【クリスマスの短編】髪切って、歩いて、飲んで食べて結局泣いた/後編

髪切って、歩いて、
飲んで食べて結局泣いた/後編
前編は↓こちらです
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そのままふらっとした足取りでエレベーターに乗る。屋上に向かう。
松屋の屋上は少し前まで
ここに子供用の屋上遊園地があったとは思わせない位にお洒落になっている。
白黒のタイルが貼られた床。植えられた緑の木々と芝生。
黒い椅子とテーブルとパラソル。
屋上と言うよりテラスと言った雰囲気だ。


エレベーターを出るとそこはまだ建物の中だ。
床は黒と白の菱形が交互に配置されているお洒落なアーガイル柄になっている。
エレベーターの横側にはFMラジオのスタジオがある。
確かソラトニワというFM曲だ。
観覧用のガラス窓の向こうで今日も男性のDJが何かを放送している。
スタジオには木製のテーブル。上にマイクが数本置かれている。
椅子は革製の見るからに高そうな物で、
だけど1脚1脚のデザインが全然違うのが面白い。
白い壁と合わさって一目でお洒落だと思えた。
スタジオの横には誰でも使えるテーブルやカウンターがある。
自由に使えるコンセントや本棚まで置かれている。
インテリアもお洒落で安物ではない事が一目で分かる。
こういうのを見ると、どういう訳なのかさすが銀座だなという印象を抱く。
何がさすがなのかは良く分からないけれどね。


外には日よけ様の屋根があって
その下には木製のテーブルと木材で背もたれと肘掛けが作られた椅子と、
緑のワイヤーで編まれた様な椅子がある。
横には大きな階段があって先にはゴルフスクールがあるらしいけど、
目の前にすら行った事が無い。


自動販売機を見つけて水を買う。
とりあえず乾いた喉を潤したい。
乾燥して粘膜が張り付いた様な喉はそれだけで苦しい。
この後どこかで何かを食べたりお茶をする事を考える。
その前に缶コーヒーを飲むのは空しい。だから水にした。
屋上に作られた庭は雲1つない冬の青空に包まれて居る様で清々しかった。
外の黒い椅子に座る。お尻がひんやりとする。
荷物をテーブルの上に置いてミネラルウォーターのキャップを開ける。
手が乾燥しているからなのか中々フタが開かない。
力を籠めて回す。重い錠前が外れる様にしてやっと開く。
一口水を飲む。
こういうとき、1人は不便だ。


目の前には神社が見える。
鳥居が無いからお寺なのかも知れない。けれど狛犬も居るから神社なのかな?
お寺にも狛犬はいたっけ?
パワ−スポットとかそういうのはあまり好きではないから良く分からない。
写真を撮ってツイッターに投稿すれば親切なひとが教えてくれそうだけど、
対応が面倒くさそうでやめた。今はそんな気持ちじゃないや。


兎に角、神様を祀っている何かが松屋の屋上にはある。
木の塀で区切られ、周囲には和風な木々が植えられている。
そこだけは立派な日本庭園と言った雰囲気だ。
きっと凄い昔からここにあって、
今では松屋の守り神みたいな存在になっているのだろうと思う。
商売の繁盛や働いている人々の無病息災をずっと祈られて来たのだろう。
屋上に人が誰もいなかったら私も手を合わせてお願い事をしていた所だ。


スマートフォンを見る。
友達からの返信。明日は私も参加出来るとの事。
嬉しいなあ。さすが友達だ。
女の友情は血よりも濃いという言葉があるけれどその通りだと思う。
彼女に対応してくれた事へのお礼を書く。
明日は楽しみだねと添えてから送り返した。


それから彼女の文章で、
明日の1ヶ月後はクリスマスだと言う事に気が付いた。
嘘。
ここに来るまでの間に、せっかちなお店がもう
クリスマスの飾り付けをしていたからそれは知っている。
なんだか自分の事がちょっとだけ面白くなる。
きっと心でもそれを感じない様にしていたな。

ツイッターでクリスマスは良いよねとか、
クリスマスは一年の中で唯一人に優しくしても
罪にならない日だから良いよねとか
むかし見た映画で聴いた楽しげな台詞をうそぶいてやろうかとも企んでみる。
適当な男が冗談だとは知らずに乗ってくるかも知れない。
やめた。
それって凄く面倒くさいよ。



屋上の風が耳と首筋を撫でる
私は髪の毛から出た耳に触る。
髪の毛が短いと寒いんだ。そう思い出した。
マフラーを買おうかな。でも清々しい気持ち。


クリスマスは明日一緒に過ごす友達を誘ってみようか?
彼女なら今年もクリスマスは暇なはずだろう。
実家暮らしならこういう時は家族と過ごせば楽しいけど、
独り暮らしはこういう時には嫌だな。
ともかく、その日は笑って過ごせると嬉しい。



結局、松屋を下る途中で3階のアンタイトルによってストールを買った。
肌触りが良いリネン製で、使い回しが良さそうなベージュのチェックの物だ。
商品タグをその場で切ってもらって首にぐるぐる巻いて、
端を胸元につっこんだ。これで暖かい。
私は松屋を後にした。


松屋の中央口を背にして、中央通りを右側に歩く。
陽が夕日に変っている。
道行く人々は寒そうにしている。
そんな人達の間を縫う様にして歩行者で溢れる中央通りを1人進む。


痛い。靴を踏まれた。
謝罪の声も聞こえない。
相手を見る。カップルが見えた。
私の足を踏んだのはカップルの男の方だった。
女の方は幸せそうしているけど
こんな男は100点満点の評価中マイナス5000点くらいだと思う。
ああ、凄く痛い。なんでこんなに痛いのだろう。
痛いんですけど。気づきもしないわけ?
それとも人を傷つけている事に気づいていても
無視しているの?

心の中で溜め息を吐いて道を歩く。
道行く人々の事がどうにも気になる。
中年夫婦の旦那の方がズボンのジッパーを開けて歩いてる。
まぬけだ。マイナス3000点だ。
まだまだ明るい街中で、
歩きながらチュッと彼女の唇にキスをした男はマイナス5000点。
不細工なカップルを見つける。マイナス3000点。
取り柄のなさそうな女の子の肩を顔の良い男が抱いている。
彼が私の視線に気が付いて少し微笑む。
うわナルシスト、美男子でも気持ち悪い。
マイナス4000点。
彼女が重そうな荷物を持っているのに持とうとしない男マイナス3000点。
臭そう。マイナス5000点。服のサイズが合っていない。マイナス3000点。
声が無駄にでかい。マイナス4000点。笑い声が下品。マイナス3000点。
マイナス3000点。マイナス2000点。マイナス5000点。
マイナス。マイナス。マイナス。


疲れた。私はなにやっているのだろう。
靴を踏まれたくらいで不機嫌になり過ぎよね。
気が付いたら中央通りのシャネルまでやってきていた。
ここのドアマンは良い男の確率が凄く高い。
背も高くてスタイルが良い。8頭身は確実にある
もちろん顔も良くて。なんと言うか雰囲気からして違う。
きっとモデルのアルバイトなのだろうと思う。
シャネルの物と思われる
ロング丈の黒色のチェスターコートが凄まじく似合っている。
中央通りに居を構えていて、ドアマンを置いている店を思い出そうとする。
フェラガモ、ヴァン・クリーフ、
アバクロ、ブルガリカルティエ、ハリー・ウィンストン。
覚えている店を上げるだけでも中央通りはドアマン天国だと分かる。
他にもちゃんと見ればドアマンが居る所はあるだろうなぁ。
日や時間帯によってもドアマンの有無は変ると思う。
案外モデルのアルバイトじゃなくて、警備会社の管轄なのかも知れない。
体育系出身者には背の高い人も多いだろうし。
でも中央通りのシャネルとフェラガモ、
晴海通りのグッチのドアマンはモデル出身だと思う。
日によって人も違うと思うけれど、ちょっと他とはレベルが違い過ぎる。
初めて見た時は海外の映画の登場人物と錯覚した程だ。


そんな事を考えていると心が少しだけ潤う。
美しいものについて考えるのは良い事だ。
中央通りをそのまま進む。
カルティエティファニーと4℃は見ない様にする。
というかもう一々反応するのは止めよう。
この先綺麗なダイヤモンドを売っているお店を見ても気にしない事にする。
せっかく髪の毛を切ったのだから。過去とかどうでもいいわ。


それから良い事を思いついた。
食欲が涌かなくて困っているのなら、
好きな食べ物を目の前においてしまえば良いのだ。
そうすれば嫌でも食欲は涌くんじゃないかな?
直ぐに良い店が思い当たる。
あそこなら、お茶も飲めるし食べ物もある。
1人で入っても大丈夫だし。場所も近い。
次の交差点で中央通りを左に曲がって銀座柳通りに入る。
柳通りは道幅は広くは無いけれど、
車道と歩道の間には街路樹として柳が並ぶ様に植えられている。
その通りを直進する。


そういえば夏祭りで聴く盆踊りの曲にも銀座の柳が出て来たっけ。
花は上野の、ちょいと銀座は柳、月は墨田の屋形船。だったかな。
間にはいるヨイヨイの掛け声が面白い。
こんな古い歌に歌われているのだから柳は銀座の象徴なのかもしれない。


柳通りの地下には有楽町線の銀座1丁目駅がある。
中央通りと交わる十字路周辺には地下鉄への出入り口がいくつも見える。
だけれど、銀座1丁目駅が銀座線とは繋がっていないのが不思議だ。
銀座1丁目駅の出入り口から
銀座駅の出入り口までは300メートルも離れている。
だから銀座線の駅が1つ増えて、
銀座1丁目駅に電車が停止したっておかしくないのに。
少し近いかもしれないけど山手線の日暮里と西日暮里はよりはましなはずだ。


柳通りを少し歩くと私が歩いていたガス灯通りとの十字路に出る。
その左向かいに私の好きなお店がある。
ガラス張りの建物の中に白い石で出来た柱が並ぶ。
この建物もまたパリにある建築物の様だった。
店の入り口が見える。
入り口の上にはティファニーを想像させる水色の可愛い日よけ。
quil-fait-bonとフランス語で書いてある。



そう、ここが私の好きなタルトのお店、キルフェボンだ。
以前はこの1つ先の道である西五番街通りにお店があったのだけど、
2年程前にここに移転して来た。
私の記憶が確かなら昔ここはスターバックスだったはずだ。
以前の一軒屋の店舗も可愛くて良かったけれど、
ビルに入ったここもパリの様で素敵だ。
1階が持ち帰り用のショップで、地下はカフェになっている。
ここでお茶を飲みながらタルトを食べられるんだ。


ショップの入り口の横にカフェ専用の地下に続く階段がある。
建物の外観も内装も可愛いのに、階段が急なのが少し難点だ。
エレベーターもあるのだけれどね。
階段の横には看板が出ていて、
今なら待たずにカフェの席に着けると書いてある。
よかった。移転した時は1時間ほど待つのが当り前で、
今でも休日のティータイムともなれば何十分もテーブルが空かない事が多い。
今日はそんな時間帯を避けられた様だ。
そろそろお茶というより夕食を食べようかという時刻になっていた。
綺麗な花束が飾り付けられた階段を下りてゆく。
するとカウンターとウエイティングルームがある。


店員にテーブルへと案内される。
キルフェボン銀座店のカフェは地下にあるのに天井が高くて開放感がある。
店内はテーマの違う3つのフロアに別れている。
私はテラスの様なフロアを通り越して
暖炉風のインテリアがある落ち着いた席に通された。
暖炉の上にある燭台が良い雰囲気を出している。
籐で編まれた椅子が背中に心地よく、
テーブルクロスも花柄でお洒落で嬉しくなる。
自分の家をこういう風には出来ないけれど、
たまに行くお気に入りのお店がこうだと楽しい。


メニューを眺める。
秋限定のタルトが載っている、
ティラミスのタルト。サツマイモを使った真っ白なタルト。
柿とチョコレートのタルトなんて物もある。
そうか、今は秋のタルトと冬のタルトの切り替わりの時期なんだと思った。
これからがチョコレートやリンゴを使ったタルトの本番だ。


どれも美味しそうで目移りする。
食欲が戻って来たのかもしれない。
結局よく食べる苺のタルトを選ぶ事にした。
目に付くタルトは何時でもこれだ。
苺の赤が光り輝いていて宝石みたいだなと思う。
それにこういう時は食べ慣れた物の方が良い様に思えた。
こんな状態の時に、食べた事の無いタルトを選択しては
胃が驚いてしまうかもしれない。


お茶は紅茶にする。
タルトにコーヒーを合せるという気はしない。
メニューを眺めているとアールグレイの文字が目に入る。
けれどそれを買ったばかりの事を思い出す。
しかも100gで2000円もする物だ。


それから胃に優しい物が良いと思って
ミルクティーを飲む事に決める。
アッサムティーがメニューにあって
そこにはミルクティーにするのが良いと書いてあった。
だからこれに決めた。
若い女の子の店員に注文する。
暫くすると爽やかな花柄が書かれた皿の上に乗ったタルトと紅茶がやってきた。
見た目が美味しそうなタルトはそれだけで素敵だ。
食欲が戻って来たっぽい。


タルトに手をつける前にミルクにした紅茶を飲む。
喉にトロりとしたミルクティーが暖かい
紅茶を飲むと心が落ち着く気がする。


フォークを持ってタルトの三角形の先端を崩す。
タルトは良いけれど、他のケーキに比べて
その粉のせいでお皿が汚くなってしまうのが少しだけ優雅ではないと思う。
でもその優雅ではないのがお菓子っぽくって良いなとも思う。
例えば、付き合ったばかりの男性の前では食べたく無い。
汚らしい印象を与えるかすが口元に付き易いし。


好きな人との食事は楽しいと思うけれど、醜い食事の仕方って汚い。
唇に食べカスが付いていたり、くちゃっとなる咀嚼音がしたり、
ソースがべったり残った白いお皿とか、汁物をすする音、
うっかり食べ物が口の中から飛び出してしまったり、
それと臭いのキツい食べ物を食べた後の口臭。
そういう物は食事であっても汚いと思う。


ああ、そういえば、私はこのお店に友達としか来た事が無いんだな。
恥ずかしい経験が無くてよかった。ここは楽しい想い出ばかりのお店だ。


そんな事を思い出しながら
細長い三角形に切り取られたタルトにフォークを突き立てる。
フォークの先端に突き刺さる尖ったタルトを
大きく開けた口のなかへといれて行く。
舌の上にタルトをそっと乗せる。硬い感触。
舌と上顎で固定、
それと前歯で少しだけタルトを噛んでフォークをゆっくりと引き抜く。
髪が短いと口にものを入れる時に楽な事を思い出した。
長めの時の様に一々髪を掻き上げたり抑えたりしなくて済む。
零れた生地が舌の上にコロリと落ちる。
甘さと独特のしっとりした野暮ったさがなかで広がる。
それから口内で苺とタルト生地を咀嚼して行く。
美味しい。
酸っぱさと甘さが交互にやって来てやがては混ざって1つになって行く。
まだタルトが口内に残っているうちに
白く濁るミルクティを飲んでカスを喉の奧に流し込む。
ごきゅっと喉が音を立てた。


唇を少しだけ開けて、間からゆっくりと空気を吐く。溜め息。


だめだ、もう食べられないや。
なんか悔しいなと思う。
こんな美味しい物をちゃんと食べる事が出来ないなんて。
悔しくて頬張る様にして残りのタルトを全部噛み砕いて強引に胃に流し込んだ。
キルフェボンのタルトはこんなにも美味しいのに。
紅茶を飲んで、紅茶を飲んだ私は、また紅茶を飲んだ。



空になったお皿は綺麗に咲いている花柄の模様が良く見えた。
また溜め息を付いてからトイレを借りた。
ここのトイレはきれいで可愛い。
壁は白を基調としていて床は大小のタイルがアーガイル模様を描いている。


だけど、トイレの個室の使用中を示す表示が
良くある赤と青ではなくてフランス語表記なのが少し紛らわしい。
Occupeが使用中で、Libreは空室だ。
Libreはリブレと読んで、自由を意味している。
英語のリベラルにも繋がるフランス語だったはず。
因にOccupeはオキュペと読む。
このトイレのお陰でそんな事を覚えた。
これでパリに行ってもトイレには困らないかも知れない。


用を足して洗面所で手を洗う。
お湯を出す取手と冷水を出す取手は別々になっている。
バーを少し動かしてお湯を出す。
ステンレス製のハンドソープ容れを押して洗剤を出す。
白い洗面器にステレンス製品って凄く似合うと思う。
キルフェボン銀座の手洗いは洗面台の1つ1つに
ペーパータオルを収めた容器が置いてある。
足下にはペダルを踏みつけると扉が開閉するタイプのゴミ箱。
これらもステンレスと白で、だから統一感を保っている。
良いなと思う反面、
トイレは別なのに洗面所が男女共用なので化粧直しとかはし難い。
そこは少し困り物だ。


他に誰も洗面所を使っている人が居ないのを良い事に
鏡を見て、髪を切ったばかりの自分の顔を見つめた。
今日はいっぱい買い物したな。お金も使った。
私はなぜか今になって自分の顔が馬鹿らしい様に思えて来る。
その時、隣の洗面台に人がやって来た。女性だ。
鏡越しに隣人の顔を静かに観察する。
自分の顔はまぁ良いかと思える。
ペーパータオルを1枚取り出して手を拭う。
ゴミ箱のペダルを踏んでしわくちゃになったそれを丸めて勢いよく捨てた。


席に戻って残りのミルクティーを飲み干した。
この後どうしようか考える。
もう帰ろう。



お会計を済ませて階段を上る。
無理矢理食べ物を流し込んだ胃に登り階段は少し重い。
外に出る。辺りはもう暗くなっていた。
ガス灯通りの街灯が品よく輝いている。
これは本物かな?偽物かな?
どうやって帰ろうかと思う。



銀座駅や有楽町駅まで歩く選択肢もあるけれど、
足が疲れていた。
それに明日は友達との予定があるのだから今日は早く家に帰って休もう。
だから地下鉄メトロの銀座一丁目駅を使って
有楽町駅に向かう事にする。


来た道を松屋の方へと戻る。
入り口を見つけて階段を下りた。
PASMOを使って改札口を開ける。
ホームについてすぐに電車が来た。
先がまるっこくて、銀色の車体に走るラインが
橙色で清潔でなんか可愛らしい。


1つ先の有楽町駅には直ぐに着く。
電車からホームに降りて2階にあるJRのホームへと向かう。
この駅は古い。
いつ新しくなるのだろう?
地震が来ても大丈夫なのだろうか?
何か大きなショックが来たら、足場からそのまま崩れてしまう様な印象を抱く。
いい加減、立て替えてショックにも強くするべきだと思うのだけど。
建物を補強や立て替えをしてショックに強くするのは
私が思っている以上に手の掛かる事なのかもしれない。
そんな駅から電車に乗って私は自分の家に帰宅した。




家に着く。誰もいない自宅の空気はいつでも冷やかだ。
靴を脱いで早々、ショップバッグからポール&ジョーのバッグを取り出す。
鏡の前に立って色々なポーズをしてみる。
着ている上着を脱いで買ったマフラーを椅子に掛ける。
クローゼットから別の洋服を取り出して着る。
再びバッグを持って鏡の前に立つ。そんな事を何回か繰り返して私は満足する。
うん、このバッグは猫柄が可愛いけれど思ったより色々な服に合いそうだ。


家のカーテンを閉めていない事に気が付く。閉める。
窓から見た外は真っ暗だった。何も見えない。
空調機器のスイッチを点ける。
それから服を全て脱いで下着姿になる。
エポカのドレスを着る。オフホワイトを選んで正解だった。
ポール&ジョーのバッグを持つ。
この組み合わせは少し私らしく無い様に思えた。
でも新しい髪の色とは合っているかも。
なんだか鏡の中の自分が自分ではないみたいだ。
明日はこのドレスにコートを着ていくとしてバッグはどうしようかな?
友達にイメージの代わり具合をすごいつっこまれそうな気もする。
でもそれも笑えるかな?それとももっと大人しいバッグにしようか。
後でお風呂にでも入りながら考えよっかな。
お風呂にはバスソルトも入れてしまうかと考える。
以前友達に貰った瓶に入った桜色のバスソルトがとても良い匂いで、
それを使い切った後にネットを使って同じ物を自分で取り寄せたのだ。
急な連絡にも対応してくれた明日会う友達に1瓶上げようかな。
きっと彼女なら気に入ってくれるはずだ。


ドレスを脱いで皺が付かない様に注意してハンガーにかける。
ドレッサーにバッグを置いて隣には
袋から出したディオールのコスメの箱を綺麗に並べる。
それに高かった紅茶の缶も。
その光景がまるで何かの宗教の祭壇の様に思える。なかなか絵になっている。
絵画で、テーブルの上に置かれた果物や食器や花々を描いた物があるけれど、
絵を描く為にああいった物を並べた画家も
同じ様な気持ちかも知れないと想像する。
面白い気持ち。
鏡には私の新しい顔と、今日買った物が一緒に映っている。


不意に私は顔を横に向けた。
カーテンのわずかに空いた隙間から、外を見た。
街灯か通りかかった車のライトなのか、光が窓に反射して見えた。
直ぐに光は消える。


私の目から涙が出て来て、今日一日のわたしを全て分かった気がした。
わたしはきっと酷い恋をしていたんだ。
彼の事、好きじゃなかったなと思う。馬鹿じゃないの?
なんだかとても悲しい。
それに比べて、好きな人に振られたり、
好きだった人を振った恋は良い想い出だなと思う。
色々な事を残してくれるし忘れた振りも楽しいし。


涙があふれる目を抑えたけど、意味がない。
鏡台のティッシュを掴んで引き抜く。
なんでわたし、下着姿で1人で泣いているのだろう。
だけどこの恋はなにも残さないかな。ほんとうに心から全て忘れてしまいそう。
でも悪くなかったとも思う。
彼の事を好きと思えていたし、好きじゃなかったけど。
好きだった所も探して何個も上げられるし。どうでもいいけど。
きっと結局この恋は忘れられないな。
今日のわたしはすべて分かったから混乱していたんだ。
色々買い物しちゃったな。どれもむだな買い物ではなかったとは思うけど。
ああ、早く忘れてしまうんだろうな。
とりあえず涙が止めようとしても止まらない事を理解する。
泣き続ける。くやしいしかなしい。
もっと明るくいきたい。
恋やセックスなんてどれだけしたっていいのにもうつかれたな。
かなしいけど今のわたしはなんだかおかしいな。


なみだで目がしみて、少しいたい。
恋に恋する年なんてとっくのむかしに終わっていたと思ったけど。
むずかしいな。わたしは本当はなにを欲しかったんだろう。
彼の事とても好きだったな。どうでもいいかな。
なにを必要としていんだろう。
なにもいらなかったのかも。すべてむだな経験だったのかも。
ほんとうに酷い恋だったな。わすれたいな。
いい事もあったよ。
いろいろよい想い出もあったな。ばかばかしいな。
なんで今はわたし、1人なんだろう。


しばらく泣き続けて、
わたしは自分のかたわらにぐしゃぐしゃのティッシュの山を作った。
もう折角のアイメイクがボロボロに落ちているじゃない。
どうせすぐにお風呂入るからいいんだけど。
ドレッサーの鏡を再び見る。赤い目。
明日。目が腫れていたら凄く嫌だな。折角の気分転換なのに。
髪が乱れている事にも気づく。わたしの髪の毛短くなったなぁ。
腫れた目は冷やすと良いんだっけ?冷えピタとか?それは目にしみそう。



ああもう1ヶ月後はクリスマスなのにな。
兎に角まずは明日を友達と一緒に楽しもう。
一番仲が良い友達を二次会に誘って愚痴を沢山言おうかな。
レストランは丸の内にあるし、丸の内のバーとか良さそう。
でもわたし自身はお洒落な所とか知らないけど、
以前男に連れて行かれた所に行くの嫌だし。
だったら日比谷バーでも良いし。
それもいい。もう本当にかなしい。


クリスマスには笑えていたらそれは幸せな事かな。
恋の事で凄い落ち込んでいるなんて思われるのはわたしはとても嫌だ。
好きだったな、どうでもいいけど。面倒くさい。酷い恋だった。
笑えて。すごく泣ける。また涙が出てくる。


とりあえず、
すごくお腹がへったな。
冷蔵庫に何かあったかな。



とりあえず、
「何か食べたい」






【クリスマスイヴの短編】
〈髪切って、歩いて、飲んで食べて結局泣いた/おわり〉









クリスマス。
それに続く新年にも。
皆さんに笑えて生きる事を繋ぐ様な多くの深刻な悩みがありますように。
そしてそれでいながら、悩みがあるからこそ沸き上がる
楽しさ軽やかさ穏やかさと興奮、
クールさパワフルさキュートさ美しさが溢れる人生があるように祈っています。


大抵の問題はお腹が空いた時点で7割は解決していて、
ある日、霧が晴れる様に、
空に溜まった雲がやがて雨として地上に降り注ぐのが
自然の摂理である事と同じ様に、
まったく当り前な事の様に、急に一瞬で解決される物だと思っています。
大切なのは水を体内に貯め過ぎては中毒症状が起こる様に
その降り注ぐ雨を溜め込んで毒とする事では無く、
涙に換える事なのだと信じています。
大地に降り注ぐ雨の様に。



キャバレー/ジャスティン・ティンバーレイク(feat ドレイク)
Cabaret/justin Timberlake (feat. Drake)











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【クリスマスの短編】髪切って、歩いて、飲んで食べて結局泣いた/前編

【クリスマスの短編】
髪切って、歩いて、
飲んで食べて結局泣いた/前編
後編は↓こちらです。
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140110/1389367320





長めの
髪を切った。


こう言う時に長めとかミディアムな長さの髪型で良かったと思う。
以前、経理の子が長かった髪をばっさりと短くして、
人の気持ちが分からない男達に
その事を一々触れられていたのを社員食堂で見た事がある。
髪型の変化に必ず気が付けば良いという訳でもないのに。
誰彼構わず触れて欲しい訳ではないのに。馬鹿な男達。
髪型の小さな変化には気が付かないのに、
気付ける大きな変化を見つけると
俺は人の心が分かっているのだと言う様にその事で話しかけて来る。
くだらない事を聞いて、睨みつけられているのにそれが分らないんだ。
私はミディアムだからショートヘアーになっても
会社ではさほど指摘はされないだろうと思う。


銀座の美容院に行くのは久しぶりだった。
今までは表参道の美容院にまで行っていたのに。
腕のいい美容師が居て、友達が彼を紹介してくれたのだ。
彼女は彼の事を腕が良くて結構顔が良くってさと笑いながら私に紹介した。
彼女の紹介だからと、彼を指名してみた。
腕が良いのは本当で、だから私も彼の事は気に入っていた。
美容師には2種類のタイプが居ると思う。
1つ目は美容院から出る時に髪型が完璧である様に仕上げるタイプ。
2つ目は美容院に行った1週間後くらいに
髪型が完璧になるように仕上げるタイプ。
もちろんこれがカットじゃなくてヘアセットやカラーだと話は変わる。
私は2つ目の方が好みだった。
だって、美容院から出たら徐々に髪型が衰えて行くとか嫌じゃない。


友達が紹介してくれた彼は後者のタイプだった。
だから良く通っていたのだけれど、
友達とその美容師が寝たと聞いてなんだか行きづらくなってしまった。
その事は友達の口から直接聴いた。
付き合っている訳ではないけれど、寝たのは1回2回ではないらしい。
その事をどうこう言うつもりはないけど、
あの美容師には顔を合わせづらいなと思う。
笑顔が良くて、話もスマートだったけれど、
彼にはもう私の髪の毛に触れて欲しく無いと感じている。
彼は彼女の様な女性がタイプなのだろうか。


だから代わりの店を探さなくてはならなかった。
友達にお勧めの美容院を尋ねるもの嫌だったので、
自宅で使っているノートパソコンであるマックブックを使って
グーグルで適当なヘアサロンを検索した。



あの時は仕事終わりの平日の夜で帰ってすぐにお風呂に入った。
浴室から出て薄いピンク色のボトルをプッシュして乳液をコットンに置く、
そして顔に馴染ませる。
それからちふれの化粧水をばしゃばしゃと顔や身体に塗りたくる。
ちふれの製品は品質が良いのはもちろん
値段が安いので惜しみなく使える所が良い。
値段が高い化粧水を神経質に少しずつ身体に塗るのはどうにも精神的に悪そうで
果たしてそれが美容的には良いのだろうかと思ってしまう。
その点ちふれの物は気軽に使える。
ラインで揃えるのも良いのだろうけど、私にはこちらの方が合っている。
例えばいま乳液を使っているアルビオンの化粧水や
シャネルの物だったらこんなには量を使えない。
もっともそれらやランコムやスックやヘレナの化粧水だったら
沢山使う必要も無いのだろうけれど。
最後にアルビオンの美容液を使う。
ボトルのノズルを2回プッシュして顔に塗る。
手の平で顔をゆっくりと押しては離す。
この動作の効果の有無ややり方については
未だに雑誌やテレビでも議論が続いている。
私もずいぶん前に友達と何気なくこの事を話して
言い争いになりそうになった事がある。


化粧水を安く大量に使える物にしている分、
乳液と美容液は少し良い物を使っていた。
この組み合わせにしてから肌にトラブルが起こった事は無い。
先行乳液にも慣れて来た。
もう少し年を取ったら私もクレ・ド・ポーや
SK-IIなんかを使う様になるのだろうかと考える。
あまり基礎化粧品にお金は掛けたく無いなと思う。
それともそのうち肌の事なんて気にならなくなるのかも知れない。


暖房が入った室内は11月でも暖かい。
ボディクリームを手に取って足から始め腕、首と胸元にマッサージしていく。
終わったら部屋に干していた洗濯物を畳んで棚にしまう。
朝、椅子に掛けっぱなしにしていた部屋着を取り出して着る。
独り暮らしは気軽だ。


やっと落ち着く。
適当にハーブティーを入れてマックブックを持ってベッドの上に転がる。
疲れているから洗濯物を畳むのは億劫だった。
でもこれから美容院を調べようと言うのに
部屋が乱雑なままなのは何か情けない気がしたので頑張った。


ハーブティーで口を潤して、
夕食代わりのソイジョイアプリコット味を頬張る。
最近は食欲がわかない。そろそろやばいと思う。
細長の固形を齧っては良く噛んで飲込む。
残りかすをハーブティーで流し込んだ。



グーグルで美容院を具体的に検索する前に
一体どの地域の美容院に行けば良いのだろうかと考えた。
前と同じ表参道?新宿?渋谷?六本木?赤阪?池袋?


表参道。気分転換したいのに以前と同じ場所はあり得ない。
新宿。人ごみのあり方がどうも苦手。あの町は少し汚くて疲れる。
渋谷。もっと苦手。
ヒカリエが出来てから大分マシにはなったけどまだそれだけだ。
六本木。赤阪。ここは昼間1人で遊ぶ街ではない。
池袋はあまり良く分からない。


考えて結果が出る。
山手線の左半分右半分どちらにも行きやすい場所に住みながらも、
結局私にはその右半分、
特に北は神田から南は浜松町までのエリアが合っているらしい、
その中で美容院を探すとなれば、
有楽町から銀座を抜けて新橋駅までは行かない範囲での事となるだろう。


グーグルに有楽町 銀座 "美容院 ヘアサロン"と入力する。
検索結果にホットペーパービューティーの有楽町周辺の
美容院を載せてるページがあった。
ああ、ここで探せばいいのか。思えばネットを使って美容院を探した事が無い。
そのページを適当に流し読みをしていると
銀座の並木通りにあるDERA'Sという店が目に止まった。
銀座で20年以上営業しているという。
写真を見ると店内は移転か改築をしたのか綺麗でナチュラルな内装をしている。
良さそうな気がした。レビューを見ても評判は良い。
美容師の腕など実際に髪を切られるまで分らないのだから
適当に決めてしまえと思う。
20年の実績ときれいな店内。それで十分じゃない。
ネットからも予約が出来る様なので、
店側のスケジュールを見て空いている日を確認する。
私は今週末の土曜日、その午前中に髪が切ろうと決めている。
だめだ。その時刻は既に予約で埋まっている。
まあ日時的に当り前よねと思う。
日曜日ならば空いていたけれど、
次の日が月曜日なのに髪を切るのは嫌だなと思う。
土曜日の午後も考えたけれど、一刻も早く髪を切ってしまいたい。


仕方ないと思ってDERA'Sという美容院を諦める。
次に目に付いたのがdrive for gardenという店だった。
ページには当店ではカジュアル感にトレンドを加えた
伸びかけもキレイな髪型が人気ですと書いてある。
この店のレビュー上での評判は良い。
これは良いな思う。店の空席状況を確認すると午前中にも空きがある。
よかった。これ以上待てなかった。
今週末には意地でも髪の毛を切るつもりだった。
少し前までは気に入っていた髪型も今では随分と鬱陶しく感じる。


ホットペーパービューティー専用のクーポン券もあるらしい。
どの美容師をしようか迷う。
ページには美容師それぞれの顔写真と簡単な自己紹介文が書いてある。
スタイリストよりトップスタイリストを指名する方が
値段が高くなるのは何処でも同じだ。
どうしようか迷って奮発する事にした。
銀座の美容院でその店のトップスタイリストに髪を切ってもらう。
これでもし変な髪型になっても自分の責任にはならないと思う。
もし気に食わなかったら心の中で一切遠慮せずに罵ってやろう。
あと友達にも悪評を周知させてやる。


選んだクーポン券はカットとヘアカラーとトリートメントが
一緒になっているコースの物だ。
次に担当するトップスタイリストを選ぶ。
男性にしようか女性にしようか悩む。少し悩んで女の子に決めた。
彼女の自己紹介には髪質を生かしたシンプルなスタイルが得意で、
ロングからショートへのイメージチェンジも得意ですと書いてある。
これは良いなと思って、
彼女を指名して私の情報や要望を簡単に書いて予約を済ませた。



息をゆっくり吐き出して深呼吸。
テレビのスイッチを点けて、冷蔵庫からよなよなビールを取り出す。
少し高いけれどどうにも発泡酒が苦手で
その辺のビールに何十円か足せばこの美味しいビールを飲めるのだから嬉しい。
テレビではドラマがやっている。
少し古い少女漫画が原作で私も学生の頃に読んだ事がある。
二十歳を過ぎた男の子が高校生役をやっているのは面白いけれど、
ドラマ自体が結構面白いからそこは別に良いかな。
プルタブを開けてビールを少し口に含む。
最近お酒がおいしく無いな、酔えるからいいけど。


しばらくドラマを見ているとグラッと床が揺れた。地震だ。
一瞬気のせいかとも思ったけど、違う。
テレビに地震速報が出る、ベッドの上のパソコンでツイッターにアクセスする。
フォローしている皆が口々に地震だ!と慌てている。
私もわぁ!地震だ!と文字を打ち込み投稿する。
画面に映る皆の発言に混じって私の言葉が並ぶ。
一体感が何だか楽しい。
私の言葉に対して
知人の女の子からこっちはあまり揺れなかったという返信が来る。
東京でも場所によって揺れの違いがあるらしい。彼女に思った事を返信する。
次に男性と思われるアカウントから返信が来る。
私の事を心配しているつもりらしい。
テーブルの上の物が落ちそうになりましたけど大丈夫ですと返す。
その後に男性がまた何か送って来たけど、
一回は返信したのだし失礼はしてないだろうと放っておく。どうでもでいいや。


地震か。大きな地震が来たら私も死んでしまうのだろうか。
いま着けている下着が使い古してボロくなった物を
家用に回した物だったと思い出す。
さっきの地震が大きくて私が死んだら、私の体はこの建物の下から発見される。
そのとき私は古びれた下着を着けていて化粧もしてない。
そんな姿をレスキュー隊や自衛隊の人に発見される。それはやだなぁと思う。
それともそんな事が分らないくらいにペシャンコになってしまうのだろうか。


嫌だなぁ。
ビールを1本空けた私は
気が付いたら布団に入って寝ていた。




美容院に行く日、当時の今日は地下鉄の銀座駅で降りてB3出口を目指した。
地下道を歩くうちに灰色の地面が高級感のある黒い石畳に切り替わる。
改札口を出たばかりで騒がしかった人ごみが
色々な所に散って徐々に静かになって行く。
駅から繋がる地下に在るエンポリオ・アルマーニの店舗が見える。
いま私が居るのは地下2階部分に当る。店舗横にある階段を上る。
上がった所が地下1階。
再びエンポリオ・アルマーニの店舗があって横を通り過ぎる。
真っすぐ行くと地上に出る階段がある。
確か地下2階がウィメンズで地下1階がメンズだったと思う。
以前地下1階には行った事がある。
階段を登る途中で地上から空気が吹き込んで来る。
11月の風を感じる。コートの前ボタンを閉める。


地上に出る。真横にはジョルジョ・アルマーニのアクセサリー売り場が見える。
つまり銀座駅のB3出口はアルマーニの店舗に併設されている訳だ。
このビルは11階まであって地下2階から地上5階くらいまでがアパレル。
上階にはアルマーニが運営するエステやレストランが入っている。
以前、外食好きでお腹と背中の肩周りがぽちゃりとしている女友達が
私の誕生日にランチをごちそうしてくれた事がある。
料理が美味しいのは勿論だけど、店内は暗くライトアップされていて、
金色のインテリアやテーブルが、
上野の美術館で見たクリムトの絵画みたいで凄かった事を覚えている。


ビルの真っ黒な軒下を抜けてやっと街中に出る。
午前10時だというのに、土曜日だから人が多い。
空を見る。11月の空は雲がないのにも関わらず灰色で
寒さが本格化している事を感じさせた。
アルマーニビルは夜見ると数百のキャンドルライトが点灯しているみたいで
幻想的で綺麗なのだけど、
昼間のビルは清潔で高級そうな黒い長方形の建物だった。


B3出口から出た通りは銀座の西五番街通りだ。
銀座の他の通りに比べると道幅は大きく無い。
すぐ向かい側にはディオールのビルが見える。
この狭い通りの入り口はアルマーニディオールに挟まれているというわけ。
ディオールのビルは細長くて、ガラス張りなのに室内が見える様な窓がない。
まるで銀色の紙でラッピングされている様に見える。
最近売ってる女性向けの10本入りの煙草の箱みたいだ。
そう考えた後で、それをいうなら口紅の外箱だろうと苦笑する。
実際目の前のビルとディオールの口紅の外箱はそっくりだったはずだ。
煙草の箱だって、デザインの元はそれだったと思う。
あれはバッグに入れやすいし、一見すると煙草に見えない。
そちらの方を先に想像してしまったのは、
このまえ久しぶりに煙草を吸ったからだと思う。
二十歳の頃になぜ吸っていたのかが分らない位には美味しくなかった。
あの頃だって、美味しいと思って吸っては居なかったけれど。
でも、親切にしたがっている男達に
私が指で持つ細長いタバコの先に
彼らのライターで火をつけさせるのは良い気分だったかな。


アルマーニビルを背にして西五番街通りを右方面に行く。
歩道、白のレンガ道を歩いて行く。
車道は黒のレンガでそのコントラストがモダンだ。



少し歩くと居酒屋の笹甚の入り口が見えて来る。
この店は利用し易い価格設定で更に日本酒の品揃えも豊富だ。
だから何度か利用した事がある。アンキモとカツオのたたきが美味しかった。
銀座は都会だけど、築地が近いからかご飯、特に魚介類が結構美味しい。


そしてすぐ隣りがガラである事を思い出して思わず下を向いて歩く。
ガラは指輪を扱ってるジュエリーで、結婚指輪で有名だった。
以前、友達からふざけて借りたゼクシィにもガラの広告が載っていた。
実際に店の中に入った事もある。
並べられた指輪はどれも幸せそうで綺麗いだった。
でも、今は店を、特に中に居るカップルを見たくは無かった。


通りの向い側のジャン・ポール・ゴルチエを見て心を紛らわせる。
ガラス窓の向こうにある大きなロゴが青白く光っている。
隣にはなぜか宇宙服を着たモデルの写真。
ここの服が似合う女性は格好いいと思うけれど私には無理かな。


チョコレートの匂いが鼻をくすぐる。前を向く。
ガラの隣は有名なチョコレート屋が軒を連ねる通称ショコラ通りだ。
ベルギーのピエールマルコリーニを始め4つのチョコレート屋が建っている。
土曜日の今日はすでに人で賑わってる。
私も去年今年とここを利用した事がある。
去年がピエールマルコリーニ、
今年がアルマーニが運営しているアルマーニドルチだ。
両方ともバレンタインデーの季節に利用した時、
ついでに自分の分も買って食べた。
とても美味しかった。
けど、普段はチョコレートなんて明治やダースで済ませてしまうので、
残りのイルサンジェーとジョエルデュランは何時食べられるか判らない。


なんで私はこの通りを選んだのだろう?
地下鉄のA1出口を選んでも美容院までの距離は大して違いなかったのに。
早く髪の毛を切りたい。私は早歩きになる。
ビル全体がエステサロンのオージオに差し掛かる。
このまえ結婚した会社の後輩が、
結婚式の前にここでブライダルエステをしたと言ってたっけ。
まあいいや。そう思って道の反対側にあるコメ兵の前に渡る。



コメ兵は高級ブランドのリサイクルショップだ。
ブラウン色のみゆきビルの1階から4階までを占めている。
元々は銀座の入り口である有楽町に店舗があった。
2、3年前にここに移転した来た。
その時にはブランド街のど真ん中でリサイクルショップの商売を始めるとは
凄い度胸だと思った物だ。
元々はこのビルにはスーツで有名なゼニアが入っていたはずだ。


誰にも言った事がないのだけれど、
以前ここでコーチのバッグを買った事がある。
コーチのバッグは容量や収納が素晴らしくてとんでもなく使いやすくて、
エルメスやヴィトンの様に硬く重い皮じゃないのが良かった。
だから仕事にも持って行きやすくて、
通勤の為に買い足すならば綺麗目のリサイクル品でも良いと思った。
実際そのとき買ったのもA4サイズの資料が入る大きさのバッグで、
収納が3つに別れていた。
真ん中がジッパー付き、右がボタン止め、左が常にオープンになっている物で、
とても大切な物、大切な物、普通の物と分ける事が出来た。
ジッパーがあるから満員電車に乗る時でも安心で、
だけれど、オープンな収納もあるから
ハンカチや定期入れなんかは簡単に取り出せた。
汚れや皺にも強かった様で、今でも結構綺麗で使う事も多い。


コメ兵がある所で西五番街通りはみゆき通りと当って十字路になる。
みゆき通りは銀座を北から南へと真っすぐに抜ける通りで、
一方通行の2車線になっている。だから西五番街通りよりは若干大きい。
春になると、街路樹のヒトツバタゴが咲かす白い花が綺麗なのだけれど、
今は裸の樹木が冬の風に寂しそうに揺れているだけだ。
その横に立っている、天辺に鶏が乗っている蒼い街灯はレトロでお洒落なのに。


横断歩道。十字路の向こう岸に渡る。
シックな黒と灰色のレンガで出来たセオリーの路面店が目の前にある。
セオリーのスーツは持っているし、この店で買い物をした事もある。
ここのスーツはタイトだけれど
生地にストレッチが効いていて丈夫で動きやすい。
それにデザインがもの凄くシンプルだから
色々なインナーやバッグや靴にも合わせやすい。
なんだ、私はコーチとかセオリーとかアメリカのブランド、
特に機能性を重視した物が好きなのだなと今になって気が付いた。


昔、表参道の美容院で読んだヴォーグに
御洒落やエレガントには肉体の拘束や、
身体を動かし難い事が付いて回ると読んだ事がある。
確かに長いスカートじゃ動きにくいし、
ドレッシーな肩が出たミニのワンピースじゃ動けない。
その点、私が好きな洋服はエレガントじゃないかも知れない。
でも最近は、そういうエレガントじゃない服を
あまり着ていなかったかなと思い出す。
思えば自分の好みを制限してたのかもしれない。
それが分かると少しだけせいせいした気分になる。
新しい髪型が悪く無かったら、後で自分の為に洋服でも買おうかな?



セオリーを右手にみゆき通りを南下する。
歩道が茶と白のレンガに、車道がアスファルトのグレイに変る。
少し歩くとフォクシーの本店に差し掛かる。
白くつやりとした石で出来た壁面。
大きなショーウィンドーと小窓。
ウィンドーには装飾された鉄作、小窓には赤い日よけが付いている。
ここだけ見たら間違いなくパリの街中だ。


パリには行った事がない。
昔は人並みの女の子らしくパリに淡い憧れを持っていた。
けれど実際に言った事のある友達が言うには
汚くてあまりよくなかったらしいので、
興味を無くしつつある。
だから旅行するならアメリカか北欧かドイツ、それかバリ島が良いかな。
でもどうだろう。あの友達の体験談も、
パリを貶した方が知ったかぶりをできるから
あんな事を言っているだけなのかも知れない。


フォクシー本店のお洒落なショーウィンドーには
素敵なワンピースやドレスが並んでいる。
女性でここの服が嫌いだと言う人は滅多に居ないと思う。
自分に似合うか似合わないかは別の事としての話しだ。
ファッションビルや駅ビルに入っている名の知れたメーカーでも
フォクシー風の洋服を扱ってるのがその証拠だろう。
嫌ってる人も例えばだけれど自分に年頃の娘が居て、
その娘がここのワンピースが似合っていたら悪い気はしないと思う。


私には似合うかな?と考える。
でも、カットソーが1枚6万円もする事を思い出して考えを引っ込めた。
日常で使う事は難しいを通り越して無理だ。
ワンピースを1着買って試す事も難しい。
そう思うとフォクシー風の洋服が売られているのは良く分かる。


そう言えば以前読んだ小説で
フォクシーという名称の薬が出て来た事を思い出す。
なんだっけ?女性小説家が書いた恋愛小説で相手が黒人の男性だったはず。
フォクシーは媚薬の別名だったかな。
媚薬って効果があるのだろうか?
もし飲んだだけでどうでもいい相手に欲情できるならばそれって凄い。
だってこの世界に欲情で来たり興奮出来たり、
それ所か興味を持てるものって少ないものね。
同僚がミュージシャンやお笑い芸人に夢中になっているのを話しで聴くけれど
彼らのどこが良いのか私にはわからない。
けれど誰かに夢中になる気持ちは痛い程良く分かる。
だから欲情出来たり、
夢中になれる相手が多いの事は良い事も知れないと思える。
でもそういう人は1人居れば良いのかな。良く分からない。
夢中になれる人が多いと年がら年中楽しいだろうな。
私はずっと楽しくは生きられていない。


ファッションブランドのフォクシーと媚薬のフォクシー。
名前の由来は、この2つとも同じなのかな?



