ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 4ページ目(不定期更新の短編小説)

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パットンはビリャの副官と取引をしたというんだ、
互いの取引材料は命と情報だ、
つまりパットンは副官の命の保証する代わりに、
ビリャの居場所を吐く事を求めたんだ、
取引に応じた副官はパットンと共にビリャの隠れている場所へと向かった、
ところがそこにビリャは居ない、副官は隙を見て逃走を図る、
逃走の途中で結局はアメリカ軍に射殺された、
副官がパットン達を連れて行ったのはチワワ州にある洞窟なんだ、
パットンの自伝によるとビリャの副官は、
ここがビリャの隠し砦だと言ったと書いてある、
シカゴの主要新聞シカゴトリビューンは1922年、
数週間に渡る特集を組んだ、
内容は現代から戦前を振り返る特集だ、
この時代は第1次大戦後であり、まだアル・カポネが頭角を現す以前、
1920年から執行された禁酒法が一時的な社会平和を実現した時代、
戦場から帰って来た男たちが再び社会の中で働き始めた時代、
作家のスコット・フィッツジェラルドが、
グレートギャツビーを発表する3年前、
人々が内証的になっていた僅かな時代、
静寂の時代には戦前特集はおあつらえむきだった、
特集にはシカゴ出身の軍人のインタビューが数回にわたり掲載された、
そのうちの1人はパットンに付いてビリャ捜索に向かった人物だった、
彼はメキシコへ出陣した際の事も語っている、
その中で洞窟の事を語っていたんだ、彼の証言以降、
パットンはその洞窟こそがビリャの隠れ砦だったと証言する様になる、
それ以前はビリャの副官を戦闘の末に殺害したとしか言っていなかったのにだ、
パットン曰くビリャの副官との取引は、
軍事的な機密だったので嘘を言っていたという事らしい、
だがパットンが副官に求めたのは本当にビリャの隠れ家の情報だったのか?、
米軍から逃げ仰せたビリャ、彼の副官との取引、
パットンの武功、ビリャの死後の目撃証言、
全てはチワワ州で行われている、
パットンはウェストポイント陸軍士官学校在学中に、
メキシコに関する地理的戦術概要論文を数回書き上げている、
彼はメキシコに関する軍事的研究者だったんだ、
だからこそパットンはビリャ捕獲作戦のアメリカ側の副官に選ばれた、
彼はメキシコに詳しかったんだ、メキシコの地理は勿論、
メキシコ軍の状態、装備、練度、メキシコの気候そして文化に精通していた、
骨についても噂くらいは知っていただろう、
パットンの話には続きがある、
彼は世界大戦中もっとも勇敢だった将軍として知られている、
彼の持論によれば、将校は前線で指揮をすべし、
パットンは戦闘中前線で指揮を執っていた、
前線に向かわない将校を命令違反、臆病者として罰してもいる、
そのせいでパットンは幾重も怪我をした、
かすり傷から始めて、敵の弾丸が身体を貫通した事まである、
ところが怪我を負った後で、
軽傷は勿論、重傷を含めて、彼は驚異的な回復力をみせて戦場に戻っている、
撃たれた、だが直ぐに全快した、そして再び最前線へ、
彼が死んだのは第二次世界大戦終戦した45年の年末だ、
彼が乗る車が交通事故を起こした、
パットンは後部座席に座っていた、部下が運転していたんだ、
運転手も同乗者も無事だった、軽症だった、
だが彼だけが死んだ、
頭蓋骨が割られ脳を損傷して死んだんだ、
事故の結果が結果なので、
暗殺説も根強い、
頭が割れて死ぬ、
リンカーンやビリャの死因を思い出す、
話はここで終わりだ、全て終わりだ、
アステカの生け贄、オメルカの石像と神話、死者の日、
チワワ州の宇宙人伝説、宇宙人と現地人の交配、子供、
コロンブスコンキスタドール、病気、
全員生存した村、テキサスの独立とアメリカへの併合、米墨戦争
グアダルーペ・イダルゴ条約、条約でメキシコに渡された1500万ドル、
アメリカに渡された献上品、行方不明になった骨、
メキシコ革命、パットンの取引、
パットンから逃げ切ったビリャ、
メキシコの神話からハスターを創造したビアス、彼の行方不明、
彼はラブクラフトと住人の夢の中に何度も登場した、
1度の暗殺を回避したリンカーン、無敵のパットン、死後目撃されたビリャ、
彼らは共通して頭を割られて死んでいる、
俺が話した全ての出来事、全ての人物はチワワ州に関わっている、
全ての出来事を繋ぐ隠された線として、
スターチャイルドの骨が関わっているかも知れない、
スターチャイルドの頭蓋骨以外の骨はどこに消えた、
一部はあの村人達が食い、
一部はリンカーンとパットンとビリャとビアスが食ったのかもしれない、
彼らは重傷を負っても奇跡的な回復力を見せている、
或は死んだとされた後にも目撃されている、
特にビアスは現在でも遺体すら見つかっていない、
今でもビアスは生きているのかもな、
そして今でもスターチャイルドの頭蓋骨以外の骨は、
誰かが持っているのかもしれない、
持っているのかもしれない、その手にな、
5歳児の骨をな、その手に、
さて、あんたは今、俺から手渡された奇妙な得体の知れない石を手にしている、
白いが、黄色く濁っっている石だ、
側面を触るとギザギザしているのが分かるだろう、
だがその大きさの石にしては軽い、
実はその石こそスターチャイルドの骨なんだ、
奴の踵の骨でね、踵の骨ってやつは石ころの様に小さいんだ、
その骨はパリのモンマルトルの古美術商から手に入れたんだ、
メキシコ革命の切っ掛けとなったディアスが、
逃亡の末に死んだパリにあるモンマルトルだよ、
その骨を手に入れるまでには時間が掛かった、
始めは古美術商も手放そうとしなかったんだからな、
だが交渉を重ねて俺に売る事を認めさせた、
90万ドルで買い取る事が出来た、
というのは作り話さ、
全ては作り話なんだ、
俺が話して来た事は全て作り話なんだ、
俺の創造した架空の話だ、
歴史、幻想、神話、作り話、
俺が聞きたいのはね、
今の話を整理してきちんと作り直す、
そして小説の原案や映画の脚本にしたら売れると思うかい?って事だよ、
俺が考えた物語は人の心を打つかな?、
不老不死とか驚異的な治癒力を得るのも良いが、
何よりが俺が知りたいのはそこなのさ、
俺の話は人の心を動かす価値があると思うか?


彼の長話。長話。長話。
僕は彼に、良く分からないと答えた。
だって僕の人生とも興味ともあまりにもかけ離れた物語だったからね。
オカルト話なのか、オカルトじゃないのかも良く分からないよ。
彼が語ったメキシコの歴史は本当の事なのだろうけど、
歴史の裏に隠されていると彼が言う
陰謀論の楽しみ方が僕には良く分からないんだ。
僕が知っている物事、僕が知る常識の範囲外の物語。
だから感想を聞かれても困るという訳。
僕が困った顔をしていると彼は苦笑いをした。
そして本当の依頼を話し始めた。僕はからかわれていただけなのかも知れない。
或はあの長話を話す事、それ事体が彼の暇つぶしになっていたのかも知れない。
またはストレス解消とかね。
彼の依頼は彼が語った物語ほどは複雑ではなかった。
依頼は日本の神社や寺に関する調査だった。
東京近郊で、
星や隕石に関連する言い伝えや神話を持つ寺社を調べて欲しいとの事。
寺社をリストアップして言い伝えの詳細と共に彼に伝える。
それから目的地に向かう手はずを整えてあげるのが仕事という訳
僕は彼に質問をする。珍しいものにご興味をお持ちですね。
彼は笑った。生きるのに必要なものは人によって違うからなとの事。
彼は言う。
別の男の場合は女や金かもしれない、車かもしれない、
仕事かもしれない、眺めの良い風景かもしれない。
でも俺の場合はちょっとしたヨタ話なのさ。
僕が就いている職業にとって、
資料と情報の収集、調査とまとめはもっとも基本的な仕事なんだ。
基本だから楽な仕事だという訳ではないけれど、
基本ならば必要以上に苦労せずに終える事が出来る。
寺社巡りの本、神社庁の資料の収集、当てはまる寺社に向かう、現地での調査。
いつくかの寺社をリストアップ。
久しぶりに読んだオカルト系の情報雑誌。
以前読んだ時も仕事絡みだったよ。
彼に渡す資料に平将門首塚と北斗七星にまつわる噂を書き添える。
目的地への行き方を分かり易くまとめる。
そして一風変わったガイドブックが完成した。
仕事を終えた僕は依頼者の目的が何であるかを感じ取った。
彼の話す作り話、彼が語る物語。
彼は自分が作り出した話に、新たな要素を加えようとしているのかもしれない。
彼はきっとその為に日本にやって来た。
そうやって生きているんだ。




依頼主はロシア人。
夏。繁華街。場所は依頼主から指定された喫茶店
男性。彼の服装は着古した黒いシャツ。
彼はコーヒーカップを持ち上げてゆっくりと口に運ぶ。
落ち着いている。熟れた旅行者か日本在住の外国人にしか見えない。
年齢は60歳を少し越えている位だろうか、
周りの人は彼の事を何をしている人と考えているだろう?
何をしているのだろうとは、何の仕事をしているのだろうかという事だけれど。
この言葉が職業に関する質問をしているものである事を多くの人が知っている。
現代では仕事とはその人の所属、
人となりを表す物であると理解されているらしい。
人間性と人生と仕事に関連する話は難しい、
だって誰もが好きな事を職業にしている訳ではないから。
いつか仕事と人間性の関連が切り離されて考えられる時代が来るだろうけれど、今はまだ来ていない。
現に僕も僕が勤める職業に、僕の人間性を縛られているからね。
僕たちは未だ未熟なんだ。
さて、実は依頼主は僕たちの同業者なんだ。
彼の服装は人ごみで浮かない雰囲気、何処に居ても目立たない服装だ。
彼は目立たない事の大切さを理解している。
彼は現在、眉間に皺を寄せている。困り顔。額に指を乗せる。
自然とうつむいてしまう頭を指で支えている様だ。
僕と彼との間にはテーブルがある。
テーブルの上にはコーヒーカップと封筒がある。
それとタバコの吸い殻が1つだけ入った灰皿。本。
きっと僕が席に着くまで依頼主はこの本を読んでいたんだ。
表紙にあるのは日本語だ。ゴーゴリ作、外套と書いてある。
彼は日本語を読む事が出来るんだ。
ゴーゴリはロシアの作家。
自国の作家の本を外国語で読む気分はどんなものだろう?
僕はこの本を読んだ事がある。日本語でだけれどね。
貧乏な役人が主人公だ。19世紀の雪の降るペテルブルグが舞台だったと思う。
ボロ切れになるまで使っていたコートがダメになってしまったので、
主人公は新しいコートを仕立屋に作らせる。
新しいコートは高かったけれど、
新品の美しく清潔なコートは彼の生活を変えた。
彼の退屈で単調な暮らしが変った訳ではない。
仕立屋が無事に仕事を終えるまでの2週間、
コートの事を夢に見るまでになったんだよ。
新しく、清潔で、美しいコートを主人公は想像し続ける。
想像が日々の生活に彩りを与えたんだ。
新しいコートを着て過す日々はどんなに素敵だろうか?
実質的には生活の何もかもが変化していないのだけれどね。
完成したコートは予想通りに美しくて、
同僚が新調祝いの酒盛りをしてくれた程だった。
だけれど主人公は祝いの席の帰り道で、強盗にコートを奪われてしまう。
絶望した主人公は熱を出してそのまま死んでしまうんだ。
後日彼の幽霊がペテルブルグの街に出る様になる。
幽霊は夜の街を歩く酔っぱらいや仕事帰りの人間のコートを奪うらしい。
幽霊の話を聞いた高慢な勅任官はある時、彼の幽霊と遭遇する。
彼の無念を感じ取った勅任官は、分け与える気持ちでコートを差し出した。
以降、幽霊は出なくなったし、勅任官は部下を思いやる様な人になった。
コートは多くの事の暗喩なんだ。
僕が外套を読んだ時には、
冬のペテルブルグの街並を歩いた様な感触を得た事を憶えているよ。
僕は会ったばかりの依頼主との話の話題に
本の事を出そうかとも思ったのだけれど、止めた。
世間話は後で良い。
だから僕は封筒を視線で指し示しながら言ったんだ。
—これが仰っていた手紙ですね?
彼は苦笑いを浮かべる。
ロシア人がなかなかしない表情の1つ。
これは差別的な表現ではないと思うけれど、
ロシア人はなかなか笑わないんだ、特に親しく無い人間の前ではね。
彼はコーヒーカっプをゆっくりと持ち上げて、
真っ黒なコーヒーを胃の中に飲込んだ。


そうなんですよ、
貴女が勤める会社の社長とは知り合いでしてね、
仕事を依頼したら、貴女を紹介された訳です、
依頼内容は大まかに伝えられていると思いますが、
改めて私の口から説明しますよ、
質問や疑問があったら仰って下さい、
あなたにはこの手紙をある人物に渡して欲しい、
つまり配達の仕事です、
相手は私と同じロシア人です、
性別は男、年齢は私の少し上です、
彼の事をイワンとでも呼びましょうか、
本名ではありません、
アメリカ人だったらジョンとか、
イタリア人だったらジョヴァンニとか、
ロシア人だからイワン、分かり易いでしょ?、
イワンはあなたと私と同じ職業に就いていました、
1991年の年末に崩壊したソビエト連邦は、
国内外への諜報組織を有していました、
国家保安委員会、カーゲーベーとして知られる組織ですね、
崩壊の直前、同年、91年の8月にはソ連では革命が起こりました、
ヤナーエフ副大統領がゴルバチョフ大統領に対して叛乱を起こしたのです、
ヤナーエフは保守派と言うやつで、
ゴルバチョフが行っていた改革に反対したのです、
保守派の行動自体は革命と言うよりも、
改革への対抗戦争と言った方が良いかもしれません、
では何が革命だったのか?、
保守派が対抗戦争を開始した8月19日、
首都モスクワを彼らが指揮する戦車が走り回りました、
ゴルバチョフは保守派により監禁され、
ヤナーエフへの全権の譲渡を求められた、
放送通信の分野は保守派によってほぼ掌握されました、
この時点では保守派の勝利です、
ですが改革急進派の大物政治家、
エリツィンの身柄を確保出来なかった事が痛手でした、
ゴルバチョフの次にソ連……ロシアの代表となった彼は、
一時期は保守派に接近しつつある改革派から離れましたが、
革命の直前には和睦していました、
エリツィンは保守派から逃れる為に最高会議ビルに籠城し反保守運動を指揮、
彼に賛同する大勢の市民がビルを囲みバリケードを築いたのです、
そして保守派の戦車が市民を囲んだ、一触即発の事体です、
アメリカやイギリスを始めとする西側各国は保守派を非難し、
エリツィンを支持しました、
当時保守派の指揮下にあった軍の精鋭特殊部隊は、
ビルへの突入を命じられました、
ですが彼らは市民に銃を向ける事を拒否した、
地方を含む各地で労働ストライキが起きました、
保守派による改革への対抗戦争の最終日、
ルビャンカ広場には多くの市民が集まりました、
広場の先にはカーゲーベーの本部ビルが重々しく構えていたのです、
本部の玄関にはカーゲーベーの創設者である、
フェリックス・ジェルジンスキー銅像が立っていた、
市民がその銅像を倒し始めたんです、
保守派が起した戦争の計画者は、
当時のカーゲーベー長官ウラジーミル・クリュチコフでしたからね、
その象徴を倒してしまおうという行為です、
広場に集う無数の市民、市民が操るシャベルカー、クレーン車、
ソ連時代には国民からも恐れられたカーゲーベー、
国家の中の国家とまで言われ、
恐怖の代名詞になっていた組織の下にまで市民の抵抗が及んだのです、
銅像は彼らによって倒されました、
実質的にカーゲーベーが崩壊した瞬間です、
保守派が起した対抗戦争は国民の抵抗と、
戦争に賛同しなかった政治家や軍人の働き、
西側諸国の圧力や政治的軍事的な工作により失敗に終わりました、
以降、ソ連の改革を急速します、
年末にはソ連は崩壊してロシア連邦が誕生した、
エリツィンロシア連邦の初代大統領に就任しました、
保守派が起した戦争の結果、保守派こそが国民によって追い出され、
ソ連が崩壊しロシアが生まれたのです、
いわばこの戦いの革命とは、国民が起した脱ソ連の革命だったのです、
敗戦した保守派の一部は国外逃亡し、一部は逮捕され、一部は自殺しました、
さて、1つ疑問がお有りだと思います、
戦争当時、保守派が放送通信を掌握していたのに、
エリツィンはどうやって国内外に指揮や声明を送っていたのか?、
それはEメールを利用したのです、
当時はインターネット夜明け前夜でEメールは専門的な物でした、
モスクワ近郊にあるクルチャトフ原子力研究所には、
Eメールを送る事が可能なコンピューターが設置されていました、
そして研究所に勤める研究員の多くが反保守派であった為に、
Eメールによって戦争当時のソ連の状況や、
エリツィンの声明が世界各国に送られました、
もちろんカーゲーベーもこの事を把握していました、
戦争の前、そして最中にもカーゲーベー上層部は職員を研究所に送りました、
ですがEメールとそれに関連する問題を解決するのには、
高度に専門的な知識が必要であると判断して、
職員は対処を行わなかったのです、
貴女だったら、この話を間抜けな事だとは思わないでしょう、
カーゲーベーも1枚岩ではなかったという事です、
ソ連崩壊後、そんなカーゲーベーの職員達は再就職先を探します、
そのままロシア連邦諜報機関に勤める者もいれば、
海外に渡った者や犯罪に走った者も居ます、政治家になった人間もね、
一部の者は自身の能力を活かして商売を始めました、
民間人や民間の施設、高価な商品や美術品の警護と警備、
身辺調査や信用調査に関連する仕事です、
ええ、私もイワンも所謂、カーゲーベー崩れでね、
ソビエト連邦時代、
冷戦時代には国内外の諜報を担当する第1総局に所属しており、
私たちは国外で情報活動を行っていました、
専門は東南アジアと日本に対する諜報活動です、
任務の中で私たちはカーゲーベーの現地駐在員や、
在日ソ連大使館の関係者を通して、
日本のビジネスマンや極道の人間、為政者との繋がりを得ていました、
諜報活動と言ってもご存知の通り大げさなものではありません、
日本人との会話から収集した情報や新聞や雑誌で読んだ事を、
纏めるのが基本的な活動です、
これだけでも対象の国の現状を理解するのには大いに役立ちます、
国内に居ながら他国の情報だけを集めて、
その国の事を知った気になるのはあまりにも危険な事です、
一番危ないのは知らない事を想像で補ってしまう事です、
想像とは現実の空白部分を補う行為ですからね、
つまり想像はまったく現実的じゃない、
情報戦というのは徹底的に現実的なものです、
だから想像は危険過ぎるのです、
とても一般的な事でもありますがね、
恋愛とか友情とか、映画や小説の作製だって同じ事ですよ、
映画人や小説家だって現地取材をします、
いや、
恋愛では想像でこそ生まれる愛もあるでしょうし、
小説だって想像が面白い作品を作る事だってあるでしょう、
でも想像だけでは酷く空虚な話が出来上がるのが概ねではないでしょうか、
確かにシェイクスピアは、
デンマークを訪れる事無くハムレットを書き上げました、
ですがクリスマスキャロル、
オリバーツイストや大いなる遺産を書いたディケンズは、
ロンドンに在住していましたし、
ダブリンを舞台にしたユリシーズの作者ジョイスはダブリンに住んでいました、
白鯨のメルヴィンは船乗りでしたし、
闇の奧を書いたコンラッドは作品の登場人物と同様に、
貿易船に乗り欧州と第3世界を行き来していました、
ガリバー旅行記のスウィフトは政治家の秘書や、
辺境の街で司祭を勤めていました、
刑務所に入ったドストエフスキーは後に死の家の記録を書き上げましたし、
川端の雪国や伊豆の踊子は彼の半自伝的作品と聞いています、
これらの素晴らしい小説は、
作品の舞台となる場所に作者が馴染んでいる事が、
如何に大切かという事の証拠です、
理解では無いですよ、
馴染む事です、
理解は言葉や理論的な考えを組み立てて言葉で物事を捉える事、
一方で馴染む事は言葉や理論を使用しなくとも、
物事を皮膚感覚として知っている事です、
諜報活動も同じ事です、
ソ連に居ながらにして世界各国の事を理解する事は可能です、
でもね、馴染む事は不可能だった、
馴染んだ事で得られる情報を取得する事も不可能ですし、
その国の現状を知る事も不可能です、
想像は多いに間違いを犯します、
小説だったらその間違いが作品に面白みを与える事もあったでしょう、
一方で諜報戦は現実です、現実には面白みといった物は無いんですよ、
現実に色は無く、透明で、冷たさも温かさも無く、ただ存在しているだけです、
恋愛の様に愛も、小説の様なロマンも無い、
当時の我々は、
その無色透明な現実を正確に把握しなければならなかったのです、
私もイワンもソビエト連邦が現実を知る事に人生を費やし、
多くの事を見て、その一方では様々な事を見て見ぬ振りをしてきました、
私と妻の間には2人の子供がいました、
兄と妹の兄妹です、
兄のアカーキーが10歳の頃です、
モスクワに始めてマクドナルドが出来た年で、
息子とは一緒にマクドナルドに行く約束をした事を良く憶えています、
その年の冬、アカーキーは複数の友人達と遊んでいる途中に行方を消しました、
妻はその日のうちに警察に捜索依頼を出しました、
1週間後、街の片隅にある古井戸からアカーキーの遺体が発見されました、
彼が最後に目撃された場所から大分離れた場所にある井戸の底からです、
警察は事故だと判断しました、
アーカキーは少年の気まぐれ1人ででふらりとそこまで行って、
不慮の事故で井戸に落ちて脚の骨を折った、
雪の降る寒さの中で数日生きた後、怪我と飢餓が原因で亡くなったと、
彼の遺体が見つかってから半年後、
アンドレイ・チカチーロという男がカーゲーベーに逮捕されました、
容疑は殺人です、
チカチーロは50人以上の少年少女を殺した事を自白しました、
10年の間に50人です、
その中には私の息子、アカーキーも含まれていたんです、
チカチーロが息子を井戸に突き落としたのです、
息子が死んでからチカチーロが逮捕されるまでの半年間、
私は1度も母国に帰る事が出来ませんでした、
帰国して息子の墓に行けたのはチカチーロが逮捕された半年後でした、
この年の8月にはイラククウェートに侵攻し湾岸戦争が始まり、
10月には東西ドイツが統一されました、
日本のバブルが崩壊した年ですが、
一方で未だにジャパンマネーは強かった、
日本人の実業家がゴッホルノワールの絵画を1つずつ、
合計2枚を約244億円で購入しました、
イラクに対抗する多国籍軍の為に、
日本政府は10億ドルを支出する事を決定しました、
一方のソビエトは改革の行き詰まりにより国力が一時的に衰退していたのです、
連邦の国際的な影響力は弱まり、
進退を慎重に選択しなければならない状況です、
激動の年であり、ソビエトは世界情勢を正確に見抜く必要に迫られたのです、
ソビエトにとって日本は隣国であり、関係はとても重要でした、
9月には後のグルジア大統領、当時のソビエト連邦外相シェワルナゼが訪日し、
年末には両国の外務省による協議が開催されました、
日本に派遣された職員は帰国の暇などなかったのです、
諜報活動を仕事にするとはそういう事です、
私とイワンはカーゲーベー崩壊後、
民間の調査会社に就職しました、2人とも同じ会社にです、
私たちの人生を費やした諜報活動は自分の職場すら守れなかった、
政府の為に働く事に我々は落胆していたのですよ、
だから野に下りました、
民間の調査会社の調査員として20年弱働きました、
得意分野はアジア諸国に関連する事です、
下野してから私が活動したのはロシア国内が主でしたが、
共産主義経済の崩壊後にロシア国内で台頭した新興財閥、企業から依頼されて、
日本の会社員の身辺を国内外で調査した事も何度もあります、
そんな私はもう引退です、
仕事も大切ですが孫とゆっくり過ごす生活の方を取りました、
娘が産んだ男の子です、
たまには仕事に戻る事もあります、
とはいえ簡単な仕事ばかりですけれどね、今みたいにね、
今では若い頃の様には身体は動きませんが、
経験を買ってくれる同僚がいるのです、
だから普段は孫達と過して、時たま仕事に戻る、
気楽な身分ですよ、
ところがイワンは違った、
私が引退を視野に入れ始めた時期です、
日本に駐在していた我が社の調査員が殺害されたのです、
ロシアに民間の調査会社が出来た後も、
我々はカーゲーベーの頃と同じ方法で情報を得ていたんです、
その為の調査員でした、
調査員は表向きは貿易関係のビジネスマンとして日本に滞在していました、
在日ロシア人の殺害は日本でもニュースにはなったでしょうが、
話題は長続きしなかったと記憶しています、
何せ殺害された男はただのビジネスマンなのですから、
犯人は捕まっていません、
イワンは日本に行く事を申し出ました、
調査員が殺害された理由の解明と彼の代わりに日本で活動を行う為にです、
イワンは優秀です、彼が日本に行く事に私も賛成しました、
彼が担当になってから日本に関する情報を得易くなりましたよ、
こちらが求める情報の大枠を彼に送れば、
必ず彼から情報の詳細が送られて来る、
イワンが日本に駐在してからは、
ロシア日本間の情報交換は、
安泰という言葉を絵に書いた様な状況になりました、
問題が起ったのはイワンの渡日から数年後、
私が引退した後です、
当時の事は良く憶えていますよ、
我が家で孫たちと、
ヒョードルおじさんとシャーリックの双六を楽しんでいた時でした、
調査員を引退した後の楽しい、心安らぐ一時です
ああ、
ヒョードルおじさんとシャーリックというのはロシアの有名な絵本の事です、
私を尋ねに社の重役の1人がやって来たのです、
彼もイワンや私と同じ境遇の持ち主です、
ただ彼はイワンの様に海外に行く事や、
私の様に孫と過ごす生活を選択しなかっただけです、年を取ってもね、
彼とは娘がいれてくれた紅茶を飲みながら話をしました、
重役が話したのはイワンの事についてです、
私はこのとき始めてイワンからの連絡が、
2ヶ月も途絶えている事を知りました、
それだけではありません、
連絡が途絶えた理由を調べる為に我が社の調査員が日本へと派遣されました、
ですが20日後、
その調査員が死亡した事がロシア外務省経由で我が社に伝わったのです、
千葉県は銚子の海岸で、水死体となって発見されたのです、
しかし彼は情報と手紙を残していました、
イワンに関する情報と、イワンの筆による手紙です、
日本政府や警察やロシア政府機関に押収される前に、
我が社はそれを押さえる事が出来ました、
死んだ調査員の残した資料によればイワンは日本の駐在員になってからも、
カーゲーベー時代に培った人脈と影響力を利用して、
日本での情報収集を行っていました、
それだけではなく、
イワンはそこで得た情報を利用して、
日本国内での影響力を更に高めていったのです、
まずイワンは日本に進出しているロシア系企業や、
日系企業との貿易を行っている会社に接触し、
情報をやり取りする仲になりました、
カーゲーベー時代に築いた人脈を利用して得た日系企業の情報を、
彼らに提供したわけです、
代わりに企業側はイワンに別の情報を返す、あるいは謝礼を送る、
彼が取引を行った企業には、
街中でロシア料理を提供するレストランも含まれます、
ニューヨークで商売を営むイタリアンレストランのオーナーが、
どの様な人物であり、
そして六本木や銀座のロシアアンレストランを持つ人物も、
それらと変らない種類の人間である事は貴女もご存知だと思います、
この様にイワンはまず、
日本に展開する企業で働くロシア人ビジネスマン、
そしてマフィアと友好を結んだのです、
ここで得た情報と資金、人脈を元にイワンはロシア人政治家を通じて、
親ロシア派の日本人政治家、
外務省や経済産業省に所属する官僚とも関わりを持つ様になった様です、
一方で彼は日本の極道の世界に食い込んでいきます、
日露双方の世界に顔が利く彼は、
我国のマフィアと日本のヤクザの仲介を行い始めたのです、
とはいえ小説に登場する様な違法薬物や武器の売買に関する物ではありません、
そういった取引の主戦場となるのは日本では北海道ですからね、
イワンが関わったのは土地や絵画の売買、人材の派遣に関する事です、
人材というのはホステスの事です、
フィリピンパブで働く女性を日本へと送るブローカーが、
女性を送る側のフィリピンと受け取る側の日本にも居る様に、
ロシアにも同じ商売をしている人間がいます、人を輸出する商売です、
絵画の売買の実体は資金の流入、流出に関わる事です、
なにせ絵画の価格は安くする事も高くする事も自由ですから、
絵画を通す事で国内外で現金を動かし易くなるのです、
誰かに現金をプレゼントしたくなったら、
相手がたまたま持っている、
実質的には芸術的にも投資的にも価値の無い絵画を、
高価格で購入すれば良いのですから、
イワンはそれらの仲介者となる事で、
裏の世界の土地と資金の流れ、そしてロシアと日本、
2カ国間の人の動きに関わる様になったのです、
彼の武器は情報と現金を動かす事で、
それらの流れを知っていて、流れを止める事も氾濫させる事もできた、
だから彼の影響力は日に日に増していき、人脈も深くなっていく、
そして数年後には財政界と裏の世界、
複数の業界を跨がる自らの組織を形成していったのです、
イワンの力は強大です、
我が社の調査員の死が、
わざわざ、
外務省経由で私たちに伝えられたのもその証拠の1つです、
死んだ調査員がイワンと接触した事は確かです、
残されたイワン直筆の手紙がその証拠です、
この手紙は調査員に宛てた物なのか、
或は我々へのメッセージなのかは分かりません、
イワンの直筆だと判断したのは重役で、
私も手紙を読んで同じ判断を下しました、
間違いなくイワンが書いた文字でした、
手紙にこう書かれていました、
私たちは虚ろな人間、
私たちは剥製、
わらの詰まった頭をもたれあっている、
風に吹かれる干し草の様に、
地下室の床に割れたガラス、その上を走る鼠の足音の様に、
私たちが交わす乾いた言葉に意味は無い、
純粋な目をして、彼岸の死の王国に逝った人々が、
もし私たちの事を覚えていても、
それは猛烈な精神としてではなく、
ただの剥製としてだろう、
知らぬ人が見たらこれは自作の詩だと知れましょうな、
確かにイワンは昔から文学的な男でありましたが、
ですが、これは正に詩なのです、詩そのものです、
T・S・エリオットというイギリスの詩人がいました、
彼の作品です、虚ろな人々という題名の詩なのですよ、
人の詩を使い返事をするとは、
まったくイワンはどうしたと言うのだ、
この手紙を我が社が回収してから数日後、
とある依頼が持ち込まれました、
依頼主はロシア対外情報庁で、
依頼内容はイワンがロシアに帰国する様に説得する事、
不可能な場合はイワンの意志や政治的指向の確認する事です、
依頼は正式には、
イワンに関する諸問題に対応する為に結成されたチームへの参加要請です、
チームはロシア対外情報庁内に作られました、
そこに相談役としての出向するのです、
指名されたのは例の重役と私でした、
私たちがカーゲーベー時代からのイワンの同僚である事を、
知って判断をしたのでしょうね、
この要請を受けて、私が対外情報庁に出向く事になったのです、
対外情報庁はカーゲーベー亡き後、
ロシア国外の情報を収集する為に作られた政府機関です、
その前身は私たちが所属していたカーゲーベー第1総局、
国外の諜報活動を行っていた部署です、
なので対外情報庁は私の古巣の様なものですね、
そこに戻るのは何とも言えない気持ちになりましたよ、
何せ対外情報庁は、
第1総局が使っていたビルをそのまま使用しているのですから、
私は民間の会社を退職した身であったのに、
再び政府の機関の為に働いている、
大昔に戻ってしまった、
職業というものには宿命という物があるのかもしれません、
この仕事を終えたら、今度こそ余生を過すつもりです、
娘と孫と過す穏やかな余生をね、
その前に今回の仕事に蹴りをつけなくてはなりません、
私はその為に来日しました、
麻布台にロシア大使館がある事はご存知かと思います、
あそこに対外情報庁の支局があるのですよ、
日本ではそこを拠点にしてイワンの行方を調査しています、
さて、調査を始めて暫くしてから進展がありました、
イワンからの連絡があったのです、
ですが直接の連絡ではありませんでした、
彼は外務省経由で我々に伝言を残したのです、
イワンはロシア外務省との強い繋がりがある様です、
我々はもちろん外務省に尋ねましたよ、
オタクらはイワンの居場所を知っているのではないかと、
返って来た答えは役に立つものではありませんでした、
我々外務省はイワンからのメッセージを受け取り、
彼の希望通りに対外情報庁に伝えただけだという一点張りです、
イワンからのメッセージには複数の要望が含まれていました、
まず我々に対するいくつかの希望、
我々が希望に答える意志があるのかどうかの確認、
そして我々からのメッセージをイワンの元へと伝達する方法です、
もうお判りだとは思いますが、
この薄い封筒の中には我々が書いた、
イワンへの返事が記してある便箋が入っています、
この封書をイワンの許へと運んで頂きたい、
これが貴女に依頼する仕事でもあり、
これこそがイワンが指定したメッセージの伝達方法なのです、
貴女が勤める調査会社の調査員を配達人に使う事がイワンの希望なのです、
実は私たちカーゲーベー時代に日本に在住していた人間、
つまり私とイワンの事ですが、
私たちは貴女の会社の社長と知り合いなんですよ、
同業者仲間ですね、社長に相談をして、
そしてあなたに話が通された訳です、
仕事内容はこの封書をイワンに渡すだけです、
配達する場所も既に指定されています、
危険はありませんよ、我が社と対外情報庁が貴女の身を守ります、
実は我々は既に貴女の事を守っています、
右側を向いて下さい、ええ店の外です、そこに見えるビルです、
ビルの12階、テラスを見て下さい、
いま小さな光が光りましたね?、
我々の仲間が小さな鏡を太陽に照らして光を反射させたのです、
そして私の後ろにある車、
道を挟んで灰色の車が止まっているのが見えますね?、
ハザードが2度点滅したと思います、
次は私たちのいる店の中、左隅の席に着いているアジア人を見て下さい、
彼はああ見ても国籍をロシアに置いています、
いまナイフを地面に落としますよ、ほら落とした、拾う、
そしてこちらを見ている、
この様に我々は既に貴女の事を警護しています、
どうでしょう?、
配達の仕事を請け負って頂けませんか、
依頼を受けて下さるのでしたら、
直ぐさま仕事を始めましょう、
いますぐに、
封書をイワンの許に運んで下さい
すぐにね、


酷い話だ。依頼の引き受け拒否も放棄もあったものじゃない。
脅しの様なものじゃないか。
だいたい彼の話がどこまで本当なのかもわからない。
依頼者は亡くした息子の名前をアカーキーだと話していたけれど、
アカーキーは彼が読んでいた本の主人公の名前じゃないか。
偽りの話をする為に本から名前を取ったのかもしれないし偶然かもしれない。
このわざとらしさは何か目論みがあっての事かもしれない。
そもそも彼が本当にロシア諜報機関の人間だとしても、
KGB云々の彼の様な人間が全てを正直に話す訳がないんだ。
ともかく僕はしぶしぶ依頼を受けた。
正確には受けざるを得なかった。
そして僕は仕事を成し遂げた。
依頼者の言う通り簡単で安全な仕事だったよ。
封書を運ぶ途中で、
イワンの部下を名乗る人間に服を一式、
新しい物へと着替えさせられたけれどね。
下着と靴、おりもの用のライナーまで新しい物に着替えさせられたんだよ。
盗聴器や小型の位置発信器への対策としてね。
情報収集に使用する機械は現代では小型化されていて、
ネイルアートの先にだってカメラを仕込める程だから。
だから服にも簡単に縫い付ける事も出来るという訳。
思い出す。
あの頃の僕はおりものが多くて、専用のシートを着けていたんだ。
当時付き合っていた彼にシートを見られるのが恥ずかしくて、
セックスの時、下着を脱ぐ度に目を瞑ってもらっていた事も思い出す。
彼が興奮と苛立ちの間で目を閉じている間に
僕はシートをゴミ箱に棄てていたんだ。
そして彼が見るのは綺麗な下着だけという訳。
彼が僕の脱いだ、
或は脱ぎかけの振りをして脚にひっかけた下着を見て興奮しても、
僕は安心する事ができた。
彼は女性は必ず
綺麗な下着を身に着けていると当たり前の様に思っていた人だったから。
単純で無思慮な男に思えるかもしれないけれど、
当時の僕は、
女の身体は綺麗な物だと当たり前の様に思っている男が好きだったんだよ。
綺麗な人間に見られたかったから、都合が良かったんだ。
だから彼がコンドームを包んだティッシュや、
御互いの精液を拭いたティッシュをゴミ箱に棄てる度に、
僕は冷や冷やしたものだった。
イワンに封書を届けるこの仕事が良い記憶か悪い記憶かと問われれば、
微笑ましくはない記憶だけれど大した事じゃなかった。
嫌な経験だけれど今では気にもしていない事なんだ。
僕だってタフなんだ。過去を振り払う事は出来る。
悪い記憶でも大して気に留めない事もあるし、
良い記憶でも心の傷になる事は沢山あるからね。
目的地も何度か変更させられた。
そして僕が最後に辿り伝いたのは病院の一室だった。
ベッドに寝ている老ロシア人、衰弱した肉体。
イワンの身体には数本の線が繋がれていた。
点滴、尿道カテーテル、呼吸器、バイタルサインモニター。
このお話はイワンの病死で終わる。
大げさな話ほど案外つまらないオチが付いてくるという訳。
依頼人が語る話し、物語、ドラマ。
物語を聞かされる僕たち。
彼らは彼らの物語を持っている。
語るべき事、
困っている事があるから僕たちの所へとやってくるという訳。
僕たちは彼らの物語に関わり合う事で仕事をして、お金を得ている。
だから僕たちはいつまでたっても物語の主役になる事は無い。
問題を訴えるのは彼らで、自らが訴える問題の中では彼らこそ主役だからね。
一方の僕たちは観光案内、人探し、資料作成、配達人。
誰かが主役の物語に出て来る脇役だね。
この仕事をしている限り僕は永遠に脇役だ。
でも良いんだ、僕には脇役の方が似合っている。
僕はそういう人間だから。そうやって生きて来たんだから。




人は悩みを抱えて生きている。
地球があって、人が居て、ならば悩みがあるのは当たり前じゃないか。
人の悩みが問題を引き起す事も多々あって、
問題を解決したいと人が思うのならば、
人々の人生の中に僕たちが脇役として登場する事もある。
だけれど、問題を解決したところで悩みが消える訳じゃない。
浮気癖のある夫の浮気現場を僕たちが写真に収めところで、
彼の浮気癖が治る訳じゃないんだ。
彼が浮気をしたという事実が消える訳でもない。
彼の浮気を放っていても同じ事だけれどね。
何度も何度も似た様な内容の依頼を持ち込む依頼主もいる。
旦那の浮気の証拠を掴む仕事とか、幾度となく失踪する娘の捜索とか。
僕たちは母親から依頼されて、
同じ娘を何度も何度も捜索して見つけ出した事がある。
ある時、母親からの連絡が一切来なくなった。
後日、僕たちは彼女が亡くなって居た事を知ったんだ。
悩みは死ぬまで続くと言う訳。
僕が現在の仕事をする中で得た教訓の1つだよ。
問題を解決する事と、悩みの扱い方を考える事は違うということなんだ。
きっと。
彼女が彼女として存在し続ける限り、娘は延々と失踪を繰り返していただろう。
人は悩みと共に生きているんだ。それに気が付くか気が付かないかの差だよ。
気が付けば、
悩みとだって手を取り合って生きて行く事はできるかもしれないからね。
精神科医フロイトが提唱したトラウマという概念や、
仏教の業の概念と似た様な物なのだろう。
悩みという物はきっと、自分自身や、自分の浅ましさが引き起こす物事なんだ。
自分の浅ましさに気が付けば、
浅ましいながらも少しは賢く生きて行く事ができるかもしれない。
だから僕は若い女の子達が言うあの言葉の内容には賛同出来ない。
早くおばあちゃんになりたいという彼女達の願望の事だよ。
僕が彼女達と同性だからといっても
全ての女性の意見には頷けはしないという訳。
彼女達のこの不思議な願望は、中年期も初老期も飛ばして、
若さの次には老いが待っていて欲しいという考え方から来ている。
彼女達は若い事は辛くて、
中年になる事は若さを半端に失う事で辛さに拍車をかける事だと思っている。
そして辛さを持ったまま人生を走り抜けて、
皺だらけの老婆に辿り着けたら悩みが無くなると思っている。
老婆の社会的な立ち位置や、
老婆になれば得られると思っている精神的な達観や、
老婆の肌の状態が物語るある種の美への諦観、
老婆が持つ独特の可愛さが、全ての悩みを消してくれる。
きっと若い彼女達は自分達の祖母の事を観てそう思ったのだろうけれど。
だけれど、現実ではそんな事は無いんだ。悩みは続く。
年老いた女性達は若い頃よりも
自分の悩みを人に隠すのが少しだけ上手くなっているだけだよ。
僕は自分の仕事のお陰で知っている。
老婆達にもセックスの悩みや、恋、お金、美や老いに関する問題が
常に付き纏っている事をね。
彼女達は時として僕たちの依頼人で、
僕たちは彼女達の人生の一端に脇役として登場するから。
知っているんだ。悩みは死ぬまで続くんだ。
だから僕は、どうせならば女性が老いという概念を扱う時、
男性達の様になれば良いなと思っているんだ。
老いなんて所詮概念だ。事実じゃない。
医療の飛躍的進歩で人間が1000年生きる様になったら
老いと言う言葉はまた違った意味を持つ言葉になるだろうから。
もちろん僕も1人の女性として老いは厄介な問題と実感しているけれどね。
対して男性達は老いる事に対して大らかに構えている様に思える。
彼らは貧しくなった髪の毛と対照して
豊かになり始めた腹部の事を話し微笑み、
そして老いを認める。
一方で女性達は彼らを冷めた目線で観察している。
なんで話すべきでは無い事を話しているのだろう?
なんで恐るべき事を語るのも禁忌な事柄を話して微笑んでいるのだろう?
僕たち女性はシリアスすぎるんだ。老いる事に対して真剣すぎるんだ。
あるいは茶化し過ぎる。
老いという概念を姦しく大声で笑う事で
恐怖と惨めさから逃れようとしているみたいだ。
女性達が老いる事に付いて男性の様に
もう少しだけでも大らかに話す様になればいいのに。
女性が老いに対してシリアスじゃなくて、
もう少しカームになってくれるのが僕の希望だね。
悩みは老いても死ぬまでいつまでもあって、年齢事に問題はかわるけれど、
問題があるならば僕たちが手助けをできるから。脇役として。
僕たちの会社の社長が、インド人の依頼主を連れて来た事がある。
彼は黒いシャツとジーンズを着ている。
服の上からでも、身体に多くの筋肉が着いている事が判る。
日常的に筋力トレーニングをしているのだろう。
身体の大きさが視線の鋭さと相まって、威圧感がある。
向こうの人は眼が大きい人ばかりだ。
大きな掌を握っては開いて、少し落ち着きが無い。
僕は彼に尋ねる
ー人数あわせ?警護ですか?
僕の質問に彼は頷く。
依頼主はゆっくりと話を始める。


全てを話そうと思っているけどな、
言葉はなかなか浮かばないものだな、
のろまにだらだら話したい訳じゃない、
下らない小説家のつまらない小説みたいにな、
俺がこんな浮かない顔をしているのは、俺がとんだ問題を抱えているからだ、
実際どんな問題が俺に存在するか本題に入るから聴いて欲しい、
身体が悪い、懐が寒い、心苦しいとかじゃないんだ、
悪いのはアイツだ、俺から逃げた、ボケたアイツだ、
誰が許すか?、神が裁くか?、金返すまで、地の果てまで、追っかけてやる、
アイツはニューデリーでこともなげに薬を売りさばいていた、
薬物、イリーガルで使用者には荒涼たる結末をもたらす薬物だ、
アイツは売人やプッシャーと呼ばれていた、
ヒンドゥー教徒で商売上手なアイツは手厚く金を稼いだ、
冴えた頭で数多の同業者を出し抜いた、
アイツが扱うのは錠剤のカフェイン、コカイン、
アンフェタミン、MDMA、MM、AMT、ケタミン
クスリを買う金の無いヤツには金を貸しクスリを売りつけ、
代金を取り立て、強引に回収し、財産を殖やした、
アイツが扱う客は不良、観光客、金持ち、貧乏人、
ビジネスマン、学生、娼婦、
つまり人の種類は一切合切、人類全員、全て客人、収入源、
何処の国とも何処までもかわらない、
人類はクスリの中毒の前では自制出来ない、
当然アイツの財産は殖えていく、アイツは勝ち馬に乗った、
ボサボサなひげ面で泣き面を見せるまでは、
強固で安定した人生を一旦は狡っからく行進した、
部下を引き連れ、肩で風切り、後に裏切りに合う事を知らずに、
日々の仕事を事も無げにこなし続けた、
だがアイツの人生に転落は突然登場した、
アイツが考えだした勘定高い策略が転落の確たる始まりだった、
大きな仕事に手を出したんだ、
大物の仕事を請け負ったんだ、
大物、支配者、胴元、勝者、
代表やボスと呼ばれる人間に仕事を任されたんだ、
金持ち目指すアイツは大量の薬を大量の中毒者にさばく仕事を託されたんだ、
アイツは下された失敗不許可のミッションに知恵絞る、
まず手に入れるのは大量のコカイン、
大金と交換し、コカインを入手し、販売し完売を目指す、
コカインを打ちたい馬鹿共に売り切れば、
売り上げの3割がアイツの稼ぎになるはずだった、
大金は大物のものでコカインはパキスタン人の売人のもの
向こう見ずなアイツはとびきりな取引の仲買人、
だがしかし、触らぬ神に祟りなし、
アイツの目論みは殺伐たるものになる、
夢破れる、人生は易々上手くはいかない、
金とクスリの取引当日、
取引現場に情け知らずの警察が突然突入、
サツにアイツの部下が全て1つ残さずチクっていたんだ、
大物の大金はパキスタン人の売人が手に取り、
売人は猛然と現場から脱兎の如く逃げ出した、
一方のアイツはコカインを手に取りヤク抱え蒼い顔して走り出した、
アイツは逃げる、逃げるアイツを警官は追う、そしてアイツは川に飛びこむ、
あの大河にな、あの大河にな、インドを流れるあの大河にだ、
戦くアイツは大河に大量のコカインを溶かした、
全てのクスリを川に流した、
アイツはコカインを小麦粉と言いはった、ナンを作る為のもんだと言いはった、
証拠は隠滅、アイツは釈放、しかしここから躓くアイツは転落、
アイツは金もコカインも持たない売人のドカ貧、
シャバに待っていたのは損失の保証義務、
出しゃばった事への罪と罰
ボスは金とコカイン失い怒髪天
彼がアイツに求めたのは損失分の支払い、
売人が持ち逃げしたクスリの購入資金、
そして手に入れるはずだった、クスリを売って得るはずだった売上金、
2つの金の返済、完成できなきゃアイツに命無し、
冷静に考えればせいぜい、売上金の返済でいいはず、
一体全体どういうことだ、だがボスは執ように要求した2つの金の返済を、
支配者は下っ端を支配する、アイツらの世界の絶対的権力者、
正解はボスの気分次第、決定したら従うほか無い、
従わないと命が無い、金がないと命が無い、アイツの命は金次第、
アイツは金を集める為に、
街中を駆けずり回ったが困った事にまったく上手く行かない、
手持ちのクスリは全て売った、貸していた金を回収した、
だが足りない、金が足りない、金がまったく足りな過ぎた、
アイツは家族、恋人、友人知人に頼み込んで金を借りた、
それでもまだまだ足りない、金が足りない、
アイツが足りない頭で最後に思い付いたのはあっぱれ人の金を奪う事、
当って砕けよ、金を奪取するなら、
金持ちからの方が最適だ高い成果を効果的に効率よく回収に出来るからな、
アイツにはアテがあった、金持ちの友達がすぐ側に居たんだ、
つまり、そう俺、俺の事だ、
俺はビジネスマン、IT企業の経営者、ちょっとした金持ち、
アイツと俺とは昔なじみ、大昔からの大親友、しかし年々歳々人同じからず、
アイツは俺から金を奪った、友情はこのとき全て終わった、
大変な大金だ、大切な現金だ、だがたちまちアイツの目標は達成だ、
直ぐにボスに返す金が耳揃えて用意出来た、
だけど最後、最後の最後で最高のトラブルがアイツを襲った、
ボスに金を返す直前、アイツが愛する女がアイツの金をカッ攫った、
女は娼婦であんな街を抜けどこか別の土地で暮らしたがってた、
その為に金を奪った、アイツの手からかすめ取った、
アイツに残された時間はもうない、助かる手段は残されちゃいない、
金の当てなどもう何処にもない、
そして突然アイツは消えた、大物の手からもすり抜けた、
追跡からも逃げ切った、アイツはどこかに行っちまった、
それから1年、悪事は単騎で千里を駆ける、
アイツの噂が伝わって来た、日本に居るのだと判った、
日本在住インド人、友人、知人の伝手を辿ってついた日本、
アイツは故郷を捨て気分一新、東京にステイ、
俺の目的はアイツに会う事、俺の金を取り返す事、
これが俺がアンタ達に依頼したい事の詳細、
アホなアイツの居場所は既に割れてる俺はそこに向かう、
アイツと再開、アイツは後悔して何をしでかすか判らないから、
俺の事を護衛して欲しい、無事に事を終えれば、謝礼は十分に払うから、
話の全てはこれで終わり、受けるかどうかはアンタ次第


僕たちは彼の依頼を引き受けた。似た様な仕事はよく依頼されるんだ。
借金の取り立ての様なものだね。
だけれど借金や債権の回収を債権者以外の人間が行う事は法的に難しい。
お金を貸した人間、つまり返済の催促を行う権利を持っている人物や、
権利者から回収の代理を任された弁護士以外が取り立てを行うと違法になる。
だから僕たちには債権の回収代行業は行えない。
でも僕たちは依頼を引き受けた。
だって僕たちがした事と言えば、
車を運転して依頼主を目的地まで案内したこと。
そして後は彼が目的の人物と話し合いをしている間、
彼の身に何か危険な事が起らない様に観ていただけだから。
一番近い仕事はボディーガードというやつだね。
まあ僕たちの仕事の中の法的には灰色な部分だけれど、
どの職場にだって似た様な部分はあるだろう。
僕は法律に背く可能性を恐れるより、
仕事が無くなる事を恐れるタイプの人間なんだ。
依頼は何も問題なく完了した。
依頼主の金を盗んだという男は直ぐさま彼に全額を返済したんだよ。
依頼主には日本に来て彼と再開するまでには色々なドラマがあっただろう。
お金を盗んだ彼にもドラマはあっただろう。
愛人に金を横取りされて、東京に逃げて、
再び大金を用意出来る様になるまでのドラマがあっただろうね。
だけれど、僕は2人のドラマには関われない。
自分の仕事を全うする脇役として僕が出来る事は、
車を運転する事、そして事の成り行きを観ている事だけだから。
だけれどきっと、こんな僕だって、
彼らの人生のドラマの中には少しは登場していて、
少しは役に立っていただろうとは思う。
思っているんだよ。





↓ここから更新↓




僕が脇役としてすらも登場しなかった仕事もあるんだ。
物語の中に僕は登場すらしていなかっただろう。
依頼主は黒のシャツを着ている。南米人で年齢は60歳前後。
口と顎に豊かな髭を貯えている。
彼はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに産まれて育ったという。
職業はワイン生産者。親から受け継いだ仕事だ。
彼の自己紹介を信じればだけれどね。
彼は笑顔で言う。メンドーサで作られるワインは最高だよ。
彼が所有する葡萄園とワイナリーがアルゼンチンのメンドーサにあるらしい。
アルゼンチンにあるメンドーサ州の州都であるメンドーサは、
同国におけるワインの名産地だ。
僕はワインについての知識はあまり持っていないけれど、
それくらいの事は知っているよ。
メンドーサは人の名前なんだ。スペイン人の軍人の名前だ。
スペインが南米大陸を支配した後でメンドーサは同地の総督になった。
だからメンドーサという地名になった。分かり易い由来だね。
僕がアルゼンチンワインとメンドーサの関係を知っているのは、
男に教えられたからだ。何回かセックスをした男だ。
彼とは何回か一緒に出掛けたし、食事をしたし、お酒を飲んでセックスもした。
だけれど付き合っているという感じではなかった。
全てが悪い感じではなかったし、御互いに順調だったし、
2人とも良い年齢だったから、
付き合い続けていけば結婚もしたかもしれないし、
その後で愛情も生まれたかもしれない。
全ては現在の僕がした想像だけれど。
そして想像だから、生まれかもしれないと想像する愛も、
本当のところでは僕には想像が出来ていない。
当時から想像出来なかったからこそ、彼とは長く続かなかったのだろう。
想像の愛情、あるいは想像出来ない愛情しか抱けない男と暮らして行くのは
僕には無理だ。
いまの僕はそうやって、自分の人生を解釈しているんだよ。
解釈なんて所詮は真実ではないから、
人生の再解釈をする可能性は幾らだってあるのだけれど。
でも僕の解釈は一生変らない様な気もする。
彼にメンドーサの事を教わったのは
レストランでの何回目かの食事の時だったと思う。
僕には名前も発音出来ない様なワインを、
彼は発音も完璧にギャルソンに注文をした。
テーブルに運ばれて来たのがアルゼンチンのワインだった。
ソムリエール女史がワインのコルクを抜いてデキャンタージュする。
ボトルを高く掲げて上下逆さまにする、中身を専用の容器に流し入れる。
彼女の動作は美しい。
赤い液体が容器へと落ちて行く。滝に差し掛かり落下する流水の様だよ。
デキャンタージュをし終えたソムリエール女史は優雅な会釈をして
僕たちのテーブルから立ち去る。
彼は言う。
このワインは固いからこうして空気に触れさせて本当の味を開花させるんだ。
彼が言った台詞を僕は他の男との食事でも何度か聞いた事がある。
場所をレストランから他に移せば男たちはまた別の台詞を言うのだろう。
スポーツ観戦に行けば野球やサッカー選手に関する台詞になるのだろうし、
家具屋に行けば家具の事、住宅展示場に行けば彼らは建築の事を語るのだ。
男性というのは台詞を言いたがるものなのだろう。
台詞を言い終えた彼は今度は頼んだワインについての解説を始める。
僕は彼の言葉を聴いていた。
別段興味のある話でもなかった。でもそんな話を聴くのは僕も嫌いじゃない。
だって男がする話の内容のほぼ全てがどうでもいい事だし。
話している時の相手の声と表情と雰囲気は
僕にとっても重要なものなのだけれどね。
彼とはその後で一緒にベッドに入った。
その時にしたセックスの事は憶えていない。
延いては彼とした全てのセックスの事を憶えていない。
きっと彼との交わりは良くもなければ悪くもないものだったのだろう。
だって僕の人生に登場した男たちと行ったセックスの中には
今でも憶えている物もあるし、
たまには思い出すものだってあるから。
だけれど僕は彼に教えられたメンドーサの事を今でも憶えている。
川端康成は別れる男には花の名前を1つ教えなさいと言った。
花は毎年咲くのだからと。
この言葉は良い警句だと思う。
だって僕は彼としたセックスの事も忘れてしまったし、
想像した彼への愛情も忘れてしまったけれど、
彼に教えられた知識だけはこうして憶えているのだから。
そして当時の事を思い出す。ほんの少しだけ不思議な気持ちだ。
昔の事を思い出すのは、運命の中では必然的な事なのだろうけれどね。
アルゼンチンワインの美味しさの秘密はマルベックというブドウの品種でね。
マルベックは黒くて、その雫はスミレの匂いがする。
僕がいつか聴いた言葉と同じ言葉を、目の前に座るアルゼンチン人の依頼主が言った。
人生の中で、言葉というのは周りめぐり何度も同じ物が現れるものなのだろうか?
思いに捕らわれるよりも、仕事をしなくては。僕は彼に尋ねる。
—依頼の事を、ご家族の事と聞いておりますが。
僕の言葉に彼は笑顔のままで頷いた。


