはホストを馬鹿にしているのかも。
彼の様な男性を見ていると僕の父親を思い出す。
思い出す事は嫌な気持ちでもないけれど、良い気持ちでもないよ。
僕の父は家では大抵酔っていて不機嫌な事が多くて、
だけれど良く微笑んでもいた様な気がする。
僕には最後まで彼の心が分らなかった。
どうにも、僕は父の事を考えるのは苦手だ。
まだ母親の事を考え方が得意と言う訳。
彼女に対してなら褒める言葉は幾つも浮かぶ。
もちろん、当り前だけれど、悪口は3倍は思い付くけれどね。
だから僕は今より若い頃、
自分の結婚の事を真剣に考える事はできなかった。
家庭を持つ事が嫌だったからだ。ところが最近は僕の考えが変って来た。
結婚する機会をくれるならばしてあげても良いかもと思う様になったんだよ。
他人が聞いたら僕の考えは偉ぶった人間の言葉だと思うだろうね。
でも決して男性を見下げている訳ではないんだ。
ただ、老後まで1人で暮らしている将来が、
なんとなく現実的に思えてきたというだけ。


男性は酔っぱらっているから、ゆっくりとしか歩けない。
僕は彼とぶつからない様にして横を通り過ぎる。
彼の乱れた襟元が目に付く。
白いワイシャツの襟が黒く汚れている。
ちゃんと洗濯をしてあげれば良いのに。
いま僕の家族は何をしているだろうか。
母と父は。


「レッカー車」は道を進み続けている。
だから僕は後を付けないといけない。
それが僕の仕事だから。


輝くネオン。視線。酔っぱらい。
ホスト。客の女。騒音。


僕は色々な男たちの間を歩いて行く。





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ホスト達が通りを闊歩する。
彼らの顔には自信と焦りと愛嬌と欺瞞と笑顔が張り付いている。
つまりどこにでもいる男たちと同じと言う訳。
みんな大変だという話でもあるけれどね。
「レッカー車」が通りを抜ける。
僕は彼の後を付ける。


彼と僕が辿り着いたのは裏通りだ。
正確に表現するならば大通から1つ通りを入った小さな場所だ。
大通りとホスト街に囲まれて存在している。
大通りにはチェーン店ばかりがある。
チェーン店が複数入るビルがひしめいている。
一方の裏通り。
裏通りには個人経営の飲み屋や飲食店が軒を連ねている。
表が居酒屋、コンビニ、ダイニングキッチン、ファストフード、
カフェ、ファミリーレストラン
裏がスナック、バー、定食屋、小料理屋、喫茶店、レストランだ。
店の種類が種類だから真夜中でも人通りは多い。
道の幅が狭い分だけ、表通りよりも混雑している様な印象を受ける。
飲食店以外にも店はあるよ。
表がカラオケ、映画館、ゲームセンター、雑貨屋、服屋、デパート。
裏は違法DVD販売店ハーブ屋雀荘、小さなダンスクラブだ。
だから真夜中でも人通りは多い。


表通りの呼び込みが日本人の若者だ。
裏通りだと呼び込みは外国人になる。
悪そうな、ベトナム人、黒人、アメリカ人、トルコ人
中国人、メキシコ人、ロシア人、インド人、中東の人間。
全員、男性だ。
街には女性の呼び込みだって存在はしている。
だけれど、いま僕が歩く通りには居ない。
繁華街においての通りとは、仕切り板の様な物だというわけ。
呼び込みの女性たちは彼女たちなりの商品を客に販売している。
だけれど「レッカー車」と僕が歩く道。
そして多くの悪そうな外国人達と
悪そうな日本人が歩く通りでは彼女達の商売は許可されてないというわけ。
では、誰が商売の許可を出しているのか?
というと少々ややこしい話になってくるのだけれどね。
ともかく、どのような場所にもどのような商売にも規律はあるという話だね。


裏通りを進む。
夜とネオンと喧噪が柔らかく混ざっている。
人々が出す熱気で空気は生温い。
僕は外国人達の間をすり抜ける。
見覚えのある顔もいる。
南米人の男が僕に小さい会釈をする。
声はかけて来ない。
礼儀か気の効いた挨拶のつもりなのだろうけれど。
だけれど、僕には迷惑な行為。
だって僕はいま職務中なのだからね。
つまり、彼は以前、僕の客だったというわけ。
夜の街で交わされる小さな会釈は秘密の共有を表現している。
勘の良い人間が見たら、僕が今夜している事を察するかも。
だから職務中に向けられる会釈は迷惑な行為なんだ。
僕は想像する。
僕が順調に商売を続けた結果、
知り合いが増えすぎて商売ができなくなるという事体になったらどうしよう。
マヌケで笑える。


でも南米人の彼ももうすぐ街から居なくなる。
人の入れ替わりが激しいのが繁華街の特徴だ。
特に、東京の中心にある繁華街となれば尚更のこと人の出入りは激しい。
出入りが激しいと言う事は、人の集団化があまりされないという事。
集団化があまりされていないという事は集団間の区切りが曖昧であるという事。
だから集団同士の対立もあまりない事を意味しているという事。
なので僕や「暖房器具」の様な仕事が成立している部分がある。
僕たちの仕事は人間関係や集団間の隙間で蠢く産業なんだ。
産業と言う程度には人間社会に必要とされている仕事だろうとは思っている。
社会に必要とされているのに、不法は事をしているのは不思議な気分。
法律から少々逸脱する事を引き受けているから、
必要とされているのかもしれないけれどね。


僕が歩く繁華街はどこかの国の繁華街と似ている。
どこの国も繁華街も大体が同じと言うわけ。
当たり前の様にチャイナタウンがあってリトルコリアが佇んでいる。
黒人達のネットワークがある。
キリスト教ユダヤ教イスラム教の教会は信仰の場だけではなく
異国においては集会場になる。情報交換、生活の悩み、相談。
トルコ料理屋やインド料理屋では終業後に仲間達が集まる場所になる。
中華料理屋の厨房の奥には秘密の客室があって、
同郷の人々が寛ぐ場所を提供する。
どこでも同じだ。
ロサンゼルスでも大阪でもブルネイでもマドリードでもバーミンガムでも
ロッテルダムでもカラカスでもリマでも同じ。


人の入れ替わりが激しい歓楽街の中でも
特に入れ替わりが激しいのが外国人だ。
彼らは様々な理由で日本にやって来る。
歓楽街に居着く。なんらかの理由で街から居なくなる。
歓楽街での職業が無くなったから去り、
あるいは職業を続ける為に歓楽街を去る。
滞在ビザが切れる。ビザがとっくの昔に切れていた事がバレる。
始めからピザなど持っていない者もいる。警察に連行される。
犯罪に巻き込まれる。または犯罪を行う。逃げるために街から去る
東京に居る必要がなくなる。東京よりも暮らすのに適した国を見つける。
何にせよ、東京の繁華街では彼らの滞在期間は短い。
東京で暮らす彼らは1つの宿に長居しすぎた旅人だ。
居着いた様に見えても、
旅人は何時かは宿を去らなくてはいけない時が来ると言う話し。
旅人は理由があって旅をしている。
旅が目的地の無い放浪であってもね。
目的地が無くても、
旅立つ理由には事欠かないのが人間だらかね。