そんな事を考えていたら美容院が入っている銀座尾張町タワーに着いていた。
見るからに清潔そうな建物。
それもそのはずでここは2年程前に建ったのだ。
みゆき通りとすずらん通りが交わる十字路の角に建っている。


無事に辿り着けたと安心する。
スマートフォンの地図を見ずに済んだ。
地図を使って目的地に向かうのは苦労するけれど、
通りの名前や立ち並ぶ店を思い出しながら歩くと簡単に着けるのは不思議だ。
でもファッションに興味がない女の子だったらこのやり方はだめだろうなあ。


すずらん通りの方へ右折すると再び車道がレンガ張りの様な道路になる。
ビルの入り口が見えた。扉もなくトンネルの様になっている中に入る。
こう言う場所も玄関ポーチって言うのかしら?
ポーチに入って直ぐに案内板がある。drive for gardenは5階だ。
エレベーターのボタンを押す。
すると2機あるエレベーターのうち左側の物がすぐに着た。


乗る。5階のボタンを押す。エレベーターの扉が閉じて上昇する。
少し緊張しなくも無い。初めてのお店だからだろう。
5階に着いて扉が開く。エレベーターを降りて受付に向かう。
木を使った内装が目を惹く。
床はナチュラルな色で、壁や受付のカウンターは
質の良い木材に何回もニスを塗った様に深い黒色をしている


予約していた時間より僅かに早く着いた。
スムーズに行けばちょうど良い時間だと思う。
受付を済ませて椅子に座っていると数分で名前を呼ばれる。
美容院のメインスペースに向かって歩く。
こういうインテリアを何調と言うのだろう?
白い壁に並ぶ長方形の大きなガラス窓からは暖かな陽が入っている。
アンティークを思わせる重厚な木材を使った家具や鏡台。
大きなライトが着いた天井は
白く塗られて統一されたパイプなどがむき出しになっている。
だからだろうか、大きな窓と合わさってビルの中だというのに開放感がある。
良いなぁと思う。
そういえば家にトイレットペーパーの控えがない事を思い出した。
帰りに買わないと。なんで思い出し方は自分でも良く分からないけれど。


専用のシャワー台で髪を濡らされてから鏡の前の椅子に座る。
指名した美容師の子はサイトの写真より髪が短かくなっていた。
細いスキニーにきつね色のモンキーブーツ。
身体が細過ぎだけど、そこに乗る黒髪のショートヘアーが良く似合っていた。
可愛いより格好いいと言われるタイプの女の子だ。


初めてのご利用ですね指名して頂いてありがとうございます
という彼女の言葉。唇に穏やかな笑みを浮かべたクールな表情。
私は笑顔で頷いてフォクシーのショーウィンドーを目印に来たから
迷わずに済んだと言う。
一瞬の後、彼女は直ぐにええ、あそこの洋服は素敵ですよね、
私には似合いませんけどと言う。私は笑って同じ気持ちと答えた。


彼女は入店してからの私を良く観察している様だ。
服装や髪型に持っているバッグから
私の服装の趣味や趣向を予想していると思う。
それもきっとそんなには間違っていない予想だ。


現在の髪型や希望は既にネットで伝えてある。
彼女が私の濡れた髪の毛を優しく触る。
ゆっくりと波打った髪の毛が鎖骨や肩甲骨に触る。
イメージチェンジしたいのと言うと、
彼女は表情を変えずに分かりましたと言った。


ああ、当たりの美容師を引いたなと思う。
めんどくさくかったり馴れ馴れしかったり
無意味にこちらを笑わせようとする人はいけない。
彼女はこちらの気持ちを汲み取ってくれていると感じる。


彼女の返事に続いて私はだから美容院も変えてみようかなって。
今までは表参道のお店を使っていたんだけどと話しをする。
そうですか、
ではいつもよりがんばりますとクールな顔のまま言う彼女が妙に面白い。
それから具体的な髪型を相談して決める。
カラーチャートを見て私の髪質と相談しながら染める色を決める。
彼女の説明は簡素でとても分かりやすかった。
そうして全部が決まった。あとは任せるだけだ。それで終わる。
新しい髪型になる。想像するだけで気分が良い様な気もして来る。



彼女が腰に着けたシザーバッグからハサミを取り出す。
細い手が荒れているけれど、腰も凄い細いなと思う。
ハサミが私の髪の毛に入って行く。


ああよかった。これで髪が長い私はもう居ないんだと安心する。
思えば人生の中で肩に届く髪の毛の長さなんて珍しかった。
その時期の写真も全部捨てたし、
これでミディアムヘアーの私なんてもう居ない。
友達や会社の子と撮った写真は
彼女達のスマートフォンに残っているだろうけれど、それはそれ。
私の見える範囲にはもう居ない。それで納得する。
思えば無理していたな。無理なんか良く無いんだ。


これでもしなんらかの偶然が起こって街中で彼に出くわしても怯えずに済む。
髪が長いままだったら彼に未練が残っていると思われてしまうかも知れない。
そんなのは絶対に嫌だ。気持ち悪いじゃない。
もう私の心は彼の物じゃないのに
もし今さらまた言い寄られたりしたらもの凄くがっかりする。
面倒なのは嫌だ、スッキリしたい。スッキリすればきっと心もスッキリする。
鏡の中には短い髪になりつつある私が居る。本当に良かった。


髪を切っている時間は思ったよりも短かった。
途中で彼女が何かを数度話しかけて来たけど、
適当に対応すれば良い物だったから安心した。



次にカラーを入れる。その後でカットの仕上げをする。
この方が毛先が痛まなくて良いという。
カラー剤もヒアルロン酸が配合されている物で髪の毛や頭皮に優しい物だ。
色々な物を塗られたり被せられたり洗われたりして染髪が終わる。
まだ髪が塗れているのでどんな結果かは完璧には分らない。
その状態で仕上げのカットをする。
短い髪がもう一段短くなる。
鏡を見る。まだ見慣れないな。当り前か。短くするのは何時以来だろう。
とりあえず、すっきりしたのは確かだ。


最後に仕上げのシャンプーとブローだ。
クーポンに入っていた炭酸泉ケアという物をしてくれる。
炭酸泉という二酸化炭素が入った水で頭皮を洗い流す物で、
毛穴に詰まった老廃物や、
頭皮や髪に残ったカラー剤の残留物を洗い流してくれると云う。
髪の毛が美しくなりカラーの持ちも良くなるというから、
それは良い事だなと思う。
今の気持ちがずっと続けば良い。


洗髪が終わる。
なんで美容師さんのシャンプーてこんなに気持ちが良いのだろう。
それからドライヤーを使って髪を乾かす。
最後のブローを終えて全てが仕上がる。


全てが終わった後の私を鏡で見る。
髪の色が明るい。
暗い色の方が好きだと言うからそれに合わせていたけれど、
やっぱり馬鹿馬鹿しい事だったな。
だって髪の毛が明るいと顔も明るく見えて気持ちも明るくなる。
これから毎朝そんな気分になれるだろうか、なれると良いな。
髪も軽やかだ。軽やかというのはそれだけ良いでしょ。良かった。
気持ちが清々しい。


彼女に礼を言ってカウンターで支払いを済ませる。
彼女にはまた指名するねと約束する。いいお店に出会えて良かった。




エレベーターを降りて深呼吸をする。
鼻に入る冷気がこそばゆい。
キリリとした冬の空気が高揚する心を冷静に落ち着かせてくれる気がする。
ビルを出るとすぐ横にあるとん銀というトンカツ屋の看板が目に付いた。
お昼という時間帯。
行きには看板に気が付かなかった。
私はお腹が空いているのだろうか?分らない。
美味しそうな店だけど、美容院に行った後に入る気持ちにはなれないかな。


銀座尾張町タワーを背にしてすずらん通りを左手側に歩き出す。
私は自分がどこに向かおうとしているのか分らないまま歩き出す。
このままここに突っ立ていては意味がないのだから仕方がない。
立っているだけだと寒いし。
歩けばその間は少しは暖かい。



みゆき通りと交わる十字路に戻り、渡ってすずらん通りを進む。
角にはカステラで有名な文明堂が見える。
カステラというお菓子は期待以上に美味しい事はないけれど、
外れる事も少ないから良いお菓子だと思う。
こんな事を考えるなんてやっぱりお腹が空いているのだろうか?
だとしたら食欲不振だった最近を考えるととても良い事だ。
壁一面のショーウィンドーの上に掛かる朱色の日よけが可愛い服屋を過ぎると、
紅茶のマリアージュフレールがある。


以前、家で誕生日ケーキを食べた時にどうせならとここのを買って入れたっけ。
美味しかったけれど普段は飲めないな。
100グラム2000円位するんだもの。
でも今日はいっそのこと買ってしまおうかと考える。
良い美容院で素敵な髪型にして貰ったし、そのまま続けて贅沢してしまおうか。
フォートナム・アンド・メイソン三越にあったと思うけど、
私はこちらの方が雰囲気が好きだ。


マリアージュフレール銀座店の外観は高級そうな木で出来ている。
まるでハリーポッターの映画に出てくる様。
でもあの話しはイギリスが舞台だっけ。
紅茶のマリアージュフレールはフランスの紅茶屋さんだったと記憶している。
上の階では確か紅茶と一緒に食事が楽しめるはずだ。
紅茶好きの人々で賑わう店内に入ると優雅な匂いが漂っている。


どれを買おうか商品を見回す。凄く迷う。
アールグレイだけでも何種類も合って良く分からない。
中年の男性店員にお勧めを尋ねる。
ここの店員はほとんどが男性で
特に銀座店は外見で採用したのではないかと思う様な人が多い。
それでいて接客も上手なのだから繁盛するのも分かる様な気がする。
いくつかの茶葉の匂いを嗅がせてくれる。
結局私はアールグレイのフレンチブルーと言う銘柄を購入した。
ベルガモットの匂いが美しく、
茶葉にブルーエという矢車菊の細長く青い花びらが入っている。
家にあるガラスで出来たポットで入れる事に決めた。
想像して、少し楽しい。


マリアージュフレールを出るとその先がヴェラモーレである事を思い出した。
なんで銀座にはジュエリーショップが多いのだろう。
ヴェラモーレもマリッジリングで有名で、お店にも入った事がある。
素敵なデザインの指輪が多いけど今は見たく無い。なんかさっきと同じだ。
それからそんな気持ちは髪を切った私には
まったく関係の無い感情だと思い出す。
そうだった。もうどうでもいい事だ。
こうして楽しく銀座を歩いて髪を切って綺麗な紅茶を買ったのだもの。
店内の大勢のカップルを見て幸せにねと心から思う。
やっぱり、これだから髪を切るのは凄く良い。


その先にあるハナエモリの前を通り過ぎる。
ハナエモリが入っているビルは黒でクールな佇まいをしている。
本当にここだけを見たらニューヨークの59丁目にありそうな建物だなと思う。
そんなこの店の前を通ったりデパートでハナエモリのお店を見る度に
ここの洋服が好きな叔母の事を思い出す。
叔母は今でも現役で働いていてハナエモリの服を格好よく着こなしている。
もの凄く格好良くて憧れる気持ちもあるけれど、
あの年まで結婚もせず子供もいないのは嫌だなとも思う。
でも格好よくて前向きで明るい。あの年でもなかなかの美人だと思う。
年相応に落ち着いていて色気もあるのに、雰囲気がとても若々しい。
なんだろう。実は年下の愛人でも囲っているのだろうか?



先に進む。
お洒落な七宝焼きの店がある所で十字路になる。
すずらん通りに交わるのは銀座の中でも1、2位を争う広さの晴海通りだ。
片道が3車線もある大通りで晴海通りをここから南に行けば
大きな中央通りと交わる。
晴海通りと中央通りの交差点は
3つの角に三越本店、和光、三愛が立ち並ぶ
誰もが一度は見た事のあるあの景色を作っている。


さて、ここからどうしようと思う。
左に曲がり少し歩くと、
ディオールアルマーニがある場所に再び戻る事になる。
ディオールの向かいにはグッチがある。
アルマーニの先には
独特の幾何学模様のワンピースがウィンドウを飾るエミリオプッチがある。
あそこの水着は色鮮やかで似合うならば一度は着てみたいと思うけれど、
その色彩と露出度から私には無理だと思う。
そもそもビキニで4万円はキツすぎる。
そういえばここの水着を着ているとナンパされやすくなると
英語版のELLEだかヴォーグで読んだ様な気がする。


とにかく、私はアルマーニビルから地下鉄の階段を上り地上に出て、
ぐるっと回って今の場所にいるわけだ。
アナログの時計なら12時の位置がアルマーニ
11時の方向に向かって歩いていく。
美容院が8時の位置。そこから歩いて私がいま居る十字路が6時の位置。
真っすぐに上に向かえば12時に戻る事になる。
地図だと分かり難いけれど、時計に例えると分かりやすい。
これって結構な発見かも知れない。


自分の発見に感心していると、
スマートフォンのメールのプッシュ通知を知らせる音が鳴る。
送り主を見て顔をしかめる。
思わず溜め息。
1週間前に寝た男だ。



なんだろう?送られて来た文面を読みながら彼は何が目的なのだろうと思う。
どうも私とまた2人きりで会いたいらしい。
なんで?あの夜に恋や愛が有ったとなんて思っているのだろうか。
どうしようかと考える。
あの夜は私がただどうしてもセックスしたくて、
あなたがそんなには悪く無い顔とスタイルで、
口臭もなさそうで親切にしてくれて
ホテル代や飲み代を払ってくれそうだったから寝ただけと
正直に言えば良いのだろうか?
いやだなぁ、断り方を間違えて機嫌を悪くして、
もしまとわりつかれたりしたらどうしよう。
でも、よく顔を合わせる様な男じゃなくて良かったと思う。
これが会社の同僚だったら最悪だろうな。
うっかり彼が私との事を喋って
上司がおせっかいを焼いたりしたらとことん面倒くさい。


でも彼が私との間に愛や恋がなかった事を理解していて
それなのに連絡を取って来たならば、
それって私ともう一度寝たいからって事でしょう?それって最悪だ。


さらに最悪な事に文末にはどこで聞いたのか
私を励ます様な言葉まで書いてある。
正確には励ましと私に対する同意だ。こういう男が一番面倒くさいと思う。
女心を分かっている様な気がしている男が一番面倒くさくて気持ちが悪い。
私の事を全部知っているならまだしも、知ってる振りは本当に止めて欲しい。
中途半端に知っている人より、
まったくなぶっきらぼうな男の方が一緒に居て楽しいくらいだ。
女心を知っていると思っている男は
その余裕がある様な言動や思い込みが気持ち悪い。


あーあ。
なんで気分がいいはずの今の私はこんな事を考えなくてはならないんだろう。
私は馬鹿だなと自分の事を思って、このメールの事をひとまず忘れる事にした。
返事を返す時に寝てたとか、忙しくてとか電池が切れててとか付け加えれば、
返信が遅れても大丈夫でしょ。



さてどうしよう?
突っ立っているのも馬鹿らしいので
晴海通りを横断して十字路の向こう岸まで歩く。
ここからは通りの名前がガス灯通りに変る。
すずらん通りとガス灯通りは晴海通りを挟んで繋がっているというわけ。


この通りはその名の通り、古めかしいガス灯の様な街灯が立ち並んでいる。
本物のガス灯もあったはずだ。どれがそれなのか調べた事もないけれど。
こんな通りを横浜でも見たなと思い出す。
所謂大正ロマンなノスタルジーなのだろうか?
歩道も車道も茶色い煉瓦風になっているのはその演出だろうか?
確か百年位営業しているキャバレ−がこの通りにあったはずだ。
兎に角古い通りなのだろう。キャバレーという店の形態自体が既に古めかしい。


晴海通りからガス灯通りに入る入り口は左右を和光に挟まれている。
右が大きい和光で左が小さい和光だ。
右の和光は建物が三越と三愛がある
4丁目の交差点まで伸びているのだからその大きさが分かる。
そこでは貴金属を含む高級な装飾品を扱っている。
左の小さい和光は食べ物を扱っていて、上には喫茶店があったはずだ。
去年出来たばかりでまだ入った事がないのだけど。
なんせ銀座には飲食店が多くある。
オープンしたからと一々その店に行っては、
身体と財布が持たない。そもそもそんな暇がない。
食べ歩きが趣味でブログやツイッター食べログなんかに
感想を書いたり写真を上げたりする人は
どこからその時間を持って来ているのだろう。
今度あの小太りの友人に訊いてみようかな。
嫌みに思われるかもしれないけど、仲が凄く良いから大丈夫だと思う。


そんなガス灯通りを歩いて行く。
小さい和光の隣にはポール&ジョーがある。
四角くて白い石で作られている建物。
ここもパリに有りそうな感じだ。
ポール&ジョーはフランスのブランドだからこの感想はおかしくは無い。
もしかして銀座とパリは似ているのかも知れない。


ポール&ジョー
清潔で可愛らしいショーウィンドーをなんとなく眺めていたら、
入り口付近に居た女性店員と目が合って微笑まれる。
目を逸らして立ち去ろうか考えていたら、私は店の中に入っていた。
高めの紅茶を買って勢い付いているなと思う。


私と同じ年代の店員が可愛いですよねと微笑む。
ウィンドーの中の商品の事だろう。
ここの商品はシンプルとフェミニンとカジュアルの間を巧く取り持っていて、
休日に着るのは良いなと思う。
ええ。そう思ってと私も微笑み返した。
休日の洋服を全てここで揃える程、稼ぎがないのが残念だ。


内装も外装と違わず白で統一されていて、
ヨーロッパの素敵な邸宅を思わせる。
ポール&ジョーの服は私には派手と思える様なデザインもある。
選べばシンプルで可愛い物も多いのだけれど。
店内を適当に見ているとあるバッグに注意を引かれた。


バッグかぁ。バッグはいいなぁと思う。
バッグなら5万円ほど出せば品質やデザイン的にとても良い物が買える。
エルメス、それにバレンシアガやボッテガなんかは別だけど。
コートや腕時計だとこうはいかない。


5万円も出さなくても雑貨屋やちょっとした洋服屋で売っている物、
それにセールの時に5000円から10000円くらいの間で
買える物でも気に入るバッグは沢山有る。
ああ、だからこうしてバッグばかり増えて行くのか。
だけれど、同じ服装でもバッグ1つ変えると印象が変わるし、
同じバッグばかり持って外出すると見窄らしく思われるから
増えるのは仕方がないとも思う。


私の目に留まったポール&ジョーのバッグは
赤色の生地に紺色の小さな模様と、大きい白い模様が一面に配置されている。
白い模様は柔らかくて青空に悠々と浮かぶ自由な雲の様に思える。
近づいて良く見るとそれは猫だった。白い猫の模様だ。紺色の方は影だ。
私には派手と言うか、ガーリーと言うかファンキーな気さえする。
でも全体を見ると模様があまり大きくないからか、
バッグの縁や取手が茶色の革で覆われているからか、
その赤と紺と白と茶の組み合わせが上品にも思えるから面白い。


先程の女性店員がこのバックはフランスのメーカー、
ジャック・ラッセル・メルティエールとの
コラボレーションアイテムだと説明する。
手に取って中を見せてくれる。
入り口にはジッパーが付いていてマチ幅もちゃんとあって荷物が多く入りそう。
ポケットもちゃんとある。なかなか使い易そうだ。
中地はベージュ。面白い事に今度は犬の模様がちりばめられている。


店員が鏡がありますのでどうぞと言って
バッグを持って私を店の奧へと案内する。
巧い接客だと思う。巻き髪を揺らす店員は私と年齢が同じ位だと思う。
やはりこのくらいの年齢が
仕事に対して一番勢いに乗っている時なのかもしれないと
自分の事を振り返って思う。
そんな時を仕事以外の事で潰してしまうのは
勿体のない事だったのかもしれないと考える。
しかしこれから先も成長は有るのだろうか?
年を取って劣って行くだけなのだなのかな?


バッグを渡される。両手で取手を持って膝の前に下げる。鏡の前に建つ。
あ、結構似合ってる私。身体を左右に揺らしてみたりする。
店員の実は色々なお洋服にも合わせ易いんですよという声。
スカートでフェミニンな服装にも、
ジーンズでスポーティーな格好にも良いらしい。
たしかに可愛らしい良いアクセントになりそうなバッグだ。
それでいて柄物なのに派手過ぎない。
購買欲が沸き上がる。
いけない、紅茶のせいで勢い付いている。
バッグを買うつもりはなかったのに。私を不機嫌にしたメールに原因もある。
まぁいっか。人生の中でこんな時なんてそうそうないだろうし、
自分の為にお金を使おう。
自分で稼いだお金を自分の為だけに使うって愉快じゃない。
メールの事は早く忘れよう。
2階にはセカンドライン
ポール&ジョー シスターが有るけれど自制して見ずにおいた。



私はバッグが入ったショップバッグを持って楽しい気持ちで店を出る。
ここのは上品に花が描かれていて可愛いので好きだ。
汚れない様に持ち帰って保管しておこう。
バッグに入らない物を持ち歩く時にショップの紙袋は役に立つ。


すっきりとした気分でガス灯通りを進む。
暫くするとランバンが見える。ここが松屋通りとの交差点になっている。
十字路の向い、
建物の2階にある喫茶室のルノアールがレトロな雰囲気を周囲に与えている。
ランバン銀座店の外見は光沢と接目の無い黒いシックな壁で覆われている。
高級感だなと思う。
実際にこの店舗はランバンの直営店で、
扱っているものもランバンコレクションやブルーといった
日本のアパレル企業がデザイン販売するライセンス品ではなく、
ランバンのトップデザイナーの
アルベール・エルバスがデザインした本場の物だ。


ランバンはもの凄い高級なイメージがある。
実際に値段も高いけれど、価格に対してだけではない高級という印象を持つ。
だから私は店に入るのだけでも躊躇してしまう。
いいや、いつか宝くじでも当って余裕を持てたらここで沢山買い物をしよう。


宝くじ。1枚300円の物を、
買う事は有るけれどそれは誰にも言っていない。
高い金額を当てるより、購入資金を貯金した方が効率が良い事は知っているし、
人との会話の流れで宝くじを買う人を馬鹿にした事があるからだ。
それにもし高額を当てでもしたら他人には隠し通さないと行けない。
だから宝くじを買っている事は周囲には内緒だ。


あ、そういえば、昨日が年末ジャンボの発売日じゃない?
という事は西銀座デパートの宝くじ売り場には
休日である今日も人が沢山並んでいるだろうなあ。
毎年販売初日には1000人くらいの行列ができるはずだ。


このままガス灯通りを真っすぐ行くとデビアスの本店が有る事を思い出す。
私はランバンのある十字路を右手に曲りガス灯通りから松屋通りに入る。
直進すると直ぐに中央通りと交わる。
名前の通りこの道は老舗デパートの松屋に通じている。
その場所が銀座3丁目交差点だ。



中央通りの中央とは銀座のそれを意味しているのではなく、
東京の中央を意味している。日本橋を中心に新橋や上野や秋葉原を通っている。
それを知ってからたまに乗る
タクシーなんかのドライバーさんへの支持が少しだけ簡単になった。
今は土曜日という事で中央通りは車の通行を止めて
いわゆる歩行者天国になっている。
11月の月末。土曜日。やっぱり人で溢れ返っている。


そんな中央通りと松屋通りが交わる
道幅の広い十字路の左向かいには大きくずんぐりとして清潔な建物が見える。
松屋銀座店だ。
百貨店と呼ぶに相応しい外観をしている。
ファッションビルやスーパーではとても敵わない様な雰囲気だ。
今年の春に改装を初めて、
ついこの間の9月にリニューアルオープンを済ませたばかりの松屋
最近になってやっと客足が落ち着いて来た。
だけど土日となるとやはり客で溢れている。
デパートという近代になって日本に入って来た文化なのに、
老舗と称される松屋は凄いと思う。


私が立っている左手にはアップルストアが見える。
白と灰色の建物。
開放的な店内から優しい光を中央通りの歩道へと放っている。
新しいあいぽんが出る度にニュースに出るのがここだったはず。
新製品購入の列に並ぶ
タンクトップでモヒカンの人が取材を受けているのをテレビで見た。



これからどうしようかな?と思う。
喉が渇いた。どこかお店に入ろうか。
もしかして食欲が出て来るかも知れないし。
店を探すのが面倒だったので中央通りを人を避けながら渡る。
松屋の中に入る。
入る時にガラスに映った自分の顔を見る。
ショートも中々似合っているじゃないと思った後で
化粧が今までと変らない事に気が付いた。
明るくした髪と化粧のカラーが合っていない。


原因はアイメイクかな?と考える。
今までは自分の本来の好みより地味にしていたんだった。
髪のついでにメイクも変えてしまおうかな。
都合のいい事に松屋の1階は化粧品売り場になっている。
売り場からは明るい光とパウダリーな匂いを感じる。


3機あるエレベーターを通り越して
ギンザビューティーと名付けられた松屋の化粧品売り場に赴く。
ぐるっと一周する、多くあるメーカ−の中でディオールの売り場が目に付いた。
最近、ドレッサーの中にここのコスメが増えて来ていた。


ディオールのカウンターの中に居るBAさんが微笑みかけて来たので
彼女にアドバイスを求める事にする。
彼女は光沢のある品の良いブラウンの髪の毛を後ろでお団子にしている。
細身の身体に黒い制服が良く似合っていた。
あれ?そういえば以前はディオールのBAの制服は
白いTシャツの様なものだった気がする。
季節によって変わるのかも知れない。


BAさんにたった今、
美容院で久しぶりに髪を短くして色を明るくして来た事を告げる。
どうせならメイクも変えたい、特に目の印象を変えて。
今の髪色と合う物にしたい。そんな要望をBAさんに話す。
そのうちになんだか愉快な気持ちになってきた。
楽しくなり過ぎて、
何らかの理由があって思い切って髪を切って情緒不安になっている女と
思われない為に愉快な気持ちを自制して会話をする。


要望を聞いた彼女がタッチアップしてくれるというので頼む事にした。
椅子に座る。彼女が何点か色を選択してくれてその中から好みを聞かれる。
片方の目を彼女のお勧めの物に、
もう片方を私が選んだ物を中心にメイクしてくれるという。
お勧めの物が明るい物だったので、私は髪色と同じ位の明るさの色を選択する。


今しているアイメイクを落とされ、色々塗られる。
彼女の手さばきにうっとりする。化粧が上手い人はいいなあ。
その途中でああ、そうかと思う。
眉毛を明るくするのには眉マスカラを使うのが良いのか。
今までは暗い色だったからアイブロウペンシルで済んでいたけれど、
髪の毛が明るいとこっちのほうがいいんだな。これは絶対買おう。
紅茶とバッグのせいでお財布の紐が確実に緩んでいる。
数十分でメイクが完成する。
BAさんの技術に感心していたのであっという間だった。


なるほど、私が選んだ物より、
BAさんが選んだ物の方がいいメイクだと思える。
私が選んだ方は髪とアイメイクが同じ色で統一感が在る。
だけれどどこかのっぺりとした感じがある。
それに比べてBAさんが選んだ明るいアイメイクは髪と目元にメリハリがあって
互いの色を引き立てている様だ。それにこっちの方が気持ちも明るくなる。


片方のメイクもそっちにしてもらう。
タッチアップされながら使用したコスメの説明を受ける。
アイシャドウは定番の5色セットの物を使っていた。
ライナーは似た様な色がリキッドとペンシルに有るらしく、
どちらを選んでもメイクの印象は大きく変わる事がないという。
だったらペンシルの方が簡単で良いかなと思う。
上手い人だったらリキッドや水溶きタイプ、
ジェルの方が色々出来て便利なのだろうけれど。私はだめかな。


両目のメイクが揃う。うん凄く良い。
だめだ。いけない。最初の紅茶がいけなかった。
結局私はディオールで眉マスカラとシャドーとアイライナーを買ってしまった。
でも新しいメイクをすると愉快で笑える。とっても良い気分だよ。
なんか買い物依存症にならなければいいと思うけれど、
人生の中で今日みたいな日はそうそうとないと思うから大丈夫だろう。


マスカラも勧められたが御断りした。
マスカラはドラッグストアからロフトやプラザ、
そしてデパートで買える物まで色々持っている。
これ以上増やすのはいけないよ。
そういえばディオールではマスカラをアイコニックとか言ったっけ。



上の階にレストランがあった事を思い出して昇りのエスカーレータに乗っかる。
ゆっくりと上に向かう間に
2階が海外高級ブランドのフロアである事を思い出した。
ルブタンとジミーチュウとシャーロットオリンピアから始まり、
ジルサンダーにステラマッカトニーにクロエ。
ミュウミュウ。モンクレール。
マックイーンとマークジェイコブス
バレンシアガとプラダとヴィトン。
そしてサンローランとランバン。
危ないと思って顔を伏せて3階へのエスカレーターに乗る。


3階はICBやアンタイトルといった親しみ易いブランドが並ぶ。
こういった階に同じみのインディヴィボナジョルナータが無いのが不思議だ。
他にも23区やエリオポールがあって、
そんな中にあーぺーせーなんかもあったりする。
安心して顔を上げる。4階に上る。


4階で扱っている婦人服は3階と比べると価格が上がる。
客の年齢も上だと思う。
イッケイミヤケにワイズ、ボスやストラネスにチヴィディーニがある。
5階に上がろうとエスカレーターホールを折り返した所で、
素敵なワンピースを着ているマネキンを見つけてしまう。


見るだけと思ってマネキンに近づく。
マネキンが置いてあるお店はエポカだった。
黒1色のワンピースの腰から下には
美しい2層のレースが編んであるのが見えた。
近寄ってよく観るとワンピースではなくて、
ブラウスとスカートの組み合わせだと分かった。
いいなぁと思って見ていると、上品な笑顔を浮かべた店員が
柔らかい物腰で下はスカートではなくてキャミソールドレスだと教えてくれた。
ブラウスの後ろ、
肩甲骨の部分がシースルーのレ−スになっていてキャミソールの肩紐が見えた。
なるほどーと納得する。
店員がそれぞれを別々にも使えるので良いと言っている。
私もそう思う。そうですよねと返事を返す。
だめだよ、今日はこれ以上高い物は買わないと自分に言い聞かせる。


店員が白色もあると同じ型で色違いの物を持って来る。
純白ではなくオフホワイトで清々しくも優しい感じだ。
迷っている自分をなんだかおかしく感じる。
今までだったら黒を選んでいたと思う。でも今は白に心引かれる。
新しい髪型のせいかな?
そう思ったら楽しくなって来た。だから試着をする事にした。
選んだのはオフホワイトだ。


試着室に入って服を脱ぐ。
鏡に映る自分の身体を見る。
意味も無く左右に半円を描く様に回る。
お腹の辺りを手の平で撫でてみたりする。
試着室に入るとついこんな事をしてしまう。
痩せたなぁと思う。食欲が無いせいだと思う。
それになんだか肌がガサガサして乾いている様に感じる。
きっと冬だからだろう。


傍らに置いてある細長い箱からフェイスカバーを取り出して冠る。
その格好で鏡を見る。映画に出て来る強盗を思い出す様で面白い。
下着姿なので随分と間抜けな強盗だけれど。
長いキャミソールを着てそれからブラウスを着る。
カバーを顔から取る。あ、中々悪く無い。
その場でくるりとゆっくり回る。
どうでしょうという店員の声に扉を開ける。
よろしければどうぞとミュールを差し出される。
礼を言って履いて試着室の外に出る。遠目から鏡で自分の姿を見る。
うん、良いんじゃない?
後ろ姿も良い。サイズがぴったりと合っているのも嬉しい。
店員さんがお似合いですよと言ってくれて
ビジネストークなのだと理解はしているけれど、少し嬉しくなる。
だって、髪とドレスが凄く似合っているのだもの。


それから、でもこれを買ってどこに着ていくのだろう?と思う。
店員がこのままでも良いし、
ジャケットやカーディガンと組み合わせてカジュアルに使う事も出来るし、
別々でも色々な使い道があると説明している。確かにそう思う。
2つ揃って素敵なのはもちろん良い事だけれど、
バラバラに別れてもそれぞれに利用出来て、それを楽しめるのは良い事だ。
でもどうせならドレスを着る様な気持ちになった時や場所に着ていきたい。
今後の予定を考える、そんな時は今の私にはないなぁと考えて、
すぐに友達から誘われたイベントがあった事を思い出した。


一昨日の11月第3木曜日はボジョレーの解禁日だ。
明日には夕暮れの手前から丸の内のレストランで
今年のボジョレーを楽しむ為のパーティーがあるという。
女の子達だけで行くと言うからそこにこの服を着ていこうと考える。
良いかもしれない。
こういう時に女子会って便利だなと思う。
複数のボジョレーの他においしい料理もコースで出て来ると言うから楽しみだ。
今からでも参加は間に合うだろうか?後で友達に連絡しておこう。


うん、本当にこれが今日の最後の買い物にしよう。
しばらくは質素な生活をする。様はバランスが大事よねと思う。
私は結局このエポカのオフホワイトのドレスを購入する事に決めた。
自宅のクローゼットの中にある
ドレスやワンピースの事が頭に思い浮かんだけれど、
いま持っている物を真剣に考えたら、
新しい物を手に入れる事は出来ないよねと思う。
物が増え過ぎて、自分で管理出来る範囲から飛び出してしまったら
その時に捨てるなり人に譲なりする事を考えよう。


試着室で再びカバーを冠ってドレスを脱いで服を着て靴を履く。
カバーは傍らのゴミ箱に捨てた。
カバンを持ってから忘れ物が無いが振り返った。あった。
コートのポケットから落ちたのか、ティッシュが落ちていた。
いけないと思い拾う。
楽しい思いをしたのに、そこに忘れ物があるのは少し間抜けだ。


レジカウンターでドレスが畳まれる。
店員さんが私が持っていた紙袋を見て、
まとめしましょうか?と尋ねてくれた。
ディオールのショップバッグはどうしようかと迷ったけれど、
見せびらかすものあれかなと思う。
結局マリアージュフレールの紅茶とディオールのコスメの袋を
エポカのドレスが入る大きなショップバッグに入れてもらう。
ドレスと同じバッグに直接入れのではなくて、
別の中くらいの袋に2つを入れてから大きな方に入れてくれた。
これで荷物は家から持って来たバッグと、
可愛いポール&ジョーの紙袋とエポカのショップバッグだけになった。
持っていたり抱えたりしているものが減ると、少しだけ楽チンだ。
店員さんが店の外まで袋を持ってくれて私に渡した後で頭を下げる。
私は笑顔になる。洋服を買うのは何時でも楽しいな。



5階に続くエスカーレーターに乗る。
ここから上は紳士服売り場だ。だから嫌な事を思い出した。
エスカレーターの横にある鏡が目に入る。
新しい髪型、色。新しいメイクの私。
買ったばかりのバッグとドレスの袋。
嫌な想い出なんかもうどうでもいいよねと口角を少しだけ上げた。
明るい気持ちだ。


5階6階7階を順調に通り過ぎる。
途中で友達に連絡をして明日の予定に間に合うかを尋ねるメッセージを送る。
そうして8階に辿り着いた。
8階は半分がレストランフロア、もう半分が催し物会場になっている。
物産展やバーゲン会場になるあれだ。
そちらの方には行かない様にしてレストランを見て回る。


イタリアンに和食洋食中華とんかつ天ぷら寿司おそばうなぎ。
どれも美味しそうな店。
なのに感動が無いのは食欲がないからなのだろうな。
思えば朝に食べたバターロールしか口にしていない。
どの店もランチタイムは過ぎたというのに
家族連れやカップル達が楽しそうに食事をしている。
中には1人で食べている女性も居る。うんべつに普通の事よねと思う。
お腹も減っていないし、ここで食べるのはよそう。








(後編に続く)


後編は↓こちらです。
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20140110/1389367320










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【クリスマスイヴの短編】もぐもぐ子ちゃん。


【クリスマスイヴの短編】
もぐもぐ子ちゃん。



部屋(フロア)の四隅は揺れる影に照らせれて薄暗い。
テーブルの上や、テーブルとテーブルの間を
オレンジ色の暖かな照明が優しく照らしている。
白いテーブルクロスの上にはパン屑が散っている。


会話の邪魔にならない程度に音楽が鳴っている。
ヴァイオリンやチェロの音。伸びやかなフレーズに緩やかなヴィヴラート。
音楽にはあまり詳しくはないけれど
これはきっとハイドン弦楽四重奏曲だ。
たしかヒバリという題名のはず。


笑顔のままでゆっくりと周囲を見渡す。
スーツを着た男達。ドレスを着た女達。
笑顔、笑顔、笑顔だ。まぁ流石にそうだろうなと思う。
なんて言ったって今日はクリスマスイヴだ。
もし仮に上手く行っていないカップルだって
今日のディナーの間くらいは嘘でも笑顔で過ごすというものだろう。
それが出来なきゃそのカップルはとっくのとに終わっている。
逆に付き合いが上手く行っていてこの場所で今を迎えられたのならば、
喜びは一入(ひとしお)だろう。


給仕人がこちらにやって来る。
給仕人……ウェイターと呼ぶべきか。
いや違うな、それはアメリカのレストランやダイナーで使われる用語だ。
ではカメリエーエかな?
いやいやこれだとイタリア語で、給士を示す言葉になる。
えっとだから、ギャルソン……そうだギャルソンだ。
フランス料理のレストランで
客の注文を聞いたり料理をテーブルに運んだりする役目を担うのはギャルソンだ。
そういえばコム・デ・ギャルソンなんていう洋服のブランドもある。
あそこの男物は狙い過ぎて好きではないけれど、
女性もの、特にドレスやワンピースは素敵だと思っている。
これは個人的好みだと思うけどね。
給仕人は確かスペイン語ではカマレロ。中国ではフーウーヤンだったかな?
中国は使う言葉の種類が多過ぎて良くわからないけれどね。


これらは仕事上、必要に迫られて調べた事なんだが、
すぐに言葉にできないのでは日常生活で役に立っているとはあまり言えないな。


兎に角、そんなギャルソン君がテーブルの上に落ちている細かなパン屑を
専用の柔らかそうな毛を持つ小さなホウキと小さなちり取りで掃除してくれている。
ギャルソン君はまだ若く、刈り込んだ襟足と耳とおでこが見える髪型、
そして上品な髪色が中々にすがすがしい。
彼は柔らかい笑顔を浮かべ、細い身体で上手に重そうな皿を運んでいる。
オーダーを聴いたのも彼で柔らかい言葉で対応をしてくれた。
俺は彼がゲイなんじゃないかと思っている。
ゲイにはゲイの人間が一目で見分けがつくと言う。
俺自身はゲイではないが、これに関する判断は良く当る。
まぁ、彼がゲイであるかどうかはどうでもいい事なのだが。


テーブルに散らばるパン屑を掃除し終わった彼が一礼をしてから下がる。
こういった場所で提供されるパンは直接かぶりつかず、
一口で食べれる大きさに千切ってから口に運ぶ。
そういった行いは優雅で良いのだが、
どう注意してもパン屑が落ちてしまうのは問題だなと思う。
まぁ、千切らずに食べてもパン屑は落ちるだろうから
屑が飛び散るのはパン自体が持つ根本的な欠点とも言えなくもない。

暫くするとギャルソン君がスープを運びにやってくる。
彼は変わらない柔和な笑顔で丁重に料理の説明をする。
説明を要約するとこのスープはコンソメのクラシック、
シェリーで香りを付け中央には野菜とトリュフが置かれているという事だ。


彼が言う様に平たくて僅かに凹みがある皿にはブラウンで澄んだ色のスープ。
真ん中には湖に浮かぶ孤島の様に丸く小さく野菜が盛りつけられている。
野菜の上に乗っている薄くスライスされた黒い物体がトリュフだろう。
スープの名称にクラシックと付いてるのは、
このコンソメを作るのに手間ひまがかかる古典的な手法を取っているからだ。
そんな事を知っているのは1年前にスープに付くクラシックの意味を
この店で給仕人に尋ねた事があるからだ。
1年前のクリスマスイブに食事したフロアはこの場所ではなかったが。


このレストランは飲食する場所だけを数えてもフロアを4つに分けている。
それぞれのフロアが扉で仕切られていたり、
それぞれの広さに特別な違いがある訳でもない。
だけれど内装は違うんだ。
いま居るのは白の壁紙に、
張りや柱がナチュラルな木で出来ていて清潔で落ち着ける様な雰囲気だ。
床には穏やかな色のカーペットが引かれている。
このレストランは4つのフロアの他にもBarやVIPルームを備えている。
全体を見ると中々大きな建物だ。


さて、スープからはコンソメ特有の品の良い匂いが立ち上っている。
牛肉と野菜で採った出汁の成果だ。
だがコンソメの匂いの中に別の物が混じっている。
立体感のある心地よい匂いの中に混じる野生を感じる森の匂い。
あるいはイギリスのアイラ島で作られるスコッチのアロマの様な
自然の波打ち際を思わせる匂いを放ってるのはトリュフだろう。
匂いのバランスこそが目の前のスープの素晴らしさだろう。
品がいいだけでは物足りなくて、野生や自然だけでは臭くて飲めた物ではない。
だけれど2つがバランスよく合わされば食欲をそそる美しい匂いになる。


用意されたスプーンを使ってスープを口に運ぶ。
暖かい風味は円やかで太いコク。次に野菜とスープを一緒に口に運ぶ。
取ったのは緑色の葉っぱで舌には胡麻の様な味とコクが広がった。
だからだろうか、
食べているのはフレンチなのにも関わらず俺の頭は和食の汁物を連想した。


良い料理は良い物だなと思う。俺はスープに満足して周りをゆっくりと窺う。
他のテーブルに乗せられている料理は様々で前菜の前に出されるアミューズ
食後のチーズを食べたり、
締めのコーヒーや紅茶の飲んでいる恋人や家族達が目に入った。

その中で特にデセールを食べているカップルが目に付いた。
今の時間に食後のケ−キを食べ終えてしまうのは早いんじゃないか?と思った。
まだ夜は早すぎる。
まぁこのあと彼らは何処かに出掛けるのかも知れない。
夜景を見に行ったり、彼女に渡すプレゼントを選ぶ為に繁華街に向かったり。
何にせよ、この日、料理を食べ終わるのが早くても遅くても
カップルが最終的に行う行為にはそれ程の違いはないだろう。
別にそれに対してどうこう言いたいんじゃないし、
一般的に言っても良い事と捉えられているだろうし、
俺自身も良い事だと、とても良い事だとは思っているんだ。
まあ良い。
周りを観察してばっかりもアレだろうと思って前を向いて食事をする。


美味しいね、このスープと野菜。



それから不意に頭の中で空想が広がり始める。
またかと思う。
現実に起こったちょっとした刺激でアイデアや考え、
そして空想が広がり始める事がある。
それは俺の職業病みたいな物かとも思うが、
俺がそのせいで困ったり不快に感じたりしていないのだから
病気という言葉を使うのは違うとも思う。


俺が始めた空想は、架空のキャラクターに付いての事だ。
名前は……もぐもぐ子ちゃんかな。
少々可愛すぎるけれど、そんな名前が急に浮かんだのだから仕方がないね。
もぐもぐ子ちゃんは名前の通り、女の子のキャラクターだ。
食べるのが大好きで色々な食べ物をモグモグと平らげてしまう。
可愛い外見に可愛いお話、
きっと彼女は絵本や子供向けのアニメに出て来るキャラクターだ。
対象になる読者や視聴者は男のではなくてどちらかと言うと女の子だろう。
複雑な物語や、個性付けを狙い過ぎた変化球なキャラクターが多い中、
ストレートで単純に可愛らしい彼女の様な存在が合っても良いはずだ。


そこまでは簡単に浮かぶ。
ここからは彼女の設定に厚みを持たせないといけない。
ますは、名前がもぐもぐ子ちゃんなんだから好きな食べ物を何にするか決めよう。
例えば、ドラえもんはどら焼きが好きだ。キテレツ大百科コロ助はコロッケ。
そういえばあのアニメのオープング曲のコロッケ大行進は良い曲だと思う。
食事する手を勧めながらそんな事を考える。
目の前で空になったコンソンスープクラシックを見て答えが出る。



もぐもぐ子ちゃんには好きな食べ物はない。
でも嫌いな食べ物もない。言葉にすればそのまま好き嫌いが無いという奴だ。
もぐもぐ子ちゃんは食べる事が大好きだから食べ物を残さない。
そう!彼女は子供たちに食の大切さや
食べられる物がある幸せを教える役割も持っているキャラクターだ。
色々な料理の美味しさの紹介や由来や
豆知識の様な物を入れても面白いかも知れない。
あとは人と一緒にご飯を食べる楽しさやその際の素敵な立ち振る舞い。
つまり正しいマナーなんて事も盛り込めたら最高だ。
少々欲張りだけれど押し付けがましく無く、
楽しいお話の中でそれを感じさせられれば成功だ。
その点ではアンパンマンと立ち位置が近い。世界観もきっと似た様な物だろう。
人間ぽい者も動物ぽい者も食べ物ぽい者もみんな仲良く暮らしてる。



そこまで考えた所でソムリエ氏がこちらにやってくる。
ソムリエ氏はソムリエやギャルソンが纏う制服を着ている。
この世界でもっとも美しい職業制服の
1、2を争う白のシャツと黒のベストという服装だ。
彼が素晴らしいのは、
その洋服が持つ哲学と意味を見事に体現する様に振る舞える事だ。
だからだろう、制服がとてつもなく似合っている。
彼がその服を着ると、
制服とはそれに関わる職務を完璧な振る舞いで成し遂げる能力がある事を
客達に証明する物の様に思えて来る。
ある種の神聖さがあり司祭達が儀式の時に着る祭服の様にも見えて来る。


ソムリエはご存知の通りレストランに居るワインのスペシャリストだ。
因に女性だとソムリエールになる。
この店のソムリエ、俺がソムリエ氏と呼ぶ男は、
神経質さを感じさせるほど丁重に切りそろえた黒髪を後ろに流している。
眼には小さな丸い眼鏡を掛けている。
ジョン・レノンが掛けていた様なあの眼鏡だ。
日本人でこれが似合う人は皆無だと思うのだが、
ムリエ氏の顔には何の違和感もなく馴染んでいる。
それでいてファニーフェイスという訳ではなく、
眼鏡の丸さが返って彼の性格を表す様な
クールで整った顔立ちを強調させている。
彼とは1年前と半年前にもここで顔を合わせている。
先程のギャルソン君は当時はこの店に勤めて居なかったのか
他のフロアを担当していたのかは知らないが見かける事がなかった。
何にせよ、彼らの外見から推測する年齢と立ち振る舞いから、
若いギャルソン君はまだまだ新人で俺と年齢が近いと思われるソムリエ氏は
これから更に活躍しだす中堅のエースと言った所だろう。