ああ、そうだね、
ぼくの弟に関する話なんだよ、
ぼくには年の離れた弟が居てね、
あの時、彼は20歳になったばかりだったと思う、
ぼく達兄弟は30歳以上も年が離れていると言うわけ、
あなたの考えているとおりに母親はそれぞれ違う、
異母兄弟というわけさ、
父が今のぼくと同じ年くらいの時に作った子供だ、
若い愛人に産ませたんだ、
父は年を食った時分に子供を欲しがっていた訳じゃない、
ただ女が好きだったんだ、色々な女がね、
そんな事をしていれば妊娠する女も出て来る、
だから弟は必要とされて誕生した子供ではなかった、
でも父は産まれた子供をとても可愛がった、
僕は父にとても厳しく育てられたけのだけれどね、
弟は可愛がられた、
まあ、男が年を取るという事はそういうものなのだろうね、
その頃にはぼくが家督を継いでいたから、
ぼくは経営者として生きていて、
弟は溺愛される御曹司として人生を始める事が決まったんだ、
銀のスプーンをくわえて産まれたってやつ、
いわゆるスーパーリッチキッズってやつだね、
フランク・オーシャンだ、
え?フランク・オーシャンを知らない?、
歌手なのだけれど、
そうか、彼の知名度もまだまだだね、
まあ、知らないのだったらちょうど良いね、
話を戻すよ、
ああ、いやね、
別に歌手の1人や2人を知らないからといって恥でもなんでもないよ、
なんせ僕も今日の朝食に貴女が何を食べたのかは知らないもの、
それと同じことだよ、
さて、ぼくと弟の間にも物語はあったよ、
正直に言うと、
父に可愛がられる年の離れた弟の事を見るのは良い気分じゃなかった、
彼としても30歳も年の離れた兄とどう接すればいいのか分らなかっただろう、
でも弟は成長して、ぼくも年を取った、
結局は和解したのさ、
ぼく達兄弟の和解の経緯は端折るよ、
長くなりすぎてしまうからね、
話しを今から1年ほど前に飛ばすよ、
弟が20歳の頃の話だ、
ぼくも弟も産まれたのはブエノスアイレスでそこで育った、
葡萄園があるのはメンドーサだ、
ブエノスアイレスとメンドーサは1000kmも離れているんだ、
僕たちの職業的な肩書きはワイン生産者だけれど、
長靴を履いて葡萄畑に出るタイプじゃないということさ、
フランスのシャンパーニュ地方に葡萄畑を持つ一介の生産者が、
メゾン・モエを設立して家族経営の努力の結果として会社を拡張し、
モエ・エ・シャンドンという社名に変更して、
研究の結果としてドン・ピエール・ペリニヨンというシャンパンを生み出し、
世界中にシャンパンを供給し、
やがてはルイ・ヴィトンと合併してLVMHという大企業になったように、
ぼく達はビジネスとしてアルゼンチンワインを生産して、
世界中のレストランやデパートに供給している、
だからブエノスアイレスで暮らして居るというわけ、
良い都市だよ、
パリがブレスノアイレスに良く似ている、
それに東京のこの街も雰囲気が似ているね、
そんなブエノスアイレスで暮らしていた弟の生活を説明するよ、
彼は父と母と一緒に暮らしてた、もちろん彼を産んだ若い母親の事だよ、
都市の真ん中に建つ高級マンション暮らし、
最上階の部屋が彼に割り当てられた、
ペントハウスという奴だね、
傍らには大きな屋外プールが設置されている、
気が向いたら何時でもプールに飛び込める、
前日、散々遊んだ彼は、
朝、部屋に差し込む燦々とした日光に強引に起される、
太陽の力強い光で辺り一面は真っ白だ、
目が慣れるまでベッドの中でまどろむ、
やがて目覚めた彼は足を床に下ろす、
よろけた足取りで大きなガラス窓の前まで向かう、
目ヤニの付いた目の前に広がるのは絶景、
青空と近代的なビル群、ガラス張りとコンクリート
旧来の伝統的な建物、白い石材、そそり立つ大小の波の様に見える、
街並という大海を眺めている気分、街行く人々の影を彼は見る事が出来ない、
とても高い場所に住んでいるからだ、
部屋の隅にあるミニバーに手を伸ばす、
スペイン杉で作れたケース、大理石のデスク、
常に新しいアルコールとグラスとアイスが補給されている、
もちろんドラッグなんかもね、
カクテルを作って喉に流し込む、
壁掛けされている巨大なテレビジョンにリモコンを向ける、スウィッチオン、
ニュースが放送中、
画面上に現れて消えていくのは金が絡んだ事件、
金が絡んだ暴力、金が絡んだ愛憎、
経済評論家、株価、原油価格、GDP
彼はそれらを笑う、彼には金の事などは一切の問題にならないからね、
1億でも、2億でも、10億でも20億でも小銭と変らないと思っている、
気分が乗っていれば、朝からプールに飛び込んだって良い、
自分が裸である事に気が付いた彼は新しい下着を着る、
新しいシャツ、新しいスーツ、新しい靴、新しい時計を身に着ける、
全てが一流品、そして買ったばかりの車、
新鮮な物ばかりを身に着けて新しい1日を始める
執事やメイドを雇っているから何も問題はない、
1日を始める準備を自分でする必要は無いというわけ、
友達を自宅に大勢招く、パーティーの始まり、
フランスワインと新鮮なマリファナを振舞う、それにコカインも、
みんなこれが大好きさ、
ワインのラベルにロートシルトやピュリニー=モンラッシェ、
ブルイィ、エシェゾー、ラ・ターシュと書かれている、
高品質の高級ワイン、
だけれど、彼ら、麻薬で酩酊した頭では読めなかっただろうね、
まあ冷静な頭であっても、
彼らがフランス語を読めたかどうかは疑わしいけれどね、
ワイン生産者の息子とその仲間達だというのに、
家には、父も彼の母親も滅多に居なかった、
その頃の父は新たに手に入れた、
肌も髪も新鮮で胸の張った若い玩具に夢中だったというわけさ、
そして継母は父親の金で高級品を買い漁る事と若い男に夢中になった、
継母には同情するよ、
ぼくと継母は仲は良くなかったけれど、
彼女に対して、さぞ大変だっただろうなと、
想像力を働かせる事はできるんだ、
ともかく弟の住む家に両親はない、
ぼくは父にも彼の母にも何も言わなかった、
弟と向き合えと言わなかった、
それがぼくの罪と言うやつさ、
メイドも執事も見て見ぬ振りで、
だから彼らはやりたい放題、
父のジャグワァーを乗り回しては、
場末の売人から麻薬を手に入れる、
売人に騙されて粗悪な薬を掴まされても問題はない、
金は使い放題、別の売人からまた買えば良いだけ、
そうやってちょっとしたスリルを手に入れていた、
仕舞いには父のカーコレクションを、
バットやゴルフパッドでぼこぼこにして遊ぶ、
弟が何を訴えようとしているかは誰もが分かっていたのに、
彼と真剣に向き合う人間はいなかった、
当時のぼくはこう言うだけだった、いそがしく弟と話す時間がない、
そんな弟のもとには、
偽りの友達と偽りの恋愛しかやってこない、
金と麻薬とワイン目当ての友情と愛情、
弟は以前、1人でつぶやく様にしてぼくにこう言った事がある、
おれは本当の愛を探しているだけなんだ、本当の愛を、
本当の愛を探しているだけなんだ、
そんなの簡単な事なのに、
なんでこんなに難しいんだ?、
そんな日々が続く、
そして弟は別の言葉をつぶやくようになった、
死にたい、というよくある言葉だね、
きっと貴女だってこの言葉を人生の中で何度か呟いた事があるはず、
正直に言うとぼくだってこの言葉を1週間に8回はつぶやいているよ、
弟はそんな言葉をつぶやく様になったけれど、
それでも彼にはお気に入りの女の子が居た、
友人達がマリファナとコカインとワインに夢中になっているあいだに、
2人はこっそりとプール付きの屋上に出る、
まだ昼間だから太陽は高い位置に留まっている、
その光が彼らの顔を照らす、温く穏やかな風が2人の頬を撫でる、
眩しくて何も見えない、2人は手を繋いで目を細める、
目が慣れて来ると、
眼下にそびえるビル群と穏やかに波立つプールの水面が見える、
そして弟はふざけて屋上の淵に上がった、
足を踏み外したら地面に真っ逆さまだ、
弟は女の子の顔を観る、笑いながら冗談を言う、
このまま地面に飛び込んでしまおうか?、
すると心配した女の子が彼の腕を取る、
彼女は言う、それよりこっちの方が楽しいよ、
2人はプールに落ちる、2人分の水しぶきが空に上がって太陽にきらめく、
水の中で2人は笑い合って戯れ合って、キスをしてセックスをする、
その日を楽しく過ごす、
だけれど誰だって知っている、明日はやってくる、
前日には散々遊んだ彼は、朝になった部屋に差し込む日光に強引に起される、
辺り一面は真っ白で目が慣れるまでベッドの中でまどろむ、
目覚めた彼はガラス窓の先に広がる絶景を見る、
青空、ビル、ガラス張り、コンクリート
古い建物、石材、大小の波、グレイとホワイトの大海、
最高の景色、もう見飽きている、
街行く人々、彼には関係がない、
ミニバーには新しい酒とドラッグが用意されている、
外にはプール、飛び込んでしまおうか?、
カクテルを飲みながらニュースを見る、
世の中の事でさえ彼には関係がない、10億も20億も同じだから、
裸の彼は新しい服を着て新鮮な一日を始める、
執事やメイドを雇っているから何も問題はない、
誰も彼とは向き合わない、
おれは本当の愛を探しているだけなんだ、本当の愛を、
本当の愛を探しているだけなんだ、
そんなの簡単な事なのに、
なんでこんなに難しいんだ?、
彼は今日も大勢の友人を自宅に招く、パーティーの始まり、
そして弟はつぶやく、死にたい、
ひっそりとつぶやくんだ、
空中に向けて、自分に向けて、他人に向けて、神に向けて、死にたいと、
そして決定的な日がやって来る、
その日も弟は遊び疲れて寝ていたペントハウスのベッドの上で太陽に起されて、
眠気覚ましの酒とドラッグを味わって、
窓の外の見飽きた景色と金が飛び交うニュースを見る、
裸、プールに飛び込んでしまおうか、
新しい下着とスーツを身に纏って、
死にたいとつぶやいてから部屋を出る、
名前の読めないワインとマリファナでパーティー、コカインも沢山ある、
偽りの友達、偽りの恋愛、
家には両親は居ない、新しい玩具、買い物中毒、若い男、
売人、粗悪なドラッグ、ゴルフクラブ、潰れたジャグワァー、
それでも彼にはお気に入りの女の子が居て、友人達が朦朧としているあいだに、
2人きりで屋上に上がる、
まだ昼間だから太陽は輝いている、
光が彼らの顔を照らす、風が2人の頬を撫でる、
ビル群と波立つプールの水面、
弟は何時もの様にふざけて屋上の淵に上がる、
落ちてしまおうかなんて冗談を言う、
彼女が心配して彼の腕を引く、
ところが今日に限っては何時もと違う事が起きた、
弟が着ていた高級スーツの袖が破れたんだ、
驚いた弟は淵から足を踏み外した、
内側じゃなくて外側にね、
プールがある側ではなく、ビルが並ぶ外側に足を踏み外した、
高級スーツは見た目も美しい、着心地も良い、だけれど翼は付いていない、
どんなに高いスーツを身に纏っていても空を羽ばたく事は出来ないんだ、
60階下のショピンセンターに向かって彼は真っ逆さまというわけ、
落ちながら弟はつぶやいただろう、
おれは本当の愛を探しているだけなんだ、本当の愛を、
本当の愛を探しているだけなんだ、
そんなの簡単な事なのに、
なんでこんなに難しいんだ?、
こんなはずじゃなかったのにと思いながら死んでいく奴が山ほどいる、
金が余るほどあってもそれは変らない、
そして弟の頭が地面にぶつかり、潰れる、
彼は目を閉じて自分が死ぬ瞬間を感じた、
こんなはずじゃなかった、愛を探していただけなんだ、
これが僕の弟が産まれてから死ぬまでの話だよ、
そして依頼というのは、
おっと、
失礼、
電話だ


彼はポケットから携帯電話を取り出す、通話ボタンを押す。
彼の口から出て行くのは日本語でも無く今まで話していた英語でも無い言葉だ。
電話の向こう側にいる相手との十数秒間の会話のあと、
依頼主はにっこりと笑った。
そして僕に対して言ったんだよ。全て解決したので依頼はキャンセルします。
依頼主は標準よりも多い相談料を置いて去ってしまった。
だから依頼内容は結局分からずじまいというわけ。
僕が脇役としてですら登場しなかった仕事だよ。


依頼主は解決して欲しい問題を僕達に語る。
僕達は彼らが抱える問題を毎日の様に聞かされる。
まあそれが仕事なのだけれど、僕は思ってしまう事がある。
問題とはいえ彼らは人に語るべき物語を持っている。
物語の中では彼らこそが主役で僕は脇役だ。
では僕はどうなんだ?
自分を主人公にして他人を脇役として語る物語を持っているのだろうか?
僕自身が経験した恋や愛の話でさえ、僕には自分の物語とは思えない。
主役という立ち位置からは遥か遠く、
僕は僕自身から剥離した場所にぽつねんと立っている。
実感が無い。過去の事だから実感が無いのか、
始めから実感がなかったのかも分らない。
今している恋でさえ、僕のものなのかどうなのか。


ベトナム人の彼は映画と恋の関係を語った。
コートジボワール人の彼は家族と子供達そして富についての物語を話した。
アメリカ人の彼は世界経済と自分の仕事の役割を聞かせた。
トルコ人の彼は異国の地で体験した不思議な事件が人生に与えた影響を告白した。
中国人の彼は国家との闘争と個人の精神的闘争を述べた。
メキシコ人の彼は彼自身が作ったストーリーを発表した。
ロシア人の彼は仕事と一個人の人生の関わりを表現した。
インド人の彼は裏切りへの怒りを表明した。
アルゼンチン人の彼は愛と金と人間の関わりを嘆いた。


彼らの様に語るものもなく、話す事も無い僕は、
誰かの物語に登場する脇役。
物語の中にひっそりと現れる微かな物音。
誰かの耳を引っ掻き回す騒音ではないだけ、少しはマシだと思っているけれど。
僕はどこかに落ちている落ち葉、枯葉、
部屋の角にひっそりと置かれた観葉植物。
ともかくそれで僕自身の物語は、
終わり。




.

ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 3ページ目(不定期更新の短編小説)

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変な仕事というのは精神的な物ばかりではないんだ。
現実的な仕事でも不思議な結果になったものはあるよ。
依頼主は中国人。短く切った黒髪。
痩身というよりも、栄養が行き渡っていなくて痩せている体。
肌は褐色で、褐色なのは元からではなく
厳しい生活を営んできたからなのだろう。
彼は黒い瞳をを一直線に向けて、口を開く。
自分が不法移民である事を僕たちに伝えた。
料金は全て前払いで支払うという。
客が不法移民であっても仕事の内容が
僕たちが考える倫理の範疇を越えていなければあまり問題にはならない。
猫探しならば喜んで引き受ける。
問題は金と僕たちの身の安全が保証されているかだ。
前払いだから金は問題ない。
そして安全で簡単な仕事だと依頼人が言う。
安全と簡単を強調する仕事が
実際は簡単でもなく安全でもない事は多々ある。
一番多いのは簡単で安全ではない仕事。
次に多いのが安全で簡単な仕事。次が安全で難しい仕事。
一番少ないのは難しくて安全ではない仕事という訳。
とはいえ別に危険という事ではないんだ。
安全ではない事と、危険な事はまた別の事だからね。
さて今回はどうかな?
—不法入国ですか?
僕の疑問に、依頼主は真っすぐな目のままで答える。


病院、
病院にも色々な種類があります、
診療科の区分けがあり、
それぞれの専門分野があり専門医が居ますよね、
内科や外科や皮膚科などの事です、
診療科を束ねて設置している総合病院もあり、
総合病院でも成人専門の病院や小児病院があります、
精神科病院という存在もあります、
私は日本に渡るまで、中国の精神科病院に入院していました、
精神科病院が日本にもある事は知っていますよ、
日本では精神科病院の管轄はどこでしょうか?、
私が尋ねているのは精神科病院を管轄する行政機関の事です、
衛生部でしょうか社会保障部でしょうか?、
中国では精神科病院を管轄する機関は複数に跨がっています、
中には公安部が管理の権利を有する精神科病院があります、
安康医院と言うのです、
中国全土に40程の安康医院があります、
公安部とは中国の警察を担当する行政機関の事です、
公安部は一般的な犯罪者を逮捕する仕事以外にも、
政治犯の逮捕、矯正などの権利を持っています、
公安部の中には中国国内の政治的叛乱分子を監視する公安警察があります、
公安警察は治安を乱す恐れがあると判断した国民を、
裁判無しで捕まえる権限を持っています、
具体的な犯罪を行っていなくても逮捕できるのです、そして矯正を行います、
ここまで話せば、
中国では精神科病院がどの様な機能を持っているかはお判り頂けると思います、
安康医院には異常な振る舞いをした人間以外にも、
政治犯、政府の意向に反した陳情をした人間、
一人っ子政策に違反した人間が収容される場合もあるのです、
私は武漢市で民主化運動に参加していました、
武漢市は省に管轄される市でありながらも独立的な権利をもっています、
地理的、経済的に重要な場所なのです、
なので武漢で運動をする意味はありました、
私は著名な運動家ではありません、
しかし影響力のまったくない運動家でもありませんでした、
つまり中国政府からすれば格好の的だったのです、
中国政府による私の拘束は、
社会的な影響を与える程には話題になりませんでした、
しかし民主化運動、他の運動家には影響を与えました、
私の逮捕は武漢市における民主化運動の沈静化に役立った事でしょう、
安康医院に入院した最初の日の出来事をよく覚えています、
病院と言っても石で出来た砦の様な建物です、
言っても清潔さはなく、
ぬかるんだ地面、苔の生えた岩肌、据えた体臭の臭い、
汚れたシーツ、部屋には区切りも、自室も無い、
ある男が私の事を見ました、私も男の事を見ました、
気が付きました、
男は私と同じ様に安康医院に入院されられた運動家だったのです、
男が数年前に逮捕されていた事を思い出しました、
彼はぬかるんだ地面に虚ろに立っています、
首をおかしな方向に曲げていました、
彼が言いました、
ここに居るせいでおかしくなってしまった、
異常な場所にいると人は異常になるという事です、
私は彼を見て映画のゾンビを想像しました、
私は彼の様にはならないと誓いました、
ですが入院生活は厳しく孤独で厳しいものでした、
入院での生活は厳しく孤独でした、
入院生活は厳しかったのです、
生活の厳しさと孤独は万人の問題です、
数年の入院生活は孤独でした
厳しさと孤独です、孤独でしたね、
孤独、
知っていますか?、
立ったままする食事の不味さを、
食卓も肘を掛ける台もありません、
ぬかるんだ地面に棒立ち、
あるいは苔の生えた岩肌に寄りかかり食べのです、
すえた臭いの中で、何時釈放されるか分らない時間の中で、
数年の厳しい入院生活の後で私は退院しました、
私はもう役に立たなく成っていたのです、だから解放されたのでしょうね、
そしてもう中国には居られないと感じました、
何時如何なる時も彼らに私は監視されていたのです、
病院の外の社会に残されていた物はほとんどありませんでした、
家族も友人もどこに行ってしまったのでしょうか?、
眠る時、窓の外に揺れる影に怯える毎日でした、
病院を出ても尚、私は孤独でした、
いえ、より一層孤独でした、
外には希望があるはずだったのに、
外に出たら希望はありませんでした、
だから私は日本へと逃げる事にしました、
彼らの監視を逃れる為に、
日本には私と似た様な人間が多くいますから、
入院生活で唯一と言ってもいい良い事がありました、
それは伝手です、
私は妻とダンスホールで出会いました、
一生の友だと思っていた友人とは大学で出会いました、
ある場所に行かなくては出会えないに人々が居るという事ですね、
刑務所の場合は犯罪者です、
私は安康医院で得た伝手を辿って密入国の仲買人に会いました、
入院の前に隠していた金が役に立ちました、
真夜中、暗い港から古い漁船に乗り込みました、
舟底に作られた部屋に押し込まれて、
きっとあの部屋は元々は捕まえた魚を入れておく生け簀だったのだと思います、
そして日本へと向かったのです、
何日間掛かったのかは分かりません、
私以外にも多くの密航者がいました、
誰とも口を交わしませんでした、
密航は成功しました、
腐った塩の臭いがする密室からでました、
私が初めて見た日本は海です、
夜明け直前の海です、
船から抜け出して見た光景を私は忘れません、
闇が太陽に追い払われる直前、
波は荒く黒ずんでいる、
光は未だ差し込まない、
暗闇の海の向こう側に中国大陸は見えません、
ただ荒れた海があるだけです、
私は実感しました、
私にはもう所属する国など無いのだと、
日本は異国です、海に囲まれた大地です、
ここからは何処かに逃げる事はできません、
私に逃げる場所は残されていない事を実感したのです、
残っているのは私自身の肉体と精神のみです、
私はこの時になってやっと決意しました、
身1つ心1つを持って最後まで生き抜こうと、
ゾンビになるのは絶対に嫌でした、
国の意向も政治も関係ない、
私は所属する国家を失った、
国家権力や監禁、病院の決めつけにより、
私の身と心を支配しようとする試みが幾度と無く行われてきました、
家族も友も失い、財産も無い、殆ど全ての物を失ったんです、
ですが、真っ暗な先の無い海を観た時に自覚しました、
私こそが私自身の唯一の支配者なのだと、
私は私の人生と闘わなくてはならない、
後ろは海で、目の前には異国の空と大地が広がっている、
一敗地に塗れた私は乾いた砂浜を強く踏みしめました、
その時、鮮やかな潮風が私の鼻をくすぐったのを覚えています


彼は最後に繰り返した、
病院の外に有った物は殆ど失った。
けれど僅かに残されていた物もある。
彼曰くとても大切な物。
今は鍵付きのスーツケースの中に保管されている。
スーツケースが依頼と関係している。
つまり依頼とはスーツケースを1ヶ月間預かる事だったんだ。
中身は見ないで欲しいという注文付きでね。
自宅に保管するのもコインロッカーに預けるもの不安との事、
僕たちは協議の結果、依頼を受ける事した。
社長の強い押しがあったのが決定打となった。
まったく上司という物は意味が良くわからないね。
さて不思議な出来事は依頼を達成した後に起ったんだ。
1ヶ月後にスーツケースを彼に返還。
彼は直後、僕の目の前でスーツケースをゴミ捨て場に投げ入れたんだよ。
彼曰く、もう中身に価値は無くなったから。
爽快とも諦めと判断がつかない笑顔を浮かべていた事を覚えている。
当時の彼と1ヶ月前の彼とを比べると明らかに違う点があったんだ。
違う点とは彼の指が2本少なくなっていた事だね。
指の損失とケースの中身がどう関係するかは訊かなかった。
けれど、瞳には一応の生気が辿っていたから、
彼の中では問題は無いという事なのだろう。




極めつけのおかしな依頼はメキシコ人から持ち込まれた。
寺か教会にでも相談に行った方が良いのではないかという様な内容。
普通の人が聴いたら眉を潜めるであろう不思議な相談という訳。
メキシコ人の依頼人
白いあご髭、黒髪のオールバック。肌は褐色。黒いシャツ。
黒いスーツを着ている。
首から下げている太目の目立つネクタイ。
赤い。
事務所の外には高級な外国車が止まっている。
黒塗り、スモークガラス、ホイールは交換されている。
優秀なビジネスマンといった風貌。
彼のビジネスが一般的な物であるかどうかは保証しないけれど。
普段は鋭いと思われる瞳。
だけれど今は戸惑いと恐れが浮かんでいる。
ーこの石は?
僕は彼に差し出された石片を手に取る。質問する。
彼はジャケットのポケットからハンカチを取り出す。
額に滲んだ汗を押さえながら話始めた。


どこから話をしようか悩んでいる、
今からは話すのは少々複雑な内容だ、
複雑な話がなぜ複雑になるかと言えば、
1つの話が別の話に影響を与えていて、
別の話もまた別の話に影響を与えているからだ、
そして影響を受けた話は元の話にも影響を与える、
影響は乱反射して全ての出来事に影響を与える、
反射した影響はまた別の影響を作り出し、
その影響もまた反射する、
そうして複雑さは増していく、
連鎖ではなく影響なのが話の複雑さを増している、
連鎖は繋がって続いている事だが、
影響は空気の様なもの、
風邪や病気のウイルスみたいなもので、
確かにあるのに明確には見る事が出来なくて、
何処からどの様に感染したのか判断するのが難しい、
言わばもつれ合った糸の様であり、植物の根の様だ、
始まりと終わりがあまり明確ではない、
だからどこから始めれば良いのかわからない、
なので、良く良く注意して俺の話を訊いて欲しい、いいな?、
世界を救うという言葉で何を連想する?、
チャリティー環境保全活動か動物保護か?、
それともハリウッドのアクション映画か?、
ヒーローコミックの主人公?、
小さい頃自分が伝説に出て来る、
勇者かなにかじゃないかと思った事はあるか?、
ラブクラフトという作家が居る、
彼が書いた物語は怪奇小説だ、
後の作家に多くの影響を与えた物語だ、
物語は群として扱われ1つの架空の神話体系を構築していった、
ラブクラフトの生前と死後、
他の作家は架空の神話体系を利用して自らの物語を作り始めた訳だ、
様々な作家が1つの世界観や登場人物を共有して様々な小説を書いたんだ、
神話には神々が登場していて、彼らは善悪の彼岸を闊歩(かっぽ)し、
地球上のみならず宇宙の片隅にまであまねく存在している、
さて次は北アメリカ大陸の南部、中央アメリカの話だ、
ああ、
もうラブクラフトという作家の話は終わりだ、
一旦はね、
さて次は北アメリカ大陸の南部、中央アメリカの話だ、
中央アメリカだ、知っているか?、
アメリカと言うのは国の名前じゃない、
大陸の名前だ、
アメリカ大陸だ、
アメリカ大陸という名称は
アメリゴ・ヴェスプッチというイタリア人航海士に因んで、
名付けられたんだ、
ブーゲンビリアという名前の花がある、知っているか?、
フランス人の探検家ブーゲンビリアが発見したから、
彼の名前が花に付けられたんだ、
花も大陸も同じ様な規則で名前を付けられるものらしい、
第1発見者の名前だな、
だが花も大陸も発見される前から存在していた、
そして生存して繁殖していたんだ、
発見という奴は随分身勝手な見解だ、
そんなアメリゴが発見したアメリカ大陸、
アメリカ大陸の最西はプリンスオブウェールズ岬だ、
プリンスオブウェールズ岬はアラスカにある、
アラスカとはアメリカ合衆国保有する飛び地だ、
アメリカ合衆国は北にあるカナダを飛び越えて、
その先の北の大地、アラスカを支配している、
プリンスオブウェールズ岬の西には、
ベーリング海が広がっている、
ベーリング海を渡った先にはロシア連邦のデジニョフ岬がある、
デジニョフ岬はロシアの最東端、ユーラシア大陸の最東端だ、
アメリカのプリンスオブウェールズ岬と、
ロシアのデジニョフ岬、ベーリング海によって分割されている土地だ、
2つの岬は90キロメートルも離れていない、
そして少し北に向かえば直ぐに北極大陸がある、
これでアメリカ大陸北部の事は分かっただろう?、
次は南の話だ、アメリカ大陸の最南の話しだ、
アメリカ大陸の最南はフロワード岬だ、
フロワード岬はチリが保有している、
フロワードとは制御出来ないという意味の英語で、
この岬が常に強風と豪雨で覆われているから、
大昔の探検家にそう名付けられたんだ、
フロワード岬の先にはマゼラン海峡がある、
太平洋と大西洋を結ぶ海峡だ、
大陸を回り込む為には通らなければならない場所だが、
航海士は神に祈りながら必死の思いで暴れる海の中を進んだだろうな、
北極に近いアラスカのプリンスオブウェールズ岬と、
チリのフロワード岬、
つまりアメリカ大陸というのは南北に伸びる巨大な大陸なんだ、
それがアメリカ大陸だ、
この巨大な大陸はパナマで2つに結ばれている、
パナマにあるサンブラス地峡で結ばれているんだ、
地峡は土で出来た橋の様なものだ、
サンブラス地峡の幅は50キロメートルしか無い、
そんな小さい土塊が、
北は2千4百50万平方キロメートル、
南は1千7百80万平方キロメートル、
合わせると地球上の陸地の約30パーセントを占める大陸を繋いでいるんだ、
サンブラス地峡で繋がっているから、
南北のアメリカ大陸は大きな1つの大陸と看做されている、
だがもともとは2つは別の大陸だった
南の大陸は大昔、南極から分離した、
一方の北の大陸はユーラシア大陸から分離した、
300万年程前に2つの大陸は出会いアメリカ大陸が出来あがった、
元々は別々の存在だったから、
それぞれの大陸に住む動植物は異なる生態系を保っていた、
南北の大陸が繋がる以前、数百万年の孤独の中で、
独自の進化、発展を遂げていたんだ、
そこにサンブラス地峡が出来上がる、
すると2大陸の中でぞれぞれ孤立していた動植物は、
南北の大陸を行き気する様になるんだ、
地峡や空や海を渡り、
ネコ科の生物や、鳥や、虫や爬虫類が交差しだす、
影響を与えあいそれまでとは進化の方向を変える、
あるいは交配を行い繁殖をしていった、
時代が進むと人類が地球史の表舞台に登場する、
彼らも動物達と同じ様に南北の大陸の中で影響を与え合ったんだ、
アメリカ大陸の面白い所は、
別々の大陸から切り離された大陸同士がぶつかって、
また大きな大陸を作り出した所にある、
分離、孤立、そして別の大陸との一体化、
欧州とアジアがあるユーラシア大陸は、
アフリカ大陸とも繋がっている、
エジプトにあるスエズ地峡で繋がっているんだ、
だが元々はアフリカ大陸はユーラシアとは別の大陸だった、
時代が進んでぶつかったんだ、
それと似た様なものだ、
スエズ地峡パナマ地峡には運河が通っている、
人間が作った人工の河だ、船を通す為の水路だ、
運河が出来る事で貿易船は大陸を大回りせずに、
別の海への行き来が出来る様になった、
人間の手で大陸が切り離されたんだ、
自然の影響で数百万年掛けて繋がった南北のアメリカ大陸、
同じ様にして繋がった欧州アジアとアフリカは、
現在は人工的に切り離されているんだ、
人間によって切り離されたんだ、
一方で自然によって切り離されたままの大地もある、
島と言う存在だ、
太平洋やインド洋には数多くの大きな島が浮かんでいる、
スマトラ島やジャワ島、ティモール、オーストラリア、
ここ日本もそうだ、
島に住む動植物は交差せず混合せずに、
独自の進化発展を遂げている、
島はこれからも孤立したままなのかもしれないし、
そのうち何処かとくっつのかもしれない、
島に生きる生物は孤立したまま独自性を保ち進化するかもしれないし、
何処かとくっ付いて交配を行うかもしれない、
さて中央アメリカとはそんな南北のアメリカ大陸の中央に位置している、
中央という名前の通りにな、
ニカララグ、ホンジュラス、ガテマラ、そしてメキシコがある地域の事だ、
そんな中央アメリカは世界から2000年間も隔離されてきた、
人類が作り上げた文化が発展し、
彼らが狭い集落、国家内での取引から飛び出して、
車輪を有する乗り物と船を使い、
他大陸と貿易する事を学び実践しだしてもな、
当時の世界と言えば、欧州、
中東、アフリカ、アジアだけだったからな、
それに世界の王者であるアメリカ合衆国はまだ産まれていなかったんだ、
中央アメリカは外国からの干渉がなく、
2000年かけて独自の文化を発展させてきた、
代表的なのがアステカ文明だ、
彼らの行う神に人間の命を捧げる儀式が好事家たちに有名なあの文明だ、
人間を祭壇に捧げるやり方は色々あった、
生皮を剥いだり、燃え盛る炎に投げ入れたり、
刃物で切り刻んだり、もちろん生きながらだな、
時代が経って中央アメリカに栄えていた文明は滅ぶ事になる、
スペイン人がやってきたんだ、航海者のコロンブスに導かれてな、
大発見時代、欧州の王国による新しい植民地と資源の開拓、
中央アメリカ2000年の文化はスペイン人によって破壊された、
男たちは殺され、女子供は犯された、資源は無くなり、土地は荒廃した、
日本でも学校で習うだろう?、
コンキスタドールという奴らさ、
人的な侵略の後で、
欧州から持ち込まれたある物が原因となって、
中央アメリカの人口は更に激減する、
持ち込まれ物とは病気だ、
よく言うだろう、貿易によって運ばれる物の中でも、
国の歴史にもっとも大きな影響力を与えるのは、
武器と病原菌と鉄だって、
欧州人が罹っても何ともない病気に、
アメリカ大陸の彼らは罹って死んだ、
欧州から運ばれた病原菌に対する免疫が無かったんだな、
だけれど病気を克服して生き残った人々もいた、
生き残った者の中には支配者たるスペイン人と子供を作った人間も居た、
次の時代、中央アメリカにアフリカ人が奴隷として運ばれて来た、
中央アメリカの古代文明は破壊されて、
新しい国が出来上がりつつあった、
欧州からやって来た支配者のスペイン人、
生き残った先代の文明人、連れて来られた奴隷のアフリカ人、
3つの人種によって国が形作られて行く、
支配や叛乱や革命の歴史の中で混血が起る、
そして出来上がった国がメキシコだという訳だな、
次の話だ、アンブローズ・ビアスというアメリカ人の作家が居る、
彼は若い頃兵士だった、南北戦争初期から戦争に参加していた、
奴隷解放軍、北軍の兵士だった、
戦後はジャーナリストになり小説家として活躍した、
アメリカの映画にシックスセンスという奴があったろう?、
実は主人公は既に死んでいました、
幽霊でしたって映画だ、
あの映画の元ネタを書いたのはビアズなんだ、
だが彼の作品で1番有名なのは悪魔の辞典だな、
タイトル通り辞典なんだが、
単語に対する解説が辛辣なんだ、
平和という言葉の解説にはこう書いてある、
2カ国間以上で行われる、戦争と次の戦争の間の騙し合の期間、
マチュアという言葉にはこう書かれている、
余暇を自分の技術と思い込み、
自分の野心を自分の能力だと混同している、
世間の厄介者、
回想という言葉の解説には、
様々な事を付け加えながら、過去では知らなかった事を思い出す行為、
悪魔の辞典は辛辣な言葉を使って言葉の解説が書いている本だ、
さて彼は晩年になってメキシコを訪れている、
当時のメキシコは革命の真っただ中でその取材にビアスは来た訳だ、
彼はメキシコ革命の英雄パンチョ・ビリャに付いてメキシコ各地を回っている、
だがビアスはこの取材の最中に行方不明になっているんだ、
チワワ州に入ってからの行方が分かっていないんだ、未だにな、
もちろん遺体も見つかっていない、
噂は無数にある、
戦闘に巻き込まれて死んだ、政府軍に捕まって処刑された、
脱走兵や蛮人に食われたとかな、
さて、メキシコというか中南米は、
スペインによって征服された植民地だったという事は既に話したよな、
欧州による植民地時代が長く続いた後で戦争が起こった、
司祭にして革命家のイタルゴ神父や、
英雄ボリーバル将軍に導かれた被支配階級の人々は、
中南米各地を解放し欧州からの独立を勝ち取った、
独立戦争という奴だな、
欧州からの独立の後で起ったのがアメリカとの戦争だ、
現在アメリカ合衆国の領土であるテキサス、
テキサスは本来メキシコの物だったんだ、
テキサスというのはそりゃ広い土地でね、
俺も当時はテキサスなんて呼んじゃなかったけどな、
テキサスは本当はテハスという名前の土地だった、
テハスはメキシコの土地だった、
テハスはアメリカ人の移民を受けいれた、
なんせ土地が余っているんだ、
だからメキシコで暮す事を望むアメリカ人に土地を売る事にしたんだ、
メキシコでの資源採掘、
綿の製造をして商売を始めようとしているアメリカ人にな、
商売人とその雇用者家族に限定して移民を認めたんだ、
ニューオーリンズから奴隷と共にやってきたアメリカ人は、
大量の綿を作り輸出した、
テハスはメキシコ、アメリカ双方にとって経済的に重要な土地になった、
そして初期入植者以外のアメリカ人が増えていく、
1819年当時、アメリカは恐慌に襲われていた、
仕事があれば人も増える、
テハスにやって来たアメリカ人の中には不法移民もいた、
テハスに増えるアメリカ人、テハスの経済化、
そして合衆国はテハスを欲しがる様になった、
増え続けるアメリカ人を警戒したメキシコ政府は、
移民受けれ入れを終了した、
メキシコ政府とテハスで暮らしていたアメリカ人との間で、
小競り合いが起こる様になる、
最終的にはアメリカ人による叛乱が起こる、彼らの目論みは成功した、
テハスは独立、
テキサス共和国の樹立だ、勿論メキシコ政府はそんな国を承認しなかったがな、
そして9年後、テキサス共和国アメリカに併合された、
その1年後、テハスを奪還したいメキシコ政府と、
メキシコの土地を更に欲しがったアメリカの間で戦争が起る、
米墨戦争だな、アメリカはメキシコ北部の土地も手に入れようとしたんだ、
メキシコ北部は北アメリカ大陸における太平洋の出入り口だからな、
海洋国家イギリスに負けない為にも、
当時のアメリカには必要な土地だったのだろう、
海を制す物は世界を制すだな、
米墨戦争の結果は酷いものだった、メキシコは大敗した、
なんせアメリカ軍が最新式の銃を使っているのに対して、
メキシコ軍は、
ナポレオンが起した一連の戦争の時に使っていた銃を使用してたんだ、
そりゃ負けるよな、
極力な武器の前に戦術なんかは無意味なんだ、
世論を味方に出来ればまた別かもしれないがな、
ベトナム戦争のベトコンみたいにな、
ともかく米墨戦争でメキシコは負けた、
負けたメキシコは土地を奪われた、
国内を横断する様に流れていたリオ・グランデ川より北の土地を奪われた、
カリフォルニア、ユタ、ネバタ、3つの州の全域、
他4つの州の一部をアメリカはメキシコから手に入れた、
当時のメキシコは敗戦の結果として国土の1/3を奪われた訳だ、
実はこの時にアメリカはメキシコ政府に金を払っている、
戦争で勝ったアメリカは戦争で負けたメキシコに金を払っているんだ、
奪った土地の代金としてだ、
アメリカは1500万ドルを支払った、
それにメキシコがアメリカに対して負っていた借金を帳消しにしてやった、
アメリカ政府は地続きのメキシコが混沌に落ちるのを恐れたのだろう、
隣の国に恐慌の嵐が吹き荒れても得をする事は無い、
不景気、不法移民の急増、犯罪率の上昇、
更なる戦争を仕掛けられるかもしれない、
米墨戦争南北戦争
つまり奴隷解放戦争とも言われる戦争の前に起ったのは学校で習っただろう?、
米墨戦争は1846年に起ったし、奴隷解放戦争は1861年に起った、
だから米墨戦争南北戦争で活躍した将校たちの訓練場にもなった、
ついでに南北戦争を起す原因の1つにもなった、
アメリカはメキシコから広大な土地を手に入れたが、
国土が拡大して人口が拡大した事で国内のバランスが崩れたんだ、
奴隷制賛成派と反対派、南部と北部のバランスが崩れたんだ、
さて次の話しだ、
中央アメリカの古代文明がメキシコによって滅ぼされた話は覚えているか?、
生け贄の話をしたよな、
中央アメリカでもっとも古い文明と言われているのがオメルカ文明だ、
文明は川沿いに栄えるよと言うよな、
黄河文明インダス文明ナイル川のエジプト、
そしてチグリス河とユーフラテス河のメソポタニア文明とかの事だ、
だけどオメルカはメキシコ湾岸で発展したんだ、
だから正確には水がある所に文明は栄えるって言うべきだ、
オメルカも豊かで偉大な文面だったんだからな、
この文明は紀元前13世紀ごろに始まったとされている、
だから大体3200年くらい前の人々だな、
数学が発達していた事や、鉱物を加工する技術は優れていた、
つまりただの古代の野蛮人の集まりじゃなかったんだ、
技術と学問を持っていた、
文明と呼ぶに相応しい高度な社会を展開していたのがオメルカだという訳だ、
オメルカ文明を象徴しているのが巨人像だな、
巨人と言っても頭部だけなんだが、
イースター島のモアイとかあるだろ、あれに似ている、
だけれどあんなヘンテコな顔じゃない、
もっと人間的だ、頭にはヘルメットみたいな帽子を冠っている、
兜かもしれないけどな、
兎も角デカイ頭像だ、高さは2メートルを越えている、
大きな大きな頭だ、デカイ石像だ、
オメルカ文明もアステカ文明の様に神に生け贄を捧げる宗教的文化があった、
さて次の話は時代が大きく飛ぶぞ、
メキシコには国民的な祭りがある、
ブラジルはリオのサンバカーニバルや、
中国の旧正月を祝うフェスティバルみたいな物だ、
毎年10月の31日から11月2日までの3日間を、
メキシコでは死者の日と言う、
31日は前夜祭、
1日に子供の霊がこの世界に帰ってきて、
2日には大人の霊が帰って来る、
家族や仲間内で死者について話、懐かしみ、慈しみ、
酒を飲んで踊り騒ぐ、
欧州にも死者の日はあるんだがあっちは粛々とした雰囲気だ、
日本にもボンがあるだろう、
比べるとメキシコの死者の日は祭りと呼ぶに相応しい、
アメリカのハロウィンも、
死者の日が変形して出来上がった祭りだという説がある、
アメリカのハロウィン、メキシコの死者の日という事だな、
そんな死者の日は大昔は夏に行われていた祭りだったんだ、
スペイン人の支配者達によって、
キリスト教カトリックの文化が中南米にもたらされてからは、
冬の祭りになった、
伝統とキリスト教が和合したんだな、
カトリック教会の死者の日は冬にやるからな、ハロウィンも冬にやる、
さてではキリスト教が取入れられる前は死者の日はどんな祭りだったか、
分かるか?、
太古の中南米で行われていた死者の日は
アステカやオメルカの神と死者を讃える祭りだったんだ、
メキシコの価値観では死は悪い事じゃない、
なんせ死んでこそ天国に行ける訳だしな、
アステカの時代では生け贄になって、
王や司祭に殺される事は名誉な事だった、
そして宗教は違えど、
死者は一時的にこの世に戻ってくる事があると信じられていたんだ、
さて、アメリカが南北に別れて行っていた奴隷解放戦争の最中とその前後、
メキシコは何をしていたのか?、
メキシコ北部を奪ったアメリカは、
国内の勢力バランスを激しく崩して戦争をした、
アメリカに土地を奪われたメキシコも同じ様に勢力バランスを崩した、
鳴りを潜めて居た文化的なマイノリティーが叛乱を起こした、
海からはアメリカ人の海賊が侵攻してきた、
保守派と自由主義派との間で政治闘争が起った、
軍縮を図る政府を疎んだ現場主義の軍人が軍事クーデターも起した、
因にな、文化的なマイノリティーというのはマヤ人の事だ、
アメリカ大陸中西部で発展していたマヤ文明を築いた人々の子孫だな、
この時代にも先祖の文化を脈々と受け継いで暮らしていたんだ、
しかしマイノリティーってやつは良く分からないよな、
少し前のアメリカでは文化的なマイノリティーと言えばヒスパニックだったが、
今ではアメリカの人口の1割はヒスパニックだ、
一国の未来がどうなるかなんて誰にも分からんな、
人口の1割も居れば数的にも政治的にも大きな力になる、
南北戦争の最中は、アメリカのメキシコに対する牽制の矛先が弱まった、
海外どころじゃなかったからな、
これを機と見たフランスがメキシコに進軍してきた、
メキシコは敗戦を重ねて、
一時期のメキシコはフランスの物になったんだ、
一方でアメリカでは北軍が勝利して戦争を終わらせていた、
1865年の事だ、
当時のフランスは第二帝政時代だ、
ナポレオンが起した一連の戦争の後を継いだ、
甥のボナパルトが皇帝の座に着いていた時代だ、
そんなフランスによってメキシコは支配された、
自国の隣に、
欧州の長たるフランスの傀儡国がある事を良しとしないアメリカ政府は、
直ぐさまメキシコに支援を送った、
その結果メキシコとフランスの戦争は、
フランス対メキシコアメリカ連合の戦争となり、
メキシコの逆転勝ちで終わった、
アメリカにとっての最大の敵は欧州だったという訳だな、
敵の敵は味方、だからメキシコを支援した、
メキシコは前の戦争で、
アメリカに土地を奪われこの戦争ではアメリカに貸しを作った、
以降、メキシコはアメリカの実質的な属国に成り下がった、
今でもそうだ、
現在、アメリカ人の大学生がハイになったり、
奴らが恋人との享楽的なセックスをするために使う麻薬を、
メキシコは日夜作り出してアメリカに輸出し続けている、
組織的な犯罪者が貧民を搾取して麻薬を作り輸出している、
組織同士は利益を得る為に争い市場を拡大する、
その戦いは金よりも言葉よりも銃弾と刃物が飛び交う戦場で、
お陰でメキシコは血の海だ、犯罪者と貧民の血で大地が腐敗している、
このメキシコの麻薬を巡る戦争では5万人が死んでいる、
まあともかく、フランスとの戦争は、
アメリカの援助のお陰で勝つ事が出来た、
その時の大統領がフアレスだ、
ニート・パブロ・フアレス・ガルシア、
神父であり弁護士であり最高裁長官であった男、
スペインの侵攻以来、先住民族から初めて選出された俺達の指導者、
フアレスの父親はサポテカ族だった、
サポテカ族が作り上げたサポテカ文明は紀元前からメキシコに存在していた、
アステカやマヤと並ぶ文明だった訳だ、
そんなサポテカ族の血を引くフアレスは国内の混乱を収めた男だ、
フランスとの戦争ではチワワ州を拠点として仏軍の猛攻を耐えぬき、
アメリカと手を結んで戦争に勝利した、
戦後はメキシコの制度や法や教育を改革、
そして自由と秩序を命題とする哲学を取入れてメキシコ社会の近代化を図った、
だからフアレスは近代メキシコを誕生させた偉大なる建国の父という訳だな、
彼は心臓発作で死ぬまで国をまとめあげた、
ここからはメキシコで起こった革命の話だ、
アメリカ大陸の先住民はスペイン人に征服された、
支配者と奴隷という力関係が産まれた、
彼らの子孫は力関係を維持したまま社会を作り上げたが、
やがて被支配階級の人々が立ち上がりスペイン本国と戦争をして独立する、
アメリカとの戦いには負けて、
内戦と海賊の侵攻を平定して、
欧州が責めて来た際にはアメリカと組んだ、
アメリカ大陸に雪崩込まんとする欧州の影響力を退けた、
そしてメキシコは近代化する、
近代化というのは大抵急速に行われるもので、
急速な近代化は社会に歪な構造を生じさせてしまうものだ、
貧富の格差、農村部と都市部の格差、
軍人と官僚、商人と労働者、
すると次に起るのは革命という訳だ、
フアレスは名君だった、
そして名君が死んだ後には大抵の場合で混乱が起こる物だな、
ローマの時代から変化しない歴史のお約束事だ、
跡目を継いだのがディアスだ、
ホセ・デ・ラ・クルス・ポルフィリオ・ディアス・モリ、
ディアスは大統領選でフアレスとも闘った事がある政治家だ、
フアレスの死後、
数人の大統領が誕生した、
ディアスは彼らとの大統領選で敗北している、
数度の敗北の後、彼はアメリカに亡命した、
後にメキシコで武装蜂起した、
蜂起は成功してメキシコ大統領に自分を任命した、
彼は政治家になる前は軍人でフランスとの戦争でも活躍した英雄だったんだ、
大統領になった後はメキシコの近代化を更に推し進めた、
フアレスもディアスも自由進歩主義者で自国の近代化を目標に掲げていた、
だがフアレスは文官でディアスは武官だった、
近代化の意味と実現の仕方が彼ら2人の間では少々違っていたんだ、
ディアスは外国からの投資を集めた、
経済発展、文化の進歩、
だが同時に特権階級、資本家が優遇され、
国内の産業を外資に売り渡す事になった、
近代社会という言葉と概念はこの時代、欧州の事を指していた、
だから近代化の名の下に近代社会、
つまり欧州社会的な価値観では野蛮と見られるメキシコの文化、
風習は規制されて行く事となった、
欧州の力を戦争で退けたメキシコは、
文化的には自ら欧州に近づいた訳だ、自国の伝統を消しながらね、
きっと欧州外のどこの国でもやって来た事だろうが、
近代化の結果として富める者と貧しき者の格差が広がる格差社会を生んだ、
農民の土地は奪われて少数の大地主に与えれた、
いつぞやの奴隷と主の関係が復活した訳だな、
スペイン人と先住民の間ではなくて今度はメキシコ国民同士の間でな、
当然叛乱は起った、
独立戦争を始めとする多くの戦争を経験している我々メキシコ人は、
闘うという事を知っているし、闘う事を臆しない、
だが各地で起った叛乱はディアス将軍による軍事的弾圧で平定された、
しかし時代の風向きは常に変化している、
1907年に起ったアメリカ恐慌が、
メキシコの革命にとっては良い契機になった、
本国が風邪を引けば属国は病気になるというあの訓言の通りだ、
メキシコの経済も停滞したんだ、
上手く行っていた様に見えたディアス政権の力が弱まった、
そんな中で行われたメキシコ大統領選挙、
ディアスは負ける事を恐れて対立候補のマデーロを逮捕したんだな、
ありがちな話だ、
そしてそんなディアス政権の横暴に怒り立ち上がった者達が居た、
打倒政府を目指す革命が起きた、
革命の指導者は4人居た、
サバタ、ビリャ、カランサ、オブレゴン、4人の英雄だ、
彼らはそれぞれに異なる勢力基盤を持ち、活動する地域も異なっていた、
思想も多少違う、彼らの立ち位置が違うからこそ、
お陰でメキシコ全土を巻き込んだ戦いになった、
だから革命は成功した、
ディアスはパリに逃げてパリで死んだ、
モンパルナス墓地に墓があるんだ、
モンパルナス墓地だぞ、
モーパッサンボーヴォワールサルトル
名だたる作家や学者と同じ場所にディアスの亡骸は埋められているんだ、
有名な軍人でモンパルナス墓地に葬られているのは、
フランス人のドレフェスくらいなものだ、
さて、政府を打倒した後で案の定、内乱が起こる、
革命政権内での内乱だ、
しかし内乱ってのはなんでややこしい進展をするんだろうな、
俺が考えるに、政治的な混乱、
内乱って奴は人間関係のいざこざと似ているからだ、
いや人間関係のいざこざその物自体と言ったって良いんだ、
簡単な人間関係なんてものはこの地球上の何処にも存在していないからな、
革命が成功してディアスが逃げた後、
メキシコではマデーロが大統領になった、
フランシスコ・イニャシオ・マデーロ・ゴンサーレス
大統領になったんだがこいつが格差を是正する事ができなくてな、
直ぐに革命の指導者の1人、
サバタ率いる軍がマデーロ政権に対する叛乱を起こした、
エミリアーノ・サパタ・サラサール、
サパタが起した叛乱を平定する為に遣わされたのが、
マデーロの部下で軍事を握っていたウエルタ将軍だ、
ところがウエルタはろくに戦闘を展開しなかった、
ウエルタは実は反乱軍と通じていたんだ、
戦闘を長引かせてマデーロを政治的に不利な状況に追い込んだ、
そして叛乱は成りマデーロはサバタ率いる軍に殺された、
ウエルタは将軍から大統領へと昇格した、
だげウエルタは軍人としては良いが政治家としては能力が無くてな、
マデーロは国政を改革できなかった、だが人望はあった、
ところがウエルタは人望さえなかった、根っからの軍人だったんだ、
いや軍人だって人望を持っている奴は多くいたさ、
だから再び叛乱が起こった、
再びサバタ、ビリャ、カランサ、オブレゴンの4人の英雄の登場だな、
彼らの率いた軍や民衆が、
ウエルタの政府軍に対して各地で戦闘を行った、
徐々に政府軍は劣勢になっていく、
革命勢力が優勢になる一方で勢力内での意見の食い違いが起る、
革命勢力内での対立が表面化していった、
共通の敵を失えば結束も弱くなるというもんだ、
ここでいう対立ってのは革命勢力内での右翼と左翼、
保守派と改革派の争いだな、
カランサとビリャが対立する、
オブレゴンは両陣営の意見を取りまとめて関係修復を図る、
だが対立が深刻な状態になるとオブレゴンはカランサ側についた、
サバタはビリャに同調した、
カランサ、オブレゴン陣営とサバタ、ビリャ陣営の争いだ、
最終的に勝利したのはカランサ、オブレゴン陣営だ、
奴らと来たら騎兵突撃を繰り返すビリャ、サバタ陣営に、
最新式の機関銃で無数の弾を撃ち込みやがったんだ、
戦況は終止、奴らの優性で勧められた、
強い武器ってのはそれだけで強いな、当り前だが、
まあ本当に酷い戦いだったよ、
因にこの時は1914年だ、
欧州では一回目の大戦が始まった年だな、
メキシコは国内の内乱で手一杯だったんだ、
逆にいえば世界各国が自分の国の戦争に忙しかったから、
メキシコの内戦に組み入る事が出来なかったとも言えるけどな、
今にしてみれば、
メキシコでの革命は全てアメリカの掌で転がされているだけだった様に思える、
さて勢力内での争いに勝利したカランサは大統領になった、
ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサ、
メキシコ革命はここで一旦終わった、
だがカランサは典型的なメキシコの官僚だった、
国外には目は向いていたが、
国内それも革命を起こした貧困層には目を向けていなかったんだ、
しかしカランサの部下には農民から出てきた者、貧困層から出てきた者、
あるいは貧困層の友人を持つ奴らが多くいたんだ、
戦争の最中、同じ釜の飯を食いながら、
未来の事や過去の事、人生の悲喜こもごもを語り合っていれば気持ちも繋がる、
社会的な階層の壁を越える事もある、
この当時、そんな彼らによって現代的なメキシコ憲法が制定されたんだ、
敵対したサバタ、ビリャの意見も取入れられていた、
どっこいカランサは憲法を無視した法案を通しまくったんだ、
俺達部下の努力も無駄になる、まったく笑えるだろう?、
カランサの行いに不満を持った労働組合ストライキを起こした、
カランサ政権はストライキを起した労働者を逮捕し、殺害した、
一方でその間もサバタとビリャはカランサ政府に対する反抗を行っていたんだ、
だが1919年にはサバタは暗殺されてしまった、
カランサの部下によるだまし討ちだ、
第1次大戦が終わった1年後の事だ、
サバタと組んでいたビリャはその後も政府に反抗を続けていた、
フランシスコ・ビリャ、
ビリャはカランサ政権への反抗を続ける、
ビリャはカランサ政権の行いを許しはしなかった、
それどころかカランサ政権を承認したアメリカ政府をも許しはしなったんだ、
ビリャ率いる反抗軍はアメリカ人技術者を殺してアメリカ軍の駐屯地を襲った、
この時、第一次対戦は既に終わっていた、
報復としてウィルソン第28代アメリカ合衆国大統領は軍隊の派遣を決定した、
ビリャを捉える為の軍隊だな、
だがビリャはチワワ州を縦横無尽に駆け回った、
アメリカ軍がビリャを捕える事が出来なかったんだ、
ビリャはチワワ州の英雄だった、だから多くの協力者がいたという訳だな、
政治家や権力者、一般市民までの協力者だ、
アメリカ軍はビリャをチワワ州に放したまま帰国した、
だがビリャも大規模な反抗活動が一時的に出来なくなった、
彼の部下や副官が殺されてしまったんだ、
以降、アメリカは中南米で行われるストライキに対して、
積極的に軍事介入する事となる、
バナナ戦争と言うやつだ、
バナナ農園で働く者を筆頭に労働者が反抗を起す、
農園を持っているのはアメリカの企業だった、
だから企業を守る為にアメリカ政府は軍を派遣する、
そういう建前だ、戦争と言っても一方的な物だった、
労働者が不満の声を上げる集会に戦艦から砲射撃が加えれた、
因にビリャ討伐対の副官はジョージ・パットンだった
第一次大戦、第二次大戦を通して活躍した戦車隊の王様のあいつだ
メキシコへの派遣は後の陸軍大将パットンを鍛える為の礎みたいなものだった、
さて、そんなこんなで対立陣営を黙らせたカランサ大統領なんだが、
部下や国民を裏切り続けた彼にはもう求心力は残っていなかった、
部下や国民、労働組合や地域連合からは、
カランサの盟友であるオブレゴンが代表になる事を求められた、
アルバロ・オブレゴン・サリード、
ここからはメキシコ史上なんども起った事の繰り返しだ、
カランサは盟友だったオブレゴンの逮捕を決めた、
オブレゴンは逃走した、オブレゴンは叛乱の宣言をした、
内乱の開始、鳴りを潜めていたビリャもオブレゴンに協力した、
オブレゴンはサバタの残党勢力とも手を結んだ、
彼らは首都まで侵攻した、カランサは逃走する、
そして逃走中に撃ち殺された、
オブレゴンは大統領となりサバタ、ビリャ陣営と和平を結ぶ、
サバタは死んでいたが、
ビリャはチワワ州で牧場主となって平穏に暮らした、
だが数年後、出掛けからの帰り道、ビリャは何者かに殺された、
目撃者もおらず、犯人は未だに分かっていない、
頭を割れて死んだんだ、
という所でこの話は終わりだな、
その後のメキシコの事も簡単に話そうか、
オブレゴン政権下ではメキシコは発展しつつも、
アメリカとの関係で国内や国外で物騒な事件が起った、
再び叛乱が起ったんだ、
叛乱は鎮圧されたがオブレゴンは結局カトリックの過激派に暗殺された、
彼はメキシコ社会の近代化、政教分離を押し進めるあまりに、
宗教への締め付けを厳しくし過過ぎたんだな、
彼の後を引き継いだのがオブレゴンの部下だったカリェスだ、
プルタルコ・エリアス・カリェス、
以降10年間、メキシコ大統領は3回変るが、
全てカリュスの操り人形だった、
4人目のカルデナス大統領もカリュスのお気に入りだった、
だがカルデナスはカリュスの協力の下に大統領に就任すると、
カリュスの勢力を一掃した、
組織、行政を改革して、メキシコを新しい国にした、
革命戦争の影響、亡霊を行政から追い払ったんだ、
フアレスが建国の父ならば、
カルデナスは近代メキシコの父だな、
1943年の話さ、
ここで1910年から続いてた長い革命が終わった、
長い話で悪かったな、
でもまだ別の話題があるんだ、そして最後にオチがつく、
そろそろ終わりだから、どうか聞いてくれ、
今から80年前の話だ、
チワワ州で人骨が見つかった、
見つけたの1人の少女だ、
少女は友人たちと炭鉱の跡地で遊んでいたんだ、
人工的に掘られた炭鉱の中に天然の洞窟があったんだ、
炭鉱は長い間放ったらかしにされていた、
その間に炭鉱と洞窟を仕切っていた壁が崩れて繋がったらしい、
そして少女は洞窟を見つける、そこで骨を偶然見つけた訳だな、
骨とは頭蓋骨の事だ、
この頭蓋骨はメキシコ政府によって回収されて科学的に分析された、
5歳程度の子供の頭蓋骨だと分かった、
頭蓋骨の持ち主であるこの子供は900年程前の人物らしい、
ここまでは普通の事だ、
大昔の子供の骨が見つかるのはそこまで珍しい事ではない、
おかしいのはここからだ、
頭蓋骨の頭部という言い方は変だが
つまり頭蓋骨の脳みそが入っている部分が異様にでかかったんだ、
頭がぽっこりと膨らんでいたと言うべきか、
頭蓋骨の中に納まっていたであろう脳みその容量が計算された
その結果、
成人男性の1.3倍も大きい脳みそが入っていただろう事が判明した、
5歳児の頭蓋骨なのにな、
頭蓋事はその異質な形状からスターチャイルドと呼ばれる様になった、
星の子供だ、
星の子供と呼ばれたのには訳がある、
チワワ州には星に由来する伝説があったんだ、
伝説曰く、時々空から人がやってきて、
現地の人々と交わり子を残す、
ギリシャだったら空からやってくる奴の事を神と呼んだだろうが、
チワワではそいつらは宇宙人と言う事になっている、
だからチワワ州で見つかった頭のデカイ子供の骨をスターチャイルドと呼んだ、
あの骨は人間と宇宙人の間に産まれた子供の亡骸なのかもしれない、
伝説とやらにありがちな展開なんだが、
宇宙人と地球人と間に生まれた子供は不思議な力を持っているらしい、
超能力とかそういう奴だな、
よし、次の話が最後だ、
俺が一番最初に話した怪奇小説ラブクラフトの事だ、
怪奇小説ラブクラフトが描く神々の中にハスターという名前の奴が居る、
でも実はハスターという名前の神を創作したのは彼じゃない、
悪魔の辞典を書いたビアスの事は覚えているか?、
メキシコで行方不明になったアメリカ人の作家の事だ、
ビアスが書いた羊飼いハイタという短編小説に、
ハスターの名前が初めて出て来る、
1891年に発表された物語だ、ラブクラフトは当時まだ1歳だな、
ハスターは羊飼いの神様だ、
羊飼いの神様と言えばカトリックの神なんだが今はまあいいや、
ハイタは羊飼いの少年で信心深い、
ハスターへの毎朝の祈りを忘れない、神への祈りだ、
やがて少年は空から下りて来る美しい乙女と出会う、
ハイタは乙女と話しをして草原を走り回る、幼い少年達の遊びだ、
だが乙女はいつの間にか消えてしまう、
後日少年は再び乙女と出会う、そして乙女はまた消える、
乙女とは神であるハスターによって与えられた、
加護や幸福の象徴という話らしい、
美しいものがふと落ちて来て、ふと消える、
そんな話だ、長い話もこれで終わりだ、
あとは纏めだけなんだが、
どこから纏めようか迷うな、
ハスターを創作したビアスはメキシコのチワワ州で行方不明になった、
彼は行方不明になる以前からメキシコに通っていた、
取材兼旅行としてな、
まあなんせアメリカとメキシコは地続きの隣国だからな、
取材もし易かったんだな、
彼はその取材でチワワ州に伝わる神話を調べていたんだ、
覚えているだろ、あの宇宙人と人間が交わる神話だ、
彼の行動は記録に残っている、
彼の日記が今に残されているんだ、なんせアメリカの大作家だからな、
彼が創作したハスター、
この架空の神も、空から降りて来る乙女も、
彼の日記によればメキシコ旅行取材の賜物と言う訳だ、
元を辿ればハスターもメキシコの神話に伝わる宇宙人だという事だな、
ハスターを換骨奪胎したラブクラフトが描いた神々は、
後進の作家により様々な物語世界に存在する事になる、
ラブクラフトが作り出した世界観を自分の作品に利用したという事だ、
彼らが描く神はラブクラフトに倣い殆どが宇宙を支配する神で、
宇宙に住んでいる、
ラブクラフトは生前よりも死後に評価された作家だ、
全集も死後に出版されている、
そんな全集の中にはラブクラフトが観た夢の話が収められている、
彼曰く、夢の中に度々ビアスがやってくる、
そして2人でチワワ州に伝わる伝承を語りあったという、
オメルカの人々が作った巨大の石像、
それが巨大な頭だけの物だったと言う話しは覚えているか?、
スターチャイルドに関する伝説は、
オメルカ文明の時代には既に成立していた事が分かっている、
オメルカ文明に関しては未だに多くの事が闇のままだ、
正体不明で未知の文明、
だが宗教観に関する断片的な情報は残っている、
今に残る情報の断片曰く、オメルカの神は空からやってくる、
石像は神を模様して作られているらしい、
あの頭がデカイ石像の事だよ、
ここでスターチャイルドの伝説を思い出して欲しい、
スターチャイルドの伝説とオメルカの神話は似ている、
これは偶然か?、偶然かも知れないな、
スターチャイルドの伝説が成立した時代と、
オメルカが栄えていた時期は同時期だ、
これは偶然か?、偶然かも知れないな、
でも偶然ではないかもしれない、
共通するのは空から降りて来るものとで頭がデカイ事、
元は1つの伝説だったのかも知れない、
つまりだ、スターチャイルドは宇宙人と地球人の間に生まれた子供で、
スターチャイルドが実在するならば、
オメルカが崇めた神とは宇宙人の事で、
彼らが彫った石像は、
宇宙人かスターチャイルドと同一の存在を象った物なのかもしれない、
地球上には遥か昔からスターチャイルドがいたのかもしれない、
スターチャイルドに関する重要な事が幾つかある、
まず頭蓋骨しか見つかっていないと言う事だ、
身体に当る部分の骨は見つかっていないんだよ、
死者の日はオメルカ文明の時代からあったと言う話はしたな?、
時代が進むにつれてアステカの影響とカトリックの伝来で、
死者の日の性質を大きく変化した、
じゃあ原始的な死者の日どういう形だったのか?、
もちろん死者と神を讃えていた、
だが讃え祀っていた死者が重要だ、
死者とは死んだ人間全員の事を指していた訳ではなかった、
選ばれた死者の事だったんだ、
更に重要なのはその選ばれた死者の骨の方だった、
特別な骨は祈りの対象で、
骨に触れれば特別な力を得られると信じられていたんだ、
特別な力というのは、
幸運を得られたり病気が治ったりだな、あるいは不死の力を得られるとか、
まあ何処にでもある話だよな、
偉大とされる人間や、
神性とされる物を拝み触れると自分にもその力が宿ると言う信仰だ、
イエス・キリストが最後の晩餐で使用した杯に、
水を入れて飲むと病気が治るとかな、
ヒンドゥー教異端派のアゴーリーは死体の肉を食う、
死体には精神が残されていて、
肉を食う事でそれを取り込む事が出来ると信じているからだ、
仏教の仏像は拝む事で加護を得られると信じられている、
これは仏の姿を真似た物を作れば像に仏の力が宿ると考えられているからだ、
中南米古代文明を調査している研究者は多くいる、
歴史学者、考古学者、民俗学者社会学者、
文化人類学者、宗教学者、神話学者、
言語学者ユング派の心理学者、芸術学者、構造主義の哲学者、
メキシコの古代人の一部は死者の日、
特定の骨を祭壇に掲げて皆で祈っていた
特別な骨と聴いて多くの学者は初め社会的に地位の高い人物の骨を推測した、
部族を束ねる王や長、或は宗教者の事だ、
または敵対している部族の人間の骨や、
生け贄にされた物の骨だ、
スターチャイルドの骨が見つかった事で彼らの推測は覆えされた、
スターチャイルドの骨は洞窟で発見された、
洞窟は天然の物だったが、人が手加えた痕跡が見つかっている、
洞窟内で火を使用したと思われる跡や、
壁に描かれた幾何学模様などがそれだ、
重要なのは洞窟からは骨が1つしか見つかっていないという事だ、
骨とは勿論スターチャイルドの頭蓋骨の事だ、
洞窟から1つの骨しか見つかっていないという事は、
ある状況を指し示す大きな証拠になるんだ、
歴史を観ると大規模な飢饉が何度も人類を襲っている、
原因は水不足で食物を作れなくなってしまう場合もあれば、
洪水で土と食物が流されてしまう場合もある、
気温が極度に低い事や高い事の影響もあれば、
害虫が大量には発生して全てを食い尽くされてしまう事もある、
疫病で食物が死滅する事もある、
1850年の頃だ、イギリスの話だ、
当時主食だったジャガイモが疫病で全滅した、
アイルランドのジャガイモ飢饉は有名だな、
主食を失ったアイルランドは人口の4割を失った、
アイルランド人の一部はアメリカに新天地を求める事にした、
アメリカは都合の良い国だった、何せ貴族や王が居ない国だ、
英語を使えるアイルランド出身の白人の彼らには、
アメリカに渡っても差別が降り掛からないだろうと考える事が出来た、
当時のアメリカは工業化のまっただ中で大量の働き手を世界中から求めていた、
そう思って彼らはアメリカに渡ったんだ、
家族、友人、見知らぬ同国人と共にな、
だが飢饉から逃れる様にアメリカに渡ったアイルランド人は貧乏くじを引いた、
アメリカに辿り着く前に船の中で死ぬ者や病気にかかる者が居た、
多くのアイルランド人がアメリカ合衆国に辿り着く前に死んだんだ、
無事にアメリカに辿り着いたアイルランド人はアメリカでは移民となった、
しかし移民となった時期が他国民の移民よりも遅かった、
だから職場も住居もすでに満員だった、
先にアメリカに住まう事に決めた移民が、
主だった仕事に就き、住宅に住んでいたんだ、
彼らの居場所はアメリカにもなかった、
仕方なしにアイルランド移民は、
他国の移民がやりたがらない仕事に就くしかなかった、
消防士や警察官などは現代でも彼らこそが代表する仕事だ、
住む場所にしても職業と同じだった、
アイルランド移民の一部は、
深い森や荒野、凍える様な寒さが吹き荒れる山岳部で住む事を選んだ、
中西部のミズーリ州のオザーク高原、
オザーク高原は寒く食物も育たないが、
アイルランド移民の一部はそこに住着いた、
自分達で土地を耕し家を建てた、
そこはイギリス本国とは違い、
キリスト教カトリックでも差別されない場所だった、
なんせ自分達で作った街だ、
アメリカは自由の国で、近代化して以降、
自分達の生活や生きる上での哲学に反した集団が存在しても、
自分達に損害や迷惑を与えないならば放っておくと言う信条があった、
異質でも異端でも、迷惑を掛けないならば殺される事はなかった、
そこが当時のイギリスとの違いだな、
なんせキリスト教カトリック信者というだけで殺された時代を、
アイルランド人の彼らは経験していたんだからな、
オザーク高原に住む彼らは独自の哲学と自警団を持った、
今でも彼らの子孫がそこで暮らしている、
人が飢饉の原因となる場合もある、
歴史を振り返ると支配者による意図的な飢饉の演出が見られる、
毛沢東による大改革は、
文化文明の改革が急速過ぎた為に自然環境の秩序を壊した、
結果として数千万の中国人が死んだ、
畑に作物が育たなくなったんだ、
スターリン共産主義の実現を夢見て大規模農業政策に舵を切ったが、
生産と流通の非効率化と強制的な作物の徴収により、
ソ連、そしてウクライナカザフスタンを始めとする東欧周辺国で、
数千万の餓死者を出した、食い物を国が奪えはそうなるよな、
飢餓でなくとも大量に人が死ぬ、
ナチスドイツはユダヤ人を強制収容して大虐殺を行った、
カンボジアではポル・ポトが指揮するクメール・ルージュが政権を取ると、
共産主義に異を唱える者や、将来的に唱えそうだと思う者達を虐殺した、
インドネシアでは共産主義者だったスカルノが失脚すると、
政府の主導により共産党員狩りが始まった、
殺されたのは共産党員とは無関係の人間が大半で、
死亡者は100万人を超えている、
アフリカのルワンダでは当時の政府と革命勢力が政権の奪取を行い、
国内が混乱した1994年の100日間で100万人が殺された、
この虐殺は政府や軍が行っただけではなかった、
ルワンダはその他のアフリカ諸国と同じく複数の部族により構成されていた、
ルワンダを代表する部族がフツとツチだ、
部族と言っても住む場所が離れていた訳じゃなかった、
彼らは隣人だった、そんな隣人が2つの部族に別れて殺し始めたんだ、
フツとツチは本来は同じ部族だった、
ところが欧州人がアフリカを支配し始めると、
部族の分化が開始された、支配者は如何にも科学的な物言いをして、
更に聖書まで持ち出して、聖書を由来にして、
1つの部族を2つの部族に分けたんだ、そして片方を社会的に優遇して、
もう片方を被支配者層に押し込めた、人間に価値を付け始めたんだ、
彼らはいがみ合う様に仕向けられたんだ、
そちらの方が統治には都合が良かったんだろう、
時が進んで欧州人はアフリカ支配から表面上は撤退した、
その後で虐殺が起った訳だ、
人が大勢死ぬのは病気が原因の場合もある、
1350年頃から欧州を中心にしてペストが大流行した、
死者は9000万人とも言われている、
スペイン風邪は20世紀の始めに流行した、
こちらの死者は5000万人だ、
アジアではコレラの流行が各地で度々起こっている、
その度に万を越える死者を出している、
人が集団での自殺を選ぶ事がある、
ロシア正教の教派には古儀式派がある、
古儀式派は、
17世紀のロシアで行われた宗教改革に反対した教派として知られている、
彼らは結果として改革者にしてロシア帝国初代皇帝であるピョートル1世から、
迫害される事となる、
古儀式派最大の施設はソロヴェツキー修道院で数百人の修道士が集まっていた、
軍隊を派遣されるも数年間必死に抵抗していた彼らだが、
遂にはこの宗教的と政治に関する争いに負けの兆候がある事を認めた、
そして集団自殺を選んだ、
ソロヴェツキー修道院で自決した者の数は。
200人から300人と言われている、
アメリカ人はジム・ジョーンズはキリスト教新宗教である人民寺院の教祖だ、
アメリカで起こった教派だったが後にカルト化していき批判に晒された、
批判から逃れる為に信者900人は、
ジム・ジョーンズに率いられガイアナに移った、
その後、島では強制的な労働や暴力、
監禁や性的な犯罪が行われているという噂が立つ、
視察の為に彼らの街を訪問したアメリカの政治家は、
彼らによって計画的に射殺された、
これを契機に自らの宗教の破綻を実感したジム・ジョーンズは、
信者に自決を行わせた、毒を飲ませたんだ、
彼は妻子も自殺させた後で拳銃で自殺している、
自殺者は900人を越えている、
集団自決は宗教に関する事だけではない、
アメリカ軍に攻め込まれた日本の沖縄の集団自決や、
古いところだとローマ軍に囲まれたユダヤ人1000人弱が、
山岳部の要塞で集団自殺している、西暦70年、
イエス・キリストが死んで40年程しか経っていない時代の話だ、
他にも敵の手に落ちる事を良しとしない故の自殺は歴史上数多くある、
ジョン・ゲイシーアメリカの有名な殺人者だ、
少年達を家に誘っては地下室で殺して、
彼らの遺体を床下に埋めていた、その数は実に33人、
ドイツの連続殺人犯フリッツ・ハールマンは、
30人から40人前後の人間を手にかけている、
被害者の人数が不明瞭なのは彼は遺体を自宅で解体して、
何らかの方法で肉を処分、
骨は必ずライネ川に棄てていたからだ、遺体がないから人数が判らない、
フランスはパリの地下にはカタコンブがある、
カタコンブは観光地になるほど有名な地下墓地だ、
パリと言う国は常に遺体の埋葬場所に事欠いていた都市だ、
都市が発展し人口が増えるとそこで死ぬ死人も増える、
結果として更に死者の埋葬場所に困る事になる、
パリ周辺の墓地や教会の下には大量の死者が埋まっていた、
あまりに多かった物で土や水に影響を与えて問題になった、
一方でパリの人口が増えるという事は、
パリには新しい住居が多く必要になるという事だった、
パリの建物は石で出来ている、
石はパリその物の地下から切り出された物だったんだ、
建物が建ち石が掘られる事に地下は空洞化した、
地下の落盤や管理、老朽化が問題になった、
そこである1人の工事監督が名案を思い付いた、
死者の亡骸が多く眠り飽和状態の地下と、
空洞化して何も無い都市の地下を結びつけた、
問題が別の問題を解決した訳だ、
土に眠る死者は既に骨だけになって居た、
人骨を墓地からパリの地下に運ぶ作業は1年以上の歳月を掛けて行われた、
これ以降、パリ周辺で古代の戦場跡や墓地跡から人骨が大量に見つかると、
全てがカタコンブに運ばれる事となった、
現在で600万を越える古きパリ市民がカタコンブに眠っている、
人骨はパリの地下に運ばれて壁や柱の様に積み上げられた、
実際に地上を支える役割も果たしている、
主君が死ぬと仕えていた部下が後を追って死ぬ事がある、
そして主君の墓に一緒に埋められる、
古代日本の女王卑弥呼が亡くなった際には、
彼女に仕える部下100人が死に彼女の墓で一緒に眠っている、
古代エジプト文明の統率者ファラオが死ぬとミイラになる為の術を施された、
ミイラはピラミッドは保管された、
この墓地からは殉死者と見られる多数の人骨が見つかっている、
歴史上こう言った事は数多く繰り返されている、
これを嫌った古代の知恵者が、
殉死者の代わりに墓に入れる人形を考えて作り出した、
そして人形には力がある事を認めさせた、
人形を墓に入れれば殉死者を墓に入れるのと同じ意味があると認めさせたんだ、
古代中国の秦を起した始皇帝
彼の墓には兵馬俑がある、
兵馬俑は土で作った人馬が数千と並んでいる、殉死を防いだ人形の例だ、
王に仕える部下とは、王の部下になる程の有能な人物だ、
王と有能な官僚やら軍人が纏めて死んだら残された国はどうなる事か、
統治者にとっても殉死はやっかいな問題だったのかもしれないな、
だから始皇帝の墓地には大量の人形が一緒に眠りについている、
いま俺が話していた事は人の死に場所についての事なんだ、
或は死者が置かれる場所、墓の話だ、
いいか、死者と言うのは普通、
スターチャイルドの様に人工的に細工を施した施設に、
一人きりで置かれている訳じゃないんだ、
社会的な規模の飢餓や伝染病の大流行で死んだ場合、
死体はあちこちに転がる事になる、
死体は1つではない、それに大抵の場合、
遺体は食物を食い荒らすネズミの餌にならない様に
或は伝染病をまき散らす媒体にならない様に、
適切な処置を施されて同じ墓に眠る事になる、
古い時代だったら土や洞窟の中に大量の死体を葬っていた、
虐殺の場合も同じで、被害者の遺体は決まった場所に集められる、
虐殺に加担した人々の戦意が低下しないように、
或は病疫の発生源にならない様に遺体を1カ所に集めて処理をする、
内戦の場合は尚更だ、
加害者はその国で暮らし続ける訳だから遺体を放っておく事は出来ない、
ホロコーストの様に被害者が生前強制的に集められる場合もある、
集団自殺の場合も同じ、
遺体は敵対者や発見者によりその内きちんと処理される、
集団自殺が歴史の闇に埋もれて遺体達が誰にも気が付かれない場合もある、
その際は1つの建物や洞窟の中に複数の人骨が転がっている訳だ、
連続殺人犯は決まった場所に遺体を隠す、
或は同じ方法で遺体を処理する、
カタコンブは話した通り集団墓地だ、
これらの事とスターチャイルドの場合を研究者達は比較する、
すると手を加えられた洞窟に、
1体の頭蓋骨だけで放置されていたスターチャイルドは、
飢餓や伝染病で死んだ子供の遺体でもなく、
虐殺された子供の遺体でもなく、
集団自殺に巻き込まれた子供の遺体でもなく、
連続殺人者に殺され子供の遺体でもない事が分かった、
遺体が1つだけなのだから洞窟はカタコンブの様な集団墓地でもない、
現在研究者達は洞窟を神殿または祭壇と捉え、
頭蓋骨をそこに掲げられた聖なる物だという結論を出したんだ、、
オメルカの死者の日も特別な力があると考えられていた骨を崇める儀式だった、
もしかして洞窟はオメルカ文明の神殿で、
スターチャイルドこそがこの特別な骨なのかもしれない、
スターチャイルドの頭蓋骨は炭素年代測定に描けられている、
測定の結果、骨は900年以上前の物だと判明した、
オメルカとスターチャイルド、年代的には一致するんだ、
ところで不死や驚異的な治癒力って現実にあると思うか?、
あるかもしれないという見立てと想像、
そして実際に残されている少ない情報なら話す事が出来る、
アステカ人は多くの人間を生け贄に捧げた、
大抵は戦争をして負かした国の人間だ、
自国民が選ばれる事もあったけどな、
なんせ生け贄となる事、神に捧げられる事は名誉だったからな、
生け贄に選ばれ人間は切り刻まれ炎で燃やされる、
伝承によれば焼かれて切られても生き残った人間がいたらしい、
理由は伝わっちゃいないがな、
残された情報による、生き残った人間は神が受け取るのを拒んだ、
悪魔の精神を持つ人間と言う事らしい、
イタリア生まれの航海士コロンブスは、
スポンサー探しの末スペインに雇われた、
欧州文明に属す者でアメリカ大陸を初めて見つけたコロンブス
彼はさっそく航海の成果をスポンサーに報告した、
報告を受けたスペインは軍隊を派遣して先住民を虐殺して略奪を行った、
コロンブスの目標は新大陸に眠る黄金だった、
彼は先住民たちが保有していた金銀財宝と共に、
先住民らが語った様々な伝説をスペインに持ち帰っている、
その中には不死の伝説があった、
この事は現存するバルトロメ・デ・ラス・カサスの日記に書かれている、
バルトロメはキリスト教の司祭でコロンブスの航海に随員している、
彼はスペイン軍による先住民虐殺を目撃している、
当時から虐殺に対する批判的な文章を多く残していた、
そんな彼の日記は現在大英博物館に保管されていて、
そこにコロンブスが先住民から拷問の末に聞き出したと言う、
不死伝説の事が書いてある、
そこにも死者の日における特別な骨の重要性が書いてある、
この後にスペインはコンキスタドールを使って中南米を支配した、
彼らの目標は新大陸の資源と奴隷としての人材、
従属国の産業が生み出す富だった、
しかし中には、
コロンブスが持ち帰った伝説を追い求める為に、
中南米を征服した奴も居たかも知れない、
スペインによるコンキスタドールの過程を調べた事がある、
奴らは先住民の文化を破壊する一方で、
彼らの歴史や文化に関する聞き取り調査の様な事をしているんだ、
コンキスタドールは何かを探していたのかもしれないな、
ナチスドイツのヒトラーだって聖杯を探し求めていたって言うだろ、
権力者の夢ってのはきっと不死に向かいがちなんだろう、
スペイン人によって持ち込まれた欧州大陸の病気によって、
先住民の殆どは死んでしまった、
欧州大陸の病原菌に対してアメリカ大陸の人々は免疫がなかったんだ、
だから普通なら子供でも死なない様な病気でアメリカ大陸の人々は死んだ、
だが生き残った人々も居た、
偶然的に免疫を持っていた者達だ、
偶然だがら家族の中で父と母や幼い子供達が死んで、
生き残ったのは年老いた老婆だけという事もあった、
しかし村人全員が欧州の病気に感染するも、
その殆どの者が回復して生き残ったという部族がある、
奇跡的な回復率を得た部族はチワワ州に定住していた、
そして彼らは空から降りて来る存在を信じていた、
あのチワワ州の伝説を同じ物だよ、
これは偶然かな?なんで部族が丸ごと病気から生き残れた?、
コンキスタドールは彼らの集落も襲い略奪を働いている、
だが部族が宗教的に重要な物と考えていた骨を、
略奪者が発見したと言う記録はない、
コンキスタドールは確かに略奪者だったが、
略奪は当時のスペイン政府により計画実行された物だった、
だから事細かな記録が残されてると言う訳だ、
不死があるという見立てでこの出来事を語るとおかしな所がある、
驚異的な回復力は骨のお陰だと考える、
骨の力によって部族が救われた、
だが骨は見つかっていない、
骨は崇めているだけで不死や治癒の力を与えてくれるんじゃないのか?、
コンキスタドールに襲われた際、部族の誰かが隠したか?、
コンキスタドールが見つけて隠し持っていたのか?、
もう1つ残された可能性がある、
部族の連中はスターチャイルドの骨を食ったんだ、
これで部族が丸ごと生きていた事も、骨が見つからなかった事も説明がつく、
スターチャイルドの骨は頭蓋骨1つしか見つかっていない、
宇宙人と地球人が交わり子を残すという神話が本当ならば、
子供が1人だけという事はないはずだろう?、
だがスターチャイルドの骨は頭蓋骨、その1つしか見つかっていない、
他の骨は何処に消えたんだ?、他にも神殿があるのか?、
骨は崇められるだけでなく、消費されていたんじゃないのか?、
アメリカとメキシコの戦争、米墨戦争の顛末は話したよな、
アメリカが勝った戦争だ、
1848年グアダルーペ・イダルゴ条約が結ばれた、
これによりメキシコはアメリカに多くの土地を奪われた、
戦争に負ければ土地を奪われ多額の賠償金を求められる、当り前だ、
だがグアダルーペ・イダルゴ条約ではメキシコは土地を奪われたが、
アメリカから金をもらっている、土地の譲渡代金という名目だな、
それも1ドルとかそういった形式的な物ではなくて、
1500万ドルもの大金をアメリカは支払ったんだ、
1500万ドルだぞ、大金だ、勝った国が払ったんだ、
この金でアメリカが得たのは土地だけじゃない、
メキシコの代表者とアメリカの外交官ニコラス・トリストが、
条約に調印した時だ、
メキシコの外交官ベルナルド・コウトは、
トリストにいくつかの品物を手渡している、
献上品だな、
終戦と友好を記念してという事らしい、
民族的な工芸品とかだな、
メキシコからの贈物の中には珍しい物があった、
メキシコで採取された石や生物の標本や化石だ、
石というのはメキシコに落ちた隕石の欠片の事だ、
標本は植物の押し葉標本と動物の剥製、
化石は恐竜や動物の古い骨の事だ、
学術的な目的の為にアメリカに譲渡されたというのが表面上の理由だ、
1970年代には世界的な宇宙人ブームが起った、
エリア55やナスカの地上絵宇宙人作成説や、
宇宙人を解剖した場面を撮影した動画とかが流行った物だ、
当時様々な噂や陰謀論が語られた、
中にはグアダルーペ・イダルゴ条約について触れた物もあった、
曰く、条約が結ばれた際に献上された隕石は、
宇宙的な特別な力を持つ物で、
宇宙的な特別な力ってのは宇宙人の技術や未知の細菌と言う事らしいが、
ともかく米墨戦争アメリカがメキシコから、
その隕石を奪う為に起した戦争だった、
そしてアメリカがメキシコに渡した土地代1500万ドルの本当の理由は、
終戦後も隕石の居場所を隠していたメキシコ政府に、
隕石との交換条件としてアメリカが支払った金だという説だ、
メキシコからの贈物は一般には未公開のままテキサスの研究所に保管された、
テキサスは南北戦争の戦場になった、
研究所は戦争に巻き込まれてその最中で石は行方不明になってしまったんだ、
この話しには続きがある、
南北戦争はこの隕石を巡っての争いなのだと言う話もある、
テキサス州は南軍に属していた、
研究所に保管された隕石は戦時中に紛失している、
北軍が戦争の混乱の中で奪ったとも、南軍の司令官が秘密の場所に隠したとも、
また民間人、盗人がドサクサに紛れて盗んだとも言われている、
グアダルーペ・イダルゴ条約に関するこれら一連の話では、
メキシコが渡した隕石の欠片ばかりが注目されている、
だが俺が注目するのは化石の方だ、
化石の中にスターチャイルドに関連する骨が含まれていたかも知れない、
メキシコからの贈物は未公開だが、目録は公開されている、
条約が締結された場に立ち会ったメキシコ側の政府高官が証言しているんだ、
目録の中にこんな記述がある、化石……植物、海洋生物、骨、
話には続きがある、
南北戦争で勝利を収めたのは北軍だ、
北軍の大将はリンカーンだ、
リンカーン南北戦争終結した年に、
南軍を支持するブースと言う男に殺された、有名な事件だ、
有名な話だがその1年前にもリンカーンは暗殺されそうになっている、
自宅からホワイトハウスへの出勤途中、馬に乗っている時に狙撃されたんだ、
暗殺者が放った弾丸は帽子を貫通した、
ところが不思議な事にリンカーンは無傷だったんだ、
被っていた帽子の中心を弾が貫通したのにだ、
リンカーンはその1年後に暗殺された、
この時は暗殺者ジョン・ブースの持つ拳銃から放たれた弾丸は、
確実にリンカーンの後頭部が貫いた、
だがリンカーンが絶命したのは撃たれた10分も後だ、
そのあいだ彼は傍らに居た妻と言葉を交わしていたと言う、
36年後、埋葬されたリンカーンの遺体が入った棺は発掘される、
遺体盗難防止の為にもっと強固な墓地に棺を映す事になったんだな、
その際、遺体の確認の為に棺は1度空けられている、
リンカーンの遺体を観たのは23人で、
全員がリンカーンの遺体には一切の腐食が無く、
生きている様だったと語っているんだ、
もちろん遺体には防腐処理なんか施されてはいなかった、
暗殺の失敗、脳みそをぶちまけられても生きていた彼、
棺の中の遺体の状態、
もしかして骨はリンカーンの手に渡っていたのかもしれない、
彼もあの部族と同じ様に骨を食っていたのかもしれない、
病気から回復した部族の様にな、
ハスターを創造したビアス
ビアスの創造を利用したラブクラフト
ラブクラフトビアスと何回も会話をしているんだ、
夢の中でな、
後に出版された彼の日記に書いてある、
ラブクラフトは偉大な作家で彼に関する研究や論文が無数に世に出ている、
その中の1つが彼の生い立ちを取材して描いた物だ、伝記という奴だな、
中には面白い事が書いてある、
ラブクラフトがまだ偉大な作家になる前の事、
夢の中でビアスと会っていた時期、
ラブクラフトが住む町の住人の夢の中にもビアスが出てきたと言うんだ、
ビアスは住人達の夢の中で彼らに対して、
メキシコでの出来事や制作中の物語について語った様だ、
暫くしてラブクラフトビアスの夢を見なくなると、
住人達もビアスの夢を見なくなった、
ビアスは71歳で行方不明になった、
これはその17年後の出来事だ、
ビアスがもし生きていたら88歳になる、
ラブクラフトの証言によれば、
彼や住人の夢の中に出て来たビアスは、
夜ごとに姿を変えている、
老人や青年や中年に姿を変化さている、
だが不思議な事に一目彼の姿を観るとそれがビアスであると分かったと言う、
ビアスが行方不明になったのはメキシコはチワワ州だ、
わかるな?、洞窟に眠るスターチャイルドが少女によって発見された場所だ、
ビアスが行方不明な理由にはいくつか噂があったよな?、
1つが深い洞窟の奧に行って帰って来なかったという物だった、
この説の凄い事は、ビアス自身の証言が残っている事だ、
ビアスは行方不明になる直前に滞在した村で住人と会話をしている、
酒場の客や宿の店主なんかとね、
彼ら曰くビアスは洞窟に向かうと言っていた、
その洞窟はメキシコの伝説や神話を調査する為には、
重要な場所だと言っていた様だ、
きっとビアスは洞窟に行った、その奧で何かを得たのかもしれないよな、
あの薄暗く青い水が所々で湖になっている洞窟の奧で、
似た様な話がある、
メキシコ革命で活躍した将軍達の話をしただろ、
重要なのがビリャだ、
ビリャは革命後はチワワ州で農園主として暮らしていた、
そして革命戦争が終わった数年後に暗殺される、頭を割られて、
ところがビリャの死後も彼の事を目撃したという証言が結構な数、
残されているんだ、
まあよくある話しかもな、イエス・キリストだって一度は復活してるんだ、
ビリャが復活してもおかしくはない、
この復活劇の舞台もチワワ州だ、
ビリャとスターチャイルドを関連づける出来事は他にもある、
覚えてるか?カランサがメキシコ大統領だった当時、
ビリャがアメリカと小競り合いを起した事を、
ビリャはアメリカ人を殺した、
報復の為にアメリカ政府はビリャ討伐隊を結成、派兵した、
そんなアメリカ軍相手にビリャが逃走の舞台として選んだのがチワワ州だった、
討伐部隊の兵数は12000人、
この作戦で米軍は初めて航空機を使用した、
ビリャ捜索の為に空からの眼として飛行機を使ったんだ、
なのにビリャはたった1度もアメリカ軍には捕まらなかった、
ビリャがただ逃げるのが上手かっただけかな?、
討伐隊の副官はパットンだ、
パットンは2回の世界大戦で陸軍の大将として大活躍する、
彼はこのビリャ捜索作戦で武功を上げている、
パットンは数名の部下を連れてビリャの副官と戦闘した、
そして副官を殺害している、一般的にはそう言われていた、
パットンの伝記も多く作られている、
中には彼が監修した物もある、
そこにはメキシコで行ったビリャの副官との戦闘について、
一般的な資料とは別の事が書いてある、