繁華街では特定の地域や国の人々が急に増える時期がある。
街の一角が中国人だらけになったり、イラク人だらけになったり、
アフリカ系アメリカ人またはアフリカ人だらけになったりする。
してきたのが東京の繁華街だ。
現在はベトナムからやって来る人々がとても増えている。
旅には理由がある。
だから、新聞を読まなくても繁華街に居る外国人達の事を良く観れば
世界的な情勢も分かるんだ。
当り前だけれど、彼らは理由があって日本にいるのだから。
後は理由を考えてみれば良いというわけ。


何にせよ、客が増える事は良い事だと思う。
多くの日本人は様々な国からきた様々な外国人達に
様々なイメージを持っている。
イメージとやらが真実なのか偏見なのかは判らない。
僕にはどうでもいい事なのだし。
何せ、僕と彼らの関係は固定されている。
彼らは会社に仕事を依頼したお客さん。
僕は会社の従業員。
イメージが浮かぶ前に、僕にとっては彼らは生身のお客さんなんだ。
つまり個人という事。
僕は政治に詳しくないし、
日本人が持つ外国人へのイメージにも詳しくないけれど、
お客さん個人の事ならば少しだけ詳しいというわけ。


「レッカー者」は調子の良さそうに道を歩き続ける。
性欲を解消して足取りも軽いと言う事かしらと僕は考える。
でも僕が今までに寝てきた男たちはみんな
セックスの後には気怠そうにしていたけれどね。
例外なくというのが面白い所。
彼は違うのかな?どうかな?彼も例外ではないのならば、
この後、何処かで休憩を取りたいと思うはずだけれど。
茶店、飲食店、或はBarでね。
僕は彼の後を尾ける。
繁華街を歩く何処にでもいる女性を演じながら。
途中でベトナム人とすれ違う。
僕が始めて担当した仕事。依頼主は日本人だった。
次も日本人。3件目がベトナム人だった。
僕にとって始めての外国人依頼主。
こうしてふと彼の事を思い出す事がある。


当時の僕は依頼主との打ち合わせにも緊張していた。
今だって初顔合わせでは緊張はするけれどね。
当時の方が酷かったと言う事。
依頼主のベトナム人は日本語を話す。
あまり上手くはないけれど、下手でもないよ。


彼はベトナム人の映画監督。
彼曰く比較的マイナーな部類の作品を制作しているのだそうな。
だから資金繰りに困るとも言っていた。
次が彼の3作目の作品。
3作目では舞台の一部を日本にしたいという事だった。
僕の仕事は旅行ガイドブックに載っていない日本を彼に観せる事だ。
監督は日本に詳しくなって、自身の作品に活かしたいというわけ。
不倫の現場を撮影する仕事でもなくて、
横領の証拠を掴む仕事でもなくて、
観光ガイドの仕事する事になるなんて、
僕は考えた事がなかった。
確かに外国人より僕たちの様な職業に就いている人間の方が街には詳しい。
街では、外国人だけで行動するより、日本人と一緒に居た方が安全だ。
安全だし、色々な所に行ける。
僕たちに観光ガイドの仕事が持ち込まれるとき、理由は大抵同じだ。
金で安全を買うという事。
日本人よりも、外国から日本に来た彼らの方が、
自分が支払った金と安全の関係については心得ている。
彼らは言う、警察だって金で動くと。
もし日本における外国人の社会地位が今よりも向上したら、
もし外国人のコミュニティが今より大きかったら、
僕たちにガイドの仕事が持ち込まれる機会は今より大分少なかっただろうね。
頼るべき人が居ない人間に手を差し伸べて、
金銭と引き換えに助けを提供するのが僕たちなのだから。


—しかしなんで日本を舞台にしようと思ったの?
ベトナム人映画監督と僕の初顔合わせ。まず僕が訊いた疑問。
彼は眼鏡を手に持っている。慣れた手つきでレンズの汚れをティッシュで拭く。
僕の疑問に答える。眼鏡を顔に掛け直して彼は語り始めた。