彼はテーブルの状況を素早く判断して、
ワインクーラーからボトルを抜き出し布ナプキンで瓶に付いた雫を拭き取る。
無駄の無い動作で俺のグラスにワインを注ぐ。
軽く礼を言うとソムリエ氏は品よく頭を下げてテーブルから離れる。


ボトルから注がれたワインの色は赤で、生産国はアルゼンチン。
ブドウの品種はマルベック。作ったワイナリー名はトリベント。
ぶどうが収穫された年は2005年。
ワインの名称はそれらを合わせて
トリベント・ゴールデン・リザーブ・マルベック2005という。


フランスのボルドーワインは値段が親しみ易く
品質も素晴らしいとはいえ少々飲み飽きていた。
とは言ってもロートシルトもマルゴーも飲んだ事がない。
だからワインが好きな人間には笑われるかもしれないが、
俺は5大シャトーやブルゴーニュワインに手を出す程
ワインに淫している訳ではない。
俺がワインに求めているのは親しみ易さと心地の良さ、
その奧に感じさせる味と匂いと舌触りの複雑だ。


だから手頃な価格で美味しいけれど、
ボルドー以外で作られたワインが飲みたかった。
そこに来てアルゼンチンで作られる中級から高級に分類されるワインは
俺の要望に一致していた。
価格と品質がボルドーワインと良く似ている。
だが勿論、フランスとアルゼンチン、ヨ−ロッパと南米、
国も違えば大陸も違う。だから気候も変る。
気候が変ればブドウの品種は代わり、
品種が変れば双方品質が高くても味は大きく変わる。


アルゼンチンワインの中でもマルベックというブドウの品種で作られる物が好きだ。
マルベックは元々フランスでも使われていた、
中でも盛んだったのはボルドー地方だ。
だがフランスでブドウに取って致命的な
ウドンコ病や害虫などの植物病害が流行ると繊細なマルベックは捨てられた。
代わりに丈夫なアメリカ山のブドウと
ワイン作りに適したヨーロッパのブドウを混合した
ハーフの樹木が作られワイン作りに利用された。
現在のフランスではごく一部の地域でしかマルベックは栽培されていない。


一方の南米大陸は湿気が少なく暖かく、病気や害虫の心配は少ない。
そこに眼をつけたあるヨーロッパ人が移住までしてマルベックはその地で再生させた。
結果、俺はいまアルゼンチンで作られたマルベックを飲んでいる。
捨てる神あれば拾う神ありみたいな話しだなと思う。


俺も昔、大切な女性を失ってこの世界の冷酷さに打ちひしがれていた頃、
別の女性に心が助けられた事が有る。
1度は呪った神の存在をもう一度信じようと思った程だ。
あれは嬉しかったな。正に捨てる神と拾う神だ。ブドウも男も変らないな。
そんな事を思った後で周りのカップル達の会話がやかましく思えた。
クリスマスイブのレストランに自ら出向いて食事をしているのに、
カップル達がやかましいというのは彼ら彼女らに失礼な話しだと思い反省する。
どうも興奮しているのかもしれない。



このワインを選択したのはソムリエ氏だ。
フレンチレストランやイタリアのリストランテでワインを選択するのは
楽しくも不思議な体験だと思ってしまう。
男に渡される方にのみ料理の金額が表示されている事もあるグランドメニューや
今日のコースが書かれた別紙の他にワイン専用のワインリストが用意されている。
それを見ながらワインを選択する訳だが、その経験は面白くも緊張する。
理由はこちらの意志がソムリエに美味く伝わるかどうかの賭けの様な物があるからだ。
注文するワインを構成する諸要素、
発泡しているのかしていないのか。赤なのか白なのかロゼなのか。
匂いは?味の傾向は?そして価格は?
自分の望みと一致するワインを選択するの事は結構難しい。
なぜならば、リストに載っているワインは有名な物を除いて
マニアでもない限りその時に初めて目にする物が殆どだからだ。
有名な名前を知っている物を大抵高いワインだ。
ロマネ・コンティの名前は誰でも知っているが、
個人で購入しても40万円以上するワインを飲んだ事がある人間は少ないだろう。


だからソムリエにこちらの好みを伝えてワインの選択を任せるのは
それ自体に正しくコミュニケーションの齟齬を常に孕んでいる。
望んだ物と違うワインが選ばれる事もあるだろう。


レストランでワインを選択する際の正しい行動。
俺が数度の経験から出した結論は2つ。
1つはワインマニアになって自分で好みのワインを選べる様になる事。
もう1つは開き直りって齟齬すら楽しむ心持ちで
自分が伝えられる事をソムリエに伝えた後で
ワイン選択の全てを任してしまう事だった。
俺が選んだのは後者の方だ。


今日のソムリエは馴染みの彼、ソムリエ氏だったので心強かった。
ブドウの品種はマルベック。渋みやコクが極端に強く無い物が良いと伝える。
ワインの選択をソムリエに任せる場合、1つの関門になるのが価格帯だ。
素直に言葉で予算を伝えるのがもっとも確実だが、
恋人と来て格好付けたい場合、或は周りの客に見栄を張りたい場合は、
ワインリストに書かれた金額を指差して、
この辺りで良いのはないだろうか?と訊けば良い。
ソムリエの視力が極端に悪く無い限りそれで上手く行く。
誰かが編出したこの方法は中々スマートだ。今日の俺もそんな先人に倣う。
かしこまりました。
そう言ったソムリエ氏が持って来たのが
いま俺が味わっているワインだと言う訳だ。


そんなマルベックで作られたワインの特徴は、色が赤ではなく
ベルベットを思わせるしっとりとした濡れた黒である事だ。
匂いは爽やかで清潔なスミレの花を思わせるが、
味は濃厚なコクと草原の青臭さを感じさせる渋みを持っている。
少しばかり癖があるが癖こそが
マルベックのワインを美味しくチャーミングにしている。
クセが無い物というのはそれを味わう取っ掛かりもないという事にも近いからね。
だから、このワインは都会的というより少しばかり田舎的だ。
都会の美人というより、
草原がある様な郊外に住んでいるお嬢さんといった感じだ。


この例えでワインが持つチャーミングさが伝われば良い。
別に都会の美人が悪いって訳じゃないけれどね。


現に隣のテーブルで食後のチーズを食べているカップルの女性は
まさに都会的な洗練された美人と言った感じで一目見て美しく素晴らしいと感じる。
彼女自身が眩くそして品よく調整された光を放っていると言った感じだ。
彼女自体が照明器具みたいな物だなと考える。
だからだろうか、連れている男もスーツが良く似合う洗練された都会的な青年だけど、
彼の事が僅かにくすんで見えてしまう。
都会的な美人を彼女にする欠点の1つだなと思うが、
まぁ彼に取ってはそんな事はどうでもいいだろう。
2人は見つめ合い暖かな笑顔を互いに向けているのだから。


俺は何を見ているんだと視線を元に戻す。
数度頷いて再びスープを口に運ぶ。皿を空にする。
そうだな、もぐもぐ子ちゃんは都会の子でも田舎の子でもなく
その中間、自然が残る郊外で暮らしている様な女の子だ。
繁華街にいけば店に不足する事は無い。
そこから少し外れれば小川や森が残る景色の中を歩く事が出来る。
そんな町で彼女は暮らしている。
都会的なセンスと自然が持つ大らかさを持っている陽気な女の子だ。


外見は栗色の緩やかに揺れる髪の毛とブラウンの瞳が特徴的。
可愛らしい八重歯がチャームポイント。
彼女はひらひらと風に舞うスカートや柔らかな服装を好んでいる。
どちらかというと女の子を対象にしたキャラクターなのだから
ファッションは大事だろうと考える。だからお話事に彼女が着る服装は違う。
彼女はお洒落だから派手でもなく地味でもない洋服をセンスよく着こなす。
服が主役になるのではなく、
服装によって彼女の魅力が増したり、彼女が持つ魅力の違った面が見えてくる。
重要なのはそれが自然で、彼女自身が楽しんでいて、
見ているこちらが笑顔になる事だ。
だが決してワードローブの数が多いという訳ではなく、
厳選した物しか買わない事にしている。
だから着回しも上手で、お気に入りの洋服やコーディネートが決まってる。
こういった事を設定した方がキャラクターの性格や生活が読者や視聴者に分かりやすく見えて来ると思う。
もぐもぐ子ちゃんは
そんな風にアンパンマンの世界観と良く似た町で独り暮らしをしているのだ。



ここまでは決定だな。
そう納得した所でフロアに流れる音楽が
クリスマスソングのクラシックアレンジに変ってる事に気が付いた。
ハイドンはどこに行った?
今掛かっている曲は
ヴォーン・モンローが歌ったレット・イット・スノーの弦楽アレンジだ。
ヴァイオリンの良く伸びる音色と跳ねるピチカート、
楽しげに指で弾かれるコントラバスが耳に入って来る。
フレンチレストランでこの選曲はどうかとも思ったが、
正に今がクリスマスイブである事を考えつつ、
フロアの向こうのテーブルに着く
両親と小さな女の子が楽しそうに食事をしているのを見て
この選曲が正しい事を理解した。
30代の父親と母親に連れられた女の子は今年、
小学生になったからならないか位だろうか。
彼女は落ち着いた青緑のドレスの上に白いカーディガンを羽織り
誇らしそうな顔をしている。
上手い事ナイフを操り肉を切り取って口に運ぶ。美味しそうな顔。
もぐもぐ子ちゃんは彼女の様な子の為に存在するキャラクターだろう。


こちらのテ−ブルには女性のギャルソンが次の皿を持ってやって来た。
数秒後、女性の給仕人をフランス語ではセルヴーズと呼ぶ事を思い出した。
ギャルソンではない。セルヴーズだ。
セルヴーズさんは推測するに30代中盤。
目線や身振り手ぶりを観察するに彼女がこのフロアの接客を仕切っている様だ。
行き届いたサービスとリラックスしたフロアの雰囲気から、
客に気づかれるずに各々のテーブルの状況を把握する術に長けている事が良く分かる。
仕事人だな。素晴らしい事だなと思う。


そんな彼女がテーブルに皿を置いて、料理の説明をしてくれる。
メインディッシュ、その1。魚料理。
平目とホタテ貝のグリエとアスパラガスと生ハムのミジョテ。


彼女が俺の前に皿を置く時に見えたのだが、
セルヴーズさんは親指の付け根は筋肉で盛り上がっている。
何年もの間、恋人達や家族、
友人達の集まりに大きく重い皿に料理を乗せて運んで来た事を窺わせた。
お腹を空かしているしている人の元においしい料理を運ぶ。
それは素敵な事だと思う。


彼女の説明通り、白い皿には2つの料理が並べられている。
焼いたヒラメとホタテ、アルティショーと生ハムのミジョテ。
アルティショーはイタリアンではアーティチョークと呼ばれるアザミの事で、
ミジョテとは煮込み料理の事だと言う。
グリエには細い線でちりばめられた橙色のソースが、
ミジョテには同じ様に黄色のソースがかけられている。
その様が皿にコスモスが咲いた様で可愛らしかった。
思った事を口にして笑顔でナイフとフォークを握る。
セルブーズさんは自然な微笑みと共に一礼をしてテーブルから離れる。


彼女の後ろ姿を何の気無しに目で追う。
すると先程とは違う、別の家族連れが目に入った。
構成が少し面白いのだ。老夫婦に中学1年生くらいの女の子が1人。
合計3人のテーブル。
初めは年の離れた親子かとも思ったが、
奥さんと女の子の年齢を考えるにそれはなさそうだ。
おじいちゃまとおばあちゃま、そしてお孫さんといった所が正しそうだ。
椅子の数を見るに両親はこの場にいないらしい。


不意に俺の心に悲しい考えが過る。
女の子の両親は事故や病気で既に亡くなっていると推測や
両親は離婚調停中であり孫を不憫に思った祖父母が
クリスマスのディナーに彼女を連れて来たのだという想像だ。
だが、彼女達の様子を見るに俺の考えは
下衆な妄想だと結論づけた方が良さそうだ。
品よくスーツを着こなした老紳士と
遠目でも質が良いと判る紺色の生地で作られた
シンプルなドレスを纏う女性が食事をしている。
とても楽しく、和気あいあいとして雰囲気を感じさせる。

実際は両親は仲良くクリスマスのデート。
物分りの良い娘はおじいちゃま達とレストランへ。
または年末で仕事が忙しい両親は娘に構う事が出来ない。
両親はちょっとした会社の経営者やどこぞの会社の重役だ。
だから祖父母が代わりに
彼女にクリスマスの想い出を作っていると言った事が正解の様に思える。
何にせよ、愛する人が亡くなったり、
愛し合っていた男女が別れる事は悲しい事だから、
それがないならば良い事だなと思う。


さて、食事をしないと。
いつまでもナイスとフォークを持って料理に手を付けないと不審に思われる。
ナイフを使って重なっているヒラメとホタテを一口サイズに切る。
身は引き締まりフォークで刺しても崩れる事はない。
だが口に入れるととても柔らかく、
凝縮された旨味と一緒に身が口の中でホクホクとほころぶ。
ヒラメとホタテは濃厚な旨味を持っているが同じ旨味ではなく違いを感じる。
グリルされた2つの魚介類はどちらも香ばしいが香ばしさの種類が違う。
それぞれが心地よい潮の匂い放っているが想像させる海が違う。
舌の上ではそれぞれがが独立する。
だがある部分では完全に混じり合い新たな味を出現させている。
3つの味を俺は感じてる訳だ。美味い美味い。
ソースによって更なる味の変化が起こる。
グリルに掛かっていた橙色のソースはどうやら
柑橘類、特にオレンジに属する物で作られている物の様だ。
ソースのお陰だろう、後味はとても爽やかだ。



これはもぐもぐ子ちゃんでなくとももぐもぐと夢中で食べてしまうという物だ。
もぐもぐ子ちゃんならば、そりゃ夢中になって幸せな笑顔で食べるだろう。
もぐもぐもぐ。俺は微笑む。


 ♪あーチョコレートが食べたいの、柔らかいお肉でもいい
  お魚も大好きよ、もぐっもぐ、もぐっもぐ、もぐっもぐ。


だなと1人で納得する。
これはたったいま頭に浮かんだもぐもぐ子ちゃんの主題歌だ。
急に頭に浮かんで来たのだから仕方がないね。
キャラクターを想像する時は
こんな風に次から次へと設定が出て来ると楽しくなる。
主題歌はこんな風に簡単で小さな子でも覚えやすく楽しいのが良い。
もぐもぐ子ちゃんのテーマは
1コーラスが短くて歌詞を変えて繰り返すタイプの曲だ。


 ♪食べるのは大好きよ、笑顔になってしまうの
  心も温かいわ、もぐっもぐ、もぐっもぐ、もぐっもぐ。


 ♪ポワレにピュレにスープ、クリスマスにはブッシュ・ド・ノエル
  お紅茶を忘れないで、もぐっもぐ、もぐっもぐ、もぐっもぐ。


 ♪アルティショーって面白いね、生ハムと凄く合うの
  盛りつけも素敵ね、もぐっもぐ、もぐっもぐ、もぐっもぐ。


こんな感じだろうか。
でもこの歌詞ではもぐもぐ子ちゃんフレンチ篇の限定的な主題歌だなと苦笑する。
和食篇や中華料理編などの歌詞も考えなくてはいけないな。
そうだ。もぐもぐ子ちゃんは長篇ではなくて
1話完結型の短編作品で主旨が異なる様々なお話が描かれる作品だ。
だから主題歌の歌詞が色々合っても良いかも知れない。


 ♪カレーは好きだけれど、からいのは苦手なの
  熱いのもいやだよー、もぐっもぐ、もぐっもぐ、もぐっもぐ。


 ♪お蕎麦も凄く好きよ、だけど笑わないで聞いてね?
  上手にすすれないの、もぐっもぐ、もぐっもぐ、もぐっもぐ。


こんな歌詞が合うお話があってもいい。


もぐもぐ子ちゃんは背が小さい女の子でその事を言われると怒る。
身長の高いモデルに憧れる事もあるけれど、
可愛い服が好きなので自分の背の小ささは強ち悪くは無いとも思っている。
食べるのが大好きで朝昼晩の三食以外にお菓子等を買い込んでいるが
身体を動かすのが大好きなので太ってはない。
だけど友達にはお菓子を食べ気味な事を注意されている。
その度にもぐもぐ子ちゃんは少し落ち込んだ様な不貞腐れた様な顔をする。
ブラウンの髪の毛を揺らすその表情があまりにも可愛いので、
友達を含む周りの人間は彼女がお菓子を食べる事を許してしまう。


もぐもぐ子ちゃんの趣味は散歩でお気に入りの桜色のカメラで写真を撮るのが得意。
良い写真を撮っては友達に見せている。
彼女が撮るのは散歩の途中に見かけた花々や面白い形の雲。
素敵な家や猫に犬。美味しそうな飲食店や食べたおやつの写真だ。
初めのうちはピントがズレていたり自分の指が写真に入っていた物の
少しずつ良い写真を撮影する様になって来た。



そんな設定を持つ彼女の日常を描くのがもぐもぐ子ちゃんだ。
それにしてもアルティショーと生ハムのミジョテも美味い。
気が付いたら食べ尽くしてしまった。
皿に残ったソースをフォークですくって口に運ぶ。
ミジョテに掛かっていた黄色いソースはレモンソースだ。
アルティショーも生ハムもフレッシュな食材だ。
煮込まれた事で複雑なコクと美味しさを得た反面失われた新鮮さを
レモンソースが補っていた。
パンを千切って皿に残ったソースにつける。美味しい。なんて美味しいんだ。
もぐもぐ子ちゃんじゃないが美味しい物を食べる事は幸せだと思う。
思った事をつい口に出してしまう。笑う。


ギャルソン君によって真っ白に空いた皿が下げられる。
セルヴーズさんが新しいパンを持って来てくれる。
クルミが練り込まれたパンだそうだ。
それまでのパンと比べると表面の色は薄くカラッと乾いてる。
次いでソムリエ氏がやって来て空になったグラスにワインを注いでくれる。
ボトルに0.8杯分程残っていた赤ワインが空になる。
ボトルの中身はグラスに5杯で空になった。
その後、ソムリエ氏は別のグラスにフランスで採取された
微発砲の天然水であるバドワを入れる。


まったく完璧なサービス体制だなと感心する。
それでいてこちらに観察されている居心地の悪さを与えていない。
丁重なサービスだけでもリラックスだけでもない。
どちらかだけの店は多いけれどこの店はそれを両立している。
そして料理もうまい。
我ながら良い店を知っているだろうと自慢気に笑う。


ワインを一口飲んで周りのテーブルを観察する。
気が付くと都会的な美人と洗練された青年のカップルは居なくなっていた。
彼女達が居なくなり見通しが良くなっている。
だから向こう側にいるカップルに気が付いた。
男も女も小太りで、
先程までいたカップルと比べると纏っている雰囲気も野暮ったい。
でも返ってそこが彼が放つ幸福そうな雰囲気を強くしていた。
女の方は深い緑色のワンピースが似合っている。
もぐもぐ子ちゃんが似合うはもっと淡い色だなと考える。

彼らの外見から推測される年齢は俺と近い。
彼らが食べている物も
メインディッシュの魚料理でなんだ殆ど同じじゃないかと笑った。
物を食べるペースは個人やテーブル事に違うが、
きっと俺と彼らは同じ頃に入店したのだろう。


記憶をたどる。
そういえば、俺が椅子に座ってから少し遅れて、
別のカップルがこのフロアに入って来た様な気がする。
注文をし終えて、アミューズが運ばれて来た時だ。
あのアミューズも美味かったなと思い出す。


アミューズと同時に出される食前酒として
カクテルのシンデレラとグラスで注文出来るシャンパンの2杯を頼んだ。
シンデレラはノンアルコールカクテルとして有名で味も良く
ショートグラスを使った外見も素敵な良い雰囲気を出している。
だからまだお酒が飲めない小さな子からアルコールが苦手な女性にまで勧める事が出来る。
もちろん、男が喉を潤す為に飲んだって良いんだ。


もぐもぐ子ちゃんはアルコールを飲むのだろうかと考える。
それはつまりもぐもぐ子ちゃんの年齢をどう設定するかと言う事そのものでもある。
いや、飲むはずがない。
うっかり飲んでしまう事は有っても嗜んでいる事はない。
なぜならばもぐもぐ子ちゃんは子供向けのキャラクターなのだから。
そうだ、お話にはお酒その物を登場させない様にしよう。
そうすれば彼女の年齢を設定せずに済む。
その点は読者に任せてしまえば良いのだ。
映画や小説などの物語創作には良く使われる手法で、
設定やお話の結末や意味は受け手の想像に任せると言うやつだ。
もぐもぐ子ちゃんはお酒を飲むかどうかもわからない。
彼女の年齢も判らない。これを読んでいる貴方が決めてくれ。
よし、これで良い。問題が解決した。


食前酒と一緒に、つまり一番初めに出される料理であるアミューズ
日本語にするならな御通しとも訳す事が出来る。
今日出されたのは大皿の真ん中にマリネが置かれ、
その四方に小さなお菓子の様な体をとっているパテやパイなどが置かれた皿だった。
パイはそのままでも、マリネと一緒に食べも良いと良いと言う。
マリネはサーモンとラングスティーヌ、
そしてジェル丈になった林檎が合わさった物だった。
ラングスティーヌとは日本で言うところの手長海老の事らしい。
可愛らしいパテやパイは美味しく、
マリネの酢と合わさり胃を刺激して食欲を増進させた。


アミューズの次に出されるのはアントレ、つまり前菜だ。
それは緑や赤い菜っ葉の上にカラッと焼かれたフォアグラのポワレが置かれ、
周りを鮮やかな紫色のソースが舞落ちている物だった。
横には金柑を砂糖で煮込んだ物が添えれている
フレンチやイタリアンの皿に盛りつけられたソースを観る度に
まるで書道の筆と墨の躍動感の様だと感心する。


皿に舞うソースはラズベリーや宝石のルビーを思わせる。
これはビーツのピュレだとギャルソン君が説明してくれた。
ボルシチに欠かせない事で同じみの、赤カブとも呼ばれるあのピーツだ。


俺はなるほど、とても綺麗だと頷いた。
フォアグラの下に盛りつけられた野菜。添えられた金柑。野菜のソース。
この皿は肉が添えられたサラダなのだろうと納得する。
個人的にファアグラの鈍く柔らかい濃厚さは、
野菜が持つ酸味や苦みと良く合う物だと思っている。
この皿も例外ではなかった。
しかもそこらのレストランよりも美味しいので嬉しくなる。
次に出されたのがコンソメのスープだった。
そこでもぐもぐ子ちゃんが誕生した。


一話完結型のもぐもぐ子ちゃんには一体どんなお話しがあるのだろうか?
ますは彼女の趣味である散歩の話しかなと思いつく。
もぐもぐ子ちゃんは愛用のカメラを持って家を出る。
お日様の光が気持ちよく空を見上げると雲が鯛焼きの形になって居た。
後で友達に見せようと彼女は笑って写真を撮る。
道中ご近所さんであるレモン氏と偶然顔を合わす。
レモン氏は近所では有名な紳士で、
いつも立派なスーツの上にレモンの様な顔を乗せている。
彼は高級な自転車を扱う店を営んでいて
もぐもぐ子ちゃんは最近スポーツタイプの新しい自転車をその店で購入した。
彼女は友達を誘っては運動代わりにと、
買ったばかりの自転車でサイクリングを楽しんでいる。


レモン氏は顔に掛けた丸い眼鏡を指で直しながら彼女に尋ねる。
自転車の調子はどうですか?パンク等はしていませんか?
それに対してもぐもぐ子ちゃんは、うん、大丈夫と笑顔で返事をする。
それに友達が修理が上手だからいつパンクをしても平気なのと言う。
レモン氏はそれは心強いですねと頷く。
もぐもぐ子ちゃんは、
あ、パンクの話しをしていたらパンが食べたくなっちゃったと笑う。
レモン氏の眼鏡が僅かにずれ落ちて驚いた様な呆れた様な顔をした。
もぐもぐ子ちゃん散歩がてら大好きなクルミ入りのパンを買いに行こうと決めた。



例の野暮ったくも幸せそうなカップルが魚料理を食べ終わらないうちに
こちらに次の料理が運ばれて来た。
メインディッシュ、その2。肉料理。
あぶり焼きされた黒毛和牛のフィレ肉、冬の根菜と赤ワインソース掛け。


フィレ肉は3つに切られ赤い身をこちらに向けている。
赤ワインソースは通常の赤や茶色の物と比べるとドロッとしていてとても黒い。
ソースはフィレ肉に掛けられており、
焼いた肉の褐色、身の赤さ、
ソースの黒さが美しいグラデーションを作っている。
ソースは皿の下部から細く長く伸び、
上部にある肉に掛かると滲む様に太くなる。
俺にはそれが古い樹木の姿を連想させた。
肉の隣には冬の根菜と説明された里芋や大根の様な物が添えられている。


もぐもぐ子ちゃんはパン屋に辿り着く。
パン屋は若い夫婦が経営している。
旦那さんのパートさんは厨房でパンを作り、
奥さんのトルテさんがお店でパンを売っているのだ。
彼女はこの店のが大好きで、
なかでもシナモンロールが抜群においしいと思っている。
普段はあまり飲まないコーヒーと一緒にそれを食べることが大好きだ。
もうもぐ子ちゃんがたどり着くとお店は何時もの様にやっていたが
トルテさんが居ない。
店に立っているのは若い女の子のマリナードちゃんだ。
もぐもぐ子ちゃんとマリナードちゃんはこの日初めて顔を合わした。
マリナードちゃんは笑顔で元気よく挨拶をしてくれる。いらっしゃいませ!
もぐもぐ子ちゃんも初めまして!と挨拶を返す。
マリナードちゃんはパートさんとトルテさんの娘なのだという。
今日はお母さんが熱で寝込んでいるのでお店を手伝っていたのだ。
もぐもぐ子ちゃんは小さいのにえらいなーとマリナードちゃんに感心する。
そしてもぐもぐ子ちゃんはついシナモンロールを買い過ぎてしまう。
お盆に盛られたシナモンロールを見て
マリナードちゃんはシナモンロールが好きなんですか?
ともぐもぐ子ちゃんに尋ねる。
うん、すっごくおいしいよね!と彼女は笑う。
マリナードちゃんは
わたしパパが作るパンの中で一番好きなのは私もシナモンロールです!と喜んだ。
2人は意気投合して友達になった。



あぶり焼きしたフィレ肉は香ばしく噛み付くと
ハリと柔らかさが同居している事が良く分かる。
適度な肉汁と油が口に流れ、
赤ワインのソースが深いコクを感じさせながらも後味を切れの良い物にしている。
それでいて穏やかな余韻が長い。
赤ワインのソースは酸味がありながらも、
普通の物より色が黒い分タンニンが強く味の複雑さ強調させている。
美味しいのだが苦みと甘みと芳香が同居する大人の味だなと思う。
こういう味の物はもぐもぐ子ちゃんは食べられるかな?と一瞬考える。
次に、そりゃそうだよね、もぐもぐ子ちゃんはもぐもぐ子ちゃんだから、
美味しいかったら複雑な味だって美味しく食べるよねと納得する。


横に添えられた白い大根の様な根菜はやはり大根だった。
大根か。と思いながらフォークを刺す。
この店のシェフは本場のフランスで料理を学んだ。
だけれどバターや味の濃いソースを使う伝統的なフランス料理
つまりオートキュイジーヌを習得する以外にも、
スペインのフレンチレストランで
ヌーベルキュイジーヌを学んだ人だったと思い出す。
ヌーベルキュイジーヌとは名前の通り新しい料理を意味していて、
日本の懐石料理の手法を取り入れた
分かりやすく言えば胃に優しい自然派のフランス料理の事だ。
昔。フランスはイタリアとは違い新鮮な食材を手に入れる事が難しかったため、
複雑な調理方法やバターをたっぷり使った濃い味のソースが発展した。
調理方法には食料の保存方法も含まれる。
時代が進み、フランスでも新鮮な食材が手に入る事が可能になった為に
食材を生かす料理を提供する新しいフレンチが誕生した、
それがヌーベルキュイジーヌだ。


そんな事を思い出して、大根を食べると美味い。
大根にも色々な味を持つ品種がある。
これは口に含むと辛みを感じて暫くすると甘みが出てくる物だった。
全体的には淡白だ。
淡白だがそれが妙に心地よくて美味しい。
食感の差も面白く口を飽きさせない。
どうやら推測するに、
この大根は蒸した後にバーナーでその表面を焼いてあるらしい。
フィレ肉に掛かる黒く濃厚で複雑な味のするソース、オートキュイジーヌ
辛みと甘みが続けてやってくる淡白で自然の味がする根菜、ヌーベルキュジーヌ。
古い物や伝統と新しい物や革新が1皿に同居している素晴らしい料理だなと唸る。
こう云った物を
もぐもぐ子ちゃんは……うん、幸せそうにもぐもぐと食べるよね。



もぐもぐ子ちゃんは川辺にある立派な樹々に囲まれた自然公園のベンチに座る。
素敵な紺色の袋からシナモンロール取り出し食べだす。
少しお行儀が悪いけれど、
美味しいからすぐ食べたいし仕方ないよねと彼女は自分を甘やかす。
もぐもぐ子ちゃんがシナモンロールを半分程食べ終わる
すると何処からともかくシナモンロールシナモンロール!と
鳴き声の様な声が聞こえる。
現れたのは深い緑色のワンピースを着たシャルクトリーさんだ。
シャルクトリーさんともぐもぐ子ちゃんは知り合いで
食べ物屋さんでよく顔を合わせる。
彼女はももぐもぐ子ちゃんと同じく食べる事が大好きだ。
でも運動は嫌いなので、ぼよぼよむちむちとした身体をしている。
もぐもぐ子ちゃんはそんなシャルクトリーさんを心配して運動に誘い、
彼女も話に乗る。
だけれど、彼女はもぐもぐ子ちゃんとの待ち合わせ場所に向かう道中で
美味しそうな食べ物屋さんを必ず見つけてしまい
足をそちらに向けてしまうので2人が一緒に運動をした事は一度もない。


2人はベンチに座る。
もぐもぐ子ちゃんは買い過ぎたシナモンロールを1つ
シャルクトリーさんにあげた。
もぐもぐ子ちゃんは自分の事を棚に上げてたべすぎちゃだめだよ!とお説教をする。
シャルクトリーさんは
彼女の説教などどこ吹く風でシナモンロールに夢中になっている。
シャルクトリーさんはうっとりした顔で
これどこのパン屋さんの?本当に美味しいね!と言う。
自分が好きな物を褒められたもぐもぐ子ちゃんは
それが嬉しくてお説教をやめてしまう。
その後でシャルクトリーさんが売店でコーヒーを買って来てくれた。
2人はもう1個ずつシナモンロールを平らげた。



食べ終えた皿が下げられる。
フィレ肉と根菜とソース。美味しい皿だった。
美味しい物をありがとうと食材を作った生産者と
調理したコックに礼を言いたくて仕方がない。
フロマージュつまり食後のチーズは腹が満腹に近いので断ろうかと思った。
だが折角料理の美味しく
サービスが行き届いた素敵なレストランに来てるのだかと食べる事にする。
チーズの担当者にこちらのお腹の状況を正直に伝えて後の選択を全て任せる。
食後酒を貴腐ワインであるとても甘いソーテルヌにしようか迷う。
迷ったのは1人でワインを飲む続けることに抵抗があったからだ。
するとズームと言うカクテルを勧められた。


ズームの材料はブランデー、蜂蜜、生クリームだ。
材料を聞いただけでも口の中が甘くなる。
ブランデーをカルヴァドスに変更した物も美味しいと言う。
カルヴァドスはリンゴで作られたブランデーの事だ。
クリームと蜂蜜の甘みとリンゴの酸味がチーズと良く合うらしい。
カルヴァドスをフランスはノルマンディー地方で作られた
リンゴジュースに変えると
美味しいノンアルコールカクテルが出来上がると言う。
おお、それは良いねとではそれで頼むよと俺はズームを注文する。


時間を置かずにカクテルがテーブルに置かれる。
一口飲んで酸味と甘みのバランスの良さに美味しいと喜びの声を洩らす。
自分が良い感じに酔っていると感じる。
クリスマスイブの日にレストランで
美味しい食事を幸せな気持ちで楽しんだのだから
酔うなという方が無理なのだ。酔う程もぐもぐ子ちゃんに関する考えも進む。



もぐもぐ子ちゃんはシャルクトリーさんと別れて散歩も終えて帰途に就く。
その途中で、
彼女はシェリーさんを見かける。なにやらシェリーさんは困った様子。
もぐもぐ子ちゃんにとってシェリーさんは憧れのお姉さんのような存在だ。
都心の会社で働いていて外見も洗練されていて美人に見える。


どうしたのシェリーさん?彼女は困り顔のシェリーさんに声を掛ける。
あ、もぐもぐ子ちゃん。これを見て。シェリーさんが道ばたの草むらを指差す。
草むらには青色の小さな鳥が倒れていて、
ぴよっぴぴよっぽよと震えた声でないていた。
身体を覆う毛の色を見ると雛ではないが、成鳥というには小さすぎる。
シェリーさんは悲しげな顔をしたままもぐもぐ子ちゃんを見る。
羽を怪我をしてしまっているようなの。
かわいいそうで、でもどうしたら良いか判らないわ。
もぐもぐ子ちゃんはうん、と小さな声で呟いた。


もぐもぐ子ちゃんはこの鳥はどうしてしまったのだろうと考える。
お父さん鳥やお母さん鳥はいないのだろうか?
親鳥は大きな鳥に襲われたり病気で死んでしまったりしたのだろうか?
それともこの鳥は親鳥から捨てられてしまって
1人で飛んでいる時に怪我をしてしまったのだろうか?
そんな事を考えたもぐもぐ子ちゃんは悲しい気持ちになって来る。
シェリーさんが暗い顔をしている理由が彼女にも判った。


シェリーさんは傷を負った鳥にどう接すれば良いか判らずにいるようだった。
それを見たもぐもぐ子ちゃんは私がなんとかしなくっちゃ!
よし!まかせて!と心を奮い立たせる。
手がシナモンロールで塞がっていては鳥を介抱出来ない、
シェリーさんは既に手荷物を持っている。
でも食べ物を捨てるのは勿体ない!と
考えた彼女は周りを見渡して道行く適当な人を見つける。
もぐもぐ子ちゃんは、
袋に入ったシナモンロールをこれあげる!とその人に押し付ける。
それから急いでシェリーさんの所に戻る。


彼女はカバンのポケットから白いハンカチを取り出す。
シェリーさんは動物や虫は苦手だけれど、
自然が残る郊外で生まれ育ったもぐもぐ子ちゃんにとって
動物や鳥は親しみのある動物だった。
彼女も虫は大の苦手だが。


血で汚れるのも気にせずに
彼女は草むらに横たわる鳥に白いハンカチをフワリと掛ける。
ハンカチで包んで優しく持ち上げ懐に抱く。
とりあえず家に戻って水でもあげてみる!
彼女は傷ついた鳥に振動を与えない様にゆっくりと急いで自宅に帰った。



チーズがテーブルに運ばれて皿に盛られる。
満腹を伝えたからだろう、チーズは2種類だけで量も少なめだった。
1つめはブリ・ド・モー。
細い三角形に切られたチーズの上に干したイチジクが添えられている。
2つめはエポワス。
スプーンで盛りつけられたどろりと溶けるチーズの上に松の身が乗っている。
両方ともフランス農林省管轄の組織よって定められる
食品規格AOCによって品質が保証されているチーズだった。
AOCはAppellation d'Origine Contr〓l〓e、
アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレの略称だよ。


AOCはワインやチーズやバターなどの
品質を保証する為に出来た品筆保証の制度だ。
こういった物を作らないとまがい物や偽物が多く流通してしまうから。
AOCに認められたらその後は決められた製法や生産地を守らなくてはならない。
ワインで有名なAOCシャンパーニュだ。
フランスのシャンパーニュ地方で定められたブドウの品種によって
作られた発泡性のワインを、15ヶ月以上熟成させなくては
名乗る事が出来ない。製法等も定められている。
赤ワインで有名なロマネ・コンティAOCに認められている。
このワインはヴォーヌ・ロマネ村にある畑で採れる
ピノ・ノワールを使用して作らなければならない。
畑の大きさは1.8ヘクタール程で、坪に変換すると5445坪しかない。
規定のどれか1つでも破ると、
AOCで認められた名称を製品に使用する事はできない。


チーズのAOCも似た様な物で、
どの動物の乳を使うのか。
その動物は何を食べ何処でどのようにして育てられたのか。
熟成期間。熟成させる洞窟や蔵の場所まで事細かに定められている。
ブリ・ド・モーもエスポワも名誉ある事にAOCに定められたチーズだと言う訳だ。

ブリ・ド・モーは白カビが生えたチーズで
カマンベールチーズの先祖と言われている。
カマンベールよりも200年も前に作られている。
癖が無く角のない甘みが特徴で、添えられた干しイチジクと一緒に口にすると
一流のパティシェが作った生クリームと果物の菓子を食べている様だ。


エポワスの表面はオレンジ色だ。
ブランデーの1種であるマールを掛けながら熟成させる。
その為、表面は艶があり人によっては悪臭と感じる独特な臭いを放っているが、
中身は良い匂いでとてつもなく柔らかい。
料理の全ては基本的にそうであるが、
チーズにおいては匂いと味がより一層近い場所にある。
エポワスを口に含むと表面と中身の匂い、味のコントラスト差に舌が混乱する。
だがやがて両者が合わさり複雑ななんとも言えぬ旨味を作り出す。
上に乗っている松の実のお陰で臭いと匂いの橋渡しが
よりスムーズに行っているようだった。


どちらのチーズもズームと良く合った。
カクテルがチーズの味をより深くし、
チーズがカクテルの味をより鮮やかにしていた。



もぐもぐ子ちゃんは青い鳥を自宅に連れ帰り、
適当な箱の中に綿や布を沢山敷いて彼を静かに置いた。
スポイトで鳥の口元に水を垂らす。
彼は美味しそうに水を飲込んだ。安心するもぐもぐ子ちゃん。
彼女は水をあげながら青い鳥を観察する。
彼は羽を怪我している様でそこに血がこびり付いていた。
彼女はどうしようかとあわてて救急箱から包帯を取り出す。
自分で治療を試みる。その寸前で町に獣医さんが居た事を思い出した。


この傷なら何れは治るから大丈夫だよ。
お爺さんの獣医さんはしっかりとした声で声でそう言った。
記憶を頼りに町にある動物病院にたどり着いたもぐもぐ子ちゃんは、
優しそうな顔の獣医さんに鳥を手渡しのだった。
獣医さんの奥さんであり助手でもあるお婆さんが、
ほっとするもぐもぐ子ちゃんの肩を抱きしめる。
そして何かあったらすぐに連れてくるのよと言ってくれた。
笑顔で頷くもぐもぐ子ちゃん。彼女は鳥用の薬を貰い動物病院を後にした。



チーズを食べ終わり乳製品の芳香な濃厚さに満足する。
次の皿が最後の料理である菓子、デセールの登場だ。
英語でデザート、イタリア語でドルチェ。
スペイン語ではポストレと言うんだ。

そのデセールがテーブルに運ばれる。
1つの皿にブッシュ・ド・ノエルとシャーベットが添えられている。
ブッシュ・ド・ノエルは大きな物を
ロールケーキの様に切り分けたのではなくて
サイズ小さいが一株の丸太の形をしてた。
クリスマスの木という名前の通りだなと行って笑った。
チョコレートでコーティングされた丸太の上に
ホワイトチョコレートの小さなプレートが乗せられている。
Joyeux Noel、ジュワイユ・ノエル、
フランス語のメリークリスマスと言う言葉が書かれていた。
可愛い皿だ。ベタで野暮ったさもあるが、
クリスマスという物は
少し位ベタな方が安心して楽しめる物かも知れないと笑う事にした。
幸せだなと感じる。
ブッシュ・ド・ノエルの真ん中には
バナナ味のクレームブリュレが挟まれていると言う。


苺や桃と一緒に盛りつけられているシャベートは
ミックスベリーで作られた物だと言う。
食べる前からブッシュ・ド・ノエルの甘みと
シャーベットの爽やかさの食べ合わせが美味しそうでヨダレが出そうだ。
おいしそう、では食べようと言ってフォークを握る。


ブッシュ・ド・ノエルにフォークを入れる。スムーズに切れる。
途中で僅かな抵抗と何かが割れた感触が手に伝わる。
丸太の断面が見える、茶色のスポンジの間にベージュの部分がある。
ここがクレームブリュレになっているのだろう。
先程の感触はカラメル部分が割れた物に違いない。
口に入れると、チョコレートとスポンジとカラメルとクリーム、
趣向を持つ甘さが重層的に心を誘惑する。
繰り返される甘みの応酬に頭が少しクラクラしだす。
チョコレートはそのむかし媚薬として
或は惚れ薬として使われていたと本で読んだ事がある。
または女性は年齢を問わず甘い物を食べている間は優しくなるとも。
どちらの気持ちも分かる気がした。


しかし最初に食べたアミューズからこのデーセルまで。
味の嵐に襲われているなと心地の良い苦笑いを浮かべる。
それはきっとすばらしくて良い事だ。


単純ではなく複雑で、舌で感じた味こそがもっとも正しくて
言葉ではその2割も表現出来ない。
そもそもきっと味を言葉で表現出来ると思っている事が間違いに違いない。
そんな事よりも周りのカップルや家族達の食事中の笑顔の方が
料理の素晴らしさを表現していると思う。
味を表現するより、そう言った人々を表現した方が美食を語るのには相応しい。


ラクラした頭を言葉通り冷やそうとシャーベットを口に運ぶ。
こちらは新鮮という文字を
そのまま凍らした様な色鮮やかな爽やかさを感じさせた。
口内をベリーの甘酸っぱさで満たしてくれる。


ブッシュ・ド・ノエルとシャーベットを交合に食べるならば
甘さと爽やかさの応酬に頭がより一層回りだす事だろう。



もぐもぐ子ちゃんが獣医さんに鳥を診せてから数日が経つ。
鳥は以前よりも調子が良さそうな声でぴよっぴぽよっぽと鳴いている。
彼は時たま寝床を抜け出して
長い足でよっちりよっくり不安定に歩いたりしている。
彼女は青い鳥をその独特のさえずり方からぴよっぽと名付けていた。
しばらくの間ぴよっぽを眺めていたもぐもぐ子ちゃんは
獣医さんから貰った鳥用の餌が無くなっている事に気が付く。
ぴよっぽを箱に戻して家の鍵を閉めて外へと買い物に出掛ける。


外は太陽の光が暖かく風も穏やかだった。
お気に入りの落ち着いた色のスカートが柔らかく風に踊る。
ペットショップで目当ての物を手に入れた帰り道、
彼女は知らない顔の男の子に声を掛けられる。
なんだろう?ともぐもぐ子ちゃんが疑問に思う。
すると彼はとても丁寧な言葉で、
数日前にあなたからシナモンロールをいっぱい貰ったのだけど覚えていない?
と説明してくれた。
彼女は、そうだ鳥を助けた時にパンを無理やり渡した男の子が
こんな顔だったと思い出す。
あ!美味しかった?と尋ねる彼女に
彼は笑いながら美味しかったわーと返事をする。
彼の名前はピュレで、洋服屋さんをやっているのと名乗った。
もぐもぐ子ちゃんはだからお洒落な洋服を着ているのね!と
感心した後で自分も名前を名乗った。


ピュレ君はそうだ!すこし待っていてくれる?と言って
もぐもぐ子ちゃんが今しがた出て来たペットショップへと入って行った。
数分後ピュレ君が出て来る。
手には赤い屋根に水色の箱が付いた家の形の鳥箱を持っている。
彼はこれはシナモンロールのお礼よ、
もしよければ受け取ってくれると嬉しいわと彼女に手渡す。
ピュレ君はあの日もぐもぐ子ちゃんに
シナモンロールを強引に渡された後で一部始終を見ていたのだという。
鳥箱、きっと持っていないでしょ?彼は首を横にして彼女に尋ねる。
もぐもぐ子ちゃんはぴよっぽにこの家は似合いそうだと思って
喜んで礼を言って受け取る事にした。
良かったら今度お店に来てね。女の子の洋服も扱っているから!
ピュレ君はそういって笑顔で手を振りながら向こうへと歩いて行った。


もぐもぐ子ちゃんは家に帰って早速
ピュレ君に貰った鳥箱に鳥用のご飯を並べてぴよっぽの側に置いた。
するとぴよっぽは少しの用心の後、ゆっくりと新しい家に入って行くのだった。
美味しそうにご飯を食べ始める。



気が付いたらデセールを綺麗に平らげていた。
食後の飲み物が運ばれる前に俺は中座する。
お手洗いに行って鏡の前で手を洗う。
洗面器の横にはハンドソープやお手拭きの他に、
爪楊枝や顔に使用する油取り紙、
マウスウォッシュと小さな使い捨ての紙コップ、
更にジャケットに書ける消臭様のスプレーまで用意してあった。
相変わらずさすがだねと思わず手の平を叩き合わせる。


トイレから出てテーブルへ帰る前に支払いを済ませる。
この方法が俺が知る限りでもっともスマートな料金の支払い方だ。
椅子に戻って少し経つと注文しておいたエスプレッソが到着する。
頼む事が可能ならば
普通のドリップコーヒーより胃を刺激してくれるこちらの方が好みだ。
それも普通より量の多い2ショット分を入れてもらう。
注文通りの物が来て最後まで満足させてくれる。



もぐもぐ子ちゃんがぴよっぽを自宅に介抱してから数週間後、
ついに彼の傷ついた羽は全快する。
しかし彼女は寂しさと心配が混じった様な表情を浮かべている。
数日前に彼女のお姉さんであるミジョテさんに
野鳥はいつか自然に帰さなくては駄目なのよと諭されたのだ。
傷が治ったら自然に帰すのだと。
彼女は姉の言葉に初めはショックを感じたが、
そういう物かも知れないとゆっくり頷いて思いなおした。


彼女は今日、ピュレ君から貰った鳥箱を窓の外に設置した。
それから彼女はずっと複雑な気持ちで
家の外にあるぴよっぽの家を見つめている。
暫くしてぴよっぽが明るい空に向かって飛び立つの見て笑って泣いた。


翌朝。目を腫らしたもぐもぐ子ちゃんは
トントンという小さな音を耳にして目を覚ます。
ベットから降りて音のした窓の方へ行く。
外を見ると窓の縁に青い鳥が居る。ぴよっぽだ。
彼女の事を見つけたぴよっぽはクチバシで窓を大きくコツンコツンと叩く。
もぐもぐ子ちゃんが窓を開けると彼は勢いよく羽ばたいて彼女の肩に止まった。
明るい声で嬉しそうにぴよっぴぴよっぽと鳴く。
どうやら彼女に懐いてしまったらしい。
もー、しかたがないなー、彼女は嬉しさを隠しきれずに笑った。
こうしてもぐもぐ子ちゃんに新し友達ができたのだ。


うん、これで1つの短編が終了だな。
お話としても納まりが良く彼女のキャラクターもそれなりに描けていると思う。
仕事上仕方なく鍛えた能力とはいえ、我ながらなかなか完璧な

「ねぇ、さっきからなにを考えているの?」
完璧な……完。そこで俺の考えが途切れた。
再び彼女の声が聞こえる。
「お仕事のこと?」
俺に瞳を向けていた彼女が顔を傾けた。栗色に波打つ髪の毛が緩やかに揺れる。
「えっと、何か考えている風に見えたかな?」
俺は意識を目の前で起きている事に戻してとっさに考えた返事を返す。
「うん、スープを飲んでいるあたりからだよー」
彼女は少しふくれている様子だ。
潤んだブラウンの瞳で俺を刺す様に見つめている。


しまった。これはいけない。なにもかもばれている。
フレンチ料理のうんちく等を語って
彼女が暇にはならない様にはしていたつもりなのだが。
そもそも彼女にとっては料理や海外の言葉やワインやチーズのうんちく自体が
タイクツだったのかも知れない。


「食事しながら話してくれたことはおもしろかったけど……」
彼女が舌足らずな甘い声で褒めてくれた。
あ、そこは良いんだなと俺は安心する。
「でも心がないかんじだったよ!」
見事に見抜かれていると直ぐに反省する。


正直に考えていた事を話そうとする
「新しい架空のキャラクターの事」
「あ、お仕事の事だ。それでそれはどんなひとなの!」
彼女が八重歯を見せて目を輝かせる。
この子は俺が考えるキャラクターの事が好きでそこに俺は随分と救われている。


なかなか言い難い話なんだけれどと前置きした上で、
「帰りながらお話ししようか」と苦笑いを浮かべた。
コートを受け取って給仕人達に料理も美味しく良い時間が過ごせたよと礼を告げる。
続けて半年後の彼女の誕生日にまた来れれば良いのだけれどと言うと、
ええ、御待ちしていますと丸眼鏡のレモンさん……
じゃなくてソムリエ氏が言った。


店を出る前は電車で帰る事も考えたが、
店外の寒さに驚いてタクシーを捕まえる事にする。
少し歩いて大通りに出て周囲を見渡せばタクシーが沢山走っていた。
彼女に料理はどうだった?と訊く。
「うん、とってもおいしくて、たのしかったよ」と
何時もの可愛い笑顔で笑った。
そんな彼女が寒く無い様に俺は後ろから背中を抱き締める。
彼女が着ているオフホワイトのコートは手に暖かかった。
「さっきの続きは、タクシーの中でお話ししてくれるの?」
風に栗色の髪の毛とスカートの裾をなびかせながら
彼女が俺の顔を見上げる。俺は自分の胸の当たりに向かってそうだねと返す。
「でも、私。もしかしてねむってしまうかも」
そう。彼女はお腹を満腹にするとすぐに眠くなってしまう。
少しがっかりする所でもあり、彼女が持つ可愛いらしい面の1つでもある。
「大丈夫、ちゃんとベッドまでお姫様抱っこで運ぶよ」
「その時に私が起きちゃったら?」「ベットで続きを話すよ」
彼女は少し考えた後、判断を決め方ね表情で
「なんか、それ、幼稚園に通っている子みたい。
 私そんなのじゃないよ!」と言う。
俺は笑いを堪えてそうだよねと頷いた。


2人の前にタクシーが止まり、扉が独りでに開く。
俺は先に彼女を車内に入れようとして肩に回していた手を解いた。
歩き出す寸前で「あ、待って」と彼女が小さな声で俺の動きを止める。
それから小さな手で手招かれて、俺は彼女の頭に顔を寄せる。
彼女は少し背伸びして、俺の頬にキスをした。


今日はクリスマスイヴだ。





【クリスマスイヴの短編】〈もぐもぐ子ちゃん/おわり〉





Let it Snow/Vaughn Monroe(レット・イット・スノー/ヴァーン・モンロー)






.