//※//




続きはこちらです
「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 4ページ目」
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※2014/12/29にタイトルを変更しました。
「ずっと後ろで暮らしている」

「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」




//※//



僕は彼女の言葉に頷いた。
彼女は自分の言葉にこそばゆさを感じた様な表情をする。
あるいは苦い顔。
僕はもう一度彼女の顔を見て、苦みではなく渋みだろうかと思い直す。
苦味も渋味も、料理ならば旨さを際立たせるのに必要な物だ。
適度な量ならばね。
彼女と僕は2、3の言葉を交わす。
プレイ終了の挨拶だ。今回に限っては会話終了の挨拶。
だって彼女と僕が触れたのは舌と歯だけだ。
ペニスも衣服の上からは握られたけれども。
ともかく僕が払った料金分の仕事を彼女は成し遂げたという事。
僕と彼女の話は、これでおしまい。


彼女が青や紫のレースの先に消えていく。
次に暗闇に消えた。
ソファーで待たされる。
僕には彼女の名刺と彼女が書いた手紙を受け取る義務が生じている。
上手く行けば「レッカー車」と絡んでいた
女性従業員の名刺も手に入れる事が出来るはずだ。
「レッカー車」は少し前にプレイルームから退出している。
きっともう店を出ている頃だろう。
僕は既に「観葉植物」に彼の動向を連絡してある。
僕のメッセージを見た「観葉植物」は
今頃「レッカー車」の後ろを歩いているはずだ。


女性従業員が戻って来る。
2枚の名刺と1枚の手紙をもらった。
僕は笑顔だ。
彼女が僕の手を握る。
彼女は自分の指と僕の指とを1本1本絡ませる。
手を繋いだまま出口まで案内される。
移動中それとなく周囲を観察した。
「レッカー車」はどこにも顔を向けずに部屋を出ていった事を思い出す。
彼の振る舞いこそが大多数の男の振る舞いだろう。
金を払って射精をした彼らの心の中には照れや罪悪感や後悔が渦巻いる。
快楽と壮快感と混ざっている。だから周りを見る事は出来ない。
余裕はない。恥もある。
僕は自分の振る舞いに苦笑いを浮かべる。
風俗嬢に体を愛撫させず彼女に話をさせるだけさせる。
そして席を立って周りをそれとなく観察する行為の事だね。
僕と同じ様な行動をするのは、彼女が言った説教おじさんか
ネタを探している小説家、漫画家、構成作家くらいのものだ。
暇で心理的に卑猥な連中だ。僕も含めてね。


手を繋いで店を出るのは風俗嬢と客による恋人的な恋愛の演出。
でも僕は思ってしまう。
むしろ母親と手を繋いで歩く小さな子供の様じゃないかと。
射精していたら増して感じていた事だろうね。
なぜだろう?
きっと男が女性に手を引かれて歩いているからだ。
女に手を引かれて歩く男を見ても、
周囲の人間が男から男児性を感じ取らなくなる時こそが
ジェンダー、性差という奴がもっとも低くなる時代だろうね。


出口で彼女とキスをする。
僕が申告した嘘、歯が痛いと言う嘘を信じて、
彼女はゆっくりと僕の口内に舌をいれる。
歯科医が行う難しい治療もかくやという慎重さ。大変な仕事だなと思う。
別れの挨拶。また来てという言葉にまた来ると返す。
彼女の仕事が終わった後で僕は階段を上る。
地上について振り返る。
彼女が笑顔で僕に手を振る。
反対の手で自分のタンクトップの胸元をつまんで素肌の胸を見せる。
大変な人生だ。大変じゃない人生なんてそうそうないとも思うけれど。
どの女性にだって、男性にだって、僕にだってね。


歩く。店から離れる。
彼女が見えなくなった所で手紙を見る。
甘く丸い文字で甘い愛の言葉が書いてある。
これだから性風俗は嫌いなんだ。
男共は金で愛を買う事が出来ると完璧に思っている。
だから金を払った風俗嬢にも愛情を演じる事を求める。
男の悪口はあまり言いたくはないけれど男共の欲望め。
男の悪口をあまり言いたくないのは僕も男だからだ。
だから自分で自分を貶している事になる。
自分の事を鑑みるのは賢人かもしれないけれど、
自分を貶すのはあまり賢い行いとは言えないはずだ。
そして男共に比べたらある種の女性の清い事よ。
たとえばホストクラブに通って金を使うだけ使って
最終的にビルの上から身を投げる女性。
彼女の方がまだ幾分は潔い。
金で愛を買えると当り前に思っている男は最終的に女性を殺すだろうが、
金と愛の関係を根本的には疑っている女性は自分を殺す方を選ぶと言う訳。
自分の行動の結果と責任を自分で取る分は女性の方が男より潔い。
僕は少しばかりの怒りを胸に抱えながら
出口の斜向いに建つコンビニに向かう。
清潔な白い光を放っている窓、向こうに見える雑誌棚。
僕は彼女が愛情を演じた手紙をくしゃくしゃに丸めた。
ゴミ箱に投げ入れる。



僕はコンビニから風俗店を眺めている。
コンビニに入って店内を一回り。
雑誌、ジュース、アルコール、お弁当、レジ、コーヒー。
僕は栄養ドリンクを買う。ストローを貰って直ぐに外に出る。
小さなベンチと灰皿。喫煙所に座ってドリンクを飲む。
携帯端末を弄りながら風俗店の入り口を見張る。
機嫌が良い様に装う。本当は仕事中だから機嫌の良いも悪いもないのだけれど。
仕事には必要だから装う。


今の仕事を始めてからそれなりに時が経つけれど、
今だって仕事に慣れた訳ではないんだ。
慣れてない事を実感するのは緊張を感じた時だ。
緊張と言うより危険と言った方が正しいかも。
仕事柄、夜に行動する事も多い。
普通の人が行かない場所に、1人で行く事もある。
例えば、いま僕がいる場所の事。
夜の繁華街。
人通りが多くて賑やか。一見楽しげで平穏にも見える。
けれど夜には独特の雰囲気がある。
昼間の同じ場所では漂っていない空気がある。
空中にはアドレナリンや性欲が漂っている。
原因はきっと街を行く人々の視線だとは思う。
街を歩く女性を見てみれば良い。
見るのは夜の街を1人で歩く女性の歩行速度だ。
昼間と比べると速度が上がっている。
彼女達は夜の街の危なさを意識的に、あるいは無意識に感じている。
だから危険を回避する為に昼間よりも早歩きになると言う訳。
少なくとも僕がそうだ。


だけれど、夜の街中でもコンビニは落ち着ける場所の1つだとは思うよ。
もちろん夜のコンビニが苦手な人もいるだろうけれどね。
昼と夜とではコンビニの客層が変わり過ぎる。
繁華街ならば尚更だ。
昼間の客はサラリーマン、OLや学生に主婦。
夜をなればキャバクラ嬢やホスト、風俗で働く女性や、
仕事を終えたサラリーマンと酔ったOLつまり遊び人達。
僕がコンビニに安心感を見いだすのには理由がある。
棚に置かれた、化粧品、生理用品、ストッキング等の商品が理由。
女性客が存在している証拠。
つまり女性の居場所があるという訳。
だから僕は安心できる。
想像をした事がある、例え話だね。
知らない街に行く、知らない繁華街がある。
知らないコンビニがある、
コンビニには化粧品も生理用品もストッキングも売っていない。
駅の小さな売店にだってストッキングは売っているのにだ。
しかも1種類じゃない、デニールと色に別れて数種類を取り扱っている。
これからストッキングを破くプレイを楽しもうとする、
カップルの好みにさえ対応している種類の豊富さだ。
もしストッキングも何も売っていない店があると想像する。
するとどうなる。
女性客がいないという事になる。そして街全体にも女性が少ない。
あるいは居場所がない事にもなる。
恐ろしい事だ、知らない街、僕が想像した街は男どもの街であり、
空中には常にアドレナリンや性欲が漂っている場所だ。
だから化粧品も生理用品もストッキングを売っているコンビニは
夜の繁華街でも安心を実感できる場所だと思っているという訳。
夜でさえ女性が多く存在する証明だね。
別に男性が悪人だと思っている訳ではないのだけれど。
バランスが著しく崩れているのは良くない事だと思う。


しかし僕はたった今、道を行く男が唾を吐き出すのを目撃してしまった。
彼の行いをありのままに言うと品のない行動だ。
良い行いではない。
彼はスーツを着た一般的なサラリーマンに見えるというのに。
それともサラリーマンは地面に唾を吐き出すのが一般的なのだろうか。
下品であるという事以外にも嫌になる部分がある。
彼自身の脇の甘さが露呈しているから嫌なんだ。
スーツを着て一端の社会人を演じている。だけれど道に唾を吐き出す。
ヨダレを垂らすのは本来は赤ちゃんだけの特権だ。
唾を吐き出す男を一端の社会人と認めたくない。
彼の様な人を見ると学生の頃を思い出す時がある。
同じ教室で学んだ男の子達の事だ。
女の子の前で格好をつけ様とするクセに、すぐに子供っぽさが滲み出る彼ら。
彼らの話題はロボットとたたかいと小声で話すポルノの事。
それからどこかの大人のマネをして床につばを吐きかける。
脇の甘さだ。
格好をつけるならば最後まで上手く演じて欲しい。
単調な子供っぽさを見ると僕はゲンナリとしてしまう。
そして大人と呼ぶべき年齢の男性が、
単調な子供っぽさをみせると僕は絶望しかける。
男は年をとっても子供のままなのかという疑問が沸き上がってしまうのだ。


僕はタバコが吸いたくなる。嫌な思いをしたからだ。
シガレットケースから取り出したバージニアロングスリム。
メンソールの匂いで口の中を洗い流したい。
ところがライターの火がつかない。オイルが切れているみたい。
ここはコンビニ。だけれど風俗店の出口からは目を離したくない。
だから買い物はできない。


よかったら、どうぞ


タバコをくわえて間抜けな顔になっている僕の前にライターが差し出された。
声の主。ライターを持つ指。腕を辿ると居るのは、誰が見ても僕と同じ判断をするだろう。
ホストだ。


ああ、ありがとう


僕はお礼を言ってライターを受け取ろうとする。
すると彼は自然な動作でライターに火を灯して、
僕のタバコに火を着ける。一瞬で点火した。
自然と言うより優雅な動作。


あはは、私、プロに仕事をさせちゃった


僕が彼の事をホストと判断したのは彼の外見と雰囲が理由だよ。
まずスーツを着ているけれど、ビジネスマンが着る様なブランドの物ではない。
ビジネスマンが着るには高級すぎる。
イタリアのスーツの様にデザインに遊びがない。
そしてイギリスのスーツの様に新たまっていない、どこかリラックスしている。
ジャケットは派手さはないけれどエレガントな曲線を描いている。
フランスのブランドのスーツだろう。
フランスの高級スーツを身につける仕事は中々無い。
着こなしている男性は更に少ない。
彼は店での成績も良いのだろう。
最近の僕は男性の服装にも詳しくなってしまった。
仕事柄必要だったのだけれどね。
スモールノットで結んだナロータイの上には顔がある。
眉毛の上まで伸ばした前髪。耳周りも清潔に纏められている。
最近のスタイルだ。少し前は長髪のホストばかりだったのに。
彼、ホスト君の口は微笑んでいる。目も微笑んでいるのだから流石だ。
綺麗な眉毛に、長い睫毛。
笑う演技を口でするのは簡単だけれど、目まで演技をするのは難しい。
それでいて彼からは若干の緊張を感じる。
緊張の理由は彼が周囲の観察を怠っていないからだろう。
接客業という物は周囲の観察無しには成り立たない。
そして彼のわずかな緊張が、彼の表情に真剣さを与えて、
色っぽくも見せている。
目でも笑いながらホスト君が言う。


お姉さんが困っているみたいだったから
おねえさん? 私、あなたより年上にみえる?
俺の所の社員教育方針で
そう
二十歳以上の女性に声を掛ける時はそう呼ぶ事に決められているんだ
職場以外でも守るのね
一応、今も職務中


ホスト君は腕に持っているコンビニ袋を揺らした。
仕事に必要な物の買い出し中と言う事らしい。


そう
君には営業を掛けないけど、暇だったら店に遊びに来てよ
ねぇ、それを営業って言うんじゃないの?
名刺は渡さないって事だよ、君なら店と俺の名前と顔は直ぐに覚えられるでしょ
自分が格好いいから?それは自惚れじゃない?
君も俺と同じ様な仕事に就いているでしょ?、
だから君も人の事を覚えるのは得意、はずれた?


彼から見ても僕は夜の街で働いている女に見える様だ。
女性の場合、昼間の勤め人と夜の人間を分けるのは外見より雰囲気だ。
普通の会社勤めの人だって、キャバクラ嬢よりも着飾る人間はいる。
もちろん、明らかに水商売向けのスーツやドレスもあるけれど。
衣装の様な物で、出勤着は各人の好みだ。
普通の服が好みの娘は店の外では普通の格好という訳。
僕が着ているのは普通よりも少しだけ色が目立つスーツ。
夜の繁華街で女1人で行動し易い服装。
水商売と見られた方が良いと言う訳。
ナンパもされないし、歩いていてスカウトもされない。
既に店で働いている娘を他の店に誘う事は引き抜きだ。
引き抜きはあまり良いとはされていない行為だからね。
風俗、AVのスカウトも夜にはあまりいない。
特に夜働く女性の出勤中や勤務中に誘う者は少ない。
彼女達は忙しいのだから。
更に機嫌が良い様子だとより声を掛けられない。
いま僕が機嫌が良い振りをしていたのも、
余計な声を掛けられない為だ。
ナンパやスカウトが誘惑を仕掛ける相手は決まっている。
機嫌が悪かったり、
悲しかったりして落ち込んでいたりする女達だ。
誘惑は精神が不安定な相手にする方が成功率が高いという話を聞いた事がある。
だけれど、水商売や性風俗に勤める女性に声を掛ける者もいる。
例外という奴だね。例外とはホストの事。
彼らの客の大半は水商売や性風俗に勤める女性だからだという訳。


正解だけれど、職業を当てられても嬉しくはないわ
ふふふ、だよね、ごめん、店も俺の名前も教えるのもやめるよ
そういう手?そっちの方があなたに興味が出るものね
うわ、ばれますよねー
ばれてますね
じゃあバレたついでに、店はこの先のガウェイン名前はカズヤ
私、記憶力悪いから
いじめないでよ


彼が笑うので僕も釣られて笑った。
彼の整えられた眉毛が上がる。


まあこの程度なら楽しい会話もできるから
そう
仕事のストレス発散で良かったら遊びに来てよ
そうね


ホスト君が笑顔のまま去る。
スーツの背中に皺が付いているのが見えた。
店でソファに座っている時にでも付いたのだろう。
僕は思わず彼に注意をしたくなる。
生地を手で引っ張って皺を伸ばすくらいならばしてあげても良い気分。
いけない。彼の術中に陥っている。
楽しい気分だけならば男と遊ぶのもいいのだけれどね。
ただ楽しい気分だけで終われるかが問題。
楽しい勢いで一線を越えてしまうかもしれない。
一線と言うのは自分の心の動きの事、そして体の事。
守れないならば最初からつまらないままでもいいかとも思ってしまう。
不機嫌さ、つまらなさって時には防衛機能にもなるという訳。


タバコを吸い終えた所で携帯端末に「暖房器具」から連絡が入る。
「暖房器具」も「レッカー車」もまだ風俗店からは出て来ない。
彼の報告によれば「レッカー車」がそろそろ店から出て来るみたい。
「暖房器具」の仕事は正確だ。
人間としては自信家で少し気取っている所が鼻につくけれど、
人間性と仕事の評価は別にしないとね。
そろそろ40歳に近づいているけれども、
彼は体系にも気を使っているとは思う。努力と言うのは大事だな。
ともかく彼が特別に嫌な人ではないのという事は
同僚としてはありがたいものだ。
彼はどうやら店から動けない状態にあるらしい。
だから「レッカー車」を追跡するのが今からの私の仕事になる。


そして「レッカー車」が地下から出て来る。
階段を振り返って手を振っている。
相手をしてもらった女の子が彼の視線の先にいるのだろう。
彼が移動を開始。少しの間を置いて僕も移動を始める。
シガレットケースの中で空になったタバコの箱をゴミ箱に投げて入れた。
僕はコンビニを立ち去る。


「レッカー車」の後ろを歩く。離れて歩く。
暫くして周囲の雰囲気が段々と変っていく。
喧しさや、騒音と言った類いの空気。
風俗街を越えて、繁華街中心の大きな通りに辿り着いた。
大通りと言っても車の通行は禁止されいる。通りは人で溢れている。
きっと遊び人ばかりだ。
そして僕たちは人々の間を縫う様に進む。
「レッカー車」、僕、
酔った人々、或はこれらか酔うつもりの人々。
居酒屋の呼び込みが声を張り上げている。
ホスト達の外見が時と共に変化した様に居酒屋の呼び込みの子達も変った
精確に言うと、不良の若い男の子達が変化した。
少し前の彼らの体格はひょろ長く、髪も長く金色茶色だった。
だけれど、いま街の居酒屋の呼び込みをしているのは
筋肉質で黒髪が短い現代の不良達だ。
僕の目の前を歩くサラリーマンの集団に声を掛けた子。
彼は気温も低くなって来たというのに半袖て丸太の様な二の腕を晒している。
寒いのに馬鹿だなと思う。
けれど少しおかしくて彼らの様な若い子にも可愛げがある事を感じる。


サラリーマンたちは呼び込みの子に案内されて人波に消えていく。
そろそろ終電もなくなる時間だ。
東京の繁華街はどこでもそうだけれど、
終電がなくなる事で街は本当の姿を現す。
僕たちがいる繁華街は、電車がなくなると極端に交通手段がなくなる。
歩いて他の街に移動するのも遠いし、酔っていては車も運転できない。
残されたのはタクシーくらいという訳。陸の孤島と言う奴だね。
街からは誰も逃げられない。
だからぼったくりの飲食店も繁盛するというものだね。
僕だったら、ぼったくりにあったら交番に行く事を進めるけれどね。
陸の孤島の中心には交番がある。
いつでも数名の警察官が待機している。
女性警官も何時でも居る。
繁華街ならではだなと思う。
女がらみの犯罪や、或は女の犯罪者も多いという事だろうね。
女性をボディチェックするにしても女性警官が行う方が問題も少ないと言う訳。
ともかくぼったくりにあったら、店の責任者と共に交番に行く事を勧める。
提供されたサービスに対して支払える妥当な料金について
警官の目の前で話し合えば良い。
警官は民事不介入。
だけれど、脅迫も暴力もない安全な話し合いの場所ならば提供してくれるから。
ぼったくり防止条例という物もあるけれど、
条例違反を理由に警察が飲食業者を取り締まるのを僕は見た事が無い。
僕が今の仕事について覚えた事の1つだ。


「レッカー車」が通りを進む。
僕は引きずられていく。「暖房器具」から連絡。
服を変えてから尾行を開始するという。
私が前線で、「暖房器具」が私の後ろにつく形になるという事だ。
「レッカー車」が懐から何かを取り出して耳に当てる。
携帯端末を使って誰かと通話をしているらしい。
対象の人数が増えると面倒だなと思う。
増えれば増えるだけ、
僕たちが後を付けている事が認識される可能性も増える。
面倒くさい。そしてこのまま歩いていては「レッカー車」を追い越してしまう。
かといって道ばたに立っているのも不自然。なので僕は道の端に寄る。
壁にもたれ掛って誰かを待っている女を演じる。
「レッカー車」を視界の端にいれる。
何時の間にか、視界の端で目標を観察する事が得意になっていた。
得意になったのは今の仕事を始めてから。
初めは随分と苦労をしたけれどね。


視界の中央には見た事のある影が映っている。
道の向こう端。
優雅なスーツ。スーツの背に皺。
僕にライターを貸してくれたホスト君だ。
彼の目の前には若い女が居る。私よりはきっと若いはず。
女の子は泣いている。彼女のポーズはなんと言うのだろう。
片方の掌を口元に当てる。もう1つの手で手首を押さえる。
テレビでアイドルの娘が泣く時のポーズだ。
アイドルはマイクを持っているから分かる。
けれど、僕の眼に映る彼女はマイクは握っていない。
どちらにせよ、ポーズだ。ポーズとは演技の事を言う。
女の子の手を涙が伝う。涙が腕に流れる。涙が彼女の赤い上着に染みていく。
彼女が泣いて声を出す。しかも結構大きい声なんだ。目立つ事はやめて欲しい。
視界の端の「レッカー車」は電話に夢中らしい。彼女の事には気が付いてない。
よかった。僕は少しだけ安心する。
「レッカー車」の方までは女の子の声が届いていないのかもしれないけれど。
彼女は声を絞り出す。上手く聴き取れないけれど彼女は言っている。


やめてお店でもやさしいけど他の娘に優しくしているのを見るのは、
いやだし、だけど、あいたいし、
もうわかんないわかんない自分の事ととかわっかんない、
もう私に話かけないでいいから、なんで話しかけるの


ホスト君は地面に顔を向ける。何かをつぶやく。
反省か後悔の演技。あるいは懺悔。
女の子の頭を掌で撫でる。
それからコンビニの袋に手を入れる。
僕と話していた時に持っていた物だ。
彼が袋から何かを取り出す。良く見えない。
彼は彼女の額にキスをする。
女の子は口元の手を解いて彼に抱きつく。
彼の胸元に顔を沈める。涙が彼のシャツに染込む。
背に腕を回す。スーツの皺が増えていく。
ホスト君は彼女を抱き締め返す。
彼は微笑んでいる。なんだろうこの場面は。
僕は彼の事を見る。
ホストの仕事は店の外でも続いているのだなと思う。
仕事をすると言う事は、職務に対する義務と演技が生ずるものなのだろう。
当り前の事なのだけれど。
それにしても見事な立ち振る舞いだった。
ホスト君が僕の視線に気が付いた。
僕は皮肉な顔をすれば良いのか。
それとも拍手をすれば良いのか。
両方をしたい心境。
僕の複雑な顔を見ても彼は微笑みを崩さない。
彼女を抱き締めていた手を片方だけ離す。
僕に向けて親指を上げる。
サムズアップ。グッド。
ホスト君は再び女の子を抱き締める。
僕の心はゲンナリした気持ちと彼を褒めたい気持ちに二分する。
視界の端の「レッカー車」が移動した。
ちょうど良かった僕は仕事中なんだ。
僕は彼になおざりに手を振った。
壁から離れて歩き出す。仕事に集中しないといけない。


「レッカー車」は大通りからホストクラブが乱立する通りに進んでいく。
建ち並ぶ店や看板のネオンが目に眩しい。
キャラバクラよりもホストクラブの方がきらびやかで明るい。
男と女の分かり易い差だ。
ホスト達が道に立っている。
色々な種類の男たちだ。
優男、強面、アイドル風、アスリート風、
ハーフ、黒人、アジア人、短髪、長髪、眼鏡。
僕が彼らに声を掛けられても
「レッカー車」には気が付かれない様にしなくては。
だから彼からの距離を更に空ける。


「レッカー車」はホスト街を進む。僕は後を付ける。
彼の横を男性が通り過ぎる。更に男性は僕が居る方に向かって来る。
中年を少し通り過ぎた年齢のサラリーマンだ。
よれたスーツを着てよれた足取りで道を進んでいる。
酔っぱらって街を歩いて、ホスト達の中に迷い込んだみたい。
街並に驚いた様な自分を卑下した様な半端な笑みを口元に浮かべている。
彼は一瞬、不機嫌そうな顔にもなる。あるいはホストを馬鹿にしているのかも。
彼の様な男性を見ていると僕の父親を思い出す。
思い出す事は嫌な気持ちでもないけれど、良い気持ちでもないよ。
僕の父は家では大抵酔っていて不機嫌な事が多くて、
だけれど良く微笑んでもいた様な気がする。
僕には最後まで彼の心が分らなかった。
どうにも、僕は父の事を考えるのは苦手だ。
まだ母親の事を考え方が得意と言う訳。
彼女に対してなら褒める言葉は幾つも浮かぶ。
もちろん、当り前だけれど、悪口は3倍は思い付くけれどね。
だから僕は今より若い頃、
自分の結婚の事を真剣に考える事はできなかった。
家庭を持つ事が嫌だったからだ。ところが最近は僕の考えが変って来た。
結婚する機会をくれるならばしてあげても良いかもと思う様になったんだよ。
他人が聞いたら僕の考えは偉ぶった人間の言葉だと思うだろうね。
でも決して男性を見下げている訳ではないんだ。
ただ、老後まで1人で暮らしている将来が、
なんとなく現実的に思えてきたというだけ。


男性は酔っぱらっているから、ゆっくりとしか歩けない。
僕は彼とぶつからない様にして横を通り過ぎる。
彼の乱れた襟元が目に付く。
白いワイシャツの襟が黒く汚れている。
ちゃんと洗濯をしてあげれば良いのに。
いま僕の家族は何をしているだろうか。
母と父は。


「レッカー車」は道を進み続けている。
だから僕は後を付けないといけない。
それが僕の仕事だから。


輝くネオン。視線。酔っぱらい。
ホスト。客の女。騒音。


僕は色々な男たちの間を歩いて行く。





↓ここから更新↓





ホスト達が通りを闊歩する。
彼らの顔には自信と焦りと愛嬌と欺瞞と笑顔が張り付いている。
つまりどこにでもいる男たちと同じと言う訳。
みんな大変だという話でもあるけれどね。
「レッカー車」が通りを抜ける。
僕は彼の後を付ける。


彼と僕が辿り着いたのは裏通りだ。
正確に表現するならば大通から1つ通りを入った小さな場所だ。
大通りとホスト街に囲まれて存在している。
大通りにはチェーン店ばかりがある。
チェーン店が複数入るビルがひしめいている。
一方の裏通り。
裏通りには個人経営の飲み屋や飲食店が軒を連ねている。
表が居酒屋、コンビニ、ダイニングキッチン、ファストフード、
カフェ、ファミリーレストラン
裏がスナック、バー、定食屋、小料理屋、喫茶店、レストランだ。
店の種類が種類だから真夜中でも人通りは多い。
道の幅が狭い分だけ、表通りよりも混雑している様な印象を受ける。
飲食店以外にも店はあるよ。
表がカラオケ、映画館、ゲームセンター、雑貨屋、服屋、デパート。
裏は違法DVD販売店ハーブ屋雀荘、小さなダンスクラブだ。
だから真夜中でも人通りは多い。


表通りの呼び込みが日本人の若者だ。
裏通りだと呼び込みは外国人になる。
悪そうな、ベトナム人、黒人、アメリカ人、トルコ人
中国人、メキシコ人、ロシア人、インド人、中東の人間。
全員、男性だ。
街には女性の呼び込みだって存在はしている。
だけれど、いま僕が歩く通りには居ない。
繁華街においての通りとは、仕切り板の様な物だというわけ。
呼び込みの女性たちは彼女たちなりの商品を客に販売している。
だけれど「レッカー車」と僕が歩く道。
そして多くの悪そうな外国人達と
悪そうな日本人が歩く通りでは彼女達の商売は許可されてないというわけ。
では、誰が商売の許可を出しているのか?
というと少々ややこしい話になってくるのだけれどね。
ともかく、どのような場所にもどのような商売にも規律はあるという話だね。