眼鏡を掛けてるベトナム人は珍しいでしょ?、
私は本、次にパソコンの画面とにらみ合う生活をしていたので、
視力が悪くなってしまって、
日本の眼鏡は頑丈でレンズの歪みも少ない、優秀ですね、
フレームもレンズもすばらしいです、
いま私が掛けている眼鏡も日本製なんですよ、
福岡県の鯖江という場所で作られた物です、
私が始めて日本の眼鏡を手に入れたのは留学生時代、
ベトナムの大学に通っていた私は1年間日本に留学していたんですよ、
日本では勉強と仕事で忙しくて遊ぶ暇もなかったけど、
だから生活圏はとても狭かったですね、
おかげで日本語には詳しくなりましたけど、
滞在中に漫画と石井輝男監督の映画にハマったんです、
ベトナムに帰国して大学を卒業しました、
私は電子機器の会社に就職しました、
携帯電話に使う部品を日本やアメリカに輸出している会社です、
部品の多くがベトナムで作られているんですよ、
まあ外国資本によって作られた会社なんですが、
何度か出張でアメリカやシンガポールには行きました、
仕事は仕事で楽しかったですね、
だから当時は自分が映画を撮る事になるなんて思わなかったですよ、
ここから話は少し複雑になります、
仕事に慣れて来た頃、私は女性と交際を始めました、
日本人の女性です、
留学で覚えた日本語が彼女と仲良くなるのに大分役に立ちました、
彼女は家具や材料を販売する日本の企業に勤めていました、
ベトナム支社のオフィスで働いていたんですね、
彼女が勤める会社はベトナムでは天然のオークを使った椅子や棚を作り、
ダナンで取れる大理石などと共に外国に輸出していました。
彼女は学生時代にベトナムへの留学経験があったんです、
私とは逆ですね、
縁の様なものを感じました、運命と言うものです、
付き合ってしばらくは楽しかったですね、
でも彼女との別れはやってきました、
ある夜の事です、私は彼女の家を尋ねました、
その日、私は残業をする予定で、
自宅にも帰れないはずだったんですがね、
私が関わっている仕事が全て順調に片付いたのです、
非常に珍しい事です、
気分が良い私は彼女に会いに行きました、
ありがちな話だとは思うのですが、
私は彼女の自宅で、
彼女が他の男とセックスをしているのを目撃してしまったのです、
仕事は上手く行っていたのに、恋愛では大惨敗、
人生上手くいかないものですね、
喧嘩を通り越して乱闘が始まりました、
そして別れがやってきたという訳です、
彼女と別れた後の私は随分と荒れました、
彼女の事は恨みましたよ、
正直に言うと当時の私は彼女を殺す事ばかり想像していました、
見兼ねた友人が私にアドバイスをくれました、
怒りを何らかの形で表現した方が良いとね、
表現と言っても彼女に抗議をする事ではなくて
絵や小説、音楽なんかで自分の気持ちを表現をする事で、
心の中のわだかまりを無くすという事です、
結局、私は映画を撮る事にしました、
映画が大好きで、、
私にとっては音楽よりも身近なものだったのです、
都合の良い事にアドバイスをくれた友人が国営テレビ局で働いていたんです、
だから払い下げのデジタルビデオカメラを格安で手に入れる事が出来ました、
1人で持ち運べる大きさのビデオカメラです、
旧型の物だったので随分と重かったですけれどね、
私は毎日の仕事を終えると素早く家に戻って、
カメラを持ち出して実験と称して色々と撮影しました、
友人と一緒にカメラの使い方を研究したのです、
彼はテレビ局で働いていたけれど広報の仕事を担当していたんです、
だから手探りでの映画作りでした、
ああして、こうして、カメラの事を覚えて行きました、
カメラの使い方が分かると次は脚本作りです、
専門的な本を読んで映画用の脚本の作り方を学びました、
映画の脚本は少しだけ特殊です、小説とは違います、
脚本の1ページが映画の上映時間では1分になるように書くのです、
128ページの脚本なら、映画の上映時間は128分になるという事ですね、
脚本の初項は140ページでした、
友人と相談して無駄な所を削ったら93ページになりました、
スリムで展開もスマートな脚本ができました、
でも物語の内容は、ほんと、酷いものでした、
過去の事とはいえ、あなたに言うのも恥ずかしい程です、
過去の事だから恥ずかしいのかもしれませんけどね、
脚本の内容は初め、
ベトナム人の青年が交際していた日本人女性に浮気をされて、
彼女をめっちゃくちゃな方法で殺害するというものでした、
そうです、映画の主人公は当時の私自身でした、
低俗なスプラッターにすら及んでいない酷い内容です、
書いている時は気分が爽快で、書き終わると満足感もありましたけれどね、
ともかく脚本は完成しました、
そして撮影の開始です、
ですが内容が内容なので俳優がなかなか決まりません、
特に主人公に殺される事になる日本人女性を演じる女優は決まりませんでした、
また制作資金の不足も問題になりました、
カンパしてくれた知人友人もいたのですが、
それだけでは映画を作るのに必要な費用に全然足りません、
スポンサーが必要でした、ところが物語の内容がひどいものだったので
様々な企業に売り込みを掛けても色よい返事はもらえませんでした、
私たちが映画製作の素人だと言う事も大きな影響があったでしょうね、
映画学校すら出ていなかったのですから、
当時は随分と悩みました、お陰で彼女に対する怒りも随分と鎮まりましたが、
彼女の事を恨んでいる暇もなかったのです、
だから映画を撮る事を勧めてくれた友人には感謝ですね、
更に製作に協力までしてくれていたんですから、
今では彼は助手というかプロデューサーとして、
私たちの映画の為に働いてくれています、
さて、映画製作に行き詰まっていた頃、
私はあるレストランで彼女と再開しました、
浮気した彼女にです、突然の再開です、
しかも彼女の隣には男がいました、2人はとても親しげです、
別れた当初は再開する所ばかりを想像していました、
今度会ったらあの浮気女をなんて罵ってやろうか、
どう殺してやろうとばかり考えていたのです、
実際には再開する事が恐かったのですけれどね、
その時に自分が本当にはどうなるか分らなかったから、
しかし運命というやつはいたずらな物です、
当時の私は映画製作の困難を解決する事ばかりに心が奪われていて、
彼女と再会する時の事は想像すらしていなかったのですから、
だけれど、運命というものは、
適切な機会を見計らってやってくるものだとも理解しました、
彼女を目撃した私はとても落ち着いた気持ちになれたのです、
彼女の隣に男が居てもね、
ずっと考えていたんです、彼女と私の事を、
彼女と付き合っている当時は、
仕事が忙しくて2人の時間もなかなか取れずに居た事、
約束も何度かやぶりました、喧嘩も多かったと思います、
とはいえ浮気は許される事ではないとは思っていますけれど、
でも、そういうことです、
私と彼女、2人の間には色々あったと思う様になったんです、
彼女と偶然再会した時に一瞬でその思いを強めました、
色々あって2人は別れたと納得したんです、
だからなのかとても穏やかな気持ちで彼女と話す事が出来ました、
彼女は隣の男の事を彼氏だと紹介しました、
それから彼女は私に近況を尋ねました、
私は映画を撮っていると答えました、脚本はできているのだけれどねと、
彼女は脚本を読んでみたいと言いだしたんです、
私は承諾しました。だけれど脚本は自宅に置いてあります、
だから1週間後に同じレストランで会う事になりました、
一週間後に脚本を見せると約束をしたんです、
勿論、彼氏も一緒にですね、
帰宅してから脚本を読み直しました、それから書き直し始めたんです、
自分が何を表現しようとしているかを理解したんです、
表現しようとしているものは、個人の憤怒と孤独感でした、
真実の怒りではありましたが、矮小な物だとも感じたんです、
こんな脚本を彼女に見せる事は出来ないと思いました、
自分の事を情けないと感じたんですよ、みっともないと、
書き直した脚本は主人公の青年が別れた彼女を許す話になりました、
1人でのたうち回って怒りと孤独で苦しんで、
1人で勝手に彼女を許して納得する話です、
1週間後、脚本を観た時の彼女の表情を今でも覚えています、
明るい顔を浮かべてくれたんですよ、
何かを作って表現して人に見せるという事の意味を、
あの時に理解したと思っています、
彼女はこの脚本なら良い映画になると言ってくれたんです、
それから私は彼女達に映画製作で直面している困難を打ち明けました、
実は完成したあの映画のヒロインを演じた日本人の女性は
彼女の知人の妹なんです、彼女が紹介してくれたんですよ、
後はトントン拍子でした、
ヒロインを演じる俳優が決まった私たちは自分の貯金をつぎ込んで
パイロット版を作りました、
パイロット版は出来が良かったのでスポンサーがつきました、
あの映画にやたら若者向けの低価格スポーツカーが出てくるのは、
スポンサーが自動車メーカーだからです、
青年の悩みを表現した映画と
青年たちに低価格スポーツカーを売りたいメーカーの思惑が一致したんですね、
映画製作中に彼女と何回か会いました、
だけれど恋愛が再開する事はありませんでした、
私たちは感じていたんです、
2人の恋心を繋いでいた線がキッパリと切れた事を、
恋愛はやはり運命によって始まるのだと思います、
2人が一緒になって生きていく運命はもうありません、
だけれど知人と知人としては過ごす事ができました、
映画は評判を呼びました、友人と彼女のお陰ですね、
2作目も好評で、今回が3作目、
予算は前2作より上がったんです、
だから日本を舞台にする事が現実味を帯びて来ました、
全編海外ロケにする予算はありませんけれどね、
これで日本を舞台にしたいという私の気持ちを、
少しでも理解して頂けたのではないかと思います
いつかは網走番外地の様な映画を撮りたいですね、
それと俳優の高倉健さんに私の映画に出演してもらいたいです、
私の夢です、
今回日本を舞台にするのは夢の為の第一歩です