【短編小説】底が抜けちまった(後編)


前編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130405/1365173628
中編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130415/1366044153
後編;本文




       物語には牽引する力ある。
       人々を牽引するのには5つの作用が必要だ。
       勇者の嘘 愚か者の嘘 歴史の嘘 統合 心に残る真実


      (「ハムレット」や「マクベス」といった
       演劇史に名前を残す戯曲を書いた
       劇作家シェイクスピアの言葉)
       ウィリアム・シェイクスピア イギリスの劇作家、詩人
      (1564〜1616)






《ねむぃが継ぎだな》


翌朝、欠伸をするダ・ヴィンチ
身体を伸ばして朝陽を観た。
人間の身に何が起こっても陽の色は変らねぇなあと再び欠伸をする。


昨日、リザの私邸を去る時、
ダ・ヴィンチはいつか無報酬で彼女の肖像画を再び描く事を約束した。
そして資金の問題は解決の目処が付いた。計画は次ぎの段階に移った。
描いた絵画をどうやって世に出すか?という事だ。
良い絵を描いた所で画家個人が所有していては
誰が絵画を観れるというのだろうか?




《来たか。さすが商人は時間に厳しい》


その時、自宅の扉を叩く者が現れた。
計画通りの時間だ。
ダ・ヴィンチはいそいそと客人を向かい入れた。
彼に頭を下げてしっかりとした足取りで入室したのは
貿易商を営むジョヴァンニ家の使いだった。年齢はサライと同じくらい。
だが活発な美丈夫といった出立ちをしている。


「こちらがお求めの品です」
使者は両腕に抱えていた麻袋をダ・ヴィンチに渡した。
彼は片手でそれを受け取ってから紐を解いて中身を確認する。
ダ・ヴィンチは使者に労いの言葉を言った。
使者はうなずいた後に
サライは元気にしているだろうか?という伝言を与っています」と言う。
ああ、元気でよく働いてくれている。
相変わらず頭の回転も良いし人の心も読める。
酷い病気にもかかっていないから安心して下さいと伝えてくれと
ダ・ヴィンチは使者に笑いかけた。


食料品を主な貿易の商品とするジョヴァンニ家は、
ワインの名産地であるトスカーナを有する
フィレンツェ共和国の首都にも支店を構えていた。
ダ・ヴィンチが数日前、ジョヴァンニ家への
使いとしてサライをそこに送った。
目的は今彼の碗中にある麻袋の中身を要求する事だ。
サライことジャン・ジャコモ・カプロッティの
父親であるピエトロ・ディ・ジョバンニと
サライの雇い主であり預かり人であるダ・ヴィンチ
定期的にこうしたやり取りを行っていた。
ピエトロは愛人との間に産まれたジャン・ジャコモの事を気に掛けていたのだ。
サライ本人もその事を知っている。
ダ・ヴィンチサライがいつか言った「父を恨んだ事が一度も無い」という
言葉は本当の様だとピエトロとのやりとりから実感していた。
大商人であるピエトロは
一介の工房主であり息子の師でもあるダ・ヴィンチにも気を配っていた。


ダ・ヴィンチは使者に再度礼を言って、
ピエトロ・ディ・ジョバンニに宜しく言っておいてくれと言う。
使者はうなずき
「また何かあったら言って下さい」とダ・ヴィンチの宅から退出した。




《さて》


その後、サライが彼の自宅に来た。
2人は朝食を採る。ダ・ヴィンチサライに今朝の事を伝えた。
サライは楽しんでそれを聴いた。
ダ・ヴィンチは再びサライに伝令を頼んだ。


それから2人は宅を出る。
サライは伝令を達成する為にある屋敷へと向かった。
ダ・ヴィンチは計画通り、目的地へと向かう。



彼は眩しい朝の光の中、
フィレンツェを走る小川の橋を渡る。
住宅街を通り過ぎて広場に出る。
広場に並ぶインノチェンティ養育院と
サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂を通り過ぎる。
目的地は広場に並ぶ宗教施設の中の1つ、セルビ・ディ・マリア修道院だ。


道中、ダ・ヴィンチは再びあの集団に出会った。
外見を見るに彼らは昨日と変らず
フィレンツェの一般市民で構成されている様だ。
集団は変らず街角の巨木の下に集い手を合わせて何かを祈り呟いていた。
ダ・ヴィンチが今日もかよ?祈るなら教会にでもいけよと思い、
僅かな狼狽を持ってその光景を眺めていた。
すると昨日と同じ1人が彼に話しかけた。
「あなたも祈りませんか?」とその市民は
昨日と同じ様にダ・ヴィンチに言った。
ダ・ヴィンチは無言だ。そういえばあんたは昨日、今日自殺するっていてなかったか?と思う。市民は無言のダ・ヴィンチに言う。
「私達は今まで教会の中で神に祈ってきました、
 ですが今、世界は破滅しようとしています。
 だから私達は教会とは別の場所、空の下で神に祈りを捧げるのです」と
一般市民は天を仰ぎながらつぶやいた。
「それでだめだったら、私は明日にでも首を括るつもりです。
 私は悔い改める事にしたのです産まれた事を。
 私が夜寝台で寝ていると私の身体を叩く者が居ます」
一般市民はダ・ヴィンチに生気のない顔を向けた。


市民はダ・ヴィンチの事をすっかりと忘れている様だった。
おまけに昨日より服装が酷い、服装はだらしなく、
間から黄ばんだ下着が顔を覗かせている。
ダ・ヴィンチは心の中で苦笑した。
それから、そうかまぁしっかりな、
俺はいかなきゃならない所があるんでなと
昨日と同じ様に市民の肩を叩いた。


ダ・ヴィンチは市民に背を向けて数歩歩く。
それから険しい顔になった。
後ろを振り返ると市民は再び巨木と空に祈りを捧げている。
今日もまた彼はまったくろくな事が起こっていない、
これも環境と状況がわるいのだろうか?と
今の出来事を判断する事を倦ねていた。


苦みばしった味が口の中にじわじわと広がって行く様な気分で
ダ・ヴィンチは再び目的地へと歩き出した。
俺には俺の目的があって
あんな風にいつまでも祈ってばかりはいられない。


セルビ・ディ・マリア修道院は数日前の晩、
ダ・ヴィンチが夫婦の混乱を止めるのに協力を仰いだ、
イッポリト・アルドブランディー修道院長が管理する修道院だ。
ダ・ヴィンチの個人的な小さな工房もその中にある。


修道院に入ったダ・ヴィンチは何時もの様に工房へ向かう。
途中で見かけた修道士にアルドブランディー修道院長を
工房に呼んで来てくれと頼んだ。手の空いた時で良いからと添えて。


工房にたどり着いたダ・ヴィンチ
1週間以上訪れていなかった為か埃っぽくなって居る工房を見つめる。
ステンドグラスを通過した午前の濁った光が部屋を照らしている。
画家の部屋には複数の画架が並んでいる。
画架の上には板に貼られた帆布が置かれ、
帆布には描きかけの絵画や、試作があった。
部屋には他にも画材や棚や卓、椅子が置かれている。
描きかけの聖ヒエロニムスの肖像画には
汚れを避ける為に白い布が掛けられている。


彼は木製の窓を開けて空気を入れ替えた。
椅子を部屋の中央に移動させて座る。
背もたれに体重を掛けて天井を見上げた。
それから画架に置かれた様々な絵画を眺めて
どうしようかねーと頭の後ろで腕を組んだ。


しばらくそんな事をしていると工房の扉を叩く音がした。
どうぞ、と返事をすると
アルドブランディー修道院長が扉を開けて入って来る。
「君がここに来るのは久しぶりな気がするよ」と
白い髭を片手でもふっと掴んでいる。


「君の方からこの部屋に呼ぶとはめずらしいね」と修道院長は椅子に座る。
画家と教役者、2人は茶飲み友達だった。
修道院長の部屋で飲む事もあれば、ダ・ヴィンチの工房で飲む事もあった。
修道院長は修道院の長である。故に気軽に茶を飲める相手は限られる。
修道士などはもっての他だ。そこに芸術家が現れた。
芸術家からしてみても
自分の絵の方向性を認めてくれる教役者は良い茶飲み友達だった。
茶とは珈琲の事だ。
珈琲は未だ異端、異教であるイスラムの飲み物という風潮が強かった。
アルドブランディー修道院長は度々冗談だという口調で
「私がもし教皇に選ばれたら、一番初めにする仕事は
 珈琲豆に洗礼を与える事だよ」と言う。
ダ・ヴィンチはそれが強ち冗談では無い事を知っている。
そんな茶飲みの始まりを告げるのはいつも修道院長の方からだった。


だから今日の様にダ・ヴィンチの方から修道院長を呼び出す展開は珍しい。
ダ・ヴィンチは単刀直入に目的を告げる。
話しを聴く修道院長は目を閉じたり開けたりしながらうなづく。
ダ・ヴィンチが話しを終えると、
修道院長は白い髭をもふっと触り感心した様に「ほぅ」と言って
ダ・ヴィンチの事を見つめた。


「うまく行くかな?」と修道院長は彼に尋ねる。
ダ・ヴィンチの行動自体には異議異論がない様だ。
流石、修道士なのにも関わらず、市井の揉め事に
顔を出してくれるだけの事はあるなぁとダ・ヴィンチは感心する。
こういう人間を仲間として側に侍らせておくのは気持ちがいいと思う。


ダ・ヴィンチは上手く行きますよと言ってから
卓の上に麻袋を置いた。修道院長にそれを差し出す。
修道院長は首を捻る。ダ・ヴィンチは指で麻袋を指す。
修道院長は袋の紐を解き中を覗いて眼を見開く。
暗い麻袋の中、中身は更に黒い。さながら悪魔の様な黒さだろう。
修道院長は袋の中の匂いを鼻一杯に嗅いでえも言われぬ幸せな表情をする。
それから中身を指でつまむ。教役者の指に握られているのは珈琲豆だった。


最高級品ですよとダ・ヴィンチは笑う。
修道院長は椅子からがばっと立ち上がり、
「さっそく飲んでみよう」と珈琲豆が入った袋をもって何処かへと消えた。
暫くして2つの珈琲カップを持って修道院長が戻って来る。
工房が一瞬で新鮮な香しい匂いに包まれた。
画家と教役者、2人はカップに口を付ける。
ジョヴァンニ家に頼んだ上質の珈琲豆は確かに美味かった。
悪魔の様に黒く地獄の様に熱く天使の様に純粋で恋の様に甘い。
ひとしきり無言で珈琲を飲んだ後、
修道院長は「ではやってみよう」と言った。


計画はまた1つ前へと進んだ。






      この作品は象徴性に富み、モービー・ディックは悪の象徴
      エイハブ船長は多種多様な人種を統率した人間の善の象徴
      作品の背後にある広大な海を人生に例えるのが一般的な解釈である


     (アメリカの作家ハーマン・メルヴィル作の「白鯨」を解説した
      WEB上のフリー百科事典ウィキペディア日本語版からの抜粋)






《ねむぃが更に次ぎだな》


翌朝、欠伸をするダ・ヴィンチ
身体を伸ばして朝陽を観た。
人間の身に何が起こっても陽の色は変らねぇなあと再び欠伸をする。


朝食を持ち彼の自宅を尋ねたサライダ・ヴィンチ
そろそろ根回しは終わりそうだといった。
その後2人は朝食を食べた。それから2人は宅を出る。
サライは工房へと向かう、今日は伝令の仕事が無い。
ダ・ヴィンチは計画通り、目的地へと向かう。


計画の次の段階、解決すべきは
世に出た絵画をどうするのか?という事だ。
良い絵を描いた所でそれが芸術品愛好家の蔵に仕舞われては意味が無い。



彼は眩しい朝の光の中、
フィレンツェを走る大通りを歩く。
住宅街や教会を通り過ぎて広場に出る。
途中に配置されている警備兵に手を上げて挨拶をする。
目的地は警備された道と扉の先。メディチ家の屋敷だ。


道中、街中でダ・ヴィンチは今日もまたあの集団に出会った。
彼らは相変わらずフィレンツェの一般市民で構成されている様だ。
集団は相変わらず巨木の下に集い手を合わせて何かを祈り呟いていた。
ダ・ヴィンチがまた今日もかよ?祈るなら教会にでもいけよと思い、
僅かな狼狽を持ってその光景を眺めていた。
すると一昨日と昨日と同じ1人が彼に話しかけてきた。
「あなたも祈りませんか?」
市民は一昨日と昨日と同じ様にダ・ヴィンチに言った。
ダ・ヴィンチは無言だ。そういえばあんたは一昨日も昨日も今日自殺するっていてなかったか?と思う。市民は無言のダ・ヴィンチに言う。
「私達は今まで教会の中で神に祈ってきました、
 ですが今、世界は破滅しようとしています。
 だから私達は教会とは別の場所、空の下で神に祈りを捧げるのです」と
一般市民は天を仰ぎながらつぶやいた。
「それでだめだったら、私は明日にでも首を括るつもりです。
 私は悔い改める事にしたのです産まれた事を。
 私が夜寝台で寝ていると私の身体を叩く者が居ます」
一般市民はダ・ヴィンチに生気のない顔を向けた。


市民は今日もまたダ・ヴィンチの事をすっかりと忘れている様だった。
おまけに今日は服装が綺麗だ。
見た目だけは貴族と一切の遜色が無い格好をしている。
ダ・ヴィンチは心の中で苦笑した。
それから、そうかまぁしっかりな、
俺はいかなきゃならない所があるんでなと
一昨日と昨日と同じ様に市民の肩を叩いた。


ダ・ヴィンチは市民に背を向けて数歩歩く。
それから険しい顔になった。
後ろを振り返ると市民は再び巨木と空に祈りを捧げている。
今日もまた彼はまったくろくな事が起こっていない、
これも環境と状況がわるいのだろうか?と
今の出来事を判断する事を倦ねていた。


苦みばしった味が口の中にじわじわと広がって行く様な気分で
ダ・ヴィンチは再び目的地へと歩き出した。
俺には俺の目的があって
あんな風にいつまでも祈ってばかりはいられない。




《申し訳ない気にもなるな》


メディチ家の広大な屋敷、
その巨大なバルコニーで待たされているダ・ヴィンチは思う。
だが頬に当る風は気持ちがよい。


ダ・ヴィンチは今日屋敷を尋ねるという事を、
サライを伝令に送る事で昨日のうちに伝えていた。
家長が体調を崩している時に宅を尋ねるのは
悪い事をしている気分にもなった。だが、仕方が無い。
病床に居ても市井の怒声と混乱の声は聞こえて来るだろう。
それが収まる可能性もあるのだから、どうか許して下さいよと、
ダ・ヴィンチは心の中でロレンツォ・メディチに詫びた。


「レオナルド!久しぶりだ!元気そうでないよりだ」
バルコニーにやって来たのはロレンツォの長男ピエロだ。
やぁピエロ、あなたこそ元気そうで。
ダ・ヴィンチとピエロはお互いの身体を抱き締め合った。


数ヶ月ぶりに見るピエロは随分と身体を逞しく成長させていた。
顔立ちも大人びている。
良い成長の仕方をしているとダ・ヴィンチは嬉しくなる。


ロレンツォの容態は?
ダ・ヴィンチの問いにピエロは一瞬息を止めて、
「医者が言うにはすぐに起き上がれると言う訳ではない様だ」と
ダ・ヴィンチの眼を見る。
彼は長男ピエロのその様子から、
ロレンツォの容態は芳しく無い様だと推測する。
名家の次期家長が現家長の病状を一介の画家に素直に言う事などは出来ないだろう。ダ・ヴィンチはロレンツォが天に召される前にもう一度会いたいと思う。
だが、今は絵画の事が問題だ。
上手くすれば今回の事が良い見舞いの品になるかもしれない。


ピエロは話しを切り替える。
話題はダ・ヴィンチメディチ家の屋敷を訪れた目的の事だ。
彼はすでにその内容を昨日のうちに
サライメディチ家の屋敷に送る事で伝えている。
「話しは聞いている。質問の回答としては、
 ウフィツィの画廊には空きがある」
ダ・ヴィンチはそれを聞いてそれはよかったと頬笑んだ。


ウフィツィはロエンツォ・ディ・メディチ
フィレンツェ中に散らばる行政の事務所を1カ所にまとめるべく建築した建物だった。1480年に着工し90年には完成している。
当然、そこにはフィレンツェ内外の市民や商人が大量に出入りする。
そんなウフィツィには訪れる人々にメディチ家の力を
知らしめ見せしめる様に、
美しい1流の絵画や彫刻を飾る画廊が設置されていた。
メディチ家ダ・ヴィンチに描かせた絵画の幾つかは
今ではその画廊に飾られている。
数多くの市民や商人が画廊で芸術作品を見ては心を癒し審美眼を養い鍛え、
メディチ家の権力を形ある物として見つめていた。


「掛けて欲しい絵があるとの事だが、
 それはレオナルドに描かせた絵のどれかか?
 それとも、新たに買い取って欲しい絵があるということだろうか?」
ピエロの目がダ・ヴィンチの事を見定める様に鋭く光っていた。
それは次期家長としては素晴らしい事だとダ・ヴィンチは頬笑む。
俺が描いた絵画ではないんだとピエロの瞳を見つめ返す。
それにその絵はあなたに寄付します。ダ・ヴィンチは口角を上げる。


「寄付?」ピエロは拍子を外された様な意外な顔をしている。
ええ、良い絵なんです。
ダ・ヴィンチは頬笑みながらもピエロの顔から視線を外さない。
「そうか、私は父や弟とは違い、
 私はあまり美術に詳しい方ではないのだが。
 寄付をしてでも画廊に並べたいというのか?」
ピエロはどこか気の抜けた顔をしてる。
その様はこの青年がまだ幼い頃の事を思い出させた。
はい。とても良い絵で。それを観たフィレンツェ市民の心も休まるものなんだ。
ダ・ヴィンチはピエロから視線を外してバルコニーの外、
青空をゆっくりと眺めた。
ピエロはうなずく。ダ・ヴィンチの最後の一言に彼の真意を納得した様だった。


「分った。
 私は、父や弟がレオナルド、君の実力を信用している事を知ってる。
 家族が信じる君を信じよう」
ダ・ヴィンチはピエロの言葉に笑顔で礼を言う。ピエロも笑った。
それから私は用事がある、後は部下にまかせるとしようと言って
足早にバルコニーから去って行った。
ダ・ヴィンチはその背に再び感謝の言葉を投げかけた。
ダ・ヴィンチは消え行くピエロを見ながら、
自分が思っている以上にロレンツォの容態は
良く無い物なのかもしれないと感じた。


彼はこれで根回しの全てが終わった事に胸を撫で下ろした。
後は自分の力だ。それがどこまで通ずるだろうか。




《ここまで上手く行くなんてな》


絵画を描く。


ダ・ヴィンチの計画はこうだ。
まずは彼が絵を書く。絵画をみせる対象は一般市民である。
決して芸術に明るい愛好家や王侯貴族や教役者ではない。
目的は震災と混乱に怯えて浮つく人々の心を鎮める事だ。
だから絵画の内容は小難しい事じゃ行けない。
抽象的じゃいけない。
一目で分かり易いと良い。直接的だと尚の事良い。


パトロンや教役者向けの絵画なら抽象的で1つの絵に多様な意味を込める。
観る者はそれを読み解くだろう。だが、今回は相手がただの市民だ。
それでは届かない。特別、美学を知っているという訳ではないのだ。
故に彼が描く絵画は、現代の状況を直接気に表現する地震の絵だ。


ダ・ヴィンチキリスト教の伝達力を知っている。
出来れば利用したい。だがキリスト教聖典
聖書には地震からの救済を描いた場面は無い。
あるいは描く事で今の状況に適した物は出て来ない。


モーセが描いたと言われる旧約聖書内の創世記。
その5章から始まるノアと大洪水の話しは現状には適さない。
大洪水は確かにアマルフィを襲った災害と繋がる所もあるが、
人々の混乱と恐怖を鎮める絵画の題材にはならない。
大洪水は神による浄化であるのだ。
ダ・ヴィンチはまず初めにこれを除外した。


ダ・ヴィンチモーセの事も研究してる。
新約聖書内の使徒行録にはモーセの事が
神の目に叶った美しさをもつ男だと書かれている。
そんな男が居るのならばダ・ヴィンチは是非あってみたいと思っている。
そこまで美しい男をこの目で見てみたいし、
見ればそういった美しい絵画を描く事もできる。
だが、どのみち死後の話しだと妄想を止める。


旧約聖書内のソドムとゴモラも題材にならない。
神の怒りに触れて、天から降る硫黄と火の玉で
滅ぼされた2つの悪徳都市の話しもまた今の状況に適さない。
ダ・ヴィンチが今回描く絵画の目的は
滅びの不安に怯える人の心を慰める事なのだから。


キリスト教が聖人と認定した教役者の中には
地震と洪水から教徒を守る役目を与えられている人物もいる。
ギリシアグレゴリオス・タウマトゥルゴスだ。
オスマン帝国コンスタンティノープルがまだ東ローマ帝国の物だった頃に
建てられたキリスト教の大聖堂アヤソフィアにはモザイク画が描かれている。
そこにはグレゴリオスの姿を確認する事が出来る。
グレゴリオスは西暦213年に生まれて270年にはこの世を去ったと記憶されている。【信仰告白・テオポンポスへ】【謝辞】といった様々な文章を残し、
キリスト教の正統的な信仰の在り方に影響を与えて来た教役者だ。


だが、地震や洪水の被害者を守護する聖人に選ばれていながら、
その事はあまり残されていない。
ポントゥス。現在はオスマン帝国に支配されている
西アジアアナトリア半島の中、
黒海に面する地域を地震とその後の津波を襲った。
その時グレゴリオスが人々を導き加護した事はわかっているが、詳しい事は残っていない。だから巧く絵画の主題としては利用できなかった。
実在した人物を描くならば、その者を徹底的に研究せねばならないからだ。


他の聖書の出来事も、聖人の話しも似た様な物だった。
それらは大きく、抽象的な意味や、真実の所では人々に愛を伝えるだろう。
だが、現代。人々が混乱し恐怖する中で、
物事の真実を見据える余裕を殆どの人間は持っていなかった。
だからこそ、ダ・ヴィンチ即物的で現在の状況に適する物を描こうと思った。


それはつまり架空、幻想だ






      制御出来ない物、迷宮、魔術、無限、空想の中に
      制御出来るものを入れる。それが幻想。
      分るかい?マルケス
                      ---ボルヘス


      制御出来ない物が、制御出来るものに影響を受けて
      変化することでしょう?ボルヘス
                      ---マルケス


     (南米文学の先駆者、「伝奇集」の著者である
      ホルヘ・ルイス・ボルヘスの言葉。
      そして南米魔術的リアリズム文学の代表者、
      「百年の孤独」「予告された殺人の記憶」の著者、
      ガブリエル・ガルシア=マルケスの言葉)
      ホルヘ・ルイス・ボルヘス アルゼンチンの小説家
     (1899〜1986)
      ガブリエル・ガルシア=マルケス コロンビアの小説家
     (1928〜 )






《嘘を描くの始めてだな》


ダ・ヴィンチは己の行為に身震いし、挑戦に心震えた。
それは彼個人の性格を越えた芸術家としての性、或は悪習だった。


嘘と言ってもキリスト教聖典の中に
現状に即する地震津波に関する事が出ていた事にして、
絵画として描くという訳には行かない。
それでは絵画が人々の眼に触れた段階で教会から批判されてしまう。
展示場所を提供してくれたメディチ家にも迷惑を掛けてしまう。
何より、嘘が発覚した時点で絵画は吸引力を大きく失う。
この絵画にはキリスト教並みの大きな信頼や根拠が必要だ。
人々の心を鎮め、奮い立たせねばならない。
それはまるでアルドブランディー修道院長の言葉のようなものだ。
伝統的、歴史的な言葉や出来事はそれ相応の信頼を人に与える事を
ダ・ヴィンチは宗教画の描き手として知っている。


そこでダ・ヴィンチが眼をつけたのがギリシア神話だった。
プラトンの思想と共にギリシア神話キリスト教と折半し
現代の社会に受け入れられて来た。
だが決して体系的に学ばれている訳ではなく、研究も進んでいない。


東ローマ帝国ではフランスや半島の諸国を含む西側諸国よりも
ギリシア神話の体系的な研究が進んでいた。
1453年の5月29日、
オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされた事で、
研究の成果は西側の諸国にも伝わる様になった。
コンスタンティノーブルのギリシア人学者が西側諸国に亡命したためだ。
これにより紀元前の著作家アポロドーロスが書いた、
ギリシア神話を包括的、系統的にまとめた【ビブリオテーケー】等も
ギリシア語の書物として西側諸国に持ち込まれる事となる。
それから40年程が経過した今、
ギリシア神話フィレンツェの一般市民にも物語として知られる様になった。
だが戦火で失われた資料は多く、
今だにフィレンツェを初めとする諸処の国々では
学問として体系的な研究が深く進んでいる訳ではなかった。


ダ・ヴィンチはそこに目を付けた。
ギリシア神話には人々の心を引き寄せる吸引力がある。
説得力と信頼をもたらす歴史もある。
それでいて聖書とは違い現代では学問的な体系が無いので
嘘を付く隙がある。




《嘘をつくのも楽しい物だな、笑えるし笑えるし面白いし笑える》


ダ・ヴィンチは作品で嘘をついた事が無い。
キリスト教に伝わるある一場面を書く際も、
その背景や登場する人物や物体を徹底的調べて現実性を求める。
調べられない事が多ければ、依頼された絵画であっても制作を途中で破棄した。
エスや聖人の頭上に浮かぶ光臨、ニンブスを描く事が当たり前である現代でも
ダ・ヴィンチはそれを自らの絵画には登場させずに
登場人物の現実的な人間としての強さを表現した。


肖像画を描く場合、ダ・ヴィンチは描く人物の瞳の奧を覗き込んだ。
その人物が持つ表像だけではなく、何を考えどういった思想を
持っているのかを肖像画で描こうとした。
プラトンの思想と、アリストテレスの思想を持っている人間では
それぞれ描き方が異なった。


ダ・ヴィンチは、今回の絵画で初めて嘘をつく。
ギリシア神話の名を借りて幻想を描く。
それがダ・ヴィンチには楽しくて仕方が無かった。
嘘には自由がある。人を信じさせられるかどうかは別の事だが。
ダ・ヴィンチには今までの絵画作製の中で得た膨大の知識とひらめきがある。
後は嘘にそういった真実を注ぎ込むだけだった。


だが、完璧な嘘ではない。
描くのは規律が完璧に決まった聖書の一場面でもない。
かといって全くの無から新しい世界を想像する訳でもない。
2つの中間、ギリシア神話に依る嘘の構築だ。
だから彼がこれらから描くのは完璧な嘘という訳では無かった。


ダ・ヴィンチの心は高ぶる。
表現という物の楽しさを感じる。
表現とは自己表現の為にあるのではない。
表現の形式や規律の中に自分を見せて行く行為だ。
彼はその楽しさを今改めて感じていた。




《楽しみだ》


ダ・ヴィンチは、
声を立てずに1人笑う。白い歯を噛み締め歯茎まで外界に晒す。
彼の愛人が此の場に居たのなら、
「先生はまるで獅子や狼になった様だ」と思うだろう。


ダ・ヴィンチの計画では、
彼の描いた絵画は作者不明、制作年代不明の代物として世に出る事になる。
勿論、完成した絵画には古く見える様な加工を施す。
その理由はこの絵画は嘘を描いた者であり、
嘘である責任を不明の作書に負わせる為にだ。
本当の作者であるダ・ヴィンチでも、
絵画に関わるアルドブランディー修道院長やメディチ家の物でもない。
不明の作者に嘘を描いた責任があるのだ。


また時代が不明な事も重要だった。
絵画でも楽曲でも演劇でも文学でも、
事が起こってから制作した物は説得力に弱い。
その時代に生きた人間が描くと、制作物が状況に合致しすぎているか
逆に重要な部分から目を反らしている物が出来上がってしまうからだ。
まさに今自分が悲惨な状況を体験しているからこそ、
大きな目で物事が見えなくなったり、逆に主観的になり過ぎてしまう。


事件が起こる前から存在していながらも、
その時の状況にあった作品こそ本当の説得力と信頼を持つ。
誤摩化しが効かない事が重要だ。
既に作品は完成しているのだから手を加えたり誤摩化す事など出来はしない。
そして何より、過去の作品なのだという事実が重要だ。
なぜならば、そういった作品が現代に現存しているという事は、
人間達が様々な苦難や
幾千の真っ暗闇の夜を抜けて来たという徹底的な証拠だからだ。
ダ・ヴィンチは嘘で過去を再現する。
作者不明、時代不明の絵画で人類の様々の戦いと勝利の証左を再現する。
勝利には条件があるという事を
人類の過去または神話の教訓として見せしめる事が重要だ。


その絵画は、
セルビ・ディ・マリア修道院の蔵から見つかった事にする。
とある物を蔵から探し出す際、
アルドブランディー修道院長が偶然見つけた事にする。
きっと絵画は何時かの昔に、
市民や商人が修道院が断るのも聞かずに寄付した物や、
他宗教の研究の為に取り寄せられた物に違いない。
ともかく、キリスト教ではない
ギリシア神話のある一場面が描かれている絵画の芸術性を修道院長は認める。
だが、聖書とギリシア神話の折衷が認められている現代とは言え、
流石にギリシア神話の絵画を修道院に置いておく分けないはいなかい。


そこで登場するのがメディチ家だ。
アルドブランディー修道院長は出来は良いが
ギリシア神話が描かれている為に修道院に置いておく訳にはいかない絵画を
相談の末、メディチ家に寄付する。
メディチ家は絵画を、現状に適している必要な物だと認め、
一般市民にも鑑賞出来る様にウフィツィの画廊に飾る。


絵画をダ・ヴィンチが描いている最中の賃金は、
リザの旦那、織物の商人にして
フィレンツェの行政官フランチェスコ・デル・ジョコンドが支払ってくれる。
これでダ・ヴィンチも弟子も生活に困る事は無い。
ジョコンドは大した役人だった。


ダ・ヴィンチの嘘の絵画を見た市民が
どういった反応を示し反響を呼ぶのかはわからない。
ただ、彼が行う事はただ1つ。
自分の持つ最大の技術と知識を持って嘘を描く事だけだ。






      俺がバードから教わった一番大切な事は
      芸術家は言葉の上でなら
      もっと嘘を付いても良いんだってことさ


     (偉大なJAZZサックスプレイヤーチャーリー・パーカー
      弟子にしてJAZZの帝王と呼ばれたマイルスの言葉)
      マイルス・デューイ・デイヴィス3世 アメリカの音楽家
     (1926〜1991)






《難問は去ったな。意外にもあっけねぇ》


ダ・ヴィンチにとっての難関とはただ1つ。
絵画の構造だった。つまり具体的に何を描くかだ。


ダ・ヴィンチは5日間、
画架に掛けられた、真っ白な帆布の前に居た。
帆布は板に貼られ筆が付けられるのを待っていた。
その面積は巨大だ。一目で人の目を惹く巨大さだ。


ダ・ヴィンチは絵画の具体的な構図や色使いという物は
絵画の主題や目的が決まっていれば
天空から意識の中へとそのうち不意に降りてくる物だと思っている。
そう思う程に構図を研究し知識を集め技術を磨いて来た自信が彼にはある。


もちろん、ダ・ヴィンチは今だその全てに満足している訳ではない。
一作ごとに研鑽を重ねている。
だが、いざ絵画を描く段になると、
直前での修練など手慣らしの意味以外では誤摩化しでしか無く、
帆布と言う真っ白な空間の前では
ここまで積み重ねて来た自分の全てを出すしかなかった。
つまりそれは自分を表現という手段で人々に見せつける事ではなくて、
表現の形式や規律の中で自分を見せて行くという事だ。
これまで積み重ねて来た経験や知識と鍛錬の結果を表現に託す行為だ。


ダ・ヴィンチが真っ白な帆布と対面してから5日後、
彼の意識の中に絵画の完成図が沸き上がった。




《まぁ、悪く無いな》


ダ・ヴィンチはいま、
自分の心の内に見えている絵画の完成図にそんな感想を言った。


絵画の中央には1組の男女が立っている。
厳格な視線の中に穏やかな笑みを隠した男と、
穏やかな笑みの中に厳格な視線を隠した女だ。


男はギリシア神話の主神ゼウスに見える様に描く。
長い髭と神の毛。逞しい体つき。
だがそれだけではなく、
キリスト教のイエスが現代の絵画に描かれる際の特徴も取り入れている。
それは生命力に溢れ活気に満ちている人間の姿だ。
故に通常描かれるゼウスよりも外見は若い。
肉体は若さと雄大が交流して折衷を保っている。
裸体に纏う布は赤い。
男はゼウスでありイエスだった。
ゼウスは社会秩序の乱れや問題を調停する全知全能の守護者の象徴だ。


女はゼウスの妻ヘーラーだ。
美しい顔つきとしなやかな肢体。
だが、彼女もまただのヘーラーではなく、
聖母マリアに見える要素も取り入れられている。
ヘーラーは年に1度若返りの泉に入る事で永遠の若さを保っている。
聖母マリア処女懐胎をしている為、原罪を免れている。
原罪を免れているとはイエスが神の御業によって誕生した事を指す。
人間同士の間の誕生した者は産まれてから洗礼の祝福を受けなくてはならない。
だがイエスは洗礼を受ける必要が無い。
故にイエスを産んだマリアも原罪を免れ老いる事も無く死ぬ事も無い。
絵画に女は若い。
女が纏う布は薄い青色をしている。
青色はキリスト教の伝統で天国と聖母マリアを象徴する。
女はヘーラーでありマリアだった。
ヘーラーは母性愛延いては家族愛を象徴する女神だ。


この折衷は絵画の鑑賞者がキリスト教の知識しか持っていなくとも
ギリシア神話の神々の事を知っていても、
両方の意味でもどちらか一方の意味でも
見る者に伝統と神話の説得力を感じさせる事を目的に仕組んだ仕掛けだ。
深い知識がなくとも一目で描かれている事の意味を判らす事が
ダ・ヴィンチが描こうとしている絵画には必要だった。


中央に立つ男女を境に絵画の上部には海が見える。下部は大地だ。
海には海の精霊ニンフ達が居る。
ニンフ達は男女にひれ伏している。
また海に巣くう怪物ケートスが槍で倒され波間に浮かんでいる。
ケートスは津波の象徴であり、それが倒されている場面を描く事には意味があった。だが波は荒く穏やかに静まっている訳ではない。辺りの景色は暗い。
しかし天からは僅かだが穏やかで新鮮な光が漏れている。
ダ・ヴィンチは天使を天空から舞い降ろそうかとも思ったのが、
世間に溢れる終末思想を連想させそうなのでそれを構図から取り除いた。
海の向こうには山が見える。頂上には火口が見えるが、噴火はしていない。


一方、下部の大地には多くの人々が居る。
人々は神でも精霊でもなくただの人間だ。
家族や男女が居る。子供がいて大人が居る。
大地は所々にヒビが走り、崩れている岩もある。
だが全ての人の視線には強い意志がある。
絵画の外を見ている者も居れば、膝付く者に肩を貸している人も居る。
子供を優しい目線で見つめる者も居れば、肩を寄せ合う男女も居る。
荒波を挑む様な目付きで見つめる者も居れば、温かい頬笑みで祈りを捧げている者もいる。
大地にはすべての人間が居た。
絵画を見る者に自分の視線にも
本来は強い意志が宿っている事を気がつかせるのが描かれる人々の目的だ。


それは震災が天罰であるという言葉や終末論者の言葉に怯えず、
必要以上に怒らず心を乱されぬ視線だ。
根拠の無い噂や予言に惑わされぬ意志の確かさだ。
事の真意を冷静に判断する思考力だ。
噴火などの更なる天災には用心しそれから目を逸らさぬが、
恐怖で混乱する事は決して無い精神の強靭さだ。


ダ・ヴィンチが描く絵画の人間はそういった人々であり、
ダ・ヴィンチは絵画を持って
あなたこそその人間なのだという事を見る者に思わせたかった。




《まったく》


ダ・ヴィンチは笑った。
意識に沸き上がった完成図を彼の知能と知覚が読み取った。
ダ・ヴィンチにはそれが随分と陳腐な絵画だと思えた。構図も古い。
絵画の真ん中に全知全能の神かイエスと神の妻か聖母マリア
上部に海と山と空。賑やかす様にニンフと怪物が配置されている。
下部には大地と人々。岩。土。絵画は中心で左右と上下を対称させている。
捻れや湾曲の美しさが無い古典的な構図だ。


たとえば、なにかの理由で落ち込んでいる人物が居る。
彼を励ましたい。だから頑張れと声を掛ける。
これほど直接的で個人の感情を無視した言葉もない。
意志の疎通の在り方として陳腐だ。


だが、どうやら、
その古くさいこと、ありふれていて、つまらない方法こそ
役に立つ場面もあるらしい。
ダ・ヴィンチは笑う。1人声を上げて笑った。
まったく笑えるし笑えるし面白いし笑える。


工房を照らすステンドグラスの陽を見れば、
時刻が正午前だということが判った。
白布をずっと見続けていたダ・ヴィンチの目に透明な光は新鮮だった。
それから彼の視覚は再び白い帆布へと向かう。
開け放たれている木製の窓の縁に、
くちばしにオリーブの実を啄んでいる白い鳩が止まっている。
だが彼は鳩に気がつかない。
鳩は静かなこの空間に一時の安息地を見つけた様だ。
羽を畳み、時折クビを小さく傾げる。


辺りは静かで、ダ・ヴィンチの耳には教役者の説教が小さく届いている。


旧約聖書内、箴言24章16節。
正しい者は7たび倒れても、また起きあがる、
しかし、悪しき者は災によって滅びる。
17節、あなたのあだが倒れるとき楽しんではならない、彼のつまずくとき。
彼の聴覚はそこで途切れる。後には無音が支配する。


ダ・ヴィンチは椅子から立ち上がって間近な距離で帆布と対当する。
そして画家は使い慣れた道具を手に取った。


これまで積み重ねて来た人生の経験と
嘘偽りない知識と数千の夜を越えた鍛錬の結果を今、嘘に託す。






      化学式;C8 H11 N
      SMILES記法:C1=CC=CC=C1CCN 


     (天然由来の有機化合物の中で塩基性を示す
      アミノ基を1つだけ含む神経伝達物質
      フェネチルアミン)   






《         》 


帆布に地塗りをして下地を作る。
彼が油彩具に望む発色具合になる様に塗り方と量を調整する。
木炭で下描きをして描かれる物の大きさを調整する。
色調の変化と濃淡を決める。


画家は絵の具の作り手でもある。
自分や弟子が天然の素材から作った顔料を
彼は油で溶かして油彩具にしていく。
同じ色を作ろうと思っても素材によって顔料の彩りは大きく変わる。
混合の具合によって輝が変る。顔料は溶く油によって表情を変える。
時に筆で時にパレットナイフで帆布に絵具を塗って行く。
その動きは速く遅い。機敏で鈍重だ。筆の速度に変化をつける。
薄く塗る所。高く盛る所。絵具の凹凸で光の反射を操る。
腕は大きく跳躍し、指先は繊細に震える。
細かい所と大胆な場所を1つの絵画に両立させてゆく。
その動作は偏執狂的なまでに神経質、かと思えば無関心の様に大雑把だ。


朝が過ぎ夜を越え、再び朝を迎える。
3日間描いて、3日間食って寝る。
描く3日間、ダ・ヴィンチは眠ることも食事をする事もなかった。
寝る3日間、ダ・ヴィンチは絵を描く事をも見る事もしなかった。
その日々を繰り返す。
繰り返して反復して積み重ねて1枚の絵画は完成に近づいていく。


その結果、帆布と対面する時。
彼の喜怒哀楽は消え去り自己表現は完全に消滅する。
いまダ・ヴィンチの全て、頭の先から足の先まで、
全ての器官が筆と繋がっている。
骨と筋肉と神経が彼が握る筆を踊らせている。
呼吸の1つ1つが筆の毛1本1本を揺らす。



彼の知識は知っている。
ゼウスとヘーラーの表情と外観を。
彼は以前、アポロドーロスが書いた
ギリシア神話を包括的、系統的にまとめたビブリオテーケーを読んだ事がある。
彼の鍛錬は知っている。
エスとマリアの特徴を。
彼は旧新聖書、外典含むキリスト教に関する文章を読み込んでいた。
彼の生活は知っている。
ゼウスとヘーラーと折衷するイエスとマリアが纏っている衣の色の意味を。
熱心な師、ヴェロッキォからそれを現代絵画の基礎として教わっていたのだ。
彼の完璧主義は知っている。
エスとマリアが纏う赤と青の詳しい色彩を。
新約聖書には含まれない今では説教にも使われないような
外典に書かれていたのだ。
彼の目は知っている。
荒波の激しさを。
彼が暮らしたフィレンツェにもヴェネッツィアにも海があった。
彼の親交は知っている。
ギリシアや半島周辺の波の性質を。
酒場で貿易商人達と海の話しを肴に酒を飲んだ事がある。
彼の知性は知っている。
神話が成立する紀元前の海面の状況を。
古代ギリシアの詩人アイスキュロス著作のアガメムノーンには
紀元前のトロイア戦争の海戦が描かれている。
彼の視覚は知っている。
怪物ケートスがクジラだという事を。
現代にも残る古代ギリシアの壷にはケートスが多く描かれている。
多くの学者がそれをクジラだと認めている事を知っている。
彼の知力は知っている。
ケートスに突き刺さる槍の形状を。
紀元前の武器に関しては人類最初の歴史家である
ヘロトドスの著書である【歴史】が詳しい。
彼の異性愛は知っている。
ゼウスとヘーラーにひれ伏す海のニンフの美しさを。
彼は今まで、リザを初めとする美しい女性達と身体を重ねて来た。
彼の同性愛は知っている。
ゼウスの肉体の美しさを。
彼はそれだけ男を抱いて来た。
彼の書棚は知っている。
火山の火口の形状を。
西暦1世紀はローマの政治家、
ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスは
ポンペイを襲ったヴェスヴィオ火山の描写を今に残している。
現代では書簡集としてそれを読む事が出来る。
彼の想像力は知っている。
雲の切れ間から指す太陽光の美しさを。
彼が見て来た空模様の中、
美しい物だけが纏められ合成され今や心の中にそれは描かれている。
彼の感情は知っている。
人が人を優しい視線で見る感情を。
両親や友や弟子達の事を考える。
彼の職業は知っている。
強い意志が籠る視線を。
彼はありとあらゆる事を絵画で表現する為に
何物からも目を反らす事の無い意志を持っている。
ダ・ヴィンチの愛は知っている。
絵画に描くべき簡単には表す事が出来ないような
他者に対する言葉に出来ない不明の感情を。
思い出すのは愛する人サライ・カプロッティの事。