裏通りを進む。
夜とネオンと喧噪が柔らかく混ざっている。
人々が出す熱気で空気は生温い。
僕は外国人達の間をすり抜ける。
見覚えのある顔もいる。
南米人の男が僕に小さい会釈をする。
声はかけて来ない。
礼儀か気の効いた挨拶のつもりなのだろうけれど。
だけれど、僕には迷惑な行為。
だって僕はいま職務中なのだからね。
つまり、彼は以前、僕の客だったというわけ。
夜の街で交わされる小さな会釈は秘密の共有を表現している。
勘の良い人間が見たら、僕が今夜している事を察するかも。
だから職務中に向けられる会釈は迷惑な行為なんだ。
僕は想像する。
僕が順調に商売を続けた結果、
知り合いが増えすぎて商売ができなくなるという事体になったらどうしよう。
マヌケで笑える。


でも南米人の彼ももうすぐ街から居なくなる。
人の入れ替わりが激しいのが繁華街の特徴だ。
特に、東京の中心にある繁華街となれば尚更のこと人の出入りは激しい。
出入りが激しいと言う事は、人の集団化があまりされないという事。
集団化があまりされていないという事は集団間の区切りが曖昧であるという事。
だから集団同士の対立もあまりない事を意味しているという事。
なので僕や「暖房器具」の様な仕事が成立している部分がある。
僕たちの仕事は人間関係や集団間の隙間で蠢く産業なんだ。
産業と言う程度には人間社会に必要とされている仕事だろうとは思っている。
社会に必要とされているのに、不法は事をしているのは不思議な気分。
法律から少々逸脱する事を引き受けているから、
必要とされているのかもしれないけれどね。


僕が歩く繁華街はどこかの国の繁華街と似ている。
どこの国も繁華街も大体が同じと言うわけ。
当たり前の様にチャイナタウンがあってリトルコリアが佇んでいる。
黒人達のネットワークがある。
キリスト教ユダヤ教イスラム教の教会は信仰の場だけではなく
異国においては集会場になる。情報交換、生活の悩み、相談。
トルコ料理屋やインド料理屋では終業後に仲間達が集まる場所になる。
中華料理屋の厨房の奥には秘密の客室があって、
同郷の人々が寛ぐ場所を提供する。
どこでも同じだ。
ロサンゼルスでも大阪でもブルネイでもマドリードでもバーミンガムでも
ロッテルダムでもカラカスでもリマでも同じ。


人の入れ替わりが激しい歓楽街の中でも
特に入れ替わりが激しいのが外国人だ。
彼らは様々な理由で日本にやって来る。
歓楽街に居着く。なんらかの理由で街から居なくなる。
歓楽街での職業が無くなったから去り、
あるいは職業を続ける為に歓楽街を去る。
滞在ビザが切れる。ビザがとっくの昔に切れていた事がバレる。
始めからピザなど持っていない者もいる。警察に連行される。
犯罪に巻き込まれる。または犯罪を行う。逃げるために街から去る
東京に居る必要がなくなる。東京よりも暮らすのに適した国を見つける。
何にせよ、東京の繁華街では彼らの滞在期間は短い。
東京で暮らす彼らは1つの宿に長居しすぎた旅人だ。
居着いた様に見えても、
旅人は何時かは宿を去らなくてはいけない時が来ると言う話し。
旅人は理由があって旅をしている。
旅が目的地の無い放浪であってもね。
目的地が無くても、
旅立つ理由には事欠かないのが人間だらかね。


繁華街では特定の地域や国の人々が急に増える時期がある。
街の一角が中国人だらけになったり、イラク人だらけになったり、
アフリカ系アメリカ人またはアフリカ人だらけになったりする。
してきたのが東京の繁華街だ。
現在はベトナムからやって来る人々がとても増えている。
旅には理由がある。
だから、新聞を読まなくても繁華街に居る外国人達の事を良く観れば
世界的な情勢も分かるんだ。
当り前だけれど、彼らは理由があって日本にいるのだから。
後は理由を考えてみれば良いというわけ。


何にせよ、客が増える事は良い事だと思う。
多くの日本人は様々な国からきた様々な外国人達に
様々なイメージを持っている。
イメージとやらが真実なのか偏見なのかは判らない。
僕にはどうでもいい事なのだし。
何せ、僕と彼らの関係は固定されている。
彼らは会社に仕事を依頼したお客さん。
僕は会社の従業員。
イメージが浮かぶ前に、僕にとっては彼らは生身のお客さんなんだ。
つまり個人という事。
僕は政治に詳しくないし、
日本人が持つ外国人へのイメージにも詳しくないけれど、
お客さん個人の事ならば少しだけ詳しいというわけ。


「レッカー者」は調子の良さそうに道を歩き続ける。
性欲を解消して足取りも軽いと言う事かしらと僕は考える。
でも僕が今までに寝てきた男たちはみんな
セックスの後には気怠そうにしていたけれどね。
例外なくというのが面白い所。
彼は違うのかな?どうかな?彼も例外ではないのならば、
この後、何処かで休憩を取りたいと思うはずだけれど。
茶店、飲食店、或はBarでね。
僕は彼の後を尾ける。
繁華街を歩く何処にでもいる女性を演じながら。
途中でベトナム人とすれ違う。
僕が始めて担当した仕事。依頼主は日本人だった。
次も日本人。3件目がベトナム人だった。
僕にとって始めての外国人依頼主。
こうしてふと彼の事を思い出す事がある。


当時の僕は依頼主との打ち合わせにも緊張していた。
今だって初顔合わせでは緊張はするけれどね。
当時の方が酷かったと言う事。
依頼主のベトナム人は日本語を話す。
あまり上手くはないけれど、下手でもないよ。


彼はベトナム人の映画監督。
彼曰く比較的マイナーな部類の作品を制作しているのだそうな。
だから資金繰りに困るとも言っていた。
次が彼の3作目の作品。
3作目では舞台の一部を日本にしたいという事だった。
僕の仕事は旅行ガイドブックに載っていない日本を彼に観せる事だ。
監督は日本に詳しくなって、自身の作品に活かしたいというわけ。
不倫の現場を撮影する仕事でもなくて、
横領の証拠を掴む仕事でもなくて、
観光ガイドの仕事する事になるなんて、
僕は考えた事がなかった。
確かに外国人より僕たちの様な職業に就いている人間の方が街には詳しい。
街では、外国人だけで行動するより、日本人と一緒に居た方が安全だ。
安全だし、色々な所に行ける。
僕たちに観光ガイドの仕事が持ち込まれるとき、理由は大抵同じだ。
金で安全を買うという事。
日本人よりも、外国から日本に来た彼らの方が、
自分が支払った金と安全の関係については心得ている。
彼らは言う、警察だって金で動くと。
もし日本における外国人の社会地位が今よりも向上したら、
もし外国人のコミュニティが今より大きかったら、
僕たちにガイドの仕事が持ち込まれる機会は今より大分少なかっただろうね。
頼るべき人が居ない人間に手を差し伸べて、
金銭と引き換えに助けを提供するのが僕たちなのだから。


—しかしなんで日本を舞台にしようと思ったの?
ベトナム人映画監督と僕の初顔合わせ。まず僕が訊いた疑問。
彼は眼鏡を手に持っている。慣れた手つきでレンズの汚れをティッシュで拭く。
僕の疑問に答える。眼鏡を顔に掛け直して彼は語り始めた。


眼鏡を掛けてるベトナム人は珍しいでしょ?、
私は本、次にパソコンの画面とにらみ合う生活をしていたので、
視力が悪くなってしまって、
日本の眼鏡は頑丈でレンズの歪みも少ない、優秀ですね、
フレームもレンズもすばらしいです、
いま私が掛けている眼鏡も日本製なんですよ、
福岡県の鯖江という場所で作られた物です、
私が始めて日本の眼鏡を手に入れたのは留学生時代、
ベトナムの大学に通っていた私は1年間日本に留学していたんですよ、
日本では勉強と仕事で忙しくて遊ぶ暇もなかったけど、
だから生活圏はとても狭かったですね、
おかげで日本語には詳しくなりましたけど、
滞在中に漫画と石井輝男監督の映画にハマったんです、
ベトナムに帰国して大学を卒業しました、
私は電子機器の会社に就職しました、
携帯電話に使う部品を日本やアメリカに輸出している会社です、
部品の多くがベトナムで作られているんですよ、
まあ外国資本によって作られた会社なんですが、
何度か出張でアメリカやシンガポールには行きました、
仕事は仕事で楽しかったですね、
だから当時は自分が映画を撮る事になるなんて思わなかったですよ、
ここから話は少し複雑になります、
仕事に慣れて来た頃、私は女性と交際を始めました、
日本人の女性です、
留学で覚えた日本語が彼女と仲良くなるのに大分役に立ちました、
彼女は家具や材料を販売する日本の企業に勤めていました、
ベトナム支社のオフィスで働いていたんですね、
彼女が勤める会社はベトナムでは天然のオークを使った椅子や棚を作り、
ダナンで取れる大理石などと共に外国に輸出していました。
彼女は学生時代にベトナムへの留学経験があったんです、
私とは逆ですね、
縁の様なものを感じました、運命と言うものです、
付き合ってしばらくは楽しかったですね、
でも彼女との別れはやってきました、
ある夜の事です、私は彼女の家を尋ねました、
その日、私は残業をする予定で、
自宅にも帰れないはずだったんですがね、
私が関わっている仕事が全て順調に片付いたのです、
非常に珍しい事です、
気分が良い私は彼女に会いに行きました、
ありがちな話だとは思うのですが、
私は彼女の自宅で、
彼女が他の男とセックスをしているのを目撃してしまったのです、
仕事は上手く行っていたのに、恋愛では大惨敗、
人生上手くいかないものですね、
喧嘩を通り越して乱闘が始まりました、
そして別れがやってきたという訳です、
彼女と別れた後の私は随分と荒れました、
彼女の事は恨みましたよ、
正直に言うと当時の私は彼女を殺す事ばかり想像していました、
見兼ねた友人が私にアドバイスをくれました、
怒りを何らかの形で表現した方が良いとね、
表現と言っても彼女に抗議をする事ではなくて
絵や小説、音楽なんかで自分の気持ちを表現をする事で、
心の中のわだかまりを無くすという事です、
結局、私は映画を撮る事にしました、
映画が大好きで、、
私にとっては音楽よりも身近なものだったのです、
都合の良い事にアドバイスをくれた友人が国営テレビ局で働いていたんです、
だから払い下げのデジタルビデオカメラを格安で手に入れる事が出来ました、
1人で持ち運べる大きさのビデオカメラです、
旧型の物だったので随分と重かったですけれどね、
私は毎日の仕事を終えると素早く家に戻って、
カメラを持ち出して実験と称して色々と撮影しました、
友人と一緒にカメラの使い方を研究したのです、
彼はテレビ局で働いていたけれど広報の仕事を担当していたんです、
だから手探りでの映画作りでした、
ああして、こうして、カメラの事を覚えて行きました、
カメラの使い方が分かると次は脚本作りです、
専門的な本を読んで映画用の脚本の作り方を学びました、
映画の脚本は少しだけ特殊です、小説とは違います、
脚本の1ページが映画の上映時間では1分になるように書くのです、
128ページの脚本なら、映画の上映時間は128分になるという事ですね、
脚本の初項は140ページでした、
友人と相談して無駄な所を削ったら93ページになりました、
スリムで展開もスマートな脚本ができました、
でも物語の内容は、ほんと、酷いものでした、
過去の事とはいえ、あなたに言うのも恥ずかしい程です、
過去の事だから恥ずかしいのかもしれませんけどね、
脚本の内容は初め、
ベトナム人の青年が交際していた日本人女性に浮気をされて、
彼女をめっちゃくちゃな方法で殺害するというものでした、
そうです、映画の主人公は当時の私自身でした、
低俗なスプラッターにすら及んでいない酷い内容です、
書いている時は気分が爽快で、書き終わると満足感もありましたけれどね、
ともかく脚本は完成しました、
そして撮影の開始です、
ですが内容が内容なので俳優がなかなか決まりません、
特に主人公に殺される事になる日本人女性を演じる女優は決まりませんでした、
また制作資金の不足も問題になりました、
カンパしてくれた知人友人もいたのですが、
それだけでは映画を作るのに必要な費用に全然足りません、
スポンサーが必要でした、ところが物語の内容がひどいものだったので
様々な企業に売り込みを掛けても色よい返事はもらえませんでした、
私たちが映画製作の素人だと言う事も大きな影響があったでしょうね、
映画学校すら出ていなかったのですから、
当時は随分と悩みました、お陰で彼女に対する怒りも随分と鎮まりましたが、
彼女の事を恨んでいる暇もなかったのです、
だから映画を撮る事を勧めてくれた友人には感謝ですね、
更に製作に協力までしてくれていたんですから、
今では彼は助手というかプロデューサーとして、
私たちの映画の為に働いてくれています、
さて、映画製作に行き詰まっていた頃、
私はあるレストランで彼女と再開しました、
浮気した彼女にです、突然の再開です、
しかも彼女の隣には男がいました、2人はとても親しげです、
別れた当初は再開する所ばかりを想像していました、
今度会ったらあの浮気女をなんて罵ってやろうか、
どう殺してやろうとばかり考えていたのです、
実際には再開する事が恐かったのですけれどね、
その時に自分が本当にはどうなるか分らなかったから、
しかし運命というやつはいたずらな物です、
当時の私は映画製作の困難を解決する事ばかりに心が奪われていて、
彼女と再会する時の事は想像すらしていなかったのですから、
だけれど、運命というものは、
適切な機会を見計らってやってくるものだとも理解しました、
彼女を目撃した私はとても落ち着いた気持ちになれたのです、
彼女の隣に男が居てもね、
ずっと考えていたんです、彼女と私の事を、
彼女と付き合っている当時は、
仕事が忙しくて2人の時間もなかなか取れずに居た事、
約束も何度かやぶりました、喧嘩も多かったと思います、
とはいえ浮気は許される事ではないとは思っていますけれど、
でも、そういうことです、
私と彼女、2人の間には色々あったと思う様になったんです、
彼女と偶然再会した時に一瞬でその思いを強めました、
色々あって2人は別れたと納得したんです、
だからなのかとても穏やかな気持ちで彼女と話す事が出来ました、
彼女は隣の男の事を彼氏だと紹介しました、
それから彼女は私に近況を尋ねました、
私は映画を撮っていると答えました、脚本はできているのだけれどねと、
彼女は脚本を読んでみたいと言いだしたんです、
私は承諾しました。だけれど脚本は自宅に置いてあります、
だから1週間後に同じレストランで会う事になりました、
一週間後に脚本を見せると約束をしたんです、
勿論、彼氏も一緒にですね、
帰宅してから脚本を読み直しました、それから書き直し始めたんです、
自分が何を表現しようとしているかを理解したんです、
表現しようとしているものは、個人の憤怒と孤独感でした、
真実の怒りではありましたが、矮小な物だとも感じたんです、
こんな脚本を彼女に見せる事は出来ないと思いました、
自分の事を情けないと感じたんですよ、みっともないと、
書き直した脚本は主人公の青年が別れた彼女を許す話になりました、
1人でのたうち回って怒りと孤独で苦しんで、
1人で勝手に彼女を許して納得する話です、
1週間後、脚本を観た時の彼女の表情を今でも覚えています、
明るい顔を浮かべてくれたんですよ、
何かを作って表現して人に見せるという事の意味を、
あの時に理解したと思っています、
彼女はこの脚本なら良い映画になると言ってくれたんです、
それから私は彼女達に映画製作で直面している困難を打ち明けました、
実は完成したあの映画のヒロインを演じた日本人の女性は
彼女の知人の妹なんです、彼女が紹介してくれたんですよ、
後はトントン拍子でした、
ヒロインを演じる俳優が決まった私たちは自分の貯金をつぎ込んで
パイロット版を作りました、
パイロット版は出来が良かったのでスポンサーがつきました、
あの映画にやたら若者向けの低価格スポーツカーが出てくるのは、
スポンサーが自動車メーカーだからです、
青年の悩みを表現した映画と
青年たちに低価格スポーツカーを売りたいメーカーの思惑が一致したんですね、
映画製作中に彼女と何回か会いました、
だけれど恋愛が再開する事はありませんでした、
私たちは感じていたんです、
2人の恋心を繋いでいた線がキッパリと切れた事を、
恋愛はやはり運命によって始まるのだと思います、
2人が一緒になって生きていく運命はもうありません、
だけれど知人と知人としては過ごす事ができました、
映画は評判を呼びました、友人と彼女のお陰ですね、
2作目も好評で、今回が3作目、
予算は前2作より上がったんです、
だから日本を舞台にする事が現実味を帯びて来ました、
全編海外ロケにする予算はありませんけれどね、
これで日本を舞台にしたいという私の気持ちを、
少しでも理解して頂けたのではないかと思います
いつかは網走番外地の様な映画を撮りたいですね、
それと俳優の高倉健さんに私の映画に出演してもらいたいです、
私の夢です、
今回日本を舞台にするのは夢の為の第一歩です


僕は彼をつれて3日の間、繁華街を歩き回った。
彼の希望通り映画は舞台の一部を日本にして制作された。
公開された映画の評判も良かったと記憶しているよ。


依頼主は僕たちに色々な事を話す。
仕事に必要ではない話の事だ。
外国人の依頼主は日本人の依頼主と比べると特に色々な事を話す。
相談できる人が居なくてうちに来るわけだから気持ちは分かる。
彼らにとって日本は外国だ。
外国では心の不満や不安を解消するのは難しいだろうというわけ。
ロスト・イン・トランスレーションだね。
日本で産まれて生きる僕たちだって、
日本に居ながらにして悩みは尽きないのに。


コートジボワール人の依頼を受けた事がある。
初老の男性。
黒い肌にベージュのスーツ、白いシャツとネクタイが良く似合っていた。
ネクタイは無地の赤色。赤と言うよりピンクに近い明るさ。
だけれどコメディアンの様なおかしな雰囲気は微塵も無い。
明るい色が彼をお洒落な紳士に見せている。
お洒落から少しばかり逸脱してお茶目な雰囲気もあるけれどね。
僕が出したドリップコーヒーを彼は微妙な顔をして見つめる。
—依頼内容を聞かせてください。
僕の事務的な質問。
彼はコーヒーを一口で飲み干す。
唇と舌を黒い湯気で湿らせる。
そして話を始めた。


私が生き延びてきた国、
コートジボワールには現在盛況なビジネスが3つある、
1つは武器の売買、
とはいっても別に立派な武器商人になって商売をしようという訳でない、
コートジボワールで軍事クーデターが起った事がある、
更に後、2つの内戦が起こった、
3つの争いが10年間の間に立て続けに起こったんだよ、
2度目の内戦はついこの間終わったばかりでね、
だから武器が至る所に拡散しているんだ、
現政府は拡散した武器の回収を急いでいる、
外国も金を出して協力している、
だけど回収が順調って訳じゃない、
順調じゃないのを良い事に拡散した武器をこっそりと集める、
武器が欲しい奴に売る、
軍隊や立派な組織だったら商人から武器を買えば良い、
だがアフリカに居るのは立派な組織ばかりではないからね、
買い手は沢山いるよ、
アフリカの各地には、
300人程度の兵士が居れば転覆する事のできる政府が結構あるからね、
これがいわゆる武器の拡散という奴だ、
有名な所ではリビアだ、
カダフィ政権崩壊後、彼らが溜め込んでいた武器が周辺国に流れてね、
厄介な事になっているのはあなたもニュースで知っているはずだよ、
リビアコートジボワールは離れている、
リビアはアフリカ大陸の北部、地中海に面していて、
コートジボワールは西海岸、大西洋に面してる、
地理的に離れているから、商売ができる、
遠いリビアから武器を買うより、
近くのコートジボワールという事だよ、
2つ目は紛争ダイヤモンド、
紛争ダイヤモンドが何かは知っているね?、
独裁者やテロ組織が有する鉱山から採れたダイヤモンドの事だ、
少年少女が強制的に労働させられている、
ダイヤモンドを売って儲けた金は組織の物になる、
だから欧米各国は紛争ダイヤモンドの持ち込みを禁止している、
金がなくっちゃやっていけないのはどの世界も同じだからね、
金策が上手く行かなくなれば、組織も上手く行かなくなる、
だから取り締まる、
コートジボワールにも鉱山はある、
だがダイヤモンドの輸出は禁止されている、
今の政府が欧州に相手に対しては真面目な態度で接しているから、
そろそろ輸出禁止は解除されるだろうけれどね、
未だそれは叶わずさ、
ともかくダイヤモンドの需要はあると言う事だよ、
紛争ダイヤモンドの場合は国外に持ち出す方法が問題になる、
禁止されている訳だから、
一番簡単なのはアフリカ各国の大使に任命される方法だ、
大使となれば手荷物検査は基本的に免除されるからね、
大使や外交官というのは政府の中でも重要な役割を果たす仕事だ、
有能な人間しか任命されない、
だけれど大金を払えば大使になれる国がある、
有能でなくても、外国人であってもね、
日本人のあなたは可笑しい話だと思うでしょう、
一般的な国は憲法や法律により国が形作られて、
役人が選ばれているからね、
だけれど憲法や法律から人が自由な国もある、
だから案の定、国の平穏は維持されていないのだけれどね、
まぁ、戦争中だって心を落ち着かす事が出来れば平穏ではあるけれど、
穏やかな天候の中、澄み渡った海を眺めて心落ち着く人間も居れば、
砲弾の嵐と断末魔の中で心が安らぐ人間もいるんだよ、
少し話しが逸れたね、
ともかく大使の権利は金で買える、
役人が私腹を肥やす為の手段の1つだよ、
次は権利を買った奴が自分の財産を増やす番、
リビア辺りに地獄の三角地帯と呼ばれる場所があってね、
大きな鉱山がある、
だけれど諸処の組織の争いや国連平和維持軍の監視が厳しくてね、
御互いが牽制し合って安易に出入りできない、
だから三角地帯と呼ばれているし、
上手く入り込めれば各組織から、
紛争ダイヤモンドを購入できる機会がある訳だ、
さて、先程言ったとおりコートジボワールにも鉱山はあるんだ、
どこにでもチャンスはあるという話だね、
最後の3つ目が一般的な貿易、比較的まともなビジネス、
コートジボワールが輸出しているのは3つ、
天然ゴム、石油、
そして稼ぎ頭のカカオとコーヒー豆、
私はビジネスで資産を殖やしてきた訳だが
日本人には3つめの貿易で稼いだと思われている方が都合が良さそうだ、
だから私の事はカカオ農場の農場主と思ってくれて良い、
つまり依頼の内容は経済が絡んだ話という事だ、
ご覧の通り私も年でね、
年を取るという事は難しいよ、
年を取り老いても尚、
人生に潜むわだかまりに自ら采配を振るおうとする者もいる、
だが私は煩いや務めを老いた肩から下ろしたいと思った、
次の世を若い世代に委ねて、自らの身を軽くしようと思った、
私には3人の子供が居る、他にも居たのだが今は居ない、
生き残った3人は全員女性だ、3人の娘だ、
しかも3人が同じ時期に結婚した、
いい時期だと思った、
私は財産の殆どをかなぐり捨てる事にした、
財産を3つに分けて化粧料として娘に与えたのだ、
夫と娘、私の家族たちが私が譲った財と共に繁栄すればいい、
財産の分与は簡単に済んだ、
私には前々から考えがあったのだ、
考えというよりは気分と呼んだ方が良い事に今になって気が付いたがね、
長女と次女はつね日頃から私を讃え頼りにしてくれた、
一方末娘は言葉も少なく私に頼ろうとしない、
財産分与の話をした時もそうだった、
上2人の娘は私に感謝を述べて一族の繁栄を約束した、
だが末娘は喜びもしない、財の分与にすら反対した、
常日頃の態度といい親の心を知らない、なんと親不孝な娘なのだろうか、
私は彼女に財産を分け与えない事を表明して、更に勘当を言い渡した、
私は彼女の事を心の読めない娘、
父親の私ですら理解できない娘だと思っていた、
本当に心が分かっていなかったのは長女と次女の方だったのだが、
あの時の私は舌より重い愛情がある事を考えもしなかった、
長女と次女の賛美に心が舞う中では、
簡単に言葉に乗せる事のできない思いと感情がある事を、
どうやって知る事が出来ただろうか?、
財産の分野が済んだ長女と次女は、
やがてその夫たちと結託して私を商売から追い出した、
更にコートジボワールからも居場所を無くした、
今では彼女たちの気持ちが私にも分かる、
長く権力の座に付いていた者からは聖水で体を洗えど抜けぬ臭みがある、
娘たちは私の気まぐれ、思いつきを恐れたのだ、
雨期に起こる洪水は地形すら変えてしまう、
気まぐれも同じ様なものだ、人生と言う地形を変えてしまう事がある、
生活を奪われる事を娘たちは恐れたのだ、
私は国を追い出されアフリカの荒野を彷徨った、
伝手を辿り住居を得て僅かな財産を取り戻した、
追放されてから8年後の出来事だよ、
長女と次女との関係は完璧に切れていた、
いまならばあの女たちを他人と思い、
奴らの胸をナイフで切り裂く事もできるだろう、
だが私には宝が残されている、
枯れた湖であっても底に水たまりが残り、
小魚が泳ぎ周囲には花が咲く事はある、
私は末娘が海外に居る事を知ったのだ、
末娘こそが私に残された最後の宝だ、
軽い舌よりも重い思いを持つ私の娘、
彼女たち夫婦は初めカナダに、
次はフランスで暮らした居たようだ、
私がアフリカの荒野を彷徨った様に、
私の娘は世界を彷徨ったのだ、
現在は日本に居る、貿易会社を経営している、
会社の住所は分かった、
先日尋ねてみると住所と電話番号を借りていただけだった、
さて、ここからが依頼の話だよ、
少しばかり興奮してしまったね、
もう分かっていると思うけれど、
つまり依頼とは、娘夫婦の居場所を見つけて欲しいという事だ、
娘に再会して彼女の精神を讃えたい、
荒野を彷徨い、財産を巡る闘争をした事で私も成長した、
私はもう人の心を知らない老いた王ではない、
いくつか新たに知った真実もある、
十分な知恵が付かないうちは年を取ってはいけないのだ


僕たちは彼の依頼を受けた。
末娘夫婦の居場所を見つけて彼に報告した。
そして数日後彼の遺体が発見されたんだよ。
娘夫婦は姿を消した。
テレビのワイドショーを騒がせる事件ではなかった。
だが僕たちには厄介な出来事だった。
僕たちは事件の重要な参考人になったんだ。
普段ならなかなかお目に掛からない部署の警官とも関わりを持った。
公安や組織犯罪対策第二課の警官たち。
二課は警視庁組織犯罪対策部内に設置されている。
国際的な組織犯罪を担当しているんだ。
でも結局事件の真相は未だに闇の奧。


僕たちは仕事をして行く中で、様々な人と関わり合いになる。
居場所も生きて来た年数も性別も趣向も趣味も
哲学も今日食べた朝食も違う人々。
僕は彼らの話を聞く。あるいは職務中、彼らの話が耳に話が入って来る。
依頼人との会話、路上の雑音、飲食店の客たちによる雑談。
日本を含む世界中で生まれて、現在は東京で生きる彼ら。
彼らの話には共通点がある。
世界中の人々を繋ぐ事柄だね。
人々を繋ぐのは経済と愛の話。
以前、アメリカ人からの依頼を引き受けた。
彼の話した物語は覚えている。
コートジボワールの初老の男性が語った人生には
愛と経済の話が紛れていた。
アメリカ人。自称経済アナリストの彼の話も似た様な物だった。
金色に染めた短髪。
髭は無精髭の様に見えても、実は整えられている。
日本人より毛深い彼らには毛繕いという文化が浸透している。
高くもなければ安くもない値段の紺色のジャケットとベージュのスラックス。
彼はハンドクリームを使っているらしい。
彼がジェスイチャーをする度に、
アバターのにおいが僕の元に漂って来る。
—経済アナリスト?
僕の質問に彼は笑う。
慣れた作られた笑顔。
彼は自分の職業について説明を始めた。



多くの専門家が遥か昔から予測していた、
ロシアに民間の石油会社が現れる事を、
そして大儲けをする事をね、
あの国は国名がまだソビエト連邦だった時代から、
世界最大級の油田を有していた、
当時は勿論、油田は国の物だったけどな、
それに元々はアゼルバイジャンの物だった、
ともかくとんでもなく巨大な油田でね、
ドイツのあのちょび髭も第2次大戦の最中に欲しがった程の物だよ、
ちょび髭はそれを行動に移した、
ちょび髭の計画したそのブラウ作戦は結果として失敗した、
ドイツもソ連の大都市スターリングラードに攻め入る事は出来たんだけどね、
ドイツは結果負けた、
ソ連の桁外れの国土と人口と資源、
そして偏り過ぎた重化学工業主義に負けたんだ、
そんな巨大油田を有しているのがロシアだ、
ロシアには他にもシベリア等の各地に油田があるしな、
さてでは、多くの専門家が遥か昔から予測していた、
ロシアに民間の石油会社が出来るまでを説明しようか、
ロシア人の大富豪が現れるまでには幾つかの段階があるという話さ、
第1段階、スターリンの死後に政権を握ったフルシチョフ
彼はスターリンを批判、独裁政権を否定した、
戦時体制から平時への移行って奴だな、
欧米諸国との歩みにより冷戦の雪解けムードが生まれた、
これは重要だったね、
なぜって商売をすると言う事は世界中の企業と手を組む事、
そして世界中の人々を相手に商品を売ると言う事だからだよ、
国が閉じていると商売の規模も儲けの総額も少ない、
日本の江戸時代みたいな物だね、
フルシチョフは良い判断をしたね、
もしソ連があのままだったら今頃は国としては存在していなかったかも、
とはいえフルシチョフキューバ危機を起しているのだから、
あまり褒められた物ではないけれどね、
第2段階、フルシチョフ失脚後のブレジネフ政権、
フルシチョフは独裁者のスターリンを否定した、
だがフルシチョフもやがて権力を自らに集中し始めた、
書記と首相を兼任したんだ、
父親を殺し母親を抱いたオイディプス王の昔話を思い起こさせる、
現在のロシアの王であるプーチンは首相と大統領を兼任していない、
権力の分散と掌握と言う視点で観ると、
プーチンフルシチョフより上手いね、
話をブレジネフ政権の戻そう、
彼らは社会主義国家下で運営される企業に対して、
改善を施した、
国有企業と企業が受け持つ業務の集中化、簡素化、一本化して
職種間、工程間、資材間の無駄を排除したんだ、、
簡単に言えば、国有企業を合併して生産効率を上げて、
もっと儲けを出しましょうという訳だな、
しかしなんでったって官僚というのは無闇矢鱈に副詞を使うかね、
若干の余地とか強い懸念とかさ、
数多の余地とか弱い懸念とかあるのかね?、
昔は言葉の裏を読み取るのも意義を感じたがね、
今では辟易しているんだよ、
話が逸れたね、
とにかく企業合併の結果、
ロシアに財閥が誕生したという事さ、
第3段階がゴルバチョフの時代、
彼が行ったのが政治や経済に対する抜本的な改革だ、
ゴルバチョフの改革ってのは手に負えない物を手放すという事だった、
無駄の削減だ、
財政の縮小、予算の削減、
削られる無駄の中には広大な国土も含まれた、
冷戦により積る軍事費も、
官僚的な政党であるソ連共産党も含まれた、
こうしてソ連は崩壊してロシア連邦が誕生した、
血を流し肉体を切り取った結果、
小回りが少しは効く様になった、
欧米諸国からは好意的に捉えられている改革だけれど、
当のロシア国民からしたら本当に血を垂れ流している思いだっただろうね、
第4段階がエリツィンの時代、
当時のロシア連邦の経済を引っ張ったのは、
ブルジネフの時代に誕生した財閥だ、
まあ、この次点での財閥は半国有企業といった感じだね、
この時代になって企業の自主性、自由が認められたんだ、
欧米の資本主義と闘う為にな、
急速に市場主義が取入れられた、
国営企業は組織そのまま民営化される事になる、
この時、政府の経済政策顧問に就いたのがゴールドマンサックスだった、
ご存知の通りゴールドマンサックスは米国の金融会社なんだよ、
ロシアはそれくらい急速に変ったって事さ、
国営企業の株を国民に配る、
バウチャー方式によって国営企業はそのまま民営化された、
バウチャー方式ってのは国民に平等に株を配る事だ、
簡単に言うとだけどね、
だが結局勝ち馬に乗ったのは財閥だった、
国民1人1人に配られた株は少ない、
なんせ1億4万人に株を配るんだ、
だから株を売っても儲けはでない、
持っていても配当金は少ない、
そこに目を付けたのが財閥だ、
半国営時代に金を貯えていた財閥は国民に配られた株を買い集める、
大量の株を手に入れた財閥は多くの企業を有する事になった、
財閥が更に巨大化したんだ、
巨大財閥の誕生という結果、ロシアの企業は民営化された、
民間企業の業績促進という名目の元に、
財閥に有利な法律が作られ、補助される、
だからロシア企業の実体は巨大な組織で、
法的にも人事面でも国営と民営との間を彷徨っている、
国営企業を指導していた役人がそのまま民間企業の社長になり、
個人的な金持ちが誕生したという事さ、
第5段階、最終段階、
最終段階がプーチンだ、
彼は政権を握ると巨大財閥に鉈を振るった、
法的に保護されていた財閥は腐敗していた、
よくある話だよな、
保護は跳躍と堕落を同時にもたらすもんだ、
プーチンは財閥が慢性的に行っていた横領や脱財を取り締まったんだ、
財閥の経営陣が逮捕され財産を差し押さえられた、
自殺した者もいる、
この手の話にはつき物で自殺ではなく暗殺という噂もあるけどね、
プーチンが行った財閥改革は、
腐敗した企業への断罪であると共に国内の権力操作でもあった、
プーチンが求める新しいロシアに同意する財閥だけが残された、
経済的な空白を埋める様に若い世代の経営者が現れた、
彼らこそがロシアに置ける真の民間企業の経営者と言えるのさ、
彼らは大抵が40代で、1代で財を成した人物だ、
民間巨大財閥の中で力を付けて退陣した経営陣の後釜に就いた者、
あるいは独立した者、または自ら企業を立ち上げた者たち、
株式により企業買収、提携、事業の発展、自己資産の増幅、
旧来の役人的な立ち場での企業との関わりでの、
経済的な成功と権力を手に入れた人々では無いと言う事だ、
ここまでは我々アナリストが予想していた事だ、
今までのどの段階でも先の事を予測できた、
まぁ頻繁にニュースを見ていれば学生でも分かる事だがね、
だが誰がロシアの富豪がロンドンのサッカーチームを買うと予想出来た?
それもチェルシーだぞ、
まったく、
100年以上続くフットボールクラブだってのに、
いやアメリカ人にだってフットボール好きはいるさ、
そりゃ今でもアメリカ国内でのフットボールの評価と言えば、
教育熱心な母親が娘にやらせるスポーツという見方は強いけれどね、
チェルシーを買ったアブラモビッチは石油王でね、
エネルギー産業といえばロシアの主要産業だ、
彼より以前の石油王は政府と揉めて逮捕されてしまってね、
彼は孤児だった、
勉学に励みビジネスを始めた、
若いアブラモビッチはロシアの新しい実業家として、
経済界とも政府とも上手くやっている、
デンマークの自転車ロードレースチームを買ったロシアの実業家もいる、
ジロやツールで好成績を収めるチームをだ、
チームを購入したティンコフは、
冷凍食品や電化製品販売の商売を始めて財を成した男だ、
まさに新しいロシアの実業家だ、
フットボールやロードレースというのはヨーロッパを代表するスポーツだ、
文化であり娯楽であり庶民のささやかな日常を支える精神的な支柱の1つだ、
それがロシア人の手に渡るなんてね、
アナリストは誰も予想はしていなかったよ、
プーチン政権になって財閥への締め付けは厳しくなった、
だから富豪の私財が海外に流れる事を予想する者はいた、
それがスポーツチームの買収という形で実現するなんて、
そして更に予想できない事が起こった、
チェルシーと同じロンドンのクラブをウスマノフを買った事だ、
アリシェル・ウスマノフはロシアのガスと鉄鋼事業で成功を収めた人物だ、
正に旧来的な財閥を代表する人物でね、
科学士官に成った後に行政の複数の委員会の重役を勤めた、
それから銀行の頭取になってバウチャー方式で株がバラまかれた際に、
株を買い集めて財閥の長に成った、
ちなみに奥さんは元新体操の選手だよ、
な?、
想像し易い旧来的なロシア人富豪だろう?、
ウスマノフはロンドンのフットボールクラブ、
アーセナルの株を多く取得した、今では実質的なオーナーさ、
アナリストは誰も予想していなかった出来事だよ、
若い世代が欧州のスポーツクラブを買う事も予想できなかったのに、
60歳のロシア人がクラブ買収に名乗りを上げるなんて誰も予想出来なかった、
たかがフットボールの話と思わないでくれ、
つまり俺が長々と話ししているのはね、
全て金の流れの話なんだ、
世界を巡る金の話さ、
アナリスト、専門家といは物事を観る視野が狭くていけないね、
ロシアの富豪たちについて語る事は幾らだってある、
プーチンが財閥に振るった大鉈、
その結果逮捕された社長は財団を起していた、
社長は財団の理事としてキッシンジャーロスチャイルドを迎えた、
キッシンジャーアメリカ人で、
ニクソンそしてフォードの国務長官として働いていた、
ロスチャイルドを説明する必要はないだろう、
更にこの社長はプーチンへの批判と野党への献金を行っていた、
彼が難局を切り抜け逮捕されずに、
企てた目論みが全て上手く行っていたら、
今頃はロシアもアメリカと腕を組んでいたかもしれない、
でも彼はいま亡命してドイツで暮らしている、
プーチンは彼の手には余った様だ、
ロシアの実業家とグルジアの実業家たちの関わりも怪しい、
例のウスマノフはロシアの新聞社を買収した事がある、
以前の持ち主はグルジア人だった、
更に以前の持ち主はロシア人のベレゾフスキーだ、
さっきプーチンが財閥に鉈を振るった話をしただろ?、
逃げた重役や自殺した奴も居たと、
彼こそが大鉈を振るわれて死んだ代表的人物でね、
ベレゾフスキーはロンドンに亡命してそこで死んだんだよ、
死因は自殺と発表されたけどな、
だけどベレゾフスキーの死の直前に、
ロシア人の男が彼に対する殺人未遂で逮捕された、
その容疑者はロシアに送り返された、
前年にはロンドンであのリトビネンコ暗殺事件は起こっていた、
分かるだろ?、
彼の死には色々な疑惑が盛りだくさんという事さ、
因にリドビネンコ殺害の容疑者アンドレイ・ルゴボイは
ベレゾフスキーと例のグルジア人がロシアで働いていた時の、
周辺警護、重要設備の安全対策を担当していた人物でね、
このグルジア人の名前はバドリ・パタルカツィシヴィリだ、
パタルカツィシヴィリはウェストハムを買おうとした事があってな、
もう分かるだろうけれど、
ウェストハムというのはロンドンのフットボールクラブの事だよ、
ともかく、ロンドンのフットボールクラブと金の流れは、
色々とキナ臭いという事さ、
しかしこうなるって誰が予想できた?、
専門家や分析官という肩書きを名乗っては居るけれど、
金の流れの具体的な所を分析できないのが我々アナリストなんだ、
これからのロシアについても一応の抽象的な予想はできる、
抽象的な予想はね、
アメリカはシュールオイルの生産量を増やし続けている、
アメリカのエネルギー産業に対する努力と野心の結果、
直ぐに世界中に原油が安価で行き渡る様になる、
そして今までオイルビジネスを支配していた中東勢は決定権を失う、
彼らは今までは何か問題があるごとに石油の生産量を減らしていた、
生産量を減らす理由は政治とか戦争とか災害とか経済とか色々だ、
彼らは原油の希少性を増やす事で価格の下落を留めていたんだ、
そうする事で世界中の原油価格をコントロールしていた、
ところが今回は生産量を減らせない、
生産量を減らして中東産の原油の価格を上げるとどうなるか、
米国の安価な原油に客を奪われる事になるだろうな、
逆を言えばアメリカも原油価格をコントロールできないと言う事でもあるよな、
そして米国と中東の我慢比べの始まりだ、
値下げ競争に発展するかもな、
そして原油の価格は下がり続ける、
ロシアは彼らの喧嘩に巻き込まれるだろう、
もちろんロシアも原油生産量を減らせない、
結果として多くの血を流すはずだ、
さっき言った通り、原油はロシアの主要産業だからね、
そして血と言うのはもちろんルーブルの事だよ、
この程度ならば我々も予想できる、
だけれど資産家個人の決定、具体的な金の流れは予想できない、
だから我々は小さな存在さ、
でも居ないよりは幾分マシだと思わないかい、
世界経済の動き方は怪物の様に激しく、
そのくせ先が見えない真っ暗闇、
光の無い洞窟の中に放たれた怪物、
僕たちは暴れる怪物に踏み潰されない様に洞窟の中を逃げ惑う人間だ、
なんとかして生き延びなきゃならない、
だからきっと、
暗闇の中では小さく朧げな一筋の光でも役には立つ、
利用しようとする意志さえあればね


彼が話を区切る。
僕は疲労感を覚える。
なんで僕は依頼人から依頼の内容を説明されるべき場所で、
ロシア経済に関する講義を受けているのだろうか?
僕が彼から聞きたいのはそんな話じゃないのに。
口から出そうになる溜め息を飲込む。
僕の仕事にはサービス業の側面もある。
依頼人を満足させるのが仕事だからね。
決まり切った仕事をしていれば良いという訳じゃないんだ。
どうすれば自分の不満が解消されるか分らない依頼人も多い。
依頼された浮気の証拠を掴んで提示した結果、
僕たちに対して激怒する依頼人も居る。
僕たちは彼らの不満を解消させないといけない。
彼らが自身でも良く分かっていない心の何かを
射抜かないといけない場合もある。
だから今は溜め息は吐き出せないという訳。
商売には笑顔が大切という話でもあるけれどね。
結局、彼の依頼は猫探しだった。
僕は思わず笑ってしまう。
彼は照れながら我々の仕事には癒しが必要なんだとつぶやいた。
彼曰く、猫と経済は似ている。
どこが似ているか僕には良く分からないけどね。
ともかく、彼が東京の自宅で飼っていた猫が消えてしまったらしい。
猫の名前はミアーズ。
「暖房器具」によればミアーズというのは、
チェルシーフットボールクラブの創設者の名前だという。
フットボール好きのアメリカ人。
経済評論家。
今は日本に住んでいる。
アメリカ人にも色々いるという話だね。
猫は見つける事ができた。依頼は達成。
少し前の話だよ。





猫探しは良くある依頼なんだ。
何せ日本にはペットが1600万匹もいると言われているからね。
犬と猫はペットの中でももっとも数が多い生き物だ。
だから彼らに関するトラブルも多いと言う訳。
犬猫探しを専門とする会社だってある。
まあ僕たちが業務委託されて実質的な調査を受け持つ事もあるのだけれど。
下請けはどの業界にもあるという話し。
地味で平凡な話。
でも僕たちが引き受けるの在り来たりな仕事ばかりではない。
時として変った依頼を受ける事もあるんだ。
街を案内するという行為はボディガード。
人や猫を探すのは現実的な行いだ。
だけど精神的な行いを求めれる時もある。
変な依頼だ。
依頼者が自分から変な依頼だと言ったのだから、
僕が変と言っても失礼ではないだろう。
依頼主はトルコ人の青年。
年齢は30歳。
髭と髪の毛が黒い。
痩身で黒いシャツを纏う。
神経質な雰囲気。
話の切り出し方を迷っている。曖昧な笑顔。
—変な、依頼ですか?
僕の質問に彼は追いつめられた表情で頷いた。


ええ、変です、
僕が変なのかも、
なんて、ふふふ、
これから話す事を、
あなたは奇妙に思うかもしれませんが、
けれど僕にとっては現実的な物事なんです、
僕はトルコの田舎に生まれたんです、
トルコは日本以上に国内経済の格差があって、
首都は発展しているのですけれどね、
だから若者を受け入れる余裕のある職場も少ない、
なので若者は、若者に限らないですけれど、
外国に出稼ぎに行きます、
ドイツに行く人も多いのですけれど、
僕の場合は叔父が日本で料理屋をやっていて、
クルバンバイラムの時に帰国した叔父に、
日本で働かないかと誘われたんです、
クルバンバイラムとは犠牲祭の事です、
日本には無いですよね、
欧米には謝肉祭があります、
イスラムでは犠牲祭です、
日本はクリスマスもハロウィンも祝うのに、
動物の肉に関する祭りが無いのは不思議です、
私は叔父の誘いを受けました、
日本に渡ってからしばらくの間は叔父の家に同居する予定でした、
ですが不可能になってしまったのです、
店はここから歩いて行ける場所にあるんですよ、
今日も歩いてきたんです、
良かったら来て下さい、サービスしますよ、
今の時期はラハナ・エトリ・カプスカや、
カリフラワーと挽肉を使った料理がおいしいです、
1つのビルに叔父の店と自宅が入っています、
小さなビルの1階が店舗で2階が自宅です、
3階にはエステサロンが入っていました、
そのエステサロンの漏水が原因で叔父の自宅が水浸しになってしまったのです、
日本に来て最初の日の出来事です、
水のせいで家具や電化製品は使い物にならなくなってしまいました、
床も腐ってしまいそうな有様です、
2階が盾となった事で1階の店が無事だったのは不幸中の幸いでしたね、
改装が終わり叔父宅が住める様になるまで、
僕は近所のホテルで寝泊まりする事になりました、
小さなビジネスホテルです、費用は叔父が出してくれました、
ホテルから店に通い働く事になりました、
叔父は数週間の辛抱だといいました、
そして初めての日本の夜を1人で過ごす事になりました、
明かりを消してベッドに潜っても眠れません、
叔父が辛抱という言葉を使ったのには理由があります、
僕が寂しがりやだからです、
特に日本は外国です、初日から孤独感に苦しめられました、
テレビをつけても慰めにはなりません、
映っている人の事も知らないし、流れて来る言葉の意味もわかりません、
テレビを消して、真っ暗な部屋の中、横になる、
目を瞑っていると光が見えました、
暗い部屋の中に小さな光が射している事に気づいたのです、
光線を辿るとベッド横の壁に辿り着きました、
壁には小さな穴が空いていたのです、
穴からはホテルの隣室の様子が見えました、
隣室にはスーツを着たサラリーマンがいました、
ベッドに腰掛けてテレビを見ています、
後ろ姿が見えたのです、
サラリーマンの手には缶ビールが握られていた事を今でもよく覚えています、
なんであんな穴があいていたのか僕には分かりません、
覗きです、
僕にはいけない事をしているという自覚がありました、
だけれど目が離せません、
彼が視ているテレビからは笑い声が聞こえてきます、
ですがサラリーマンは一切の声を出していません、
僕は10分ほどの間、動けませんでした、
彼も動きませんでした、
明るいテレビ、笑い声、無言の彼、無言の僕、
僕はベッドに戻りました、横になると今度は直ぐに眠る事ができました、
その日から、
仕事で疲れてホテルに帰ってから眠るまでの間、
隣室を除く事が僕の日課になりました、
馴れない仕事、異国の日本、孤独感、不安、
寝むれない夜、
だけれど穴から隣室を見ると安眠する事ができました、
隣室に居るのは毎日別の人です、
ビジネスホテルである事と、
場所柄から男性客が殆どでした、
たまに女性客も居ました、
誰の目も気にせずに裸になる彼女を見て、
僕は興奮して良いのか判らなくなり混乱しました、
1日だけ穴を覗いても誰も居ない日がありました、
真っ暗な空室があるだけです、
始めは隣人が部屋の電気を消して、
バスルームに入っているのだろうと思いました、
空室なのだと気が付いた時、
僕の鼓動は速くなり背中や腋や額に汗が滲み出ました、
視ても視ても穴の先には暗闇が広がっています、暗いんです、
その日は眠る事が出来ませんでした、
翌日、店で立ち眩みを起してしまいました、
叔父には随分と心配をかけてしまいました、
結局、早退したんです、
そんな日々は10日程続きました、
この時点でも変な話ですよね?、
ここから話は更におかしくなるんです、
ホテルに止まる最後の夜の話です、
叔父の家の改装が終わったので移る事になったんです、
明日からは穴を覗く事ができなくなる、
穴の向こうを覗けない生活が来る事に、
安堵していいのか悲しんでいいのか分らない心境でした、
最終日、穴の向こうには隣人が居ました、
僕は安心しましたね、
この間の様に暗闇が広がっていたらどうしようかと思ったんです、
最後の日、からっぽな空室を眺めるのはとても嫌でした、
隣人は1人ではなかったんです、
男女のカップルでした、
10日間の間で初めて遭遇しました、
女性の裸を覗いていた時の気持ちが蘇りました、
彼らが行為を始めたらどうしようかと思ったんです、
男が女に金を渡しているのを見ました、
コールガールと客だったんです、
その後、酷い事が起こりました、
男が裸のコールガールの上に覆い被さり、
首を絞め始めたんです、
あの時、僕は助けに入るべきだったのでしょうか?、
壁を叩くだけでも効果はあったかもしれません、
でも僕の体は動きませんでした、
恐怖と好奇心で2人から目を離せなかったんです、
女の抵抗も空しく彼女は息絶えました、
男は彼女をバスルームの方に運びました、
僕はベッドに入って震えました、
警察やホテルのフロントに知らせるべきです、
ですが当時の僕は日本語をろくに話せませんでした、
だから諦めた、勇気がなかったんです、
毛布に包まって震えました、
僕はそのまま眠れずに朝を迎えました、
勇気を振り絞って穴から隣室を覗くと部屋は既に引き払われた後でした、
男の影もありません、
僕は部屋を出て、隣室のベルを鳴らしました、
当然ながら反応はありません、
その日は店が休みでした、
僕はホテルを出た後、当たりをうろつく事にしました、
そのうち隣室に清掃が入るはずで、
その時に彼女の死体が見つかると思ったんです、
そうすれば大騒ぎになるでしょう?
ところがいつまでもたってもホテルに警察はやってきません、
夜まで待ってもです、
僕は訳がわからなくなりました、
翌日からは読めない日本語の新聞を買い漁りました、
僕が見た出来事が事件として載っていないかと思ったんです、
テレビのニュースも出来る限り見ました、
ところが事件の事は取り上げられていないようでした、
事件の事は何も分からぬまま、月日が過ぎて行きました、
今の僕は日本語をある程度読む事ができます、
なのでついこの前、図書館に行って当時の新聞を調べる事にしたんです、
ですが僕が求めている情報は一切ありませんでした、
ここに来て僕は自分の事を疑い始めています、
僕が見た出来事は現実に起こった出来事なんでしょうか?、
夢でも見ていたのでしょうか?幻覚だったのでしょうか?、
今でも夢に見るんです、
何も無い暗闇の部屋や、
絞殺の場面です、
依頼というのは僕が遭遇したこの出来事についてです、
あの事が本当にあった出来事なのか調べて欲しいんです、
正確には僕を納得させて欲しいんです、
実際に起こった出来事なのか?、
幻が僕に見せた事だったのか?、
どちらでもいいので僕を納得させてください、
あれから何年も経ったのに、
僕はあの夜に視た残酷な場面に、今でも苛まれ続けているんです


変な依頼の一例だ。
人探しが現実的な仕事ならば、
彼の依頼は精神的な仕事になる。
まるでカウンセラーに成った様な気持ちで調査に当った。
調査して行く中で、
彼の言う叔父の料理屋すらも存在しない事が分かった。
僕たちはとても混乱した。
つまり現実的な仕事も精神的な仕事も成し遂げるのには困難が待ち受けていて、
大変なのには変わりないという訳。





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続きはこちらです
「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 3ページ目」
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20150622/1434992113

ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 1ページ目(不定期更新の短編小説)

お知らせ。

 
※現在ご覧頂いているページは1ページ目です。
 2ページ目はこちら↓です
 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 2ページ目」
 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20141230/1419887618


※目次のページをつくりました。
 こちらのページから本小説の別のページに飛ぶことができます。
 目次/sommaire http://torasangmotoki.jimdo.com/sommaire/
 

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今回の小説は不定期更新型の短編小説です。


更新は私のTwitterでもお知らせします。
https://twitter.com/torasang001


//※//
まえがき


お久しぶりです。


最近はこちらのサイトを更新できていません。
理由は小説や批評の書き方を変更したからです。
以前は下書や設定表などをほとんど使用していませんでした。
ですが最近は下書を4つほど作ってから小説を書くと言う方法に挑んでいます。
下書1→下書2→下書3→下書4→本文といった感じです。
(それでも早く書く方は沢山いらっしゃると思いますが・苦笑
 様は俺が遅筆なのです・また苦笑)


更新は上手く出来ていないのですが、
日々少しずつですがサイトの観覧数が増えています。
もしかしてではありますが、
定期的に本サイトにお越しいただいている方がいるのかもしれません。
(かなりの好事家ですね。ありがとうございます。
 私はそういった人々に支えられています)


更新はできないが、観覧して下さる方に何かを見せたいと思いました。
なので今回は以前の様に下書を多用せずに小説を書いて行こうと思います。
以前行っていた方法の方が筆は速くはなるのです。


更新は不定期ですが、よろしければお楽しみ下さい。



//※//


【ずっと後ろで暮らしている
  /どこかに私は落ちている】


男の中には何がある?
答えは顔とケツだ。
男を表すフランス語は《masculine》。
《mascu》=顔と《cul》=ケツがある。
フランス語で顔を意味する言葉は正確には《masque》なのだけれど。
でも古いモノクロのフランス映画で知ったジョークだから
間違いではないんだろう。


僕が古い映画の事を思い出したのは、
瞳の先にいる男の事を観察していたからだ。
黒い革のコートに包まれた身体からは
男の顔とジーンズに納まった大きなケツが見えている。
彼の出身地はイラクだかイランだがレバノンだが
シリアだがバーレーンだかアフガニスタンだかクウェートだかだろう。
とにかく、彼自身が強く望んで日本にやってきたのではないと思うよ。


誰かの肺から放たれた煙が僕の顔に掛かる。
髪の毛を振り払う様に手で除ける。
左手に握っていたジントニックで喉を潤す。
安っぽい味の安っぽいジントニックだ。
もっとも安っぽくないジントニックがあるのかはどうかは疑問だ。
それにジントニックは安っぽくないと行けない。
どこで飲むジントニックだってそうだ。
フランスはパリで開かれる上流階級の晩餐会でも、
イングランドのロンドンで行われる株式公開記念の祝賀会でも、
ドイツのベルリンで模様される楽団への寄付金パーティーでも。
もしジントニックが出されるのならば安っぽくないといけない。
もっとも、通常は彼らのグラスに注がれるのは
ワインかシャンパンだろうけれどね。



僕が想像するのはアメリカの砂漠にある街、ラスベガスだ。
ラスベガスの高級ホテル。高級ホテルの最上階。
最上階のスイートルームだ。
スイートルームの客が窓を開ける。
ラスベガスの夜空を通った風が鼻に入る。
風はネオンと札束の上を通り過ぎている。
夜の街の香料が鼻孔に入り込み咽喉そして胃に流れ込む。
数秒後、ジントニックを飲込んで全てを洗い流す。
手に握ったグラスはバカラの高級品。
だけれど、中身のジントニックは安っぽくないといけない。
高級な酒では夜のにおいと金のかおりを洗い流せないからだ。


だけれど僕の想像は大きく間違っている。
ラスベガスは賭け事の街だ。
ギャンブルには勝者もいれば敗者もいる。
つまり大きな金を得る奴もいれば、大きく金を失う奴もいると言う事だ。
財産を失った人の中には自殺を考える奴も現れる。
ギャンブルの敗者はカジノから帰って来て寝られずに朧げに佇む。
高層ホテルの客室というのは自殺に売ってつけの場所だ。
なんせ金を失い唯一残された財産、
自分の身体を窓の外に投げ出せば目的を達成できるのだから。
もちろん、窓から飛び降りたいと思うのは賭け事の敗者だけではない。
自分の子供を片田舎、オレゴンあたりの実家に預けて
ラスベガスでコールガールとして働いているシングルマザーが、
たったいま客室の主に対しての仕事を終えた時、
金をちょろまかしているのがバレたホテルの会計係が
未使用の部屋に逃げ込んだ時、
新婚旅行でラスベガスにやってきたのは良いものの
道中の喧嘩が原因で花嫁が何処かに行ってしまい
1人部屋に残された新郎が溜め息を付く時、
彼ら彼女達を不意に言い知れぬ感情が襲い、窓の外を眺めた瞬間。
人間がどういう行動を取るかは誰にも確証は持てない。
思い切った行動を判断する事もあるだろうね。
ともかく自殺者が最後に眠ったベットは誰も使いたくないし、
最後に自らの顔を眺めたガラスなんて誰も見たくはない。
だけれど自殺者が出た部屋を
いちいち使用禁止していたらホテル業なんて出来やしない。
部屋が幾つあっても足りなくなるだろうね。
だからラスベガスにあるホテルの窓は開かない。ハメ殺しになっている。
自殺防止の為だ。だから僕の想像は間違っている。


想像とは違い、
僕は安っぽいグラスに入った安っぽいジントニックを飲んでいる。
バカラなんて高級品はここにはないんだ。
理由は僕が居るのが、
スペインはカタルーニャのレストランでもないし
ベトナムにあるパタヤビーチのダンスホールでもないし
アラブ首長国連邦のアブダブに設置された
外国人観光客向け高級クラブではないからだ。
東京の場末のバーだからだ。


僕が先程から観察している中東地域出身の彼の事を、
彼自身が強く望んで日本にやってきたのではないのだろうと
思ったのには理由がある。
別に外国人に対しての決まりきった偏見がある訳ではない。
僕の眼には不必要な事柄だからね。
理由は表情だ。彼の表情だ。


アラブ人の彼の年齢は30代か40代。
50を越えている様には見えないね。
横顔に走る線はシワというより畝(うね)と言った方が正しい位に深い。
彼の民族に見られる外見的な特徴なのか、
彼の人生の成果なのかは僕には判断がつかない。
短く刈り込み後ろに流した髪の土台には寂しげな表情があった。
一般的な寂しさを通り越した表情だ。
きっと望郷というやつだ。ラテン人だったらサウダージとか呼ぶ感情の事だ。
郷愁であり夢想にも近い表情だ。
俯いた瞳はひどく潤んでいる。
宝石の様に大きな黒めがちな眼。眼には哀しみが残光を残している。