僕は彼をつれて3日の間、繁華街を歩き回った。
彼の希望通り映画は舞台の一部を日本にして制作された。
公開された映画の評判も良かったと記憶しているよ。


依頼主は僕たちに色々な事を話す。
仕事に必要ではない話の事だ。
外国人の依頼主は日本人の依頼主と比べると特に色々な事を話す。
相談できる人が居なくてうちに来るわけだから気持ちは分かる。
彼らにとって日本は外国だ。
外国では心の不満や不安を解消するのは難しいだろうというわけ。
ロスト・イン・トランスレーションだね。
日本で産まれて生きる僕たちだって、
日本に居ながらにして悩みは尽きないのに。


コートジボワール人の依頼を受けた事がある。
初老の男性。
黒い肌にベージュのスーツ、白いシャツとネクタイが良く似合っていた。
ネクタイは無地の赤色。赤と言うよりピンクに近い明るさ。
だけれどコメディアンの様なおかしな雰囲気は微塵も無い。
明るい色が彼をお洒落な紳士に見せている。
お洒落から少しばかり逸脱してお茶目な雰囲気もあるけれどね。
僕が出したドリップコーヒーを彼は微妙な顔をして見つめる。
—依頼内容を聞かせてください。
僕の事務的な質問。
彼はコーヒーを一口で飲み干す。
唇と舌を黒い湯気で湿らせる。
そして話を始めた。


私が生き延びてきた国、
コートジボワールには現在盛況なビジネスが3つある、
1つは武器の売買、
とはいっても別に立派な武器商人になって商売をしようという訳でない、
コートジボワールで軍事クーデターが起った事がある、
更に後、2つの内戦が起こった、
3つの争いが10年間の間に立て続けに起こったんだよ、
2度目の内戦はついこの間終わったばかりでね、
だから武器が至る所に拡散しているんだ、
現政府は拡散した武器の回収を急いでいる、
外国も金を出して協力している、
だけど回収が順調って訳じゃない、
順調じゃないのを良い事に拡散した武器をこっそりと集める、
武器が欲しい奴に売る、
軍隊や立派な組織だったら商人から武器を買えば良い、
だがアフリカに居るのは立派な組織ばかりではないからね、
買い手は沢山いるよ、
アフリカの各地には、
300人程度の兵士が居れば転覆する事のできる政府が結構あるからね、
これがいわゆる武器の拡散という奴だ、
有名な所ではリビアだ、
カダフィ政権崩壊後、彼らが溜め込んでいた武器が周辺国に流れてね、
厄介な事になっているのはあなたもニュースで知っているはずだよ、
リビアコートジボワールは離れている、
リビアはアフリカ大陸の北部、地中海に面していて、
コートジボワールは西海岸、大西洋に面してる、
地理的に離れているから、商売ができる、
遠いリビアから武器を買うより、
近くのコートジボワールという事だよ、
2つ目は紛争ダイヤモンド、
紛争ダイヤモンドが何かは知っているね?、
独裁者やテロ組織が有する鉱山から採れたダイヤモンドの事だ、
少年少女が強制的に労働させられている、
ダイヤモンドを売って儲けた金は組織の物になる、
だから欧米各国は紛争ダイヤモンドの持ち込みを禁止している、
金がなくっちゃやっていけないのはどの世界も同じだからね、
金策が上手く行かなくなれば、組織も上手く行かなくなる、
だから取り締まる、
コートジボワールにも鉱山はある、
だがダイヤモンドの輸出は禁止されている、
今の政府が欧州に相手に対しては真面目な態度で接しているから、
そろそろ輸出禁止は解除されるだろうけれどね、
未だそれは叶わずさ、
ともかくダイヤモンドの需要はあると言う事だよ、
紛争ダイヤモンドの場合は国外に持ち出す方法が問題になる、
禁止されている訳だから、
一番簡単なのはアフリカ各国の大使に任命される方法だ、
大使となれば手荷物検査は基本的に免除されるからね、
大使や外交官というのは政府の中でも重要な役割を果たす仕事だ、
有能な人間しか任命されない、
だけれど大金を払えば大使になれる国がある、
有能でなくても、外国人であってもね、
日本人のあなたは可笑しい話だと思うでしょう、
一般的な国は憲法や法律により国が形作られて、
役人が選ばれているからね、
だけれど憲法や法律から人が自由な国もある、
だから案の定、国の平穏は維持されていないのだけれどね、
まぁ、戦争中だって心を落ち着かす事が出来れば平穏ではあるけれど、
穏やかな天候の中、澄み渡った海を眺めて心落ち着く人間も居れば、
砲弾の嵐と断末魔の中で心が安らぐ人間もいるんだよ、
少し話しが逸れたね、
ともかく大使の権利は金で買える、
役人が私腹を肥やす為の手段の1つだよ、
次は権利を買った奴が自分の財産を増やす番、
リビア辺りに地獄の三角地帯と呼ばれる場所があってね、
大きな鉱山がある、
だけれど諸処の組織の争いや国連平和維持軍の監視が厳しくてね、
御互いが牽制し合って安易に出入りできない、
だから三角地帯と呼ばれているし、
上手く入り込めれば各組織から、
紛争ダイヤモンドを購入できる機会がある訳だ、
さて、先程言ったとおりコートジボワールにも鉱山はあるんだ、
どこにでもチャンスはあるという話だね、
最後の3つ目が一般的な貿易、比較的まともなビジネス、
コートジボワールが輸出しているのは3つ、
天然ゴム、石油、
そして稼ぎ頭のカカオとコーヒー豆、
私はビジネスで資産を殖やしてきた訳だが
日本人には3つめの貿易で稼いだと思われている方が都合が良さそうだ、
だから私の事はカカオ農場の農場主と思ってくれて良い、
つまり依頼の内容は経済が絡んだ話という事だ、
ご覧の通り私も年でね、
年を取るという事は難しいよ、
年を取り老いても尚、
人生に潜むわだかまりに自ら采配を振るおうとする者もいる、
だが私は煩いや務めを老いた肩から下ろしたいと思った、
次の世を若い世代に委ねて、自らの身を軽くしようと思った、
私には3人の子供が居る、他にも居たのだが今は居ない、
生き残った3人は全員女性だ、3人の娘だ、
しかも3人が同じ時期に結婚した、
いい時期だと思った、
私は財産の殆どをかなぐり捨てる事にした、
財産を3つに分けて化粧料として娘に与えたのだ、
夫と娘、私の家族たちが私が譲った財と共に繁栄すればいい、
財産の分与は簡単に済んだ、
私には前々から考えがあったのだ、
考えというよりは気分と呼んだ方が良い事に今になって気が付いたがね、
長女と次女はつね日頃から私を讃え頼りにしてくれた、
一方末娘は言葉も少なく私に頼ろうとしない、
財産分与の話をした時もそうだった、
上2人の娘は私に感謝を述べて一族の繁栄を約束した、
だが末娘は喜びもしない、財の分与にすら反対した、
常日頃の態度といい親の心を知らない、なんと親不孝な娘なのだろうか、
私は彼女に財産を分け与えない事を表明して、更に勘当を言い渡した、
私は彼女の事を心の読めない娘、
父親の私ですら理解できない娘だと思っていた、
本当に心が分かっていなかったのは長女と次女の方だったのだが、
あの時の私は舌より重い愛情がある事を考えもしなかった、
長女と次女の賛美に心が舞う中では、
簡単に言葉に乗せる事のできない思いと感情がある事を、
どうやって知る事が出来ただろうか?、
財産の分野が済んだ長女と次女は、
やがてその夫たちと結託して私を商売から追い出した、
更にコートジボワールからも居場所を無くした、
今では彼女たちの気持ちが私にも分かる、
長く権力の座に付いていた者からは聖水で体を洗えど抜けぬ臭みがある、
娘たちは私の気まぐれ、思いつきを恐れたのだ、
雨期に起こる洪水は地形すら変えてしまう、
気まぐれも同じ様なものだ、人生と言う地形を変えてしまう事がある、
生活を奪われる事を娘たちは恐れたのだ、
私は国を追い出されアフリカの荒野を彷徨った、
伝手を辿り住居を得て僅かな財産を取り戻した、
追放されてから8年後の出来事だよ、
長女と次女との関係は完璧に切れていた、
いまならばあの女たちを他人と思い、
奴らの胸をナイフで切り裂く事もできるだろう、
だが私には宝が残されている、
枯れた湖であっても底に水たまりが残り、
小魚が泳ぎ周囲には花が咲く事はある、
私は末娘が海外に居る事を知ったのだ、
末娘こそが私に残された最後の宝だ、
軽い舌よりも重い思いを持つ私の娘、
彼女たち夫婦は初めカナダに、
次はフランスで暮らした居たようだ、
私がアフリカの荒野を彷徨った様に、
私の娘は世界を彷徨ったのだ、
現在は日本に居る、貿易会社を経営している、
会社の住所は分かった、
先日尋ねてみると住所と電話番号を借りていただけだった、
さて、ここからが依頼の話だよ、
少しばかり興奮してしまったね、
もう分かっていると思うけれど、
つまり依頼とは、娘夫婦の居場所を見つけて欲しいという事だ、
娘に再会して彼女の精神を讃えたい、
荒野を彷徨い、財産を巡る闘争をした事で私も成長した、
私はもう人の心を知らない老いた王ではない、
いくつか新たに知った真実もある、
十分な知恵が付かないうちは年を取ってはいけないのだ