数週間、筆は走った。
絵画は完成した。


彼は喜びも笑いもしない。
筆を白布に初めて付けたとき、完成する事が見えていたからだ。
ただ、沸々と微弱に沸き上がる満足感はあった。
完成する事が分っていた物を思い通りに完成させるのにも満足は在るものだ。


完成しても絵画には勿論、彼のサインが入っていない。
だが、僅かな彼の自己主張。
彼にしか分らない方法でこの絵画にはサインが掘られている。


まだ最後の仕上げが残っていた。
絵画が完全に乾いた所で、
新品の作品を古く見せる為の加工をしなくてはならない。
彼は松脂が染込んだ松の樹皮を焼いて煙のヤニを出す。
絵画をこの煙に晒すと汚れて古ぼけさせる事が出来る。
彼は真新しい絵画を5秒間だけ眺めてから煙に漬けた。


加工は終わった。新鮮な絵画は古ぼけて汚れた。
この絵画をアルドブランディー修道院長に預ける前に
彼にはもう1つだけ、最後にしなくてはならない事があった。



工房を抜けて修道院から抜け出る。
空を見れば月が薄い雲に覆われて淡く輝いている。
久しぶりに歩く市街地を抜けて1軒の民家に辿り着く。
白い壁。バルコニーを飾る花々と地面に向かって足れる蔦。
頑丈そうな木製の入り口扉。彼は手の甲で扉を2回3回と叩く。
僅かな時間の後に声がする。彼は名前を名乗る。
扉が開く。そこに住む、夫と妻が顔を出した。
出て来たのは何時かの夜、彼とアルドブランディー修道院長が
争いを止め心をなだめた夫婦だ。
居てくれて良かったと思いながら彼は夫婦に挨拶をする。
2人は挨拶を返す。妻の頬には殴られた跡は無く、
夫の目は涙に滲んでいる訳ではない。


彼は夫婦にある頼み事をした。
夫婦は快諾する。夫も妻も彼には感謝していた。
夫婦は彼の案内のまま宅を後にして夜道を歩く。
暫くして辿りついたのはセルビ・ディ・マリア修道院
その中にある彼の小さな工房だ。


彼は夫婦に完成した絵画を見せた。
1組の男女はその絵画を眺める。
彼は男女の顔、その瞳の奧を凝視する。
夫と妻は互いの手を胸の前で繋いだ。
彼の目は夫婦の表情を捉える。


ダ・ヴィンチは絵画の完成を確信した。




《やっぱトスカーナ産のワインは美味いわ》


ダ・ヴィンチは頭の上で手を組みながら、
座る椅子の背もたれに体重を掛ける。
そのまま頭を上げて天井を見上げる。
ダ・ヴィンチは自分の故郷が作ったワインに舌鼓を打っている。
やっぱり美味い。


時刻は夜で、白い蝋燭の火が木製の室内を照らしている。
フェレンツェにある自宅の天井は高い。
天井からは彼が設計した空飛ぶ装置が吊り下げられている。
この装置は人の背中に付ける巨大な羽だ。
モデルは鳥だ。


この装置を付けた人間が風の強い日に高い所から
空中に飛び出せば、人は空を飛べるはずだった。
だが被験者がなかなか表れないので、そろそろ自分が実験台になって
飛べるかどうかを試してやろうかと思っている。


例の絵画は夫婦に見せた次の朝、
朝の説教を終えたアルドブランディー修道院長に託した。
それから1週間と数日後が今だ。
今日の昼にはメディチ家のウフィツィの画廊に絵画は展示されているはずだ。
だがダ・ヴィンチはその現場を見てない。
お披露目の初日に顔を出しては
自分が制作者だと名乗っている様なものだからだ。
さすがにそれはマヌケ過ぎるというものだ。


ダ・ヴィンチはワインを飲む。
同じ銘柄なのに絵画を描く前よりだいぶ美味く感じる。
それはダ・ヴィンチが自分の役割、
画家としては出来る事を成し遂げた後だったからだ。と彼自身は思っている。
ダ・ヴィンチは思う。確かに全力を尽くした。
だから夜中、例えば、今だ。
近所から叫び声や怒声が聞こえて来ても二度と仲裁には入らない。
その代わりゆっくりとワインを飲み愛人との時間を楽しむ。
1夜に1度愛人と身体を重ねただけでは満足できない。
何度でも愛人の身体を味わいたい。
その時間を確保する事こそが、例の絵画の目的だった。


安楽かな顔をしやがって
ダ・ヴィンチはそんな気持ちで,
オスマン帝国で作られた柔らかい敷物の上
彼が座る椅子に手首を巻き付ける様にして寝ているサライの寝顔を見つめる。
先程まで身体を重ねていたので2人は裸のままだった。
ダ・ヴィンチは床に這う長いサライの髪の毛を自分の足の親指で絡めとって流した。ダ・ヴィンチは俺の髪の毛より綺麗だなー、綺麗だなーと思って、
小憎らしい気持ちで寝ている人物の頬を足の親指で突いた。


その時、近所から怒声が響いた。仕方の無い事だ。
自分の描いた例の絵画が
たとえ盛大な影響力を持った物であるとしても、
直ぐに効力を発動するという訳では無いのだ。
だからダ・ヴィンチは二度と仲裁には入らないという
誓いと合わせてその声を聞き流した。
優雅にゆっくりとグラスに入ったトスカーナ産の白ワインを飲む。
また悲鳴。次に怒声。
ワインを飲む。悲鳴と怒声。
ワインを飲む。悲鳴。


ダ・ヴィンチは眉間の皺を深める。
さすがにこれは五月蝿い。だが無視してやる。
俺はやる事をやったからなと歯を噛み締めて笑った。
無視しても良いだろ?いいよな?いいんだ。いいんだ!
そこで彼は自分のふとももがくすぐったい事に気がついた。
見るとサライが睡眠から起きていた。彼は師の太ももに顔を乗せている。
サライの柔らかい綺麗な毛がダ・ヴィンチのふとももに触れてくすぐる。
愛人の目が彼の事を見ている。
ダ・ヴィンチにはその目が何かを期待をしている視線の様に感じる。
一方のサライは眉間に皺寄せ歯を噛み締めて笑う師を見て
「先生はまるで獅子や狼になった様な顔をしている」と思っている。


再び悲鳴。怒声。
ダ・ヴィンチは思わず溜め息を付きそうになって、
それを白いワインで胃の奧へと流し込んだ。
愛人の前で溜め息をすることは悲しい事に思えたからだ。
彼は再びサライの顔を見る。1秒、2秒、3秒。
サライダ・ヴィンチを見続けている。4秒、5秒、6秒。
ダ・ヴィンチは腿に乗るサライを退けて立ち上がった。
急な動きに驚いたサライが「ぐぎゃ」と意味不明な声を出して床に倒れた。


彼は口角をあげて苛立ちをかくして愛人に頬笑んだ。
サライ、服を着せてくれ。お前も着ろと言う。
サライは師の事を見上げた。


ダ・ヴィンチはそんなサライ
さぁ俺に早く服を着せてくれよと言って、背を見せて両腕を広げた。






《あとがき》


ここからはお話の後書きの様な物です。
ここまで、このお話をお読み頂きありがとうございます。
嬉しいです。



今回の【底が抜けちまった】は
全盛期ルネサンス期に活躍した画家、学者、発明家にして軍人の
レオナルド・ダ・ヴィンチを主人公としています。
1491年の11月24日に起きた
シチリア王国アマルフィを襲った地震津波
彼はそんな災害と直面して同時代人としてある絵画を描きました。


絵画は当初その題名を【守護】と呼ばれていました。
勿論それはこの絵画を愛した人々が名付けた通称です。
後にこの出自不明作者不明の作品がダ・ヴィンチの筆による物である事が
彼の制作意図と共に発覚します。
その後、絵画は題名を【ダ・ヴィンチの祈りと地震】と変えました。



メディチ家の有するウフィツィの画廊に【守護】が初めて展示された当初、
この絵画の出自はダ・ヴィンチの計画通り、
セルビ・ディ・マリア修道院に保管されていた絵画を
アルドブランディー修道院長がメディチ家に寄付したものと信じられていました。1492年の春から初夏の間の事です。


ですが、ダ・ヴィンチの死後である1552年には
画家にして150人以上の芸術家の伝記を書いた作家のジョルジョ・ヴァザーリが【守護】はレオナルド・ダ・ヴィンチによる作品ではないかとその著書で指摘しています。


ジョルジョ・ヴァザーリラファエロの弟子です。
(本小説に書いている様にラファエロ
 ダ・ヴィンチの同門の兄弟子であるジョルジュ・サンティの息子であり、
 2人は何度も顔を合わせた事があります。
 ラファエロは作品に置いてもダ・ヴィンチの影響をとても受けています)
ヴァザーリの記述によればラファエロダ・ヴィンチの生前から
【守護】が彼の手による作品ではないかと指摘していたと言います。
ですが、それは公になってはいません。
その理由はダ・ヴィンチが【守護】との関わりを否定したからのか、
ラファエロが【守護】に籠めたダ・ヴィンチの思いを汲み取って
公に指摘しなかったからなのかは分りません。






      ソーカル事件


     (ニューヨーク大学の物理学教授ソーカル
      数式や化学用語を挿入した適当な内容の哲学論文
     「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」を書いて
      人文学系(哲学や批評や現代思想)の雑誌に送った。
      デタラメな哲学論文は掲載された。
      掲載された事で当時の人文学者達がこぞって使用していた
      数式や化学用語を当の本人達は実は理解していなかった事が
      公の場に晒されてしまったという学問上の事件)
      アラン・ソーカル アメリカの物理学者
     (1952〜 )
      ソーカル事件
     (1994〜1997或は現在)






ヴァザーリの指摘の後》


その後も【守護】が誰の作品であるのかは多くの芸術家や批評家、
研究家によって議論され続けてきました。
真相が明るみにでる前は西洋絵画史の中でも
最も議論が繰り広げられて来た謎の1つでした。


西洋絵画史の中で議論されて来た謎は数多く在ります。


ダ・ヴィンチ作の【モナリザ】のモデルが誰であるのか?という事。
ダ・ヴィンチと同時に活躍した、
美しい絵画を残しながらもその生涯と作品の真贋が不明な
ジョルジョーネという画家の存在。
オランダの画家フェルメール作の【真珠の耳飾りの少女】のモデルの正体。
スペインの画家ベラスケス作の【ラス・メニーナス】の構図。
宮廷画家であり19世紀最初のジャーナリストでもあった
スペインの画家ゴヤが晩年別荘にこもり、
暗く恐ろしい場面を描く【黒い絵シリーズ】
(かの有名な【我が子を食らうサトゥルヌス】も含まれる)を
描くに至った精神状態。
19世紀後半に活躍したアンチ印象派の旗手
ヴィンセント・ファン・ゴッホの精神的肉体的疾患の有無。
20世紀最初に作られた、
現代芸術の始祖であるマルセル・デュジャンの作品
【彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも】の芸術的評価。


これらと並び、【守護】の作者を特定する事は
美術史に置ける議論の大きな的でした。




《真相》


真相が判ったのは1980年の事です。
この年、フランスはパリのルーブル美術館では
ヨーローパ中に散らばるダ・ヴィンチ作品を集めた展覧会が開かれていました。
その中にはダ・ヴィンチの弟子が描いた絵画の中で
芸術的に素晴らしいと評価されている作品や、
作者不明ながらもダ・ヴィンチの作であるだろうと
議論されている絵画も展示されていました。
【守護】もその1つです。


展覧会の目玉企画として、
ダ・ヴィンチの絵画を科学的検査に掛ける事で
作品の表面には表れない下書や
修正の痕跡を調査し発表するというものがありました。
この企画を命じたのは当時のフランス文化・コミュニケーション省の
長官だったジャック・ラングと
ルーブル美術館の館長であったユベール・ランドです。
作者不明ながらもダ・ヴィンチの作品であるだろうと言われている絵画も調査に掛けられました。


もちろん、【守護】も徹底的な調査が施されました。
【守護】は後述するこの作品が
社会で扱われて来た過程からも注目を受けていましたが、
もう1つ別の意味でもダ・ヴィンチの作品集の中で重要な物でした。
なぜ重要かと言うと【守護】がダ・ヴィンチの筆による物ならば、
ダ・ヴィンチ作の絵画の中で唯一現存する
ギリシア神話をモチーフとした作品となるからです。


ダ・ヴィンチは1508年に【レダと白鳥】という
ギリシア神話のゼウスとレダをモチーフにした作品を描いています。
ですが【レダと白鳥】はダ・ヴィンチ自身の手により破棄されています。
今には残されていません。
故に【守護】は二重の意味で注目されていました。


ダ・ヴィンチは生涯に渡り手稿を書いていた事が有名です。
約40年もの間に書かれた手稿、その中で現存する物には
【守護】の事を指し示していると推測出来る文章が3度程でてきます。
共通する言葉は"ギリシア神話モチーフ"と"巨大な絵画"という言葉です。
【守護】のギリシア神話をモチーフとしており、
大きさも204×198センチメートルという巨大な絵画の為、
その双方に当てはまります。



【守護】は赤外線、X線、紫外線検査によって精密に調べられ、
間違いなくダ・ヴィンチの筆による作品である事が判りました。






      態度が形になる時


     (フリーランスのサーキュレーター(学芸員、専門家)の
      先駆者ゼーマンが最初に企画した展覧会の題名)
      ハラルド・ゼーマン スイス人のフリーランスサーキュレーター
     (1933〜2005)






《理由はサイン》


【守護】がダ・ヴィンチの作品と認められ理由はサインです。
表面には一切サインが描かれていないこの無記名の絵画は
実は隠された所に制作者の名を刻んでいたのです。
絵画が描かれるキャンバスは、通常素の状態の上に
地塗りをして絵具が付着し易い様にします。
その上で下書をして、それから実際の油彩具で着色していきます。
そして完成すると、絵画の右下にサインを入れます。


ですが【守護】に描かれたダ・ヴィンチのサインは、
下書をした段階でキャンバスにパレッチナイフで
薄く目立たぬ様に掘られていました。
その上には油彩具が凹凸を付けて塗られる事になるので、
サインは一切表面に出てきません。
絵画の下地にダ・ヴィンチのサインが描かれている事は
赤外線を使った調査で判明しました。
その後サインを筆跡鑑定に掛けた結果、
ある時代のダ・ヴィンチのサインと完全に一致しました。
これこそが【守護】がダ・ヴィンチの作品と認められ理由です。



同時期、バチカン市国ローマ教皇庁が管理運営する
バチカン図書館に収められている教皇クレメンス8世の手記が公開されました。
この手記は言わば日記帳のような物です。
教皇クレメンス8世とは本小説に登場したアルドブランディー修道院長の事です。小説の時代にはまだフィレンツェにある修道院の長にして司祭枢機卿という立ち場ですが、後にローマ教皇に選出されます。
因に作中にある様にクレメンス8世は珈琲に洗礼を施しています。


クレメンス8世の手記は教皇修道院長であった時代から書かれています。
そこには【守護】がダ・ヴィンチの作品であるという事や、制作の理由。
ダ・ヴィンチの行動などが細かく書かれていました。
教皇クレメンス8世の手記、ラテン語で書かれています。
バチカンに保管されているラテン語の文書や重用な文章や書物は
以下の2つで観覧する事が出来ます


バチカン図書館のオンラインカタログ(イタリア語)
http://www.vaticanlibrary.va/home.php?pag=cataloghi_online
IBMバチカン図書館蔵書の電子図書化プロジェクト(英語)
http://www.research.ibm.com/journal/rd/402/mintzer.html


下書きに掘られたサインとクレメンス8世の手記を持って、
絵画の真贋と制作の理由が詳しく判明しました。
【守護】と呼ばれていた作者不明の絵画は
これを持って【ダ・ヴィンチの祈りと地震】と呼ばれる様になったのです。


因に、サインは絵画の上部左側、
火口は見せているが噴火はしていない火山の中央に描かれていました。
通常、右下に描くサインがこの位置に在る事の意味は、
現代でも様々な評論家や芸術家により論じられています。




《絵画の評価》


さて、では【ダ・ヴィンチの祈りと地震】の実際には
どう評価されてきたのでしょうか。


メディチ家の有するウフィツィの画廊に展示された当初は
まさにダ・ヴィンチの狙い通りの評価を得ています。


この時代、知識層である貴族や人文学者はもちろん、
貿易商人や学問を学んだ一市民が様々な手記を残しています。
その中には生活や仕事の記録の他に
鑑賞した絵画や書物の感想も書かれていました。。
同時代のフィレンツェで暮らし【ダ・ヴィンチの祈りと地震】を鑑賞した
医師であるエウセビウス・ヴェルチェッリは
「この絵画は人々の心を落ち着かせ
 困難に立ち向かう闘志を沸き起こさせる物だ」という文章を
自らの手記に残しています。。
メディチ家の銀行に勤めていたランドという名前のみが判明している男は
「何度見ても落ち着く。目の前から離れたく無い」と書いています。
ローマ生まれの靴職人ピエトロ・マルティノ・ボカペコラ
「絵画の前に人集りが途切れた事は無い」と手記に残しました。


廷臣の息子であり自身も役人として働き、
ウフィツィの責任者を任されていたヨハネス・パレオロゴスも
ダ・ヴィンチの祈りと地震】の事を残しています。
彼が書いたウフィツィの日報には
「あの作者不明の絵画の人気は凄まじく、
 公的な用事でウフィツィを
訪れる物よりも絵画を観る為に画廊へやってくる人々の方が多い。
 しかし、それも判るというものだ。
あの絵は天災で衰えた我々の心を励ます」とあります。




ダ・ヴィンチの死後》


この様にダ・ヴィンチの目論み通りの効果を発揮した
ダ・ヴィンチの祈りと地震】ですが、
絵画が本当の力を発揮するのはダ・ヴィンチの死後の事でした。


イタリア半島は度々大きな地震に見舞われています。
1491年のアマルフィ地震の後には
1559年にアブルッツォを地震が襲っていますし、
1612年にはボローニャを中心とした地震被害にあっています。


被災地で暮らす被災者を励ます為に【ダ・ヴィンチの祈りと地震】は
被災地周辺の美術館や画廊に展示される事もありました。


その度に当時まだ【守護】と通称されていた
ダ・ヴィンチの祈りと地震】は注目を受け、
ある種、人々の心の拠り所の1つとなって行きました。






      半分の真実は偽りよりも恐ろしい


     (詩人フォイヒタースレーベンの「警句集」より)
      エルンスト・フォン・フォイヒタースレーベン 
      オーストリアの詩人、医者、哲学者
     (1806〜1849)






《劣化加工の問題》


ダ・ヴィンチの祈りと地震】は完成直後に
制作年代を古く見せる加工が施されている為に状態がよくありません。
加工方法は松脂である事が前述の調査で判明しています。
また絵画完成当時の美術品の保管方法は好ましいとは言えず、
松脂が絵画に深く浸食しています。
絵画が完成した20年後である1510年代には
ルネサンス期の画家ドッソ・ドッシにより早くも大幅な修復を受けています。


ドッソはフェラーラ派と呼ばれる芸術の学派に属しており、
フェラーラを支配するエステ家に仕える宮廷画家でした。
フェラーラルネサンス期に栄えた文化の中心地の1つです。
この時代フェラーラを中規模の地震が襲っています。
ダ・ヴィンチの祈りと地震】はメディチ家エステ家の取引により
フェラーラに移された事が判っています。
ドッソは【ダ・ヴィンチの祈りと地震】の修復を通じて
この絵画に影響を受けました。
そして宮廷画家であったドッソの絵は
フェラーラ派全体に影響を与える事になります。
ダ・ヴィンチは自らの絵画を通じて、被災書の心を励ますだけでなく、
その地の画家にも大きな影響を与えて来たと言うことになります。




《この絵画の、現在の扱い》


ダ・ヴィンチの祈りと地震】はこの様に度々修復され、
様々な土地で公開されてきました。
そしてその度に多かれ少なかれ、その地の芸術に影響を与えて行きました。
忘れてはならないのは、
近年に至るまでこの絵画が作者不明であったと言う事です。
芸術家達はダ・ヴィンチという名前ではなく、
作品自体の素晴らしさを見抜きこの絵画に美学を学んできたのです。


しかし修復を受け保存の状態が改善されても、
時代が経つにつれて松脂の浸食はより深くなっていきます。
近年に入ると絵画の保存の為、【ダ・ヴィンチの祈りと地震】が
公開されるのは少なくなっていきました。


公開されるのはイタリアが大きな地震の被害に見舞われた時です。
近年でもイタリアは大きな天災の被害に合っていますが
その都度、現在は建物全体が完全に美術館となった
ウフィツィなどで展示されています。


それとは別に、
地震津波の被災者の守護聖人であるグレゴリオス・タウマトゥルゴス。
聖人歴におけるグレゴリオスの記念日である11月17日の前後数日間も
ウフィツィ美術館で【ダ・ヴィンチの祈りと地震】が公開されています。
この絵画を見たいのならばこの時が一般的なチャンスという事になります。




《実体験》


僕は【ダ・ヴィンチの祈りと地震】の実物を見た事があります。
実はそれは偶然なのですが。


鑑賞したのは勿論フィレンツェです。
僕は当時勤めていた日本に展開する某イタリアンレストランの
フィレンツェ本社で数週間、研修を受けていました。
因に、後にも先にも僕が海外に行った事があるのはこの時だけです。


慣れない海外生活で忙しくも充実した日々を過ごす中
休日にウフィツィ美術館を訪れました。
なんと偶然、
その日が正に【ダ・ヴィンチの祈りと地震】の公開日だったのです。
本当はボッティチェッリの【東方三博士の礼拝】が目当てだったのですが、
僕の目は【ダ・ヴィンチの祈りと地震】に釘付けになってしまいました。
時間の都合でこの絵画を観る事が出来たのはこの1度だけですが、
今でもあの衝撃は心に焼き付いています。
それから日本に帰国して、人生を生きて行く中で辛い時期もありましたが、
ダ・ヴィンチの祈りと地震】が
その時の心の支えになったのは間違いありません。


この様な経験もあって今回は
ダ・ヴィンチの祈りと地震】に関するお話を書きました。






      信頼と嘘
      刺激と安定の両天秤


     (世界で最も影響力のある投資家ウォーレン・バフェットの師であり
      教師的な株式投資家であるフィリップ・フィッシャーの言葉)
      フィリップ・フィッシャー アメリカの株式投資
     (1907〜2004)






《今作のダ・ヴィンチ


今作の主人公レオナルド・ダ・ヴィンチは、
普通彼が映画や小説で描かれであろう性格とは
別の物になるように狙って性格の設定をしました。


有り体に言うと型破りな天才や
この世の真実を知る思慮深い哲学者というダ・ヴィンチではなくて、
ちょっと面倒くさいところもある不良中年ですね。


今回、ダ・ヴィンチをそう言ったキャラクターにした下地は
ロシアのサンクトペテルブルク美術大学映像学部の
准教授 Лжец.Абаев(ルジュツ・アバーエフ)が書いた
論文を元にしています。



その論文とは、
「То, что "Шерлок Холмс" и "продолжение",
 работа британского режиссера Гая Ричи.
 Методология сделать так плохо,
 героя, который используется там. sура.」
(イギリス人映画監督ガイ・リッチー作品「シャーロックホームズ」と
 その「続編」で使用された主人公を不良として描く方法論。
 歴史的人物、または架空の人物をそれまでとは違う不良として描く事)(2012年)


の事です。


The National Library of Russia Electronic Catalogues
http://www.nlr.ru:8101/eng/opac/
上記のURLはロシア国立図書館の蔵書目録です。
1989〜1997年までの学位論文は”Dissertation Abstracts”
で、1998年以降の学位論文については”Current Books in Russian”で
検索することができます。




《不良のホームズ》


ご存知の方も多いと思いますが、
小説家アーサー・コナン・ドイルの探偵推理小説群を元にした
ガイ・リッチー監督の映画「シャーロック・ホームズ(2009)」と
続編「シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム(2011)」では
それまである種紳士然として描かれて来た
世界で一番有名な名探偵シャーロック・ホームズ
クレイジーな不良中年と描く事で新鮮なホームズ像を提供して
映画の人気を呼びました。
ルジュツの論文ではこの事を方法論的、技術論的に分析しています。


この論文を元にして
今作「底が抜けちまった」の不良中年としての
ダ・ヴィンチ像を創作しています。


論文では歴史的な人物や架空の人物をそれまでとは違った
不良として描く事の方法と
作品に与える効果を細部に渡り詳細に検討しています。
この論文の御陰で今作を作る事が出来ました。
論文の作者であり、拙いロシア語でありながらも幾つかの質問に答えて頂いた
ルジュツ・アバーエフ サンクトペテルブルク美術大学准教授に
感謝を捧げます。




《最後に》


それでは最後になりますが、
ここまでこの物語を読んで下さった皆さんに感謝します。
お楽しみ頂けたのならば幸いです。






      十分に終わりのことを考えよ
      まず最初に終わりを考慮せよ


     (ルネサンスの画家にして発明家ダ・ヴィンチの手稿に
      書かれている言葉)
      レオナルド・ダ・ヴィンチ フィレンツェの芸術家、発明家
      地形学者、植物学者、外交官、解剖学者、数学者、万能人
     (1452〜1519)






〈底が抜けちまった/おわり〉


前編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130405/1365173628
中編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130415/1366044153
後編;本文









.

【短編小説】底が抜けちまった(中編)


前編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130405/1365173628
中編;本文
後編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130417/1366177435





      物語は肉体を纏う
      頑強を求めるならば5つの柱が必要になる
      構造 主題 筋書き 細部 暗喩


     (フランスやイタリア半島に伝わる民間伝承を元にした
      叙事詩「モルガンテ」の作者であるプルチの言葉)
      ルイジ・プルチ フィレンツェの人文学者、詩人
     (1432〜1484)






《ブルチと同じ考えに行き着いたな》


サライにはもう1つの意味がある。
意味というよりも物語と言った方が正しい。


ダ・ヴィンチがジャン・ジャコモ・カプロッティに
サライと言う新名を付けるより以前に、
サライという言葉を使った男がいる、
それがルイジ・プルチだ。


フィレンツェでのダ・ヴィンチを支えるパトロン
メディチ家の家長であるロレンツォ・メディチ
プルチは庶民派作家でありながらも、
ロレンツォの父ピエロ・デ・メディチの代からメディチ家
外交官として起用され、知恵者として内政にも力を貸していた人間だ。
ロレンツォがローマ教皇を2人も輩出している名家オルシーニ家の
子女クラリーチェ結婚する時には、催し物として、
ジョストラ・デッラ・クインターナ、馬上槍突き祭りを企画している。
優勝者はロレンツォだった。


ダ・ヴィンチと同世代の画家、
ドメニコ・ギルダンダイオは宗教画を描く際に、
登場人物を身近な人物から取って来ている。
身近な人物とはメディチ家とその周辺の人々だ。
フィレンツェはサンタ・トリニタ教会の礼拝堂、
その壁画や祭壇画として
【聖フランチェスコ伝】を描いたのがギルダンダイオだ。
絵画の中の登場人物としてメディチ家の人々と並ぶプルチも登場している。
ルイジ・プルチは当時その程度までにメディチ家の中核に食い込んでいた。


ダ・ヴィンチはその絵画【聖フランチェスコ伝】をみた事がある。
パトロンであるメディチ家の人物を登場させる手法は
ギルダンダイオの他にも工房の先輩であるボッテッチェッリや
その他の色々な画家が取り入れている。
彼は自分の作品にそういったやり方を取り入れようと思った事はないが、
絵画自体が美しい物ならばそれも良いものだと感じている。
宗教画であるのにも関わらず、現代の人物を入れる事で
神聖の中に世俗性や親しみやすさ楽しみが加わるからだ。
そういった絵画をみる度にダ・ヴィンチ
それにまぁパトロンへのおべっかは必要だよなと
優しく苦笑する事にしている。


そんなプルチは1481年に、
中世の宗教的物語と民間伝承が合わさった言い伝え、
ある巨人伝説から1冊の物語を作り上げ出版した。
それが全28章に及ぶ叙事詩【モルガンテ】だ。


モルガンテの主人公はオルランドとモルガンテの2人だ
オルランドは聖剣デュランダーナを操る。
デュランダーナはその柄に聖ペトロスの歯、
聖バシリウスの血液、聖ドニの髪の毛、
聖母マリーアの衣服の切れ端を収めた伝説的な聖剣だ。
一方のモルガンテは巨人だ。
モルガンテは物語の初めは敵対者だが、キリスト教に改宗して仲間になる。
そんな2人を中心に据えた物語がプルチのモルガンテだ。
2人の活躍と心の動きが物語られている。


モルガンテの中にはサライと言う単語が一回だけ出現している。
そこで使われたサライの持つ意味は、女の悪魔だ。




《やっぱり名前に意味を託す意味はあるよな》


ダ・ヴィンチがプルチのモルガンテを
初めて読んだのは1940年に入ってからで、
サライ・カプロッティと出会う前だった。


モルガンテには悪魔を表す言葉として
サライの他にもディアボロやデーモンが使われている。
すべて同じ章の中で使われている。
それは全28章中の第21章だ。


叙事詩モルガンテは28章立てで
それぞれの章が8行詩の節で物語られている。


第21章、第44節にはディアボロが第7行目に
 Ella aveva Aldinghier ghermito in modo,
 Che sare me abbracciare un orsacchino,
 E portando a forza, e tiello sodo,
 Orlando gli ponea le mani al crino,
 Ma non poteva ignun disfar tal nodo,
 E Aldinghier gridava pur meschino.
 Io credo che'1 【diavol】 m'abbi preso,
 E ne lo inferno mi porti di peso.


第46節ではディアボロとデーモンが4行目と6行目に登場している。
 Orlando tutto allor si raccapriccia,
 E vede che costei gli dice il vero,
 A tutti in capo ogni capel s arriccia
 Veggendo quel 【demon】 cotanto fiero,
 La faccia brutta affumicata arsiccia:
 Non si dipigne tanto il 【diavol】 nero,
 Quanto ha Creonta la lana e la pelle;
 j E piti terribil voce che Smaelle.


一方でサライが登場するのは、第47節の7行目だ。
 Ella vedeva innanzi i figliuol morti:
 Pensa quanto dolor la misera abbia,
 E come questo in pace mai comporti,
 Massime avendo i suoi nimici in gabbia:
 Poi si ricorda di mille altri torti
 Pur de'suoi figli e per grand'ira arrabbia,
 Come fa 【Salai】 del cadimento,
 Ch' udendol ricordar par s〓 contento.



主人公オルランド
仲間であり魔法の剣フスベルタを操る騎士リナルドはある城に幽閉される。
それはモルガンテの中で語られるオルランドの様々な活躍劇の中の1つだ。




《意味には大抵物語が付いてくるものだよな。
 面倒だが、面倒なのにも意味がある》


城は呪われている。
城は心優しい主と美しい妻のものだった。
主はある王を城に招いた。
王は主の美しい妻に恋をした。
王は主の妻を我がものにしたいと言う欲望を抑えらなかった。
王は兵を動員して奇襲を仕掛け、無防備な主を殺した。
妻は捕われの身になった、美しい妻は嘆き悲しむ。
夫を手に掛けた男に所有される事が妻には我慢ならなかった。


妻は復讐を誓い、生きる気力を得る。
王には自らの領地に残す本妻がいた、間には子も居た。
夫を殺された美しい妻は王の本妻と連絡を取り王の蛮行を知らせた。
王の本妻は恐怖と混乱と嫉妬から心を狂わせ復讐の獣になった。
獣は狂い我が子を殺し調理する、王を騙し、王に子の肉体を食べさせた。
王が自分の子供を自らが食べたと知った時、獣はすでに城にはいなかった。
王はこの状況を導いた主の美しい妻を、怒りと色欲の間で悩んだ挙句に殺した。
妻は殺される瞬間、美しく頬笑んだ。


獣の復讐は終わらない。
獣はかつて自分に求婚を申し込んだ事のある地方の王を味方に付けた。
彼は王の非道な行いを許してはおけなかった。
彼は軍勢を操り、獣の夫である王の城を攻め立てた。
彼は戦争に勝った、王を捉えて拷問に掛けて殺した。
彼は3人の巨人を守護として残し城を去る。
城は獣のものとなり、城と獣の心に平穏が訪れた。
獣は城の本来の主とその美しい妻を同じ墓に丁重に埋葬した。


墓から毎晩毎晩、獣の様な泣き声が響いた。
墓の蓋を泣き声に耐えかねた勇敢な若者が開けた。
鬼が墓から表れ出た、鬼は勇敢な若者を食らった。
鬼は巨体を持ち、巨大な爪を持つ。
鬼は王に身体を犯された美しい妻が死に墓の中、
妻が腐って行く中で生まれ育った魔物だった。
鬼が逃げぬ様、獣は墓の周りを壁で覆った。
鬼が暴れぬ様、獣と城の人々は人をさらい定期的に鬼に差し出す。


オルランドリナルド、2人の騎士が捕われたのはそんな城だった。
だが2人は王の妻と3人の守護巨人、
そして鬼に戦いを挑み敵を窮地へと追いこむ。
だが王の妻は諦めない。


 Ella vedeva innanzi i figliuol morti:
 Pensa quanto dolor la misera abbia,
 E come questo in pace mai comporti,
 Massime avendo i suoi nimici in gabbia:
 Poi si ricorda di mille altri torti
 Pur de'suoi figli e per grand'ira arrabbia,
 Come fa 【Salai】 del cadimento,
 Ch' udendol ricordar par s〓 contento.



 彼女は目の前で自分の息子達が殺されるのを見た。
 あなたは彼女の激しい痛みと苦悶を想像する事が出来るだろうか。
 惨めな女性がどのようにして全ての事に耐えれようか。
 その殺人が彼女の手が自ら行ったものならばどうだろう?
 彼女の息子に対する過ち。
 彼女は【サライ】の様に変貌していた。彼は聴いた。
 新しい言葉によって、彼女の怒りがぶり返すのを。


王の妻は魔法の本と呪文により、
地獄から湧き出るサタンの力をその身に宿す。
オルランドとリナウドはそんな彼女に、
トビト記の悪魔に取り憑かれたサラの姿を見いだすのだ。






      構造と力


     (批評家、思想家である浅田彰の著書名)
      浅田 彰 批評家、京都造形芸術大学大学院院長
     (1957〜 )






《何から何を抽出して、
 何に加えるのかってのが違うがな》


ダ・ヴィンチはトビト記のサラから、
美しい悪魔という部分を抽出して美しい愛人の名前にした。
プルチはトビト記のサラが
自らの手で家族を殺してしまったという部分を抽出して
物語に登場する悲劇の妻に例えた。


同じ物を根源としながらも、
ダ・ヴィンチとプルチ、それぞれ利用する場所は違った。
さらにダ・ヴィンチはモルガンテ以前に
プルチがサライという言葉を使っているのを知っている。



《結局、宗教ってやつはその時々を生きる奴らの考えで色々と変っちまう》


キリスト教の在り方は
ダ・ヴィンチの修業時代である1460年までと、
ダ・ヴィンチが工房を構え独り立ちをした1470年以降では違う。
キリスト教以外の諸宗教、特に魔術と言われる物の捉え方が違ったのだ。


1460年までは民間信仰にと通ずるある種の魔術は
市民や日常生活、民衆文学には受け入れられていた。
生活のすぐ隣りにあったと言っても良い。
すぐ隣りという言葉には魔術実験や神に対する不敬も含まれる。
1470年以降のキリスト教は、
それらを否定せずにある形にしてから受け入れた。


メディチ家現当主のロレンツォ・メデェチの父は
ピエロ・ディ・メディチだがその父はコジモ・メディチだ。
勿論。コジモはロレンツォの祖父にあたる。
コジモはフィレンツェ共和国建国の父としても名高い。


1439年にフィレンツェで第17回目の公会議が開かれた。
公会議キリスト教の教役者が集まり、
教義、教会法、典礼キリスト教に関わる諸処の事を
審議決定する最高会議の事だ。
第17回と言う数字は
フィレンツェ公会議が行われた回数を示す数字ではない。
キリスト教の歴史の中で開かれた公会議の回数を示す数だ。
第1回は325年に現在のオスマン帝国はニカイアで開かれた。


コジモは第17回目の公会議
東ローマ帝国の哲学者プレトンが行ったプラトン講義を聴いた。
以降、コジモは古代ギリシャの哲学者プラトンに関心を示す事になる。
だがプラトンの著作は1つを除いて原文で書かれたギリシア語のまま
トスカーナ語は疎かラテン語にも翻訳されていなかった。
例外の1冊とは4世紀のギリシャ天文学者カルキディウスが
ラテン語に訳したティマイオスだ。だがそのティマイオス
前半の初めしかラテン語に翻訳されていない。


コジモがプラトンの思考に接近する機会を得たのは
1439年のフィレンツェ公会議より20数年後の事だった。
コジモは1964年に死ぬ。機会が訪れたのは死の数年前だ。
メディチ家の待医には息子が居た。
やがて哲学者、教役者、キリスト教神学者となるマルシリオ・フィチーノだ。
フィチーノに語学の才能を見いだしたコジモは
プラトンの著作をラテン語に翻訳する仕事を依頼した。


まず初めにフィチーノに与えられた任務は
ある人物が残した文章をラテン語に翻訳する事だ。
ある人物とは古代神学者、思想家にして魔術師、
プラトンの思想やキリスト教成立以前の神学に影響を与えた
伝説的人物ヘルメス・トリスメギストスの事だ。
ヘルメスが書いた文章をラテン語へ翻訳し終えたのは1963年の事だった。
次にフィチーノプラトン著作集の翻訳に取りかかる。
翌年、コジモは没した。75歳だった。
死後、メディチ家の銀行事業と政治、
文学と芸術と教育の守り手の役割は
息子ピエロ・ディ・メディチに受け継がれた。


フィチーノプラトンの著作を訳して行く中で
周りにキリスト教神学者や人文学者、芸術家が集まり勉強会や会合が開かれていく。その中には亡きコジモの孫、ピエロの息子ロレンツォも居た。


キリスト教の教役者と学者はヘルメスから始まる古代の神学と思考や、
プラトンなどの思想と、自分たちの宗教を折衷させる事に昔から挑戦している。
始まったのは387年だ。


折衷の前史は205年、既に始まっている。
エジプト生まれでローマで活躍した哲学者プロティノスがその年に生まれる。
プロティノスプラトンの思想を再構築する。
著作は残っているがギリシア語で書かれている。
そしてキリスト教神学の中で
もっと偉大な学者アウグスティヌスが354年に生まれる。
アウグスティヌスはプロティウスが作り上げた
新しいプラトンの思考、主義にキリスト教神学者の立ち場から接近した。
そんなアウグスティヌスが放蕩な生活を止めキリスト教に改宗して
洗練を受けたのが、387年だ。


以降約1100年、フィチーノメディチ家に翻訳者として採用されるまで、
キリスト教プラトンの思考、
双方を否定しない形での結合、折衷の試みは続いていた。
しかしフィチーノプラトンの著書をラテン語に翻訳し研究するまで
キリスト教神学者の中で優勢を締めてたのはスコラ学だった。
スコラ学は初めこそプロティヌスが再構築した
新しいプラトンの思想を学問の源流の1つにしている。
しかし1214年生まれのキリスト教神学者、司祭であるロジャー・ベーコン
1225年生まれのキリスト教神学者、修道士のトマス・アクィナス
ある哲学者を再発見してその思想を自らの学問に取り入れた。


プラトンの弟子であり同じく古代ギリシャの哲学者アリストテレス事だ。
結果スコラ学はアリストテレスの思考が中心となった。
つまり、今のプラトンの思考と同じ様な立ち場だ。
アリストテレスの著作もその時までは殆ど翻訳されてはいなかった。


アリストテレス中心のスコラ学は
プロティヌスが再構成した新しいプラトンの主義思考から曖昧な部分を削った。
語られるべき神学的な問題も論理的で厳格な秩序により解明、
決定される事が重要であるとした。プラトンの思考をキリスト教
初めて取り入れた偉大な神学者アウグスティヌスでさえ
新しいプラトンの主義が持つ、曖昧な所を批判していた。


だからこそ、現代においても市井の人々の間では、
厳格な物とは離れた曖昧な物が受け入れられていた。
キリスト教とそれ以外の宗教や民間信仰との境が不明瞭な魔術、呪い的な物の事だ。結局、厳格な秩序では対応出来ない事が多かった。
日常の生活。仕事、恋、金銭、世俗的な悩みの全て。
それらを支えたのは厳格で秩序立ったスコラ学中心のキリスト教には無い、
諸処の願いと祈り、厳格な秩序と言葉だけでは解決出来ない悩みへの祈り、
つまり魔術だった。


スコラ学は時が経つにつれて学問的な側面が重視され、
形式と物事の証明こそが思考の中心となった。
コジモとピエロ、2人のメディチ家の親子と
翻訳者、学者のフィチーノと周辺の神学者文学者芸術家により
取り入れられたプラトンの思想はスコラ学には無い、
魔術的で曖昧で言葉だけでは決して解決出来ない物事の思考も取り入れた。
フィチーノはやがてプロティヌスの著書もラテン語にお翻訳して、
新しいプラトン主義を現代に取り入れた。
ロゴス、一者、愛、プラトニック。そう言った概念だ。
プラトンプラトンに関連する著書が翻訳された事で
その思考は半島全体の諸処の国家に急速に広がった。


結果として起こった事は厳格な秩序から解き放たれた人間の可能性と、
言葉にはできない神秘の体験と感情の肯定だった。
故に、翻訳者フィチーノ以降、
言葉を持たない音楽や絵画、
人間個人の感情を描く人文学は隆盛を極める事となった。


神学者古代ギリシャの哲学者プラトンの思考をキリスト教に取り入れた様に
画家はギリシア神話の神々をキリスト教の天使や聖人と折衷させて描いた。
或は精神や思考、哲学は双方同じ物であるとして描いた。
ここに古代から続くキリスト教以前の哲学と、
現代のキリスト教の折衷が完成した。


しかし、そんな折衷に入らない物もある。
それは悪魔的存在を呼び出す様な儀式や呪いだった。
ギリシャ神話的な神々や祈りはキリスト教に取り入れられたが、
悪魔は違った。悪魔とは現代のキリスト教においては決して祈りを捧げたり
力を借りるべき相手ではなかったのだ。


キリスト教が呪い的なある種の神々や魔術や神秘を受け入れたからこそ、
受け入れなかった存在への締め付けは厳しくなった。
フィチーノ以前は曖昧だった、受け入れて良いものと悪いもの境が
市井においても明確になったと言える。
市井には音楽や絵画や詩、文学も含まれた。



そんな時代の境に生きていた
モルガンテの作者である詩人プルチは窮地に陥っていた。
プルチはある種の悪魔の力を信じていたのだ。
だが、プルチは決して異端な人物だと言う訳ではない。
それまでの一般的な民間人の代表者、
一般的な思考を持つ人間の代表でもあるのだ。
スコラ学中心の厳格なキリスト教を補助する様に
神々と悪魔に対して曖昧な境目を持つ民間信仰
それまでの一般的な人々は信じていた。
そこには新しいと、古いの境目があった。
アリストテレスプラトン。スコラ学と新しいプラトンの思想。
厳格と曖昧。蓄積と解放。
古い秩序と新しい秩序がギリギリで両立し、
今まさに古き秩序が新しい秩序に葬られんとした時だった。


ロレンツォ・メディチとプルチは17も年が離れていた。
プルチにとってロレンツォはパトロンの子息であり、
勉学や美学を教え指導する相手でもあった。
プルチはロレンツォを可愛がり、ロレンツォもプルチに懐いた。
だが、時代の境目に時が突入すると、2人の関係が変化した。
奇しくもピエロ・ディ・メディチが1469年死去する。
息子のロレンツォは20歳にしてフィレンツェを支配する立ち場に立つ。
フィチーノが翻訳した新しいプラトン主義の会合に参加していたロレンツォは
それを政治や市民の生活と芸術、キリスト教に取り入れる事に反対しなかった。



1474年。
2人の仲を徹底的に分つ事件が起きる。
70年代入った段階でプルチは中央であるフィレンツェから外され
フォリーニョ、ローマ、ボローニャへと出向させられていた。
プルチはロレンツォから古い秩序側に立つ人間の代表と捉えられていた。
だがプルチは中央、フィレンツェへの復帰を諦めていなかった。
この時代、メディチ家に起用、重用されていた詩人にマッテオ・フランコが居た。フランコは言わば新しい時代の詩人であった。
対するプルチは古い時代の詩人だ。
プルチが抱く、中央へと戻るのだという希望は、
つまり古い時代の詩や物語を再び復興させるという希望でもあった。


そして2人は争いを開始する。
1974年、プルチ42歳、マッテオ25歳だった。


武器は詩だ。テンツォーネ、相手を罵る喧嘩詩を送りつける。
詩で互いの心と作風と主義思考を殴り合う。
問題はどちらがロレンツォ、メディチ家の加護を得るかであり、
それはそのまま文学、芸術、音楽、教育、宗教、政治が
古いままでいるのか新しくなるのかと言う事と同義だった。


実際は初めから勝負が決まっていた。
ロレンツォは祖父コジモ、父ピエロが作り出していた
新しい時代の眺望を幼き頃から眺めていた人物だったからだ。
言わばこの戦いはプルチ決死の、
初めから敗北が決まっていた最後の戦いだった。
争いは話題になり、2人の書簡だけでは済まなくなる。
プルチとフランコ、それぞれ周囲の者も参戦し、
街角には印刷した詩を張り、バラまき、人々が集う広場で読み上げた。
結果は勿論、フランコの勝利だ。
プルチはロレンツォ・デ・メディチの元を離れる事になる。
古い時代ははっきりと間違いなく明確に負けた。


ダ・ヴィンチは当時20歳だった
ヴェロッキの工房から離れ独り立ちしてから2年後の事だ。
まだまだ新人だったころの彼はもちろん、この争いから目を話さなかった。
ダ・ヴィンチは当時も現在もフランコ側、新しい時代に属している人間だ。
彼が描こうとしている絵画は、
ギリシャ神話の神々とキリスト教の折衷を越えて、
聖人や予言者や聖母を人間として捉えて描く物なのだから
新しい時代の極致とも言える。
だが、彼はこの事を思い出す度に、
時代の趨勢の大きさと時の絶対性を感じて胸がほろ苦くなる。
時代は敗者と勝者を必ず生む、何れはやがて勝者も敗者になる
ダ・ヴィンチがその様な気持ちを感じる数少ない出来事の1つだった。


そんなプルチとフランコ
2人の時代を代表する詩人の詩の殴り合い、
テンツォーネにはサライという単語が出て来る。
詩を書いたのはフランコだ。



 Maggior forza del ciel ebbon gli spirti
 che s'incantorno gi〓 in casa Neroni;
 venti anni stesti sanza confessioni,
 pur salay a confessar fe, irti.