彼の心を高級な酒が癒せるか?いや癒せない。
心にまとわりつく様な親しみある安い酒でなくては癒せない。
もっとも癒せた所で小匙程度の僅かな慰みにしかならないだろう。
だけれど無いよりはマシだ。
料理だって小匙程度の塩や砂糖で全体の味が大きく変化する。
だったら小匙程度の慰みだって人生を変えるはずだ。
慰みが人生の砂糖なのか塩になるのかは僕には判らないけれどね。


バーには僅かな慰みを求める人間が多く集まっている。
いま僕が居るバーも世界の様々なバーと同じく清潔さを保っている。
いや、床を見れば誰かが落としたナッツの殻や灰が散乱しているし、
僕が先程からもたれ掛っている壁の縁を指でなぞれば埃も取れるだろう。
僕が言っている清潔さとはゴミが一切無い事を言っているのではないんだ。


バ−には小難しいルールは無い。
出される酒の前では誰もが平等だ。
店の扉を通れば皆ただの酒のみになる。
問題は扉を開ける事が出来るかどうかなんだ。
現代的なバーはアメリカの禁酒法時代に始まっている。
アメリカ史上もっとも馬鹿げた時代に作られた酒場は
マフィアやギャングと行った犯罪組織が仕切っていた。
酒を飲むのが犯罪になるのだから、
酒を飲ますのは違法集団の仕事にもなるというものだね。
当時のバーは会員制で店の場所や入店の仕方は公にされてはいなかった。
入店して酒にありつくのには店の場所を知っているのはもちろん、
合言葉や目線、隠された仕草が必要だった。
扉の前に立ち塞がり周囲を見張るドアマンという名の用心棒、
用心棒という名の門番の許可が必要だった。
全ては立派でまともな社会の目が届かない場所で行われていた。
人々は厨房の裏や、自宅の暖炉の前、
病院の待合室や、ミサが終わったばかりの教会で
秘密の酒場への入り方を囁いていた。


現代の日本でもバーの扉は大抵、重く固く分厚い。
禁酒法時代の名残なんだ。
扉は社会の視線を防ぐ、扉は多くの者の入店を拒む、
そして店内の客達の事を守る。
簡単に言えばバーは入店し難い。入りづらい店構えをしている。
全ては客を守る為だ。
初めて扉の前に立つ時、客は暗黙知となった
言葉ならざる合言葉や仕草にならざる秘密の仕草を求められる。
どうにもこの店には入れないなぁと思った時は、
客が言葉ならざる合言葉を知っていなかったと訳だ。
バーのドアマンから入店を断られたのだ。
もちろんドアマンは現代では誰の眼にも映る事の無い透明人間になっている。
しかしバーの扉の前には彼が確実に居るのだ。


だからこそ、扉を開ける事が出来たら、店内で客は平等になる。
ドアマンに入店を許されし者達だ。
店で酒のむ我々は固く分厚い壁の様な扉によって守られた
平穏無事な楽園に居るも同じだ。
楽園で上下関係を作っても意味が無い。


あるいは1杯目の酒を飲んでいるうちに
居心地の悪さを感じる事があるかもしれない。
透明人間のドアマンだって判断を間違える時がある。
店にどうにも馴染めなかったら、
門番のミスを責めずに苦笑いして店を立ち去るのが得策だ。
人には必ず何処かに馴染めるバーが存在している。
イギリスではホームレスから王族まで
馴染みのバーを3軒は必ず持っていると言われるほどだ。
もっとも彼らは自国にある酒場の事をパプと呼ぶ事にこだわっているが。
とはいえ気まずさを無視して酒を2杯ほど飲めば、
ドアマンに何の落ち度も無い事が実感できる場合がほとんどだけれど。


いま
僕が安いグラスで安っぽいジントニックを飲みながら、
中東の出身の男を観察しているバーにも平等がある。
禁酒法時代の酒場や、イギリスのパブと変らない清潔さだ。


清潔さのちょっとした証拠として、僕の隣に居る男の事を挙げる事が出来る。
大きな眼鏡を黒髪が乗る顔を掛けた彼はアジア人だ。
だけれど何処の国出身かは分らない。
中国人かも知れないし台湾人かも知れないし韓国人かも知れないし
タイ人かも知れないし日本人かもしれない。
シンガポールかもフィリピンかもベトナムかも知れない。
彼の国籍を分かり難くしているのは、
この店では彼の国籍を他の客誰もが気にしていないからだ。
違いというのは気にする人がいて初めて目立つものだ。


例えば、服飾にまったく興味の無い人々の集まりでは
服の色の違いは意識されずに目立たちもしない。
赤も黄色も、青も緑も同じ色としてみなされるだろう。
他にも上着のサイズ、袖丈や着丈も目測される事はないはずだ。
一方でファッションがどうしようもなく好きな人々の集まりではどうだろう?
彼ら彼女達は赤色を269通りに分けて
黒と白そして中間の灰色を違う色として細かく区切り
光の反射率が1単位増えるごとに夫々を違う名前で呼ぶだろう。
ブラック、ホワイト、グレイ。
ダークグレイ、ライトグレイ、バトルシップグレイ。
シルバー、ルーカン、グリフレット、ユーウェイン。
ガレス、ケイ、ディナダン、アーサー。
乳白色、薄鈍色、窮鼠色、美井木色。
袖の長さには意味がある事を知っていて
ジャケットの袖から見えるドレスシャツの長さで
フォーマルとカジュアル、正装として相応しいか普段着なのかを判断するだろう。
シャツの襟の形やネクタイの結び方や上着のボタンの数、
靴の色や腕時計の針の数とベルトの素材、パンツの折り返し幅で
相手の日常生活や人生的な価値観や主張、哲学を見極めるだろう。
違いと言うのは気にする人が居てこそ初めて存在する事になるというわけ。


僕が居るバーの客達は国籍を気にしない。
国籍で人の価値観や哲学を判断する事はない。
あるいは国籍や出身地を
気にする程の知性がないだけなのかもしれないけれど。
とにかく僕たちは透明なドアマンから入店を許された
だからただの客として平等だった。平等だから清潔だ。
もちろん清潔さが単純に良いとか悪いとかいう話ではないのだけれど。
実のところ、徹底した選別と、無選別は似ている。
選別を繰り返せば最終的には残るのはたった1つだけれど、
選別を一切しない場合も何も違いがないという事なのだから
1つしか無いのと同じだ。
徹底した純血は純度を守ると言う意味で1つを選ぶ。
徹底した混血は全てが混ざるのだから最終的には1つになる。
1つを目指すと言う視点で言えば選別と無選別は違いがない。
1つになる過程は違う訳だけれど。


バーは扉の前までは客を選別する。だけれど扉を開けたら客は無選別だ。
なので徹底した選別や無選別とバーいう場所を比べたら
バーは些か清潔では無いという事になる。
けれども、少し汚れている方がバーらしい。
汚れこそが世界各国夫々のバーに佇む
ホームレスから王族までの客を守ってくれている。
汚れた清潔さだ。
汚れた清潔さという言葉に矛盾を感じる人はきっとバーには向いてない。
たぶんね。


中東地域出身の男はいつのまにかアジア人の女と話している。
どちらからどんな切っ掛けで会話を始めたのかは見ていなかった。
彼と話している彼女は多分日本人だ。
なぜ僕が彼女を日本人と判断するかというと、
僕が客達の国籍を気にしているからという訳ではない。
女性の化粧を気にしているからだ。
正確に言うと女性を気にしているからだけれど。
女性の国籍は動きや思想には現れ難い。
なのだけれど化粧には現れる。



たとえば韓国人女性と日本人女性の化粧の違いはなんだろう?
欧米と文化的に深い繋がりがある国々では
価値観の方向性がある程度統一されている。
ある程度統一されている価値観の中には美意識も含まれていて、
美意識には女性の化粧の仕方も含まれている。
例えば唇の厚さだ。
昔の日本人女性は唇が薄い事を美しいとして
欧米人の女性は唇が分厚い事を美しいとしていた。
けれど今では日本人女性の中にも
唇をぷっくらと厚く柔らかく見せる化粧をする人もいる。
韓国人女性にも似た様な美意識をもつ人はいる。
だけれど、各国の人々がもつ美意識は必ずどこかには現れる。
違いを気にする人が見れば、一目で気が付く美意識の違いだ。


例えばファンデーション。
韓国人女性の多くが液状のファンデーションにオイルを混ぜて使用している。
オイルを混ぜたファンデーションを塗る事で肌に照りを出す為だ。
韓国は乾燥している地域にある国だ。
なので元々は肌の乾燥防止の為に行っていた方法なのだけれど、
今では照りのある肌は彼女達の美意識の1つになっている。
日本人の女性だって肌の照りは重要視するけれど、
日本人の彼女達は必要以上に輝きのある肌を油ぽいと捉える傾向にあるようだ。
韓国人女性が求める肌の輝きが水面に反射した光の輝きならば
日本人の女性が求めるのは
お風呂から出たばかりの肌の柔らかい艶なのだろう。
もちろん全ては傾向の話しだし、流行廃りが早い業界なので
1年もすれば美意識も変化しているかもしれないけれど。
それに全ては一人の女性から学んだ事なんだ。
以前韓国人の女性と付き合っていた事がある、
彼女は学生で大久保の韓国料理屋で働いていた。
僕は朝、女性がてきぱきと化粧をしているのを観るのが
好きな程度には暇人なんだ。
僕は本当は女性が化粧をしている姿を見る為に
夜を一緒に過ごしているのかもしれない。まあ流石に冗談だけれど。
けれど、女性にとってのセックスが男が射精した後も続いている様に、
僕にとってのセックスは女性が化粧を終えるまで続いている様な物なんだ。
韓国人の彼女は僕に韓国式ともいうべき化粧の事を教えてくれた。
そして僕は大久保を歩く女性が
日本人であるか韓国人であるかを冬でも見分ける事が出来る様になった。
1人の女性から教わったのだから確実に正解だと思うし、
1人だけなのだから間違いかもしれない。
だけれど僕の女性に対する認識力とも言うべき物はお陰で随分と成長したんだ。
冬でも見分ける事が出来る様になったと冬に限定したのには訳がある。
夏では女性の国籍を見分けるのが簡単だからだ。
具体的に言うと夏場の韓国人女性の露出度は凄まじく、
美脚の為に相当なお金をかけている事が一瞬でわかる。


では中国人女性はどうか?
僕が知る限り彼女達は化粧をしていない事も多い。
なぜかと言うと彼女達の化粧に対する考えが日本人女性の物とは違っているからだ。
日本では化粧はある種の礼儀的な物として機能している。
化粧をしない顔で他人と会うのは失礼だという考えだ。
つまりマナーの一環という訳だね。
一方中国では化粧をする事をマナーとして捉えている女性があまり多くはない。
現在中国では生活や価値観の欧米化が進んでいるけれど
化粧には中国的な美意識が残っている様だ。
日本や欧米では化粧品の売り上げの多くを占めるのがメーキャプ化粧品だ。
メーキャプ化粧品とはつまり肌の上に何かを描く際に必要になる化粧品の事。
化粧と絵画は似ている。
肌はカンバスだし、肌を平坦にする為に下地とファンデーションを塗る、
カンバスに絵具が付着しやすくする為に
炭酸カルシウムとチタニウムホワイトの混合物を塗る。
そして大小の筆や刃物で顔やカンバスに絵を書いて行く。
一方中国では化粧品売り上げの半分以上をスキンケア化粧品が占めている。
つまり肌の調子を整える化粧水や乳液や美容液の事だ。
しかし一方で中国人女性が化粧をする時は丹念に仕上げる。
普段がすっぴんな分、化粧を施す時は入念に、
そして完成した顔も派手なものとなる。
派手さは特にアイメイクに現れる傾向にあると思う。
ともかく彼女達の多くにとって化粧は日常生活に必要な物ではなく、
冠婚葬祭の時に着る1つのドレスの様な物なのだろう。


化粧に関しては僕よりも
「観葉植物」の方が何倍も知っているとは思うけれど。


ともかく
僕は中東出身の男と話している女性を日本人だと判断した。


1、おそらく彼女は女性だ。
2、化粧をしている。
3、派手な化粧ではない。
4、肌が発光する様には輝いてはいない。
5、アジア人だろう、きっと。


オーケー、結果はならばたぶん日本人だ。
直感もいいけれど、直感に少しの推論を加えると
正解に辿り着ける可能性は高くはなると僕は感じている。


中東出身の男と日本人の女性ががいつ頃、
どの様な切っ掛けで会話を始めたのかは判らないけれど、
僕には彼と会話をしている彼女の気持ちがたぶん少しは良く分かる。
僕が彼自身が強く望んで日本にやってきたのではないのだろうと思った理由は、
彼の寂しげな表情だ、一般的な寂しさを通り越した表情だ。
浅黒い肌の上に、津々とした雪が積もった様な冷たくも柔らかい表情。
人を惹き付ける表情だと思う。
彼の事を放っておけないという気持ちにされる顔だ。
だから彼女も彼と会話をする事にしたのだと僕は推測しているんだ。
2人は胸と胸を合わせる様に密着して会話をしている。
アルコールを飲みながら会話をしている。
彼の表情にも僅かに笑顔が浮かんでいる。眼は笑っていないが頬は笑っている。
人が本当に笑う時は眼から笑うという。
だから彼は本当には笑ってはいないけれど、
本当ではない笑いだって無いよりはマシなはずだと思う。


僕の推測はあくまでも会話の切っ掛けになったであろう
女性の心理の推測でしかない。
だから結局彼女は彼に何かを言った後で、彼のもとから離れて行ってしまった。
僕の思考が文字ならば"彼のもと"という
言葉の”もと”という部分には"許"という漢字を使いたい。
”もと”と読む漢字には下や本や元があるけれど、許がいい。
下は命令を受ける側という意味がある、
本とは本来の意味が、
元には最初や本質の意味がある。
彼の"もと"を去った彼女とは何だろうかと考える。
彼女は男に命令を受ける立ち場に居た訳ではない、
本来は男のものであった訳でもないし、
本質的に男と関係があった訳ではない。
では"許"の意味は何か?
"許"とはある人の影響が及ぶ範囲や場所の事を言う。
人間関係とは男女の恋愛に問わず影響の与えあいの事だと思う。
ある人間同士が距離的には近くに住んで暮らしていても
影響を受けていないならば2人の人間関係は始まっていないし、
片方が死んでしまっても、死んだ者の影響を受けて生きている人がいるならば
2人の人間関係は終わってはいないという事になる。
だから僕の思考を文字にするならば、
彼女は彼の許から離れてしまったと書くだろう。



彼女は彼の許から離れてしまった
男の顔には再び孤独が張り付いている。


僕は再び、古いフランス映画の事を思い出していた。
男を表すフランス語《masculine》の中には
《mascu》=顔と《cul》=ケツがある。
じゃあ女の中には何がある?
女を表すフランス語は《feminine》だ。



《feminine》
《f  inin 》
《f  in 》
《fin   》











《fin》













《FIN》だ。
《FIN》とは終わりと言う意味のフランス語だ。


僕は「レッカー車」が移動したのを確認してバーを出る事にした。
「レッカー車」が店のドアを出て地上に続く階段を昇ったのを見て後を追った。





何時の間にか、視界の端で目標を観察する事が得意になっていた。
始めのうちは僕の視線を相手に気が付かせずに観る事に随分と苦労したものだ。


入る時には客を慎重に吟味する透明のドアマンは
店を出る時にはこちらの事を気にしない。
帰る客を気にするのはバーテンダーの役目だからだ。
階段を昇る途中の僕はとても楽しい気持ちになっている。
僕が化粧の仕方から日本人だと推理した女性が
ドアに向かう途中で目に付いたのだ。
彼女は今では別の男と話している。流暢な日本語を彼女は発している。
僕の推理は当った様だ。
日本人の様な外見で性別は女性であると思われる人が
日本人女性の様な化粧をしていて
流量な日本語が話していたら、ほぼ彼女は日本人だろう。
推理が当るのは気分がいい。
僕が店を出る間際、彼女の言葉が僕の耳に入る。
彼女は別の男に向かって笑いながら言ったんだ。
わたしは、国籍はアメリカだから。
僕は微笑みそうになった。
外見的にあるいは遺伝子的に日本人的であっても
国籍が日本だとは限らないのだ。
彼女の両親が日本産まれの移民なのか、
両親の片方がアメリカ人で片方が日本人なのかは判らないけれど、
彼女はアメリカ人だったのだ。発言を信じればだけれども。
いわば彼女の化粧は、
日本人的なアメリカ人がした日本人女性のコスプレの様なものだったのだ。
僕は楽しい気持ちになる。
推理は当ると気分はいいけれど、楽しいのは推理が外れた時だ。
楽しくしてしかたがなくなってくる。
だから階段を昇るきり地上に出るまでには心を平常に戻そうとする。
せめて表情だけでもね。


途中で空が見える。
バーに入るまでは薄暗い青色だった空が、今は黒色。
周囲の建物から飛び出す白や青やピンクのネオンで彩られている。


歩道に出る。
一瞬で数多の通行人が僕の眼に飛び込んで来る。
悪そうな日本人、悪そうな黒人、悪そうな韓国人、
悪そうな中国人、悪そうな中東人、悪そうな白人。
悪そうな、悪そうな。悪そうな人々。
そしてほとんどの人が楽しそうで、
楽しそうにしている人々の半数が、寂しそうにもしている。
彼ら、彼女たち、あるいは性別の中間、または両方の人々を見ると
僕が居るのが東京の繁華街で、時間は夜だと言う事を意識させられる。
耳に様々な言葉が入って来る。
日本語、韓国語、ドイツ語、オランダ語、中国語風などこかの言葉。


僕の眼は「レッカー車」を探す。
歩道の先に彼の後ろ姿が見えた。
悪そうな人間に紛れて意気揚々と歩いている。
悪そうな「レッカー車」。
僕も繁華街を歩く悪そうな人間達と同化する。
とは言っても僕自身は悪そうな人間ではなくて
本当に悪い人間なのだけれど。
今までも夜の中で多くの法律に違反する事や
倫理に違反する事をして来た。
今日も違反をする事をする事になると思う。
僕は倫理と法に反する事しながらなんとか生きて来たんだ。
もしかして、街をあるく悪そうな人々も僕と同じで
本当に悪い人間なのかもしれないけれど。
ともかく僕は「レッカー車」の後を付ける。


「観葉植物」も移動を始めているだろう。



賑やかなディスカウントストアの横を通り過ぎる。
表には商品が歩道に出る勢いておかれている。
小型の自転車、小型の充電器、小型のマッサージ機。
安いTシャツ、ありふれた化粧品、僕たちの購買欲。
スピーカーからは流行の曲が大音量で流れている。
店の周囲を歩く僕たちの鼓膜を刺激する。
だけれど歌はない。歌手の声がない。
インストルメンタル、あるいはカラオケのバック。
僕たちの購買欲を刺激するのには
ポップな曲であっても歌詞は邪魔になってしまうらしい。


世界中のどこにでもあるコンビニの前を通り過ぎる。
ただし客層がどこにでもいる人々ではないのが面白い。
出勤前のホスト、ホステス、どこかの国の人々。
通りを進む。
茶店、ドーナッツ屋、またコンビニ。
全ての店が夜だと言うのに閉める気配はなく、
全ての店の上には立派なビルが乗っかっている。
ビルの中には居酒屋や水商売の店が入っている。
立ち話をしている連中、早々と酔って地面に座り込んでいるサラリーマン、
居酒屋の呼び込み、手を繋ぐ恋人達の前を通り過ぎる。
この先を曲がればラブホテルが数多くある通りに出る。
ホテルに「レッカー車」が入ったら面倒くさい事になる。
耳には騒音。音が高い騒音だ。
夜の繁華街では人々は浮つく。
興奮して語る言葉は上ずり、笑い声も普段より高くなる。
鼻孔の中では酒と埃と化粧と香水と嘔吐物のにおいが漂っている。


「レッカー車」は道を進む。
人々と騒音とにおいの間を上手くすり抜けて進む。
彼が夜の街に慣れている証拠だ。僕も進む。
全ての間をすり抜けて進む。僕も夜の街に慣れてしまったようだ。


途中で対向してやってくる黒髪の女と眼があった。
年は30は越えては居ないと思う。
安物のヘアケア用品を使う女子高生よりは髪は美しく、
美貌が収入に直結する水商売の女よりは髪は輝いてはいない。
化粧はほどほどに手を掛けていて着ている服の値段もきっとほどほどだ。
顔には僅かな微笑みを浮かべている。
彼女の笑顔はそこからのビルの上に展示されている看板に張り付いている
女優の笑顔よりも自然で広告には適さない笑顔だ。
だけれどそこらに立っている呼び込みの女たちの笑顔みたいに安っぽくはない。
もっとも彼女達の笑顔が悪い訳ではないのだけれど。
彼女達の笑顔は商品だ。
女優の笑顔は価格が高くないと広告には使用できない。
高い笑顔に価値と役割がある様に、安い笑顔にも価値と役割がある。
呼び込みの女の笑顔は安っぽくないと誰も彼女達を買おうとは思わない。
自分が使える端金で買えると思わない。
女性の笑顔には、きっと様々な意味と役割があるのだ。
黒髪の女は、服の上からでも分かる痩せぎすの身体でこちらに向かって来る。
そして僕の横を通り過ぎた。視線も離れる。
彼女は僕にとってただの通行者、
僕は彼女にとってただの通行者。
彼女の様な女性を見ると、
僕は不意に彼女たちを乱暴に犯している想像をしてしまう時がある。
細く白い腕を腕力と恐怖に物を言わせて力尽くで拉ぐ。
汗ばんだ頬に細い黒髪が張り付く。
衣服は中途半端に脱がされて、程よい色気の下着が剥がされる。
眼の端に涙を浮かべて、唇は震えている。
口からは悲しみと喘ぎを混ぜた声が聞こえて来る。
全ては僕の妄想だ。
僕はその度に、自分の中にある品性の下劣さを再確認させられる事になる。
生まれてこの方、女性に乱暴を働いた事はないだけれど。
ないからこそ、僕は自分の下劣さを
簡単には認めるに値しないやっかいな感情だと思っているのだろう。


「レッカー車」がラブホテル街の方に曲がった。
人通りが極端に少なくなる。
そして静かになる。
それはそうだろう、愛を囁くには周囲が静かでないといけない。
だから人ごみに紛れて彼を追跡するのが不可能になる。
僕の存在を気づかれない様に
「レッカー車」との距離を開けてゆっくりと行動する。
しかしやっかいだ。
ラブホテルは恋人と2人で利用する施設だ。
だけれど繁華街のラブホテルの大半は男1人でも利用できる。
1人でホテルに入る。
電話でデリバリーヘルスと称させる売春婦、コールガールを呼び出す。
彼女達に金を払って行為が終わったらすぐに部屋を開け払ってもいいし、
朝まで部屋で一人で凄しても良い。
だから繁華街のラブホテルにとって男の1人客は良い収入源になっている。
所が1人での利用を断るラブホテルも存在している。
理由は色々あるのだろうね。雰囲気を保つ為や、不審者対策。
「レッカー車」の後を付ける僕は正に不審者だ。
僕の様な存在を排除するための対策だ。
可能性は少ないけれど、彼がもしこの先で恋人と待ち合わせていたら。
ホテルの外で待ち合わせるタイプのコールガールを呼んでいたら。
そしてもし、2人でしか利用できないタイプのホテルに入室したら。
僕は彼がどの部屋を誰と使ったのかを記録しないといけない。
だから彼が1人でホテルに入ったら僕も1人でホテルに入るし
2人用のホテルを使うならば僕も2人でホテルを使う。
僕はカップルを装う為に「観葉植物」を呼ぶ事になる。
そして「レッカー車」がホテルの何号室を誰と
どの様な様子で使用したかを出来る限り記録する。
それからホテルの外で出入り口を見張る緊急の応援を呼ぶ事になる。
彼がホテルを出た事を確認するためにだ。
依頼者は仕事に関わる人間が増える事を望んではいない。
だから出来る限り少人数で済ませたいという訳。
僕が1人でホテル入る場合は、出入り口の見張り役は「観葉植物」が担当する。
この場合は仕事に関わる人数は増えない。
僕と「観葉植物」の2人だけという訳。
さっきまで「レッカー車」と僕がいたバーと同じだ。


僕がこれからの事体を予想し頭を整理している間に
「レッカー車」は道を曲がる。ホテル街から外れていく。
予想は外れた。厄介事が1つ遠ざかった。喜ぶべき事だ。
彼の進む道の先には、風俗街がある。
通りを歩く人が増えていく。周囲が騒がしくなっていく。
なぜホテル街と風俗街は同じ性を扱う商売を生業としているのに、
こうも雰囲気が違うのか。
静と動。陰と陽だ。風俗街が動で陽だ。
愛を囁くのがホテルで、愛を売り買いするのが性風俗のはずなのに、
あっけらかんと陽気な雰囲気を放出しているのは後者の方だ。
いや、当り前か。愛なんて大抵が暗くて静かで陰気なものだ。
一方では陽気な雰囲気でないと愛や身体を金で買うのを躊躇う男は多そうだ。
きっと女性も同じだろう。
陽気と言う言葉を言い替えばドライという事だ。
乾燥した砂は肌に付いても手の平で簡単に落とす事が出来る。
だけれど愛はいつでもウェットで
身体を洗剤で洗っても感触と匂いが落ちる事は無い。
僕は彼の後を付ける。そして僕は頭を抱えそうになる。


「レッカー車」が風俗街の1つの店、
ピンクサロンに入店するのを確認したからだ。




他の店よりマシだろうと僕は思い直す。
思い直した事で、頭を抱えずに済んだという訳。
店は雑居ビルの地下にある様だ。
細長い階段が地中に伸びる。仄かな闇の中に続いている様に見える。
「レッカー車」がピンクサロンに入店したのを確認してから、
僕は階段を降りる。
店の入り口に近づいた。
風俗街で1人男が立っているのは目立つ。
客引きや路上に立つ売春婦の格好の的だからね。
風俗街にやって来た普通の男ならば突っ立っていても良いのだろうけれど、
僕は普通の男である事を求められていないので動かないといけない。
依頼者が求めているのは出来る限り完璧な報告だ。
今夜「レッカー車」が誰と何をいつしたのかを聴きたがっている。
だから僕にいま求められている事は普通の男の役割じゃない。
具体的には待つ事ではなく進む事だね。



性風俗の店には様々な形体があり
客の多様な趣向に合わせたサービスを提供している。
ソープランド、イメージクラブ、デリバリーヘルス、
ハプニングバーピンクサロン
同性愛者向けの店やSM趣味の店
その他諸々あまり一般的ではない性的趣向を扱う店、
水商売と言われる様なキャバクラ、
キャバクラから発展したもう少し刺激的な店を含めれば種類はもっとある。
中でもピンクサロンは尾行や追跡、
身辺の調査には向いている形式を持っている風俗店だ。
ソープランド、イメージクラブでは客と女性従業員が
一対一で店舗に設置された個室に入る。
個室にはシャワーがある、ベッドがある。料金支払済の性交の開始だ。
デリバリーヘルスでは客はホテルを使用する。
自分で選んだホテルで女性従業員からサービスを受ける。
つまりコールガールの事だ。
どちらも個室を使用するのだから、
盗聴器や隠しカメラでも使わないと対象が誰と何をしているのかは判り難い。
そしていつどのホテルを使うかは分からないし、
風俗店に仕掛けをする事は従業員でもない限りほぼ不可能だ。
ハプニングバーは客同士の性的な行為を斡旋する形式の店なんだ。
それも見知らぬ客同士のね。
だから追うべき対象と追っている僕たちが同じ店に入るなどはありえない。
もし対象者とセックスでもする事になろうものならば、
こちらの顔も体格も知られてしまい尾行も調査も難しいものとなる。
それについうっかりと互いの間に情愛が生まれたら仕事に支障をきたすし。
だけれど、ピンクサロンなら追跡や調査が楽にはなる。
だから少しばかりだけど安心する事は出来るよ。




僕は店に入る。
自動ドアが開く。進む。通路の角を曲がると受付が見える。
僕は直ぐさまな角に身を潜めた。
受付では「レッカー車」と店員が話をしていたからだ。
サービスプランの選択と料金の支払いだ。
風俗店というのはほぼ全ての店が前払い制だからね。
返品が効かない物を売り物にしているからだろう。


僕は潜みながら集中して耳を澄ます。
彼が指名する女性従業員の名前を聴きたい。
街中と違って、受付の手前で立ち止る事は特に目立つ行動ではない。
風俗店を利用している男たちの多くが、自分の顔を他の客に見られる事も、
他の客の顔を見る事も嫌がるからだ。もちろん会話をする事もね。
勿論例外はある訳だけれど。
ともかく受付に客がいるならば、
彼らと顔を合わせない様に手前で立ち止まるのも気使いの1つという訳。
実際の僕がしている事は
相手のプライバシーに配慮する気使いとは正反対の追跡と調査なのだけれど。
でも僕の事を見た男たちは気の効いている奴と勘違いをするはずさ。


残念ながら「レッカー車」が
どの従業員をお相手として指名したのかは聴き取れなかった。
判れば調査報告がより完璧になるので知りたい所なのだけれど。
店内でなんとか情報を得る機会をうかがう事にする。


彼が受付から去り待合室に向かったのを見計らって、
僕は受付に進む。
受付には男が立っている。
黒のスラックスと白いワイシャツ、ワイシャツの上に黒いベストを纏っている。
髪は茶色で短く整えている。
風俗店の店員やホストと言えば長髪だった時代があった。
しかしもう昔の話になってしまった。
耳に付けたピアスを揺らして若者が微笑む。
高級レストランのギャルソンとしてだって通じそうな笑顔だった。
笑っているが控えめで。礼儀正しいが親しみ易い笑顔。


いらっしゃいませ
やぁ
ご予約をされていますか
いいや
当店の利用は始めでしょうか?
そうだね、俺は、初めてだね
わかりました


若者は笑顔のまま棚から何かを引きぬいた。
印刷物にラミネート加工がしてある。
彼は指で指しながら説明を始める。
こちらが当店のシステムです
全てセットになってるのでオプションなどはありません
現在の時間はこちらの料金になっています
指名料は2000円です
指名をされないフリーの場合は
当店がお客様を担当するキャストを選ばさして頂きます
指名したキャストが接客中の場合は、しばらくお待ち頂く事になります
あまり時間を掛けたくない場合はフリーの方が良いかもしれません
当店のキャストはみんな可愛い娘ばかりですから
現在、指名できるのはこの娘たちです


若者は淀み無く台詞を言い終える。
何枚かの写真を台の上に持ち出して、
僕が見え易い様に写真の女たちの顔と身体を並べた。
なるほどね
僕は頷いて考える振りをする。
考えているのはもちろん「レッカー車」の事だ。
「レッカー車」は誰かを指名しただろうか?
理想的な状況を考える。
一番良いのは彼が従業員から接客を受けるべく部屋に移動して
後に僕も移動する状況だ。状況としては今までと一緒。
僕が彼の後ろを付けて街中を歩いているのと同じ事だ。
だから上手く行けばこちらの存在をあまり知らせずに
一方的に彼の事を観察できる。
僕は悩む振りをして、若者に質問をする。


フリーの方が待たずに楽しめるんだよね
俺の前にお客さんがいたけど、あの人もフリー?
そうだったら俺の方が後になるよね?結構待つの?
いえ、先程のお客様はキャストをご指名下さいました
「レッカー車」にはお気に入りの従業員がいる様だ。
彼はいま待合室でお気に入りの娘を待っている。
お気に入りの娘が別の客のペニスをしゃぶり終わるのを待っている。


若者は帳簿の様な物を手に取って確認している。
フリーを選択されますと
フリーのキャスト待ちとしてはお客様が一番目になりますね
ですが、現在キャストは全員接客中ですので
少々ですが待合室でお待ち頂く事になります
僕は考えた。誰かを指名したら運が悪いと大分待つ事になりそうだ。
そっか、判った。じゃあ俺はフリーでいいよ
この店は初めてだし、良い娘に当るといいなあ
若者は笑った。大丈夫です、お任せ下さい
上手くいけば理想的な状況になるだろう。


ピンクサロン性風俗店の1つだけれど性交はない。
客は従業の口や手を使った技術で射精に導かれる。
従業員は客のペニスを握ってしゃぶって
射精させて精液を蒸しタオルに吐き出して口元を拭う。
口内を消毒液ですすいで身体を拭いて衣装を着直して再び別の客の前に現れる。
休憩時間を除いて指名する客やフリーの客が居なくなるまで
以上を勤務時間のあいだ繰り返す。


では指名なしフリー、19時以降ですので8000円を頂戴します
僕は鞄から財布を取り出して紙幣を1枚トレイに乗せた。
8000円の風俗店。8000円分の欲望。
8000円分の勃起。8000円分の射精。
性交をする事もあるソープランド
デリバリーヘルスよりも安くてとても効率的な商売。
若者からお釣りの2000円を受け取って財布にしまう。
効率的な分、他の性風俗より罪深い様に思える。
擬似的な愛や温もりの交換よりも、射精する事に重点が置かれている。
旧約聖書に登場するオナンが見たらびっくりするだろうね。
そしてアブラハムの神がいるのならば、
ソドムとゴモラの街の次に灰にしたくなる場所だろう。



待合室に進む。
女性従業員が他の客にサービスをし終えるまで男たちが待機する場所だね。
薄暗い照明は仄かな暖かいオレンジ色。
清潔な室内。アイボリーとベージュを中心としたインテリア。
風俗店の待合室は大抵が清潔だ。
客が男ばかりの居酒屋やバー、あるいは飲食店よりはるかに清潔だ。
あるいはそこらのラブホテルよりも清掃が行き届いているかもしれない。
愛を語らう場所で汚い物を見るのは寛容できるけど、
愛を買う場所で汚い物をみるのは
あまり耐えられる物じゃないからだろうと思う。
今の様に仕事でいくつかの風俗店に入った事があるけれど、
どこもどの場所も清潔だった。


さて、待合室で「レッカー車」と顔を合わす事になるかもしれない。
上手く僕の顔を印象づけない様にしないといけない。
だけれど、僕は運が良いみたいだ。
待合室には幾つかのソファーや椅子がある。
「レッカー車」は入り口に背を向けているソファーを選択して座っていた。
彼と顔を合わせずに済んだ様だ。
僕はゆっくりと目立たない様に歩く。
「レッカー車」と背を合わせる様にして座る。
座っていると店員がやって来た。
先程の若者より幾ばくか年を重ねた店員だ。
少々疲れた顔をしている。
元気な店員より、少し位くたびれている店員の方が信頼できると思ってしまう。
原因はきっと僕がもう若者ではないからなのだろうと思う。
くたびれた店員は飲みの物の無料サービスがございますと言った。
僕は「レッカー車」を追う事ですっかり喉が渇いていた。
コーラなどの炭酸も頼める様だけれど、ウーロン茶を選択する。
すぐさま店員が缶に入ったウーロン茶とコップ、
袋で密封されたストローを持って来た。
夜の店で缶入りの飲料が出てくる事は
決してサービスが悪い事を表しているのではない。
缶詰は未開封開封済みかを簡単に判断できる。
つまり未開封ならば怪しい物も混入されていないし、
中身を入れ替えられてもいないという訳。
海外のバーでも現地の物ではないビールを頼むと
缶に入ったまま出て来る事が多い。
特に日本のビールや、アメリカのビールを頼むと缶のまま提供される。
コップと共に出されて、自分で注いで下さいというスタイルだ。
手酌があまり良い物ではないとされている日本では見かけない光景だ。
中身を現地の安いビールなどには入れ替えていませんという証明のためだ。
だから缶のまま出される事は一種のサービスなのだけれど、
サービスを理解しない人がたまに居て不満を漏らす事があるらしい。
海外のバーでも、風俗店の待合室でも。


コップの中のウーロン茶をストローで吸う。
壁の向こうから騒がしい音楽が聞こえてくる。
女性従業員から客がサービスを提供されるプレイルームで流れている音楽だ。
風俗店でもキャバクラでも同じだ。
この手の店で掛かるのはなぜ安っぽい一昔前のテクノばかりなのだろう?


ウーロン茶で喉が潤う。少しリラックス。
観察するべき対象がすぐ後ろにいるので油断は出来ないのだけど。
慎重に彼の事を観察する。今は店が用意した雑誌を読んでいるらしい。
そういえば、待合室での飲み物のサービスは
ソープランドとか比較的お金の掛かる商売での物ばかりだと思っていた。
不況の影響で客は減少、減少した客の取り合い、
サービスの強化といった所かな。
いや、逆だよな。風俗街の客足は少なくなるどころか増えている。
不況だから、風俗街は賑わう。深刻な不況になるまではね。
客は増えているから、サービスを厚くして客を取り合う。
不況だったらサービスの強化なんて出来ない。
出来るとしたら料金を割り引いて、
割り引いた分は従業員の給料を減らす事くらいだろうね。
あっという間に不景気の渦の完成だ。
飲み物のサービスは何かを割り引く事じゃなくて付け足す事だ。
余計な金が掛かる事だ。
店員が礼儀正しく丁重なのも1つの証拠だ。教育が行き届いている。
しっかりと研修をしているのかもしれない。
経営が厳しくなると研修もろくに出来なくなる物だ。
研修にも金は掛かるものね。


男たちの金が適度に無くなると、風俗店が繁盛する様になるという事だよ。
適度と言うのは食うのには困らない程度の不況と言うこと。



まったく。男という存在が嫌になる。
僕も含めて男共は男女間の愛に対してドライ過ぎる傾向がある。
恋愛をするのにはお金はかかる。
だから男たちは自分の持ち金が少なくなると
恋愛よりも風俗を楽しむようになる。
風俗の方が恋愛に比べて遥かにやすい金で愛情を体験できるからだろう。
お金が結果的に掛かってしまうのが恋愛で、
男女の間にあからさまにお金を介入させるのが性風俗だ。
金銭の関わり方は違うのに、男たちは2つをあまり区別しない。
だから得る事の出来る愛情も区別はしない。
あるいは区別する事が出来ない。愛情の差異化ができない。
僕はとても嫌な気持ちになる。
僕が一番嫌な気持ちになるのは、
恋愛に金が掛かる事を男たちが本質的に本能的に理解してしまっている所だ。
だから彼らは恋愛にドライすぎるんだ。
愛よりも金を優先するドライさだ。


愛は金で買えるというやつだね。
恋愛とお金については男たちも
女性の様にもう少しウェットになれれば良いと僕は兼ねてから思っている。
愛はお金で買えると宣言したり囁いたり雑談の話題にするのは常に女性たちである事を考えてみれば良い。
男で堂々と言ったのは現代では堀江貴文くらいじゃないかな。
彼は証券取引法違反事件で逮捕される以前は高層ビルの上階に住んでいた。
ステータス、トロフィー、通勤にもっとも便利な住居。
なにせ彼が経営していた会社は同じビルの階下にあったのだから。
現在は前科者になってしまったので、
ビルからは追い出されてしまった様だけれどね。
当時の彼曰く、
自宅から見える都会のきらびやかな夜景を見た女で落ちない女はいなかった。
金で愛が買える証明さという事らしい。
福岡県は高級緑茶の名産地、
自然豊かな八女市の出身、子供の頃からコンピューターが大好きで
後に上京して情報技術の分野で起業して社会的に出世した彼。
愛と金について堂々と言ってしまったのだから
堀江貴文も女性的な人だと言える。
なんせ、愛は金で買える事を男たちは本能的に知っているのだから。
言うまでもない事なんだ。
腹が減ると食物を食べたくなる、食物を食べると腹が一杯になる。
同じ事だ。当り前で、わざわざ話す必要も無い内容という訳。
だからお金に関わらない愛があった時に男たちは驚き喜び、話題にする。
対して女性はお金と恋愛の相互的な影響について良く話しをする。
時して同性の友達と食事やお茶やアルコールを楽しむ際の話題として、
時として雑誌に書かれ、時としてインターネットの掲示版などで論じ、
時として世の中に宣言する様に愛は金で買えるのだ言い切ろうとする。
お金で自らの愛を買われる事になるかもしれない彼女たち、
または既にお金で愛を買われた彼女たち。
彼女たちは今いち本能的には納得しかねる事を
確認し合い確信を得ようとしている様だ。
彼女たちは男の金が、男女間の愛に対して
有効に適切に作用した結果を見聞きした時に満足した表情を浮かべる。
一方で男共は彼女たちを冷めた目線で観察している。
なんで当り前すぎる事を話しているんだい?
なんで当り前な事で興奮しているんだい?


僕は嫌になる。男という存在がね。
愛は金で買える事を本能的に理解するのではなく、
女性の様に確信を得ようとする程度には迷い悩めば良いのに。
男たちが女性の様に愛と金の関係について
もう少しだけでも面白く話をする様になればいいのに。
男が愛に対してドライじゃなくて、もう少しウェットになってくれるのが
僕の希望だね。



ウーロン茶を飲み終えた所で、僕の目の前のソファーに男が座る。
動作からしてトイレから出て来た様だ。
僕は彼の顔をこっそりと見て驚いた。彼も驚いている。
風俗店の待合室では客同士が会話をする事はない。例外はある。
僕の前に例外がいる。知り合いと出くわした時だ。


「レッカー車」が僕の座っているソファーを選択しなかった訳が良く分かった。
目の前に彼が居るのはあまり落ち着くものでもないだろう。


僕の知り合い。僕は彼の知り合い。
彼は僕の横に移動してにやりと笑った。
青緑の綺麗な瞳が微笑み、金色の髪の毛が揺れた。
彼は赤いネクタイを緩めた。


僕の知り合い。僕は彼の知り合い。
彼は僕の横に移動してにやりと笑った。
青緑の綺麗な瞳が微笑み、長い金色の髪の毛が揺れた。
彼は赤いネクタイを緩めた。




ツイードで出来た高級そうなスーツに綺麗なネクタイが良く似合っている。
正確に言うと彼の端整な顔と縦に長い痩身に
高級そうなスーツとネクタイが似合っている。
より完璧に表現するのならば、
スーツとネクタイは高級そうではなくて確実に高級な物だろう。


僕の横に座って足を組んだ彼。彼は無言のまま僕に微笑みを投げかけている。
顎から頬に伸びる綺麗に整えた髭が似合っている。髪も金色ならば髭も金色だ。
二つ折りする様に後頭部で結わいた金髪。照明を反射する。
背もたれに片方の肘を乗せる。爪先まで綺麗に磨かれた指が揺れる。
堂に入った動作だ。
男性専用の高級な美容エステサロンでは顔や身体を磨くだけでなく、
爪先まで面倒を見てくれるのだろう。そして高級なハンドクリーム。
彼は洋服屋に勤めている。
都内の繁華街、一等地にある高級デパート。
正しく言うとデパートがあるから地価が高くなっているのだけれどね。
デパートの5階。5階にある紳士服売り場。
誰もが名前くらいは聞いた事のある海外の紳士服ブランド。
店員を勤めているのが彼だ。
彼は僕よりも1回りほど年上だ。たまに2人で酒を飲む事がある。
飲み仲間、あるいは悪友という分類に入る人間の関係だ。
まったく、仕事中に知り合いに会うなんて。
とても良くない事だ。


やぁ
やぁ久しぶりだね、最近私の店に来てくれないじゃないか
そうだね、でも俺だっていそがしいんだよ


彼は自分の職場を私の店と呼ぶ。
彼が店長の様なものを勤めているから、
職場を自分の店と呼ぶ権利があるという事らしい。
以前一緒に飲んだ時に、
僕の疑問に彼は溜め息と笑顔を交えながらつぶやいていた。
店長のようなものってどういうことよ?
君は知らない様だけれどアパレルの人事配属は複雑なのさ



彼曰く、元々は私は本社で働いていた。
ひょんな事から日本に派遣された。
ひょんな事という日本語を使いこなすのだから彼の言語能力は相当な物だ。
彼の勤める会社の本社はフランスにある。
だから彼はフランス人かイタリア人かスイス人かドイツ人だろう。
なにせ彼の国々は海で隔てられてはいないのだから。
日本の様に韓国や中国やベトナムと海で断絶されている訳ではないという訳。
もしかして、彼がイギリス人の可能性だってあるわけだけれど。
ともかく僕は彼の出身国を尋ねた事は無い、彼も僕の職業を尋ねない。
彼は僕達の事を丁度良い塩梅の関係だと評する。
塩梅と言う日本語も彼は使いこなす。梅干しは嫌いという事だけれどね。
彼の販売員としての実力は本物で、結果として僕たちの関係がある。
今現在さり気なく僕の隣に座っている彼。
彼が自然に見える笑みを浮かべているのも実力の1つ。
販売業では客の目の前に立ち塞がって向かい合って会話をする事はありえない。
隣に立つ事が客の警戒や緊張を解きほぐす。
人間の立ち位置は精神的な関係を直接表す。
向かい合う事は対立する事、横に並ぶ事は協力する事だと彼が言った事がある。
僕は人に何かを売りつける事に関しては詳しくない。
けれど彼の言う事は本当なのだろう。
なんせ僕と彼の関係は初め、普通の客と店員だったのだから。
気が付いたら飲み友達で悪友だ。彼の術中にはまっている。


彼の長い金髪を見ながら僕は考えている。
なんだって彼がピンクサロンなんていう安上がりな風俗店にいるんだろう?
あなたの給料だったらもっと良い遊び方はできるだろうに。
まあ女好きなのは散々聞かされてはきたけれど。


俺は今こんな事を思ったよ、珍しい所であったね
私も同じ事を思っていたよ
俺の疑問を聞いてくれるかな?
なんだい
なんであなたがこんな場所に?
私が女の子の事を好きだからだよ
俺だってそれ位は知っているつもりだよ
私も訊くけどなんで君がここに


僕は後ろを振り返りたくて仕方がなくなっている。
「レッカー車」は今も雑誌を読んでいるだろうか?
背中に伝わる雰囲気から彼が僕たちの会話に耳をそばだてているのが判る。
店員、はやく「レッカー車」を快楽の園に連れていってくれないか。
僕は目眩を感じる。感じながらも隣で微笑む金髪の友人と会話を進める。


俺が男だからだよ、たまには遊びたくもなるだろう
じゃあ私もおなじ
俺はさ、あなただったらもっと金が掛かる風俗にいけるでしょ?って訊いてるの
青年、それは私に欧米のブロンド女と日本の黒髪の女性どっちが良い?と
尋ねているのと同じ事だよ
あなたの言い分はわかった、だけれど俺の心に反論が生まれたよ
まず1つ、俺は四捨五入したら40歳だよ、だから青年ではない
次、女性の好みは人それぞれだろう、たとえば俺にだって好みはあるよ
私ははもう50近いし、50近いおっさんから見たら君は青年だよ
そして私は女性を区別しないよ、ブロンドも黒髪も素敵だし、
ピンサロも高級ソープランドも良いものだよ
ちゃんというと、ピンサロで働く女の子もソープで働く女の子も
それぞれに違ってそれぞれが可愛いじゃん
私が言っているのはそういうこと


僕は思わず笑ってしまう。きっと苦笑いとかそういう笑顔。
相変わらず彼は日本語を正確に扱う。
”じゃん”という言葉も彼の得意な崩れた日本語の1つだ。
そしてやっと待合室に店員がやってきた。
やっとというのは、僕が友人と偶然出会ってしまってからの時間、
実際は僅かな時間をとても長く感じていたからだ。
店員が「レッカー車」をプレイルームに案内する。
「レッカー車」は店員と話をしながら隣の部屋に消えていった。
よかった僕の事など気にしていない。
それはそうか。大抵の男性にとっては見知らぬ男どものヨタ話よりも、
これから戯れるお気に入りの女の子の方が大切だろう。
あとは彼が向かった部屋の中で、僕が良い位置に座れればいい。
彼と彼のお気に入りの娘の観察がし易くなる。
僕がどこに座るのか、
僕の担当従業員が誰になるかは段取りは店員が決めるので、
後の展開に関しては僕は祈る事しか出来ないけれど。
店員に呼ばれるのを待ちながら、僕は友人との会話を続けた。



俺にはあなたの言葉が
答えになっているのかなっていないのかよく分らないよ
そう?私的にはなっているとおもっているけれど
あなたの言葉は
遊べるならどんな女でも良いって事にも受け取る事ができるよ?
私にだって気分はあるね
気分ね
人には機微があるからね機微とは人の心の細かな揺れ動きや移り変わりの事だよ
勉強になったよ、まさか風俗の待合室で
友人から日本語を教わるとは思わなかったよ、俺は
人生とは不思議な物だね
まったくだよ、あと機微という言葉は
趣という風流な意味も持っているから覚えておくと良いよ
なるほど、私も参考になるね
でも風流という言葉は元々は派手な装飾や
様式を表す言葉だからいま使うのは不適切だよ
そうかい、また勉強になったよ、だけれど風流という言葉の成り立ちを
更に巡ると万葉集に辿り着く
万葉集では風流とは自然を感じ楽しむ人々の事を意味していているんだよ
へぇ、じゃあ万葉集では風流を"みやび"と読んで遊子
遊び人の事も意味していたのも知っているのだろうね?
ああ、風流士では紳士という意味になる事も知っているよ


僕と彼は互いの瞳を覗きんで今まで以上に微笑む事になった。


私は君の様な友人が持つ事が出来て幸せだね
俺も同じだよ
日本には昔から紳士が居たのだね、万葉集は風流だね
そうだね、日本には昔から遊び人が居たんだね
万葉集には機微が籠められている


とても無駄な言い合いだったね。


所で、あなたはブロンドも黒髪も大好きだって?
ああ、私はそう言ったよね
でもあなたが連れているのはいつでも日本人女性ばかりじゃないか
それも黒髪か大人しい栗色の髪の毛の女性
あとボウズ頭の女の子とも歩いていたよね
それに変なドレスを着ている娘ともお茶を飲んでいた
君は私の事に詳しいね
あなたは街中で目立つんだよ
なるほど、では君の疑問にお応えするよ
折角日本にいるんだし、現地の娘と遊びたいじゃないか
それだけ?
そんな所だね
あなたの職場は紳士服販売店だろう、出会いも少ないだろうによくやるよ
誉めてくれて嬉しいけれど、私の職場にも出会いはあるよ
どこに?
彼氏や旦那さんと一緒にやって来た彼女や奥さんとか
おーい
それにこっそり1人で彼へのプレゼントを買いに来た女性とか
まーじか
ほんとほんと、日本人の女性は私がピカチューピカチュー言っていれば
結構簡単に落ちるから
あなたさぁ、楽しい話をしていると思っているだろうけれど
そういう話を聞かされてる方はまったく楽しくない
不快だって事にいい加減に気づきな?
気づいてる、気づいてる、日本人の女性は不思議と可愛がりやすいんだよなぁ
ゴミだね
ははは
欧州のゴミ虫代表だね
ははは
ゴミ虫サッカーワールドカップが開催されたら
あなたはゴミ虫に蹴り回されるボールだよ
ははは


彼は笑う。
笑い過ぎて青緑の瞳から零れ落ちそうになった雫を細長い指先で拭った。
彼の動作に僕も愉快な気分になって来た。


そんなに怒らないで、お詫びにどんな女性でも落とす方法を教えるから
俺はそんな事は知りたくもないよ
格好付けた事を言うね、君は
あなたから見たらどんな女性でも安く見えるのだろうね
俺は女性は常に一定以上の価値を持っている存在だと思っていたいんだよね
私からも別に安くは見えてはいないけれどね
けれど相手や自分自身の価値を
高く見積もり過ぎる事は男女共に不幸を呼ぶ行為だよ思うよ
でも不幸だって自由じゃないか
それもそうだね


彼が今までと違う笑みを浮かべる。
僕には反論が思いつかない。


それで?
なに?
あなたはブロンドと黒髪の女性、どちらが好きなの?
私が答えをはぐらかしていたのは実は
君がした質問への返答がとても難しいと感じているからなんだ
自分の好みくらい分かるでしょ?あなたは洋服の販売員なんだし
うーん悩むね
まだ悩むんだ
ブロンドの女性と黒髪の女性、かなり悩むけど私だったらすき焼きかな
すき焼き?
うん、私はお腹が減って来たよ
性欲も発散したからね、その後で尿意も解消したし
なんて話だ
最近の東京では外国人でも簡単にすき焼きが食べられる店が増えたから嬉しいよ


彼は僕の横から立ち上がった。
背筋を伸ばす。話は終わりという事らしい。
ちょうどよかった僕も彼との話を終わらしたかったからねまったく。


ああ、そうだ
何だい?
君はフリーなの?それとも誰かキャストを指名したの?
フリーだよ
じゃあ私を担当した女の子が君のお相手をするんじゃないか
俺にはそれは厳しすぎる
笑えるよ、おめでとう
目出度くはないね
大丈夫、彼女の外見と技術と仕事への情熱は保証する


僕は彼に対して、自分は仕事でこの店に来たのだと告白したくなってくる。
告白は業務上許される事ではないけれど。
それに告白した事が「観葉植物」に知られたらとんでもない事になる。
「暖房器具」が鉄くずにされてしまう。


俺は時々津々と感じる事があるよ
男女の中、そして男同士の関係は残酷で複雑だと
今の君は仲間と1人の女性を取り合う大学生みたいな発言をしたよ
なんだいそれは?
良くあるじゃないか
大学生くらいのまだ幼い男の子たちが1人の女性に恋をして
結果として彼らの友情が壊れる事が
ああ
君も良い年齢なんだからさ
そんな幼い男の子たちの様な事を言っていてはダメだよ
ダメかな
ああいう希有な事体は全員の男振りが悪いから起こる事なんだよ
どういう訳だい
男振りが良かったら速攻で誰かが彼女の心をかっ攫うだろう
さっきから珍しい日本語を使うね、あなたは
かっ攫う男が居ない程度の集団なら、彼らは仲良くなるだろうね
仲良くなるかね
なるよ、同じ女を愛する男同士だ、仲良くなれないわけがないよ
それに1人の男が彼女をかっ攫えないなら
全員で彼女を共有してもいいのだし
俺は今とても下品な発言を聞いた様に感じるのだけれど
更に男振りが悪い集団だと共謀して女性を追い出す事になるだろうね
あなたの発言はライオンのメスや
アナタハン事件の事を踏まえての物に聞こえるよ
私が思う男振りが少ないと起こる最悪の事体が男同士の喧嘩や殺し合いだよ
君の発言はその一種類に聴こえたよ
なるほど
大人の男からすると幼い男は見ているだけでつらい
だから気を付けた方が良いよ
ご注意とご忠告をありがとうございます、兄弟


僕は目を細めながら彼の腹部に向かってジャブを放つ。
彼は僕の拳を手の平で受け止める。


まったく、俺たちはなんでこんな所で
男同士で女性についての話をしているのだろう?
男たちが女性の事が好きだからさ、いつでもどこでも男は女の事を話している
俺を一緒にしないでくれ
同じだよ


僕は無音の柏手を打ってから両方の手の平を空に向けた。
肩をすくめる。


ははは
じゃあ私は行くよ、楽しんでくれ


僕と彼はまた飲もうと約束をしてから別れた。





会話の区切りに合わせた様に店員が現れる。
準備が整ったという事らしい。
僕は席から腰を上げて通路を歩いて行く。
薄暗い道を店員に先導されている。
小さな照明、清潔な廊下、曲り角に置かれた観葉植物。


別室に辿り着く。喧しい音楽。
指定されたソファに腰を下ろす。
もたれると身体が沈んでいく。
2人が座る事の出来るだけの幅。
店員はもうしばらくお待ち下さいと言う。
僕の前から去る。
黒のベスト、スラックス、白いシャツを纏った体が何処かに消える。


部屋は仄かに明るい。
どんな商売でもそうだけれど業務を行う為には
一応は法律を守らなくてはいけない。
労働法や環境法や自治行政によって定められた条例の事だね。
性風俗業の場合重要なのは風営法だ。
風営法は名称の通り風俗店や類する商いの行いを取り締まっている。
キャバクラ、ホストクラブ、ソープランド、もちろんピンクサロンも。
それぞれに守るべき規則がある。
法によって個室の有無や、室内の明るさまで事細かに決められている。
規則を程々に破る程度では問題にはならない。
けれど規則を破っている事をお上が問題にしたら廃業。
悪くすると経営者や従業員の逮捕となる。
お上とは警察や消防の機関の事だね。
警察官や消防団員、
中でもスーツを着て職務をこなす人々からは度々話を聞く。
風俗店が行う地域に対する治安と安全の強化、理解への努力の話をね。
つまり彼らに対する接待の話。
性風俗業は、お上と仲良くしないとやっていけない商売だと言う訳。
儲けを得る為ならばどんな事でもする商売と言う事も出来るけれどね。
儲けの為ならば警察とだって仲良くするのが
性風俗を扱う商売を続ける秘訣と言う事らしい。
食事、贈物、割引サービス、時には人気の女性従業員を無料であてがう。


ピンクサロンには個室がない。
個室がある風俗店は新規営業の許可が下り難い。
個室があると言う事は店内で
通常より性的なサービスが提供されている事を意味しているからだ。
自分が住む街で売春宿が出来て喜ぶ人はあまりいないだろうからね。
ピンクサロンの室内は程々に明るい。
照明の光度を絞る風俗店の営業の許可もなかなか下りない。
理由は個室の有無と大体同じだね。
ともかくお上に申請、許可された営業形体がある。
ならばお上の顔を潰さない程度には規則を守らないといけないという訳。
信頼、面子、治安、相互理解。


広い部屋の中に幾つものソファーが置かれている。
幾つもの男が座り、幾つもの女の身体が絡んでいる。
幾つもの嬌声が聴こえる。幾つものにおいがする。
幾つもの汗、香水、精液、消毒席、整髪料、紙幣、アドレナリン。
騒がしい音楽の上に乗って僕の耳と目と鼻と皮膚に飛び込んで来る。
天井からはカーテンと呼ぶには薄く透明すぎる布が垂れ下がっている。
レースだ。紫、青、赤、橙、黄色の幾重のレースが
男女と男女の間を仕切っている。
赤いカーペット、黒い壁、中古のスピーカー、安い音楽。
微笑み、放心、愛想、倦怠、喜び、空虚。


紫のレースの向こうに「レッカー車」が見えた。
僕が見ているのは彼の後頭部だ。
彼の後ろ。良い位置だ。
僕は彼の事を観察できて、彼は僕の事が見えない。
表情は見えない。彼らの会話は聴こえない。
蠢く頭、揺れる肩、手首、指、髪、体毛、毛穴、
毛細血管、血液、神経伝達物質、β-エンドルフィン、快楽。


僕は自分の仕事運の良さに気を良くする。
すると人影が見える。影は僕の方に歩みを向けている。
女性がやってくる。僕の元に。
従業員、キャスト、風俗嬢、ピンサロ嬢、口、女性器。