僕たちは彼の依頼を受けた。
末娘夫婦の居場所を見つけて彼に報告した。
そして数日後彼の遺体が発見されたんだよ。
娘夫婦は姿を消した。
テレビのワイドショーを騒がせる事件ではなかった。
だが僕たちには厄介な出来事だった。
僕たちは事件の重要な参考人になったんだ。
普段ならなかなかお目に掛からない部署の警官とも関わりを持った。
公安や組織犯罪対策第二課の警官たち。
二課は警視庁組織犯罪対策部内に設置されている。
国際的な組織犯罪を担当しているんだ。
でも結局事件の真相は未だに闇の奧。


僕たちは仕事をして行く中で、様々な人と関わり合いになる。
居場所も生きて来た年数も性別も趣向も趣味も
哲学も今日食べた朝食も違う人々。
僕は彼らの話を聞く。あるいは職務中、彼らの話が耳に話が入って来る。
依頼人との会話、路上の雑音、飲食店の客たちによる雑談。
日本を含む世界中で生まれて、現在は東京で生きる彼ら。
彼らの話には共通点がある。
世界中の人々を繋ぐ事柄だね。
人々を繋ぐのは経済と愛の話。
以前、アメリカ人からの依頼を引き受けた。
彼の話した物語は覚えている。
コートジボワールの初老の男性が語った人生には
愛と経済の話が紛れていた。
アメリカ人。自称経済アナリストの彼の話も似た様な物だった。
金色に染めた短髪。
髭は無精髭の様に見えても、実は整えられている。
日本人より毛深い彼らには毛繕いという文化が浸透している。
高くもなければ安くもない値段の紺色のジャケットとベージュのスラックス。
彼はハンドクリームを使っているらしい。
彼がジェスイチャーをする度に、
アバターのにおいが僕の元に漂って来る。
—経済アナリスト?
僕の質問に彼は笑う。
慣れた作られた笑顔。
彼は自分の職業について説明を始めた。