 かつてネローニ家でお前達を惑わしていた悪霊共は、
 神よりも大きな魅力を持っていただろう。
 お前が20年も告解を行わなかったので、
 サライが告解を勧めたのだろう。



プルチはモルガンテを書く以前よりサライを知っていた。
プルチがある種の力を借りようとしていたのは、
トビト記にも登場したサラ、サラリー、サライだった。
ダ・ヴィンチフランコが書いたこの詩を知っていた。


ダ・ヴィンチは後年、当時の事をロレンツォから聴いた事がある。
彼がメディチ家の加護を受け、ロレンツォと知り合った間もない頃だ。
メディチ家の家長は当時の事を語ると苦々しい顔をする。
「プルチは私が10代の頃から魔術儀式にこの世の真実を見いだしていた。
 彼が私に送った手紙にも悪魔や悪霊の事、
 たしか一番多かったのはサラの事だ、そういった事を書いていた物だよ。
 10代の私はそれを純粋に楽しんだが、
 家長となると様々な事を見通さなくてはいけない。
 特に時代の先行き、未来というものをね」
ダ・ヴィンチは普段は穏やかな表情を浮かべているロレンツォの
その顔を珍しいと思ったものだ。


プルチは81年にダ・ヴィンチが所蔵している版のモルガンテを出版した。
そこ出て来るサライは敵としての悪魔だった。
主人公達に力を貸す存在ではない。
物語では主人公であるキリスト教徒の騎士がイスラムの戦士達と争い活躍する。


ダ・ヴィンチはプルチから色々な話しを聴きたいと思う事もあったが、
2人はロレンツォの加護を受けている時代が違う。
そしてこの詩人は1483年にモルガンテの完成板を出版した翌年、
死んでしまった。
新しい時代の極致に属しているダ・ヴィンチだが、
彼はルイジ・プルチを旧い時代と旧い秩序の最後の守り手、
殉教者の様だと思っていた。


こうして、
サライという名前には、また1つの物語と命名者の思いが付与された。




《名前に様々な意味を込めれば
 そこから面白いものも生まれるってものだろう》


だが、ダ・ヴィンチは結局それに意味があるのだろうかと?とも思う。
意味を考えた所でそれが表面に表れる事はあるだろうか、と。
絵画にしたって同じ様な物だ。
名称や絵画に籠めた思いと知識の集合は、
名を呼ばれるものや見る者の心や行動に作用するのだろうか?


ダ・ヴィンチは様々な事を調べ尽くさなければ筆を取る気にもならない
自分の性質を半場諦め気味に笑う時がある。
ダ・ヴィンチはもっと自由に絵を掛けたらさぞ楽しいだろうと空想するときがある。或は時代が経てば本当にそういう社会になるのかもしれない。


聖書に書かれている事、貴族や大商人の自画像と生活、ギリシア神話
それ以外の事が描けるかもしれない社会だ。
聖母マリアの象徴を借りなくても美しい女を描けるかもしれない。
ギリシャ神話に与しなくても裸婦を描けるかもしれない。
地獄の想像を根拠としなくても残酷を描けるかもしれない。
天使に真意を隠匿しなくても少年と少女を描けるかもしれない。
戦場での英雄の活躍を利用しなくとも狂乱と混乱を描けるかもしれない。
師弟の愛に暗喩しなくても同性愛を描けるかもしれない。
有りとあらゆる寓話を捨てて眼に映ったそのものを描けるかもしれない。
神秘体験を描かなくとも人間の心そのものを描けるかもしれない。


でも、どうだ、きっとそうなったら
世界にはどうでもいいどうしようもない絵画が増えて行くだろう。
ダ・ヴィンチはこの事を考える度にそうやって眉間の皺を深める。
今の時代、芸術家は大工や鍛治屋やと同じ職人という地位に並べられている。
工房と師弟制度といった共同体の存在により品質は一定以上に保たれている。
ダ・ヴィンチが思いを馳せる社会にはそれがない。
だとしたら絵画の品質は落ちるばかりではないか。
その世界では絵画の価値はあるのだろうか?
描く事に意味はあるのだろうか?


今の社会で絵画を描くのには、
画家それぞれの精度の違いはあれど
描く対象を丹念に調べ知識として織り込み意味を与えなくてはならない。
それがなく、ただ自分の欲望のままに絵画を描く社会では、
人に見せる事で見た者を神的にあるいは心的に魅了するという意味での
絵画の価値や意義はあるのだろうか?きっとない。


ダ・ヴィンチはそこまで考えた所でこの問題を棚上げする。
結局の所、俺はその社会に生きていないのだから、
そこで絵画を描く奴らの気持ちは分らない。
奴らも今の社会の中で絵画を描く俺の気持ちは分るまい。
それぞれに良し悪しがあるのだろうよ。
ダ・ヴィンチはプルチとフランコの対決を思い出し、
俺も何時かは古くなるのだろうかと言葉にできぬ寂しさを感じる。






      祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり
      沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
      驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し
      猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ


     (藤原行長著の古典文学にして歴史書平家物語」の冒頭より)
      藤原行長 日本の詩人
     (生年、没年不明)






《思考ってのは連鎖しちまうかからやっかいなんだよな》


ジャン・ジャコモ改めサライ・カプロッティに
新名の意味を教えながらも他の事を考えていた自分を
ダ・ヴィンチは嗜める。


彼は自分の思考を中断してサライに、サライと言う単語が持つ意味、
トビト記に登場する美しい女と悪魔のサラ。
アブラム、アブラハムの妻サライ、サラ。
プルチが信じたサライ
続いて更にもう1つの意味があるのだと教える。
それはペルシアの言葉で宿だ。


正確には砂漠をラクダに跨がり
長い長い列を組みながら横断する、商人達が休む宿の事だ。
隊列を休ませる砂漠の中での潤いだ。隊列を止ませる場所だ。
ダ・ヴィンチはなぜ宿という名前が
ジャン・ジャコモに相応しいか更に説く説くと話す。
サライは自分が師から与えられた新名の説明の中で、もっとも深く赤面した。
ダ・ヴィンチは大笑いした。サライはまたしても不満を表明した。




《まったく笑えたよ。おまえってやつは》


ミラノの自宅で寝ているサライの頬を撫でているダ・ヴィンチ
そんな少し前の出来事を思い出していた。
こう云った時間が続くのも悪く無いなと緩やかに欠伸をした。
俺は安心しきっているなと自分の腹を撫でた。
青年の緩やかな髪の毛を手でわさっと半握りにした。
指と指の間に柔らかい毛が入り込んだ。


だがダ・ヴィンチの思いは叶わない。
フランス王のシャルル8世がナポリ王国の継承権を主張し南下を始めた。
ダ・ヴィンチサライが出会った同年、
フランス軍の進路に位置するミラノ公国は戦場の舞台になった。


スフォルツは一旦の退却後、フランス王国の領土拡大を良しとしない
諸国と反フランス同盟を結び反撃に打って出る作戦をとる。
結果、ダ・ヴィンチはミラノでの仕事を解かれる事となる。
仕方の無い事ではあったが、彼はスフォルツォから依頼されていた
夫人専用の風呂を修繕する事が出来ずにミラノを去る事が心残りだった。
ダ・ヴィンチはスフォルツォの口利きで
ヴェネツィア共和国へと逃げる事が出来た。
その時、彼はサライに一緒にヴェネツィアに行かないかと訊いた。
サライは深く頷き彼の手を強く握りしめてその瞳を見つめた。
ダ・ヴィンチサライの汗ばんだ掌の感触を今でも覚えている。
こうしてサライ・カプロッティは正式にダ・ヴィンチの弟子となり
彼の工房へと入る事となる。
1490年、7月24日。
ダ・ヴィンチ36歳、サライ18歳の事だった。


ダ・ヴィンチ一行はヴェネツィアに半年程滞在した。
彼はスフォルツァの口利きで
ヴェネッツィア共和国の元首アゴティーノ・バルバリーゴに雇われた。
仕事は、建築的、地理的側面からヴェネッツィアの街の弱点を見抜き
フランス軍の侵攻に備えて弱点を改善改装する事だった。
ヴェネッツィアでのダ・ヴィンチは軍人だった。


ミラノ公スフォルツァヴェネツィア共和国
教皇アレクサンデル6世や神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、
そしてアラゴン王国と同盟を結託しフランス王国相手に善戦している様だった。
ダ・ヴィンチは毛嫌いしているロドリゴ・ボルジオ、
現在の教皇アレクサンデル6世もこういう時にはしっかりやる物だと
フランス王国相手に戦う教皇の評価を少しばかり回復させた


時折スフォッルツォの使者がやって来て、
彼にミラノの状況を伝えた。
伝わって来たのは、ダ・ヴィンチが作った青銅の像や置物が、
砲弾の材料として溶かされてしまったという事と、
その事を詫びるスフォルツァの言葉だった。


ダ・ヴィンチは若干がっかりしたものの
物よりまずは人命だろうとスフォルツァを責める気にはならなかった。
それにスフォルツォの義理堅い性格を好いていた。
そんな彼を慰めたのはサライだった。
半年経つとシャルル8世は半島から撤退した。
だが、主戦場となったミラノ共和国には芸術家の仕事は少なく、
ヴェネッツィア共和国にあるのは軍人として仕事だった。
彼はミラノ公とヴェネッツィア共和国元首に断りを入れて
故郷のフィレンツェ共和国に生活の場を戻す事にした。


フィレンツェでは相変わらずロレンツォの加護が続いていた。
ロレンツォはダ・ヴィンチに会うと
「大変だったな、しばらく身体を休めるといい」と頬笑んだ。
ダ・ヴィンチは今は自分だって大変な状況なのに
良く言うぜと思いながらもロレンツォの申し出を受ける事にした。


ダ・ヴィンチはそれまでフィレンツェとミラノを
行ったり来たりする生活を送っていた。
だが、サライと出会い、
ヴェネッツィアに避難している間は故郷に戻る事が出来なかった。
それでも彼のフィレンツェにある工房は
弟子達がしっかりと運営をしてくれていた。


ダ・ヴィンチはしばらくのあいだ身体と精神を休めた。
その後に仕事を再開した。
フェレンツェに腰を落ち着けたダ・ヴィンチには
ロレンツォの次男ジョヴァンニ・ディ・メディチ
教育者の役割も与えられた。ジョヴァンニは若く、この時15歳だった。
ジョヴァンニに付く者は沢山居た。
ダ・ヴィンチの仕事は主に美学、そして語学を教える事に限定された。
ジョヴァンニの上には長男ピエロがいた。
長男ピエロは20歳手前であり、
家長を継ぐ時の備え銀行業や外交の実務を積んでいた。
ピエロが10代の頃はダ・ヴィンチと顔を会わす事も多かったが、
彼がフィレンツェに戻ってからはそれが大分少なくなっていた。


サライダ・ヴィンチの工房で働いた。
まだ技術も拙い青年は、
本来は十分な給与を得る事の出来ない立ち場に居る。
だが故郷を捨てた若い愛人が1人で暮らせる様に、
ダ・ヴィンチサライに金銭や物を送ってやった。
サライは師からの贈り物を受け取る事を初めは拒んだ。
だがダ・ヴィンチが誰かから何かを言われたら
俺から盗んだとでも言えば良いだろうと無理矢理に
金銭や物を押し付けるので拒否を諦めて受け取る事にした。


実際、2人の関係に気がついた
ダ・ヴィンチの弟子には文句を言う者もいた。
だがダ・ヴィンチの心は1つ、それがどうしたんだってんだよ?だった。
ダ・ヴィンチの弟子には、
工房に住み込みで働き画家として将来の独立を目指す者も居たが、
商人の子息が教養として美学を学ぶ為に工房にやってくる場合もあった。
後者に限って2人の関係に文句を言うので彼は眉間の皺を深めた。
まったく、好きな男を側に侍らせる事の何処がいけないってんだ?


サライが故郷のミラノ語を自ら禁じて
トスカーナ語を話す様に勤めたのはこの頃からだった。
つたなく喋る愛人の言葉をダ・ヴィンチは愛おしく思いながらも、
無理する必要はないだろうとも思っていた。
だがサライは「せんせいのおそばに居ても、
はずかしく無いような人間になりたいのです」と言うばかりだった。



その2年後が、今、現在だった。
時代は西暦1492年だ。




《まったく、酒を静かに飲める夜が少なすぎる》


混乱する夫婦の気を鎮めた
アルドブランディー修道院長を送った後、
ダ・ヴィンチは暗い街角でサライの事を思う存分抱き締めた。
それからダヴィンチは不安な顔でなにか言いたげな顔の青年を宅へと帰した。
その宅はダ・ヴィンチが与えた物だ.


ダ・ヴィンチは一人歩き自宅へと戻る。
本来ならば、自宅でサライの寝顔を十分眺めて、
青年が眼を覚ましたらもう一度その身体を抱くつもりだったのが
そんな目論みは夫婦の悲鳴で中断されてしまった。


ダ・ヴィンチは自宅に着く。
1人椅子に座り再び白ワインを飲んだ。
1回グラスに口をつけた所で、外から再び怒声が聞こえた。
先程の夫婦とは違う声色だった。
ダ・ヴィンチは再度天井と吊るされた空飛ぶ装置を見上げた。
1夜に2度も人の家の問題事に首をつっこむ程
俺はお人好しじゃないぞと天を仰いだのだった。


結局状況は数時間前と変っていないな。
天井を見上げたままの格好でダ・ヴィンチはやり切れなさを感じる。
社会状況が悪いのだが、こうも続くと人間の性質も嫌になる。
だが弱い人間がいけないのだと言う気持ちにはならない。
ダ・ヴィンチは人間の混乱がこれだけ続くのならば
それは個々の人が持つ精神や体の強弱に原因があるのではなくて、
人間全体が持っている性質自体が原因なのだろうと考えている。


これから先も夜、静かに酒を飲める機会は訪れそうにないと感じる。
ならば自分で出来る事を全てやってしまおうかとも思う。
きっとそれでも問題は解決しない。
なんせ混乱の規模は一国を遥かに凌駕して半島全体に及んでいるのだ。
だが自分が出来る事をした後ならば、諦めもつくというものだろう。
その時は悲鳴と怒声を随伴曲にして酒を楽しく飲んでやろう。
ダ・ヴィンチはそんな事を考えて声を出さずに笑った。






      自分の持っている道具が金槌のみだと
      すべての問題が釘に見えてしまうものである


     (アメリカに置ける人間性心理学の第一人者
      マズローの言葉)
      アブラハム・マズロー アメリカの心理学者
     (1908〜1970)






《で、俺が出来る事って何だ?》


1491年の11月24日、
ナポリ王国の沿岸部と周辺海域、
地中海であるティレニア海地震が起こった。
揺れ自体の被害は少なかったが、直後に津波が起きた。
被害がもっとも甚大だったのは、
ティレニア海サレルノ湾の上部に位置し海に面する街、アマルフィだった。
地震によって起こった南南東からの波は
かつて半島で最大に栄えた街を瞬く間に飲込んだ。
波は今だに引く事が無く、アマルフィの街の大半を海の底へと引きずり込んでいた。残った陸地は全体の1割り。アマルフィは壊滅した。
多くの人々が溺れ死んだ。


だが、事体はそれだけでは終わらなかった。
人々は半島を見舞った久方ぶりの大災害を経験し
話しに聴き想像して怯えて混乱した。


ある政治家は、この天災は文化が繁栄し豊かになった反面、
人々に多々の価値観が生まれ社会規律や道徳が乱れた現代、
ルネサンスという時代へ神から下った天罰なのだと言った。
ある教役者はこの天災は世界の終わりの始まり、
ヨハネスが新約聖書の最後で予言した黙示録の始まりなのだと言った。
ある学者はポンペイや様々な街が壊滅した、
西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火との関連を取り上げた。
ヴェスヴィオ火山が噴火する17年前、
62年2月5日にポンペイと周辺の地域を大地震が襲っている。
地震と噴火の地形学的な関連は分っていないが、
アマルフィを災害が起こった現代。
その説は人々の耳を惹き付けるのには十分だった。
ヴェスヴィオ火山はアマルフィの北西にあるのだ。


アマルフィの真後ろにはラッターリ山脈が控えている。
過去、この断崖絶壁の山々は
アマルフィに暮らす人々を外敵から守って来た。
だが海から来た津波の前には逃げ場を失わせる壁となった。
アマルフィからラッターリ山脈を抜けると今は滅んだポンペイがある。
ポンペイの北がヴェスヴィオ火山であり、
ヴェスヴィオ火山の北西にはナポリ王国の首都ナポリがある。
首都ナポリからアマルフィまで
地図上の直線では40キロメートルも離れていない。
その中間にヴェスヴィオ火山は佇み、火山はいまだ生きている。


政治家の言葉と教役者の宣言。
学者の説明と過去の出来事。そして地形的な事実。
これだけ揃えば半島にすむ人々に混乱が訪れるのは当然だった。


ダ・ヴィンチはそのどれもが簡単には否定出来ない所が
大変な厄介事なのだと理解していた。
地形学者として知識も有するダ・ヴィンチ
地震と火山の噴火の関連を否定出来ない。
ダ・ヴィンチはこの時代に生きていた者の性として
あまり熱心ではないが神を信じている。
だから世界の終末の訪れや神の力を
例えその可能性が僅かであっても否定出来ない気持ちを理解している。


ダ・ヴィンチが特に神を信じる時は調和の美しさを見た時だ。
人間の身体の胸上部から頭頂部までが身長の1/6、
肩幅が身長の1/4、足の長さが身長の1/6、
そういった固定した数字を備えた時、人体はもっとも美しくなる。
人体以外では、例えば長方形がもっとも美しく見える比率は1対1.618だ。
この世界には美しさを完璧に再現する数字が溢れている。
彼が神を信じるのはそういった美しさが
自然や人間の中に見いだす事が出来るからだ。
だからダ・ヴィンチには神の力や終末を信じる人間の気持ちが理解できた。
まったくもってやっかいな事だ。


諸国に暮らす人々はそんな未来と終末に怯えて混乱した。
政治家にも教役者にも学者にも様々な説を唱える者が溢れていた。
根拠の無い話しも多かった。
事実の有無に関わらず噂は人々の声に乗り
社会の状況をより悪化させた。


まず経済が停滞した。
未来がどうなるか判らない今、人々は出資を控えた。
先の状態が判らないのに旨い物を食おうと思ったり、
新しく家を建てようという気持ちになる奴は少ない。


次に、いさかいが多くなった。
家庭や職場での争い、信頼の欠除の表明。
公共の場や酒場でのもめ事。
良い未来が見えない事で増加する犯罪率。
信じるものと愛を無くした者の自死
混乱に乗じた大陸の国々の軍事的キナ臭さ。


更に、出自不明の自称予言者や占い師や呪い師、専門家の出現。
天災が起こる前に耳に心地よい言葉を放っていた者達の沈黙。
国の繁栄や人文学的人間の可能性を公に言い放っていた者達の殆どが
この事体に及び腰になり自分が過去放った言葉には責任がない様に振る舞った。


ナポリ王国の統治者フェルディナンド1世は半島の
諸処の国民から非難された。
非難は主に、なぜアマルフィに水害の対策を十分に施してこなかったのか?
なぜ噴火するかもしれないヴェスヴィオ火山に対して
何らかの行動を起こしていなかったのか?という物だ。
ダ・ヴィンチの目から見ると、
非難している者達の殆どがついこの間まで
ナポリ王国と半島の諸国がフランス王シャルル8世の侵略戦争
対抗して居た事を忘れているようだった。


実際の所、フェルディナンド1世はアマルフィを含む
ナポリ湾やサレルノ湾で海に面する街には水害や治水の対策を行っていた。
しかしそれは十分でなかったのも確かだ。
だが政治家も学者もそして国民も誰もが
平時の過去には地震津波の被害規模を想定し、
更なる対策を訴えて来なかったのだ。


ヴェスヴィオ火山に関してもフェルディナンド1世は
周囲には大きな街を建てない様はしていた。
だがナポリ王国の限られた領土ではそれも限界があった。
領土は無限ではない、人は危険な土地であっても
そこで生まれ育たなければならない。
首都ナポリをいまさら領内の別の場所、
火山から離れた所に移転する事も不可能だった。
地震が起こる以前、首都移転に掛かる費用を国民が許すはずも無い。


それに首都であるナポリは半島の北に位置するフランス王国スイス連邦から
ミラノ公国モデナ公国ルッカ共和国フィレンツェ共和国と通り、
シエナ共和国、教皇領内のローマへと
一直線に半島を南へと下る直線上に並んでいた。
ローマの次ぎがナポリだ。それは諸処の国との商業上大切な事だった。
また首都をヴェスヴィオ火山を越えた位置に移転させる事は、
中央政治からナポリ王国が遠退く事を意味している。
ナポリに生きる政治家も教役者も商人も、そして国民も、
平時の過去にあってはそれを許すはずが無い。


そんな様々の事情の中、半島に建つ諸国の外、
海外へと逃げ出す人間も居た。
場所はフランス王国神聖ローマ帝国アラゴン王国だ。
市井の人間は親戚が海外にいないと逃げる事は難しい。
半島から逃げた人々の中で目立ったのは政治家、教役者、金持ちの商人だった。
政治家はフランス王国神聖ローマ帝国へ、
教役者はキリスト教の力が強いアラゴン王国へ、
商人は貿易の相手であったオスマン帝国へと逃げたのだ。


非難と不信、そして逃亡により
国々を動かす人々を失った半島は混乱を加速させた。
政治家、教役者、学者、その他の人々。の言葉。
混乱。不安。恐怖。がもたらすいさかい。噂と風評の流布。見えない未来。
これだけ揃えば、人間達がその性質と本性を暴露させるには十分だった。



ダ・ヴィンチはこう思う。
国と共同体、社会と人間自身の底が抜けちまった。
なんせ全て水と消えちまった。
威勢のいい事ばかり言って奴に限って速攻で逃げちまった。
疑心暗鬼になる巷。誰もが内心しまった。と思っているに違いないと。
酷い事態で非常事態で非道な人間の痴態だ。


もちろん、混乱もせずに逃げだしもしない人々も居た。
そういう人々は為政者や一般市民にも居る。
メディチ家の人々は逃げださない政治家であり、
アルドブランディー修道院長は逃げださない教役者だ。
少しは見直したもののダ・ヴィンチが未だに嫌っている
アレクサンデル6世ことロドリゴ・ボルジアもローマに居る。
彼の元雇用者であるスフォルツァもミラノの平定に勤めている。


そんな状況でダ・ヴィンチ
彼らに並び自分に何が出来るだろうかと考えている。




《折衷点が大切かな》


自分に出来る事だけで考えると、
思考はどん詰まりになりいい行動はできんよなぁと
ダ・ヴィンチはご近所の何処からか聞こえて来る怒声を耳に入れる。
夜はすっかり更けている。
自分が出来る行動の範疇を越えた最大の功績を上げられる行動。
自分が出来る範疇の中で最大の功績を上げられる行動。
その折衷点は何処だろうかとダ・ヴィンチは考える。
彼は雑念を清め洗う様に、喉頭に白ワインを浴びせる。


自分に出来る事、
画家、政治家や教役者との繋がり、僅かばかりの知識と思考。
酒を静かに飲む為に必要な事。社会の混乱を収める行動。
なぜ静かに酒が飲めないのか?ご近所さん方が五月蝿いからだ。
ご近所さんとは誰だ?逃げださない、或は逃げられずに
フィレンツェにとどまる一般市民の事だ。
一般市民が五月蝿いのはなぜだ?心を襲う混乱と恐怖のせいだ。


つまり、一般市民の恐怖と混乱を治めてやれば静かに酒が飲める。
だが今日の様に一軒一軒回って説法を噛ますのは効率が悪い。
と言うか、アルドブランディー修道院長が疲労で倒れてしまうだろう。
それにそう言った方面では半島に残る教役者が行動を起こすだろう。
何より教役者の言葉には人々の耳を傾けさせる信頼がある。
今のダ・ヴィンチはそれがない。
それは宗教の歴史と言う重みが成せる技だからだ。
まだ、新たな法を敷き対抗策を打ち出し未来に供える。
そういった大々的な行動は行政に関わる為政者の役目だ。
いくらダ・ヴィンチに知識があり、
人脈があろうともその仕事は彼の物ではない、政治家の物だ。
現代で政治を行うのに必要なのは血脈と家柄だ。
家柄がないのならば、深く政治家達と付き合い
助けを乞うに足りる知恵者として認識されなければならない。


ダ・ヴィンチは芸術家として、
または地形学者や建築設計者や装置の開発者と
ある種の軍事的考案者としては認められてはいるが
内政官として政治家達に認識されている訳ではない。
勿論、ダ・ヴィンチはそう言った面でなにか良い案が頭に浮かんだのならば
繋がりが在る政治家に伝えようとは思っている。




《結局、絵画かな》


そこまで考えたダ・ヴィンチ
最大の功績を導く行動と自分が出来る行動の折衷点を見つける。
それは随分と悠長な方法だった。


どのみち、1人で出来る事なんてたががしれている。
脳に空気を送る様にダ・ヴィンチは大きく欠伸をする。
もしサライがこの場に居たのならば彼の様子を見て
先生は獅子や狼の様に雄叫びを上げていると思った事だろう。


悠長な方法とはつまり絵を書く事だ。
ご近所さんを含む市井の人々の心を落ち着かせる、
或は奮い立たせる様な絵を書く事だ。
あまりにも在り来たりな思考結果に彼は情けなさすら感じた。
結果、笑った。だが声は出さない。
声を出さなかったのは誰もいないのに声上げて笑うのがマヌケに思えたからだ。
サライがこの場に居たら
この状況において師が不敵な笑みを漏らしたと
彼に更に惚れ込んでいた事だろう。


まぁいい、出来る事をしてやろう。
巧くいかなったらそれまでだ。だが、出来れば勝ちたい。
ダ・ヴィンチはそんな思いで自分の腹を撫でた。


次に考えるのは、具体案という奴だ。
どういった絵を書くのか?その絵に何を込めるのか?



考える日数、4日。


ダ・ヴィンチはその間、工房に顔を出さない所か、
一歩も自宅からはでなかった。
考える時には他の全てが邪魔になる。所謂集中という奴だ。
集中とは言わばそれ以外の他の事が出来ない状態を指す。


ダ・ヴィンチは信頼出来る弟子に工房を委せた。
翌日、朝にダ・ヴィンチの自宅を尋ねたサライには
口づけをした後に食事の世話を頼んだ。
それ以外の時は顔を出さない様にも言った。
元からサライにはダ・ヴィンチが呼び出さない限り、
自宅には来ない様にと言ってある。
殊更それを厳重に言ったのは、必要以上に愛人の姿を見て
欲情しては集中も何もあった物ではないからだ。


ダ・ヴィンチは椅子に座り。
部屋を歩き回り。寝床の上で転がり。
紙に文字を書き。目を瞑り。天井を見上げて。考えた。
4日の間よく眠った。夢を見て起きるごとに
新しい考えが頭をもたげ、思考は纏まった。


そして何を描くのか。
描いた絵をどうするのかが決まった。






      それはつまり私の存在には常に一定以上の意味は無い
      だがしかし、嘘と創作には必ず意味が在るという事です


     (ロシアはサンクトペテルブルク美術大学映像学部の
      准教授であるルジュツの言葉)
      ルジュツ・アバーエフ ロシアの芸術批評家、哲学者
     (1985〜 )






《まずは金だ》


経済が停滞し絵画や彫刻の作成依頼が少なくなっても、
自分の生活費を稼ぎ出すのは勿論、
工房に居る弟子にも給与は払わねばならない。
メディチ家の加護を受けているとはいえ、
ダ・ヴィンチには無料奉仕するが如く絵画を描く余裕などはなかった。
絵は、数日で完成する物では無い。



ダ・ヴィンチはここ最近、
フィレンツェはサンタ・クローチェ聖堂の依頼により、
聖ヒエロニムスの肖像画を描いていた。
その状況でもう1つの絵画を描く事は
聖ヒエロニムスの肖像画の制作を中断する事を意味している。
つまりそれは絵画の完成後に得られる成功報酬を
暫くは受け取れないという事だ。


ダ・ヴィンチはセルビ・ディ・マリア修道院の工房にある、
描きかけの聖ヒエロニムスを思った。
ヒエロニムスはアウグスティヌスに次ぐ偉大なキリスト教神学者だ。
ヒエロニムスが生まれたのは西暦340年頃で、
今ではアウグスティヌスと同じく聖人に列している。


ヒエロニムスは
旧約、新約の聖書を初めてラテン語に訳した翻訳者だ。
ダ・ヴィンチが初めて読んだ聖書もヒエロニムスが約したラテン語の物だ。
旧約聖書は原則としてヘブライ語と一部がアルム語で書かれている。
新約聖書ギリシア語で書かれている。
だがトビト記などの複数の物は
旧約聖書に納められていながらもギリシア語で書かれている。


しかしヒエロニムスは聖書をラテン語に翻訳する際、
トビト記などギリシア語で書かれているとされている
旧約聖書内の複数の書をアルム語で書かれた物を底本として
ラテン語に翻訳したと残している。
しかし現代までにヒエロニムスの時代より古い
アルム語で書かれたそれらの書は見つかっていない。


ダ・ヴィンチはいつかそれが見つかると思っている。
旧約聖書で紀元前。新約聖書でも紀元後から数年、
それからヒエロニムスが生まれる西暦340年頃までの間に書かれた
古い聖書の事だ。
ダ・ヴィンチには最古の聖書がある場所の予想がついている。
場所はやはりキリスト教ユダヤ教発祥の地、
エルサレムやヨルダン、つまり死海の周辺だろう。
争いの多かった彼の場所で今だに誰にも気づかれずに
最古の聖書が残っているならば、
それは都市に暮らしていた教徒の物でも教会で暮らす教徒の物でもなく、
自然の中にある洞窟などに隠遁していた宗派の物だろう。
紀元前ならばそれはユダヤ教ファリサイ派から発生したエッセネ派の物となる。エッセネ派は都市での生活を避けて、
荒野の洞窟で集団生活をしていた事で知られる宗派だ。
ダ・ヴィンチは何処かの教会なり何処かの国の諸公が死海周辺の洞窟を
調査する事を命じればすぐにでも最古の聖書が見つかると思っている。
だがしかし現代までに死海周辺の荒野を調査した人間はいない。


ダ・ヴィンチは新しい事実が判明する事に期待しているのだ。
聖書に書かれている事の中で、不明瞭な事は沢山在る。
もしそれが分るのならば、もっと精度の高い絵画を描ける。
それが最古の聖書に書かれているかもしれない。
聖書が伝承されていく中で、抜け落ちた部分があったとしてもおかしくは無い。
新約聖書ならばアンドレアとペトロス、
エスの12使徒である2人の兄弟の事だ。
どちらが兄なのか弟なのか分れば、
再び、最後の晩餐を題材に絵画を制作する際にはもっと良い絵が描ける。


ダ・ヴィンチにとってヒエロニムスは
そういった聖書にまつわる物語と翻訳を象徴する人物だった。
聖書、特に新約聖書は主にイエスが起こした行動を
別の人間が語る事で作られている。
それは言わば起こった出来事そのものではあらず、
事実を物語という姿に変化させる事で
エスの行動を今に残しているという事だ。
そして翻訳と言う作業は物語を底本に書かれている言語とは
別の言語で物語る事だ。
また翻訳された物を読むという事は、
読者や聴取者が各自それぞれの形で物語を受け取るという事だ


ダ・ヴィンチはそう言った事実や物語の変化を面白く思う。
絵画を描く事で、彼の絵画を見た者の心に、
良い心と物語を与えるのが今回、彼が絵画を描く目標だ。


今、ダヴィンチは聖ヒエロニムスの完成は一旦棚上げして、
その目標を果たそうとしている。
最終的な目的は夜静かに酒を飲み、愛人との一時を取り戻す事ではあるが。


彼の計画としては、
その絵画の制作に金を支払う人間が必要だった。
何より、材料費やその他の必要経費を含めた前金が欲しい。
フィレンツェに置けるダ・ヴィンチパトロンである
メディチ家の家長ロレンツォこそがその役目に相応しく、
ロレンツォならば絵画を描く意味も理解してくれる。
だがロレンツォは1492年に入ってから病床に伏して居た。
次男のジョヴァンニから話しを聴くに
持病の喘息が悪化しているという事だった。
そんな最中メディチ家に金の話しを持って行くのは気が引けた。
だから、ダ・ヴィンチにはロレンツォに代わる人間が必要だった。
彼にはそういった人間の目安が付いていた。




《ねむぃが動きだすかな》


彼が計画を練り始めて5日後。
欠伸をするダ・ヴィンチは身体を伸ばして朝陽を観た。
人間の身に何が起こっても陽の色は変らねぇなあと再び欠伸をする。


朝食を持ち彼の自宅を尋ねたサライダ・ヴィンチは1つの頼み事をした。
それはある商人への伝言だ。その後2人は朝食を採る。
それから2人は一緒に自宅を出た。
サライは伝言を実行するために商店へと向かう。
ダ・ヴィンチは1人歩く。
股間のかゆみはいつの間にか消えていた。
ちょうど良い時だと思った。男娼に病気を移された訳では無い様だ。


彼は眩しい朝の光の中、
フィレンツェを横切る巨大なアルノ川の橋を渡る。
中央市場を通り過ぎてストゥファ通りに辿り着く。
目的地はこの通りに立ち並ぶ私邸の中の一軒だ。


道中、ダ・ヴィンチはある集団に出会った。
外見を見るに彼らはフィレンツェの一般市民で構成されている様だ。
集団は街角の巨木の下に集い手を合わせて何かを祈り呟いていた。
ダ・ヴィンチはこれは何なんだ?祈るなら教会にでもいけよと思い、
僅かな狼狽を持ってその光景を眺めていた。
すると集団の中の1人が彼に話しかけた。
「あなたも祈りませんか?」とその市民はダ・ヴィンチに言った。
ダ・ヴィンチはそれも良いけどなんで外で祈っているんだ?と聴いた。
「私達は今まで教会の中で神に祈ってきました、
 ですが今、世界は破滅しようとしています。
 だから私達は教会とは別の場所、空の下で神に祈りを捧げるのです」と
一般市民は天を仰ぎながらつぶやいた。
「それでだめだったら、私は明日にでも首を括るつもりです。
 私は悔い改める事にしたのです産まれた事を。
 私が夜寝台で寝ていると私の身体を叩く者が居ます」
一般市民はダ・ヴィンチに生気のない顔を向けた。


ダ・ヴィンチは心の中で苦笑した。
それから、そうかまぁしっかりな、
俺はいかなきゃならない所があるんでなと市民の肩を叩いた。


ダ・ヴィンチは市民に背を向けて数歩歩く。
それから険しい顔になった。
後ろを振り返ると市民は再び巨木と空に祈りを捧げている。
彼はまったくろくな事が起こっていない、
これも環境と状況がわるいのだろうか?と今の出来事を判断する事を倦ねていた。


苦みばしった味が口の中にじわじわと広がって行く様な気分で
ダ・ヴィンチは再び目的地へと歩き出した。
俺には俺の目的があって
あんな風にいつまでも祈ってばかりはいられない。




《リザちゃん相変わらず美しい》


目的地に到着したダ・ヴィンチは椅子に座り
卓を挟んで彼の目の前に居る女の顔を眺めている。
邸の扉を叩いて自分の名前を名乗ってから、
居るはず手伝いが一切顔を見せないのは
居住者が俺の姿を誰丹生も見せたく無いからだろうと心の中で邪見に笑う。


「急にいらっしゃって、どうしたのですか?」
ダ・ヴィンチの目の前に座る女は
清楚な雰囲気を放ちながら彼を見つめている。
その瞳は黒く大きい。ダ・ヴィンチの心を射抜く様に彼らから視線を外さない。
長い黒髪も美しく、明るく柔らかい顔を収まりよくしている。
その口角は僅かにあがり穏やかに頬笑んでいる風だ。美しい笑みだった。
どうやら自分の企みはバレている様だとダ・ヴィンチ
自分より年下の女に目を瞑ってから笑いかけた。


彼女は以前の客だ。
ダ・ヴィンチは彼女の夫から妻の自画像を依頼されて描いた事がある。
1年程前の話しで、ダ・ヴィンチの父親が、
久方ぶりに故郷に腰を落ち着かせた息子に持って来た仕事だ。
ダ・ヴィンチの父親、公証人セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
依頼主である織物の商人にして
フィレンツェの行政官フランチェスコ・デル・ジョコンドと
古くからの知り合いだった。
ダ・ヴィンチの目の前に居る彼女はフランチェスコの3人目の妻で、
名前をリザ・デル・ジョコンドという。
フランチェスは当時50を過ぎていたが、リザは24歳だった。
リザはダ・ヴィンチが知る限りでもっとも美しい顔を持つ女性だ。


見透かされている、
うん、そういった表現が適切だとダ・ヴィンチは口を開く。
絵を描こうと思っている、彼は自分が望む行動を彼女に言う。
「それはいいですね、何の絵でしょうか?」
最近世間が五月蝿いだろう?それを鎮める様な絵さ、彼は描く絵の内容を言う。
「ご立派、ですね。それをして貴方は何を得るんでしょうか?」
静かに、酒を、飲みたいだけでね、
彼は目をリザから反らした衝動にかられる。
それを抑えて頬笑んで目的を告白する。
「貴方らしいですね。ですが絵でそれができるのですか?
 そして、つまり私達に関係ない絵画の制作資金を私達に出せというのですか?
 工房を構える芸術家がまるで商人のようですね?
 急に尋ねて来て。そんな話しをするという事は、
 つまりそういう事でしょう?」
ダ・ヴィンチの目論みは完璧に彼女に看破されていた。
できるさ、ダ・ヴィンチはリザちゃん口がキツいなぁと思いながらも、
不敵な笑みを洩らす。自分でもそんな表情に成っていると理解している。
絵画でそれが出来るのか?と尋ねれてて挑発的な笑顔になってしまったのは
彼の画家としての自尊心が起した業だった。


出来るさ、俺の力が何処まで届くかは分らないが。
でも、それなりには役に立つ物を描くよ。
俺が描いた君の肖像画はこの家にあるよな?ダ・ヴィンチはリザに質問を返す。
「ええ」リザは質問の意図を考えながら相づちを打つ。
彼は頷いて話しを続ける。例えば、例えばだ。


ダ・ヴィンチはそこまで言って椅子から立ち上がる。
歩いてリザに近づく。彼女の手が乗る卓に彼も手を置く。
ダ・ヴィンチはリザの顔を覗き込む。2人の手の距離は数センチ。


俺が描いた君の肖像画は美しい。
多分、といってダ・ヴィンチはリザの頬を優しく触る。
リザの肖像画は俺が描いて来た絵画の中でもっとも美しい。
受胎告知よりも岩窟の聖母よりも
スフォルツォの愛人を描いた絵画よりも美しい。
君の肖像画は確実に後世に残るだろう。
何れは俺も死に残念だけど君も死ぬ。
そして今はこの宅にあるあの絵画も他人の手に渡る。
でもそれは商人の手ではない。美しさを知る貴族や王侯の手に渡るはずだ。
王侯貴族、或は国という存在の栄華が続く限り何百年でも
君の事を描いたあの肖像画は美しさを知る者達の手から手に渡り
君の美しさを後世に残し続ける。
例え西暦が2000年を越えて人間が生き続けていたとしてもね。
俺はそれを確信している。その程度には俺の絵には力があるよ。


1、2、3秒、4秒。
ダ・ヴィンチが一気に自分の主張を言い終えた後、2人の間に沈黙が流れる。
5秒、6秒経ってリザは口を隠して明るく声を出して笑った。
ダ・ヴィンチも大きく笑った。
「馬鹿な人ね」彼女は笑ったまま言った。


それからダ・ヴィンチは計画の全てを彼女に話した。
出来るかい?どうだい?と彼はリザに訊く。
尋ねたのはつまり絵画の制作資金の問題だ。
有り体に言うと旦那から金を引き出せるかどうかと言う事だ。
リザは口元を掌で隠したまま
「あの人は私の言う事なら何でも聞いてくれるもの」と言った。
ダ・ヴィンチはその言葉を聴いて、
確かに若くてこれだけ美しいかみさんの願いなら聴くだろうなぁと、
その事を自分でも理解しているリザと、
彼女の夫であるジョコンドの事を思って少しだけ背に冷や汗をかいた。


そんな事を思っていたダ・ヴィンチが気がつくと
リザは彼の瞳の奧を見つめていた。彼女は口を開く
「それで?
 私、この後、日課のお昼寝をするのだけれど。
 レオナルドは来るの?来ないの?」






      ゴドーを待ちながら


     (劇作家ベケット作による
      不条理劇の至高作として演劇史に名を刻む戯曲に付いてる題名の
      日本名を9文字で表した表記の全部)
      サミュエル・ベケット アイルランド、フランスの劇作家
     (1906〜1989)






《笑えるし笑えるし面白いしすげえ笑えるし笑える》


ダ・ヴィンチは自分とリザが居る場所を思って笑いそうになる。
2人の男女は寝台の上に居た。
女は縁に腰掛けて乱れた髪に櫛を掛けて美しく整えている
男は仰向けに寝て眠い目を天井に向けている。


笑えるし笑えるし面白いしすげえ笑えるよ。
ダ・ヴィンチは手の甲を額に当てて笑いを堪える。
リザの夫を思い浮かべて笑いそうになる。
2人が寝ていたのは夫婦の寝台だった
夫婦の寝台で人の妻を抱いている事も笑えるし、
そんな俺に金を出す夫が居る事も笑えた。
ダ・ヴィンチはまた笑いを堪えた。


ダ・ヴィンチとリザはたまにこうして逢瀬を繰り返していた。
彼が彼女の家をこうして尋ねる事もあれば、
リザが陽が暮れてから周囲の住民にその身分が判らぬ様に
頬っ被りが付いた外套を身に纏ってダ・ヴィンチの自宅へ訪れる事もあった。
リザは美しい。どちらかというと男が好きなダ・ヴィンチだが
彼女を抱いている時は相手が女なのにも関わらず心から興奮出来る。
それが何よりも彼女が持つ美しさを表現しているだろうと
ダ・ヴィンチは思っている。


ダ・ヴィンチが若い愛人、
サライに宅へ自由に尋ねるのを禁止していたのはリザが居たからだった。
ダ・ヴィンチはリザと自分の関係がサライに発覚するのを恐れていた訳ではなく
発覚する事でサライが傷つく事を懸念していた。
そんなサライの事を思ってダ・ヴィンチはまた面白くなった
それから結局の所、夫ジョコンドは自分たちの関係を知っているのかと思う。
知っているだろう。それは間違いないとダ・ヴィンチは考えている。
それも笑える。
きっとサライも気がついている、それにもまた笑える。
最後に全てまとめてそんな事で面白くなっている自分の性格の悪さに笑えた。
38歳でこれは酷いと笑ったが、そんな俺で何が悪いのか、
俺を俺の自由にして何が悪いのかとまた笑った。
全て心の中で。


「何を面白そうにしているの?」
リザはダ・ヴィンチの顔を覗き込んで訊く。
いや、何でも無いよとダ・ヴィンチは表情を直ぐさま整えて頬笑んだ。
彼が気がついた時にはリザは既に服を着ていた。
「そろそろ、帰った方がいいかもしれません」
リザが窓から見える夕焼け間近の陽に照らせれながら言った。
ダ・ヴィンチは着衣姿の彼女の事も美しく思う。
橙色の陽に照らされた横顔の柔和な眼差しに神聖さすら感じる。
彼はリザの片腕を取って寝台に押し倒す。
彼女が拒まなかったので、ダ・ヴィンチはもう一度リザを抱いた。







(後編に続く)


前編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130405/1365173628
中編;本文
後編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130417/1366177435



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【短編小説】底が抜けちまった(前編)


前編;本文
中編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130415/1366044153
後編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130417/1366177435






       物語には力が宿る
       強度を求めるならば5つの捧げ物が必要になる
       事実 嘘 構造 多義性 真実


      (ルイジ・プルチ作のモルガンテを
       パロディーとして書き換えた
       小説「パンタグリュエル」(1532年)より)
        フワンソワ・ラブレー フランスの作家
      (1483〜1553)
  



 
《底が抜けちまった》


なんせ、全て水と消えちまった。
威勢のいい事行ってた奴に限って即行逃げちまった。


ダ・ヴィンチは頭の上で手を組みながら、
座っている椅子の背もたれに体重を掛ける。
そのまま頭を上げて天井を見上げる。
まったく厄介な事体だな。


時刻は夜で、白い蝋燭の火が
木製の室内を照らしている。
フェレンツェにある自宅の天井は高い。
天井からは彼が設計した空飛ぶ装置が吊り下げられている。
この装置は人の背中に付ける巨大な羽だ。
モデルは鳥だ。
自宅に傷を負って迷い込んだ鳥を介抱してやって、
鳥がいざ大空に飛び立たんとする瞬間を見て思いついた物だった。
同時に上下する双方の羽。飛び立ったあと姿勢の固持。
民家がバルコニーを飾る為に掲げた
数多くの花を舞散らせる風。を温める太陽。
上昇する鳥。
この装置を付けた人間が風の強い日に高い所から
空中に飛び出せば、人は空を飛べるはずだった。
実験の被験者に名乗り出る奴は今だにいないが。




《あーチンコかゆい》


ダ・ヴィンチは姿勢を変えずにそう思う。
手で自分のペニスを掻きたくなるが優雅ではないので我慢した。
別に誰に見られているという訳ではなかったのだが。


何かを移されたかな?
やはり原因はあの時買った男娼だろうかと考える。
普段は男娼など趣味ではないが、
顔があまりにも可愛かったのでつい手が出てしまった。
感染症じゃないだろうな?とダ・ヴィンチは眉間に皺を寄せる。
もしそうならば、あの男娼を1発2発ぶん殴ってやろう。
まったく、俺の人生の前で邪魔な転がり方をするんじゃない。


ダ・ヴィンチはペニスを手で掻く代わりに、ワイングラスを握った。
白いワインを口内に注ぎ込む。
夕食に食べた鳥の肉の脂や小さな食べカスが胃の中に流れた。
何もかもが流されて口の中がすっきりした。
さっぱりとした気分になった後で、
彼はアマルフィもこうやって何もかも流されたのだろうかと想像する。
ダ・ヴィンチの気持ちに影が落ちた。