女が歩く。腰を揺らす。手首にはカゴ。
中身は、幾つものタオル、ローション、ウェットティッシュ
笑顔。視線。彼女が僕の事を見つける。目が合う。
ハイヒールが鳴る音。髪を掻き上げる仕草。
僕の前に到着する。腰を屈める。


僕。男性。彼女。女性。性別。
彼女の微笑み。僕の微笑み。
髪の毛。衣服。タンクトップ。ショートパンツ。
肉体。胸。細い腰。脚。太もも。素肌。脚の付根。
きっと下着は付けていない。上下両方。
20代前半。
口紅。アイシャドウ。つけ睫毛。接着剤。ファンデーション。
よろしく。挨拶。隣に座る。
髪の匂い。身体のにおい。
体温。視線。発話。口。話。僕。君。
会話の始まり。


やぁ
初めまして、リナです、お兄さんはこのお店始めて?
そうだね俺は始めて、すごい、風俗嬢と客との会話みたいだ
あはは、だってわたし風俗嬢だよ、それとももっと清純にみえる?
俺は思うよ、
金髪のメッシュを入れている娘は外見的には清純とは言えないんじゃないかって
えー、この髪、わたしのお気に入り
内面は清純なのかもしれないけれどさ
そうだよ、わたし可愛いもの好きだもん
残念だけど可愛い物と清純は関係ないよ
えー、ちょっとー
髪型と色はリナちゃんに似合ってるとは思うけどさ
そうでしょ!
だってわたしのお気に入りだもの、こういう髪、小さな頃から憧れていたんだ
うん、可愛いよ
ありがとう、あ、リナって呼び捨てで良いよ
わかった
お兄さんフリーだけどわたしの外見は気に入ってくれた?
そうだね、マンモスみたいのが来たらどうしようかと思ったけれど、
俺は当たりを引いた見たいだね
じゃあ褒めてくれて嬉しいからチューするね


ごめん痛い
あん、ごめんねっ
いやごめん、俺この間、歯の治療をしたばっかりなんだけどさ
えー虫歯?
大丈夫、神経をちょいと抜いたんだよ
じゃあ敏感になってるのかな?
だね、治ったんだけどまだ痛いみたいだ、君の舌で触られても痛いなんて
だよね、わたしキスが上手だって良く褒められるんだ
だろうね、今も気持ちよかった
だからそっちの歯に触らない様にキスするね、うふふ、口開いて
ああ、でも


でも待って
え、わたし口臭いとか?
そんな事ないよ
どうしたの?
少し深刻な話なんだけど
え、お兄さん何か病気なの?
違うよ、待合室での事
なんだー、友達とでも合ったの?
上司とね
えー
遊びに来たのに上司と出会うわ、仕事の話されるはでさ
萎えちゃった?
だからキスよりリナと話をしている方が良いな、おかしい?
ううん、たまにわたし達にお説教をするだけのお客さんもいるから
説教だけで満足するのかな?
わたしが思うに、
ああいうおじさんは若い娘にお説教をして興奮しているのだと思う
俺は違うよ
大丈夫ー、萎えるって事、わたし理解しているよ
女性にしてはめずらしいね
このお仕事を始めてから分かる様になったんだ、
持ち直すのが難しいのよね?
年を取るとたつのも難しくなるけれど、たて直すのはもっと難しい
わたし頑張っている男の人の愚痴を聴くの嫌いじゃないよ、好きかも
それは良いね


だけど本当にお話だけでいいの?
いいよ
わたし、フェラ上手なんだよ、ゆっくり気持ち良く癒されるって評判
残念、次の機会に、萎えてない時に
次はわたしを指名してくれる?
是非
なんだかわたしおねだりしちゃってるね
女性が男に何かをねだるのは悪い事ではないよ
ありがとう、あとで名刺とお手紙書いて渡すからね
楽しみだ
次に遊びに来てくれた時に名詞を受け付けて渡せば指名料が割引になるから
それはすごいね


でも、この衣装、可愛くない?
可愛いね
タンクトップとショーパンだけでも可愛いけど、
わたし下には何も着てないんだよ
凄い
ほらータンクトップの上からでも少し乳首が目立ってるでしょ?
ああ
見る?すこし元気になるかもよ
リナは優しいね
お仕事だから、だってお兄さん折角お金払っているのに
いいんだよ
わたしのフェラ、気持ちいいよ?
それにわたしはおっぱいも結構あるんだよ、ほら手を貸して
本当だ

凄く柔らかい
でしょ、どうする、あっ
おっと失礼、少しだけ俺の気持ちも回復したのかも
そう?あ、本当だ、うふふ、結構固くなっているよ?お兄さん
うん
ズボンの上から触っても分かるって相当じゃない?
折らないでくれよ
うふふ


でもお兄さんはお話をする方が良いんだよね
そうだね
わかった、許してあげるね
俺はゆるされた?
わたしにもプライドはあるもの、満足したから
そうだよね、じゃあ離してくれる?
うふふ、良いよ


会社の人と外で会うってやっぱり嫌だよね
俺は嫌だね、特に仕事の話をされると
お兄さんのお仕事聞いても良い?内緒?
土地関係だよ、売る方の
えー珍しいよ
だよね
作る人は結構お店に来るけど
ああ
売る方の人はもっとお金が掛かるお店にいかない?
俺は薄給だよ、それにこういうお店で働く娘達は可愛いからね
デリヘルで働く娘、とかより?
どちらの娘にも良さはあるよね
お兄さん、結構遊び人?
どうかな
うふふ、なにそれ、うふふ


俺の仕事、最近は忙しくて
わたしには判らないけれど、大変な仕事なんだね
人が動き始める時期だからね
そっかー、そういう季節だね
住宅が売れれば次の土地が必要になるから俺の出番だね
わたしもこっちに出て来た時は大変だったなぁ
リナは東京生まれじゃないの?
うふふ
秘密?
うふふ、お兄さんがそういうなら秘密にしようかな?
気になるよ
うふふ、また遊びに来てね、その時に教えようかな
来るけど、結構営業上手だね、リナは
うふふふふふ


そういえばあの娘はなんて言う名前?
どの娘?
俺の目線の先に居る接客中の女性
えー、次わたしの事を指名してくれるって約束したのに?
彼女の顔が好みで
えー
お気に入りは何人いても問題ないでしょ?
それは、そうだけど
次は絶対にリナを指名するよ
うーん、仕方ないなぁ、彼女はヒナちゃんね、
後で貰えたら名刺持って来てあげるね
ありがとう
ヒナちゃん結構人気なんだよ
そうなんだ
今付いてるお客さんも常連さんだよ
へえ
お兄さん、これで満足した?
ごめん、リナ、怒らないで
怒ってないけど


ごめんごめん
約束してね?
指名?
指名
するよ
わたし、結構がんばってるつもり、
もう時間あまりないけどいまからしてあげても良いよ?
大丈夫
私上手だよ、次も指名したくなると思う
わかった、リナはがんばってるんだよね
生活も大変なの
次は指名するよ
そうして
さっきも君は東京に出て来て大変だと言っていたものね
私は親元から離れて東京に来たのよ
お父さんに反対されたパターンとかかな
お兄さん、それ、正解
だから大変なんだね
そうなのよ


別に君を馬鹿にする訳ではないけれど
うん
リナの年齢で独り立ちするのは苦労したのだろうね
うん、だからここで働いているの
そうなんだ
色々あったのよ
色々試してみた?
ええ
そっか
田舎から出て来ると大変、就職に有利な物も持っていなかったし
そうなんだ
今日お店に来る前にね、駅の前って飲み会の大学生とかが集まってるじゃない
だね
ああいうのを見るとイライラする
分かるよ
五月蝿くて、馬鹿みたい、私はああいうの嫌いなの
うん
ああいうのがお客になる時もあるのよ
そうだよね
その時はいま私がこいつのペニスを噛み切れば、
こいつは死んじゃうのになって思う事にしているの
いい、考えだね
なのに惚けた顔で私にフェラをされてる馬鹿みたいな男
確かに
あ、お兄さんが馬鹿って言う訳では
でも馬鹿な男は多いよね
うん、私の父親とかね
お父さん?
説教だけして帰るおじさんみたいな父親
そっか、嫌で東京に出て来た?
それもあるかな
そっか
しつこいのって嫌だよね
ん?
東京まで追っかけて来たんだよ
お父さんが?
店にも来た
それは嫌だね
そうなの、すごく嫌だった
嫌だね
とっても嫌
嫌、だね
嫌な父親
それはリナも東京にも出て来たくもなるだろうね
おとうさんね、私が無理矢理ここで働かされてるって思ってた
そうなんだ
私を田舎に連れて帰ろうとして
ああ
娘を救い出すヒーロー気取りだったと思う
うん
全然違うのにね
違うよね
昔の人で、独善的な人だから、だからね私は言ってあげたの、
私は自分の意志でこのお店で働いているし、
この仕事も自分で選んだんだからもう構わないで、
私はもう1人で生きる事ができるから早く出て行ってって


うふふ、あの時の父の顔は忘れられないよ
そっか、大変だったね
生活は大変で、疲れる仕事だけれど、
私は自分の選択は間違ってないと思ってる、こうやってお兄さんとも出会えたし
ははは
なんかわたし語ってるね
良いね、自由というのは大切だよ
そうかな?
お父さんから離れたかったんだろう?
うん、自由は大切ね、私あの時は思っていたもの、
自由が本当にあって、自由になる希望もあるなら、
希望に対して自分の体くらいなら幾らでも賭ける事が出来るって
良い言葉だね
ええ、私は胸を張ってそう思っているもの
俺の目にはいま君がすごく楽しそうな顔をして映っているよ
それはそうだよ


だってあの時が私の人生の中に一度だけ訪れた最初で最後の、
父親に勝てた瞬間だったのよ




//※//


続きはこちらです
「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 2ページ目」
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20141230/1419887618





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【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】獣共こうしてまだ見ぬちに吼えるのだろう?/後編


【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】
獣共こうしてまだ見ぬちに
吼えるのだろう?/後編
前編はこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140403/1396476779



仕事をこなす為に事務所を横目に歩き出す。
目的地に向かわなくては。
キャバクラとアダルトDVD販売店が同居するビルを通り過ぎる。
ライブハウス、外で屯する若者達の前を通り過ぎる。
潰れた古い居酒屋と取り壊し中のゲームセンターを通り過ぎる。
八王子も少し前までは郊外の古い街と言った感じだったのだけれど
駅ビルの再開発、新しいショッピングビルや複合施設の誘致の成功、
住宅街だった南口の繁華街化により一気に新しさが増した。
駅周辺で遊ぶ若年層の数が大幅に増した。
新しくなる事が良い事なのかは分らないけれど
街に活気があるのは悪い事ではないはずだ。
とは言っても駅ビルや周辺のデパートにやってくる若者は
この辺りにはやってこない。
駅の改札口から徒歩3分程度の距離だと言うのに。


車の通る十字路を通り過ぎる。
脇にあるタバコ屋の店前にある喫煙所に
居酒屋や風俗店の呼び込みが集まって煙草を吸っている。
仕事前なのだろう。
ホストとその客が通り過ぎる。同伴出勤だ。
風俗紹介所とキャバクラを通り過ぎる。
熟女パブと書かれた旗が風になびく。
ピンサロを通り過ぎる。ベトナム料理屋を通り過ぎる。
高級クラブ、鉄板焼き屋、懐石料理屋を通り過ぎる。
ガールズバー、フィリピンパブを通り過ぎる。
若い男がティッシュを配っている。
ティッシュの裏にはピンサロの割引券が付いている。
もう少し時間が経てば、店の黒服が客の呼び込みを始める。
彼らはある通りから外には決して出ない。
呼び込みをする曜日は決まっている。時間帯も決まっている。
あの事務所がそれらの細かいルールを取り仕切っているのだろう。
歩く。十字路に出る。ここまでが彼らの領域だ。
その先は表通り。駅前の商店街だ。
商店街に出ると辺りを歩く人の雰囲気が一気に変る。
賑やかで楽しげな声が広がる。
マクドナルド、喫茶店焼肉屋を通り過ぎる。
ダーツバー、ラーメン屋、マツモトキヨシ
八百屋、魚屋、お茶屋を通り過ぎる。
カラオケ屋、ドンキホーテを通り過ぎる。
そして目的の場所に着いた。
店には大勢の客が並んでいる。


ボスから指示されてやってきたのは
八王子名物、絹まんじゅうを販売する和菓子屋だ。
店頭で饅頭を売っている。
絹まんじゅうはここでしか買う事が出来ない。
その名前は八王子が昔シルクの名産地だった事に由来している。
なんでも徳川家康の時代から将軍に絹の織物を献上していたと言う。
絹まんじゅうは絹の様な艶やかな光沢のある白地の皮に
白あんをつつんだ一口サイズの平たい丸形をした饅頭だ。
和菓子を好まない俺でもそれなりに旨くは感じる。
だから一般的には美味しい菓子として理解されているはずだ。


列の最後尾に並ぶ。
ボスから言付けられた緊急の案件は絹まんじゅうを購入して、
現在ボスが出向いている取引先の社長宅に持って行く事だ。ひどい雑用だ。
いくら人手が足りなく今動ける人間が俺しかいないとはいえ
こちらも通常の職務に精一杯の力を出して
取り組んでいたのだから酷い話しだ。
それが普段任されている遺体の解体という
専門的な仕事とはまったく関係の無いのが余計に腹が立つ。
客の列を眺める。長い。とはいえ休日程の数ではない。
土日はこの倍の人数が店先に並んでいる。
これくらいならばあまり時間もかかりそうに無いかな。
この雑用を終えて急いで職場に戻る。
頑張れば夕食前には仕事が終わるはずだ。


しかしいくら急いでいるとはいえ列に割り込む訳には行かない。
だから今は慌てても仕方がないと周囲を見回す。
街の様子を見る。
時間帯的に帰宅途中の社会人はあまりいないけれど
下校途中の高校生や大学生の楽しそうな声が辺りを満たしている。
場所柄これから出勤と思われる人達も見る事ができる。
八百屋や魚屋の掛け声。今日はキャベツと鯖が安いらしい。
賑やかなのは結構好きだ。
だから職場が山間にあって
人と顔を合わせる事が極端に少ないのは寂しいと思う。
けれどそれは仕事なのだから仕方のない事なのだろうと考える様にしている。
自宅は職場へも駅前にも15分程度で行ける場所にある。
なのでその気になれば就業後や休日に
人で賑わう所に出掛ける事が出来るのが救いだ。


端末を取り出して彼女からメッセージが届いていないか確認する。
残念。無い。
饅頭屋の向かいにある洋服屋を見る。
女性服の専門店だ。
ちょっとしたデパートのワンフロア位の大きさがある。
建物は新しいけれど店自体は昔からここにあったのだろうなと思う。
客層は大学生くらいの子から主婦まで幅広い。
店頭には春用のコートが並んでいる。
生地が薄く軽やかな印象だ。色も様々。
ベージュや白と黒、ピンクに花を思わせる柔らかい薄い黄色。
その隣に赤色のコートがある。
派手な赤さと言うより落ち着いた深い赤色だ。
彼女にはこういう色が良く似合う。
その隣の深い青色のコートにも目に行く。
ここ数年流行っている、青に黒や紫が入った様な紺を明るくした様な色だ。
こちらも彼女には良く似合うだろうな。
想像して嬉しくなったので
彼女にこのコートをプレゼントしようかと思う。
喜んでくれるかな?喜んでくれるだろうな。
そう結論を出した所で、プレゼントしようという気持ちがなくなった。
彼女は服装にこだわりを持っているタイプだ。
俺が良いと思った服を、彼女が良いと思うとは限らない。
そして、彼女はそれとはまた別の所でとても優しい。慈愛さえ感じる程だ。
だから彼女の好みではない服をプレゼントしても
彼女は喜んでくれるだろう。無理をして着てもくれるだろう。
そんな風にして気を使わせてしまっては忍びない。
彼女はどんな物でも喜んではくれるだろうから、余計に辛い。


そんな事を考えているうちに列が進む。
自分が購入する番になる。
絹まんじゅうを310個注文する。
大抵の人はこんなに多く購入しない。
おやつとして10個や20個、
お土産として50個買うくらいだろう。
それに比べれば310という数は多いのだけれど、
そこまで珍しい注文という訳ではない。
今の俺と同じ様にある種の土産や来客用の茶請けとして
大量に購入する八王子の企業は多い。
だから電話で予約などせずとも購入する事ができる。
代金を払い領収書を発行してもらう。
近くに車を止めてある事を告げると、
店員が車まで饅頭を運んでくれた。礼を言う。
コインパーキングの料金を支払い、車を出す。
目指すはボスがいる、取引先の社長宅だ。





アクセルを踏み込み繁華街から離れる。
多摩川の支流である浅川に掛かる橋を渡る。
住宅街の小道に入る。
しばらく進むと更に道幅が狭くなる。
坂道になる。
傾斜がかなりキツい。車に乗っていても後ろに身体が引っ張れる様だ。
この急な坂道はここがかつて山であった事の名残だ。
その先は山の上にある閑静な住宅街になっている。
見晴らしも素晴らしい。
最も良い景色が見られるであろう場所に建っている邸宅は
誰もが知っている演歌歌手の自宅だ。
年末のNHK紅白歌合戦の最後の方に彼が出て来るとこの家の事を思いだす。
天気がよければ駅前からでも、
山頂の前面にそびえる彼の邸宅を見る事が出来る。
その数軒先に目的地の社長の家が構えている。
景色が良いとはいえ、周囲に店も無く、交通の弁も悪い不便な場所だ。
実質このキツい坂道しか住宅街への入り口が無い。
だけれど、不便さこそがここを静かにしている。
入り口が1つしか無いのも防犯の面から見れば悪く無い事なのだろう。
芸能人や業界の社長に取って防犯は重要な物のはずだ。
自宅にいるのに気が休まらないのはどんな人であっても苦しい事だろうと思う。


演歌歌手の邸宅を通り過ぎ社長宅の前に車を止める。
見晴らしでは負けるとはいえこちらも立派な住宅だ。
ボスに電話をするとすぐに玄関が開く。
取引先側の若い者が2人出て来た。
彼らに丁重に礼を言われる。
饅頭が詰まっているトランクを開けると、彼はそれを素早く運び出した。
少し遅れてうちのボスが玄関から出て来る。
ボスは俺の顔を確認して、社長の絹まんじゅう好きには困った物だと笑った。
俺もまったくですと笑う。
ボスが頷く。これでまた取引が上手く行くだろう。
助かった。ありがとうと俺を労う。
俺は苛つきを隠して、仕事ですからねと微笑んだ。
領収書をボスに渡す。
ボスは金額を一瞬確認しただけで、
領収書を自分の財布にしまい紙幣を取り出す。
領収書に書かれている額より大分多い。
ありがとうございますと言って素直に金を受け取る。
そして本業に戻る事が許された。
仕事は順調ですよ。
そう言った後、車に乗り込んでアクセルを踏み込み急いで職場に戻る。
バックミラーを見る。
ボスはゆっくりとした足取りで社長宅の中へと戻って行った。


途中で長い信号に掴まる。
助手席に放っておいた絹まんじゅうの包みを破り中身を取り出す。
1つ口に投げ入れた。
店で購入した310個のうち10個は自分用に購入した物だ。
旨い。
バックミラーで見たボスの背中を思い出す。
小間使いを任せられる舎弟でも雇えばいいのになと思う。
それすらも厳しい程、組織には予算がないのだろうか?
無いのかも知れない。
まあ俺が考えても仕方の無い事なのかもしれない。
俺が考えるべき事は自分に任されれた仕事の事で、
予算や人事を考える事はボスの仕事だ。
苛つく心を落ち着かせようとする。早く彼女に会いたい。
ボスにはもっとしっかりと自分の仕事をこなしてもらいたい。


山を上って行く。陽が傾き始める。
職場に戻って来た。
駐車場に車を止めて降りて鍵を掛ける。
早足でエントランスに向かい鍵を開けて入室する。
振り返って鍵のツマミを回して施錠する。
休憩室のソファーに上着を投げる。
流しの蛇口を捻る。水で顔を洗う。タオルで拭う。
コップを取って水を入れる。一杯を一気に飲み干す。
蛇口を閉めて早足で地下に向かった。
仕事の再開だ。


手袋。ゴーグル。
鉈を握って腋から肩甲骨を斬り砕く。
人間の腋には上腕骨と肩甲骨と鎖骨、合計3本の骨が通っている。
なのだけれど、脇の下から刃を入れる事で、
それらの骨の細い部分の纏まりを砕く事が出来る
つまり関節だ。関節は骨の細い部分同士が組み合わさる事で出来ている。
だから簡単に腕を胴体から切り離す事が出来る。
腕を切断している途中、
俺の顔に観音扉の様に切り開いていた遺体の腹部が鈍い音を立てて当る。
ゴーグルはやはり必要だ。


そして片腕が胴体から離れた。
腕の切断面に肩甲骨と鎖骨の一部が付いているので
まずそれを抜き取る。膜を削いで骨用のポリ袋に入れる。


新しいポリ袋を用意する。小さな物だ。
メスを持って指の先端、爪の裏側に刃を当てる。
一気に押し込む。爪が肉と共に指から剥がれる。
刃を上に向けて爪と肉を指から切り離す。
爪の裏側、指の肉には毛細血管や神経が無数に伸びている。
切り離した爪の裏側に肉と共にそれらがこびり付いる。
刃物で削る様に切り離す。ポリ袋に入れる。
爪を傷つけない様に肉だけを取り除く細かい作業だ。
爪と肉が混ざっては解体の意味が無い。
それに自分の指を傷つけてはいけない。
綺麗に肉と神経を切除出来たら、爪は専用のポリ袋に入れる。
この作業を残り4回繰り返す。
こうして片腕に生える爪の処理が終わる。ポリ袋に入れる
爪は反対側の腕にも両足の指にもあるので、
後15回同じ作業を行わなくてはならない。
だけれど細かい作業は得意なので苦にはならない。
問題は時間だ。急いでしかし確実な作業を行えば、
今日の夜は彼女と一緒に美味しいご飯を食べる事が出来るはずだ。
急ごう。


この様に腕はその先端である指から処理をして行く。
爪を剥がしたら次は手を腕から切り離す。
切り離すため手首と呼ばれる部分を切断する。
鉈を振り落とす。だが中々手首が切れない。
肉を鈍く切り、骨に当って歯が跳ね返る。
切れ味が明らかに悪くなっている。おかしい。
刃はこの間研いだばかりだと言うのに。
なぜ急激に切れ味が悪くなったのか。
この女の肉が堅いのが原因だろうか。
いらつく。トラブルはもう勘弁してくれよ。
まあ鉈は予備を用意してある。
刃を研いでから一回も使っていない物だ。
それを予備にしている理由は、
そもそもの切れ味が今使っている鉈と比べるとあまり良く無いからだ。
だがいくら良く無いと言っても、
切れ味が落ちてしまった刃とは比ぶべくもない。
道具棚から予備を取り出す。
性能が劣るとはいえ、予備がある事は良い物だな。
無いとあるとでは仕事の進み方が大違いだ。


手は27個の骨で構成されている。
そのうち19個は指を形作っている。
20ではないのは、他の指と違って親指の骨が1つ少ないからだ。
残りの8個の骨は手首の関節、手関節を作っている。
手関節はアーモンドの様な形をしている。
そのお陰で手を前後に倒す動作をする事が出来る。
夏に団扇を扇げるのは手関節のお陰だ。
因にくるくると手を回す動作が出来るのは前腕の骨のお陰だ。
幼稚園のお遊戯の時間、きらきら星の振り付けが出来たのはこっちのお陰だ。
前腕の骨は2本ある。
その内の1本が関節の8個の骨を受け皿の様にして受け止めている。
前腕骨の上に手関節が、手関節の上に指があるという訳。
2本の前腕、8個の関節、19の指。手の周辺を構成する骨の数だ。
前腕と手、骨と骨の間、関節の間を狙って鉈を振り落とす。
これが一番手首を切断し易い方法だ。
この仕事を始めた当初は
手足を切断するのに苦労したが今ではお手の物だ。
関節の間にある筋肉を狙って切り裂いて行く。
そして腕から手が外れる。
予備の鉈は十分に使えそうだ。


鉈をメスに持ち替える。
指と指の間、手股(たなまた)にメスを入れる。
手関節の骨に当るまで刃を進めて指と手の平を切り裂いていく。
親指の内側を沿う様にメスを入れると
手関節を作る8個の骨の1つ大菱形骨に当る。
名前の通り菱に近い形をしている。
親指を形作る3つの骨の中で1番長く1番下に有るのが中手骨だ。
中手骨と大菱形骨の間にメスを入れ力を込める。
親指が手の関節から外れる。
同じ手順で他の指も切り離す。
人差し指と小菱形骨との間にメスを入れて関節から切り落とす。
中指は有頭骨との間にメスを入れて関節から切り落とす。
薬指と小指は有鈎骨との間にメスを入れて関節から切り落とす。
有鈎骨は手首を作る8個の骨の中では大きい方で、
薬指と小指の中手骨が付いている。
切り落とす。


こうして腕から切り離した手を5つの指と手首に分解した。
休憩を入れずに仕事を急ぐ。彼女に会いたい。
切り離した指を処理する。
鉛筆の先をカッターで削る様に、
爪の無い指先の肉をメスを使って削り取って行く。
指は4つの骨で作られている。親指だけ3つだ。
爪の付いている先端の方から
末節骨、中節骨、基節骨、中手骨と呼ばれている。
そのうちの上3つの骨が手の平から飛び出ている指を形作り、
残りの中手骨が手の平を形作っている。
中手骨を握りメスで末節骨に付いた骨や膜を削り続ける。
肉をポリ袋に入れる。
中節骨、基節骨、中手骨も同じ処理を施す。
短くなる程に削るのが難しくなるのは鉛筆も指も同じだ。
焦っているが丁重な仕事をしなくてはならない。いらつく。
肉をポリ袋に入れる。
5つの指全てを処理する。
骨に付いた膜も削る。綺麗にしたら骨用のポリ袋に入れる。


指の処理が終わったら次は手関節の8個の骨と肉を解体する。
8個の骨はそれぞれに形が違い、角張っている。
それらをメスで1つ1つ切り離して周囲の肉や膜を削いで行く。
処理に時間が掛かる部位の1つだ。
時計を見る。苛つき焦るが、丁重な仕事をしなくてはならない。
まったくボスからの急な仕事がなければ、
それでも余裕を持って作業を出来たはずなのに。
焦りながらメスを握る。
そこで何かが心に引っかかった。
なんだろう?上手く言葉にできない。
3秒間だけ作業の手を止める。考える。
わかった。心に引っかかった作業手順の新しいアイデアだ。


仕事のアイデアと言うのは面白い。
真剣に悩んで答えに辿り着く事もあれば、
一心に作業をしている時に不意に新たな方法が思い浮かぶ時がある。
メスを置く。
抜歯の時に壊れた鉗子の代用品として使ったペンチを手に持つ。
左手に手関節を持つ。
右手で持ったペンチで8個の骨の1つ、舟状骨を挟む。
舟状骨は前腕の骨と繋がっている。
腕と繋がっている手関節の骨は2つある。
大きい方が舟状骨だ。
力を籠めて手関節とペンチを引き離す。骨が抜けた。
成功だ。皮膚や肉が付着したままの舟状骨がペンチに挟まっていた。
メスでいちいち切り離すより、こちらの方が遥かに作業時間が短い。
なんで今までこの方法を思いつかなかったのだろうか?
それも抜歯鉗子が壊れなくては閃かなかっただろう。
自分の頭の固さに呆れる。
同時に作業の時間が短縮する事を喜んだ。
残りの骨も切り離す。


舟状骨の隣の月状骨をペンチで挟む。
骨と肉と皮膚を纏めて関節から切り離す。
もしかして同業者ならば誰もがやっているテクニックなのかもしれないと思う。
業界にマニュアルの様な物が無いのが残念だ。
あるいは業界誌の様な物があれば作業方法やアイデアの伝播、
その学習と検討により各人の技術は大幅に上がっただろうと思う。
月状骨の隣の三角骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
マニュアルは便利だなと思う。
有効な作業方法を明文化し伝える事が出来る。
マニュアルは行動の単純化
規定外の事体への対応の硬化などデメリットがあると言われている。
でも、あれはきっとそのマニュアルの質が低いからだろう。
三角骨の隣の豆状骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
手関節の8個の骨は2段になっている。
下段上段4つずつの2段だ。
豆状骨を切り離した事で1段目の骨と肉と皮膚、
腕と繋がっていた部分の全て切り離した事になる。
以前、知人とマニュアルに付いて話した事がある。
彼女は保険のコールセンターに勤めている。
仕事の中でもっとも重要なのはマニュアルを覚える事だと言っていた。
それは彼女の職場がマニュアルの改訂を頻繁に重ねるからだ。
良いマニュアルと悪いマニュアルはここで分けられる。
改訂をするかしないかだ。
手関節の2段目、指と繋がっている骨の抜き取りにかかる。
親指と繋がっていた大菱形骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
マニュアルの改訂をすると言う事は対処する物事の範囲を広げ
既存のマニュアルにあった不備を補うという事だ。
マニュアル想定外の事が起こったら
正しい対処をマニュアルに載せれば良い。
マニュアルを使う事で対応が硬化するのは改訂をしないからだ。
融通が利かないのはマニュアルが古いままだからだ。
大菱形骨の隣の小菱形骨をペンチで挟む。
骨と皮と肉を関節からもぎ取る。
改訂をすればするほどマニュアルの強度は上がり正しく役立つ物になる。
マニュアルが商売に関する事ならば利益が増え、
人を救う事がならば生存率が上がるだろう。
例えば、人工呼吸の方法を学ぶ事はそれについてのマニュアルを覚える事だ。
人工呼吸の方法は10年前と今とでは変わっている。
小菱形骨の隣の有頭骨をペンチで挟む。
肉と皮膚と一緒に関節から切り離す。
これで8つの骨全てがばらばらになった。
昔、キリスト教の教役者と話しをした事がある。
ある質問をした。
宗教の教えを広めるのには聖典だけで事足りるんじゃないか?
人を救うのには神の言葉である聖典だけがあれば十分なんじゃないか?
あなたの存在は不必要なんじゃないか?
教役者はこう答えたんだ。
聖典の言葉を今に適した物に、
現代の状況に適した物に置き換える必要があるのです。
怒られそうだったから言葉にはしないけれど、
宗教の聖典という物は
質の良い生活をする為のマニュアルなんじゃないかと思った事がある。
それなら教役者の言葉ってのはマニュアルの改訂って事になるんじゃないか?
坊さんにも同じ様な事を訊いた事がある。
返って来た言葉は
あんたが経を読めても意味まではわからんじゃろ?だった。
確かにそうだ。
マニュアルという物は読む者に理解出来る様に書かれていないと意味が無い。
ペンチを刃物やヘラに持ち替えて、
解体した手関節の骨に付いた皮を剥がして肉を削いで骨膜を削って行く。
ポリ袋に入れる。
まあこの仕事に就く人間は守秘義務が課せられている様な物なので
マニュアルなんて物は作れないけど。
綺麗になった指の骨は骨用のポリ袋に入れる。
これで片方の手を完璧に解体した事になる。
やっと終わった。小さく溜め息を吐く。
時間は過ぎて行く。
だけれど、新しい方法を試した事で大幅に時間を短縮出来た。
このままの勢いで行こう。次は腕、前腕だ。


肘から手首の間を前腕と呼ぶ。
前腕は橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)という2本の縦に長い骨、
そして周りに付く筋肉で出来ている。
2本の骨は合わさってアラビア数字の【0】の様な形をしている。
あるいは鍵括弧か。
親指の方にを通るのが橈骨で小指の方にあるのが尺骨だ。
気を付けをした時に前に来るのが橈骨で後ろに来るのが尺骨だ。


橈骨は手関節の8個の骨を受け皿的に支えている。
尺骨は手関節と繋がっていないが、
反対側では上腕骨と連結している。
上腕とは腕の肩から肘までの部分の事だ。
上腕骨は上腕を形作る1本の長い骨の事だ。
上腕骨の先端は丸い。
尺骨は上腕骨先端の丸みをひらがなの【し】の様な形で支えている。
この構造があるから人は肘を回す事ができる。前腕を内側に曲げる事が出来る。
反対にこの構造だからこそ前腕を外側に倒す事が一切出来ない。
【し】の長い方の縁が前腕が外に行く事を止めている訳だ。
手関節の受け皿が橈骨で上腕の受け皿が尺骨だ。


腕を伸ばしている時、
尺骨と上腕骨は1本の骨の様に密接し肘は平らになっている。
このままでは肘に刃を通す事は難しい。
前腕を90度に曲げると肘が出っ張る。
繋がっていた尺骨と上腕骨が僅かに離れる。
女の腕を曲げようとする。
硬直が残っているので簡単には曲がらない。
力を籠めえてゆっくり曲げて行く。
勢い良くすると肉の中で骨が砕けて処理が面倒くさくなる。
少しずつ力を加えて折らずに肘を曲げる事ができた。
肉の離れが悪いとはいえ、硬直その物は溶けかけている様だ。


出来た肘の隙間に刃物を入れる。
入れるのは肘の内側からだ。
肘の内側には腱や血管が通っている。
触って確認しても、見ても目で確認しても分かる。
まず肌を裂いて、その下の管を切断して行く。
筋肉や血管の名称や構造に付いてはあまり詳しく無い。
担当している仕事が骨の処理に重点を置いている事が多いため、
骨の各部位の名称や構造は覚えた。
たまに筋肉の事についても勉強した方が仕事が捗るだろうか?
と考える時もある。
だが日々の忙しさにかまけてつい勉強を後回しにしてしまう。
日々の忙しさとは、例えば今現在の事だ。
そして今日の就業後の時間を勉強より彼女の為に使う事を言う。


皮膚は裂き管を切り、
関節の肉を削いで行く。
こうして上腕から前腕が外れた。
前腕事体の処理はとても簡単だ。
薪を斧で割る様な物だ。


鉈を前腕の橈骨と尺骨の間にめり込ませる。
鉈を入れるのは上腕との関節側の方が良い
手首との関節ではないのには理由がある。
手首側の関節は橈骨の先端が平らで地面に立て易い。
上腕側は尺骨が尖っているので地面に立てる事が出来ない。
だから前腕に鉈をめり込ませるなら上腕側の関節が良い。


あとは薪割と同じだ。
鉈を握り、刃がめり込んだ前腕を持ち上げて床に叩き付ける。
前腕が2本の骨と肉に別れる。
後はそれぞれを処理すれば良い。
皮膚と肉と骨膜を削いで行く。
切り落とした肉は肉用のポリ袋に。
骨は骨用のポリ袋に入れる。
大きい骨だけに時間は掛かる。


残るは上腕だ。
上腕には1本の骨しか通っていない。
それが上腕骨だ。
作業は単純だ。骨に付いた肉と膜を切り落とす。
それだけだ。
前腕との関節から筋肉をめくる様にして切り落として行く、
上腕骨も前腕骨と同じ様に大きいので時間が掛かる。
肉と膜を削ぎ落とす
切り落とした肉は肉用のポリ袋に。
骨は骨用のポリ袋に入れる。


片腕の処理が終わった。
この作業自体には予定より時間が掛かっていない。
良い事だ。これなら彼女との夕食に間に合う。


2つのポリ袋に肉と骨が入っている。
中身がポリ袋の外に溢れ出さない様に、
袋の入り口を持ち上げてコンテナの底に軽く叩き付ける。
中身を均して行く。
肉は音を立てずに、骨は硬い音を立てて袋の隅々に落ちて行った。


手袋をゴミ箱に捨てて、新しい手袋付ける。
コーヒーカップに湯を入れた。
手袋を交換すれば水分をとるのに一々手を消毒する必要が無い。
便利だ。湯を飲む。喉が潤う。




直ぐに次の作業に移れば良いのは分かっているのだが、
彼女から新しいメッセージが着ていないか確認してしまう。
清潔な手袋をつけた手で情報端末を握る。
着ていた。




  「お仕事頑張ってる?頑張らなきゃだめだよー。
   今日は互いを愛する恋人達にとって大切な日なんだからね。
   私達もそうなのだから、一緒においしいご飯を食べようね。


   でも分かってるよ。あなたは仕事には熱心だって。
   でもだからこそ心配になる事もあるよ。
   お仕事も大切だけれど、のめり込み過ぎは良く無いよ。
   それで身体を壊して得る物なんて何もないよ。
   もちろん、さぼって遊んでいるのもダメだけれど。
   その真ん中くらいが一番良いじゃない?
   それが一番健康な生活で、色々な発見や幸せを見つけられると思う。
   私は最近そう思うの」




彼女の考えの深さにはいつも感心させられる。
あなたの言う通りだと思うよと返事を書く。
仕事のトラブルはあったけれど、
なんとか夕食には間に合いそうだと続ける。返信する。
間に合わせてやる。
自分の心に言い聞かせて、仕事に集中しようとする。
その時、着信音が鳴る。
彼女からだろうか?
一瞬期待するがこの時間それはあまりにも珍しい。
だったら。画面を見る。やはりボスからだ。
用件は何だ?
悪い予感しかしない。今度はなんだってんだよ。
通話音がなり続ける。
このまま無視してやればいんじゃねえかという考えも浮かぶ。
まあ、そんな事をする訳には行かない。仕事だ。
通話開始のボタンを押す。すいません、丁度手を離せない所でした。
ええ、もう大丈夫です。何かありましたか?


予感は当った。泣きっ面に蜂ってのは正しいな。
仕事が変った。今日はトラブルが多すぎる。
端末をこのまま床に叩き付けたくなる。
まあ、そんな事しても自分が損するだけだからやらねえけど。


顧客からの依頼内容が突然変更になった様だ。
依頼は最初、遺体を解体する事だった。
遺体を解体して完璧に消す事だった。
変更された仕事内容は片脚を出来る限り完全な状態で保存する事。
片脚とは歯車が埋まっている方の脚の事だ。
歯車も脚に埋め込んだままでとの指示がでた。


まったく、完璧な状態って言われたって
脚にフックを掛ける為の穴を開けちまってんだけどなー。
依頼主も馬鹿じゃねえの。
脚が欲しいなら最初からそれくらい決めておけよ。
溜め息。まあ片足を解体せずに済む分、
作業時間は減ったって事だけどさ。
これで仕事が増えていたら流石に冷静ではいられなかっただろうな。
まったく。


内臓と頭と片腕が無い逆さ吊りの遺体を眺める。
これ、片足をフックから外して大丈夫かな?
だめだ。片足で身体を支えるには無理がありそうだ。
フックを1つにした瞬間、
脚が胴体の重みで千切れてしまうんじゃねえかな。

鉈を握って残る片腕を遺体から切り離す。
これで少しは遺体が軽くなる。
でもやはり1つのフックで身体を支えるのは不安だ。
作業の途中でフックから遺体が外れて
その下敷になるのは気持ちいい物ではない。
その時遺体の何処かが折れでもしたら後の作業が複雑になる。
1本では遺体の揺れ大きくて作業がし難くなる。
やはり脚に刺さるフックは2本なきゃだめだって事だ。
困ったもんだ。
困ったのだが困っていても仕方が無いし、
解決策は1つしか無い。
道具棚から電動ドリルを取り出す。繋がっていたコンセントを外す。
朝、遺体を吊るす為に使ってその後バッテリーの充電をしていたんだ。
充電していなきゃバッテリーが切れて、
今こうして使う事はできなかったかもしれない。
丁重な片付けと準備は大事だなと実感する。
残す方の脚のかかとに電動ドリルを使う。
フックを通す為の穴をあける。
かかとに刃を当ててドリルのスイッチを押す。
ゆっくりと押し込んで行く。
皮膚や肉が飛ぶので顔を背ける。


歯車が刺さっている方の脚をフックから外す。
フックはかかとに刺さっている。
普通はフックをふくらはぎに刺すのだが
そこには歯車が埋まっている。だからかかとに穴を開けた。
ゆっくりと脚を移動させる。フックから脚を抜く。
手に重みが伸しかかる。歯車は重い。
脚と歯車を身体の前側。本来頭があるべき場所に置いた。
とても重い。
まったく君は生前になんでこんな物を身体に埋め込まれてしまったのだろう。
宙に浮かぶフックをもう1つの脚、開けたばかりの穴に掛けた。
上手くいった。問題は起こっていない。


しかし安心している暇はない。
保存するべき脚を切断しなくちゃならない。
脚は太ももの大腿骨が骨盤に繋がる事で胴体に繋がっている。
具体的には大腿骨と繋がるのは
骨盤を形成する骨の1つである寛骨(かんこつ)だ。
そこが股関節と呼ばれている部分だ。
日常的に体重が掛かる部分なので丈夫に出来ている。
丈夫と言う事は関節を外すのにも苦労すると言う事だ。
まったく苛つくな。
ここを解体するのには太ももの内側、内股の方から刃を入れる。
その方が切断し易い。


刃を股に入れて行き骨盤に当てる。
そこから刃を骨盤に沿う様に進めて行く。
こうするのは大腿骨の先端が丸く
寛骨の一部がその受け皿になっているからだ。
その皿が底が深いからだ。
刃を内股から一直線に外側に入れても、
脚は腰から切り離せない。
大腿骨の丸い関節に沿う様に刃を通さなくては行けない。
股関節の周りの肉に切れ目を入れる。
大腿骨と寛骨の間に刃を入れる。
肉を削ぎと取る。ポリ袋に入れる。
刃物を置く。
両手で太ももを持つ。力一杯引き抜く。
脚が胴体から離れる。


溜め息。
仕事の急な変更は進捗に対する影響の大小関係無しに
精神的に良く無い物だ。
だが、それも終わりそうだ。
あとは保存用のクーラーボックスに脚を入れて、
中に保冷剤を放り込めばいい。
備え付けの収納からクーラーボックスを取り出す。
折りたたみ式コンテナの脇に常備してある。
硬直が溶け始めている脚の膝を曲げて中に入れる。
冷凍庫を開けて保冷剤を取り出す。
そこで背中に冷や汗が流れた。終わっている。
すっかり保冷剤を切らしていた事を忘れていた。
俺はどれだけマヌケだというんだ。
内臓を入れたコンテナに使用した物で最後だった。
保冷剤を注文した業者の配達はまで来ていない。終わっている。
あの業者は2度と使わない。
なにが冷静だと自分の馬鹿さ加減をあざ笑う。終わっている
あせる。どうしよう。
肉体は一度胴体から切り離すと切断面から急速に痛んで行く。
どうしようもこうしようもない。迷っている暇はない。
手袋を脱ぎ捨てる。
30kgはあるだろう歯車を埋め込まれた脚を両肩に担ぐ。
階段を上がり地上に出る。休憩室に入って脚を一旦ソファに置く。
冷蔵庫の一番下の棚、冷凍庫をあけて中身を取り出す。
冷凍された魚、冷凍された肉、コーヒー豆が入ったパック。
全てを取り出す。冷凍庫の中を空にする。
膝を折り畳んで冷凍庫に入れた。閉じる。
こうするしか選択肢は無かった。
冷凍された食品は全て冷蔵庫へと移した。
地下に戻る。ゴーグルを外す。
クーラーボックスを持つ。
1階に戻り車の鍵を持って外に出る。
クーラーボックスを車のトランクに突っ込む。
車に乗り込んでアクセルを踏み込む。
氷を手に入れなければならない。
俺の仕事は遺体を解体する事じゃない。
解体して回収出来る状態にしておく事だ。
仕事は言われた通りにこなさなければならない。
氷を手に入れなければならない。
山々は夕暮れに包まれている。
彼女の事を思う。これは時間に……。


周辺の民家を尋ねて氷を分けて貰おうか。
そんな怪しい行動をする訳にはいかねーんだけど。
坂道を下り切る。赤信号で止まる。
交差点にある弁当屋を横目で睨む。
今程ここのコンビニが潰れた事を残念に思った事は無い。
コンビニならば大量の氷が売っていたというのに。
夕日の赤さと赤信号の光が車内に入る。
ハンドルを握る俺の手を赤く染めている。
なかなか青にならない。手は赤いままだ。
信号が切り替わったのを見て車を発進させる。
秋川街道に行けば、大きなスーパーがある。
車を飛ばす。スーパーに辿り着く。
買い物かごを持って急いで冷凍食品売り場に行く。
アイスクリームが並べられたケースの中に袋に入った氷を見つける。
10袋を買い物かごに入れる。金を支払い急ぎ足で店を出る。
車のトランクを開けてクーラーボックスに氷を投げ入れた。


会社に帰る。
いまから仕事を終わらして彼女との待ち合わせ時間に間に合うだろうか?
間に合うかも知れないし間に合わないかもしれない。
間に合うと思いたい。希望はまだ残されていると思いたい。
アクセルを踏み込んで前方を走る車を追い越す。
だが信号に1つ捕まるごとに陽が沈んで行く。
山道を上る。陽が沈んで行く。
途中で坂道を下りて来る競技用の自転車とすれ違った。
バックミラーは観ない。陽が沈んで行く。
職場に戻った。駐車場に車を止める。
エンジンを切る、今にも森の向こう側に陽が落ちそうだった。
急いでいるのにその景色にうっかりと眼を奪われた。
樹の先に突き刺さる夕陽に眼を奪われた。
深緑とオレンジ色のコントラストに眼を奪われた。
1秒、2秒、3秒。
草を踏みしめる音がして視線を森の奧に向ける。
一瞬恐怖を感じる。4秒、5秒。
生い茂る雑草と樹々の隙間から鹿が姿を現した。6秒、7秒。
鹿が俺の目を見る。角がない。だからメスだろう。8秒。
見つめる。9秒、10秒、11秒、12秒、13秒。
鹿が背を向ける。14秒、15秒。
ゆっくりと森の中に戻って行く。16秒。17秒。18秒。
姿が消える。
暗い森だけが残る。19秒、20秒、21秒、22秒、23秒。
4つの足で走る音が聞こえる。やがて音も消えた。24秒。25秒。35秒。
ここは山奥なんだ。


休憩室の冷凍庫を開ける。
クーラーボックスに入れた氷の半分を取り出す。
歯車が付いた脚を中に入れる。フタを閉じる。
クーラーボックスと残りの氷を持って地下に戻る。
保冷剤が届くまでの予備として買って来た氷の半分を冷凍庫の中に入れた。
クーラーボックスを内臓用のコンテナの隣に置いた。
変更された仕事を終えた。
歯車付きの片脚は今朝と比べて特別痛んでいると言う事は無いはずだ。


頭部と片腕、片足が無い女の遺体を見つめる。
倉庫の四隅が妙に暗く見えた。
空気が淀んでいる様な感じを覚えた。
気を取り直す。
新しい手袋を取り出してゴーグルを付ける。
鉈を持って振りかざす。
遺体の手首を切り裂いた。


残った腕の処理を終えたとき。
俺の心に残っていたのは失望だった。
時計はいつでも時間が進んでいる事を告げる。
吊るされた遺体は胴体と片足だけになっている。
間に合わない。
これから胴体と片足を解剖して後始末をしなくてはいけない。
仕事が終わった時、彼女との待ち合わせ時間は疾うに過ぎている頃だろう。
悲しくなる。泣きたい。今日も彼女に会えないのか。
だが仕事を投げ出す訳には行かない。


手袋を新しい物に付け替えて
彼女にメッセージを送る。
端末を持って文字を入力する。
内容は仕事が予定の時間に終わりそうに無い事。
だから一緒に夕食を食べる事が出来ない事。
それについての謝罪。
できれば後日、予定をやり直したい事。
祈る様な気持ちで、懺悔する様な気持ちで
メッセージの送信ボタンを押した。
彼女を怒らせてしまっただろうな。
彼女は怒らせるととても怖くなる。
メッセージの返事さえも無いかも知れない。


現在の状況に失望感を感じる。
失望したのは関係の無い仕事を途中で指示したボスに対してなのか、
急に仕事を変更した依頼主に対してなのか、
マヌケな自分に対してなのかは良く分からない。
苛つきながら考えて答えが出そうになる。
出そうになった所で考えるのを止めた。
もうどうでも良い事だ。


続けて同僚に電話をする。
解体した遺体を倉庫から回収する担当者だ。
作業が大幅に遅れているので通常の労働時間を越える事を告げる。
電話の相手はこちらの仕事も遅れているのでちょうど良かったと言った。
回収する時刻に検討が立ち次第、再び連絡する事を取り決めた。
通話を終了する。


胴体を片付けよう。
今までの部位の様にウィンチから切り離す様な事はしない。
胴体に限っては吊るしたままの方が作業がし易いからだ。
観音扉の様に開いている腹部を鉈で切り落とす。
腹筋と呼ばれる部位だ。ポリ袋に入れる。


邪魔な肉を切り落としたら
胴体の先端、首から解体を始める。
首からは5番目の頸椎が飛び出している。
首にある脊椎を頸椎と呼ぶ。
1つの1つの頸椎の形はケルト十字、
あるいは性別記号の♀の様な形をしている。
尖っている方を首の後ろに向けている。
1番目から4番目までの頸椎は頭部を解体する際に処理しているので
既にポリ袋の中に入っている。
5番目、6番目、7番目の頸椎の周りに付いた肉を削いで行く。
ポリ袋に入れる。


頸椎周りの肉を削ぐと言う事は
首の肉を一切無くすと言う事だ。
こうすると鎖骨の処理が簡単になる。
鎖骨は身体の中心で胸骨に繋がり、
外側では肩甲骨に繋がっている。
胸骨とは胸の谷間にある骨の事で、
肩甲骨とは肩と背に張り付く骨の事だ。
鎖骨と肩甲骨の関節は既に解体してる。
腕は鉈を使って胴体から切り離している。
その際に3つの骨を切断した。
肩甲骨、上腕骨、鎖骨だ。
だからすでに胴体に鎖骨と肩甲骨の関節は存在していない。
胴体と腕の切断面。その内側。
溝になっている部分にメスを当てる。
切断面から胸骨の方へと刃を滑らして行く。
喉と鎖骨の間にあった肉が落ちる。ポリ袋に入れる。
反対側の鎖骨にも同じ処理をする。ポリ袋に入れる。
鎖骨には多くの筋肉が付着している。
鎖骨が無いと人は肘を外側に向けて、
前腕を身体の内側に曲げて押し進める動作ができなくなる。
簡単に言うとそれは人が人を抱き締める時の動作だ。
指を組んで拳を天に掲げる祈りのポーズも
手の平と平を合わせる祈願のポーズも同じ様な物だ。
野生の生物ならばそれは木登りをする際の動作だ。
コアラにもナマケモノにも鎖骨はある。


鎖骨内側の肉を削ぎ落としたら、
鎖骨と胸骨の関節にメスを入れる。
鎖骨を胸骨から切り離す。
鎖骨を手で握り持ち上げる。
胸の皮と肉が同時に持ち上がる。 
メスを使って皮膚を切る。胸から鎖骨を切り外す。
反対の鎖骨にも同じ処理を施す。
あとは他の骨と同じ様にこびり付いた肉や
骨表面の骨膜を削ればこの作業は終わる。
膜と肉と皮膚はポリ袋に入れる。
綺麗になった骨は骨様のポリ袋に入れる。
これで鎖骨の処理は終わりだ。


次は肩甲骨だ。
腕と胴体の切断面には上腕骨の一部が
めり込む様にして残っている。
ペンチを使って取り出して行く。ポリ袋に入れる。
先程覚えた技はここでも大活躍だ。


肩甲骨は背骨、胸椎の横にある。
肋骨を覆う様にして張り付いている。
一部は上へと飛び出し鎖骨と連結している。
また横では上腕骨と連結して腕の関節を作っている。
肩甲骨と鎖骨と上腕骨、この3つが肩を作っている。
すでにこの身体には鎖骨も上腕骨も無い。
肩甲骨は肋骨と繋がっている訳ではないので、
周囲の肉を落とすだけで身体から外れる。


外すには背中から引き剥がす様にして肩甲骨内側の肉を削って行く。
上部から作業を始める。
鎖骨と上腕骨が無くなると、
肩甲骨と肋骨の間の肉が良く見える。
そこに尖った刃を刺し込んで行く。
肉を削る。ポリ袋に入れる。
隙間が開いたら
肩甲骨を指でつまんで剥がす様に引っ張る。
さらに隙間が開いて作業がし易くなる。
刃を奧に差し込んで行く。削いだ肉をポリ袋に捨てる。
繰り返す。すると肩甲骨が背中から外れる。
骨を綺麗にする為に肉を処理して行く。
終わったら骨をポリ袋に入れる。
もう片方の肩甲骨も同じく処理する。
ポリ袋に入れる。
これで肩と呼ばれる部分を全て解体した事になる。


次は肋骨だ。
肋骨は胸の背骨、つまり胸椎から生えている骨だ。
背中から心臓や肺を覆う様に伸びている。
側面を囲って前面で胸骨と繋がる。
心臓を守る骨の後ろが胸椎、横が肋骨、前が胸骨だ。
胸椎は12個ある。
だから胸椎から生える肋骨も第1肋骨から第12肋骨まである。
左右にあるので合計すると24本だ。
だがその全てが胸骨と繋がっている訳ではない。
胸の谷間にある胸骨と繋がっている肋骨は第1肋骨から第7肋骨までだ。
第8から第10までの肋骨は第7肋骨と繋がっている。
トナカイの角みたいな物だ。それが肋骨弓だ。
第11、第12肋骨はどの骨とも繋がっていない。
まあ胸椎とは繋がっている訳だが。


肋骨と胸骨の間にある骨を肋軟骨と言う。
名前の通り軟らかい骨だ。軟骨だ。
年を取る程固くなるが、
若いうちは丈夫なゴムな様な弾力をもっている。
肋軟骨と胸骨の継ぎ目は関節になっている。
つまり胸骨は切り取れると言う事だ。


遺体の胸部には鎖骨も肩甲骨も内臓も無い。
頭部や喉や鎖骨があった部分には穴が空き、
穴からは倉庫の無機質な床が見えている。
胸骨を切断する為には周囲の肉を遺体から切り離さなくてはならない。
その為にまず乳房を切除する。
乳房は大胸筋の上にある。
乳房の内側には乳腺や脂肪や筋膜がある。
筋肉も骨も無い。
だから簡単にメスで切り取る事が出来る。


この仕事に就いていると、
遺体に疾患を見つける事がある。
医者の様に患者の外見の変化や
症状から病気を特定する事は出来ないが、
身体の中の様子から病名を推測する事は出来る。
切り裂かれた血管や筋肉や臓器ならば並の医者以上に目にしている自信がある。
解体の途中に患部を直接目にする事も多い。
女の遺体で疾患を発見する事が多いのが、乳房だ。
病名は乳がんだろう。
乳がんに罹ると乳腺に腫瘍ができる。
特に腫瘍を見つける事が多いのが乳管と小葉だ。
乳腺は母乳を分泌する器官だ。
乳管は母乳の出口で乳首の裏側にある。
小葉は逆に乳腺の根っ子の事をいう、乳房の付けに多くある。
腫瘍が大きいと乳房を触るだけ乳がんを見つける事が出来る。
それなりの数の仕事をこなして来たが、
女の遺体を解体すると乳房に大なり小なりの腫瘍を見つける事がとても多くある。
まあ女が10人いたらその内の1人は一生に1回
乳がんになると言われているのだからそうなんだろうな。
苦い気持ちになるのは
殆どの遺体に生前乳がんに対処した後が見られない事だ。
まったく検診にくらい行ってりゃ良いのにと思うのだが、
遺体にそんな事を思っても仕方がない事だとも思う。
この女は幸運な事に乳がんには罹っていなかった様だ。
切除の途中で腫瘍は発見されなかった。
乳房を全て切り取ってポリ袋に入れる。
もう1つの乳房も切り取る。ポリ袋に入れる。
こうすると胸骨周辺の肉が削ぎ易くなる。


胸骨表面には肉が殆どついていない。
皮膚と僅かな肉をメスで同時に剥いで行く。ポリ袋に入れる。
すると肋軟骨と胸骨を繋げる靭帯が見えてくるのでこれを切除する。
胸骨につながる肋骨は7つ。左右で合計14本だ。
第1肋骨から始め関節の肉を削ぎポリ袋に入れ第2肋骨に取り掛かる。
繰り返して第7関節まで続ける。
最後の肋軟骨と胸骨の関節に付いた筋肉を切り落とすと胸骨が外れた。
骨を綺麗にしてポリ袋に入れる。


鎖骨と肩甲骨と胸骨を取り除いたら
後は肋骨と胸椎周りの肉を削ぐだけだ。
大小の刃物とヘラを使って肉と膜を削ぎ落として行く。
肋骨や胸椎は繋げたままで1本に連なる骨のままにしておく。
脊椎と脊椎とを繋げる椎間板や、
脊椎の中を通る大きな神経、つまり脊髄を切除すれば、
背骨も1個1個の骨に解体する事が出来るのだが
それはしなくていいと指示されている。
歯がゆい所だ。
脊椎までも1つ1つに解体出来たら完璧だと思う。
だが仕事としてそれを指示されていないのだから
そこまでやっても無駄手間という事になってしまう。
もし俺が趣味で遺体の解体をやっていたら完璧を求めていただろう。
脊椎も1つ1つ解体していたはずだ。
だがこれは仕事だ。仕事と趣味の違いがそこだ。
趣味の方が完璧を追求出来る。
まあ遺体の解体を趣味にする人間なんていないと思うが。
とにかく仕事は完璧でなくても良い、間違いがなければ良いんだ。
以前、プロの仕事は堅牢で
マチュアの作品は偉大だという言葉を聞いた事がある。
まさにその通りだ。


丁寧に胸椎や肋骨に付いた筋肉や膜を剥いで行く。
削いではポリ袋に入れる。
この作業をしていると不思議な気分になる。
岩の中から恐竜の化石を取り出す考古学者にでもなった気分になる。
そして子供のころ祭りに行って、
親から貰った小遣いを使ってやった型抜きの事を思いだす。
夢中になってしまう。色々な事を忘れる。
ただ骨と肉と膜を切り離す事に没頭する。
他の事は何もかも忘れる。
暫くして、肋骨と胸椎の肉を全てポリ袋に入れる事が出来た。
単純な作業だが、部位がとても大きいので時間がかかった。
肉用のポリ袋が大きな膨らみを作っている。
口を持ち上げて2回3回とコンテナの底に打ち付ける。
中身を均す。


逆さに吊るされた女の遺体は今や
片足と裂かれた腹、そして腹から飛び出す背骨と肋骨だけになっている。
胸椎と肋骨が揺れている。時計を見る。
当り前だが時間は進んでいる。進み続けている。
どうしようかと考えて手袋をゴミ箱に捨てる。
新しい物に付け替える。
恐る恐る革のケースに収められた情報端末を手に取る。
確認する。彼女から新しいメッセージが着ていた。