多くの専門家が遥か昔から予測していた、
ロシアに民間の石油会社が現れる事を、
そして大儲けをする事をね、
あの国は国名がまだソビエト連邦だった時代から、
世界最大級の油田を有していた、
当時は勿論、油田は国の物だったけどな、
それに元々はアゼルバイジャンの物だった、
ともかくとんでもなく巨大な油田でね、
ドイツのあのちょび髭も第2次大戦の最中に欲しがった程の物だよ、
ちょび髭はそれを行動に移した、
ちょび髭の計画したそのブラウ作戦は結果として失敗した、
ドイツもソ連の大都市スターリングラードに攻め入る事は出来たんだけどね、
ドイツは結果負けた、
ソ連の桁外れの国土と人口と資源、
そして偏り過ぎた重化学工業主義に負けたんだ、
そんな巨大油田を有しているのがロシアだ、
ロシアには他にもシベリア等の各地に油田があるしな、
さてでは、多くの専門家が遥か昔から予測していた、
ロシアに民間の石油会社が出来るまでを説明しようか、
ロシア人の大富豪が現れるまでには幾つかの段階があるという話さ、
第1段階、スターリンの死後に政権を握ったフルシチョフ
彼はスターリンを批判、独裁政権を否定した、
戦時体制から平時への移行って奴だな、
欧米諸国との歩みにより冷戦の雪解けムードが生まれた、
これは重要だったね、
なぜって商売をすると言う事は世界中の企業と手を組む事、
そして世界中の人々を相手に商品を売ると言う事だからだよ、
国が閉じていると商売の規模も儲けの総額も少ない、
日本の江戸時代みたいな物だね、
フルシチョフは良い判断をしたね、
もしソ連があのままだったら今頃は国としては存在していなかったかも、
とはいえフルシチョフキューバ危機を起しているのだから、
あまり褒められた物ではないけれどね、
第2段階、フルシチョフ失脚後のブレジネフ政権、
フルシチョフは独裁者のスターリンを否定した、
だがフルシチョフもやがて権力を自らに集中し始めた、
書記と首相を兼任したんだ、
父親を殺し母親を抱いたオイディプス王の昔話を思い起こさせる、
現在のロシアの王であるプーチンは首相と大統領を兼任していない、
権力の分散と掌握と言う視点で観ると、
プーチンフルシチョフより上手いね、
話をブレジネフ政権の戻そう、
彼らは社会主義国家下で運営される企業に対して、
改善を施した、
国有企業と企業が受け持つ業務の集中化、簡素化、一本化して
職種間、工程間、資材間の無駄を排除したんだ、、
簡単に言えば、国有企業を合併して生産効率を上げて、
もっと儲けを出しましょうという訳だな、
しかしなんでったって官僚というのは無闇矢鱈に副詞を使うかね、
若干の余地とか強い懸念とかさ、
数多の余地とか弱い懸念とかあるのかね?、
昔は言葉の裏を読み取るのも意義を感じたがね、
今では辟易しているんだよ、
話が逸れたね、
とにかく企業合併の結果、
ロシアに財閥が誕生したという事さ、
第3段階がゴルバチョフの時代、
彼が行ったのが政治や経済に対する抜本的な改革だ、
ゴルバチョフの改革ってのは手に負えない物を手放すという事だった、
無駄の削減だ、
財政の縮小、予算の削減、
削られる無駄の中には広大な国土も含まれた、
冷戦により積る軍事費も、
官僚的な政党であるソ連共産党も含まれた、
こうしてソ連は崩壊してロシア連邦が誕生した、
血を流し肉体を切り取った結果、
小回りが少しは効く様になった、
欧米諸国からは好意的に捉えられている改革だけれど、
当のロシア国民からしたら本当に血を垂れ流している思いだっただろうね、
第4段階がエリツィンの時代、
当時のロシア連邦の経済を引っ張ったのは、
ブルジネフの時代に誕生した財閥だ、
まあ、この次点での財閥は半国有企業といった感じだね、
この時代になって企業の自主性、自由が認められたんだ、
欧米の資本主義と闘う為にな、
急速に市場主義が取入れられた、
国営企業は組織そのまま民営化される事になる、
この時、政府の経済政策顧問に就いたのがゴールドマンサックスだった、
ご存知の通りゴールドマンサックスは米国の金融会社なんだよ、
ロシアはそれくらい急速に変ったって事さ、
国営企業の株を国民に配る、
バウチャー方式によって国営企業はそのまま民営化された、
バウチャー方式ってのは国民に平等に株を配る事だ、
簡単に言うとだけどね、
だが結局勝ち馬に乗ったのは財閥だった、
国民1人1人に配られた株は少ない、
なんせ1億4万人に株を配るんだ、
だから株を売っても儲けはでない、
持っていても配当金は少ない、
そこに目を付けたのが財閥だ、
半国営時代に金を貯えていた財閥は国民に配られた株を買い集める、
大量の株を手に入れた財閥は多くの企業を有する事になった、
財閥が更に巨大化したんだ、
巨大財閥の誕生という結果、ロシアの企業は民営化された、
民間企業の業績促進という名目の元に、
財閥に有利な法律が作られ、補助される、
だからロシア企業の実体は巨大な組織で、
法的にも人事面でも国営と民営との間を彷徨っている、
国営企業を指導していた役人がそのまま民間企業の社長になり、
個人的な金持ちが誕生したという事さ、
第5段階、最終段階、
最終段階がプーチンだ、
彼は政権を握ると巨大財閥に鉈を振るった、
法的に保護されていた財閥は腐敗していた、
よくある話だよな、
保護は跳躍と堕落を同時にもたらすもんだ、
プーチンは財閥が慢性的に行っていた横領や脱財を取り締まったんだ、
財閥の経営陣が逮捕され財産を差し押さえられた、
自殺した者もいる、
この手の話にはつき物で自殺ではなく暗殺という噂もあるけどね、
プーチンが行った財閥改革は、
腐敗した企業への断罪であると共に国内の権力操作でもあった、
プーチンが求める新しいロシアに同意する財閥だけが残された、
経済的な空白を埋める様に若い世代の経営者が現れた、
彼らこそがロシアに置ける真の民間企業の経営者と言えるのさ、
彼らは大抵が40代で、1代で財を成した人物だ、
民間巨大財閥の中で力を付けて退陣した経営陣の後釜に就いた者、
あるいは独立した者、または自ら企業を立ち上げた者たち、
株式により企業買収、提携、事業の発展、自己資産の増幅、
旧来の役人的な立ち場での企業との関わりでの、
経済的な成功と権力を手に入れた人々では無いと言う事だ、
ここまでは我々アナリストが予想していた事だ、
今までのどの段階でも先の事を予測できた、
まぁ頻繁にニュースを見ていれば学生でも分かる事だがね、
だが誰がロシアの富豪がロンドンのサッカーチームを買うと予想出来た?
それもチェルシーだぞ、
まったく、
100年以上続くフットボールクラブだってのに、
いやアメリカ人にだってフットボール好きはいるさ、
そりゃ今でもアメリカ国内でのフットボールの評価と言えば、
教育熱心な母親が娘にやらせるスポーツという見方は強いけれどね、
チェルシーを買ったアブラモビッチは石油王でね、
エネルギー産業といえばロシアの主要産業だ、
彼より以前の石油王は政府と揉めて逮捕されてしまってね、
彼は孤児だった、
勉学に励みビジネスを始めた、
若いアブラモビッチはロシアの新しい実業家として、
経済界とも政府とも上手くやっている、
デンマークの自転車ロードレースチームを買ったロシアの実業家もいる、
ジロやツールで好成績を収めるチームをだ、
チームを購入したティンコフは、
冷凍食品や電化製品販売の商売を始めて財を成した男だ、
まさに新しいロシアの実業家だ、
フットボールやロードレースというのはヨーロッパを代表するスポーツだ、
文化であり娯楽であり庶民のささやかな日常を支える精神的な支柱の1つだ、
それがロシア人の手に渡るなんてね、
アナリストは誰も予想はしていなかったよ、
プーチン政権になって財閥への締め付けは厳しくなった、
だから富豪の私財が海外に流れる事を予想する者はいた、
それがスポーツチームの買収という形で実現するなんて、
そして更に予想できない事が起こった、
チェルシーと同じロンドンのクラブをウスマノフを買った事だ、
アリシェル・ウスマノフはロシアのガスと鉄鋼事業で成功を収めた人物だ、
正に旧来的な財閥を代表する人物でね、
科学士官に成った後に行政の複数の委員会の重役を勤めた、
それから銀行の頭取になってバウチャー方式で株がバラまかれた際に、
株を買い集めて財閥の長に成った、
ちなみに奥さんは元新体操の選手だよ、
な?、
想像し易い旧来的なロシア人富豪だろう?、
ウスマノフはロンドンのフットボールクラブ、
アーセナルの株を多く取得した、今では実質的なオーナーさ、
アナリストは誰も予想していなかった出来事だよ、
若い世代が欧州のスポーツクラブを買う事も予想できなかったのに、
60歳のロシア人がクラブ買収に名乗りを上げるなんて誰も予想出来なかった、
たかがフットボールの話と思わないでくれ、
つまり俺が長々と話ししているのはね、
全て金の流れの話なんだ、
世界を巡る金の話さ、
アナリスト、専門家といは物事を観る視野が狭くていけないね、
ロシアの富豪たちについて語る事は幾らだってある、
プーチンが財閥に振るった大鉈、
その結果逮捕された社長は財団を起していた、
社長は財団の理事としてキッシンジャーロスチャイルドを迎えた、
キッシンジャーアメリカ人で、
ニクソンそしてフォードの国務長官として働いていた、
ロスチャイルドを説明する必要はないだろう、
更にこの社長はプーチンへの批判と野党への献金を行っていた、
彼が難局を切り抜け逮捕されずに、
企てた目論みが全て上手く行っていたら、
今頃はロシアもアメリカと腕を組んでいたかもしれない、
でも彼はいま亡命してドイツで暮らしている、
プーチンは彼の手には余った様だ、
ロシアの実業家とグルジアの実業家たちの関わりも怪しい、
例のウスマノフはロシアの新聞社を買収した事がある、
以前の持ち主はグルジア人だった、
更に以前の持ち主はロシア人のベレゾフスキーだ、
さっきプーチンが財閥に鉈を振るった話をしただろ?、
逃げた重役や自殺した奴も居たと、
彼こそが大鉈を振るわれて死んだ代表的人物でね、
ベレゾフスキーはロンドンに亡命してそこで死んだんだよ、
死因は自殺と発表されたけどな、
だけどベレゾフスキーの死の直前に、
ロシア人の男が彼に対する殺人未遂で逮捕された、
その容疑者はロシアに送り返された、
前年にはロンドンであのリトビネンコ暗殺事件は起こっていた、
分かるだろ?、
彼の死には色々な疑惑が盛りだくさんという事さ、
因にリドビネンコ殺害の容疑者アンドレイ・ルゴボイは
ベレゾフスキーと例のグルジア人がロシアで働いていた時の、
周辺警護、重要設備の安全対策を担当していた人物でね、
このグルジア人の名前はバドリ・パタルカツィシヴィリだ、
パタルカツィシヴィリはウェストハムを買おうとした事があってな、
もう分かるだろうけれど、
ウェストハムというのはロンドンのフットボールクラブの事だよ、
ともかく、ロンドンのフットボールクラブと金の流れは、
色々とキナ臭いという事さ、
しかしこうなるって誰が予想できた?、
専門家や分析官という肩書きを名乗っては居るけれど、
金の流れの具体的な所を分析できないのが我々アナリストなんだ、
これからのロシアについても一応の抽象的な予想はできる、
抽象的な予想はね、
アメリカはシュールオイルの生産量を増やし続けている、
アメリカのエネルギー産業に対する努力と野心の結果、
直ぐに世界中に原油が安価で行き渡る様になる、
そして今までオイルビジネスを支配していた中東勢は決定権を失う、
彼らは今までは何か問題があるごとに石油の生産量を減らしていた、
生産量を減らす理由は政治とか戦争とか災害とか経済とか色々だ、
彼らは原油の希少性を増やす事で価格の下落を留めていたんだ、
そうする事で世界中の原油価格をコントロールしていた、
ところが今回は生産量を減らせない、
生産量を減らして中東産の原油の価格を上げるとどうなるか、
米国の安価な原油に客を奪われる事になるだろうな、
逆を言えばアメリカも原油価格をコントロールできないと言う事でもあるよな、
そして米国と中東の我慢比べの始まりだ、
値下げ競争に発展するかもな、
そして原油の価格は下がり続ける、
ロシアは彼らの喧嘩に巻き込まれるだろう、
もちろんロシアも原油生産量を減らせない、
結果として多くの血を流すはずだ、
さっき言った通り、原油はロシアの主要産業だからね、
そして血と言うのはもちろんルーブルの事だよ、
この程度ならば我々も予想できる、
だけれど資産家個人の決定、具体的な金の流れは予想できない、
だから我々は小さな存在さ、
でも居ないよりは幾分マシだと思わないかい、
世界経済の動き方は怪物の様に激しく、
そのくせ先が見えない真っ暗闇、
光の無い洞窟の中に放たれた怪物、
僕たちは暴れる怪物に踏み潰されない様に洞窟の中を逃げ惑う人間だ、
なんとかして生き延びなきゃならない、
だからきっと、
暗闇の中では小さく朧げな一筋の光でも役には立つ、
利用しようとする意志さえあればね