トスカーナのワインはやっぱうめーな》


ダ・ヴィンチはここ10数年は
フィレンツェとミラノの間を行ったり来たりしている。
だがフェレンツェに居る方が落ち着くなと改めて思った。
フィレンツェ共和国内のトスカーナ、ヴィンチで生まれた彼は
若い頃から首都であるフィレンツェに住んでいた。
だからミラノ公国の首都ミラノよりもここに馴染みと安らぎ感じていた。
なによりワインが旨い。
流行のシチリア王国産のワインは甘すぎるし、
ミラノのワインは評すまでもない。
それに比べてトスカーナワインの複雑でいて切れ味の素晴らしい事よ。
特に複数の高い塔がそびえ立つ町、
サン・ジミニャーノの白ワインはダ・ヴィンチの好みだった。
あの町は面白い、小さな町の中に塔が複数建っているだけでも面白いが、
その高さが富の象徴となっている所がさらに面白い。
だがしかし、やはりシチリア王国のワインは品質その物が高い。
好みはあれどあの島はワイン好きに取ってゆめのしまだろう。
いつかあそこに別宅の1つでも持てれば良い。
ダ・ヴィンチがそんな事を考えていると、彼の耳に大きな音が響いた。





     いかなる虚偽もその為に
     更に別の虚偽を捏造する事なくしては主張する事ができない


    (神聖ローマ帝国錬金術士ゲオルク・ファウストをモデルにした
     戯曲「ファウスト」の断片より)
     ゴットホルト・エフライム・レッシング 神聖ローマの劇作家
    (1720〜1781)





《ああ、うっせーな》


自宅の外から女の泣き声が聴こえたダ・ヴィンチ
考えを止めて不機嫌になる。
それから天井と羽を見つめて白いワインの余韻に浸るのをやめた。
見えもしないはずの外の通りを見つめた。
彼の目に見えたのは石で出来た壁と、今は閉じられている木製の窓だけだった。

だがダ・ヴィンチの心が見たのは、
暗い家の中で泣いている女の顔だった。
彼のフィレンツェの自宅はの街の中心地に在った。
静かな夜はこうして近所の家に住む人々の声が聞こえてくる時もあった。
女が泣いている理由は不安とか恐怖とか憎悪とか混乱だろうと予想する。
何時もの事だ。まったく落ち着いて酒も飲めないじゃないか
泣く女は五月蝿い、
デッサン用の消しパンを口に詰め込んで黙らせれてやろうかと、
ダ・ヴィンチは口元を歪めて微笑した。




《女の涙を力ずくで止めるのはさぞや楽しいだろう》


ひとしきりそう言った妄想を楽しんだ後、
女ではない、女を泣かせる状況が悪いのだと
ダ・ヴィンチは長髪を掻き上げてから、怒りの対象を変える事にした。
そもそも外に出るのには服を着なきゃなれーしめんどうくせえよと
彼は自分の裸の腹筋を掌で撫でた。
ダ・ヴィンチは今、裸だった。
上下一体型の下着、ドレスシャツさえも来ていない。
理由は小一時間程前まで、
椅子に座る彼の足下で寝ている人物と身体を重ねていたからだ。




《安楽かな顔をしやがって》


ダ・ヴィンチはそんな気持ちで,
オスマン帝国で作られた柔らかい敷物の上
彼が座る椅子に手首を巻き付ける様にして寝ている人物の寝顔を見つめる。
ダ・ヴィンチは床に這う長い髪の毛を自分の足の親指で絡めとって流した。
ダ・ヴィンチは俺の髪の毛より綺麗だなー、綺麗だなーと思って、
小憎らしい気持ちで寝ている人物の頬を足の親指で突いた。





     1つの嘘をつく者は、
     自分がどんな重荷を背負い込むのかを大抵は気がつかない
     つまり、1つの嘘を通す為に別の嘘を二十発明せねばならない


    (「ガリバー旅行記」の作者スウィフトが
     神聖ローマ帝国錬金術士ゲオルク・ファウスト
     題材に書いた小説「ファウスト」の断片より)
     ジョナサン・スウィフト アイルランドの小説家
    (1667〜1745)





《起きっかな?》


そんなダ・ヴィンチの予想通り、
彼の足が原因で閉じれていた目がゆっくりと開く。
「せんせい、もう朝なのですか?」
ミラノ語の訛が抜けないトスカーナ語で
眠っていた青年が口を開いた。
青年は顔をダ・ヴィンチの裸の太ももに乗せた。
青年の緩やかに曲線を描く長く柔らかい髪の毛が
彼の太ももをくすぐった。
可愛いらしい青年の寝起きの顔を見ながら、
ダ・ヴィンチはチンコかゆいの移しちゃったごめんなと思った。
でも、2人して痒いとか笑えるし笑えるし面白いしすげえ笑えるし笑えるよと
青年の瞳を悪魔でも穏やかな表情で見つめた。




《やぁ。まだ夜だよ》


ダ・ヴィンチはそう返事を返した。
青年は20歳になったばかりだった。
1454年に生まれたダ・ヴィンチよりも18歳も若い。
現代、1492年。ダ・ヴィンチは38歳の仕事盛りだった。




サライの髪はやっぱサラサラだわー》


ダ・ヴィンチは右手で
寝ぼけて彼に甘える青年の髪を撫でながら左手でワインを飲む。
青年はダ・ヴィンチの弟子にして、ダ・ヴィンチの愛人だった。
青年は名前をジャン・ジャコモ・カプロッティと言う。
ダ・ヴィンチがジャン・ジャコモを呼ぶときのサライは所謂愛称いうやつで、
ダ・ヴィンチが弟子に画家としての名前を付けてやろうと言って命名した物だ。


彼の本心としてはそれは割とどうでもいい事だった。
ダ・ヴィンチ命名という事の意味を知っていた。
キリスト教カトリック教会の霊名や東方正教会の聖名。
つまり洗礼名。アジアで使われる字名。
命名の先に在るのは新たな人格と運命の創造と加護だ。
そして個人的にはダ・ヴィンチの独占欲。
彼は愛する男を自分の物にしたかった、
それが自分の好みに合っていた。
青年の今までとこれからを切り離すつもりで新名を名付けた。





     物語は船の構造
     1つはマスト、2つはバラスト
     マストは心を目指す物へと近づけてくれる
     バラストは偏った心を中立に戻してくれる


    (フランシス・フォード・コッポラ監督(ゴッドファーザーなど)の
     映画「地獄の黙示録」の原作「闇の奧」を書いた、
     テオドール・コンラード・ナレツ・コジェニオフスキーの言葉)
     テオドール・コンラード・ナレツ・コジェニオフスキー
    (1857〜1924)



    

《我ながら良い名前を付けたな》


ダ・ヴィンチはジャン・ジャコモ・カプロッティにある思いを込めてサライ
フルネームではアンドレア・サライという名前を付けた。
勿論青年にもその名前が持つ意味を意味を教えてやった。


アンドレアはキリスト教の聖人にして
エスの12使徒の1人の名前だ。守護聖人としては漁師を守護している。
アンドレアは同じく聖人にしてイエス使徒の筆頭、
そして初代ローマ教皇になったシモン・ペトロスの兄あるいは弟だ。
兄弟は始め、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの弟子だった。
その後、ヨハネの許可を得てイエスの弟子となった。
2人はイエスの最初の弟子だ。


つまり、ジャン・ジャコモ・カプロッティに付けられた
名前であるアンドレア・サライアンドレアとは偉大な聖人の事だ。
サライには聖人の名前が相応しい。
そもそもジャン・ジャコモ・カプロッティのジャンもジャコモも聖人の名前だ。
新名とはいえ、聖人の加護をはずのは良く無い事だ。




《兄あるいは弟か……まったくムカつく》


この言葉を思い出したダ・ヴィンチ
そういう所はちゃんと記録しておいてくれよと眉間に皺を寄せる。
この表情は幸せそうに寝ぼけているサライには見せたくねーなぁと
顔を隠す様にして天井を見上げる。
それから意味もなく自分の裸の腹を掻いた。



ダ・ヴィンチ、38歳。
彼が32歳だった6年前の1486年。
ダ・ヴィンチキリスト教はフランシスコ修道会からの依頼で
ミラノはサン・フランチェスコ・ グランデ聖堂に祭壇画として
【岩窟の聖母】という油絵を制作している。


油絵の制作を始める当たり、
ミラノ行政が発行した月報誌にダ・ヴィンチの名前が書かれている。
印刷という紙や布に描かれた物を複製する技術は昔から在ったが、
複製物を大量に生産出来るシステムとして完成させたのは、
神聖ローマ帝国ヨハネス・グーテンベルクだ。時代は1450年の事だ。
1455年には世界初の活字印刷で作られた聖書を180冊作っている。
1490年、フェレンツェやミラノという国々の識字率は高かった。
貴族や聖職者は字を読める事が当たり前であったが、
一般市民にはまず最初に文字は、商人が使う道具として広まっていた。
1450年、そんな状況に印刷技術が加わり文字は市民にも普及して行く。
公証人と言う文章を作成する職業が盛況したのもこの時代だ。
だからこそフィレンツェやミラノでは人文学から始まる諸処の芸術が発展した。


ダンテ・アリギエーリがフィレンツェで使われていた言語、
トスカーナ語で【神曲】を書いたのは14世紀初期の事だ。
フィレンツェには人文学が発展する下地があった。


そういった中で印刷されていたミラノ市の月報誌には
サン・フランチェスコ・ グランデ聖堂の祭壇画を担当する画家として、
ダ・ヴィンチの事が載っている。
月報誌に書かれているミラノ語はこうだ
「素晴らしい技術、丈夫な力強い肉体、美しい顔立ちをもつ芸術家」。
(Artista con grande tecnologia, forte corpo durevole e bei lineamenti)


ダ・ヴィンチ、38歳。
彼を讃えるミラノの言葉から6年後の今、1492年でも
彼は技術は無論、力強い肉体と美しい顔立ちを持ち、
それらが年が原因で衰えるという事はなかった。
彼が自分で掻く腹部は6つの大きな隆起で仕切られていた。


そんなダ・ヴィンチは1487年から1490年にかけて
【最後の晩餐】を描いていた。
依頼主はミラノ公国の統治者、スフォルツァ家の当代当主ルドヴィーコだ。
描いた場所は、
ミラノ市にあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁だ。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院はルドヴィーゴの父親である
フランチェスコが建設を命じた。
時代が進み、老朽化した修道院の改修を命じたのが
フランチェスコの息子ルドヴィーコだった。


ダ・ヴィンチとルドヴィーコは2歳しか年が違わない。
ダ・ヴィンチ建築学地形学や統治学にも詳しく
そういった知識からある種の軍事にも通じていた。
それは防衛という行為だ。
当の当主は芸術に明るかったので2人は意気投合した。
ダ・ヴィンチはそれもあってルドヴィーゴの
壮大な教会改修計画に賛同して、大きな絵画を描く事を引き受けた。




《ああ、ムカつな》


ダ・ヴィンチは過去を思い出して怒りを増大させた。
自分を落ち着かせようと首の後ろに手を回して分厚く固い肩を揉んだ。
ダ・ヴィンチに取ってアンドレアとペトロスの兄弟。
そして自らが描いた最後の晩餐は苦々しい想いに彩られている。


最後の晩餐を掻くにあたり形式や資金的な問題面はなかった。
新しい技法にも挑戦出来た。
絵画の真ん中にイエスを描く事は決めていた。
大きすぎる絵画なので遠因法を正確に保ちながら描く為に
真ん中に釘を打って、そこからひもを使って四方八方に直線を引いた。
それを目安に美し調和のとれた絵画を描く。
結果イエスのこめかみに釘の穴が空いているという形になったが
完成する直前に穴を上手く補修したのでバレる事はないだろう。


問題は彼が若い愛人に付けたアンドレア・サライという新名の由来である、
アンドレアとペトロス、イエスの12使徒である2人の兄弟の事だ。
エスが磔の冤罪に科せられる直前、
師と12人の弟子で行われた食事風景を描くこの絵画に
2人を登場させない訳にはいかなった。
だが、この2人はどちらが兄で弟なのかハッキリしていない。
ダ・ヴィンチにはそれが気に食わなかった。


描くのならば完璧な物を描きたいというのがダ・ヴィンチだった。
描く対象の意味と歴史を調べ、
描かれる風景の草花や石や土の性質を調べる。
人の肌の色を知り瞳を覗いて、空の色を確かめ風の吹き方を思う。
そしてそれを言葉を持たない絵だけを使い自分の技術で的確に表現して行く。
時には描く人物が纏う衣服の材質を知る為だけに
大量の古文書を読み漁る事もあった。
だからダ・ヴィンチアンドレアとペトロス、
どちらが兄であるのかを知りたかった。
彼が常に完璧を目指していた。
ダ・ヴィンチがいう完璧とは調和が取れている事だ。


ところがイエス使徒達の事が書かれている新約聖書をいくら読んでも、
アンドレアとペトロスの2人は兄弟だとしか書かれていなかった。
これではどちら兄なのか弟なのか分らない。
この時代に普及していた聖書は旧新ともにラテン語に翻訳されている物だった。
調査に手を抜かないダ・ヴィンチは原文であるギリシア語版の新約聖書を読んだ。
だが彼が望む答えは得られなかった。


新約聖書は本来はギリシア語ではなく
エスと弟子達が会話をする為に使用していアラム語
ヘブライ語で書かれているという説があった。
そんな新約聖書の原文があるのあらば、
そこにこそ兄弟の答えがあるかもしないとダ・ヴィンチは思った。
だが、彼の人脈が許す限りの貴族や王族、商人そして聖職者に
アラム語ヘブライ語で書かれた古い新約聖書の所在を尋ねても、
返ってくる返事は「残念だが、そう言った物は未だ発見されていない」という物ばかりだった。


ダ・ヴィンチは自分で出来る限りの調査をし尽くした。
結局、アンドレアとペトロス、どちらが兄であり弟であるのか?
という疑問の解消を彼は諦める事にした。心は悔しさに溢れた。
当時の状況を明確に記憶しなかった聖人達の事をもう少しで恨みそうになった。


直前の所で思いとどまったのは、
ルネサンスと言う人文学の隆盛、様々な哲学の広がり。
カトリック教会の権威の弱まり。宗教改革の息吹を感じさせるこの時代、
その直前の15世紀後半、ダ・ヴィンチが神の存在を信じていたからだ。
人体の調和を知る為に人間の死体をを解剖しても、
防衛兵器を開発しても、男を抱いても、
彼は神の存在を疑うぎりぎりの所で信じていた。
神の存在と神と契約した者達の繁栄。
そして世界は最後の審判が起こるまで続いて行く
そういった思いが彼が自分の作品に完璧を求める原因だったとも言える。


つまり






     「手を抜くな。すべてを容赦なく調べなさい」
     「とくに一つの何かの作品の細部に入っていきなさい」
 
    
     (アニー・ディラード作の「本を書く」より)
      アニー・ディラード アメリカの作家
     (1945〜 )

     



《俺の作品は後世に残っちまうよなぁ》


ダ・ヴィンチは作品を作る際に常にそれを意識していた。
これを天才の自惚れとも天才の先見性とも捉える事が出来る。


疑問が解消される事のなかった当時のダ・ヴィンチは想像する。
最後の審判を書き終えた後にアンドレアとペトロスの
どちらが兄であり弟であるかと言う事が
何らかの歴史的資料の発見から判明したらどうする?
それが自分が今から描こうとしている物とは
反対の結果だったとしたらどうなる?
それが最後の審判が完成した1日先なのか1ヶ月先なのか
1年先なのか10年なのか100年先なのかは分らないが、
それが自分の命が在るうちならばまだましな方だ。
幾らでも描き直せるし、正しい物として同じ題材の新作を作っても良い。


自分の死後だったらどうなる?ダ・ヴィンチは想像する。
得意げに自分の調査の失敗を指摘する人々を、笑う人々を。
てめらぶち殺すぞ!と
あるかどうかも分らない未来と未来の人々を想像して、
ダ・ヴィンチは読んでいたギリシア語の聖書を
ミラノの自宅の床に叩き付けそうになった。
勿論ギリギリの所で思いとどまる。
それから彼は目を瞑る。椅子に座る。
自分が最後の審判を描いている所を想像する。
西暦33年、イスラエルにあるシオンの丘。
そこにある建物の2階の大広間を想像した。
新約聖書内のマルコによる福音書、14章15節によれば、
最後の晩餐の舞台は2階の大広間だった。
彼は今まで読み込んだ"資料"を思い出す。




《今はこれが限界か……》


それから3年後の1490年。
ダ・ヴィンチ、36歳。
彼は眉間に皺を寄せて完成した最後の審判を眺めていた。


最後の審判に描かれている場面は
エスが弟子の裏切りを自ら予言した瞬間だ。
新約聖書内のヨハネによる福音書
13章21節から24節までに書かれている事を描いている。
勿論、アンドレアとペトロスの2人の兄弟、2人の使徒も描かれている。
ペトロスがヨハネに何かを耳打ちしている。
今までパンを切る為に使っていたナイフを力強く握りしめ、
今にも裏切り者を殺さんとする勢いだ。
アンドレアは両手を掲げて師の予言に驚いた表情をしている。
2人の顔は似ている。だが表情は違っている。
2人の外見から推測出来る年齢は近い。だが異なる行動をとっている。
2人は隣り合って座っているが、彼らの顔は離れている。
2人の上半身の間には銀貨を持つユダの顔がある。


一目で彼らが兄弟だとは分るが、どちらの年齢が上かは分らない。
完成を祝うミラノ公や聖職者の言葉に、
ダ・ヴィンチは1人不満な表情を浮かべていた。
誰にも分らぬ様に小さく歯ぎしりをして
今はこれが限界なのかとつぶやく。




《完璧主義って奴も考えものなのかもしれねえな》


今現在、フィレンツェの自宅で
トスカーナの白いワインを飲むダ・ヴィンチ
眉間に皺を寄せるのをやめてどこか情けなく鼻から溜め息を出す。


完璧主義。完璧主義は問題もある。
1481年、ダ・ヴィンチ27歳。
フィレンツェに建つサン・ドナート・ア・スコペート修道院の依頼で
祭壇画として作成した【東方3博士の礼拝】の時は、
彼のそういった主義が原因で絵画は完成する事がなかった。


未確定の所が多すぎるんだよなー、
27歳の当時を思い出したダ・ヴィンチ
サライが微睡み寝ぼけている事を確認してから1人苦い顔をした。


【東方3博士の礼拝】はイエスがこの世界に降誕した時に
東方から来た3人の博士がイエス降誕を確認した時の事を描いている。
所がイエスとマリアの元に現れたのが博士だと記したあるのは
新約聖書の中でも、マタイの福音書2章の第1節から12節のみだ。
旧約聖書詩編、第72編11節には
降誕したイエスの元に出向いたのは王であると書かれている。
1人はペルシア王で、1人はアラブ世界の王で、1人はインドの王らしい。
さらには新約聖書内のルカによる福音書では
賢者も王も出て来ない。
その第2章、8節から20節に描かれているのは羊飼い達だ。
羊飼い達はマリアと降誕したイエスを見つける。


当時のダ・ヴィンチは「3博士」と言う存在の未確定さに疑問を持った。
だが修道院からの依頼が
「3博士」という事だったのでその点は諦める事にした。
もしかしてイエスを礼拝した3人は王でもあり博士でもったのかもしれない。
ダ・ヴィンチ自身絵描きでもあるし学者でもある。
ダ・ヴィンチフィレンツェでのパトロンである
ロレンツォ・デ・メディチフィレンツェ共和国の支配者にして
メディチ銀行の支配者にしてすぐれた芸術評論家だ。
つまり人が何かを兼任するのは珍しい事ではないはずだと
当時のダ・ヴィンチは自分を納得させた。
それに、イエスが降誕したのは馬小屋なのだから、
そこには羊飼い達もいたのかもしれない。


未確定がそれだけならば良かった。問題は他にもあった。
博士なり王の数は3人とされているのが、
その数字はイエスを礼拝しに来た人物が捧げた贈り物が
3つだったからという事に起因している。根拠はそれしかない。


マタイによる福音書、第2章第11節によれば
それは金、乳香、没薬だ。
この贈り物は絵画の描写にとって大切な物だ。
乳香と没薬に関しては問題がないが、金の形状がどういった物であるかは、
どの資料にも書かれていなかった。
エスに金を献上した賢者あるいは王はどのようにして
イスラエルまで金を運んでどういった形で渡したのだろうか。
そもそも3博士の年齢や容姿も判っていない。
恐ろしい事にキリスト教的な解釈の定番も決まっていなかった。


絵画の主題としての東方3博士の礼拝は未確定な所が多過ぎた。
その辺を上手い事するのが教役者の仕事なんじゃね—のかよ、と
27歳のダ・ヴィンチは憤りを感じた。
しかし、彼は知っていた。
これは現代を生きている教役者に怒りをぶつけても
今直ぐに解決する様な問題ではないのだと。


ダ・ヴィンチはその時の事を良く覚えている。
行き場のない怒りと言う奴だ。
誰かに文句を言ってても簡単には解決しない事の苦しさ。
東方3博士の礼拝の完成を諦めた彼は、酒を浴びて飯を食らった。
トスカーナ産のワインと兎と鶏肉と一緒に飲込んだ。
それからいつか何らかの方法でこの問題を解決してやろうと思った。
その時の自分の力が届く範囲ならば、だが。
ダ・ヴィンチはそういった未来の事を想像して思考の奥で凝視する。
睨む。待っていろよ、クソやろう。


ダ・ヴィンチが東方3博士の礼拝を
未完成に終わらせた理由は彼の完璧主義の他にある。
通常の宗教画ならばマリアやイエスの頭の上や背後に
丸い光輪、ニンブスを描く。
だがダ・ヴィンチはイエスの聖性、
栄光の象徴であるそれを描かなかった。
ダ・ヴィンチは聖書に書かれた場面を描く場合でも、
現実性を付加したかったのだ。
現実性を宗教画に持ち込みたかった理由は
肉体を持ちこの世界に降誕したイエスという存在の人間的な強度、
強さを強調して描きたかったからだ。
それは聖神と奇跡ではなく、逞しさと生命力の表現だ。


絵画の主題に対するこういった表現を彼が行うのは、
人文学という学問、
つまり物語や哲学や個人の喜びや悩みを表現する事も含む、
学問が隆盛した時代だからであり、それこそがダ・ヴィンチが持つ心と
彼自身の生き方の趣味だったからだ。


修道院ダ・ヴィンチの表現の意図を認める事はなかった。





    

      科学が親類に与えた最大の贈物は   
      人間に真理の力を信じさせた事だ


     (シカゴ大学物理学教授、ワシントン大学総長
      マンハッタン計画に参加した物理学者アーサー・コンプトンの言葉)
      アーサー・コンプトン アメリカの物理学者
     (1829〜1962)





《あの時は親父にも悪い事をしちまったんだな……》


絵画が完成していれば、
修道会から1年は軽く暮らせる分の報酬が出るはずだったのだ。
だが作品は未完成に終わり報酬も未納付に終わった。
27歳当時のダ・ヴィンチアンドレア・デル・ヴェロッキオの
工房を出て、自分の工房を立ち上げて独り立ちをしたばかりだった。
そんな無名な芸術家が首都にある修道院と契約を結べたのは
ダ・ヴィンチの父親、セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチが公証人であったからだ。
公証人は事実や契約を法律、公権力を根拠に文章で証明する職業だ。
つまり契約の保証だ。
だから新人の彼には父親という存在と父親の職業の保証、
修道院との契約を正式に履行するという保証があった。


だが、彼は東方3博士の礼拝を完成させる事が出来なかった
ダ・ヴィンチは作品と契約を反古にしてしまった。
父親が社会に対して与え持つ信頼性も失わせしまった。
この時ダ・ヴィンチは、自分が出す仕事の結果は
他の者にも何らかの形で降り掛かる事を実体験として学んだ。
良くも悪くもだ。


未完成の絵画は現在、アメリゴ・ベンチの自宅に飾られている。
ベンチは今ではローマ教皇庁の財政にも深く関わる
メディチ銀行の総支配人という立ち場に居る人物だ。
メディチ家の家長であるロレンツォ・デ・メディチ
この絵画を買い上げてくれた。
紆余曲折あってアメリゴが所有する事となった。
御陰でダ・ヴィンチは金には困らずにすんだ。




《うるせぇ……》


思考の途中、自宅の外、近所のどこからか
再び女の泣く声が聞こえて来たダ・ヴィンチ
不機嫌に低い声で呟いた。
思考の網が途中で途切れてしまった。


その顔をサライが心配そうに見ていた。
ダ・ヴィンチは口角をあげて苛立ちをかくして頬笑んだ。
サライ、服を着せてくれ。お前も着ろと。
微睡んでいた、今は心配そうな顔をしている青年に向かって言う。
「せんせい。ケンカはだめですよ?」サライは言う。
ダ・ヴィンチはケンカじゃねえよ?と言って、
さぁ俺に早く服を着せてくれとサライに背を見せて両腕を広げた。
まったく落ち着いて酒も飲めねぇよという気分だ。




《夜の石畳も悪く無い》


服を着た師と弟子は
夜のフィレンツェの町を歩いている。
地面は舗装された白と灰の石畳だ。
街路や庭先に植えられた樹々から葉が散り、
夜風に緑の葉が舞っている。
月は明るく、町を歩くのには月光だけで事足りた。
その光が町中を走る舗装された水路の川に反射していた。
ヴェネツィア共和国の首都ヴェネツィアとは比べる事は出来ないが、
それでもフィレンツェの都市には舗装された水路が多く造られていた。
街の真ん中にはアルノ川という巨大な橋が架かる川もある。
ダ・ヴィンチと彼の愛人はそんな水路に掛けられた橋を2度程渡る。
ヴェネッツィアも良い町だったな。
彼はたまに水が臭くなるのが球に傷なんだがと以前住んでいた都を思い出す。
そして、ヴェネッツィアに、
ナポリ王国内のアマルフィを襲ったのと同じ規模の悲劇が降り掛かったのならば、
あの水の都は一瞬で沈んでしまうだろうと想像する。
現に、いつかそれが起こると根拠もなく信じて怯えている人々も多かった。


2人は先程から会話を交わしてはいない。
それは耳を澄ましてていたからで、
澄ましていた理由は女の泣き声がどの家から聴こえてくる物なのか
探り当てるためだった。
ダ・ヴィンチは叫び声の発生源を探し当てて、
癇に障るその叫び声を止めさすつもりだ。
彼には叫びの原因も止めさせ方も検討が付いていた。


周囲を見渡したダ・ヴィンチは、
家々の扉や窓の隙間から漏れ出る蝋燭の光に注目した。
この時間にしては光の数があまりにも多い。
だが、その光の多さは半年前から続いている。
ダ・ヴィンチは今日もまた、寝むれない奴らが多いらしいと、
表情に影を作る。


そんな彼らの耳に何かを叩き付ける音と
女の叫ぶに近い声が飛び込んで来た。
発生源は2人がいま立つ場所の直ぐ近くだった。
具体的には白い壁が立ち並ぶ中、その住宅の1つだった。
彼らは顔を見合わせる。以外にも早く2人の探索は終わった。
叫びの発生源に赴く前に、
ダ・ヴィンチサライに口づけをした。
「せんせい?」疑問と不安が入り交じった顔の青年に、
ダ・ヴィンチはいつ何が起こるか分らないからなとウィンクをした。
彼は内心では
可愛く美しい青年の顔に不安の色が刺すのも良いものだなと
加虐的な笑みを漏らしている。


だが、そんな物も、
見れなくなる時は急にやって来るものなのだろうな。
俺が死んだりサライが死んだりで。
それは半年前にナポリ王国で起きた悲劇から
ダ・ヴィンチが感じ実感した物だった。
彼は愛人にもう一度口づけをした。





     嘘は雪だるまである
     転がせば転がす程に大きくなる


     (キリスト教の改革者ルターの言葉)
     マルティン・ルター ドイツ人、キリスト教改革の創始者
     (1483〜1546)





《ここだな》


ダ・ヴィンチは叫びの発生源である民家の前に立っている。
白い壁。バルコニーを飾る花々と地面に向かって足れる蔦。
頑丈そうな木製の入り口扉。


サライダ・ヴィンチの背に居て
師の太く逞しい腕を掴んでいる。


ここに住んでいるいるのは夫婦だったはずだと
ダ・ヴィンチの記憶力が彼に告げている。
夫婦と直接話した事はなかったが、
互いの宅が近い事もあり顔を度々見かける事が在ったはずだ


ダ・ヴィンチが住人を呼び出す為に扉を叩こうといざ手を掲げると
建物の内側に向かって扉が勢いよく開いた。
中から頬を赤く腫らした女が泣いて飛び出して来る。
ダ・ヴィンチはその厚い胸板で女を抱きとめて
素早く自分の背、正確にはダ・ヴィンチの背に居るサライの更に後ろに回した。
数秒の間を置いて、息を切らした男が手を振り上げ女の追って飛び出して来る。
ダ・ヴィンチと男が対当する。ダ・ヴィンチは笑う。
男は泣きそうな顔をしている。


戸惑った男が声を出す。「な、なんだ、お前は」。
ダ・ヴィンチはやー、なんか叫び声を聴こえたのでねと
あっけらかんとした口調で返事を返す。
男のこめかみから汗が1滴流れる。
「警吏か自警団でも呼ぶ気か」男はそこで一呼吸置く。
乾いて張り付く喉に唾を飲み混む様にして言葉を吐いた、「夫婦の事で」。
男の顔は切迫している、目は泳いでいる。
焦燥と混乱。怒りと悲しみが男の心中を襲っているようだった。
女はサライの背で泣いている。


いや、呼ぶのは聖職者さ。
ダ・ヴィンチはにやりと笑う。
彼は唖然としている男に眼を向けたまま、
弟子であり愛人であるサライに、
近所にあるセルビ・ディ・マリア修道院に行って
イッポリト・アルドブランディー修道院長を読んで来てくれと命じた。
戸惑っているサライダ・ヴィンチ
俺が何時もの用事で呼んでいると言えば判る、
さぁ駆足だ!と語尾を強めて言った。
「はい!」返事をしたサライは、
女に向かって「せんせいに委せておけば大丈夫ですよ。安心してください」と
言って頬笑んでから修道院へと駆け出した。




《なんだよ、このワイン》


ダ・ヴィンチは夫婦の自宅の中にいる。
自宅にある食事用の卓と椅子に座っている。
卓の上に置かれたグラスを持ち口元に運んでいる。
グラスの中身は赤ワインだ。
ワインを彼に入れたのは、この家に住む妻だ。
同じ卓に付く夫の前にも同じ物が置かれている
だが、夫はワインに手を付けていなかった。
ゴルディアスの結び目で椅子に縛り付けられたかの如く身動き1つしない。


ダ・ヴィンチは家に入ってまず、自宅の家具や調度品を観察した。
その観察は今起こっているの問題の解決に意味はなく、
画家としての彼の趣味の用な物だった。
家具も調度品も品があり価値もそれなりに在る物ばかりだった。
その結果、ワインを飲むダ・ヴィンチは少しばかり不機嫌になっている。


金はあるだろうになんでこんなマズいワインを飲むかね……。
それも客に出すとか笑えるよ。
せっかくトスカーナを有するフィレンツェに住んでいるんだぜと、
眉間に皺を寄せてもう1度2度とグラスを口に運ぶ。
ダ・ヴィンチは家具と調度品とワインへの評価を下すついでに、
この家には都市に住む夫婦が作り出す、慌ただしい生活感や
神経質な秩序がない事を見抜いた。
今はどの家もこんなものかもしれねーなと眉間の皺を深める。
こう云う時程、旨い物食って、旨い物飲んで、
愛し合うのが重要だと思うんだけどな。
彼はグラスを空にした。


妻がダ・ヴィンチが開けたグラスに新たにワインを注ごうと動く。
それが合図になって居た様に夫が小さく動いた。
妻はワインのデキャンタを持ったまま動きを止めた。
怯えている様だった。
「俺だって怖いんだ」
夫は両手の先を自分の額に置いて俯いた。
今にも消え入りそうなつぶやきだった
気持ちはわかるよ、今は誰だってそうだ。
ダ・ヴィンチは片方の目尻と口元を上げて
嫌みにならない程度に夫へと明るく頬笑む。
でも、人の晩酌と愛人との愛の時間を邪魔して良い訳じゃねえんだけどなと
心中では思っている。
「私が悪いんです。私が五月蝿くして
 あなたの言う事を聞かなかったから」
女が小さい声でつぶやく。
動きは止まったままだが、その身を小さく揺らしている。震えているのだ。
「すまない……本当にすまない」
夫は今にも泣きそうな声を出している。
ダ・ヴィンチからは俯いている夫の表情が見えない。
夫は既に泣いているのかもしれなかった。
妻は「あなた……」と再び小さい声で呟いてから、
デキャンタをテーブルに戻して、
夫の方へ駆け寄った。そして肩を優しく抱いた。
男のすすり泣く声が聴こえた。
頬を赤く晴らす妻の顔。青ざめて泣く夫。




《あの時から色々な事が止まっちまった》


目の前の光景を見ながらダ・ヴィンチはそう思う。
だが、無理も無い。
彼自身、あの時はフィレンツェに居ながらも、
大地の大きな揺れを感じたのだ。
ダ・ヴィンチはまず始め、
ナポリ王国の側にあるヴェスヴィオ火山が噴火したのかと思った。
西暦1世紀はローマの政治家、
ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスは
友人であり同じくローマの政治家であるタキトゥスにあてた手紙の中で
79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が噴火した事を報告している。
その地に在ったポンペイという町は噴火した溶岩の下に沈んでしまった。
ダ・ヴィンチプリニウスの手紙をまとめた書簡集を読んでその事を知っていた。


悪かったのは天災だけじゃない。
混乱し怯える目の前の夫婦を見ながら、
ダ・ヴィンチはあの当時を思い出す。
空になったグラスに誰もワインを注いでくれないので、
彼は図々しくも卓のデキャンタを持ち上げて自分でグラスに赤ワインを入れた.
あの時から色々な奴が色々な逃げ方をしやがった。





     人間の細部において個別に判断するものこそ
     もっとも真実を言い当てるだろう


     (ボルドー市長、著作家。「エセー」の著者、モンテーニュの言葉)
     ミシェル・ド・モンテーニュ フランスの人文学者、政治家
     (1533〜1592)





《静かだ》


夫の泣き声は先程から止んでいる。
女と男が小さな声でつぶやきあっている。
一応、この場の混乱は落ち着いたらしい。
だが、とダ・ヴィンチは思う。
時が立てば、この女はまた混乱して不安に怯えて泣き叫び、
自分の不安をひた隠し耐えて来た男は
女の叫びに触発されて混乱して追いつめられて、
それらを収めようと妻の頬を引っ叩くんだろうな。
今夜の出来事の繰り返しだ。
問題は根本的な原因が解決していない事と、
人の不安や混乱はなかなか消えず立ち向かう勇気がなかなか涌かない事だ。
院長を読んでおいて正解だったなと彼は自分の判断を褒めた。


それにしても今、この状況は面白いな。
ダ・ヴィンチは不意に込み上げる笑いを抑える。
怯えて混乱し今は互いを慰め合う夫婦の横で
彼らが買ったワインを彼らの自宅で赤の他人が飲んでいる。
そんな不思議な状況に、彼は笑いを抑える。
笑えるし笑えるし面白いしすげえ笑えるし笑えるよ。
それにタダ酒ってのは良いものだなと思う。
再び空になったグラスにデキャンタから赤ワインを入れた。
デキャンタは空になった。
俺が失笑していまいないうちに
サライよ、早く院長を連れて来い。
彼は口元まで出た笑みを胃へと押し流す様にして、
勢い良く赤ワインを飲込んだ。




《お、来たな》


家の扉が叩かれる音がする。
「せんせい、アルドブランディー修道院長をお連れしました!」
外からは弟子の声が聞こえる。
抱き合っている夫婦を笑顔で制してダ・ヴィンチは弟子と修道院長を出迎える。
扉を開けると息を切らしている愛人と、
悠然とした雰囲気を纏いながらも困り顔をしている
イッポリト・アルドブランディー修道院長が立っていた。
サライが彼の顔をみて「せんせい」と言うので、
ダ・ヴィンチは弟子の柔らかい髪の毛を撫でた。
「やぁ」50歳になろうとしている
修道院長がそのままの表情で彼に挨拶をする。
ダ・ヴィンチはこんな夜なのに突然申し訳ないですと詫びた。
「そんなことよりも」修道院長はそこでいったん言葉を止める。
青年の髪の毛を愛情籠めて撫でている
ダ・ヴィンチの事を肩眉を釣り上げて見つめる。
「聖職者の前だというのに、きみは相変わらずだな」
修道院長は表情を悠然とさせたまま変えない。まるで優しい説教の様だ。
いや、ははは、すいません。
ダ・ヴィンチサライの髪の毛から自分の頭に手を持って行って、
申し訳ないという表情をした。
修道院長は鼻と顎と頬ともみあげ、
全てが繋がり白く茂るヒゲを片手でもふっと掴んで。
「きみらしい反応だな」と苦笑した。




《毎度すいませんね》


ダ・ヴィンチ
感謝と優しさと苦みが交じった笑顔で
アルドブランディー修道院長に再度礼を言う。
「今のご時世、仕方のない事だろう」
修道院長は平然とした顔で頷く。
黒色のワンピース、修道士の平服。その立ち襟を指で整える。
襟から裾まで釦が一直線に33個並んでいる。
その数はイエスが地上で暮らした年数と対応している。
黒い祭服を夜の暗闇の中で見るのも中々悪く無いなと
思いながらダ・ヴィンチはそんな事を思い出した。
彼が33個というボタンの数が持つ意味を知っているのは、
今、彼の目の前にいる修道院長が丁重に教えてからだ。


「こう云う時こそ、私達の出番だからね。
 不安に怯える人々を救わなくて何が教役者だというのだね」
修道院長のその言葉には若干の怒りが入っている様に感じた。
そういう所がこの人は良いんだよなぁと
ダ・ヴィンチ修道院長に悟られない様に心の中で笑顔を洩らした。
「それで彼から聞いたのだが、
 今回も何時もの様な感じなのかな?」
ええ、そうなんです今回は夫婦ですけど。
ダ・ヴィンチ修道院長の目を見つめて返事をした。
「なるほど、では案内してもらおう」
彼は頷いて修道院長を夫婦の家へと入れた。
外に残っているサライが不思議な目をして師の事を見つめている。
それに気がついた彼はサライにお前も入れよと言う前に
どうしたんだ?と尋ねる。
サライ
「せんせいは、何回もこう云った事をしているんですか?」と首を傾げた。
サライダ・ヴィンチ修道院長の会話を聴いてその事を疑問に思った様だ。
ダ・ヴィンチはなんだそんな事かよと思う。
お前がいる時は今回が初めてだったな。
アマルフィが海に飲込まれてから6回か7回位は
こんな事をしているはずだと答えてやった。
それを聞いたサライは眼を潤ませてから
「やっぱりせんせいは素晴らしいです」と胸に抱きついて来た。
ダ・ヴィンチは弟子に小声で今は修道院長が居るから後でなとつぶやいた。
心の中では兎に角落ち着いて酒が飲みたいだけなんだがなとつぶやいていた。


夫婦の目の前に修道院長が現れた時、
2人の男女は無言のまま今だ不安気で悲しい顔を白髭の教役者に向けた。
何はなくともまずはあいさつからだろうと、
修道院長は夫婦に
「やぁ、失礼しますよ。今日は月明かりが眩しい日ですね。
 月が良く出ています」と言った。






      真実こそ隠すに限る
      隠れ蓑に最適なのは良く出来た嘘だ


     (映画「三十四丁目の奇蹟」「喝采
      「大空港」の監督ジョージ・シートンの言葉)
      ジョージ・シートン アメリカの映画監督
     (1911〜1979)






《やはり、言葉は素晴らしい》


ダ・ヴィンチは目の前で行われている光景を見ながら
改めて実感する。


ダ・ヴィンチはイッポリト・アルドブランディー修道院長に
特別な懇意を抱いていた。
ダ・ヴィンチが絵画を本格的に制作する工房、作業所は
修道院長が治めるセルビ・ディ・マリア修道院の中にあった。
そこはサライを初めとしたダ・ヴィンチの弟子が
働く工房ではない。彼の個人的な作業所だった。
彼1人で事足りる絵画の作成、
或は1人にならなくては完成する事の出来ない作品はそこで作った。
場所を提供してくれたのは勿論、修道院長だった。
修道院長は彼が目指す宗教画の方向性に賛成したのだった。


いま、修道院長は夫婦に説教をしている。
聖書に書かれている物語と言葉から
現在の状況に在った物を取り出して
判り易い言葉に変えてその真意を説いてゆく。
正しい物と間違っている物がハッキリと区切られ
積み重なり作られている聖書の解釈を修道院長は使用して行く。
真贋が定められ詰みかさなる物はやがて権威を帯びる。
歴然とした権威と、権威の正しさだ。
それが聖書、そしてキリスト教が誇る歴史と学問だ。
アルドブランディー修道院長はそれらを踏まえ利用して
自らが語る言葉に信頼性を付与して行く。
信頼は言葉を聴く者に言葉の意味を信じさせる。
この場合は、2人の男女を落ち着かせて行く事になる。


ダ・ヴィンチの前で繰り広げらているのは、
講義でも談義でもなく、まぎれもない説教だった。
ダ・ヴィンチは長く続いている物は、
こう言う状況にこそ強いよな片方の口角を上げる。
師の横に座っているサライは、
「(先生は何か良からぬ事を考えているのではなかろうか?)」という
表情を顔に浮かべて居た。




《絵画には言葉がねぇんだよなー》


修道院長の説教を聴くダ・ヴィンチは眉間に皺を寄せる。
絵画には言葉がない、言葉には音楽がないが、音楽には絵がない。
表現から感じる連想や想像ではなく、
絵画や言葉や音楽が持つ本質的な部分での話しだ。
何もかも一長一短かねーと彼は小さい溜め息をつく。


修道院長は夫婦に如何に社会が混乱している時こそ
愛を持ち恐怖に負けず落ち着いて未来を見据え、
明るく生きる事が大切であるかと説いている。
夫と妻は手を取り合い修道院長の言葉に聴き入っている。
2人には最早混乱がない。
時折互いの顔を見つめ合う。その目には信頼の高まりがある。


何もかも一長一短。
だったら絵画に出来る事もあるかもな。いや絵画だからこそか。
それを目指して見るの面白いかもしれねーなと
ダ・ヴィンチは瞳孔を僅かに開けて瞳を鋭く輝かせる。
師の横に座っているサライは、
「(先生は更に何か良からぬ事を考えているのではなかろうか?)」という
表情を顔に浮かべて居る。




《夜中に申し訳なかったね》


修道院長の説教は終わった。
ダ・ヴィンチは家の入り口の前で、
夫婦に対して深夜に突然来訪した事を詫びた。
「いえ、礼を言わせて下さい」と夫婦は返す。
夫の方が彼の事を強く抱き締め感謝の情を表現した。
好みじゃねーからうれしくねー。
ダ・ヴィンチは気にしないでくれよと言ってから
ゆっくりと夫を自分の体から引き剥がした。


修道院長は最後にもう一度言葉を放つ。
妻には
「貴方が不安に怯える時、人もまた怯えているのです。
 貴方から光をつけなさい」と言った。
夫には
「思いを自分で言葉にせずに、代わりに誰が言葉にするでしょうか?
 家族を信じなさい」と言った。


ワインをありがとう。
ダ・ヴィンチは最後に笑顔を見せて2人の家から去る。




      
       真理はたいまつである。しかも巨大なたいまつである
       だから私たちはみんな目を細めて
       そのそばを通りすぎようとするのだ
       やけどする事を恐れて


       (ファウストの著者。
        疾風怒濤運動の立役者、ゲーテの言葉)
       ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ ドイツの詩人
       (1794〜1832)





《やっぱすげえな》


ダ・ヴィンチと彼の愛人と年上の友人は、石畳の上を歩いている。
それぞれが帰るべき場所へ向かう。途中までは道が同じだった。
歩きながらもダ・ヴィンチは、修道院長が行った説教を頭の中で反復し、
混乱し怯える夫婦を落ち着かせる様に感心していた。


ダ・ヴィンチの自宅と
アルドブランディー修道院長が治め、
ダ・ヴィンチの工房があるセルビ・ディ・マリア修道院
フェレンツェの同じ地区に立っていた。街中の中心地だ。
詩人でトスカーナ語で書かれた「神曲」を著した
ダンテ・アリギエーリがフェレンツェで暮らしていた時期の邸宅も近くに在った。


ダ・ヴィンチの自宅とセルビ・ディ・マリア修道院が近くに在るのは偶然ではない。
修道院に彼の工房が置かれる事が許可されてから
ダ・ヴィンチがここに越して来たのだ。
数年前まで彼はそことミラノの工房を行き来して生活していた。
今はフィレンツェにだけ宅が在る。
それより以前の彼がフィレンツェに置いた自宅は
ダ・ヴィンチの師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房近くに在った。


1472年、ダ・ヴィンチ18歳の時に、
芸術家組合である聖ルカ協会から親方(マスター)の資格を授かり
父の協力を得て小さな工房を立ち上げたのた。
彼はそこで寝泊まりをして単独で作品を作成したり、
師であるヴェロッキオと共同で作品の制作に取り組んでいた。


さらに以前は師の工房に通い学び働いていた。
父親と、父の4回目の再婚相手と共に暮らしていた。
ダ・ヴィンチにはつまり5人の母が居た。
育て親を含めるとその数はもっと多くなる。
彼と様々な母親達との間には
様々な問題と様々な関係があったが、御陰で学んだ事も多かった。
自分が男も女も愛す様になったのは彼女達が原因だろうと
ダ・ヴィンチは思っている。それには彼は感謝していた。
男女共の美しさを知り合いしてこそ、
美しく力図よく繊細な絵画や彫刻が作れるのだと思っている。


あの時代、ダ・ヴィンチは同門の門弟であり、
同僚でもある者達と芸術、技術、美学の事を語り合った。
師であるヴェロッキオからの影響は言うまでもないが、
ダ・ヴィンチより17歳年上でヴェロッキオの
弟子にして協力者であるジョヴァンニ・サンティや、
7歳年上であり同じ1466年に工房に弟子入りした
サンドロ・ボッティチェッリからも影響を受けた。
サンティは勿論、同期とはいえ既に数人の師の下で
絵画を学んでいたボッティチェッリとの話しは刺激的であり、
学ぶ事が大いに在った。ダ・
ヴィンチはあの時代を2度と得る事の無い大切な財産だと思っている。
手放してはならない物と思っている。