  「そうなんだ……。残念だね。
   じゃあさ、外での夕食は諦めて、
   私あなたの家で待ってるよ。
   あなたの仕事が終わるまで結構時間がかかりそうだから、
   私はその間にご飯、食べちゃうね。
   あなたも余裕があったら食べてしまって良いよ。
   というか、あなたの身体が心配だから途中で休憩して食べてね。
   すこしくらい家に帰るのが遅れても気にしないから。
   それで、夜はあなたの家でなかよししようね。


   あ。私怒っていないよ。
   だって、あなたが私にしてくれた事を全部覚えているから。
   だからこれくらいじゃ怒らないよ。
   今だって、私に会う為に早くお仕事を終わらそうと
   頑張ってくれているのだものね。
   私の事を大切に思ってくれているあなたの事を大切に思うよ。
   あなたは私の事を信じてくれている。だから私もあなたを信じている。
   そこが一番好きな所なの」




彼女の機嫌が悪くなっていない事に安心すると共に
彼女の優しい心遣いに涙が出そうな気分になる。
彼女の事を愛する事をこれだからやめられない。
彼女を愛した分、愛が返ってくる事は嬉しい事だ。
彼女に返事を書く。
彼女の優しさがどれだけ嬉しい事なのか、
彼女と会う事がそれだけで幸せな事なのだという事を文章にして行く。
彼女が出した計画を了承する。メッセージを送り返した。
彼女の事を考えるだけで生活に希望が持てる。
彼女の事を考えているとそれだけで時間が過ぎてしまう。それではダメだ。
彼女の事を考える為に時間を使うのではない、
彼女に会う為に時間を使おう。仕事を頑張ろう。





苛つきや悲しみが納まって行く。
心が澄んだ水の様で冷静な気分だ。


その時着信音が鳴る。
電話に出る。声は遺体回収の担当者だ。
こちらの仕事の進捗を訊いて来た。
順調に進んでいると話す。
それから残りの作業時間を計算する。
1時間半もあればこちらの作業は終わっているだろうと告げた。
相手は納得する。通話を終了する。


さて、さっさと仕事を終わらせよう。
仕事は終盤に入っている。
胸の次は腹だ。
この部分の作業はとても簡単だ。
内臓を取り除いた腹部には腰椎と肉しかない。
腰椎とは名前そのまま腰の脊椎、腹と腰を通っている背骨の事だ。
腹回りの肉をメスで切り落としてポリ袋に入れる。
腰椎の数は全部で5つだ。
剥き出しの第12胸椎と繋がっている第1腰椎から処理をしていく。
彫刻作品を制作する様な気分で肉を削ぎ落とし腰椎を形にして行く。
第1腰椎の処理が終わったら
第2、第3、第4と進めて第5腰椎を処理する。
肉をポリ袋に入れる。
骨にこびり付く筋肉と膜を処理する。ポリ袋に入れる。
短時間で腰椎の処理を終えた。
腰椎周辺の肉の解体という作業は単純な物だ。
それ踏まえてもここに来て作業の速度が上がって来ている。
肉を骨から削ぎ落とす事が上手くなって来ている。
仕事の勢いというのは大事な事だと思う。
技術力が高まっているのか、
それとも集中力が増しているのかは判らないけれど。
この勢いに乗って作業を終わらせてしまおうと思う。


腹部の処理が終わったら、
次は大腸の末端や直腸や生殖器が納まっていた下腹部の解体だ。
こちらも内部の器官はすでに切り取ってある。
肉と膜を削いだ第5腰椎の後ろにはお尻の脊椎である仙椎が繋がっている。
仙椎は5個あるのだけれど、脊椎と脊椎と繋ぐ椎間板を持っていない。
つまり1個の骨として融合してしまっている訳。
仙椎の後ろには最後の脊椎である尾椎が付いている。
尾椎は人によりその数が違う。3個から6個とバラバラだ。
だけれど尾椎も仙椎と同じ様に1個の骨になっている。
どちらも子供の頃は複数の骨なのだけれど、
人体の成長過程で1個の骨へと融合して行く。
仙椎と尾椎は腰や股を形成する骨である骨盤に含まれている。
ズレるとか歪むとか美容とか痩身とか何かと話題になるあの骨盤だ。
仙椎の下には尾椎があり
仙椎の左右には寛骨(かんこつ)が1個ずつ繋がっている。
寛骨も元は3個の別々の骨なのだけれど、成長過程で1個の骨になる。
そして人体が更に成長すると仙椎と尾椎と寛骨は1個の骨として融合する。
融合した骨を骨盤と呼ぶ。
元は14個から17個の骨なのに人が成長すると1個の骨になる訳だ。
だからここを解剖すると、遺体の大まかな年齢が分かる。
若い程、骨の数が多い訳。
遺体の骨の数や形状を把握する事は仕事上とても重要な事なので、
いつしかこんな事も覚えてしまった。


そんな骨盤に付く肉を切り落としポリ袋に入れる。
骨膜を削ぎ落としてポリ袋に入れる。
骨盤周りの殆どの肉を削ぐ落とす、
唯一大腿骨と寛骨を繋ぐ関節周りの肉や腱は切除していない。
ウィンチとフックに繋がっているのは残された脚だけなので、
脚の関節を解体すると、腰より上の骨が全て地面に落下してしまうからだ。
骨盤の他の部位をメスとヘラで綺麗にする。肉と膜をポリ袋に入れる。


こうして脊椎、背骨と呼ばれている人間の骨の全てが露出した。
すでにポリ袋に入っている4個の頸椎、
遺体に付いている3個の頸椎、12個の胸椎、5個の腰椎、
元々は5個の仙椎、元々は3個から6個の尾椎。
合計で33個程だ。
脊椎は波を打つ様に湾曲している。
自分がやった仕事に対してこんな事を思うのもおこがましいのだけれど
人間の背骨は綺麗な物だなと思う。
ウィンチにぶら下がる遺体は、
肉がついた片足と骨が露出した骨盤、
骨盤から伸びる脊椎しか残されていない。
軽くなった遺体は風などなくともちょっとした振動で揺れ蠢く。


骨様のポリ袋が入ったコンテナを遺体の真下に運ぶ。
大腿骨と寛骨の関節に刃を入れる。
肉を切り離して行く。ポリ袋に入れる。
大腿骨と骨盤の関節を解体する。
それが終わると骨盤と脊椎は大きな音を立ててポリ袋の中に落下した。
とても大きな音だ。倉庫に反響し続けている。
人の骨は重くて堅い。


ポリ袋の中から寛骨を探して、
関節だった場所に付いている肉と膜を削ぎ落とした。
ポリ袋に入れる。
これで骨盤の処理は終わりだ。
最後に残された脚を解体する。


ウィンチにはもはや片脚しかぶら下がっていない。
脚は円を描く様にゆっくりと揺れている。
脚を抱きかかえて2本のフックから外していく。
かかとに開けた穴に通るフックから外す。
腕に脚の重みを感じる。
次にふくらはぎに開けた穴を通るフックを外す。
脚の重さが腰に伸しかかる。
ゆっくりと地面に置く。
粘度ある血液がフックから1滴2滴と滴り落ちる。
ウィンチには血以外の何もぶら下がっていない。


足も手と同じ様に指先から処理をする。
脚と腕は同じ様な構造をしている。
足の指を形成する19本の骨。
足とスネの関節である足首を作る7個の骨。
前腕と同じ様に2本の骨で作られるスネ。
上腕と同じく1本の骨で作られる太もも。
この様に腕と脚は似た様な構造をしている。
だだ大きく違う所が1つある。それは肘と膝だ。
肘は前腕にある2本の骨のうちの1つと上腕骨が組み合わさり作られている。
膝はスネにある2本の骨のうちの1つと大腿骨で関節を作り
更に大腿骨は上に乗ると膝蓋骨と関節を作っている。
膝とはこの2つの関節が組合わさった物の事を言う。
膝蓋骨とはいわゆる膝の皿の事だ。
肘に皿なんて物は無い。これが腕と脚の大きな違いだ。


まずは足首に刃を入れて
スネから足を切り離してしまう。
前腕と手の関節は
前腕にある2本の骨のうち1本である橈骨が手を支える事で出来ていた。
前腕にあるもう1本の骨である尺骨は橈骨を下から支えている。
まるで漢字の【人】の様な状態だ。
対して足とスネの関節は、スネを形成する2本の骨、
脛骨(けいこつ)と腓骨(ひこつ)が
足の距骨(きょこつ)と繋がる事で出来ている。
距骨の周辺には6個の骨があり、それらが足首を作っている。
腕と脚はこの様に関節の仕組みにも違いがある。
この違いが生まれる要因は関節の角度の違いだろうと思う。
腕は手と水平に繋がっているのに対して、
脚は足と垂直に繋がっている。この違いだ。
プロならばこういった細かな違いを見逃しては行けないと思う。
鮭と銀鮭を同じ魚として扱う漁師も料理人もいないだろう。
そういった事と違いが無い。
その方が良い仕事が出来るはずだ。


メスを使ってスネと足の間に切り込みを入れる。
骨にそって少しずつ肉を削ぎ神経や腱を切断して行く。
ポリ袋に入れる。
終わったら足を引く抜く。外れた。
こうして脚から足が切り離された。


足の処理は手と同じだ。
まずは爪を処理する。
刃を爪の裏側に当てて肉と一緒に指から削ぐ。
5つの指で同じ事をしたら、爪の裏に付いた肉をこそぎ落とす。
ポリ袋に入れる。爪は爪様のポリ袋へ。
クーラーボックスに入っているもう1つの足は
あのまま処理する必要はないのでこれで全ての爪の処理が終わった事になる。
爪を入れたポリ袋の入り口を縛る。それ以外用のコンテナに入れる。
これで遺体のそれ以外の部分の処理が完了した。
コンテナのフタを閉めて中身が出ない様にフタをロックする。


次に指と指の間に刃を入れて間の肉を裂いて行く。
足首の関節を作っている骨と指の間に刃を入れて指を切り離す。
親指は内側楔状骨と繋がり、
人差し指は中間楔状骨、中指は外側楔状骨と繋がっている。
3つの楔状骨はもちろんそれぞれ別個の骨だ。
薬指と小指は立法骨と言う1個の骨と繋がっている。


親指と人差し指の間にメスを入れて肉を裂く。
内側楔状骨に当ったら刃の向きを親指の外側に変える。
力を籠めて押し込む。骨と骨の間に刃を入れる。
親指が足から外れる。残りの指でも同じ事を繰り返す。
こうして足から指が外れた。
切り落とした指を処理する。
鉛筆をカッターで削る様に、
爪の無い指先の肉をメスを使って削り取って行く。
ポリ袋に入れる。
足の指も手の指と同じ様に4つの骨で作られている。
親指だけ骨が3つなのも同じで骨の名前も手と同じだ。
肉を落として膜を削る。
肉は肉用のポリ袋に、綺麗になった骨は骨用のポリ袋に入れる。
繰り替えして5つの指をそれぞれ肉と骨に解体する。


指が終わったら足首の関節を作っていた部分を解体する。
手を解体する際に覚えた新しい技術をここでも使う。
ペンチを足の付けに突っ込んで骨を挟む。
力任せに骨を引き抜いて纏めて肉と皮膚も切り離す。
いま抜いたのは足首を作る7つの骨の1つ、距骨だ。
距骨はスネの2本と繋がって関節を作っている。
距骨は大昔、身体を構成する骨としてだけではなく、
道具としても使用されていた。道具とはサイコロの事だ。
距骨は角張って四角形に近い形をしている。
だからサイコロとして使用するのにも加工が最小限で済む。
手にも入れ易い。そして丈夫だ。
つまりサイコロにするのには打ってつけだったと言う訳。
当時も今と変らず賭け事をする時にサイコロを使った。
賭け事は大昔、占いや呪いと一体化した物で、それらは神事と等しく、
神事は祭りと同じ事で、祭りは政治とも繋がっている。
サイコロはとても重要な道具だった。そこに骨を使った。
多かったのは羊や牛の距骨だ。
だけれど俺は人の距骨も使われていたと思う。
例えば生け贄になった人間の骨や、
戦争で殺した敵対する部族の骨だ。
敵の生首や頭の皮を戦利品として持ち帰ったり、
手に入れた数が名誉の証になる時代もあった。
南米には人間の大腿骨を使った笛がある。
古代のラマ教では儀式の際、人の頭蓋骨で作った杯を使用していた。
頭蓋骨を使った太鼓も存在している。インドの物だ。
だから人骨をサイコロとして利用する事は不思議な事ではない。
この仕事に就いているとそういった事を考えてしまう事が多い。
その度に嫌な気持ちに成る。
人間の骨を道具として使うという事は、
死者を冒涜している事になるのではないか?
そういった考えが頭をよぎり、悲しい気持ちに成る。
人間は残酷な生き物だなと思う。
そんな道具を賭け事や占いや祭りや政治に使用していたと考えると
嫌な気持ちに成ってしまう。


上手く距骨を引き抜けたら、
周りに付いた皮膚や肉や膜をヘラやメスで削ぎ落としてポリ袋に入れる。
骨は骨用のポリ袋に入れる。
次は踵骨だ。踵骨は名前の通り足のかかとを形作っている骨だ。
ペンチを突っ込んで引き抜き同じ様に処理をする。
ポリ袋に入れる。
次は舟状骨 。手にも同じ名称の骨が存在する。
処理をする。ポリ袋に入れる。
次に処理するのは足の指と繋がっていた4つの骨だ。
楔形骨(けつじょうこつ)と立方骨だ。
楔形骨は3つある。それぞれ外側、中間、内側という分類をされている。
立方骨は足の外側にあり、薬指と小指、
外側楔形骨と舟状骨と踵骨と繋がってる比較的大きな骨だ。
それぞれを処理して行く。
皮膚と肉と膜と削ぎ落としてポリ袋に入れる。
骨は骨用のポリ袋に入れる。
これで足の処理は完了した。


次はスネを膝から切り離す。
膝は2つの関節で出来ている。
太ももとスネの関節、
太ももと膝の皿の関節だ。
まずは大腿骨の上に乗る膝の皿、膝蓋骨を切り離してしまう。
膝蓋骨が関節を作っているのは太ももの骨、大腿骨とだけだ。
なのだけれどスネを形成する2本の骨の1本、脛骨とも筋肉で繋がっている。
なのでまずは膝蓋骨と脛骨を繋ぐ筋肉を切断する。
切断したら次に刃をスネの方から皿の裏にめり込ませて行く。
周りの皮膚も一緒に剥いで行く。
筋肉を切り落とし刃を膝蓋骨と大腿骨の関節に食い込ませる。
力を込める。膝の皿が脚から外れる。
膝蓋骨に付いた皮膚と肉と膜を綺麗に剥がしてポリ袋に入れる。
骨も専用のポリ袋の中へ。


次は大腿骨と脛骨の関節を切断する。
膝の皿を切除するとこの部分を簡単に確認する事が出来る。
関節に刃を入れて行く。
じっくりゆっくりと力を入れて肉を切断して行く。
切断して行く。外れた。スネが地面に転がる。
スネが太ももから外れた後は簡単だ。上腕と同じだ。
脛骨ともう1つの骨、腓骨の間に鉈を入れて、
薪を割る様に地面に打ち付ける。
スネが真っすぐに裂けて、2つに別れた。
後はそれぞれに付いた肉を処理して行く。
ポリ袋に入れる。骨も骨様のポリ袋に入れる。


残された太ももを処理する。
太ももは大腿骨と言う1本の骨と周りに付く膜と肉と皮膚で出来ている。
それらを剥ぎ切り取って行く。ポリ袋に入れる。
作業は単純なのだけれど、大きいので時間が掛かる。
大腿骨は人骨の中で最も長く最も大きい。
付いている肉の量も多い。
時間をかけて処理する。ポリ袋に入れる。
綺麗になった大腿骨を眺める。
これを手にしていると子供の頃に見た原始人のアニメを思い出す。
少し面白い気分になる。
主人公の男の子が大腿骨に似た骨を武器に悪者と戦っていた。
まあ、あの骨は人骨ではなくてマンモスか恐竜の骨だと思うのだけれど。





こうして丸々1つあった女の遺体を全て解体した。
今や遺体は、
内臓や眼球や脳を含む器官と、
皮膚と筋肉と骨膜を含む肉部分、
骨、
それ以外の部分に分解された。
それ以外の部分とは体毛と歯と爪の事だ。
ポリ袋は6つ。器官、肉、骨、体毛、歯、爪に別れている。
ポリ袋を収めるコンテナは4つだ。
おまけに歯車が付いた片足を冷凍保存しているクールボックスが付いてくる。
仕事とはいえこれは少し残念だ。
増えた仕事が彼女との夕食の時間を
奪ったという事を抜きにしても残念だ。
やはり遺体の全てを完全に解体する事にやりがいを感じる。
自分の仕事が完璧で
プロフェッショナルな仕事をしていると言う自負を与えてくれる。
それが出来ないのだから、少しだけ、残念だ。


肉用と骨様のポリ袋の口を縛る。
コンテナのフタを閉めてロックする。
4つのコンテナと1つのクールボックスを倉庫の端に並べた。
これで解体作用は終了。コンテナの中身に俺はもう関わらない。
回収を担当する同僚に後を任せる。
残る作業は後片付けだけだ。


手袋を新しい物に交換する。
古い物はゴミ箱に捨てる。
一番初めにウィンチに付いた2つのフックを外す。
後片付けをしている途中にこいつに頭をぶつけたり
先端の鋭い刃が首に刺さって死んだらあまりにもマヌケすぎるからね。
ウィンチからフックを外す。重い。床に置く。
壁に設置されたウィンチのスウィッチを入れる。
鎖が音を立てて天井に上がって行く。
これで頭をぶつける心配は無い。
床に置いたフックを1つずつもって流しに場に運ぶ。
水道を捻って水を勢いよく出す。
こびり付いた血を流して行く。
洗剤と使い捨てのタワシを使って洗い流す。
使用前と変らない状態に戻す。
蛇口を閉める。
使い捨ての布でフックに付いた水滴を拭き取る。
そしてダスターに消毒用アルコールを染込ませて拭く。
終わったらフックを道具棚に置く。後は自然乾燥させるだけで良い。


同じ様にして作業に使った道具を消毒して行く。
鉈にペンチにヘラにノミに金槌に壊れた抜歯鉗子だ。洗って拭いて消毒する。
使った布やダスターやタワシはゴミ箱に捨てる。
メスは使い捨ての物を使用しているので、専用のゴミ箱に捨てる。
最後にゴーグルを洗って消毒する。全てを所定の位置に置く。
終わったら装着している手袋をゴミ箱に捨てる。
刃物用のゴミ箱と手袋やダスターが入ったゴミ箱にそれぞれフタをする。
コンテナの横に置く。2つのゴミ箱も回収の対象になっている。


これで後片付けは終わりだ。
手を上に挙げて椎骨を伸ばす。気持ちが良い。
今日は色々な事があったけれど、
それでも仕事を終えた時は気分が良い物だ。
壁の時計を見ると
思ったよりかなり早く仕事を終えていた事に気が付く。
コンテナの回収までに時間がある。
少し考えて夕食にしてしまおうと決める。
彼女にメッセージを貰った時から、
言う通りに夕食は採るつもりだったのだけど
帰宅中に運転しながらパンでも齧れば良いかと思っていた。
だけれど今は、時間がある。
だから夕食をここで作って食べてしまおうという訳。
倉庫をぐるりと見回して仕事に不備が無い事を確認する。
流し場で洗剤を使って手を洗う。
これ以降今日は遺体にも道具にも触る事が無いので
入念に手洗いをする。3分かけて腕まで綺麗にして行く。
タオルで水滴を拭き取ったら
専用のボールに消毒液を入れる。
両方の手の甲を下にして透明な液の中に沈めて行く。
指の先から腕までをきちんと浸す。
しばらくそのままで目を瞑る。
手が洗浄されて行くのを感じる。
手を持ち上げる。消毒液揉み込む。
ボールの中身を流し場に捨てる。
情報端末をズボンのポケットに入れる。
階段を上る、扉を開けて1階に出た。
休憩室に向かう途中のエントランスから外が見えた。
真っ暗だ。外は寒いだろうな。


休憩室に入る。
冷蔵には比較的保存がし易い食材を入れている。
昼から仕事が始まる事も多く、
そうすると夕食はここで食べる事になる。
台所もあるのだからと健康の為に自炊する事にしている。
その為の食材だ。
肉や魚は冷凍庫に保存してある。
そこで思いだした。
今は冷凍庫には何もない。
歯車がねじ込まれた片脚を一時的に冷蔵庫に入れていたからだ。
その際、中身を冷蔵庫に移していたのだった。
ああ、冷凍庫を消毒しなくてはならない。
想像する、今から地下に下りて手袋して消毒液を持って……。
仕事を終えた気分の心にこれは厳しい。
食材を冷凍庫に戻す事は諦めて、消毒は明日行う事に決めた。
これで気が楽になった。


どうせだし冷凍されていた材料を使ってしまおう。
冷凍庫は開けない様して冷蔵庫の中身を確認する。
冷凍されていた肉を見つけた。
これを食べてしまおう。
電子レンジで肉を解凍する。
その間に野菜室からニンニクを取り出してみじん切りにする。
フライパンを出してガスコンロの上に乗せる。
弱火にしてオリーブオイルを入れる。ニンニクを入れる。
こうする事で油にニンニクの良い匂いを移る。
その際低温で温めるのが大切だ。
強火だとニンニクが焦げて風味が悪くなる。
続いて小松菜とタマネギと赤いパプリカを取り出す。
玉ねぎは半分に切ってから薄切りにする。
フライパンに入れてオイルと和える。
肉の解凍が完了する。
肉は厚切りの豚ロースだ。脂身が程よく付いている。
肉を2cm程の大きさに切って鍋に入れる。
ニンニクと油と良く絡める。
レトルト米飯をレンジに掛ける。
小松菜とパプリカを適当な大きさにきってフライパンに入れる。
全ての食材に火が通るまで炒める。
途中でミルで擦り潰した岩塩と黒コショウを振りかける。
食欲を誘う匂いが部屋に充満する
今になってやっと自分が空腹である事に気が付いた。
完成したらフライパンの中身を皿に乗せる。
レンジから米を取り出して茶碗に盛る。


今日の夕食は
厚切り豚ロースの野菜炒めだ。
肉の褐色と小松菜の緑とパプリカの赤が目に楽しい。
料理を食べる前に情報端末に付いたデジタルカメラで写真を撮る。
写真をウェブにアップロードして公開する。
インターネットを通じてやりとりする仲間達がいる。
彼らには自分の職場の事を語る事は出来ない。
だけれど、こういった日々のちょっとした出来事ならば伝える事が出来る。
その1つが自炊した料理の写真だ。
写真を公開すると見てくれる人がいたり、
たまに美味しそうだとコメントをしてくれる人が居て、
それが良い楽しみになっている。
今日の写真には誰かコメントをくれるだろうか?


夕食に手を合わせて1人で頂きますと言った。
箸を持って食べ始める。
肉とニンニク風味のオイル、きつね色になった玉ねぎが絡む。
口に入れると玉ねぎの甘みと共にニンニクの香ばしい匂いが広がる。
急いで白米を掻き込む。美味しい。
小松菜を食べる。小松菜独特の苦みが口の中をスッキリとさせる。
パプリカは酸味を与えてくれる。白米を食べる。食べる。
あっという間に食べ切ってしまった。


使った料理器具や皿を流し台の中に置いて水を張っておく。
こうすると食器洗いがし易くなる。
レモンコーヒーを入れる。飲む。
口の中がスッキリとする。
脂っこい料理の後には最適なお茶だ。

時計を見る。もう少しで同僚がやってくる時間だ。
コーヒーをゆっくりと飲む。
お腹が落ち着いたら食器を洗う。
そろそろ回収担当の同僚がやってくる時間だ。
レモンコーヒーをもう一杯飲む。
今度は鍋で温めた牛乳と砂糖を入れる。
コーヒー、レモン、牛乳、砂糖だ。
これもこれで美味しい。
レモンクリームを使ったタルトや
柑橘系のマカロンを思いださせる甘さと酸味だ。
コーヒーの苦みがレモンの切れ味とほのかな甘みををより際立たせ、
後味をすっきりと穏やかな物にしている。
砂糖とレモンの甘さが組み合わさり甘みを深く複雑にしている。
牛乳が全てを包んで円やかな舌触りを作る。


時計を見る。同僚がやってくる時間だ。
こない。まあ、5分、10分の遅れならまあある事だ。
5分後。来ない。10分後。まだ来ない。
休憩室の窓から外を見る。真っ暗だ。
電話を掛けようかと端末を手に取る。
着信音。画面を見て相手を確認する。
向こうから電話を掛けて来た。
通話を開始する。もしもし、どうしたんだ?


電話は1分ちょっとで切られてしまった。
手にした端末を見つめる。床に投げたくなる。
そんな事をしてもなんの得にもなんねーからしねーんだけど。
深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとする。
口で吸う息が震える。


同僚からの用件は予定通りの時間にこちらへは来れないと言う事。
今よりも更に遅れるという事だ。
理由を尋ねたがちょっとしたトラブルとしか答えは返って来ない。
それ以上訊く事は職務上許されていない。
それに知った所で俺が何かを出来ると言う訳でもない。
悲しくなる。どうしよう。彼女と過ごす時間が更に減る。
電話か……。電話かなにかで彼女に状況を伝えるべきだ。
伝えよう。


彼女に電話を掛ける。
呼び出し音が鳴る。繋がらない。
掛ける。彼女は出ない。
どういう事だろう。
急いでメッセージを作って彼女に送る。
同僚にトラブルがあって未だに仕事を終えていない事。
だから帰宅するのが予定より更に遅れる事。
それについての謝罪。


送った後に溜め息を吐く。返信が来た。
電話に出てくれないのに、何で直ぐに返信が来るんだ。
彼女からのメッセージを読む。
彼女なら許してくれるはずだ。彼女は何時だって慈悲深いから。




   「なんなのそれ?
    私だって仕事がいそがしいのに
    頑張って予定に間に合う様にしているんだよ?
    私は何時だってあなたに対して真剣で、
    あなたと仲良くしようとしているのに
    あなたはそれに答えてはくれないんだね?
    私の事を軽く考えているんだね。
    悲しくなったよ。
    あなたの家にいたけれど、もう帰るね。
    私の事はいいから仕事を頑張ってね。
    じゃあね、ばいばい」




背中と腋に汗が流れる。
心臓の鼓動が速くなる。
汗ばむ指で返信を書く。
そんな事無いんだ、いつも君の事を思っている。
自分の全て投げ出して君に何もかもを捧げたいと思っている。
だからバイバイとか悲しい事を言わないで欲しい。
送る。返事は返って来ない。


泣きそうになる。
仕事をほっぽりだして彼女の元に駆けつけたい。
だけれどそれは出来ない。
仕事を投げ出す事は出来ない。
仕事は日常を支えてくれる大切な物だ。
日常がなかったら彼女とさえ会えない。
真剣に思いを伝えて誤解を解けば彼女なら分かってくれるはずだ。
分かってくれるはずだ。
放り出したいが、いまは彼女に許しを乞うより
仕事を優先させなくてはならない。


遺体が入ったコンテナを同僚に引き渡さなくてはならない。
そこまでが俺が会社から任されている仕事だ。
社会との関わりあいの仕方だ。
全うに仕事をやり遂げなくてはならない。
投げ出したくなるのを堪える。
仕事は日常の為、日常があって彼女との幸せがある。
日常を彼女に捧げる。
彼女の為に仕事をしているのだと強く思う事にする。
今は怒っている彼女も、
俺が彼女の為に日常を過ごしていると理解すれば許してくれるはずだ。
思いに応えてくれるはずだ。
だから仕事を頑張ろう。仕事を頑張ろう。


といっても、俺に残された仕事は、同僚をただ待つ事だけだ。
時計を見る。時間は進み続けている。
なのに同僚はまだやってきていない。
時間を見る。時計は進み続けている。
まだやって来ない。
泣きそうだ。お腹が痛い。彼女に会いたい。
許しを得たい。


同僚の電話から1時間以上が経った。
頭を抱える。
休憩室の窓に光が当る。
見つめる。車のヘッドライトだ。
やっと来やがったのか。


もう何もかもが遅い。
ゆっくりした足取りでエントランスに向かう。
ガラスの向こう側に知っている顔がある。同僚だ。
自然と溜め息がでた。額に掻いた汗を拭う。
鍵を開ける。同僚を室内に入れる。


同僚はへらへらと笑いながらすまないと言った。
もう怒る気にもなれない。
どうしたんだ?と尋ねる。
自分で聴いても分かる位に普段よりも低い声だった。
訊いても答えは返って来ないだろうが
一応の社交辞令だ。
同僚は笑って自分の片腕を掲げた。
腕には包帯が巻かれている。
同僚はでも仕事は大丈夫ですのでと笑った。
結構な大怪我だと思う。良く笑っていられるもんだな。
原因を訊いても答えは返って来ないだろう。
同僚に呆れながら2人で地下に向かう。
同僚はコンテナを持ち上げて駐車場の車に運ぶ。
仕事を終えるを持つ。
手伝う事は許されていない。
正確に言うと回収に使う車を見る事を許されていない。
互いの顔を見る事は許可されているのにそれは不思議だなと思う。
回収した先はそれぞれのコンテナの処分所なのだろうか?
多分違うと思う。
今コンテナを運んでいる回収担当の同僚は
別の人間への橋渡しの様な役目を担っているのだと思う。
処分する場所にコンテナを運ぶのは別の人間のはずだ。
遺体を解体する場所と処分する場所を共に知っている人間がいる事の危険性。
その間に別の人間が入り遺体の情報を曖昧にして、
代わりに処分に関わる人間が増える事での危険性。
それと人件費の上昇。
どちらの方がリスクが大きいかを考えて
ボスならば前者の方が危険だと判断すると思う。


同僚の仕事が終わる。
エントラスまで送って鍵を閉める。
少しすると車のエンジン音が聞こえた
山に響く音がやがて小さく鳴っていく。


地下に戻って周囲をみる。
やり残しは一切無い。
電気を消して一階に出る。地下への扉に鍵を掛ける。
休憩室に戻って情報端末を手に取る。
彼女からの新しいメッセージは届いていない。
ジャケットを着る。
コンロのガスを消し忘れていないか確認する。
休憩室の電気を消す。
エントラスの鍵を開ける。
外に出る。寒い。暗い。心は空しい。
とても静かだ。星は空一面に広がっているが嬉しくも何ともない。
扉を施錠する。駐車場に向かって車に乗り込む。
家に帰る。


川沿いを走って秋川街道に出る。
駅の方に向かう。
バス会社の車庫を越えて道を曲り都道から住宅街に入る。
駐車場に車を止めて鍵を使ってエントランスに入る。
エレベーターを呼び出して乗り込む、11階で下りる。
玄関の鍵を開けて自宅に入った。


リビングの明かりも付けずに服を脱ぎ散らかして、シャワーを浴びる。
今日かいた汗と一緒に何もかもを洗い流したかったからだ。
彼女からは電話もなければ新しいメッセージも着ていない。
熱湯を頭から被る。
頭を顔を身体を洗った。
タオルで身体を拭って白い寝間着を着る。


冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
心にたまる何かをビールで腹の中に押し流そうした。
リビングのソファーで飲もうと電気を付ける。
テーブルの上に紙とペンが置かれている事に気が付いた。
もちろん、朝自宅を出る時には無かった物だ。
缶ビールを床に落とす。
テーブルに駆け寄る。彼女からの置き手紙だ。




   「おかえり。おつかれさま。

    
    ひどい言葉を送ってごめんね。
    なんだか悲しくなって感情的になっていたの。
    少しあなたを試したのもあるかもしれない。
    だからね、
    あなたが直ぐに送ってくれたお返事、嬉しかったよ。


    今日は一緒に食事をする事も
    会う事も出来なかったけれど、また今度にすれば良いものね。
    それこそ明日にしたって良いのだし。


    だからその日の為に乱れた生活を送ったりしないでいてね。
    私、あなたが病気になったり、
    仕事が忙しくて身体を壊したりしたら悲しくなるんだからね?
    このメッセージを受け取っても
    返事を送ったりしなくていいから、今日は大変だったのだから
    いまはゆっくりと静かに休んでね。


    おやすみなさい」




涙が出て来た。彼女の優しさはなんて深く暖かい物なのだろう。
彼女の事を愛している。この愛をどう表現すれば良いって言うんだ。
全てを彼女に捧げていいと心底思える。愛している。


心が軽くなる。明るくなる。自信が湧き出て
日々の生活に立ち向かう勇気が溢れる。
不思議だ。今日は彼女に会えなかった。昨日も一昨日もだ。
なのに、何時かは彼女に会えるのだという思いに確信を抱くと
心がこんなにも変って来る。
きっと言葉で表すならば明日への希望とかいった陳腐な物だ。
言葉では陳腐な物でも、実情が陳腐とは限らない。
俺は今、それを確信した。
酒を飲む気が消えて行く。
健康の為に身体を休めよう。



仰向けに寝て目を瞑る。
自分の心臓に両手の平を当てる。
鼓動が少しだけ速くなっている。でも暖かい。
きっと彼女の事を考え続けているからだ。
明日こそはなんとしても仕事を時間通りに終わらせよう。
作業にはもっと工夫出来る箇所があるはずだ。
今日は手足の関節を解体する際に
ペンチを使って強引に骨と肉と皮膚を切り離すと言う技術を覚えた。
一度閃けば、なんで今まで気が付かなかったのだろう?という単純な方法だ。
似た様な事は他にもあるはずなんだ。
肺をもっと簡単に取り出す方法があるかも知れない。
大腿骨の肉を削ぐ時間を縮める方法があるかもしれない。
抜歯をまとめて行える方法があるかもしれない。



仕事の為に仕事をするのではない、
彼女の為に、彼女と会う為に仕事をするのだ。
彼女を裏切りたくない。これ以上悲しませたくない。
彼女の事を信じて、彼女に信じてもらえるだけに幸せを感じる。
そう考えると毎日の仕事に工夫を凝らして
やり抜いていこうとする気力が涌いて来る。


そうこう考えているうちに眠気が心身を覆う。
まどろみの瞬間は大好きだ。
まどろみとは意識が1つ1つ自分から切り離される瞬間の事だ。
自分の身体がこの世界から消えて行く様な、
すこし怖いけれど心地の良い瞬間だ。
今この瞬間にも1つの意識が消える。更にもう1つ。
まるで意識と共に自分の身体の部位が暗闇の世界へと
切り離されて行く様な感覚を覚える。またもう1つ。1つ。
眠りは暗闇の世界だ。
1つ。1つ。
彼女の事を考える。
1つ、1つ、暗闇が身体を覆って行く。切り離される。
彼女との幸せを思う。
意識がまた1つ、眠気の闇に飲込まれる。
幸せを感じる。1つ。
1つ。1つ。
彼女の為に明日を生きよう。1つ。
1つ。1つ。1つ。
意識と身体が暗闇に覆われた。1つ。
飲込まれる。
最後の1つ。


切断された。


獣共こうしてまだ見ぬちに吼えるのだろう?
おわり


Gone With The Wind/Art TatumBen Webster
風と共に去りぬ/アート・テイタムベン・ウェブスター






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【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】獣共こうしてまだ見ぬちに吼えるのだろう?/前編


【ヴァレンタインデイ&ホワイトデイの短編】
獣共こうして
まだ見ぬちに吼えるのだろう?/前編
後編はこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140404/1396598854





ピアノの終わりが仕事の再開を告げる。
バケツに溜まる血の雫が途切れた。
今日こそは彼女に会えるだろうか?
アート・テイタムは天才だ。
チョコレートの日、ヴァレンタインデイとホワイトデイには相応しい音楽だ。


同時に5つの事を思いながら
オーディオから流れる音楽に耳を傾けていた。


倉庫の真ん中、天井からはウィンチがぶら下がっている。
ウィンチの先にはフックが付いている。
フックの先には吊るされた女の遺体がある。
遺体を見ながら溜め息をつく。
時間が掛かったな。


朝一番にやったのは女が着ていた服を脱がした事。
次に女のふくらはぎとかかとに電動ドリルで穴を開けた事。
開けた穴を使ってウィンチとフックで遺体を天井からぶら下げた事。
そして首にある左右の総頸動脈を切断した事だ。
総頸動脈は数ある血管の中でも大量の血液が通り過ぎる物の1つ。
首の左右に1本ずつ、合計で2本ある。
総頸動脈は胴体の方で大動脈を経由して心臓に繋がり、
頭部の方では左右の内頸動脈と外頸動脈の
合計4本を経由して脳と繋がっている。
1本ずつある総頸動脈は喉の途中で2本に分かれていると言う訳。
動脈は静脈よりも圧力が掛かっているから出血の量が多くなる。
だから遺体の血抜きが必要な場合にはここを切れば
身体全体からスムーズに血が抜けていくという訳だ。
男なら喉仏が良い目印になる。
喉仏から横に線を引いてその少し下に刃物を入れれば良い。
動脈は血液が大量に通る場所で生命の維持に関わる大切な血管だ。
なので通常は身体の内側を通っているのだけれど、
頸動脈はなぜなのか身体の外側に近い見つけ易い場所を通っている。


1人の人間が持っている血液の量は体重の1/13ほどだと言われている。
吊るされた女の体系は中肉中背、標準体型、
だから体重は55kg程だと推測した。
55を13で割ると4.2kgになる。
4.2リットル。
それがこの女の生前に身体を回っていた血液の量だ。
いつも使っている容量10リットルのバケツを遺体の下に置いて、
それから総頸動脈を切った
他の細々とした用事を済ませれていれば、
バケツの中には4リットルの血が溜まっているはずだった。
だが計画通りには行かなかった。
どうにも血液が流れ出る速度が遅い。
理由はなんとなくだけれど想像がついた。


女の片方の脚、
ふくらはぎには大きな歯車が埋め込められている。
どうやって歯車が遺体に埋め込まれたのかを想像する。
歯車は大きな機械の部品だったのだろう。
女のふくらはぎに穴を開けて歯車から伸びているシャフトを通す。
穴から突き出たシャフトをナットで固定する。


ウィンチを使って遺体を逆さ釣りにする場合、
フックはふくらはぎに掛ける。
ふくらはぎには骨が無いから穴をあけるのが簡単で、
肉の厚みのお陰でフックが安定するからだ。
なのに片脚のふくらはぎには歯車が埋まっている。
だから代わりにかかとに穴を開けてフックを通した訳。


ナットで固定された方を見ると、皮膚が黒くなっている。
細胞が壊死しているのだと思う。
皮膚や筋肉に流れる血液を止めるとうっ血して肌が赤紫になる。
うっ血が続くと血が止まりやがて細胞が死んでいく。
皮膚は黒くなる。これが壊死だ。
脚に歯車を埋め込まれてから、
最低でも1週間程以上は経っている様だ。
しかし女の遺体は死後4日から5日という所だろう。
つまり歯車は遺体の女が生きている間に
脚に埋め込まれという事だ。


人体は不思議だ。少しの刺激が身体の他の部分に影響を与える事がある。
胃の中に多くの塩酸が分泌されると胃ではなく胸や背中が痛む。
血液中に多くの尿酸が溜まると足の親指が痛む。
眼を使い過ぎると吐き気を催す時がある。
切り裂かれた頸動脈から流れる血の速度が予想に反して遅いのは
きっと脚を貫通している歯車のシャフトが原因だろう。
あるいは肉体を強く締め付けているナットか。
脚に通常よりも多くの重量が掛かっているのが問題なのかもしれない。
人の脚には多くの静脈が通っている。
静脈は身体の下部に下がった血液を心臓に戻している血管だ。
静脈と脚の筋肉はポンプの様な役割を果たして血を押し上げる。
歯車がそれらに悪い影響を及ぼしていると推測する事が出来る。


まったく
いったい君はどうしてそんな目に合わされたのだろう?
君が生きている頃にそれらの作業は行われたはずだ。
まあ確かに、足かせをはめるよりも確実に逃げる術を奪える様には思える。
歯車は30kg以上はありそうだ。重かっただろうに。
フックに固定された脚が歯車の重みで引き裂かれはしないかと心配になる。


それとも君は生きている間、
人生を機械の部品として過ごして来たのだろうか?
そんな事はないよなと俺は一人きりの倉庫で微笑んだ。
想像する。例えば時計。
君は時計の歯車で、時計を正確に回すべくその部品として生きている。
君は寝ても醒めても他の歯車と連動して回り続け時計を動かしている。
ひどく悪趣味な冗談だ。
でもよかった。どんな理由であれ、
脚に重しを付けられて生きるなんていう酷い現実から
こうして君は解放された訳だから。


切り裂かれた首からはゆっくりと血が流れている。
その反動なのだろうか、
逆さまになった顔と髪の毛が時おり頷く様にして揺れていた。





中々終わらない血抜きに苛立ちながら、女の前に椅子を置いた。
オーディオシステムに向けてリモコンを向ける。
簡素で殺風景な倉庫の中、
音楽という文化的な生活感を感じさせるその機械は違和感を放っている。
スピーカーからはアート・テイタムのピアノが流れる。
細々とした用事も終わってしまったので音楽を聴きながら
指示書に目を通す事にしたのだった。


オーディオにはアート・テイタムのCDがセットされている。
アルバムタイトルはテイタム・グループ マスターピースVol8だ。
アート・テイタムは戦前から活躍していた盲目のジャズピアニストで
1956年に47才の若さで死んだ。
一言で表すならば天才でクラシック音楽のピアニストからも
テクニックを賞賛される程の腕を持っている。
だけれど、
彼の演奏を聴くと音楽のクオリティーとテクニックは別物だと思ってしまう。
本当は関係あるのにだ。それは彼が天才だからだ。


テイタムのマスターピースシリーズは8枚出ている。
今オーディオシステムのCDトレイの載っているのはその8枚目だ。
テナーサックス演奏者のベン・ウェブスターと共演している。
殺風景な狭い倉庫の中を軽やかなピアノが流れている。
彼の美しいジャズの始まりを告げるイントロだ。
彼のピアノは春に良く似合う。春のジャズだ。


1曲目はGone with the windという題名で日本語にするならば、
風と共に去りぬだ。
アメリカ人の女性作家マーガレット・ミッチェル
1936年に書いた小説と同名の音楽だ。
それもそのはずで、Gone with the wind
マーガレットが書いた白人農場主スカーレット・オハラの半生描いた
小説に影響を受けて完成した曲だ。
女優のヴィヴィン・リーがスカーレットを演じた映画版とは直接の関係はない。
この曲が映画の主題歌かだとかそういう事ではない。
作曲したのはアリー・リューベルだ。
彼はディズニー映画に曲を提供してアカデミー作曲賞を受賞した事もある。
Gone with the windはいつの間にかジャズのスタンダード曲なっていて、
今では多くのジャズミュージシャンのアルバムで聴く事が出来る。
どこにでもある恋愛の歌だ。


バケツにゆっくり流れ出る血を見ながら困った物だと溜め息をついた。
音楽のリズムに合わす様に首を左右に揺らしてストレッチをする。
横に置いた小さなテーブルから
革のケースに収められた情報端末を左手に取った。
画面。新しいメッセージ。愛しの彼女からだ。


彼女とは昨日会う約束をしていた。
何時もより少し豪勢な夕食を一緒に食べる事にしていたのだ。
そもそもそれも本当は一昨日の予定だった。
ところが2人の都合が合わなくなり今日まで持ち越してしまった。


ヴァレンタインデイやホワイトデイ。
義理だお返しだと煩わしく思う事も多いという意見もあるけれど
対象を恋人に限定すればとても楽しいイベントに成る。
それに、今は職場に女性の同僚もいないから気が楽だ。
ヴァレンタインデイやホワイトデイにの日には、
彼女の事だけを考える事が出来る。


今日こそ彼女と美味しい料理を食べて幸せを享受しよう。
そう決めている。
だから今日の仕事は何時も以上に円滑に終えなくてはならない。
彼女と約束した時間までに仕事を終えなくてはならない。
ならないはずなのだが……。
目の前のバケツに溜まる血の量を見て溜め息を付いた。


それから画面に顔を向ける。
彼女からの言葉を読んで微笑む。




  「おはよう。お仕事がんばってる?今日こそご飯一緒に食べようね。
   そういえばね、最近思うのだけど、言葉って大事だね。
   愛ってまず始めに言葉から始まって、
   言葉と愛って常に一緒にある物だと思う。


   つまりね、あなたはいつも言葉で私の事を好きって言ってくれるから
   大好きだよ」




微笑んだまま返事を書く。送る。
満足して画面に向かって小さく頷く。
仕事を頑張ろう。


血抜きはまだ終わらない。
革のケースをテーブルにおいて、次に指示書を手に取る。
ボスからの指示は何時も通りの観測作業。
観測作業後、収集したサンプルを後続の者に手渡す事。
作業後の清掃を徹底する事。
血抜きのせいで少し作業は遅れているけれど、
今の所を大きな問題はない。
このまま進めば、仕事も円滑に終わり彼女に会えるはずだ。


気が付くと曲がアルバムの8曲目になっていた。
曲名はGone with the windだ。
白い殺風景な倉庫に春を告げる音楽だ。
この曲は1曲目のGone with the wind
同じGone with the windで次の9曲目もGone with the windだ。
つまりGone with the windが1枚のアルバムの中に3回も入っているという訳。
いわゆる別テイクと言うやつだ。
素晴らしい曲と素晴らしい演奏があれば同じ曲でも聴いて楽しい。


アート・テイタムの演奏に聴き入る。
曲が終わる。やはりテイタムは天才だ。
優雅さと軽やかさと溢れる愛。
チョコレートとホワイトデイに似合う音楽だ。
今日こそ彼女と一緒に過ごして幸せを感じたい。
バケツの中に目をやると、
落ちる血の雫で絶え間なく広がっていた波紋が消えていた。
遺体から血液が無くなった証拠だ。
仕事の再開だ。


血抜きを終えた女の身体を手の平で2、3回叩いた。
乾いた肌と干涸びた肉の音がする。
予定より時間が掛かった物の血抜きは完璧だ。


倉庫の隅に設置された流し場にバケツを運ぶ。
4.2kgの血を下水に捨てる。
白い粉末をバケツに入れて蛇口を捻って水を入れる。
漂白剤入りの洗剤が泡立ちバケツの内外を覆う。
後は放っておく。排水溝の中には白い錠剤を投げ入れる。
水をしばらく流してから止める。
漂白剤と錠剤の作用で
少しすれば排水溝からのにおいも消える。





倉庫の脇に備え付けられている2帖程の収納から
折りたたみ式の青い密閉型コンテナを出して組み立てる。
薄い金属トレイの中に消毒用アルコールを入れて使い捨てのダスターを浸す。
少し絞ってからダスターでコンテナの中を拭いて消毒する。
ダスターはゴミ箱に捨てる。
透明なポリ袋をコンテナの内側に被せる。
縦横の長さが1メートルある容量100リットルの物だ。
コンテナを吊るされた遺体の前に運んだ。
手術用の長手袋とゴーグルを装着する。
これで用意は終わった。


使い捨てのメスを握って、女のヘソにメスを差し込む。
そのまま胸骨、胸の谷間の剣状突起に突き当たるまでメスを降ろす。
腹を縦に切り裂く。
一旦身体からメスを抜く。次にヘソの左右にメスを入れる。
骨盤の出っ張り、腸骨稜に刃が当るまで切り進む。
再びメスを身体から引き抜く。
今度は胸骨の剣状突起から右の肋骨弓を伝う様にメスを入れる。
肋骨は背骨の1部である胸椎から生えている。
左右12本ずつ、合計で24本だ。
肋骨弓はその内の第7肋骨から10肋骨が連結して出来ている
骨のカーブの事だ。
第11肋骨と第12肋骨は短く、胸の方にまで伸びていない。
他の肋骨とも繋がっていない。
メスを肋骨弓に沿う様に入れて肉を裂いていく。
第6肋骨、第7第8第9肋骨と刃を進ませ
第10肋骨の途中まで切り込みを入れる。
右側が終わったら今度は左の肋骨弓だ。同じ様に処理をする。
腹にメスでカーブを描いて切り込みを入れる。
腹部を覆っていた皮と筋肉と脂肪が観音扉の様に開いた。


血の量は少ない。血抜きが上手くいった証拠だ。
血抜きが上手くいっていない時には返り血を浴びる事がある。
遺体が何らかの感染症を持っていて、
その血液が目にでも入ったら笑えない。
内蔵の消化器や性器を切断する際、糞尿が飛び散る事もある。
だから自分の眼を保護する為にゴーグルを装着する事を忘れてはならない。
今装着しているのは銃器を開発販売するスミス&ウェッソン社の物だ。
耳に掛ける部分にはゴムの滑り止めも付いている。
本来は射撃場や軍事訓練などで飛び散る火花や破片から目を保護する為の物だ。
このゴーグルはそれだけ耐久度が高く、信頼ができると言う訳。
同じ物を2ダース程持っている。
これはボスが取引先から頂いた物だ。
取引先曰く別の会社との取引の際、オマケで貰ったものらしい。
入手経路が何にせよ、
こうして役に立っているのだから有り難い事だ。


開いた腹部に手を入れて腹膜と一緒に内蔵を取り出す。
腹膜とは内臓を覆っている薄い膜の事だ。
大腸にある結腸の途中をメスで切断する。
大腸は長く、複数の箇所に分かれている。呼び名も違う。
盲腸や虫垂や直腸も大腸の1部だ。結腸は大腸の大部分を占めている。
直腸に繋がり、直腸は肛門と繋がっている。
胃と食道の間にメスを入れる。2つの臓器を切り離す。
腸、そして腎臓と繋がっていた尿管から糞尿や未消化の食物が
遺体の腹の中に垂れ流れる。
この様に各部に切れ目を入れたら内臓を掻き出していく。
腹膜と胃と腸の大部分、それに膵臓脾臓と肝臓と胆のうと腎臓、
動脈と静脈を身体から取り出す。
下に置いたコンテナに被せた袋の中に、
内臓を掻き出す様にして入れて行く。
透明だったポリ袋が赤黒い色に染まる。


人の腹部には骨が背骨しか無い。
これで身体の中心に綺麗な空洞が出来た。
奥にはうねりながら上下に伸びる背骨が見える。
我ながら上手く内臓の処理が出来たと思う。
仕事自体は決して楽な物ではないけれど、
こういった時に喜びを感じる事はある。
自分の技術の上達を感じたり、円滑に仕事が進んでいる時の事だ。


逆さに吊るされた遺体の上を見れば
腸の一部と子宮や卵巣、それに膀胱が見える。
視線を下げれば横隔膜という筋肉が見える。
次はこれらを取り除かないと行けない。


自分が担当している仕事は
決して企業の主役に成る様な物ではない事を理解している。
1つの企業の中で主役と成る部門は商品の企画開発だったり、
商品を売り込む営業部門だろう。
企業には開発や営業の他にも
経理や人事や総務や調達や広報
それにクレーム対応や法務や監査や秘書を担当する人間がいる。
それはどんな職種の組織でも変らない。
俺の仕事をそういった一般的な職務に例えたら何になるだろ?と
考える事がある。
きっとクレーム対応の後処理や法務部の一員、
或は総務部庶務課の何かではないかと思う。
つまり業務の中で発生したトラブルの後始末やフォロー担当と言う訳。
1つの組織が企業としての体面を保つ為の仕事、
または組織が円滑に動く為に必要な仕事を担当する人員だ。
それが俺だ。
組織の稼ぎに直接的に関与する仕事ではない事を理解している。


消化器官を取り除いたら、その次は
排泄器官と生殖器を取り除く。
心臓や肺などの呼吸器を取り除く前に
こちらから作業をするのには理由がある。
顔の近くにあって良い匂いとは決して言えないからだ。


直接的に金を稼いでいる仕事ではない。
だけれど、自分の仕事は組織の中で重要な物だと思っている。
自分が居なければ、
他の業務が上手く回らなくなるだろうという自負もある。
やりがいも感じる。
そんな中、自分の技術が実務の中で向上した事を感じれば嬉しさもひとしおだ。


骨盤に囲まれた下腹部の中に手を入れる。
子宮と卵巣を片手で掴んで膣の途中にメスを入れて切断する。
子宮と卵巣をポリ袋に入れる。
こうすると隙間が開くので作業がし易くなる。


昔、小説家の村上龍村上春樹が言っていた言葉を思いだす。
仕事とは稼ぎを意味するのではなく、
自分と社会がどう繋がるかという事を意味している。
自分は何かを積極的に作り出す仕事は出来ないが、
他の人を手助けして、何かを円滑に進める為の仕事ならばする事が出来る。
決して給料が高い訳でも楽な仕事でもないけれど、
この仕事は悪く無いと感じている。
たぶん、自分の本質的にそういった事が好きなんだろう。


次に手を骨盤の内側に沿う様にして中に入れて行く。
尾骨に指が当るまで手を押し進めて行く。
尾骨は肛門の真上にある骨で、脊椎の一番下に位置している。
こうすると直腸を手で掴み易くなる。
片手で直腸をつまんで、もう片方の手でメスを入れる。
直腸と残されていた結腸を切り取ってポリ袋に入れた。


今の仕事の危うさに付いて考えた事がある。
所属している組織の規模は小さい。
大企業と比べると会社が潰れて失業という可能性は高いという事だ。
転職や再就職は大変そうだ。
するなら今の仕事で身に付けた技術を生かした職種が良い。
理想は同種の仕事に再就職する事だ。
勿論、今の組織が潰れないのが一番なのだけれど。


下腹部の内側で最後に取るのは膀胱だ。
骨盤の内側での作業は女の身体の方が行い易い。
骨盤に囲まれて内蔵が詰まっている空洞は男の場合は三角形だ。
だけれど女は子供をその中で育てて出産する為に丸く大きくなっている。
広さがある分、比較的作業がし易いと言う訳。
膀胱をメスで切り取ってポリ袋に入れた。
これで自分の顔の前から嫌な臭いの物が消えた。
次いで、肛門と生殖器をメスで抉る様にして切り取る。
この2つの器官は一部分が身体の外側に飛び出しているので
股に大きく2つの穴が開く事になる。ポリ袋にいれる。
男の場合、骨盤内部の空洞が小さいだけではなく
行程が増えるのも作業の難しさの原因になっている。
行程が増えるのは男女の生殖器の違いによる物だ。
男の場合も女の場合と同じ様に身体の内側から
生殖器の海綿体などを切り取った後に、
身体の外に出ている陰茎と睾丸を切断しなくてはならない。
そして股に穴をあける。
そうしないと内蔵を完璧に抜き取る事が出来ないからだ。
これが以外と大変な作業なんだ。


所属している組織の事を考える事もある。
俺が知っている限りでは、ボスも含めて同僚と言えるのは8人ほどだ。
各々がそれぞれ別の場所で働いている。
一部の同僚を除いてたまにしか顔を合わさない。
俺が知る限りでは、
ボスに仕えている人間の主な職務は遺体の解体作業だ。
俺が知る限りではどこか大手の企業に所属している訳ではなそうだ。
色々な人や企業から依頼された仕事を請け負っているのだと思う。
でも俺が推測するに、
複数の企業が金や人材を融通して作られた組織だとは思う。
御得意さんだと思われる人々の顔ぶれを見ればそれ位は分かる。
でもどっちみち、俺がここに就職した時には、
既に企業として完成されていたから全ては推測でしかない。
俺はそこに組み込まれただけだ。
全て推測なのは自分が知らなくていい事は
知らないままにするという事が業界のマナーだからだ。
暗黙の了解だからだ。不文律だからだ。


横隔膜は人体にある筋肉の1つ。
伸縮する事で呼吸と排便を助けている。
横隔膜から上が胸部で、下が腹部だ。
この筋肉を通る事が許されているのは食道と動脈と整脈だけだ。
つまり、俺は一連の作業で腹部を綺麗にしたという事に成る。
仕上げをする。
臓器を切断する際に糞尿や未消化の食物が遺体の中に垂れた。
それを布で拭き取って行く。
布はゴミ箱に捨てる。これで腹部の処理は完璧だ。
これで仕事が終われば簡単なのだけれど、
横隔膜を切り、心臓や肺を抜き出さなくてはならない。


もっとも多い仕事が人体を内蔵と筋肉と骨とそれ以外の部分に解体する事だ。
今日の仕事もそれだ。
以前は、ゴミ焼却所を所有していた企業が多かった。
業務上出た遺体を他のゴミと一緒に焼いて処理する。
これで処理は終わりだ。簡単だった。
ところが近年ではゴミ焼却所の新設に対する規制や
所有者の身元に付いての調査が厳しくなっている。
焼却所への立ち入り調査が行われ、
処理前の遺体や処理後の遺体の残骸が発見される事件が数件あった。
今残っている焼却所は殆どがまともな所だろう。
廃車を置くジャンクヤードも
2013年から設置や運営に対する規制が厳しい物になって来ている。
これも焼却場に対する取り締まりの延長線上にある出来事だ。


横隔膜は腰椎の1個目から4個目と繋がっている。
上部は肋骨の7番目から12番目に付いてその間に筋肉を広げている。
つまり横隔膜を切らないと
心臓や肺がある胸部の内部に触れる事も出来ないという訳。
脊椎に付いている横隔膜を一部切断する。
筋肉を骨から切り離すのは後の作業だ。
横隔膜を観音開きの様に切っていく。
腹部を開いた時と同じ様に体からは切り離さないのがコツだ。
後の作業がしやすくなる。


ゴミ焼却所に対する取り締まり。
そこで俺が就いている様な仕事の需要が生まれる。
規制が新たな職種を生むのはどの業界でも同じだろう。
遺体を解体して分別する。
そこから先はどうなるか知らない。
俺の仕事は遺体を解体して、回収担当の同僚に渡す事だけだ。
ただ、細かくした方が処理がし易くなるのだろうという事は良く分かる。
遺体を地中に埋めるのはだめだ。体内でガスが発生してやがて体外に噴出する。
土が吹き飛ばされてしまう。遺体が見つかり易くなる。
それに長い間、処理をした証拠である骨が地中に残ってしまう。
海中に捨てるのも同じ様な理由で難しい。
個人でバラバラにするのも賛成出来ない。
労力がかかるし、
結局はバラバラにした遺体をどうにかして処理しなくてはならない。
薬品で溶かすのも完璧とはいえない。
専門的な薬品は購入履歴が残る可能性が高い。
それに髪や歯や骨が完璧に処理出来ない事もある。
それらが原因となり警察に目をつけられた人間も多い。
その点、俺達の様な専門家に任せれば安心だ。


横隔膜を開くと直ぐに心臓と2つの肺が見える。
心臓と肺がある胸部の空洞は骨で囲まれている。
後ろが脊椎、左右を脊椎から伸びる肋骨、
前方を肋骨と繋がる胸骨が覆ってる。
骨盤と同じ様に丸い空間になっている訳だ。
手前にある心臓を片手て握る。力を籠めて持ち上げる。
心臓は多くの管で他の臓器と繋がっている。
その中の大動脈は太さが2センチから3センチもある。
簡単に身体から離す事は出来ないという訳。
だから作業するには少々の力が必要になる。
心臓を繋ぐ管は堅く強い。
開いた隙間にメス入れる。
脈を切り心臓を身体から切り離す。
心臓をポリ袋に入れる。