彼が話を区切る。
僕は疲労感を覚える。
なんで僕は依頼人から依頼の内容を説明されるべき場所で、
ロシア経済に関する講義を受けているのだろうか?
僕が彼から聞きたいのはそんな話じゃないのに。
口から出そうになる溜め息を飲込む。
僕の仕事にはサービス業の側面もある。
依頼人を満足させるのが仕事だからね。
決まり切った仕事をしていれば良いという訳じゃないんだ。
どうすれば自分の不満が解消されるか分らない依頼人も多い。
依頼された浮気の証拠を掴んで提示した結果、
僕たちに対して激怒する依頼人も居る。
僕たちは彼らの不満を解消させないといけない。
彼らが自身でも良く分かっていない心の何かを
射抜かないといけない場合もある。
だから今は溜め息は吐き出せないという訳。
商売には笑顔が大切という話でもあるけれどね。
結局、彼の依頼は猫探しだった。
僕は思わず笑ってしまう。
彼は照れながら我々の仕事には癒しが必要なんだとつぶやいた。
彼曰く、猫と経済は似ている。
どこが似ているか僕には良く分からないけどね。
ともかく、彼が東京の自宅で飼っていた猫が消えてしまったらしい。
猫の名前はミアーズ。
「暖房器具」によればミアーズというのは、
チェルシーフットボールクラブの創設者の名前だという。
フットボール好きのアメリカ人。
経済評論家。
今は日本に住んでいる。
アメリカ人にも色々いるという話だね。
猫は見つける事ができた。依頼は達成。
少し前の話だよ。





猫探しは良くある依頼なんだ。
何せ日本にはペットが1600万匹もいると言われているからね。
犬と猫はペットの中でももっとも数が多い生き物だ。
だから彼らに関するトラブルも多いと言う訳。
犬猫探しを専門とする会社だってある。
まあ僕たちが業務委託されて実質的な調査を受け持つ事もあるのだけれど。
下請けはどの業界にもあるという話し。
地味で平凡な話。
でも僕たちが引き受けるの在り来たりな仕事ばかりではない。
時として変った依頼を受ける事もあるんだ。
街を案内するという行為はボディガード。
人や猫を探すのは現実的な行いだ。
だけど精神的な行いを求めれる時もある。
変な依頼だ。
依頼者が自分から変な依頼だと言ったのだから、
僕が変と言っても失礼ではないだろう。
依頼主はトルコ人の青年。
年齢は30歳。
髭と髪の毛が黒い。
痩身で黒いシャツを纏う。
神経質な雰囲気。
話の切り出し方を迷っている。曖昧な笑顔。
—変な、依頼ですか?
僕の質問に彼は追いつめられた表情で頷いた。