ダ・ヴィンチは彼らの事を思い出す。
この状況下で彼らはどう暮らしているのだろうか?
ボッティチェッリは新作を書いているのだろうか?
サンティとその子供は元気にしているだろうか?
ダ・ヴィンチはサンティの子供と一度会った事がある。
場所はサンティが宮廷画家をしているウルビーノ公国だ。
ウルビーノ公国フィレンツェ共和国
シエラ共和国の間に挟まる小国で海に面している。
サンティ親子はそんな場所で暮らしていた。
子供の名前はラファエロと言ったか。
サンティの子供なら良い画家になるだろうとダ・ヴィンチは確信している。
だが、社会が混乱している今、
サンティ親子は大丈夫だろうかと急に心配になった。
どうもあの夫婦に当てられちまったかなあと、
ダ・ヴィンチは眉間に皺を寄せる。


「修道士でも怯える者が多くてね……」
ダ・ヴィンチが眉間を寄せたのを見計らう様に
修道院長はつぶやく。
ああ、まぁそうでしょうね、とダ・ヴィンチは返事を返す。
教役者でも貴族でも恐ろしい物は恐ろしいのだという事の証明を
ダ・ヴィンチそして同時代に生きる人々は十分に見て来た。
災害が起こる前に威勢のいい事を言っている奴に限って即行で逃げちまった。
揺れ。波。火山。噂。恐怖。ダ・ヴィンチは苦笑を抑える。
逃げ出さないだけいいじゃないですかと修道院長に言う。
あるいは、逃げられないだけかな?と心の中で悪態をつく。
平和な時、修道院長が先程の夫婦にした様な説教をする聖職者は沢山居た。
だがいざ事が起きてから同じ事を出来る聖職者の数は極端に減った。
重圧に耐えられなくなって逃げたり、
自分自身が怯えて身動きを取れなくなったのが理由だろう。
そんな中、修道院長は聴衆に教えを説くだけではなく、
こうして夜中に呼び出しても教役者としての役目を果たすのだから
相当に大したものだ。
ダ・ヴィンチはそんなアルドブランディー修道院長の事を
好み尊敬していた。彼が好意を表明するまでもなく、
修道院長は他の聖職者からも一般の教徒からも尊敬を集めていた。


ダ・ヴィンチ修道院長であり、
司祭枢機卿としての位階と称号を与えれている
イッポリト・アルドブランディーニは
何れ教皇に選出されるかもしれないと予想している。
修道院長と言う立ち位置、
司教枢機卿ではなく司祭枢機卿という所が選出の押しとしては弱いが、
大きな修道院の長が司教並みの権力と財力を持つ現代ならば
それも可能だろうと思っているのだ。
何より人間として、教役者としてアルドブランディー修道院長は
何の問題もない人物だ。


そんな事をダ・ヴィンチが考えているとは知らずに、
修道院長は片手で自分の白髭をもふっと掴み宙を見る。
「本来は私は修道司祭であって、
 在俗司祭ではないのだからね。
 こう云った行いは在俗司祭がするべきであり、
 修道司祭としての私は修道士達を教え規律を正し
 共に神に使えるのが本務であってだね。
 それに私は枢機卿としては教皇の特使として
 急遽遠地へ赴く可能性もあるのだから、
 夜中は寝て体力を養わねばならぬのだよ。
 修道院に付属するインノチェンティ養育院の
 運営もしなくてはならないし。
 それに科学的な事を訊かれたらどうしようかと
 毎回冷や汗ものだよ。私は学者ではなくて聖職者なのだからね」とつぶやく。
だがそのつぶやきはダ・ヴィンチに対する文句というより、
何処かの誰かに対する不満事の様に聞こえた。


ダ・ヴィンチは気持ちは判るがと前置きした上で心の中でつぶやく。
この人は堅物というか真面目すぎる所があるなと。
ダ・ヴィンチが描こうとしている宗教画の
神性ではなく人間性の大きさには賛成なのに、
科学力学に関しては神の領域を起す事がないのかと危惧している。
近年フィレンツェに入って来たイスラム教圏の飲み物、
コーヒーが好きで
「この飲み物に問題が在るなら洗礼を授けてしまえば良い」と言う一方で、
人間が起す行動の規律には厳しい。
そこまで考えてダ・ヴィンチはああ、この人は物には甘く
人間には厳しい人間なのかと理解した様な気がした。
人間に厳しいのは悪い事ではない。
だがいつかそれが、彼に汚名を注ぐ事にならなければ
良いのだがと年上の友の事を心配した。
ダ・ヴィンチは何にせよ、修道院長は悪くは無いと思う。
魔女狩りと異端審問の活性化、
金銭による位階の売買を行った先代の教皇、インノケンティウス8世。
1492年現行、今年になってから教皇の地位に着いている
アレクサンデル6世ことロドリゴ・ボルジアよりは遥かにマシだろう。


ダ・ヴィンチは同時代、
ローマ教皇の威光が届く所々の都市国家で暮らす人々と同様、
教皇アレクサンデル6世の事を嫌っていた。
枢機卿の称号を持つ教役者達による教皇選出の投票会議、
コンクラーベの際、ロドリゴ・ボルジアが
多くの枢機卿を買収、恐喝した事を知っていた。
コンクラーベに参加する枢機卿の2/3以上の得票数を得れば
教皇になる事が出来た。
話しを広めたのは買収に載らなかった枢機卿達だ。
ダ・ヴィンチコンクラーベに参加した
アルドブランディー修道院長から話しを聞いていた。
彼はさらに、教皇が息子のチューザレ・ボルジアを
急遽バレンシア教区の大司教に任命した事も気に食わなかった。
画家として教役者を含むキリスト教徒や政治家とも通じている
ダ・ヴィンチはアレクサンデル6世のその他の悪事も知っていた。
彼は例えヴァチカンに呼ばれ絵を描く名誉に預かっても
あいつらが教皇のうちは絶対に絵も描かねーし、
知恵を貸すのも建物を設計するのもその他の協力もしねえからなと
自分に誓っている。


それに比べれば、
アルドブランディー修道院長はだいぶ増しだ。
完璧な物などそうそうなく、自分でさえ作り出すのは難しい。
だから悪いものの中から一番マシなものを選択するのも悪く無いと
ダ・ヴィンチは考えている。そういう事を考えるのは楽しかった。


修道院長は
「でも、それを行う者がいないのならば、
 私は喜んでするよ」と
再び白髭を片手でもふっと弄りながら言う。
修道院長は夜の空を見上げている。
目線の先には幾千の夜よりも明るく輝く月があった。


なぁ?まったくもって悪く無いなろう?
ダ・ヴィンチは自分に向けて笑顔になった。




《今度良いコーヒー豆をお持ちますよ》


セルビ・ディ・マリア修道院まで白髭の修道院長を送った
ダ・ヴィンチサライの2人は別れ際にそんな事を約束した。


次にダ・ヴィンチサライを宅まで送る。
その後で彼は自宅に戻りワインを飲み直す予定だ。
ダ・ヴィンチサライにフィレンテェで暮らす宅を用意してやっていた。


数時間ぶりに愛人と2人きりになったダ・ヴィンチは、
修道院長の真似をして愛人の毛を片手でもふっと掴んだ。
掴んだのは髭ではなく髪の毛だが。
師よりも少しばかり身長の低いサライ
僅かに上目使いで彼の事を見つめて、委せるままにしている。
ダ・ヴィンチはその顔をちょっとした悪魔じみた美しさだと思う。


ダ・ヴィンチダ・ヴィンチサライと呼ばれる前の
ジャン・ジャコモ・カプロッティが出会ったのは1490年。
大体2年前の事だ。
彼がミラノ公国の統治者ルドヴィーコスフォルツァの依頼で
ミラノ市にあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
食堂の壁に【最後の晩餐】を描いた直後だった。


ダ・ヴィンチはミラノ公スフォルツァから
金銭の他に報酬として、ミラノ公が所有していた
ミラノ市内のブドウ畑を譲り受けた。
ブドウ畑はミラノ市内の中心に耕されている。
畑は城門と城壁の遺跡に隣接していた。
遺跡は帝政ローマが半島を征服し
諸処の都市が都市国家に分裂するまでの時代に建てられた物だった。
ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前44年、
ブルトゥスによってに暗殺された。
カエサルの死で激化した内乱を制したは
カエサルの義理の息子アウグストゥスだった。
アウグストゥスが皇帝に就任した紀元前27年、帝政ローマが始まる。
帝政ローマは395年テオドシウス1世が死去し、
領地の東側を長男に、西側を次男に分地した事で終わりを告げる。


ダ・ヴィンチがミラノ公から授けられたブドウ畑は、
そんな時代に建設された城壁と城門の遺跡の直ぐ隣りにあった。
草や樹々が疎らに生える地の上に、古い壁と門が立つ。
表面には緑色の苔が生している。
ブドウ畑から伸びる蔦の一部は、
歴史ある壁と門の跡形に絡み付いていた。
そこから畑の端を見ようと遠くを眺めても、
なだらかに標高を上げる地面に生えるブドウの蔦と、
ゆるやかに円を描く青い空に映える白い雲に阻まれる。
今ではミラノという都市の領地は帝政ローマ時代より遥かに大きく広がっていた。


ダ・ヴィンチのブドウ畑も面積は広く、
真面目にワイン作りを行えばそれなりの財産を生み出しそうだった。
彼はブドウの性質を調べ、
どうすれば効率よく旨いワインを大量に作れるか考えた。
その行程は楽しくもあったが、ダ・ヴィンチにとっては
あまり現実的な事ではなかった。
彼はルドヴィーコスフォルツァから賜ったブドウ畑を
育てる気など端からなかったのだ。
理由は幾つかあったが
一番重要なのは、ブドウ畑を運営するのには
そこに大きな情熱を注がなくはならない事だった。
ワイン作りに注ぐ情熱は
勿論他の事、例えば絵画の作成や作品の為の情報収集、
閃きの発現に注がれる分から差し引かなくてはならない。
ワインを作るのも、絵画を作るのもどちらも一朝一夕では出来ない事だった。
ダ・ヴィンチは迷う事なく絵画の方を選んだ。
その時、彼は
まぁ俺はもともとミラノのワインが好みではないのだからなと自分を慰めた。


ダ・ヴィンチは雇い主であるミラノ公スフォルツァ
ワイン畑を返還する事を申し出た。
代わりに僅かでも金銭を貰えれば良いと思っていた。
ところがブドウ畑の前・持ち主は彼が思ってもいない事を言った。
「なるほど、流石代が見込んだ男よ!
 ならば、畑を人に貸せばよかろう?」
スフォルツァは色黒の顔を破顔させる。
そんな事しても良いんですかね?
ダ・ヴィンチは主の意外な言葉に驚く。
「がはは、無論。
 畑の持ち主は最早、御主だろう。我ではないからな」
ダ・ヴィンチは何か肩透かしをされた気分になる。
更にスフォルツォは言う。
「当てが無ければ、信頼出来る借地人を紹介するぞ?」




《本当に?ではそれでお願いしますよ》


ダ・ヴィンチスフォルツァ
彼の主として、そして友として申し出た提案を
ありがたく受け入れる事にした。


数時間後、
ダ・ヴィンチは公証人の立ち会いで、
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニという男との農地貸借契約を結んだ。
彼は賃料として畑から作られたワインの売り上げの数割りを貰う事になった。
もっとも、契約書にサインをしたのは、
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ本人ではなく、彼の代理人だったのだが。


こうしてダ・ヴィンチ
報酬が安定しない絵画制作や発明の対価以外に
定期的に一定以上の収入をもたらす源を得た事になる。
この段に来てダ・ヴィンチは全てがスフォルツァの計らいだと気がついた。
ダ・ヴィンチがブドウ畑を運営するならそれもよし、
そうでないならば借地人を紹介する。
畑自体が資産になるのは勿論の事だが
どちらにしろダ・ヴィンチにとっては良い収入源になる。
スフォルツァの提案から数時間で
契約を完了したのが何よりの証拠だった。


彼はスフォルツァが行った計らいの手際の良さと
自分に対しての嫌みや押し付けがましさが一切無い気配りの仕方に
感心した。そしてより一層スフォルツァに信頼を寄せ、友情を深めた。





     『ガニュメデスの誘拐』


     (オランダの画家レンブラントギリシア神話上の同性愛
      ゼウスによるガニメデの誘拐を描いた絵画)
     レンブラント・ファン・レイン オランダの画家
     (1606〜1669)





《ありがたい事ってのは続くものだな》


ダ・ヴィンチがブドウ畑を
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニに貸し、
ピエトロが雇うワイン農家達がミラノ公国に移住した数日後、
彼はそんな事を実感した。


ピエトロ・ディ・ジョヴァンニは
大陸に存在する諸処の国家を股に掛け商いを営む
貿易会社を経営するジョヴァンニ家の長男だ。
ジョヴァンニ家はミラノ公国に籍を置き、
ワインや香辛料などを含む食料品を主な商品としていた。
各国で1番高値で売れるワインがシチリア王国産の物だ。
2番目はトスカーナ産で次いでミラノ産のワインと言う順番になる。


ジョヴァンニ家は数年前に家長を亡くした。
後を継ぎ貿易会社全体の経営を行っているのは、
兄弟の中で1番優秀である次男のアンデレ・ディ・ジョヴァンニだ。
ジョバンニ家の家長とその妻マッダレーナ・ジョバンニの
子供はピエトロ、アンデレを含めて12人いる。12人兄弟だ。
長男ピエトロはアンデレと比較すれば能力は劣るが、
それでも貿易において重要な商品である
ワインの製造販売管理を任されていた。


兄弟は本来、13人兄弟となるはずだったのだが、
家長の死後、後を追う様に
末っ子のジューダス・ディ・ジョヴァンニが亡くなってしまう。
死因は転落事故とも自死とも言われている。
兄弟の長男は40を越えていたが、末っ子は12になったばかりだった。
兄弟はこの時点で11人兄弟だった。
だが驚いた事に、家長は忘れ形見を残していた。
家長がこの世を去り、直後ジューダスが亡くなった後。
丁度8男のトンマーゾが家長の死が不自然な物であるとして、
死亡原因を執念深く必要に調査していたときの事だ。
兄弟の母親マッダレーナが妊娠している事が発覚した。
数ヶ月後、新しく誕生した末っ子はマティアと名付けられた。
こうしてジョバンニ家の兄弟は再び12人となった。


ダ・ヴィンチが農地貸借契約を結んだ
ピエトロ・ディ・ジョバンニとはそういった人物だった。


1488年には大陸最西端に位置する国、
ポルトガル王国の航海士バルトロメウ・ディアス
暗黒大陸の最南端である希望岬に航海で到達している。
ディアスの祖父と父は共に大航海時代の幕を切った
エンリケ航海王子に仕えていた。
そんな生粋の船乗りの家系から生まれた者が希望岬に辿り着いた。
その事によって大陸から希望岬を経由し、
アジアへと続く航路の開拓と、新大陸の発見が期待された。
新航路の開拓は新たな顧客と商品を得る事を意味する。
貿易という商売は船と航路があっても、商品が無ければ行う事が出来ない物だ。
故に、扱う商品の生産量を大幅に上げる事で利益の拡大が期待で来た。


画家であり発明家でありブドウ畑の持ち主である
ダ・ヴィンチとジョバンニ家の長男
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニとの間に交わされた
農地貸借契約にはそういった背景もあったのだ。




《やばいだろ、美しすぎる》


単純に言っても俺の好みだ。
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニのワイン農家達が
彼の畑に手を付け始めて数日後、
ダ・ヴィンチは職業としてワインの生産を行う物達の
手腕を見学しようとブドウ畑に向かった。
彼は帝政ローマ時代の城門が建つ場所までやって来た。
そこでダ・ヴィンチの目を奪ったのは広大なブドウ畑でも、
働く農家の動きでもない。
昼食の休み時間、1人、枝で地面に絵を描いている青年の顔だった。


ダ・ヴィンチは、サライと出会った。
サライは人1人が腰掛けられる程の岩に座っていた。
手には枝を持っていた。枝で地面に砂で絵を描いていた。
ダ・ヴィンチはその横顔を見た。
その顔は一目でもあるいは一週間凝視し続けても、
男女どちら物であるが、判断が出来ないだろうおのだった。
男の美しさと、女の美しさ、両方を持った造形だった。
ただ、青年の身体が自らが男である事を語っていた。
しなやかな肉体。なでらかな肌。角張った骨格。
最後の骨格が青年が男である事を証明している。
男女の違いが判らぬ中性性。両方の特徴を持つ万能性。
宗教史と美術史からみても青年の造形は美しい物だった。
だが、ダ・ヴィンチ
そんな美学の理論も宗教と文化人類史の倫理も越えて、
青年の顔を美しいと思った。
端的に言うと、趣味というやつだ。


「こんにちは……」
彼の視線に気がついた青年は戸惑いながら言葉を発した。
こんにちは、とダ・ヴィンチも挨拶を返した。
2人の間に数秒沈黙が流れる。
その間に彼は青年が描いていた絵を眺めた。
髭を生やした壮年の男が描かれている。
下一体型の服であるトゥニカを着て
1枚布で出来たトーガを巻き付けている青年も描かれている。
男は青年の脇腹に手を入れてその裸体に触れようとしている。
砂上の絵なのにそれがハッキリと判った。
ダ・ヴィンチはその絵が聖トマスの懐疑を描いているのだと一目で判断出来た。


エスの弟子であるトマスが
師の復活を疑う場面が書かれていたのは
新約聖書ヨハネによる福音書20章の
19節から31節までだったかなと思い出す。


ダ・ヴィンチは挨拶を返してから、
絵を描いてるんだな?と質問した。
青年は「ええ、好きなんです」と笑顔になる。
18歳になろうとしている青年の笑顔に、
彼は再び引き寄せられる。


ダ・ヴィンチは再び地面の絵を眺める。
審美を見極めようとする。
聖トマスの懐疑はダ・ヴィンチの師である
ヴェロッキオも作品のモチーフにしている。
師の作品は青銅の彫刻であったが。
ダ・ヴィンチは青年の描く絵を師匠の作品と比べるには
あまりにも出来が離れ過ぎているが、描く線そのものは悪く無いと判断する。


聖トマスの懐疑だな?とダ・ヴィンチは青年に尋ねる。
「はい、ミラノにはボッティチェッロが描いた
 聖トマスの懐疑があるんです。
 それを見てからこの場面が心から離れないんです」
青年は自分が描いた若きイエスの傷穴に手を触れる
壮年の使徒を見ながら言った。
青年の言葉は王侯貴族や聖職者の物とは違い、
ミラノ語の訛が強かったがダ・ヴィンチには聴き取る事が出来た。


ダ・ヴィンチボッティチェッロはボッティチェッリ
最初の師匠だった画家の事だったかなと思い出す。
次に青年に2つ目の質問をした。
懐疑の意味は知っているのか?
ダ・ヴィンチの質問に青年は歯切れよく返事を返す。
「イエスの肉体が実際に復活したと証明する場面ですよね。
 それと見えるから信じるのではなく、
 見えなくても信じる事の大切さを説いている場面です」


完璧だなとダ・ヴィンチは青年の回答に頷く。
彼はワイン農家だと思われるこの青年に
何処まで知識があるのかを試したくなった。
トマスの意味は知っているか?
この問いに青年は申し訳なさそうな顔をして
俯いてから首を横に振った。


ダ・ヴィンチは答えを言う。
アルム語、当時のイエス達が話していた言葉で
双子を意味する単語ディディモをギリシャ語に訳すとトマスになる。
ダ・ヴィンチの言葉に青年は大きく頷き、
嬉しそうな顔になる。目を輝かせて目の前の男に質問する。
「誰と双子だったのでしょうか?」
青年の疑問にダ・ヴィンチは素直な好奇心は素晴らしいなと思いながら回答する。
調べて調べても誰の双子なのか判らないんだよ、困った事に。
でも、だが、こういう解釈もある。
仲の良い友達の事を兄弟って呼ぶだろ?多分それだろうって言うやつさ。
ダ・ヴィンチの解説に青年は大きく頷いた。


陽は天空から僅かに傾き、
透明な色を橙色へと変えて地面を照らしている。
ブドウ畑は湿った土の匂いを纏い、蔦を茂らせる。
縦列する樹々の間を冷風が吹き抜け、
2人の髪と衣服を緩やかに揺らした。


ダ・ヴィンチはそこで自分が何者であるかをまだ名乗っていない事に気がついた。
自分の名前はレオナルド・ダ・ヴィンチであるという事。
今日、このブドウ畑に居る理由を青年に話した。
彼の言葉に青年は眼を一段と輝かせた。
ダ・ヴィンチがサン・フランチェスコ・ グランデ聖堂に祭壇画として
制作した【岩窟の聖母】を何度も見た事があるのだと言う。
青年はダ・ヴィンチの名前と存在を知っていたのだ。
それから【岩窟の聖母】の素晴らしさを言葉多くして
目の前に居る制作者に対して素朴な青年らしく熱く語った。





      こうして彼はいまだ知られない技に打ち込む


     (「ユリシーズ」を著作した作家ジョイスの作品
      「若き芸術家の肖像」のエピグラフより)
      ジェイムズ・ジョイス アイルランドの小説家
     (1882〜1942)
      




《それは嬉しいね。では今度は君の事を教えてくれよ》


ダ・ヴィンチの言葉で、
青年は自分が何者であるかを名乗っていない事を思い出した。
青年はハキハキとしかしどこか照れている風に自己紹介を始める。
もしかし青年は緊張しているのかもしれない。


ジャン・ジャコモ・カプロッティ。
それが美しい顔を持つ青年の名前だ。


ジャン・ジャコモ・カプロッティのジャンもジャコモも聖人の名前だ。
ジャンはイエスの洗礼者とイエスの弟子。合計2人のヨハンナのフランス語読みだ。
一方のジャコモは始祖アブラハムの息子イツハクの息子ヤアコブ、
別名イスラエル、全てのユダヤ人の祖。
またはイエス使徒に含まれる2人のヤアコブのイタリア語読みだ。
ジャン・ジャコモ・カプロッティ。
ダ・ヴィンチはそんな青年の名前を面白く思った。


聖人。
確かに青年の美しさは神聖さを感じさせる。
だが、ジャン・ジャコモに一瞬で魅了された
ダ・ヴィンチは、この青年は聖人というよりも
人を美しさで誘惑する悪魔の方があっているよなと1人頷く。
青年はダ・ヴィンチのブドウ畑を実質的に管理している
農家の長の子供なのだと言う。
絵はダ・ヴィンチが聞いた事の無い工房で倣った事があるのと、
趣味で描く中で覚えた程度なのだという。
なるほど。ダ・ヴィンチはジャン・ジャコモの現状を聴いて
青年の聖書理解の度合にある背景を理解した。


彼はもう一度地面に書かれた絵を眺めて、
腕を磨けば良い絵を描く様になるだろうと考える。
なにより、ジャン・ジャコモ・カプロッティの事を側に置きたい衝動にかられた。


さっき話した、このブドウ畑を貰う原因になった絵画があるんだが
良かったら今度観てみないか?
最後の晩餐は修道院の食堂に描かれているので、
修道僧以外の者は立ち入り事が出来ない。
さが、制作者であるダ・ヴィンチならば別の話しだった。


彼の提案にジャン・ジャコモは喜んだ。




《まったく、人生っていう奴は複雑だな》


ミラノの自宅で
寝ているサライの裸体を見ている、
ダヴィンチはサライの頬を手の甲でなぞる。


この年、ダ・ヴィンチでのミラノの仕事は
絵画制作以外にも数多くあった。
スフォッルツァ城で行われた主、ミラノ公と
フェラーラ公エルコレ1世の次女ベアトリーチェとの結婚式で
彼と同郷の宮廷詩人ベッリンチョーニが制作した詩劇【楽園】が上演された。
舞台装置を作り演出を行ったのがダ・ヴィンチだ。
またミラノ公の部下である武将ガレアッツォ・サンセヴェリーノと
部下達が馬上槍試合の前に行う行列の為に衣装を制作した。


その合間を縫って、ワイン畑で出会った2人は、
ミラノにあるダ・ヴィンチの作品を見て回り、
ダ・ヴィンチサライに知識と技術を少しずつ教えて行った。
サライは彼の仕事の手伝いをする様になっていた。
2人は師と弟子も同然の関係になって居た。
ダ・ヴィンチが自らの性的な好みと性愛恋情愛情から
ジャン・ジャコモの唇と身体に手を掛けた時、
青年は一切の抵抗と拒絶を示さなかった。
ダ・ヴィンチサライに魅了されてからそういった関係になる事を望んでいたが、
サライもまた彼と同じ事を望んでいた様だった。


ダ・ヴィンチサライに様々な事を教えはしたが
サライの事を教わりもした。
サライは本来、ダ・ヴィンチの畑を取り仕切る
ワイン農家の息子ではない。
彼はジョヴァンニ家の長男、
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニとフランス人の愛人の間に生まれた子供だった。
当然、ジョヴァンニの性名は名乗れない。
ジャン・ジャコモ・カプッロティ。
カプロッティはジャン・ジャコモを生んだ母親の姓だ。
母親は何年も前に幼い彼を残して死んだ。
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニは1人残されたジャン・ジャコモを
ジョヴァンニの貿易会社のワインを作る畑の管理者に預けた。
管理者は子供のいない中年の夫婦だった。
その御陰でジャン・ジャコモは衣食住で困った事は無い。
今では青年と父親が顔を合わす事は数年に1度、
それも僅かな時間に限られたが、ジャン・ジャコモは父を恨んだ事が一度も無い。


ジャン・ジャコモはダ・ヴィンチにそう言った。
ワイン畑。にある、石で作られた小さな休憩場の前。
冷風が吹く誰もいない夜。苔生す古代ローマの城門。
朽ち果てた城壁。ワイン畑の中でのたき火。
その前で1つの毛布に包まれる2人。夜空。星。匂い。感触。
ジャン・ジャコモはダ・ヴィンチに肩を抱き締められながら、
自分の生い立ちを告白した。


ミラノの自宅で
寝ているサライの裸体を見ているダヴィンチは
サライの頬を手の甲でなぞりながら、
こいつに新たな名前を付けてやろうと思いついた。


命名の先に在るのは新たな人格と運命の創造と加護だ。
そして個人的にはダ・ヴィンチの独占欲。
彼は愛する男を自分の物にしたかった。
大切にして青年が思うままの未来を歩ませてやりたい。


名前は一瞬で決まった。
アンドレア・サライだ。




サライというのは小悪魔という意味だ》


彼に青年に画家としての名前を
与えると言った時、ジャン・ジャコモは喜んだ。
ダ・ヴィンチがジャン・ジャコモ・カプロッティに
与えた新しい名前はアンドレア・サライだ。


アンドレアはイエス使徒であり、
同じく使徒のシモン・ペトロスの兄あるいは弟である聖人の名前だ。
次に、サライという名前の意味を、
青年に教えた時、サライは不満を表明した。
「小悪魔ってひどいです。僕、先生に何かしましたか?」
サライの珍しい怒り顔にダ・ヴィンチは笑いそうになる。
なんとかして堪える。
ダ・ヴィンイは心の中で、ああ、十分すぎる事を俺にしただろと笑った。


サライ旧約聖書のトビト記に登場する人物から拝借した名前だ。
トビト記は異教の地で暮らしながらも
主を信仰しシャルマナサル王に仕える信行者トビトと
息子トビアの災難と信仰と救いの話しが記してある。
トビトは人生の道中で失明する。
息子トビアは天使ラファエルの助言で悪魔に取り付かれている女性を救う。


女性は不幸に見舞われていた。
7回結婚した女性は7度、初夜前に夫を殺された。
彼女は若く、美しかった。
2度、3度と夫が殺されても自分ならば大丈夫だと
求婚する男が現れた。


彼女は悪魔に取り付かれていたのだ。
悪魔の名をアスモデウスという。
アスモデウスは色欲を司る。
彼女の夫達を殺していたのはアスモデウスに取り憑かれた彼女自身だった。


息子トビアは友人であるアザリアの助言に従い、
寝室で魚の胆のう、心臓、肝臓を香炉で焚き
彼女に取り付いていた悪魔を追い払った。
息子トビアと女は結婚した。
息子トビアはその後、父トビトの視力を魚の胆のうを使い回復させた。
友人アザリアは天使ラファエルが人間の姿として地上に現れたものだった。
ラファエルは逃げたアスモデウスをエジプトへと封印した。


悪魔に取り付かれた、美しい夫殺しの女性の名をサラという。


サラという人名は始祖アブラハムの妻サラの名前でもある。
だが悪魔の様な、それも男と女を超越した美しさを持つ青年に
心を射抜かれたダ・ヴィンチはトビト記のサラという名前こそが
愛人の新名に相応しいと思った。


しかし、それでは青年の名前にしては
女の面、それも妻や母として側面が強調され過ぎる。
だから彼はサラにトスカーナ語で親愛を示したり可愛らしいと感じたものや
小さい物の語尾に付けるinoを付け加えてSarainoとした。
これで悪魔に取り付かれた美しい女の名前サラは、
サライーノ、小悪魔になった。


それから妻や母という側面から逃れさせるため、
そして妻サラの名を男に付けるのが恐ろしかった為に、
SarainoのRをLに変更して、Salainoにした。
短縮してサライと呼ぶ事にした。


そこまで考えた所でダ・ヴィンチは気がついた、
アブラハムの妻サラの元の名はサライであった事を。
アブラハムの元の名はアブラムであり、
妻サラの元の名はサライだった。


アブラムが99歳、妻サライが89歳の時、
主は1年後に夫婦に子供が生まれる事を伝えた。
夫婦の間に子供が生まれた事は今まで1度も無かった。
主は、夫婦に改名する様に行った。
アブラムはアブラハムに、サライはサラになった。


旧約聖書内の創世記17章に5節にはこうある。


あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、
あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。
わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。


15節にはこうある。


神はまたアブラハムに言われた、
あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。


サライはサラになった。
トビト記のサラも妻サライの名を取りサラと名付けられている。
ダ・ヴィンチは弟子であり愛人の名前を
2人のサラから拝借して名付け、更にサライと変更した。
この大きな偶然と人名の旋回にダ・ヴィンチは愉快な気持ちなった。






《中編へ続く》


前編;本文
中編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130415/1366044153
後編;http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20130417/1366177435





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【バレンタインデーの短編】きみは笑えるバレンタイン(My Funny Valentine)

【まえがき】
遅ればせながらバレンタインデーの短編をドロップします。
このディレイは意図的な物です。
この小説はバレンタインデーの為の物ですが、
バレンタインデー当日にドロップすべき物ではないと判断したからです。
バレンタインデーらしくチョコレートに例えるのが許されるのならば、
このお話はミルクでもナッツ入りでもなくてビターな味です。


それではどうぞ、よろしければ
「きみは笑えるバレンタイン」をお楽しみ下さい。






【きみは笑えるバレンタイン】
(My Funny Valentine)



きみの心は嫉妬と怒り、
それに対する優越感と愛情の狭間で浮遊していた。


一人の部屋。
一人の部屋でだ。
その部屋はきみの心を浮遊させている人間の持ち物だ。


部屋の片隅。
冷蔵庫に入り切らなかったチョコレートや酒。
様々なドルチェや縫いぐるみの山をきみは凝視した。
色とりどりのプレゼント。の包装紙とリボン。
色とりどりの受取人に対する温かい思い。
きみはその結晶の様な物体たちを眺めていた。


バレンタイン。
今日はバレンタインだった。


それを凝視したところで変らずに
きみの心は浮遊していた。
でも少しだけきみの心は優越感に傾く。
彼に触れる事も出来ない、
化粧の仕方も分らない、
そしてファッションも知らない女たちが
必死な思いで彼にプレゼントした物が
きみの居る部屋に置かれている事に。
きみはそれが少しいい気味だと思ったし、
彼女たちに対しての優越感も感じた。


それから
彼女たちからのバレンタインプレゼントを
大切に扱うきみの彼を思い出してきみは嫉妬に駆られた。
だけど、きみは思う。
彼女たちからの色とりどりのプレゼントと
思いをぞんざいに扱う男なら、愛していなかっただろうと。


きみは思う。
愛。愛。愛。愛だ。
愛って本当に重い言葉と思うと。
だからきみは、
今まできみが付き合ったり
セックスをしてきた男たちが
女はこれを言っておけば
安心するんだろう良いんだろう
喜ぶんだろうという心で言った
「愛している」という言葉を聴く度に
「愛しているってイマイチ分らないから好きって言って」と
訂正させて来た。
そんなきみは彼に出会って思った。
これって愛なのだと。
彼と一緒に過ごして思った。
愛だ。と。
それは理由が無い物だった。
少なくともきみはそう思う様にした。
きみにはそれが考えても仕方の無い話題に思えたからだ。
きみは彼と居るとき。心に愛を感じた。
理由などはどうでもいい程度に。


きみは彼の言葉を思い出す。
「これはすごい大切。すごい。
 彼女たちに申し訳ないからきみは触ってはだめだよ。
 ああ、きみは勿論そんな事はしないと知っているけれど。
 ああ、でも、うん、ああ、一番大切に思っているのはきみだよ」
そういう彼の言葉だ。
きみは彼に「人気が大切な仕事だから仕方が無いよ。理解しているよ」と
言って笑った。心を押し殺して。


それからきみは彼女たちのプレゼントの山の中から
小さい小さい1つを手に取る。
そして回したりひっくり返したりして弄ぶ。
不意に殺意が涌いて、
プレゼントを壁に叩き付けたくなった。
一瞬思いとどまったきみは
全てが馬鹿らしくなって、
プレゼントを壁に叩き付けるのをやめた。
それから小さな小さな彼女たちの思いを、
プレゼントの山に戻してやった。


きみは思う。彼の優しさを。
特にバレンタインに彼が
化粧の仕方も分らない、
そしてファッションも知らない女たちに発揮する優しさを。
そんな優しさにきみは殺気を感じる程だけれど、
そんな彼じゃなかったら、きみは彼を愛してはいないと。
優しさ。愛。殺気。きみの心は浮遊している。


殺気。殺気だ。
きみは殺気って本当に一瞬で涌き上がる物なんだと思い出す。


きみは彼と彼の仕事仲間との飲み会に参加した。
彼の上司や部下や取引先の相手が居た。
だけれどみんながみんなお互いを
それなりには知っている物同士で、だから
場は健やかに賑やかに楽しく進んだ。


きみの殺気はその途中で涌き上がった。
彼の取引先に勤める女が彼の事を好きなのだと言い出した。
彼には付き合っている相手が居る事を知っているのにだ。
酔って彼に愛の告白をして、そして惨めに泣く女を
きみはなんて無様なのだろうと思った。
彼はそんな女に優しくした。
殺気。殺気だ。
彼は自分には付き合っている人がいるから
あなたと交際する事は無理だと言いながらも
優しくしている。
でも、でも、と泣く女をきみは叩き殺してやりたくなる。
惨めな女は彼と付き合っている相手がきみなのだという事を知らない。
きみは全てを白日の下に晒けだしたい気持ちになる。
惨めな女はどんな理由であっても
彼に優しくされている事で嬉しそうにしていた。
惨めな女は、この場に居る他の女に対して
優越感を感じているのだろうと言う事は間違いなかった。
きみに対してもだ。
きみはそう思った。


惨めな女の女友たちが
だめだよ迷惑だよと言って彼から女を引き離した。
きみはそんな彼女たちを見て笑いたくなった。
2人とも酷いブサイクだったからだ。
ブサイクって笑えるし可哀想だときみは思う。
でもきみはそんな事をおくびにも出さない。
美貌を持つ者に対する同性の当たりが厳しい事を
きみはきみの人生の経験で知っていたからだ。
そしてきみは
きみが愛する彼がきみの美貌が好きな事も知っていた。


きみはだから常により激しく、
自分の美貌に対する自分の増悪と愛情の間で
心を浮遊させていた。
美貌をもっともっと磨き、
迫りくる老いを追い払い時と、
顔面を塩酸で溶かしたくなる時が
同時に訪れる事も在った。
きみは自分の美貌を武器にする事に慣れていたし、
武器を上手く使える自分を好きでもあった。
でも慣れていたから飽きても居た。
だからきみの美貌を好きで居てくれる
彼の事が好きだったし、
ムカついてもいた。
他の男だったら何時もの事だと思う事が、
彼だとムカついたり、ムカツキで収まっている事が
愛の成せる技なのだろうかときみは思っている。
自分の心が自分でも判断出来ないとも。


一方、彼は引き離された惨めな女に優しくしている。
きみは彼のその優しさが優しさだけで無い事を
彼と付き合って来た期間と経験で知っている。
彼は優しいが、その優しさの半分は
格好付けなのと、寂しがり屋な性格から来る事を知っていた。
八方美人ともいう奴だ。
きみはそんな彼の性格を少し侮蔑しながらも
とても愛していた。愛だ。そして殺気だ。


彼。の優しさと格好付けと寂しがり。
惨めな女。のブサイクさと同情。
自分の美貌。に対する愛と憎しみ。
彼ときみの関係。から生じる優越感と怒り。
その間できみの心は浮遊していた。


結局きみは、
自分の心が問題なのだろうかと思案する事になる。
それはきみにとって何時もの事だった。
きみはきみの心が大きければ、
彼の優しさと、どんな人にも良い顔をする彼を
嫉妬も殺気も無く受け入れられるのだろうかと思う。
でも愛しているから嫉妬も起きるのだろうかときみは考える。
そしてきみの思考は堂々巡りをする。
きみの心は浮遊している。何時もの事だ。




きみはなんとなくスマートフォンでネットを見る。
あまりアクティブな趣味を持っていないきみにとって、
インターネットは良い暇つぶしだった。
何分かしてきみは
きみの手が持つスマートフォンを壁に叩き付けたくなった。
SNSできみと彼の共通の知人が複数人、
きみの彼が今日いかにモテているからを
言葉少なくからかって表現していたからだ。
太とるぞ。女に刺されるぞ。女を泣かすなよ。
そういった良く在る男から男への
子供じみた冗談と嫉妬と羨望が交じった称賛だ。


コンマ何秒か躊躇して、
自分が苦労して働いて稼いだお金で買ったスマートフォン
彼への怒りで壊す事は馬鹿らしいと感じたきみは
怒りを収める事にした。
それもこれも彼の仕事の1つなのだから
仕方の無い事のだと思う事にした。
直後、きみはスマートフォンを、
彼の部屋にある、柔らかソファに投げつけた。
怒りを完璧に収める事は難しい。
跳ね返ったスマートフォンが緩やかに床に落ちた。


情けなく床に落ちている四角い通信機器を見たきみは、
彼ときみとの全てを実社会ネット社会問わず
盛大にばらしてやりたくなった。
きみはそれを想像した。
殆どの男たちは彼を笑い褒め、
殆どの女たちはきっときみを応援するだろう。
それ以外の者はきみか彼を攻撃するだろう。
きみは少し考えて、
その全ては表面上の事だろうと理解して
軽く絶望して、暴露をやめた。
人には表面と内面が在る事をきみは経験から知っていた。
それはきみの様な年の重ね方をした人間の悲劇の一つだった。


だからきみは少し泣く事にした
泣く事をいっぱいと少しと一滴だけにコントロール出来るきみを
きみは少し嫌いになった。
正確には、"また"ひとつきみはきみを嫌いになった。
涙の量をコントロール出来る様になったのは
いつからだろうかときみは思い出す。
お気に入りの映画や音楽があれば、
いつでもいっぱい泣ける様になったのはいつだろうかときみは思い出す。
想い出が思い当たってきみは悲しくなる。
今は少しだけ泣くつもりなのに、
思い当たった想い出を思い出してもっと泣きそうになったので、
いまは思い出すのをやめにした。


きみが今を少しだけ泣く事にしたのは、
この後この部屋に彼が帰って来るからで、
その時に赤い目を見せて彼に心配されるのが嫌だったからだ。
嫌だったからだ。
帰って来た彼は絶対に、
その荷物で色とりどりの思いが詰まった、
色とりどりのプレゼント。の包装とリボンの
山の標高をさらに高くするだろう。
そんな彼に心配されるのがきみは嫌だった。
嫌だったし、いま優しくされたら、
彼の全てを受け入れてしまいそうで嫌だった。
そんな自分が嫌だった。
だからきみはいっぱいでも一滴でもなくて、
ちょうど良い少しだけの涙を流す事にした。


それから何十分か経った。
きみはきみが望む分だけ泣いてから、
今着ている洋服の皺や、顔のメイクを直した。
床に転がるスマートフォンをテーブルの上に置いて、
テレビを付けた。
テレビでは映画が流れていた。
きみの頭に映画のストーリーは入って来なかったけれど、
きみは主演女優のメイクの似合わなさが気になった。


きみは洗面所で鏡を見る。
見ていると玄関の鍵が空く音がした。
音はシリンダー錠の「ガチャ」という音ではない。
「スッ」とえも言われぬ音が鳴った後に、
「ピロロロ」という如何にもな電子音がする解錠音だ。
それは玄関のキーがタッチキーだからだった。
きみはこの音がかわいらしくて好きだった。
きみは同年代の女の子だったら
タッチキーを使う部屋に住む男と
付き合っている子は少ないだろうと思って
すこしだけ優越感に浸る。
その後きみは、
きみと彼と別れる事があるとして、
その時に惨めになるのが嫌だから、
今もそしてこれからも働くつもりが在るのだから
別にその優越感も変に悪い物ではないはずだと思った。
これもきみの心が行う、いつもの動きだ。


きみは部屋で彼を出迎えた。
結果はきみの予想通りだ。
色とりどりの思いは山の標高を増やした。
きみは、あの飲み会の時の惨めな女から
彼がチョコレートを貰ったのかが気になる。
標高高らかな山をきみは再び凝視する。
きみの心が折れた音がした。
彼にはその音が聴こえてはいない様だった。
きみは少し、彼に分らない様に深呼吸をして、
こころが折れたのは今だけなのだときみに言い聞かせた。
だから惨めな女の事を彼に尋ねるのはやめにした。


彼はここ最近何時も行う様にして、
色々な女たちからもらったプレゼントを丁寧に山に置いた。
そしてきみに何時もの台詞を言った。
きみもいつもの台詞を言い返した。


それらきみは彼に手料理を食べさせてあげた。
彼は美味しく食べた。
きみは彼に手作りのチョコレートケーキをプレゼントした。
彼が喜んだのできみも喜んだ。


きみは思い出す。
きみと彼が付き合う前の時間を。
きみが飲み会の帰りに体調を崩してしまい、
その時に彼がきみを丁重に介抱してくれた事を。
彼は優しかった。
きみは優しい彼が好きだった。
今でも優しい彼が好きだし、
今ではそんな彼のせいで泣いていた。
介抱してくれた恩と好意を感じていたきみは
一人暮らしの彼が体調を崩した時に
彼の部屋まで行っておかゆを作ってあげた事も思い出した。
きみの手作りのおかゆを彼が喜んで、だからきみが喜んだ事も。
それが切っ掛けで交際が始まった事も、
彼の部屋に行った時点できみは彼と
付き合うつもりだったことも思い出した。
彼と付き合ってから
きみに言い寄っていたその他の男たちが
大人しくなった事も思い出す。
何人か良い男は居たけれど、
きみの中できみの彼に敵う男は一人も居なかった事も思い出す。
きみがこれらを思い出すのは
きみの心が行う、いつもの動きだ。


きみにはそれが愛の確認の様に思えた。
きみは彼に愛を囁かれるよりも、
彼と体を重ね合わせる事よりも、
きみがきみ自身の彼に対する愛を思い出す事が
何より彼に対する愛を確認出来る行為だった。


ケーキを食べる彼の顔が
きみには急に魅力的に見えた。
きみは、そうだ、彼はこういう
セクシーな顔をしていたんだったのだと思い出した。


それから2人はソファで愛を囁いた。
彼の顔がきみの耳へと近づいている。
彼の手の温もりをきみはきみの背中で感じる。
彼の手は大きくて、厚くて、温かい。


彼の髪の毛から、甘いチョコレートの臭いがした。
彼のにおいと彼の体温の温もりの間に
きみの心は再び揺れた。
きみは彼への疑問、疑惑、愛、
嫉妬と怒り、
それに対する優越感と愛情の狭間で再び心を浮遊させた。
バレンタイン。今日はバレンタインデーなのだなと
きみは彼の愛の囁きを聴きながら再び思う。


バレンタインの始まりは西暦3世紀のローマだ。
兵士と女性の結婚が政府により禁止されている最中、
キリスト教の聖ウァレンティヌス
彼らの結婚式を執り行った為に捉えられて
死刑に科せられた事である。というのは嘘で、
キリスト教の聖人が整理され掲載されている
1267年に完成した伝集「黄金伝説」には
ウァレンティヌスの名前が無い事。
キリスト教以前の民間信仰の祭りを取り入れたのが
バレンタインの始まりである事をきみに教えたのは
彼であった事を思い出した。
彼とのバレンタインデーは今年で3年目だ。
毎年きみは今日と同じ気持ちで今日を過ごしていた。
これからも、そうなのだろうか。ときみは思った。


彼がきみに口づけをした。
その仕方は彼がきみの体を求める時の物だった。
彼がきみにする口づけに種類がある事をきみは知っていた。
きみは彼に身を預けながら少し、考える。
それからきみはやはり今日は彼に抱かれる気持ちでは
無い事を理解して彼に「ごめんね、なんか」と
暗い顔をわざと見せてから言った。
そうすれば優しくて格好付けの彼が
それ以上きみを求めない事をきみは知っていたからだ。
彼はきみの予想通りの反応を見せる。
この言葉を言った後に、怒り出す男もいたのになときみは思う。
彼の落ち込んだ様な、しょぼくれたような背中を見たきみは
体の奥で何かを感じた。
これも愛なのだろうかときみは思う。
きみは彼の背中に抱きついて、後ろから彼の耳にキスをした。
しょぼくれた彼の顔が笑顔、それも少しいやらしい笑顔になった。
きみは彼のその表情が正直で好きだった。


時間が飛ぶ。
きみは今、彼と二人、裸で彼のベッドの中に居る。
二人の体温とにおいで温かい白いシーツ。
白くて柔らかくて軽い掛け布団。
暗い寝室。寝息を立てている彼。
と彼の顔。と彼の呼吸音。と彼の存在感。


きみは頭が冴えている。
きみは彼の事をきみの大きい瞳で見つめている。
きみはきみの
未来、愛、生活、理想、恐れ、
子供、不安、現実、性愛、仕事、
日常、金銭、躊躇、家族、老い、
美貌、体、健康、喜び、悲しみ、
それらの中で自分の持てる分だけを持って
先に進まなくてはと思った。


きみの心はこの中で浮遊していた。
そして
きみの心は嫉妬と怒り、
それに対する優越感と愛情の狭間で浮遊していた。




〈きみは笑えるバレンタイン(My Funny Valentine)/おわり〉




Chet Baker - My Funny Valentine








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