何事にもそれに関わる人数に適切な数はある。
遺体の処理に関わる人数の理想は1人だろうと思う。
日々の業務の中で遺体が出た事を人に知られてしまうのは、
企業としては良い事とはいえない。
一般的な企業に訴えられたクレームを社会全体が知ってしまう様な物だ。
クレームは適切に対処すれば良いものであって、
世間に広める必要がある物では無い。
遺体の処理を専門家に任せるという事は関わる人数を増やす事だ。
処理の行程を分担制にしていてはさらに人数を増やす事となる。
だが、遺体の処理を専門家に任せないという事は
企業が何らかの告訴の対象になったのにも関わらず、
対応を法務の専門家に任せない事と同じ様な事だ。
物事にはそれを解決する適切な能力を持つ人間と対処法がある。
今、この時代において遺体の処理に関する事では、
それは俺が所属している組織の事だろう。
そう言った自負が決して楽とは言えない日々の仕事に
やりがいと責任と達成感を与えてくれる。


心臓の切り取りを終えたら、次に行うのは肺の切除だ。
口と鼻と繋がり喉奧へと伸びる空気の通り道である気管は
胸に入ると二手に分かれる。
それぞれが左右の肺と繋がっている。
気管をメスで切断する。
目に付いた血管も切断しておく。
肺は胸膜という膜で覆われている。
膜をメスで破ると肺を囲むしょう液が
女の体内へと流れ出る。
逆さに吊るされた遺体の右乳房横手を右手で掴む。
身体が揺れない様に固定する。
左手を体内の薄い膜の中に突っ込み肺を握って体外へ取り出す。
気管が切断された肺は簡単に取り除く事が出来る。
足下のポリ袋に入れる。
左の肺も同じ作業を行って取り出す。
左の肺は右の肺より小さいので作業は楽になる。
ポリ袋に肺を入れる。
心臓と肺を取り除いた胸はぽっかりとした穴が空く。


自分の所属する組織が仕事を分担制にしている理由には予想がついている。
分担すれば各々が自分が行う作業だけに集中出来る。
遺体遺体の全てを知る必要も、
万能である必要もなくなる。
自分が担当する作業だけの専門家になればいい。
何らかの原因で人員に欠けが出来てもそれ以外の行程は機能する事が可能になる。
人員の補充もし易い。個人が全ての作業を行っていてはこうはいかないと思う。
専門家ではない個人が遺体を処理する際に問題になるのは、
1人の人間が遺体を作り出し、同じ人間が遺体の解体をして、
同じ人間が遺体を運び、
同じ人間が遺体を隠すという事だ。
全てに関わるという事は全てを知っているという事で、
1つミスをしてそれが明るみに出れば、
他の事も社会全体に知られてしまうという事だ。
分担すればそれを防げる。
1人の人間が遺体を作り出し、
違う人間が遺体の解体をして、
違う人間が遺体を運び、
違う人間が遺体を隠す。
誰かがミスをしても、他の事は明るみにでない。
どうして遺体が出たのかか?
どうやって解体したのか?どこへ運んだのか?
最終的に遺体はどうなったのか?
自分の仕事以外の事は何もわからない。
そういった事があるからこそ、各々の仕事には完璧な作業が求められる。
誰かが終えた仕事を引き継いで、自分の仕事を行う。
そしてまた次の人間に先の作業を任せる。
仕事とは社会との関わり方の事だと言った
作家の言葉の意味を最近は良く実感する。


心臓と肺を取り出したら次は咽喉内部の解体に進む。
取り除くのは食道と気管だ。
口と鼻、それぞれの空洞は喉仏の上辺りで1本に繋がる。
そして喉仏の裏でまた二手に分かれる。
前面にあるのが気管で。後ろにあるのが食道だ。
食道の後ろには脊椎の首部分、頸椎がある。
気管は鼻と口から取り入れた空気が通る管で肺に繋がっている。
食道は口で咀嚼した食べ物が通る筒で腸に繋がる。
血抜きの為に切った総頸動脈の内側に気管と食道が通っている。


任される仕事にも色々なケースがあるのだけれど、
一番多いのが遺体を内臓と肉と骨とそれ以外に解体して分ける事だ。
それ以外とは髪の毛や体毛、爪などの事を言う。
それぞれをケースに収めて後の行程の人間に預ける。
なぜ、内臓や肉や骨を分けるのだろうかと考えた事はある。
きっとその方が後の作業が簡単になるからだ。
業務の中で出た遺体を細かく解体して
豚などの雑食性の家畜の飼料として利用する方法がある。
家畜は精肉として売るなりすれば遺体処理の痕跡は残らない。
だが肉と内臓では、家畜の飼料としての適正に違いがある。
筋肉と内臓では後者の方が痛みが早い。
家畜の内臓で消化されるのが早いのは筋肉の方だ。
家畜が遺体の内臓を食べなかったら、
結局は別の方法で処理しなくてはならない。
それは遺体処理の痕跡が残る可能性が大きくなると言う事でもある。
つまり、人間の遺体の各部にはそれぞれ理想的な処理方法があるという事だ。
その為に遺体を筋肉と内臓と骨とそれ以外に分けるのが最も多い仕事だ。
もちろんそれ以外の方法を指示される事もある。
多いのは指定された遺体の一部を出来る限り傷つけずに保管する事だ。
解体する部位とは別途、手や指や内臓などを保管する。
その際には低温で保存しなくてならない為、
専用のケースや氷などが必要になる。


喉を通り胸部に飛び出ている気管と食道を握って、
適当な所で切断する。ポリ袋に入れる。
また気管と食道を握る。切る。ポリ袋に入れる。
それを何度か繰り返す。喉の中まで手を入れて行く。
手が入る部分の管を切る事が出来たら
次は喉の内部をメスでかき回す様に削いで行く。
遺体の頭ががくがくと揺れて不安定になるので両膝で頭部を挟んで作業を行う。
気管の入り口付近にある声帯も一緒に切り落としてポリ袋に入れて行く。


職場の環境は良いと思う。
設備は整っている。
人間関係の悩むもありはしない。
この職場に常勤しているのは自分1人だけだから。
顔を合わせるのが社内の人間より外部の人間の方が多いのは面白い。
案外、一般的な企業の営業もそんな感じなのかもしれないけれど。
俺が出勤している倉庫は
ある環境調査会社の研究所と器具置き場という事になっている。
一応タイムカードも設置されている。
俺はその環境調査会社の社員で、給料もそこから出ている事になっている。
国に収める税金も年金も勿論払っている。
税金や年金の処理も普通の企業と同じだ。
このお陰で普段の生活を一般の人の様に送る事が出来ている。
会社に勤めてから、政治が自分に直接的に関係する
身近な物として感じられるようになった。
それはきっと、自分が一般的な生活を送る事が
出来ているからなのだと思うのだけれど。


気管と食道があった場所に空洞が出来た。
2本の管の後部には頸椎がある。この処理は後ほど。
前方と左右は甲状腺によって覆われている。
こちらはいま取り除いてしまう。
甲状腺の長さは大体4cm程でアルファベットのHの形をしている。
喉にある靱帯により気管に固定されている。
気管を削り取る作業の時に既に一部が削れている。
今度は靭帯を切り離す様にメスを入れて行く。
なかなか難しい作業なのだけれど、今回は上手くいった。
そもそも遺体の解体は男よりも女の身体の方が難しい。
理由は女の方が身体の色々な部分が小さいからだ。
例外は骨盤の内部と生殖器だけだ。
骨盤内部は女の方が広いから作業はし易い。
男の遺体を解体する方が力はいるのだけれど、それはどうとでもなる。
細かい作業こそ難しい。技術。丁重。繊細。
それらが上手く行くのは嬉しい事だ。
少しだけだけれど頬が思わず緩んだ。
自分でも器用な方だとは思っている。
ここに就職する前から簡単な配線や機械の修理位は自分でやって来た。
だからこそ、自分の長所に成長がある事が嬉しいのだ。
遺体から切り取った甲状腺をポリ袋にいれる。
甲状腺の周りに筋肉と皮膚があるがこれらを処理するのは後の行程だ。


自分の勤める会社の事は知り過ぎてもダメだし、
知らな過ぎてもダメだと思っている。
好奇心から法務局に登録されている会社の商業登記を見た事がある。
商号は勿論そのままこの会社名で
目的の欄には各種の環境調査、並びにこれらに関連する業務と書いてあった。
それらは俺がボスから伝えられた通りの物だ。
なのだけれど、会社の代表が俺の知っているボスの名前ではなかった。
それどころかうちのボスは男なのにも関わらず、
登記簿に記された名前は女の物だった。
登記簿を見た当時、
この業界はそういうものかもしれないと深追いするのをやめた。
自分が所属する組織の現状や
そこから予測出来る未来や真実を見るのは勇気がいる行為だと思う。
それは自分の将来に関わる事で、調べた結果現状が芳しくない場合、
失業の可能性なども垣間見える事があるからだ。
望まない将来の可能性が僅かにでも見えたのならば、
本当は正調査をして正しい情報を得て、
将来の危険に対処するべきなのだけれど、
未来を考える事への恐怖と日々の生活の急がしにかまけて
それを諦めてしまった。


咽喉部分を処理したら眼球だ。
咽喉部分の作業と比べるととても簡単なので
気を張らずにリッラクスして行う事が出来る。
床に屈む。
逆さに吊るされた女の顔に手の高さを合わせる。
瞼を左手で開いて右手で水平にメスを入れて行く。
角膜と瞳孔と水晶体を切り開く。
切り開いたら女の眼窩の大きさを目視で推測する。
眼窩とは眼球が入っている顔の穴の事だ。
丁度良い大きさのスプーンを取り出す。
メスをスプーンに持ち帰る。
開いた水晶体の中にスプーンを突っ込み中の硝子体などを掻き出す。
ポリ袋に落として行く。
この時掻き出すのは表面の角膜や水晶体、内部の硝子体だけだ。
周りを覆う網膜や強膜、眼球を動かしている筋肉である外眼筋は残す。
次にもう片方の目も同じく処理して行く。ポリ袋に落としていれる。


これで内臓の処理のほぼ全てが終わった。





あと1部分残っているけれど、それはもう少し後の作業になる。
予定よりは時間が押しているけれど、問題の無い範囲だ。
このままいけば、今日の夜は彼女と一緒においしいご飯が食べられるはずだ。


ゴーグルを外してから手袋を専用のゴミ箱に入れる。
流し場の水道から水を出して、
洗剤で手を良く洗う。
タオルで水を拭き取って消毒液を手に馴染ませて殺菌する。
基本的に、解体作業の前に手を洗う事は無い。
遺体の衛生状態に特に気をつける必用は無いからだ。
外科出術を行う執刀医との大きな違いの1つだ。
彼らは患者の患部を切り裂く前に手を洗い
清潔な手術着を着て消毒された道具を使う。
だけれどこちらはそういった事は関係がない。
手袋とゴーグルをするのは自分を汚れから守るため。
清潔な制服も消毒された道具も必要ない。
メスは切れ味が良ければ汚れていようと問題がない。
道具は使用者に求められる機能があれば
余計な物はいらないのだという話しだと思う。
まあ、刃に血液や脂肪が凝固して付着していたら
切れ味が悪くなるので、
メスは使い捨ての物を使用しているのだけれど。


道具棚からインスタントコーヒーを取り出す。
テーブルに置いていたカップの中にスプーン1杯半分の粉を入れる。
道具棚に置いてある電気ポットを使って熱湯を注いだ。
ガラスの瓶を手に取って中身の濃縮レモン果汁をコーヒーの中に振る。
最近はレモンコーヒーを良く飲む。さっぱりしているのが良い。
日本では珍しいけれどイタリアやロシアでは良く飲まれている。
休憩室に行けばコーヒー豆とコーヒーメイカー。
それに生のレモンがあるのだけれど、仕事中はこれで我慢だ。


椅子に座る。
フックに吊るされた遺体を観る。
内臓を抜かれて朝よりも大分軽くなった。
遺体が緩やかに揺れている。
遺体は解体の処理が進めば進む程軽くなって、
吊るしていても揺れが無くなって行く。
最後には消える。


レモンコーヒーを飲みながらテーブルに置いた端末を手に取る。
彼女から新しいメッセージが来ている事に気が付いた。
嬉々として読む。




  「仕事はどう?
   私の方は順調にいっているよ。早く会いたいね。


   最近思うのだけど、
   好きな人にその気持ちを伝えるって素敵な事だよね
   言われても嬉しいけれど、言った方も嬉しくなる。
   まるで呪文みたい。それを一回呟くだけで幸せになれる様な呪文。
   だから、私、そういう事を言える人が側にいる事が、
   それだけでとても幸せよ」




彼女の言葉に
確かにそうかもしれないと思う。
目を瞑る。天を仰ぐ様に顔を上に向けて、
彼女の事を思いながら愛していると1人呟いてみる。
うん、たしかにこれだけで幸せな気持ちになれる様な気がする。
そんな事を思いながら彼女に返事を書く。
彼女には自分の仕事を地質や水質の環境調査や実験をする仕事だと言っている。
大嘘だけれど、会社の登記簿上は嘘ではない。
今日の実験はなんとか予定通りに終わりそうだと返事を送った。
それから5分とかからずにコーヒーを飲み干して仕事を再開する。
新しい手袋を装着して、ゴーグルを顔に着ける。
今日こそ、彼女に会いたい。


内臓を処理したら骨と肉の解体に取り掛かる。
内臓の時は腹から処理をしたけれど、
こちらは頭の方から作業を行う。
同時に肉でも内臓でもない部分の切り取りも行う。


内臓を入れていたポリ袋とコンテナを
遺体の下から移動する。
道具棚から鉈を取り出す。
関節を切るのには鉈が良い。
肉切り包丁でもいいのだけれど、
鉈は自然環境で使う事を考えられているので、
持ち手に滑り止めが付いている物が多く作業がし易い。
今使っている鉈も、持ち手には樹脂で出来た滑り止めが付いている。
メスは使い捨ての物を使っているのだけれど、
鉈は使い捨てにする訳にはいなかいので、マメに刃を研いでいる。
右手で鉈を握り、左で女の髪を掴む様に頭頂部を支える。
首に鉈を2度3度と振りかざす。
頸動脈も既に血抜きの為に切っており、
咽喉の内部も処理しているので
切る必要があるのは首の骨である頸椎と周りに残る僅かな肉と皮膚だけだ。
7つある頸椎のうち、4番目と5番目の間に鉈を入れると簡単に首は切れる。
もう1度鉈を振ると左手に一気に重みが伸しかかる。
頭部の切断が完了したのだ。
直ぐさま鉈を床において両手で頭を支える。
首が切断された反動で、
吊るされている遺体とウィンチが派手な音を立てて揺れる。
女の頭部を脇において、遺体の揺れを手で止めた。


順調だ。
早く仕事を終えて彼女に会いたい。


そう考えながらも次の作業の事を考えると
暗い気持ちになってしまう。






遺体の処理する際には身体を内臓と肉と骨とそれ以外に分ける。
身体のそれ以外とは髪の毛や爪の事だ。
だから頭を胴体から切り離したら次は髪の毛を処理する。


この行程は心に堪える。正直していて辛い行為だ。
男の髪の毛をどうしようと心は痛まないのだが、女の場合は違う。
たぶんそれは俺が女の髪の毛に女性性を見ているからなのだと思う。
それを切り取る事で俺は自分が女性を穢しているのではないのか?
という気分になっているのだと思う。


内臓用のコンテナを作った時と同じ要領で
組み立て式のコンテナを消毒してポリ袋を掛ける。
今度のはとても小さい箱だ。
道具棚から毛刈り様の電動バリカンを取り出す。


でも、仕事には辛い事もある。それこそが仕事だよなとも思う。
名前を忘れてしまったけれど、ある作家が
人がやりたがらない事をやるのが仕事だと言っていた。
きっとそういう物だろう。
これはどんな職種の仕事でもある事なんじゃないか?
そう考えて自分の心を落ち着かせる。


頭部を腋で挟む様にして左手で抱える。
髪の毛がポリ袋に入る様に頭部を固定して
女の髪の毛をバリカンで刈って行く。
眉毛も刈る。
本当に嫌な気分だ。
早く彼女に会って慰められたい。


仕事の辛い部分を想像する。
例えばペットショップの店員だ。
勤めている人間の多くが犬や猫が好きなのだろうと思う。
けれど動物を商品として扱っている以上、
嫌な出来事に遭遇する事は少なくはないだろうと思う。
売れる前に病気になったりノイローゼになる犬猫も多そうだ。
動物の死に直面する事も多いだろうな。
医者や看護士、介護士なんかも似た様な物なのでないかな。
他にも例えば警察官だ。
この職業に就くのは真面目な人間が多いと思う。
だけれど、犯罪者相手に仕事をしなければならない。
真面目な人間にとってそれは大変な事だろうなと思う。
被害者と顔を合わせる事も多いだろう。
きっと真面目な警察官達はそこで心を痛める事も多いはずだ。
俺にとってのそういう事が、女の髪を切り取るという仕事だった。
つらい。


悲しい気持ちで溜め息を小さく吐く。
バリカンのスウィッチを止める。
ポリ袋の中には大量の髪の毛が入っている。
右手に抱えた女の頭は剃り上がっている。
なぜだかとても申し訳のない気持ちになる。
きっとそれは俺が、女に暴力を振るう人間を嫌っているからだ。
まあ兎も角、髪の毛の処理は終わった。


ついでに陰毛も処理する。
頭部を床においてコンテナを持ち上げ、遺体の股の前に持って行く。
バリカンを使って陰毛をポリ袋の中に落とした。
脇毛などは生前処理をしていた様で生えていない。
これで体毛の処理は終わりだ。ポリ袋の口を縛る。


次は最後に残った内臓を切り取る作業に移る。
コンテナを2つ作る。
1つは内臓用の物よりも大きい。骨用のコンテナだ。
内臓用と同じサイズのコンテナが筋肉用のコンテナだ。
内臓用、筋肉用、骨用、それ以外様のコンテナを遺体の横に並べる。
椅子を持って来て座る。
女の頭部を左手で抱えて。右手でメスを持つ。
眉間の上辺りに刃を突き刺す。
水平に移動させて耳の上部を刃が通る。
刃はそのまま後頭部を通り過ぎて反対側の耳を触って眉間に戻る。
メスが頭部を一周した。皮膚に切れ目が入る。
剃り上がった頭頂部に刃を突き立てる。
回るいケーキを6等分にする様に切り込みを入れる。
それが済んだら頭部の皮を1枚1枚剥いでい行く。
皮と骨の間には骨膜と言う薄い膜がある。それも剥がす。
頭蓋骨は丸い。だから皮膚が剥がし易いので作業は簡単だ。
簡単なはずなのだが、身体は肉離れがどうにもこの悪い。
死後に遺体の身体が固くなる死後硬直は通常の場合90時間で溶ける。
固かった肉が90時間で軟らかくなる。
この遺体はどうみても死後4日は経過していると思っていたのだが……。
なのに肉の離れが悪い。血の出も悪かった。
これも脚に埋め込まれた歯車の影響なのだろうか?
原因が何にせよ予想が外れて苦い顔になる。
自分の事を少し間抜けに感じる。
仕事に慣れて気を抜いていたのかもしれない。
ウィンチに遺体を吊るした時に、
遺体の一部を切り取って、肉の状態を確かめればよかった。
遺体は肉が軟らかい方が解体がし易い。
固いという事はつまり作業時間が伸びるという事だ。
ペースを早める事にする。
今日はなんとしても彼女と一緒に過ごすのだ。


気持ちを改める。
頭部から皮を引き剥がす。剥いだ皮は肉用のポリ袋に入れて行く。
何度か繰り返すと頭部の骨が丸見えになる。
頭部の骨と言っても1枚で出来ている訳ではない。
脳を覆う部分だけでも前頭骨と側頭骨と頭頂骨の3つに分かれている。
前頭骨はおでこにあたる部分の骨で、頭頂骨は後頭部の事だ。
側頭骨はその間、耳が付いている部分の骨だ。
この3つの骨を外す。
前頭骨に刃を突き立てる。
今度はメスではなく鉈だ。鉈で骨を切り砕いて行く。
皮を剥いだ時と同じ様に頭部を水平に一周する。
頭蓋骨は1枚の骨ではないので、
それぞれの骨の間に僅かな隙間がある、
だから各部に切り込みを入れれば取り外しがし易い。
前頭骨を外す為に耳の前側に刃を突き刺す。
頭頂部を通って反対の耳に回る様に鉈を入れる。
頭頂部は丸い。
だから鉈を入れる際に刃が滑らない様に注意しなくてはならない。
以前そのせいで左手の外側、
親指の付け根付近に鉈を深く入れてしまった事がある。
今でも傷跡が残っている。この傷跡を見る度に身が引き締まる思いになる。
ちゃんと仕事をこなそう。


耳の前方にある蝶形骨と前頭骨の間に指を入れる。
蝶形骨は左右の耳の前方にある骨だ。
左右にあるが2枚ではなく、頭蓋骨の内部を貫通する1枚の骨だ。
脳を下から支える様に配置されている。
指に力を込めると前頭骨が外れて、蝶形骨の上にある脳が露出する。
脳は髄膜という3層の膜で守られている。
一番外側が強膜で2層になっている。
間には整脈が通っている。
頭の骨を外すと、硬膜の一部が付いてくるので同時に脳から剥いでしまう。
これらは後で処理をする。
髄膜の一番下が軟膜でこれは脳と密着している。
硬膜と軟膜の間がクモ膜だ。
脳みそを見る度にクモ膜下出血で無くなった家族の事を思いだして切なくなる。
確かにこんな所に血が溜まったら死んでしまうだろうな。
おでこが無くなった事で頭頂骨が掴み易くなった。
頭頂部をと脳の間に指を入れる様にして掴む。
後ろに引き下げる様に外す。脳の後部が露出した。
同時に側頭骨の一部も外れるので
脳を守る骨が一切なくなる。
前頭骨と頭頂骨は内側にこびり付いた硬膜を
処理しなくては行けないので端に置いておく。
鉈を置いて脳が露出した頭部を持つ。
内臓用のコンテナの前にしゃがむ。
手で脳みそを掻き出して行く。ポリ袋に入れる。
脳の固さは木綿豆腐と同じ程度なので特に刃物を使う必要は無い。
大脳、中脳、小脳、間脳。
海馬等の返縁の器官も取り除いて行く。
掻き出してポリ袋に入れる。
細かい所や取り難い所は指の先きや道具棚から取り出したヘラを使い
掻き出して行く。削ぎ落として行く。
脳の大部分を取り出したら次は橋(きょう)だ。
橋は中脳の下に有り脳と脊椎の間にある。
ヘラをメスに持ち替えて切り取る。ポリ袋に入れる。
橋の下には延髄がある。延髄は基本的には頸椎に囲まれている。
骨の中をメスでかき回せる様にして延髄を切り取って行く。
細かくなった延髄をスプーンで掻き出してポリ袋に入れる。
終わったら先程外した前頭骨と頭頂骨に付いた髄膜の処理をする。
ヘラなどを使って器官用のポリ袋に削ぎ落として行く。
骨が切れになったら骨専用のポリ袋の中に入れる。
これで全ての器官処理が終わった。
延髄より先は頸椎、
つまり脊椎や椎骨の部類に入るので、処理の方法が器官とは異なる。


手袋をゴミ箱に捨てる。
脳そのものや脳脊髄液で濡れた手袋で次の作業はし難い。
新しい手袋を身に付ける。
器官が入ったポリ袋の口を縛り閉じる。
小さな冷凍庫から保冷剤を取り出してコンテナの中に入れる。
内臓は短時間で痛み異臭を放つ。それを防ぐ為の処置だ。
冷凍庫の中が空になる。
ここ最近、保冷剤を使用する作業が多かったからだ。
業者に発注は済ませたのだけれどまだ新しい保冷剤は届いていない。
今回の仕事ではこれ以上は使う事が無いので大丈夫なのだけれど。


コンテナにフタをする。フタはロックして簡単に開かない様にする。
邪魔にならない様に倉庫の隅に置く。
肉離れの悪さがあった物の器官の処理は順調に終わった。
何も問題が起こらなければ、肉と骨の解体に時間がかかっても、
今日は無事、夕方過ぎには職場を出られるはずだ。


彼女に早く会いたい。彼女の事を想像する。
彼女の優しさや穏やかさ、
一緒に居る時の幸せな気持ちを想像する。
それだけで少しだけ、救われた様な温かい気持ちになる。
今日こそは彼女の為に早く仕事を終えよう。






次は歯の処理だ。
女の頭部を両膝で抱える様に座る。手の届く位置に丸い受け皿を置く。
口の端をメスで切る。
下あごの付け根まで刃を入れたら反対側も同じ様に切れ目を入れる。
付け根まで刃が進んだらUターンして鼻のすぐ下を通る様に水平にメスを入れる。
反対側の付け根に辿り着く。
口の上部の肉が、唇ごとはずれる。ポリ袋に入れる。
上の歯茎が丸見えになる。
下唇も、半円を描く様にメスを入れて切り取る。ポリ袋に入れる。
舌も作業の邪魔になるのでメスで切り取る。ポリ袋に入れる。
これで下準備は整った。
遺体の歯を抜くのには抜歯鉗子(かんし)という専用の器具を使う。
これは歯科医が使用している物と同じ道具だ。抜歯専用のペンチの様な物だ。
上の前歯を先端で挟む。持ち手に力を籠めて固定する。
ゆっくりと力を籠めて歯を引き抜く。抜いた歯を受け皿に入れる。
抜歯したばかりの歯はその根に血や神経を付けている。
これらを取らなくてはならないが、それは後の作業だ。
まずは歯茎に付いている歯を全て抜かなくてはならない。
前歯、その横の歯、更にその横の歯と抜いて行く。
奥歯に取り掛かろうとした所で問題が起こった。
なんという事だ。


抜歯鉗子の合わせ、支点の部分が外れた。
1つの器具として機能していた物が、2つの金属片になってしまった。
これって壊れる物なのか?道具なのだから壊れるのは当り前か。
仕方の無い事だと思い直す。
予備の鉗子はないかと道具棚を探す。無い。
隅々まで探す。ない。どうしよう。探す。ない。
これでは仕事が進まない。仕方ないでは済まされない事体だ。


なんで予備を用意しておかなかったんだ。
なんでってこんな急に壊れる物だとは思わなかったからだ。
何か無いのか。思いだせ。
あった。思いだした。ニッパーだ。ニッパーがあった。
大分前にとても小さな遺体を解体した。
鉈で解剖するのが難しかった小さな部位を
解体する際に使った物が合ったと思う。
それがニッパーだ。道具棚の引き出しの奥底にあるはずだ。
見つけた。支点の先に付いた2枚の歯の部分が鋭く尖っている。
これがニッパーだ。
これじゃダメだ。だめじゃないか。
ニッパーは物を挟み引き抜く物ではない。
挟んで切断したり砕く用途に使用する工具だ。
これで抜歯をするのは難しい、
ニッパーよりも必要なのは刃が平らなペンチなんだ。
ペンチ。そうだペンチだ。ペンチは無かったか?
なければ車を走らせてホームセンターに買いに行かなくてはならない
それでは時間を大分使ってしまう。
今日はなんとしても彼女に会いたいというのに。
時間を使うなんてダメなんだ。
予備を用意していない自分のミスだと思う。
思いつつも、
予備を安心して購入出来る様な予算を回してくれない上も悪いと思う。
むかっ腹が立つけれど、いま怒っても何も事体が変る訳ではない。
溜め息を吐いてどうしようか考える。


ひらめく。思いだしたと言う方が正しい。再び思いだした。
急いで備え付けの収納の扉を開ける。
コンテナを収容している場所だ。
中を見回す。目当ての物が無い。
折り畳まれたコンテナを退かす。
無い。無い。見つけた。
見つけたのは小さな工具箱だ。
以前、ウィンチを上げ下げするスウィッチが反応しなくなった事がある。
原因を調べると電線が切断していた。
それを自分で修理した事がある。
その当時購入したのがこの工具セットだ。
少し前に流し場の水道管に水漏れを見つけた。
水道管の修理をするのにも工具セットを使った。
工具箱の中には一般的な工具が一式入っている。
簡単な工作や修理で使用する工具だ。
ねじ回し、とんかち、レンチ、スパナ、ノコギリ。
その中にペンチがあった事を思いだしたんだ。
工具箱のフタを開ける。持ち手が赤いペンチを見つける。
刃は平で、これならば歯を挟んで力一杯引き抜ける。


安心して額にかいた汗を腕で拭った。
ペンチを握る。
女の頭部を持って上顎の歯をペンチで挟む。
力を籠めてゆっくりと腕を引く。歯が抜けた。成功だ。
歯の根には神経と血が付いている。問題なく作業を続けられる事を確信した。
トラブルが解決するのは嬉しいけれど、時間を取られてしまった。
その時間を取り戻そうとする。
いつもより集中して作業に取り組む。
歯を抜いて行く。抜き難い時は口の中に手を入れたり、
耳を掴んだりして頭を固定して力を込める。そしてペンチで歯を引き抜く。
横に置いた皿に歯を並べて行く。
上の歯が全て抜けた。次は下顎の歯茎に付いた歯だ。
前歯から初めて奥歯へと向かって行く。
前歯、犬歯、奥歯。
こうして全ての抜歯が終わった。
ペンチと頭部を置く。
抜いた歯の先に付いた神経などを
ヘラやメスで削ぎ落としポリ袋に入れて行く。
この際、自分の指を傷つけたり切り落とさない様に注意する。
終わったら歯を小さなポリ袋に入れる。ポリ袋の口を縛る。
体毛用のポリ袋の横に歯様のポリ袋を置いた。
このコンテナに入れるのは後は手足の爪だけだ。


壁に掛けられたアナログ時計を見る。
お昼を過ぎている。
トラブルのせいで予定よりも時間は押している。
だけれどトラブルがあった割には思ったより作業が進んでいる。
後の作業は骨と肉の解体が大部分を占める。
どうしようかと考える。
結果、午後の仕事を集中して行う為に昼ご飯を食べる事にした。
お腹が減っては良い仕事はできないと思う。
遺体の肉離れが悪く作業進行が遅れそうだけれど、それくらいの時間はある。
彼女から新しいメッセージが来ているかも知れない。それも見たい。
ゴーグルを外して手袋をゴミ箱に捨てる。
流し台で手を丹念に洗う。消毒をする。
次いで顔も水で洗う。
汗をかいた顔に冷水が気持ち良い。
清潔な紙で手を顔に付いた水を拭う。
紙をゴミ箱に捨てる。
情報機器端末を持って倉庫の外に向かう。
お昼ご飯にしよう!






倉庫の階段を上がって扉を開けて一階に出る。
作業を行う倉庫は地下に埋まっている。
階段は地上の器具置き場に繋がっている。
環境調査に使う機器や設備の保管庫だ。
そういった器具を使う事は無い。
だけれど時たま新しい器具が入って来て、
古い器具は取り除かれて行く。
なぜそんな事をするのか?
ボスが言うにはこの場所を登記簿にある通りの
環境調査会社の関連施設にしておく為の処置、その1つという事らしい。
そういう物なのだろうと納得しておく。
器具置き場を抜けると建物のエントランスに繋がる。
エントランスの奧に扉がある。扉の先は10帖程の休憩室だ。
休憩室にはソファやテレビや本棚、
トイレの他にガス台付きの台所や冷蔵庫も設置されている。
別の部屋にはシャワーまである。なのでその気なればここで暮らす事もできる。
まあ職場で寝泊まりしても気が休まらないので、そんな気はないのだけれど。


通勤の途中に買っておいたお昼ご飯を冷蔵庫から取り出す。
電子レンジに入れる。
家から職場の丁度間に、車で寄れるパン屋がある。
サンドウィッチの他に総菜も売っている。
今、レンジで温められているのがその総菜だ。
パンも買ってある。こちらはフランスパンのバケットだ。
まな板と包丁を取り出す。バケットを乗せて好みの大きさに切り取る。
オーブントースターに入れて焼く。
この職場に勤め出した当初は健康に気を使って毎朝弁当を作り持参していた。
なのだけれど、ある日弁当を鞄に入れ忘れてしまった。
仕方が無いので通勤途中のコンビニで昼ご飯を買った。
その時、朝に弁当を作らない事の楽さに気が付いてしまった。
それ以来、お昼ご飯は市販の弁当や総菜で済ませる様になった。
社員食堂がある会社だったらまた別の結果になったのだろうけれど。
職場の近くに飲食店が無いのも残念だ。
そのかわり、通勤時にお昼ご飯を買える店を何店も知っている。
最近、良く利用するのがこのパン屋だ。
テタールという店名で川沿いにひっそりと佇んでいる民家を店舗にしている。
パンは勿論、扱っている総菜も多様で味もとても美味しい。
地元で採れた野菜を使っていると言う。
いわゆる自然派の隠れた名店と言うやつだ。


冷蔵庫から緑色の瓶を取り出す。
炭酸水のサンペレグリノだ。
同じ炭酸水でもペリエよりもこちらの方が好きだ。
食事中の飲み物として良く利用している。
栓を抜いて中身をグラスに注ぐ。
休憩室の窓から午後の柔らかい光が室内に入る。
グラスに反射して炭酸水の泡が軟らかく舞い上がる。
温まった総菜とバケットを皿に乗せる。
お昼ご飯を始めよう。


いただきますと1人で手を合せる。
今日買った総菜は豚肉のソテーだ。
厚さは2cmもある。
良い焼き加減の良さを知らせる様に中身は淡いピンク色に輝いている。
横にはバターで炒めた菜っ葉が付いている。
フォークを使って食べる。美味しい。
バケットは褐色の香ばしい匂いを放っている。
何処までも飛んで行きそうな匂いの良さだ。強く、香ばしい。
手に持つと軽くてカラッとしている。食べる。美味しい。
ソテーをバケットの上に乗せる。
堅いパンに緩やかな肉汁が染込む。
肉と焼き上がった小麦粉の匂いが合わさる。食べる。美味しい。


味に満足する。一息つく。
テーブルにあるリモコンを手に取ってテレビを付ける。
時刻はお昼過ぎ。国営放送にチャンネルを変えるとニュースをやっていた。
これで良いかとリモコンを置く。


ニュース。
日本人の有名なカトリックの神父が亡くなった。
彼は日本でキリスト教の普及や
キリスト教の日本でのあり方に付いて考え続け、
多くの日本人作家とも交流を持ち影響を与えた。


ニュース。
日本の寺から大仏が盗難された。
犯人は分かっていない。
昔からこの地域の支えとなって居た仏像を
なんとしてでも取り戻したいと寺はコメントしている。


ニュース。
最近起こっている連続通り魔の続報。
昨日夕方頃、東京都の立川で5人目と見られる被害者を発見。
被害者は犯行現場の近所に住む主婦で、
子供を塾に送った帰り道で犯行にあったと見られる。


最後のニュースを見て眉をしかめる。
酷い事件だと思う。
社会で起こっている出来事に対して自分なりの哲学がある。
何らかの犯罪にはニュースで見るだけでは判らない背景がある。
愛憎のもつれが原因の殺人といってもその愛憎の形は様々だろうと思う。
だからどんな事件も犯人と被害者の関係は簡単には語れない。
なのだけれど、通り魔は別だ。
犯人自体の人生を簡単に語る事はできないだろうと思う。
だけれど通り魔と言う犯罪は犯人と一切関係の無い人間を巻き込む物だ。
だから悪い事だと断言出来る。
とても悲しい話しだ。残された家族はどんな気持ちだろうか?
お母さんを突然亡くした子供があまりにも可愛そうだ。
考えただけで涙が出そうになる。
これでは折角の昼ご飯がまずくなる。
だからチャンネルを変えた。
民放に切り替えて当たり障りの無いバラエティーを流した。


バケットを食べて肉を噛み砕き咀嚼して炭酸水で飲込む。
真冬の物とは違う陽が窓から入る。
身体に当る。暖かい。心地よい。
ごちそうさまでしたと1人で呟いて手を軽く合わせた。


手に付いた油を布巾で拭う。
嬉々として彼女からのメッセージはないかと確認する。
あった。




  「お昼ご飯は食べられてる?
   お仕事が忙しいからって抜くのはだめだよ?
   健康に悪いもの。


   今日は私はパンを食べたよ。
   でもパンを食べるとワインも飲みたくなっちゃうよね。
   それは今日の夜のお楽しみにしておく。
   美味しいワインを出すお店を見つけたの。
   パンも美味しいから、パンとワインを一緒に食べようね」




笑顔になる。俺も今日はパンを食べたよと返信する。
良い気分でコーヒーを入れる。
仕事に大きなトラブルが無く進んでいると時の
昼食はとても良い物だなとおもう。
冷凍庫からコーヒー豆を取り出してミルで粉砕する。
ペーパードリップをコーヒーメイカーにセットして砕いた豆を入れる。
タンクに水を注ぐ。後はコーヒーメイカーが自動でやってくれる。
水が沸騰して豆に注がれて、コーヒーが抽出されるのを待てば良い。
その間に冷蔵庫からレモンを取り出して輪切りにする。
使ったまな板や包丁や皿を洗う。
出来立てのコーヒーをカップに注ぐ。
そしてコーヒーの中に輪切りのレモンを入れる。
スプーンで適当にかき回す。
柑橘系の酸味と香ばしい良い匂い。
楽しい気持ちでレモンコーヒーを飲み、テレビを見つめた。
飲み干す。カップを流しに置いて水を入れておく。
平穏な時間を楽しんでいたい気持ちもあるのだけれど、
今は時間を大切にしたい。
一昨日も、昨日も彼女と過ごす事が出来なかった。
今日こそ彼女に会いたい。
だから、午後の仕事を始めよう。
早く彼女に会いたい。





地下に降りる。
ウィンチにぶら下がる首の無い遺体を見る。
床に置いた頭部には歯と眼と目から上が何もない。見る。


頭部を持つ。
メスを握って耳を顔から切り離す。
肉用のポリ袋に入れる。反対側の耳も同じ様に処理する。
切り取ったのは耳介と呼ばれる耳の1部分だ。
耳介は頭部の側面に付いている肉と軟骨のでっぱりだ。
一般的に耳と呼ばれているのはこの部分の事だ。
顔に張り付いている耳の事だ。
耳たぶなどで構成されていて、音を集めたり、
耳の内部にゴミや水が入らない様にする役割がある。
中には弾力のある軟骨が通っている。
そのはずなのだけれど、上司の指示では
これを軟骨と耳を解体しなくていいと言われている。
後の行程では、
軟骨ならば筋肉や脂肪と一緒の扱いでも問題のない処理をしている様だ。


耳介をこの段階で切るのには訳がある。
頭部を掴む際、耳は良い持ち手になる。
頭部の重さは体重全体の1/10程と言われている。
体重55kgの女でも頭部は5kgもある訳だからそれなりに重い。
だけれど、頭は持ち運ぶのに適した形をしてはいない。
その中で唯一、耳は良い持ち手になる。
そのまま耳を掴んでも良いし、孔に指を入れて運んでも良い。
髪の毛を刈る時や抜歯をする時に良い持ち手になる。
しかし、次の作業では耳が邪魔になる。
だからこそこの段階で耳を顔から切り離すという訳。


耳を顔から取り除いたら、顔の肉を処理する。
口回りの筋肉は抜歯する時に取り除いてある。
耳があった場所の皮膚を持ち上げる。
メスを突き刺す。先端が頬骨に当る。
頬骨に沿う様にメスをスライドさせる。
鼻に当るまで押し進める。
こうして頬骨の肉を取り除く。肉の名前はそのまま頬骨筋だ。
ポリ袋に入れる。
次はエラと呼ばれる部分の筋肉、
咬筋を削いでい行く。ポリ袋に入れる。
やはり通常の遺体より肉が骨から離れ難い。
顔の反対側にも同じ処理を施す。ポリ袋に入れる。
これで頬骨と鼻より下の処理が終わる。
骨にこびり付いている骨膜は後で切除する。


耳介を取り除いても孔は開いたままだ。当り前だけれど。
耳の孔が開いている部分の骨を側頭骨と言う。
耳の孔の前には凹みがある、下顎骨の一部がそこに入り込んでいる。
周りは筋肉で覆われている。
つまり側頭骨と下顎骨の組み合わせ、
それに筋肉が顎の関節を作っているという訳。
下顎と上顎は繋がっていない。上顎骨とは上の歯や鼻が付いている所を言う。
下顎と上顎が繋がっていないから人は口を大きく開く事が出来る。
顎の関節の筋肉を削りポリ袋に入れて行く。
反対側の肉も削ぐ。ポリ袋に入れる。
これで顎の関節が外れる。
だけれど下顎は肉と皮膚で喉とくっ付いている。
なので下顎の輪郭に沿って刃を入れる。
喉元を深くえぐる様にして皮膚と肉をメスで切断する。
メスが反対側の骨に当ると下顎ががくりと外れた。
反対の手で顎を受け止める。


頭部から顎を外す事で下顎内部の処理が簡単になる。
片手で外れた下顎を掴んで残った舌や下顎の筋肉を削いで行く。
ポリ袋に入れる。
下の付け根部分には舌骨というU字型の骨がある。
舌骨は下顎の裏側にあり舌を支えているのだけれど、
周りは全て筋肉で囲まれている。
つまり骨と骨の継ぎ目、関節がないという珍しい骨だ。
周りの筋肉を削ぎ落としてU字型の小さな骨を取り出す。
骨膜を削いで骨用のポリ袋へ入れる。
次に下顎の歯茎の裏、舌の付け根、口の底を取り除く。
ポリ袋に入れる。
こうして舌の全てを切り落とす事が出来た。
最後は歯茎だ。


全ての歯を抜いた歯茎は柔らかい。
歯は顎に開いた穴に先端を埋めることで固定されている。
一般的に歯茎と言われているのは、
歯と歯の間と穴の間を埋める肉の事を指している。
だから抜歯が済んだら後はその肉を削ぎ落として行けば良いという訳。
細かな部分なので小さなメスを使って集中して作業を行う。
削ぎ落とした肉は肉用のポリ袋に入れる。
歯茎を全て切り落とした。
これで下顎の処理の殆どが終わる。
後は骨にこびり付いた膜などを削ぎ落とせばいい。
ポリ袋に入れる。終わる。
大きく深呼吸した。綺麗な下顎骨の完成だ。
自分の職務は解体作業だ。
つまり物を壊している訳だ。
なのだけれど綺麗な骨を手にしていると、
これが自分で作り出した作品の様な物に思えて来るから不思議に感じる。
僅かな間、下顎骨を眺めた後、満足して骨用のポリ袋に入れた。


やはり肉離れが悪いなと思う。
頭部でこれでは、手足や胴体の解体には力が要りそうだ。
休憩をしたいのだが、先の事を考えて我慢する。
彼女の笑顔を想像する。よし頑張ろう。


ノミと金槌を道具棚から取り出す。
頭頂部と下顎の無い頭部を持ち上げる。
事情を何も知らない人がこれをみたら、
人間の女の頭部だとは思いもつかないだろう。
残された頭部には上顎骨の他に、
蝶形骨と側頭骨と後頭骨、
前頭骨の一部、眉毛の辺りと
頭頂骨の一部、うなじの辺りが残っている。
内部から解体して行く。
両足で頭部を挟み込み固定する。
眉があった部分の内側にノミを当てる。
柄の頭を金槌で軽く叩く。
前頭骨のこの部分は2重になっていて、中には小さな空洞がある。
前頭洞と言われている。管を通して鼻を繋がっている。
左右の眉の裏に1つずつある。
この場所は粘膜で覆われているので、それを取り除かないと行けない。
スプーンを使って擦る様にして強引に取っては肉用のポリ袋に入れて行く。
前頭洞の粘膜は粘液を作る。
粘液は鼻の内部、鼻孔に送られる。
つまりここは鼻水を作る出す場所の1つで、そのお陰で
内臓や脳が冷気や熱気、細菌や塵から守られているという訳。


蝶形骨はこめかみから反対側のこめかみへと、
脳を下から支える様にして頭の中を貫通している。
蝶形骨にも同じ様な空洞がある。
こちらも左右に1つずつ存在している。
空洞の内部を処理する為に
まず、頭蓋骨の中の蝶形骨をノミを使って切り取ってしまう。
この部分に空洞がある。
該当する部分をノミで開けて中の粘膜を処理する。ポリ袋に入れる。


次は既に取り除いてある眼球の奧に残された筋肉を処理する。
なのだけれど、
眼球が入る眼窩は複雑で7種類の骨に囲まれて出来ている。
だからそれらを取り除いた方が眼窩内部の肉は削ぎ易くなる。
前頭骨も、切り取った蝶形骨もその中に含まれる。
篩骨(しこつ)もその1つで、眼と眼の間、眉間の裏側にある。
篩骨の役割は、頭蓋骨の内部と眼窩と鼻の内部を仕切る事だ。
ここにも鼻に通じる穴が2つ空いているのだけれど、
こちらは細かく小さい穴の集合、
スポンジの様な物なので纏めてノミで砕いてしまう。
骨様のポリ袋に入れる。これで眼窩の処理が簡単になった。
眼窩の中、眼球と繋がっていた筋肉をメスやヘラを使って削いで行く。
ポリ袋に入れる。瞼は残ったままなのだけれど、これは後で処理をする。


篩骨の下部を砕きポリ袋に入れる。
篩骨と蝶形骨が取り除かれた事で、鼻の内部、鼻孔の肉を取り易くなる。
鼻の骨、鼻骨に付いた肉を削ぐ。ポリ袋に入れる。
鼻と口とを水平方向に仕切る上顎に付いた粘膜や肉を削ぐ。ポリ袋に入れる。
鼻の内部を仕切る鼻中隔もメスで取り除く。鼻の穴が1つになる。
ポリ袋に入れる。
眉の裏や篩骨、蝶形骨にあった空洞を副鼻孔という。
名前の通り粘液をだして鼻孔を補助する役割があるのだけれど、
それ以外にも顔に受けた衝撃を分散する役目もあると言われている。
左右に4つずつ合計8個ある。
前頭骨に2つ、蝶形骨に2つ、篩骨にスポンジ状の物が2つ。
そして最後に開けるのが眼の下、頬の裏、上顎骨にある上顎洞だ。
なのだけれど、それを処理するのはあまり気乗りがしない。
仕事なのでしなくてはいけないのだけれど。
やれやれと思いながらノミと金槌を使って上顎骨の一部を外した。
やはり、嫌だ。
粘度の緩い濃い黄色の膿みが出てくる。
ここは鼻のすぐ下にあるので炎症を起し易く膿みが溜まり易い場所だ。
人の糞尿を処理する事はこの仕事をしてから慣れたのだけれど、
膿みは苦手なままだ。
膿みをガーゼで拭き取って使い捨て手袋と同じゴミ箱に捨てる。
そして中の粘膜を削ってポリ袋に入れる。


上顎骨に付いている歯茎を下顎と同様に切り取る。ポリ袋に入れる。
歯茎の処理が終わったら、
上顎の口の中だった部分、口蓋と呼ばれる場所の肉をこそぎ落として行く。
海苔を食べているとよくここに張り付いく。舌で取るのがこそばゆい時がある。
その部分が口蓋だ。
口蓋は歯茎の裏部分では固く、喉に向かう程、柔らかくなる。
奥にはのどちんこと呼ばれる部分がある。
それもメスで切り取る。ポリ袋に入れる。
そのまま下って、喉の内外を切断して行く。
気管と食道が切り取られた喉の後始末だ。
喉仏と言われる部分の肉と軟骨を切り落とす。ポリ袋に入れる。
気管と食道の残りや周辺の筋肉を切り取る。ポリ袋に入れる。
これで喉の前部が無くなる。
次は喉の後ろ、うなじをより下の肉を処理する。
首を切断した頭部には1から4番目までの頸椎が付いている。
身体の方には5から7番目の頸椎が残っている。


4番目の頸椎に付いている肉や膜を剥がしていく。
露出した骨を握って、3番目に付いている皮や肉を引っ張って剥がして行く。
通常でも力のかかる作業なのだけれど、
この遺体は肉が堅いので更に力が必要になる。
離れない部分や頸椎に付いた肉や膜は大小の刃物を使って削いで行く。
ポリ袋に入れる。
時間をかけて力の掛かる作業と細かい作業を交互に繰り返す。
終わる。頸椎が露になった。
一番上の頸椎は延髄に繋がっている。
延髄はすでに処理してある。
だから後は上顎骨の表面に付く皮と肉と骨膜を剥がせば良いだけだ。


下顎の時と同じ様に頬骨周辺の肉から切除する。
上顎の場合は頬骨の上に乗る肉からだ。
頬と瞼の間にある肉からだ。
顔の外側の肉から処理を初めて中心の方へと刃を向けて行く。
小鼻と呼ばれる部分の肉を切り取り反対の頬に辿り着く。ポリ袋に入れる。
鼻骨周りの肉を切り取って骨を露出させる。
残っている瞼も取り除く。顔面の肉を全て取り除く。ポリ袋に入れる。
側頭部と後頭部に残る肉を切り落とす。ポリ袋に入れる。
骨についた膜や肉の欠片を削る様に処理する。ポリ袋に入れる。
最後に耳の内部を処理する。
耳の内側にある三半規管や鼓膜の周囲の殆どは骨で覆われている。
だから耳の穴に刃物を通す事でそれを取り出して行く。
神経の通り道や耳と喉とを繋ぐ耳管は骨で塞がれていないのだけれど、
刃物を入れるのにはさすがに小さすぎる。


穴の周りは軟骨なのでそれを取り除く。ポリ袋に入れる。
こうして穴を広げると作業がし易くなる。
内部の肉や器官を削ぎ落とす様に処理して行く。
細かくなった肉や粘膜や器官を取り出す。ポリ袋に入れる。
耳の内部、鼓膜には耳小骨という3体の骨がくっ付いている。
とても小さくて小指の先にも満たない。
この骨が鼓膜に伝わった音を耳の奧へと伝える。
耳小骨もきちんと取り出して、骨様のポリ袋に入れる。
これで片耳の処理は完了だ。
反対側の耳の内部も同じ処理をする。ポリ袋に入れる。
最後に骨の裏側に付いた肉や膜を削って綺麗にしていく。
作業がし難い所は骨を外したり切断してから肉を削いでいく。
整形外科医や美容整形と違って、後の事を気にしなくて良い分、
自分の仕事は簡単だなと思う。
遺体の分別さえ出来れば、骨や肉の形は問われないのだ。
ポリ袋に入れる。


綺麗な上顎骨が完成した。
時間は掛かってしまったけれど完璧な処理を出来たと思う。
仕事をうまくこなせるとやはり嬉しい。
上顎骨を骨様のポリ袋に入れる。


これで頭部の処理が終わった。
人間の頭部だった物は、
肉と骨と脳と感覚器と器官と髪の毛に解体されてポリ袋に納まっている。


次の行程は胴体に繋がっている2本の腕を解体する作業だ。
遺体が逆さまにぶら下がっている事を利用して
腋に鉈を入れて、肩の部分で切断してしまうのが
もっとも簡単な腕の切り離し方だ。
手足は胴体から切断した方が作業しやすくなる。


鉈を持つ。そこで着信音が耳に聴こえた。
通話の呼び出しだ。
もしかして彼女からだろうか?淡い期待を持ちながら鉈を手放す。
彼女も仕事中だというのに珍しい事だ。
手袋をゴミ箱に捨てる。
革のケースに入った端末を手に取り相手を確認する。画面を見る。
思わず3秒ほど地面を見つめてしまった。
咳払いをして声帯を起す。
もしもし。おつかれさまです。
相手の声が聞こえる。ボスだ。


会話が始まる。終わる。
倉庫の壁に掛けている時計の針が3分程進む。
通話を終えて眉間に皺を寄せる。
有無を言わせとはこの事だ。
ボスの用件は仕事の指示だった。
現在取り組んでいる職務とは別の仕事の指示だ。
それも遺体の解体とは関係の無い事だ。
只でさえ予定が押していると言うのに。
ボス曰く、人手が足りなくて仕方なくとの事だけれど、
まったくなんという事だろう。
部下を仕事に集中させるのも上司の仕事だと思うのだが。
ウィンチからぶら下がる遺体を眺める。
壁の時計を見る。ボスからの指示を頭の中で反復する。
急いで済ませれば彼女との夕食には十分間に合うはずだ。
素早く手を消毒して階段を上る。
休憩室に置きっぱなしにしていたキーケースと財布を掴む。
ハンガーに掛けておいたジャケットを纏う。
エントランスのドアを開錠して外に出た。振り返ってドアを施錠する


駐車場まで歩く。
陽が傾きかけている。昼間の暖かな空気とは違い寒さを感じる。
だけれど冬の冷たさとも違っている。
もうすぐ本格的な春になる。
だけれど八王子の山間はまだ気温が低い。
緑の葉が生い茂る樹々が風で揺れる音がする。
ジャケットの襟を立てて首元を隠した。
山の空気が肺に染込む。
遺体がぶら下がる倉庫とは空気の美味しさが違う。
地面から生えている雑草を踏みしめて歩く。
駐車場に着く。車は5台程止める事が出来るのだけれど、
今は俺が乗って来た黒い色のMINIしか止まっていない。
クーパー時代の物ではなく、BMWから出ている新モデルの方だ。
2年前に購入した。MINIにしては珍しい4WDの物を選んだ。


車に乗り込みアクセルを踏む。
舗装された山道を降りて行く。
道の両脇には木造の古い民家が並ぶ。
山間で土地が広い場所だからなのかどの家も大きい。
古さと相まって、この道を通る度に
自分が探偵金田一耕助の世界に
迷い込んでしまったのではないかという気分になる。
まあ確かにここで人が殺されても簡単には気づかれないだろうなとは思う。
少しすると都道と合流する、片道が2車線になる。
小学校や郵便局が見える。
途中で坂を上る競技用の自転車とすれ違った。
いわゆるロードバイクという奴だ。
乗っている人も身体に密着したジャージを着て
尖ったヘルメットを被っている。
バックミラーで遠ざかる後ろ姿を見送る。
職場は都道から脇道に入った先にある。
脇道に逸れずに都道を進むと大きな山がある。
この職場に勤め出してから競技用自転車と
すれ違う事が余りにも多いので
この道の先に何があるのかを以前調べた事がある。
この先の山には自転車愛好家に有名な峠があるらしい。
坂道が多い八王子の中でも急勾配が多いコースで
自転車での山登り、つまりヒルクライムの腕試しにはもってこいの場所だ。
wikipediaに書いてあった。
日頃見かける自転車の数を思いだしてそうなのだろうと納得した。
面白そうだし、身体を動かすのは嫌いではないので、
自転車を購入して自分も峠を上ってみようと思った事もあるのだけれど、
どうにも休日に職場近くを通るのが嫌な気がしてやめてしまった。


坂道を下り大きな十字路に出る。
車の交通量が一気に増えて騒がしくなる。
この十字路にはチェーン店の弁当屋がある。
昔はコンビニだったのだけど、潰れてしまった。
その頃の方は良く利用していたので少し残念に思う。
まあ、この弁当屋もたまに利用はするのだけれど。
この前食べたカツ丼は美味しかった。
そんな事を思いながら十字路を抜けて川沿いの道を走る。
丘を1つ越えて秋川街道に出る。
秋川街道は八王子の中心と市外を結んでいる。
俺が向かっているのは市内だ。
反対側に向かえば釣りやキャンプが出来る
綺麗な川や山や滝がある五日市に行く事が出来る。
これからの季節休日ともなれば、
川辺でのバーベキューやアウトドアを楽しむ為に、
家族や友人や恋人を乗せた車でこの道も混み出す事だろう。
アクセルを踏み込む。溜め息が出て来た。


結局30分程かけて目的地に着いた。
八王子駅の北口駅前だ。
小さなコインパーキングに車を止める。
4つある車庫のうち3つが埋まっていた。


数件先に白い建物が見える。
八王子の繁華街を管轄にしている企業の事務所で
うちの会社の取引先の1つだ。
取引先というのは推測でしかないが、間違いのない事だと思う。
ボスと一緒に何度か事務所にお邪魔した事があるからだ。
その時はこちらの仕事に関する事は1度も話題に出る事はなかった。
とても良く持て成してくれて伺う度に向かいにある鰻屋から
うな重を取り寄せてごちそうしてくれる。
ここの社長は誰もが知っている組織の
直参としても活動している事が業界内では有名だ。
直参とはその組織のボスと契約を結んで
正式にその組織に所属している人間という程度の意味だ。
だからこの事務所は業界最王手の子会社の様な物だ。
或は八王子支店か。
建物は古く、昔別の会社とのいさかいがあった際には
ここに2発の銃弾が撃ち込まれた。
修復をしていなければその痕が残っているはずなのだけれど
わざわざ探す気にはなれない。


仕事をこなす為に事務所を横目に歩き出す。








(後編に続く)
後編:http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140404/1396598854









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【終了】次の小説に対する2択のアンケート。

【追記】

アンケートを拝見して下さった方々ありがとうございます。
小説を書く事のお力添えをありがとうございます。

結果としては、以下のアンケートの答えは女性を選択する事になりました
ホワイトデイ(&バレンタインデイ)の短編を面白く出来ればと思います。




//以下、本来の記事です//



こんにちは。
現在、ホワイトデーに公開する予定の短編小説を製作しています。


(今年はバレンタインデーの短編を書く事が無かったので、
 バレンタイン/ホワイトデー両対応出来る物を作るつもりです。
 尚、バレンタインデーは自分のtwitter
 バレンタイン特集と題してジャズのスタンダード曲
 「マイ・ファニー・バレンタイン」を50曲程紹介していました)


そこで質問があります。
……いえ、正直に言うと質問というよりは、
このブログを読んで下さっている方の助けを借りたいのです。
バレンタイン/ホワイトデーの小説を書くにあたり、
自分ではどちらの方が良いのか分らない事が1つあります。
ですので、簡単な2択の質問にお答え頂ければなと思っています。




質問
  バレンタイン/ホワイトデーの短編小説のシチュエーションは
  「男性主人公が仕事として人間の遺体を解剖する」という物です。
  その遺体の性別は男性か女性、
  どちらの方が俺が書いて面白くなりそうでしょうか?


御答え頂けると、執筆の助けになります。


(追記。女性を選択する事にしたので
 アンケートは閉め切りました)



一見過激な質問の様にも見えますが、
女性監察医が遺体を解剖する事で事件を解決に導く「きらきらひかる」や
科学捜査班を主役にしたアメリカのドラマ「CSI」の様な体だと思って
気軽に御答え頂けると嬉しいです。




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