ええ、変です、
僕が変なのかも、
なんて、ふふふ、
これから話す事を、
あなたは奇妙に思うかもしれませんが、
けれど僕にとっては現実的な物事なんです、
僕はトルコの田舎に生まれたんです、
トルコは日本以上に国内経済の格差があって、
首都は発展しているのですけれどね、
だから若者を受け入れる余裕のある職場も少ない、
なので若者は、若者に限らないですけれど、
外国に出稼ぎに行きます、
ドイツに行く人も多いのですけれど、
僕の場合は叔父が日本で料理屋をやっていて、
クルバンバイラムの時に帰国した叔父に、
日本で働かないかと誘われたんです、
クルバンバイラムとは犠牲祭の事です、
日本には無いですよね、
欧米には謝肉祭があります、
イスラムでは犠牲祭です、
日本はクリスマスもハロウィンも祝うのに、
動物の肉に関する祭りが無いのは不思議です、
私は叔父の誘いを受けました、
日本に渡ってからしばらくの間は叔父の家に同居する予定でした、
ですが不可能になってしまったのです、
店はここから歩いて行ける場所にあるんですよ、
今日も歩いてきたんです、
良かったら来て下さい、サービスしますよ、
今の時期はラハナ・エトリ・カプスカや、
カリフラワーと挽肉を使った料理がおいしいです、
1つのビルに叔父の店と自宅が入っています、
小さなビルの1階が店舗で2階が自宅です、
3階にはエステサロンが入っていました、
そのエステサロンの漏水が原因で叔父の自宅が水浸しになってしまったのです、
日本に来て最初の日の出来事です、
水のせいで家具や電化製品は使い物にならなくなってしまいました、
床も腐ってしまいそうな有様です、
2階が盾となった事で1階の店が無事だったのは不幸中の幸いでしたね、
改装が終わり叔父宅が住める様になるまで、
僕は近所のホテルで寝泊まりする事になりました、
小さなビジネスホテルです、費用は叔父が出してくれました、
ホテルから店に通い働く事になりました、
叔父は数週間の辛抱だといいました、
そして初めての日本の夜を1人で過ごす事になりました、
明かりを消してベッドに潜っても眠れません、
叔父が辛抱という言葉を使ったのには理由があります、
僕が寂しがりやだからです、
特に日本は外国です、初日から孤独感に苦しめられました、
テレビをつけても慰めにはなりません、
映っている人の事も知らないし、流れて来る言葉の意味もわかりません、
テレビを消して、真っ暗な部屋の中、横になる、
目を瞑っていると光が見えました、
暗い部屋の中に小さな光が射している事に気づいたのです、
光線を辿るとベッド横の壁に辿り着きました、
壁には小さな穴が空いていたのです、
穴からはホテルの隣室の様子が見えました、
隣室にはスーツを着たサラリーマンがいました、
ベッドに腰掛けてテレビを見ています、
後ろ姿が見えたのです、
サラリーマンの手には缶ビールが握られていた事を今でもよく覚えています、
なんであんな穴があいていたのか僕には分かりません、
覗きです、
僕にはいけない事をしているという自覚がありました、
だけれど目が離せません、
彼が視ているテレビからは笑い声が聞こえてきます、
ですがサラリーマンは一切の声を出していません、
僕は10分ほどの間、動けませんでした、
彼も動きませんでした、
明るいテレビ、笑い声、無言の彼、無言の僕、
僕はベッドに戻りました、横になると今度は直ぐに眠る事ができました、
その日から、
仕事で疲れてホテルに帰ってから眠るまでの間、
隣室を除く事が僕の日課になりました、
馴れない仕事、異国の日本、孤独感、不安、
寝むれない夜、
だけれど穴から隣室を見ると安眠する事ができました、
隣室に居るのは毎日別の人です、
ビジネスホテルである事と、
場所柄から男性客が殆どでした、
たまに女性客も居ました、
誰の目も気にせずに裸になる彼女を見て、
僕は興奮して良いのか判らなくなり混乱しました、
1日だけ穴を覗いても誰も居ない日がありました、
真っ暗な空室があるだけです、
始めは隣人が部屋の電気を消して、
バスルームに入っているのだろうと思いました、
空室なのだと気が付いた時、
僕の鼓動は速くなり背中や腋や額に汗が滲み出ました、
視ても視ても穴の先には暗闇が広がっています、暗いんです、
その日は眠る事が出来ませんでした、
翌日、店で立ち眩みを起してしまいました、
叔父には随分と心配をかけてしまいました、
結局、早退したんです、
そんな日々は10日程続きました、
この時点でも変な話ですよね?、
ここから話は更におかしくなるんです、
ホテルに止まる最後の夜の話です、
叔父の家の改装が終わったので移る事になったんです、
明日からは穴を覗く事ができなくなる、
穴の向こうを覗けない生活が来る事に、
安堵していいのか悲しんでいいのか分らない心境でした、
最終日、穴の向こうには隣人が居ました、
僕は安心しましたね、
この間の様に暗闇が広がっていたらどうしようかと思ったんです、
最後の日、からっぽな空室を眺めるのはとても嫌でした、
隣人は1人ではなかったんです、
男女のカップルでした、
10日間の間で初めて遭遇しました、
女性の裸を覗いていた時の気持ちが蘇りました、
彼らが行為を始めたらどうしようかと思ったんです、
男が女に金を渡しているのを見ました、
コールガールと客だったんです、
その後、酷い事が起こりました、
男が裸のコールガールの上に覆い被さり、
首を絞め始めたんです、
あの時、僕は助けに入るべきだったのでしょうか?、
壁を叩くだけでも効果はあったかもしれません、
でも僕の体は動きませんでした、
恐怖と好奇心で2人から目を離せなかったんです、
女の抵抗も空しく彼女は息絶えました、
男は彼女をバスルームの方に運びました、
僕はベッドに入って震えました、
警察やホテルのフロントに知らせるべきです、
ですが当時の僕は日本語をろくに話せませんでした、
だから諦めた、勇気がなかったんです、
毛布に包まって震えました、
僕はそのまま眠れずに朝を迎えました、
勇気を振り絞って穴から隣室を覗くと部屋は既に引き払われた後でした、
男の影もありません、
僕は部屋を出て、隣室のベルを鳴らしました、
当然ながら反応はありません、
その日は店が休みでした、
僕はホテルを出た後、当たりをうろつく事にしました、
そのうち隣室に清掃が入るはずで、
その時に彼女の死体が見つかると思ったんです、
そうすれば大騒ぎになるでしょう?
ところがいつまでもたってもホテルに警察はやってきません、
夜まで待ってもです、
僕は訳がわからなくなりました、
翌日からは読めない日本語の新聞を買い漁りました、
僕が見た出来事が事件として載っていないかと思ったんです、
テレビのニュースも出来る限り見ました、
ところが事件の事は取り上げられていないようでした、
事件の事は何も分からぬまま、月日が過ぎて行きました、
今の僕は日本語をある程度読む事ができます、
なのでついこの前、図書館に行って当時の新聞を調べる事にしたんです、
ですが僕が求めている情報は一切ありませんでした、
ここに来て僕は自分の事を疑い始めています、
僕が見た出来事は現実に起こった出来事なんでしょうか?、
夢でも見ていたのでしょうか?幻覚だったのでしょうか?、
今でも夢に見るんです、
何も無い暗闇の部屋や、
絞殺の場面です、
依頼というのは僕が遭遇したこの出来事についてです、
あの事が本当にあった出来事なのか調べて欲しいんです、
正確には僕を納得させて欲しいんです、
実際に起こった出来事なのか?、
幻が僕に見せた事だったのか?、
どちらでもいいので僕を納得させてください、
あれから何年も経ったのに、
僕はあの夜に視た残酷な場面に、今でも苛まれ続けているんです


変な依頼の一例だ。
人探しが現実的な仕事ならば、
彼の依頼は精神的な仕事になる。
まるでカウンセラーに成った様な気持ちで調査に当った。
調査して行く中で、
彼の言う叔父の料理屋すらも存在しない事が分かった。
僕たちはとても混乱した。
つまり現実的な仕事も精神的な仕事も成し遂げるのには困難が待ち受けていて、
大変なのには変わりないという訳。





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